この四つの性向 [優れた性格(有徳な性格)、意志の強さ、意志の弱さ、 悪い性格(悪徳な性格)] を現代社会の例で説明すると次のようになる。 まず、第一の性向を持つ人は、 交通渋滞のなかでも平静を保つことが容易にできる穏やかな人であり、 第二の例は、怒りっぽいが自制することのできる人であり、 第三の例は、怒りっぽいが平静を保とうと努力し、 それに成功しない人であり、最後に第四の例は、 あたり構わずののしり、わめきちらして何ら良心の呵責を感じない人である。
---J・O・アームソン『アリストテレス倫理学入門』
竹は竹、松は松と各自その天賦を十分に発揮するように、 人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。
---西田幾太郎『善の研究』
「コブタ。」と、ウサギは、えんぴつをとりだして、そのさきをなめながら、いいました。「きみは、ちっとも勇気がないんだな。」
「でも、とっても小さい動物になってみたまえ。」コブタはかるく鼻をすすりながら、いいました。「いさましくなろうったって、むずかしいから。」---『クマのプーさん』より
ギリシア語のアレテー(arete)は、 「卓越性」とも訳されるように、 広い意味では《ある事柄に関して優れていること》ということを指す。 (この点に関しては、岩波文庫の『ニコマコス倫理学 上』、252頁の注参照) そこで、大工の徳とは、立派な家を建てることであり、 船乗りの徳とは、立派に航海をなしとげることである。 しかし、通常この語で意味されるのは、 勇気や節制といった、 人間が持つ道徳的な卓越性(立派さ)のことである。
ギリシア・ローマ時代においては、 善き生を送るためには徳を身につけることが最も重要だと考えられ、 それゆえ徳ないし有徳な性格をめぐる議論がさかんになされた。 なかでも、「徳は教えられるか」、「徳は知であるか」、 「善き生を送るためには徳は必要か、 あるいは徳だけがあればよいのか」 などの問いが、熱心に議論されたようである。
プラトンは、 人間を知性的部分、気慨的部分、情欲的部分に三分し、 それぞれの部分における卓越性を、知恵、勇気、節制と呼んだ。 そして、これらの三つの部分が調和のとれている人を 正義の人と考えた (四元徳 cardinal virtues)。
アリストテレスは、
《理性的動物》としての人間に固有な徳を、
知性的ものと倫理的なものに二分し、
知性的な徳として、知恵(ソフィア)や知慮(フロネーシス)を、
倫理的な徳として勇気、節制、気前のよさ、正義などを挙げた。
知性的な徳が他人に教えられることによって身に付くのに比べて、
倫理的な徳は、日々の習慣づけによって獲得される。
また、倫理的な徳は、
それが《足りなさすぎ》と《行きすぎ》という二つの悪徳の中間(meson)にある、
という性質によって特徴づけられる (中庸説 mesotes)。
たとえば、勇気は、憶病と蛮勇の中間であると言われ、
気前のよさは、ケチと放蕩の中間であるとされる。
行きすぎも悪いし、足りなさすぎも悪いというアリストテレスの説は
一見もっともらしく聞こえるが、
やはりこの説明には苦しいところがあり、
正義は《不正をなされること》と《不正をなすこと》の中間である
などと説明されても、どういう意味で中間なのか納得できない。
「道徳はさまざまな仕方で組織化されてきた」 と近代の思想家のトマス・リードは言う。 「古代人は通常、道徳を、 知慮、節制、勇敢さ、正義の四つの主要な徳にまとめた。 キリスト教の思想家は--わたしはこちらの方がより適切だと思うのだが--、 神に対してわれわれが負う義務と、自分自身に対するものと、 隣人に対するものとの三つに大別した」。 (The Invention of Autonomy, p. 287からの孫引き)
上の引用にあるように、 ユダヤ・キリスト教の影響を強く受けた中世以降の道徳の主題は、 もはや徳ではなく、神の法から生じる義務がその中心になる。 あるいは、 トマス・アクィナスが アリストテレス倫理学とキリスト教神学を和解させるさいに論じたように、 徳は神の法に従属させられ、 義務を守る習慣が徳とされた、と言った方が適切かもしれない。 さらに、 プラトンの四元徳に加え、信仰、希望、愛(慈愛)が主要な徳とみなされた。
(なお、これは近代になるが、 たとえばベンタムと 同時代のペイリーなども、 徳の分類として「神に対する義務」「他人に対する義務」「自分に対する義務」 があると述べ、徳と義務の区別があいまいになっている)
中世に関しては、詳しくは『岩波哲学思想事典』参照。
近代に入っても道徳の議論は徳よりも義務と権利を中心になされ、 徳の話がなされないわけではないが、 行為者の性格の善し悪しよりもむしろ 行為の正不正に関する基準が議論の対象となっており、 徳の議論は二次的なものに留まった。
現代の道徳哲学史家の シュニーウィンドは、 近代において徳の議論が衰退したのは、 アリストテレス的な徳倫理は道徳的・宗教的に十分ではない、 と考えられたのが主要な原因だと述べている (The Invention of Autonomy, p. 287)。 自然法論者は、不完全義務の領域においては性格の善さを強調したが、 完全義務に関して、神によって与えられた規則を遵守することを強調した。 他方、精神の完成した状態を目指す完成主義者にしても、 性格の陶冶を道徳の主要な目標としながらも、 すべての人がアリストテレス的な徳を身につけることができるわけではないので、 他人の指導や法の強制が不可欠であると考えた。
現代に入ると、功利主義とカント主義あるいは義務論との長期にわたる論争 に疲れた人々が、徳倫理学を主張しはじめた。 有名なのはE・アンスコムの「現代道徳哲学」(1958)という論文で、 このなかで彼女は、《義務とかスベシとかいう言葉は、 人々が神の法を信じていた時代の産物であり、 神の法を信じる人がほとんどいなくなった今日では、 もはや通用しない時代遅れの言葉である。 むしろわれわれは徳とか性格とかを問題にした方がいい》 という趣旨のことを述べた。 (ちなみにこの論文は非常に難解である) また、A・マッキンタイアもAfter Virtue(1981)で、 一貫した人生を送るためには徳倫理学が必要であると説いた。 (実は、マッキンタイアのこの本をまだ読んでないので詳しく知らない。 詳しくは、 江口さんが『実践哲学研究』に書かれた 「徳と共同体」 を参照のこと)
徳を道徳哲学の主題にしようとする徳倫理学の運動は 1980年代以降さかんになっており、 彼らは、 「いかに行為すべきか」という問いではなく「いかに生きるべきか」 あるいは「どのような人間になるべきか」 という問いを問題にしようとする。 さらに、行為の指針としても、 「ある状況において正しい行為は、 その状況において有徳な行為者がなすであろう行為である」 という基準を用いる。 この基準は一見すると魅力的だが、 「有徳な行為者」を十分に説明することができなければ、 このような基準はほとんど役に立たないと思われる。
09/11/99
上の引用は以下の著作から。