嘉永6年11月5日,肥後国(熊本県)八代郡川俣村に生まれ,明治13年4月東京大学医学部を卒業,直ちに同年5月より大学雇として医院に勤務,同年10月にはドイツに留学し,ルードウィヒ,ホフマン,ペッテンコーフェルおよびフォィトの下で中性脂肪の消化,脾の腺細胞の新生,SO2の人体作用,アルコールの胃内消化に及ぼす影響などの研究を行ない,明治17年12月に帰国した。
明治18年1月東京大学講師(衛生学)に任ぜられ,明治19年3月教授に昇格した。明治21年には医学博士の学位を授与された。研究面では千葉県でのマラリア調査,神奈川県でのカキ中毒調査、九州での赤痢調査,台湾および関西でのペスト調査,新潟県での虫病調査などの疫学調査が中心であったが,一方では脚気病原菌および免疫酵素などについての実験室内研究ならびに日本家屋の換気についての環境衛生学的研究も行なっている。
この間,明治30年にはロシアの万国医学会に出席した後ヨーロッパ各国を歴訪、また明治31~34年には医科大学長に就任した。一方、明治37年には日本衛生学会を創立して雑誌を刊行した。大正8年7月30日、在職のまま満65歳で死去した。
明治4年1月15日に生まれた。本籍は東京四谷区である。明治27年12月帝国大学医科大学を卒業後,直ちに衛生学助手となり,明治29年11月ペスト研究のために台湾へ出張した緒方正規教授に随行して共同研究を行なった。明治31年12月東京帝国大学医科大学助教授に任命され、明治34年2月より明治37年6月までドイツに留学してレーマン,ルブネルらの下で実験衛生学を学び,帰朝後明治37年9月に医学博士の学位を授与された。
明治39年衛生学第二講座の発足とともに講座担任を命ぜられ,明治40年5月には衛生試験所技師を兼任,東京衛生試験所勤務を命ぜられた。明治41年6月東京帝国大学医科大学教授に任ぜられ,大正3年11月伝染病研究所技師を兼任,大正14年欧米各国へ出張を命ぜられた。昭和6年定年退職して東京帝国大学より名誉教授の称号を与えられ,上海自然科学研究所長となった。
主要な研発分野は衣服衛生,住居衛生から学校衛生,産業衛生に及んでいるが,大正14年の在職25年祝賀会では記念事業として「横手社会衛生叢書」を出版することが決定,その後弟子たちが分担執筆して合計20巻以上を刊行した。昭和16年11月14日,満70歳で死去した。
大阪府出身,大正4年12月東京帝国大学医学部卒業,伝染病研究所に入所。昭和2年9月東京帝国大学教授となり、同6年8月衛生学講座を担当する。同9年4月日本連合衛生学会長,同19年5月伝染病研究所長,同20年3月東京帝国大学医学部長,同23年4月日本医学会長などの要職を務める。昭和24年3月退官。退官後,昭和25年3月日本医師会長,同37年2月国立ガンセンター総長等を歴任した。昭和38年2月日本学士院会員となる。
伝染病研究所入所当時は長与又郎教授らが恙虫病病原の微小体を認めた頃であり,同病原体の確定・発見のために研究の主力が注がれていた。田宮はこの微小体を患者血液から分離,家兎前眼房内接種法,組織培養法等により反覆確認し,同病原リケッチアであることを認めた。
恙虫病に関する研究業績は,同病原リケッチアの抗原構造の解明,恙虫虫体における病原の垂直感染の証明,新種恙虫の発見,全国流行地の調査等に及んでいる。主要業績は昭和37年,日本における恙虫病研究の最近の進歩(英文)として発表された。
昭和23年10月,日本連合衛生学会から発展新生した日本衛生学会の初代幹事長を以後10年務める一方,昭和22年誕生した日本公衆衛生学会の初代会長に就任した。昭和38年7月11日死去。74歳。
三重県出身。大正14年3月東京帝国大学医学部卒業,同年5月伝染病研究所に入所。昭和6年医学博士。同8年12月東京帝国大学助教拶となり,同9年2月から11年6月までドイツ,イタリア、アメリカに留学,主に細菌学,血清学の研究に従事した。
昭和16年10月千葉医科大学細菌学教授として転出。伝研時代の主な研究には発疹チフスおよび恙虫病病原体の組織培養に関する研究,天然痘および牛痘の病原体に関する研究,日本脳炎の媒介経路に関する疫学的研究などがある。
第2次世界大戦後の困難な研究条件の中で昭和22年5月には千葉血清研究所所長を兼務し,発疹チフスワクチンの製造に従事,防疫面で活躍するとともに,この頃発疹チフス病原の抗原構造解明の研究に励んだ。
昭和24年6月東京大学医学部教授となり,衛生学講座を担当。リケッチアの研究に専心し、新型恙虫病に関する疫学,免疫学,微生物学など広範な領域で活躍した。飾らず衒わず卒直にして天衣無縫とは羽里教授の人柄を評するに知人門弟の等しく認めるところである。昭和35年3月退官。同53年11月30日死去。亨年79歲。
昭和13年3月東京帝国大学医学部卒業。大阪府防疫医となり,以後,興亜院,警視庁,東京府,技術院勤務を通じて,戦時下国民保健の最大の課題であった伝染病の防疫活動に従事する。
昭和20年9月東京帝国大学医学部講師。同22年医学博士。同29年6月から翌年8月まで米国留学。帰国した昭和30年の12月に東京大学医学部助教授,同35年4月に数拶となり衛生学講座を担当。昭和42年5月から翌年8月まで医学部長となる。この時期はいわゆる大学紛争の盛時であり,困難な状勢下で学部の運営に尽力する。
研究業績は細菌学,伝染病学,疫学,環境衛生学など多方面にわたるが,とりわけ恙虫病の感染様式に関し病原生態学の視点に立ってこれを解明したことが大きい。流行地の秋田県遊物川河畔に幾度も赴き,白いツナギに長靴姿で汗を流した。
衛生学関係の教科書を多数著したほか,文部省医学視学委員,全国医学部長病院長会議初代会長を勤めるなど医学教育発展のため努力した。また,厚生省伝染病予防調査会委員をはじめ各種の委員を委嘱され、公衆衛生行政に活躍した。
昭和49年4月退官。産業医科大学設立準備財団理事に就任し,同大学の発足に向けて奔走したが,開校を目前にした昭和52年3月8日,63歳で死去した。
大正11年10月24日,福井県敦賀町で生まれ,昭和21年9月東京帝国大学医学部を卒業,インターン修練を経て昭和22年4月より衛生学教室に入室した。昭和25年 8月医学部助手に任ぜられ、昭和35年3月医学博士の学位を授与され,同年7月衛生学教室助教授に昇格した。
昭和40年12月には東京大学医学部に新設された保健学科疫学教室の教授に任ぜられたが、昭和49年には衛生学教室に戻り,昭和58年4月に定年退職した後,東京都老人総合研究所長に転じた。また昭和58年東京大学名/教授の称号を投与された。
研究面では細菌生理学,免疫学などの実験室内研究を行なった後,地方性リケッチア症,コレラ,スモン,ベーチェット病,肝がんなどの疫学調査に従事した。著書としては疫学および日本衛生史に関するもの等多数ある。
~作成中~
和田 功 (七代教授 1983~1996年)
松島 綱治 (八代教授 1996~2018年)