ふしぎだと思うこと
これが科学の芽ですよく観察してたしかめ
そして考えること
これが科学の茎ですそうして最後になぞがとける
これが科学の花です---朝永振一郎
今日は一日娘と留守番。午前中に娘と散歩に出たとき、往きに大きい階段を降 り、帰りにその階段を昇ったところ、娘は最後まで自力で足を滑らせることも なく昇りきったので偉いと思ったが、昇りきったところにある段差でバランス を崩し、ゴチっとおでこから地面に落ちた。泣かなかったのでよかったが、最 後の最後で失敗するところがおかしい。
少し遅めに起床。昨晩は深夜に娘が咳込んだときに目覚めてしまい夜明けまで 寝られなかったので(前日の紹興酒のせいだろう)、寝不足気味。午前中は朝食 をとったあと娘と近所を散歩。お昼を食べ、娘と一緒に昼寝。夕方も娘の世話 をしながらメールの返事など。
夜、早めの晩御飯。ごちそうをいただく。じきに合宿に行っていた某妻も帰宅。 娘喜ぶ。昨日に引き続き、娘を風呂に入れてやる。
夜中、娘の寝かしつけ。興奮しているのかなかなか寝付かず苦労する。
明日は移動日。もう寝よう。
定時起床…と思ったら、時計のアラームが鳴らず、30分ほど寝坊。髭剃り、シ リアル。急いで支度。
娘を保育園に無事に送ってから、本三駅前の某喫茶店で思索。ようやくラッセ ルの勉強に着手。
お昼、某氏と鰻。いろいろ相談。
お昼すぎ、研究室で雑用。
昼下がり、某研究会。クリクラ等の学生の報告。中絶、医師患者関係、インド 渡航生殖など。
夕方、簡単にミーティングをしたあと、しばらく雑用。
夜、茗荷谷の某喫茶店で一服してから帰宅。クリーニング屋にシャツを取りに 行く。夕食。
夜中、週アス。娘を風呂に入れ、食器を洗う。というわけでもう寝る時間だ。
ラッセルメモ:「哲学は、望まれているほど多くの問いに答えられないとして も、問いを立てる力は持っている。そして問いを立てることで、世界に対する 興味をかきたて、日々の生活のごくごくありふれたもののすぐ裏側に、不可思 議と脅威が潜んでいることを示すのである」『哲学入門』ちくま学芸文庫第一 章
「世代や地方ごとの習慣的信念や常識から、そして心に浮かんだことを慎重に 考えて同意するのではなく鵜呑みにすることから、さまざまな偏見が生まれる。 哲学的素養がまったくない人は、一生をこうした偏見にとらわれて過ごす。こ ういう人にとっては、世界は明確で、有限で分かりきったものになりがちだ。 日常の対象に何の問題も見て取らず、なじみのない可能性を軽蔑的に拒絶する」 同上第15章
定時起床(少し遅め)。シリアル、朝刊。
午前中は本郷三丁目の某喫茶店で某本を最後まで読む。 それから某ラーメン屋で昼食をとり、研究室でいろいろ準備。
昼下がり、菱山豊先生の『ライフサイエンス政策の現在』(勁草書房、2010年) の合評会を開催する。慣れない司会役で少し苦労したが、 少人数で気の知れた人が多かったのと、 コメンテータの方を中心に活発な議論がなされたおかげで、 大変勉強になる合評会だった。夕方に無事閉会。
夜、本三にて懇親会。某名誉教授や他の方々と歓談。ビールと日本酒。
一次会で切り上げて帰宅。ソファで死んだように寝る。 起きてから何通かメール。
たまっている新聞を読めていないが、体調が落ちてこないうちにまた寝よう。
早起き。ゴミ出し、朝食、髭剃り。いつものマフラーが見当らず。
午前中、某妻と一緒に三田の某大学に行き、某妻の報告を聞く。
お昼すぎに別れて大学へ。赤門前で昼食。研究室でしばらく死んだように寝る。 それからいろいろ雑用。
夜、某図書館で勉強しようと思ったら休館(早めに閉館しただけかも)。 仕方ないので白山のあたりで喫茶店を探すと、ちょうどよい感じのところが あったので、1時間ほど勉強。
夜、帰宅して夕食。そのあと、延々とPHSで遊んでしまう。逃避だ。 いかんすぎる。
もう寝よう。
少し遅目に起床。髭剃り、朝食。
今日も雨。地下鉄で大学へ。定時出勤(少し遅刻)。
さて、今日も落ち着いて雑用しよう。
午前中は某院生の指導一件。お昼は某ランチョンセミナー。PVSの診断とか。
お昼すぎは雑用。そのあと、某氏に手伝っていただき、某仕事など。 某業者の方が某申請書類を取りに来てくれる。一つ仕事が片付く。
昼下がり、某ミーティング。いろいろ打ち合わせ。
夕方、ふたたび某氏に手伝っていただき、いろいろ。
夜、オックスフォードの某研究者や京都の某師匠に手伝っていただき、 ネットミーティングの練習をする。なかなかうまく行かないので笑う。
夜中、地下鉄で千石に戻ってくる。某うどん屋で夕食。焼酎。
それから帰宅して某妻と雑談しながらいろいろ雑用。ネバーエンディング。
今日もいろいろあったが、比較的無事に済んだ。やれやれ。
某妻と少しゲームをしたあと、Yes, Ministerの第一話をDVDで観る。
今日のこと。
メモ。理論を生きること。功利主義にせよ、医療事故の謝罪にせよ、 理論として学んだことを日々の生活に生かせなければ意味がない。
朝起きてシャワー、朝食。去年はフランスから帰ってきた日のようだ。
朝、クリーニング屋でシャツなどを受け取ってから出勤。 千石駅に着いてから、財布を忘れてきたことに気付き、 泣きながら家に戻る。某妻に涙を流して笑われながら再度出勤。く、くそ。
大学では午前中から某校正作業。時間がないので原稿に物差しを当てながら 強制的に速読。お昼の某ランチョン・セミナー、昼下がりの某ミーティングを はさみつつ、日が暮れるまで校正作業。夜になって全部見終わる。
それから校正原稿を抱えて、自転車で神保町の某出版社へ。 1時間ほど某編集者と一緒に変更点を確認し、 そこで無事に自分の手を離れる。安堵。
今回の翻訳は本当に勉強になった。 もう当分翻訳はしない予定だが、 自分の論文についても今後はしっかり校正をする習慣を付けよう。
それから白山通りを飛ばして帰宅。 疲れて放心状態になりながら夕食。そのあと新聞。 今日は早く寝よう。
無事に帰国。昨日のこと。
昨日の続き。今回のフランス旅行のハイライトは。
メモ。飛行機の機内で考えていたこと。 これからは総合図書館にもっと足繁く通うこと。 もっと本を読もう。文学も読め。 春からは、某師匠のようにM1に戻ったつもりで研究に励もう。
上野からタクシーで帰宅。シャワーを浴びて生き返る。 とりあえず洗濯を始める。メールもひさしぶりにチェック。
気温は最初に思ったほどは暖かくなかった。
昼食は春日でラーメン。 外を歩きながら、『この人を見よ』を読み返してみる。気違い(ニーチェが)。
そういえば、帰宅してシャワーを浴びたあとに体重を計ると、 62.9キロで、 旅行中に1キロちょっと体重が増えたようだ。
昼下がりから夕方にかけて爆睡泥のように寝る。
起きてから研究室に行き、おみやげを少し配給する。
もっとおみやげを買ってくるんだったと反省。いつも反省しているわけだが。
それから水泳道具一式を下宿に忘れてきたので自転車で自宅に戻り、 大学のプールへ。30分ほど泳ぐ。 今日は50メートルを全力で泳ぐ練習をしてみた。 ゆっくりだと何キロでも泳げる自信が付いたので、 今年はスピードを上げるべく練習しよう。
購買部で水などを購入してから帰宅。やっぱり暖かくなってる。
眠い。
あら、アカデミー賞の主演女優賞にはWalk the Lineに出ていた リーズ・ウィザースプーンという女優が取ったそうだ。 そう言われてみれば、たしかに味のある演技だったが…。
眠いがいろいろ雑用。旅行中の写真もアップしたいのだが、 なかなか時間が。
永遠回帰(永劫回帰)について、 岩波『ツァラトゥストラ』の訳者の氷上英廣の解説(下巻)のところが わかりやすくておもしろいので、コメントを交えながら以下に引用しておく。
[永遠回帰という思想の]前提には、ショーペンハウアーの教えた生の直視がある。 人生は無常だ。人生の実相は惨憺たるものである。 人間はみな重い病患になやむ者であり、待たされている死刑囚でしかない。 ほんとうを言えば、われわれは生まれてくるべきではなかった。 生まれてきたのはあやまちであり、われわれは生きながらえて、 このあやまちをなしくずしの苦悩と、最後の死によってつぐなうだけである。 (337頁)
「うんうん、わかりますわかります。 パスカルの言うところの、神なき人間の悲惨。 実際、楽天的なこのわたしでさえ、ときどき生きることが嫌になります。 フレディ・マーキュリーも `I sometimes wish I'd never been born at all.'って歌ってます」
『ツァラトゥストラ』の中にはショーペンハウアーの代弁者のような人物が あらわれる。人生は空しい。無意味である。生きがいなどというのは 思いあがりである。人間の一生などはたちまち虚無に呑まれてしまう 一殺那にすぎないと説く「預言者」である。 (337頁)
「お、恐ろしくなってきました。キーボードで打ちこんでいて震えます」
しかし、人間がこうした空しさから目をそむけて、ひたすら生きることを 願うのは、ショーペンハウアーによれば、世界と人生の根底に、 仏教徒が煩悩と呼ぶようなひとつの執念、ひとつの「意志」(心理学的でなく 形而上学的な)があって、これがさまざまな幻影をえがきだし、 あさはかな人間はこれに踊らされているからである。 この根源意志は決して満たされることのない欲望であるから、 宇宙と人生は、いわば永遠の欲求不満にうずいているわけである。 (337-338頁)
「それでミック・ジャガーが`I can't get no satisfaction.'と歌うわけです」
こうした暗澹とした生の実相のなかで、せめてもの人間らしい幸福はどこにあるか といえば、それはきわめて消極的なものである。生きる苦痛と悩みを忘れるひととき、 いわば拷問の小休止のあいだである。この無苦痛の状態を与えてくれるのは 芸術である。ことに音楽であると、ショーペンハウアーは考えた。 (ワーグナーはこの説に魅了され、ニーチェとワーグナーが友情を結ぶ機縁の ひとつがここに生まれた。)さらにはおのれの欲望を断って、 清浄な禁欲生活をいとなむ宗教的な聖者の境地にも、こうした意味での 安心のよろこびが、ひとすじの光となってさしてくるかもしれない。 (338頁)
「なるほど、パスカルの言う気晴らしのようなものですね。 たしかにiPodで音楽を聞いていると癒されます。人生は拷問で、 音楽や睡眠は小休止というわけですか。聖者になるのは大変だから、 とりあえず音楽を聞いていれば、拷問の苦痛をあまり味わうことなく 人生を終えることができるんですねえ。 あ、そういえば座禅に走る人も多いですね。 それにしても足の震えが止まらなくなってきました。 こ、これが実存ですか。人生には意味がないどころか、 それ自体が拷問なんですね」
ニーチェの場合は、こうした生の実相を承認したうえで、 ショーペンハウアーが示したような意志否定のみちではなく、 むしろそうしたものに負けない強い肯定的な意志へと進んだと見るべきであろう。 深刻な否定の極限に深刻な肯定を求めた。深刻さも忘れるほどの肯定を。 (338頁)
「ここからがニーチェの真骨頂ですね。キーワードはやはり「勇気」、 すなわちこの『人間の悲惨』---人生という拷問---に 立ち向かう勇気だと言えると思います。 この悲惨を乗り越えるには勇気の徳が必要なんですねえ」
つぎの「幻影と謎」と題された章は、永遠回帰のヴィジョンを見さだめようと する者にとっては、きわめて重要な鍵である。(…)
あやしくも暗い幻影が展開される。ツァラトゥストラは「屍色をした たそがれのなかを---陰気に、非情に、唇をかみしめて」 荒涼とした山みちをのぼって行く。その肩の上には、 例の「重力の魔」が、もぐらのごとく、小びとのごとく、 乗っている。このツァラトゥストラの宿敵は、 かれの上昇の意志をいつもはばんできたのだが、このときも 「あなたはあなた自身を高く投げた。しかし投げられた石はすべて---落ちる! あなた自身のところへもどり、あなた自身を石打ちの刑罰にあわすさだめなのだ」 と警告する。ツァラトゥストラは屈しないで、「勇気」をふるいおこし、 「小びとめ! おまえか、それともわたしか!」と叫び、 小びとはツァラトゥストラの肩からとびおりる。 勇気は死をも殺す、というのは、それが死に面して「これが生であったのか、 よし、もう一度」と言う勇気だからである。 この「勇気」の挿入はやはり永遠回帰を受容する決断への伏線と見るべきである。 (339頁)
「人間の悲惨に直面したとき、ショーペンハウアーの諦念と違って、 ニーチェは勇気を持ってそれを引き受けることを説くわけですね。 ここでサルトルのアンガジュマンにつながる主体的な決断が必要になるんですねえ。 『一切が回帰する』という永遠回帰の話はちょっと飛ばして、その先に進みます」
ニーチェの永遠回帰は、たしかにひとつの世界像であるが、 そうした世界像(あるいは存在解釈)に到達し、そうした図式を把握することによって 万事が綜合的に解決されるというふうにはなっていない。 (341頁)
「そうなんです。このニヒリスティックな世界観を受け入れつつ、 ショーペンハウアーのようにばっくれることもできるんです」
永遠回帰の世界像は、同時にそれを受けいれる人間の資格を問い、 人間を篩(ふるい)にかけるものでもある。永遠回帰を受けいれるためには 主体的な決断が必要である。決断といっても、 いわばひと思いに清水の舞台からとびおりるのではなく、 そうした決断をなしうるほど十分な成熟を要求し、 その機の到来を待つという主体的側面があるのである。 この客体的な側面と主体的な側面との、二つのせりあいが大きな緊張を 生みだしている。(341頁)
「最後の一文はわかりにくいですが、 とにかく、世界を解釈するだけではなく、 `And what are you gonna do about that?' という形で、主体の側に生き方の決断を迫られるわけです。 ここで勇気の徳の有無が問われるんです」
「さらにその場合、『おまえはこのことをもう一度、 いや無限にくりかえして、欲するか』という普遍化可能性のような話、 あるいは全人類をアンガジェするというような話が出てきますが、 これについては勉強不足なのでまた今度」
写真をアップしようと苦戦中。一週間で400枚近く撮ったようだ。 あと1時間ほどで簡単なものを上げる予定。腹減った。
まだ起きてる。もう寝ないとやばい。
写真の一部をアップ。 フランス語の間違いなどがあればご連絡を。 データが少し重いのでご注意を。
う、結局こんなに時間がかかってしまった。もう寝なければ。
みんな集まれ、どこにいようと
認めるがいい、水位が高まってきたことを
受けいれよ、もうすぐ水びたしになることを
時間が貴重だと思うのであれば
泳ぎ始めるがいい、石のように沈みたくないのなら
そう、時代は変わりつつあるのだから
Bob Dylan, `The Times They Are A-Changin''
今朝は早起きして大学に行き、某授業の準備。
お昼から某四ツ谷大学に行き、某セミナーに参加。 少し通訳の手伝いをする。夜、懇親会と二次会に参加。 いろいろお話を伺う。酔っぱらって帰宅。
テレビをつけたらやっていたUAE対日本戦を途中から見入ってしまう。
ロンドンでのホテルを予約。あとはドイツだな。
倫理学の勉強。もう寝よう。
遅寝遅起きしてお昼ごろに起きる。 洗濯をして散髪をしに上野へ。 某ホテルのイタリア料理を食べるとなかなかおいしかった。
散髪をして公園で新聞を読んでいると体がすっかり冷えてしまい、 帰宅して風呂に入る。しばらくメールを書いたりしてから また食事に出て、いつもの韓国料理屋で腹一杯食べる。 今日はいささか食べすぎた。
「それにしても、某監督の脳梗塞の騒ぎはすごいですね。 新聞の一面になるほど人気があるとは知りませんでした」
「この調子で行くと、 死んだときにはホーギョなんて言葉が使われるんじゃないか。 テレビが追悼番組ばっかりになってビデオレンタル屋が繁盛するとか」
「またまた不謹慎なことを。健康になるようにお祈りしましょう」
ちょっと右目の奥が痛む。風邪の徴候か。 本が読めないのでヒラリークリントンの朗読でも聞きながら寝よう。
眠い。
起きる。最近、早朝に起きることが多くてすばらしい。 夕方ぐらいに寝てるけど。
議員が何か不正をしたときに、総理が決まって「本人が判断すべきだ」 と言うのはなぜなんだろう? 自分の意見を述べることが禁止されているのか、 単に政治的配慮からコメントを避けているのか。 「自分で決めることだから…」という意見は内容がなく、 ほとんど「ノーコメント」と代わらないと思うんだけど。
ふたたびツナトマトソースをよく煮て(ちょっとバターも入れる)、 水がほとんど飛んでからスパゲティにかけて食べてみる。 う、うまい。
しかし、がんばって作っても3食分にしかならないというのは、 カレーと比べると効率が悪いな。次はトマト缶を3つか4つ使って 作ってみるか。
新聞。長野の諏訪マタニティークリニックで去年国内二例目の代理出産が 行なわれていたそうだ。夫婦が体外受精で受精卵を作ったあと、 夫の義姉が代理出産したとのこと。 夫婦は「この喜びは筆舌に尽くせない。私たちと同じ境遇の人から 『幸せになるための選択』を奪わないでほしい」と言ってるそうだ (産経「長野の医院 また代理出産」本日付30面)。
ゴミを出す。
イギリス哲学会では「共和主義」がシンポジウムのテーマになるようなので、 Companion to Political Philosophyの`Republicanism'(ホーコンセン)を 読んでみる。が、今いち捉えどころのない概念だ。
メモ: ローマの共和政体が理想的なモデルで、 土地(財産)を所有している自立した市民が公共の福祉のために公的生活 (res publica. 私的利益を追求する私的生活res privataと対比される) を送るという様を強調しており、 現代の自由民主主義が持つ過度に個人主義的な傾向 (自然権理論から由来するとされる)を批判するようだが、 共同体主義の批判と同じでどうも体系性に欠けるように思える (だから共同体主義も全体としてはよくわからないんだけど)。
でもまあ、 「富か徳か」という問いは、 「個人の利益の追求か公共の福祉の追求か」 という共同体の根本問題の言いかえであることがわかった(たぶん)。 しかし、 「リベラル」か「シヴィック」かという二項対立はなんだか 擬似問題のような気がする。いや、アウフヘーベンするというのが答えか。 いかん、「擬似問題」とか「アウフヘーベン」とか慣れない言葉を使ったので、 自分で何を言ってるのかわからなくなってきた。
風呂に入る。
放送大学。自然科学の実験の意義について。 科学は実験における反復可能性を前提にしているが、 一過性のものとして宇宙の生成、進化論などがある。
疫学とは、人を対象として、疾病や健康と、 環境要因(たとえば食事)や疾病発症のリスクとの関係を調べる学問だそうだ。
放送大学。文献の調べ方(内容なし)。パスタを食べる。
パスタというのはスパゲティの上位カテゴリーで、スパゲティの他には マカロニやラザニアなどがそこに含まれる。
普通、日本でパスタと言えばスパゲティのことを指すが、 スパゲティよりもパスタの方がおしゃれだと感じている人が多いため、 パスタという言葉がより好まれる傾向にある。 しかし、日本語に置きかえて考えてみれば、 「うどんを食べに行こう」と言わずに 「麺類を食べに行こう」と言うようなものなので、 分別のある人(違いの分かる人)は使うべきではない。
なお、パスタの類義語にはザパティスタ(サパティスタ)、 スパゲティの類義語としてはゲティスバーグの演説があるが、 これらについてはまた。
ところで、先日届いた生命倫理学会のニューズレターに、 「ポジティプ」「ネガティプ」 という表記があった。文章の中でほぼ一貫してそのように書かれているので、 誤記ではなく本当にそのように覚えているんじゃないかと思ったが、 文責が某名誉教授になっていたので、 まさかそれはないと思うのだが…(hopefully not)。
しかし、「ポジティプ」「ネガティプ」は発音してみるとおもしろい。 というか、むずかしい。 「ポジティップ」あるいは「ポジティープ」とすれば発音は容易になるが。 そういえば、SF作家でなんとかティプトリーっていうのがいたな…。
昨日、某さんが「人々のウワサでは、 目黒通りを都立大学前を越えてさらに行き、 環七通りを越えてさらに行き、一週間ほど歩きつづけると、 やがて七階立てのダイエーという帝国にたどりつく。 そこには古今東西の商品がそろっていて、 人間のあらゆる欲望を満たすことができるという話じゃ」 と遠い目をして語っていたので(ウソ)、 某ダイエー帝国に行くためにお昼すぎに下宿を出発した。
すぐに着く。
たしかに大きい。帝国では帝国オバサンたちがたくさん働いており…、 まあそれはいいとして、七階で電化製品がすこし安売りしていたので、 掃除機と照明(インバータの6畳用蛍光灯)を購入。 性懲りもなくカードで買ってしまう。
さて帰ろうと思ったら、自転車の後輪が意味もなくいきなりパンクする。 あまりに理不尽なので「事物の秩序に反している。自然法を侵害している」 とわめきそうになったが、これも冒険につきもののトラブルだと思い、 納得して押して帰る。都立大駅前の商店街に自転車があったので、 そこに自転車を預けて、代わりの自転車を貸してもらってとりあえず 家に戻ってくる。
某君から連絡。う。 しかるべきところにメールするのを 忘れていたようだ。ごめんなさい。
さっそく照明を付けてみる。うむ、文明の光だ。
(注: これまで勉強部屋には机に電球が一つあるだけだった)
眠い。
アマゾンから本が来る。 これもカードで支払ってるのでなるべくなら来てほしくないのだが。
眠い。
晩ごはん。鮭とえのきのニンニクバター炒め、 ホウレン草の電子レンジ炒め、みそ汁、その他。 冷蔵庫がほぼ空になったので、 明日は町に買い出しに出かけること。
雑用的勉強。眠い。
カレー。
寝過ぎ。人生を無駄にしている。
Auf Rache folgt Rache
報復に継ぐ報復Granaten fliegen vom Gaza-Streifen nach Israel, israelische Hubschrauber nehmen ein Gefängnis und eine Polizeiwache in Nablus unter Beschuss, die Totenzahlen steigen auf beiden Seiten beständig.
グレネード弾がガザ地区からイスラエルに飛び、 イスラエル軍のヘリコプターがナブルスの刑務所と交番を砲撃し、 双方の死者数は絶えず増えていく。Und das Scharon-Kabinett konzentriert sich weiter auf einen Feind: Jassir Arafat.
そしてシャロン内閣はひき続き一人の敵に焦点を合わせる--ヤサー・アラファトに。(Rache=revenge; Streifen=strip; Hubschrauber=helicopter; nehmen et unter Beschuss=bombard (Beschiessen=bombard); Gefängnis=prison; steigen=rise; beständig=constantly)
アナウンサー 「こんにちは。『あなたもわかる! 哲学講座』の時間です。 今週は、カント研究の大家のトンカ教授に、 カントの哲学を1分で説明していただきます。 では、トンカ教授、どうぞ」
トンカ教授「え〜、まず最初にお断りしておく必要があります。 まず1分でカントの哲学を説明することなどどだい無理なことであって、 したがって、今回の説明も非常に切りつめた、 ダイジェストのダイジェストのそのまたダイジェストにならざるを得ません。 そんなことを言ってないでさっさと説明した方が時間の節約になるんじゃないか とおっしゃられる方もいるかもしれませんが、 何も断らずに非常に簡単な説明をすると、カント研究者としてのわたしの能力が 疑われかねませんので、時間がもったいないと思いながらも、 このような前置きをする次第です。 さて、カントは1724年にケーニヒスベルグに生まれ…」
アナウンサー「はい、1分経ちました。いかがでしたか、 カントの哲学がおわかりになったでしょうか。 来週は「1分でわかるヘーゲルの『精神現象学』」をお送りいたします。 なお、最近投書で質問がよく来ますが、 この番組は『プルースト要約選手権』とは無関係です」
アナウンサー 「時間が余りましたので、 最後にベンタム説明・日本最短記録保持者のムタンベ教授による ベンタムの解説をしていただきます。 なお、彼がこれまでに打ち立てた最短記録は、コンマ82秒です。 それでは、用意、ドン」
ムタンベ教授「さいだいたすうのさいだいこうふくっ」
アナウンサー「えー、ただいまの記録はコンマ92秒でした。解説のルミ・S・J助教授、 どうですか」
ルミ・S・J助教授「ええ、スタートで少し立ち遅れたようですね」
アナウンサー「それでは、今日はこのくらいで。また来週、ごきげんよう」
明日のニューズレター編集会議の準備。
クローズアップ現代。救命士について。
ニューズレターの記事がだいたいまとまった。 半日仕事だな。
今日の勉強時間…6hr
「今日もドゥオーキン教授の授業でした。 民主主義は記述的概念ではなく、規範的(価値)概念だ、 という話と、どういう意味で民主主義は「人民による統治」と言えるか、 という話でした。授業の大半は生徒による質問でしたが」
「きみも質問したのか」
「それが、めずらしいことに質問したんですよ。 「人民による統治」を説明するために、ドゥオーキン教授が、 個人的行為と対比される集団的行為collective agencyという概念を用いたので、 彼のSovereign Virtueを読んで気になった、 『戦争責任』について思い切って質問してみたんです」
「ん、どういう文脈かよくわからんぞ」
「ええと、とにかく、個人的行為や責任だけではなく、 オーケストラやサッカーチームのように集団的行為および責任というものもあり、 こうした責任は民主主義的な条件下(equal say; equal stake; moral independence) において成り立つんだ、 という話をしていたんです」
「なるほど」
「そこで、クラスにはドイツ人や中国人の学生がいたものの、 勇気を出して『自分の場合は教授の挙げた条件に当てはまっていないように思うが、 それでも過去の戦争に対して(賠償)責任はあるのか』という質問をしたんです」
「そしたら?」
「そしたらえらく同情的に答えてくれて --やっぱりsensitiveな問題だからでしょう-- まず、当時の日本やドイツは民主主義とは言えないので、 上の条件はあてはまっていないと述べ、 しかしそれでも戦後に生まれた若者に責任があるとすれば、 それは、(1)戦争の犠牲者ではなく、 (2)戦争の結果によって利益をこうむっているという理由によるだろう、 と言っていました」
「ん、そしたら米国は日本に対して賠償責任があることになるんじゃないのか。 (3)不正な侵略だった、という条件を加える必要があるんじゃないか」
「そうですね。教授は集団的行為に関して再検討する必要があると述べていたので、 確固たる意見ではないのでしょう」
「それできみはなにか反論したのか」
「いえ、しかし他の学生たち、とくにドイツ人や中国人の学生が いろいろ発言していました」
「きみの意見はどうなんだ」
「いや、互いに衝突する直観がいくつかあって、 まだはっきりとした意見が作れないんです。 もう少し考えて、そのうち述べたいと思います」
「そうやってすぐに逃げる。 ちゃんと自分の意見を持つように心掛けたまえ」
「わかりました」
今日もThe Daily Yomiuriです。 ページ数が多いので読むのが大変です。
げ。今日のベンタム読書会は2時からじゃなかったっけ? もしかすると時間を間違えたかもしれないっす。 だったら申し訳ないっす。
某喫茶店が混んでいたので、 いろいろ店を探したあげく、 ようやく百万遍の某和食屋で天丼を食べたっす。 ついでに某先輩のゲラの校正をしたっす。
それから某E研に来て情報倫理のバイトっす。 トーフル対策用のCDをかけてみんなからひんしゅくを買ったり:-)
某E研での手伝いを終え、研究室に戻ってきた。 バイト中、 病に蝕まれた身体に鞭打って働く某師匠が寿司の出前を頼んでくれた。 一同、涙して食す。感謝っす。
ふう。やっと某先輩のゲラの校正が最後まで終わったっす。 まだ索引があるらしいっすけど。
あまりに疲れて動けないっす。
ぐあ。ね、寝てたっ。睡眠してたっ。ぐあ。絶体絶命。
ぐあ。ロック読書会してたっ。ぐあ。ますます絶体絶命。
ヤアヤアヤア。 イエイエイエ。
(頭は打ってませんがかなり壊れてきています)
とりあえず某三人分のロンブンを速達で出した。(弱気)
とりあえず形にはなったが、今日出すのはあきらめた。無念。
某氏が「これがオススメです」と言って研究室に持って来たマンガ、
山田花子、『花咲ける孤独』、青林堂、1993年
を読む。おもしろいけどなんだか危ない内容だなあと思って読み進み、
最後に著者紹介の欄でこの作家が精神病院から退院してすぐに死んだという
ことを知って、大変背筋が寒くなった。
某師匠に原稿の批評をしてもらう。 いろいろとけちを付けてくれるのでうれしい。 感謝感謝。
あ、久しぶり。昨日もベンタム読書会のために学校に来たが、忙しくて何も書 けなかった。
今まで鈴木氏と読書会をしていた。今日は江口氏はお休み。鈴木氏は明日から 一カ月ほどイギリスに行くらしい。うらやましい限りである。
テープの編集やら、読書会の準備やらで不規則な生活をしたため、風邪気味で 少しのどが痛い。ああ、ついてない、もうすぐライブなのに。
さてと、喫茶店でマンガ読んで帰ります。
ところで先日、遺書を書いてみた。いやもちろん、大学院に合格した矢先、す ぐに自殺しようというわけではないんです。ほら、いつか死ぬでしょ、人間っ て。ソクラテスもさ、「遺書と卒論だけはどれだけ早くに書いても早すぎるこ とはない」って、あれ、言ってないっけ?
ま、とりあえず(ワープロで)書いてみたわけです。死んだら身体のどの部分 を移植してもいいけど、残った分は焼いて灰を海に捨ててくれ、とか、CDと かは友達のだれそれにあげてくれ、とか、図書館の本は返しといてくれ、とか。 こういうのってみんな書いてるのかな?
別に死ぬのはあんまり怖くないけど、痛いのはなるべく避けたい。けどさ、死 ぬときに「ああ、おれは満足だ。もうやり残したことは何もない」なんて言え ないよね、きっと。「あああ死ぬんだったら、あれもやりたかった、これもや りたかった。あああ」とか言って死んでいくんだろうなあ。ああ、やだやだ。
教訓。 生きてるうちに出来るだけやりたいことをしましょう。