(しゃかいしゅぎ socialism)
私の信じるところでは、 多くの社会主義者の根底にある動機は、 単に異常に肥大した秩序の感覚に過ぎない。 社会の現状が彼等に腹立たしい思いをさせるのは、 それが悲惨をもたらすからではない。 まして自由を不可能にする方向に動いているからでは、なおさらない。 そうではなくて整然としていないからである。 彼等が根本的に欲しているのは、世界をチェス盤のようにすることなのだ。
---ジョージ・オーウェル
資本主義は、各人の自己利益を動機として、 自由な市場において 各人が経済活動に従事すれば 「見えざる神の手」が働いて、 誰も経済活動全体を統制しなくてもうまく行く、と考える。
19世紀以降に起きる相次ぐ恐慌と労働者の失業問題は、 このような市場経済への信仰を揺らがせるわけだが、 社会主義者がより問題視したのは、 資本を持つ資本家と、 労働力しか持たない労働者の二分化がもたらす結果である。 この二分化によって、 一方では利己的に労働者を搾取する資本家は公共心を失い、 他方では貧困にあえぐ労働者は分業がもたらした味気ない労働に勤しむことによって 人間性を失うことになる(→疎外)。
そこで、 このような人間性の堕落をもたらす諸悪の根源である私的財産(所有権)を廃止して 所有権は国家あるいはコミュニティ(共同社会)に属するものとし、 経済活動を中央の管理の下で行なうことによって人々の連帯を取り戻そうと するのが社会主義(共産主義)である。 オーウェンやフーリエといった人々が小規模なコミュニティレベルの実験を主張し、 マルクスやエンゲルスは 労働者による革命を通じた国家レベルの共産主義化を主張した。
しかし、J・S・ミルがすでに指摘していたように、 社会主義においては、私的所有権の廃止という制度の革命だけでなく、 人々の高い知的・道徳的能力も必要とされる。 というのは、一つに、 社会主義においては経済活動の管理を行なう必要があるため、 統治者に高い知的能力が必要とされるからである。 経済活動に対する政府の干渉についてのハイエクの批判は、 基本的にこの点にある。すなわち、経済活動は非常に複雑であるため、 計画経済は不可能だという論点である。
もう一つは、社会主義においては、 人々は「自己利益」という働くための重要なインセンティヴ(動機)を 奪われているので、高い公共心がなくてはならない。 とくに、統治者は経済の計画という大役をまかされるので、 高い公共心が必要である。 染乃助、染太郎ではないが、 「こんなに私だけが汗をかいてもギャラは一緒」だとすると、 ふつうはなかなか働く気にならない。
このように、社会主義においては知的にも道徳的にも高い能力をもった人間が 必要とされる。 そこで、社会主義の実現のためには教育を通じた「精神革命」が必要とされ、 実際に多くの社会主義者は教育の重要性を自覚していたわけだが、 ミルが指摘しているように、このような教育による改革は 一気呵成に達成できるわけではなく、 少なくとも当面は社会主義を実行できるのは精神的エリートだけである。
28/Jan/2000; 11/Apr/2003追記
上の引用は以下の著作から。