日々のことなど

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2016年3月25日(金)

論文の原稿、うまくいかずにカットした文章の文字数が2万字位になると、ようやく本文にある種の密度が出てくる。現在カットして破片ファイルに移された文章は8千字。まだ先は長い。

2016年3月23日(水)

ドイツの生命倫理委員会 (Deutscher Ethikrat)が胚提供/胚養子に関する意見表明を出した。論文書いてからゆっくり…とも思ったけど、プレスリリースに"Das Kindeswohl ist wesentliche normative Maßgabe für die Ausgestaltung der Embryospende/Embryoadoption."って書いてある。この意見表明で子の福祉がどのように考えられているのか気になる…読むかぁ…。

2016年3月19日(土)

いま書いている論文。最初は余計なことに顔を突っ込んだと後悔したが、書いているうちにかなりの広がりをもってきた。これがうまくまとまれば、大きな前進になるかもしれない。

2016年3月13日(日)

Ulrich Diehlという方の、Über die Würde der Kinder als Patientenという論文を読んでいたら、尊厳に対する批判を、das modernistische Argument, das konsenquentialistische Argument, das naturalistische Argumentに分類していた。これはまとめ方として分かりやすい。

寝る前に、Pflege im Akkord(出来高払いの看護)というZDFの番組を観た。病院看護師に密着したドキュメント。かつてとは異なり、看護師一人あたりの担当患者数が増えており、思ったようにケアができない現状…日本と同じだった。

2016年3月10日(木)

今日、福祉を考える上でケイパビリティの概念は不可欠だと思うのだけど、なぜ医療倫理/生命倫理の領域でこの概念がそれほど目立たないのか。ヌスバウムは以下のように説明する。なるほどと思う反面、低位と高位の違い、「真に人間的」と「人間的」の違いはそんなに明確なのかという疑問も生じる。ヌスバウムはケイパビリティと尊厳を結びつけるわけだけど、そうなるとますます疑問。 人間をモノ扱いすることが尊厳の侵害であるなら、尊厳は人間と非人間の境界に関わるのではないか。

極端な場合には、ある人が中心的な機能を達成する能力を欠いているということが本当に深刻であれば、精神障害や老人性認知症[元の訳文は痴呆]の深刻なケースと同じように、その人は全く人間的ではない、あるいはもはや人間的ではないと判断されるかもしれない。しかし私はこの境界(医療倫理としては重要であるが)には関心がなく、むしろ高位の境界、すなわち人間のケイパビリティがマルクスの言う”真に人間的”つまり人間に値するものになるレベルの方に関心がある。マーサ・C・ヌスバウム『女性と人間開発 潜在能力アプローチ』, 岩波書店, 2005年, 86-7頁.

2016年3月8日(火)

南ドイツ新聞を読んでいたら、Kinderdemenzの記事を見つけた。(日本語で調べてみたけど、訳語がよく分からない。小児性認知症?)症状の進行を緩和することのできる物質は研究を通じて見つかっている。しかしその物質が薬となって市場に出るにはまだ時間がかかるため、症状が進んでいる女の子の両親は、開発企業に対してすぐにもその物質を投与できるようにと訴えている。 (可能な限り)安全な薬を作るためには一定の手続きを踏む必要がある。しかしその間に死んでしまう人にとっては、「どうせ間に合わず死ぬなら」という気持ちもあるだろう。ただしこの発想には考えるべきところがある。

ところで以下の文章を読む限り、生命を救う薬(?)については、企業が自分だけで(政府の許可無しに?)提供するかどうかを決められると読めるけど、本当だろうか。

Die Entscheidung, ob eine Firma ein Medikament herausgibt, kann sie derzeit ganz allein fällen. Und gerade in Deutschland entscheiden sie sich - anders als im europäischen Ausland - häufig dagegen. "Darf eine Pharmafirma ein lebensrettendes Medikament zurückhalten?" Süddeutsche Zeitung

2016年3月5日(土)

たまたま見つけた記事。なんかもうほんと、色々と泣けてくる。

それでも時間を使い、授業の質を高めよう、評価をきちっとしようと、時間と労力をかけると、研究に割ける時間が制約されます。ふと周りの同僚たちを見ると、適当な授業、簡単なテストをやって授業には時間も労力も使わず、その分を自分の研究に費やし、何本もの論文を書いて実績を積み上げている――そして、そんな手抜きをする先生の授業のほうが、学生の受けがよく、選択している学生は多かったりします。辻太一朗「勉強しない大学生が、量産されるメカニズム

とはいえ、じゃあこの方の本を読んで「今の状況を打破しよう」と思うかと言われれば、正直そうはならない。その時間さえ惜しいのです。残念ながら。

2016年3月1日(火)

ドイツの新聞を読んでいると、「いまどきの若者」を意味するGeneration Yという表現をよく目にする。社会的成功に固執せず、自分の生きたいように生きる人々…そんな感じかな。ところが今日読んだZeitの記事では、Generation Yはさまざまな人がさまざまに用いているいい加減な表現だとされていた。"Die Diskussion um die Generation Y ist geprägt von subjektiven Werturteilen und Spekulationen, und sie steckt voller Widersprüche." 「いまどきの若者」もまた、相当いい加減に——ときには大人が自分の無能さを隠すために——使われている。