(かいのしつ quality of pleasure)
両方[高級な快と低級な快]を等しく知り、 等しく感得し亨受できる人々が、 自分のもっている高級な能力を使うような生活態度を断然選びとることは 疑いのない事実である。 畜生の快楽をたっぷり与える約束がされたからといって、 何かの下等動物に変わることに同意する人はまずなかろう。 馬鹿やのろまや悪者のほうが自分たち以上に自己の運命に満足していることを 知ったところで、頭のいい人が馬鹿になろうとは考えないだろうし、 教育ある人間が無学者に、親切で良心的な人が下劣な我利我利亡者 になろうとは思わないだろう。 こういう人たちは、 馬鹿者たちと共通してもっている欲望を全部、 もっとも完全に満足させられても、 馬鹿者たちより余分にもっているものを放棄しないだろう。 (中略) 高級な能力をもった人が幸福になるには、 劣等者よりも多くのものがいるし、 おそらくは苦悩により敏感であり、 また必ずやより多くの点で苦悩を受けやすいにちがいない。 しかし、こういった数数の負担にもかかわらず、 こんな人が心底から、より下劣と感じる存在に身を落とそうなどとはけっして 考えるものではない。
---J・S・ミル
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、 満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。 そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、 それは彼らがこの問題について自分たち側しか知らないからにすぎない。 この比較の相手方は、両方の側を知っている。
---J・S・ミル
快楽が唯一の善だといい、しかもより少ない快楽がより多い快楽よりも好まし いかもしれないと認めることは、唯一重要なものは金であると言いながら、公 共事業から得られた金の方がビジネスでもうけた同じ額の金よりよい、とつけ 加えるようなものである。快楽が唯一の善であるとすれば、より多くの快楽は つねによりよい。
---A.C. Ewing
愛情のないセックスは体にも心にもよくない。でも、 そういうことに気づくのには、時間がかかる。 本当に愛する人が現れないと、愛情のあるセックスは、 愛情のないセックスとは比べものにはならないほどいいことに、 気づかないかも……。
---『モア・リポートの20年--女たちの性をみつめて』から
快(快楽)には、 高級なものと低級なものがあるという主張。 J・S・ミルが最初に 『功利主義論』において唱えた。
ミルの考えでは、 ベンタムのように快に量の違いだけを認めるのは おかしく、質の違いをも認めるべきである。
この区別を認めるならば、低級な快は、 たとえそれがどれだけ大量にあったとしても、 高級な快よりも劣っていることになる。 たとえば、食事や性行為によって得られる快は、 どれだけ大量かつ豪華な食事や性行為であっても、 読書や音楽の快を超えることはできない。
それでは、この質の違いはどのようにして判定されるかというと、 「経験者によって」というのがミルの答えである(注1)。 すなわち、二つの快を経験したことのある人々が、 ほぼ一致して「こちらの方がすぐれている」 と答えるものが、高級な快である。 この場合、上で述べたように量は問題にならない、というのがポイントである。
また、低級な快に比べると高級な快を満たすことはしばしば困難であるが、 一度高級な快を味わったならば、 人はたとえ低級な快が大量に与えられることが約束されたとしても、 けっしてそのような取引には応じない、とミルは考える (ただし、意志の弱さや、老化による感受性の低下によらないかぎり、 という条件付きだが)。 これが、有名なフレーズ「満たされた豚であるよりは、 満たされない人間である方がましだ。満たされた愚か者であるよりは、 満たされないソクラテスである方がましだ」の理由である。 すなわち、低級な快に満たされた愚か者よりも、 高級な快が足りずに満たされていないソクラテスの方がより幸せだ、 とミルは考えるわけである。
さらに、ミルの考えでは、 人々はこのような高級な快に対する感受性を養うべきである。 というのは、こうした感受性の高い「高貴な」人間は、 たとえば博愛心、名誉心が強いなどの理由から、 社会に対する貢献をすることが多いと考えられるからである。
注1: アリストテレスも知者あるいは 経験者の意見を尊重せよと主張している。
尊重されるべきものとか快適なものとかは、 「すぐれたひとにとってそういう性質のものであるところのもの」 にほかならない。
---アリストテレス、『ニコマコス倫理学』、 高田三郎訳、岩波文庫、1971年、下巻173頁
シンガーは、 『実践の倫理』第四章において、 ミルのこの議論と彼の功利主義は容易には調和しないかもしれない理由を 二つ挙げている。(1)知性の程度が高いからといって幸福を持つ能力が より大きいとは限らないと思われる、 (2)幸福を持つ能力(キャパシティ)が大きいと仮定するにしても、 ミルも認めているように、この能力が満たされるのはさほど多くはない、 の二つである(ピーター・シンガー、『実践の倫理 [新版]』、 山内友三郎/塚崎智監訳、昭和堂、1999年、132頁)。
03/May/2001; 11/Dec/2001; 11/Jan/2002
「ミルの高級な快と低級な苦の区別を認めた場合、 『高級な苦と低級な苦』という区別も立てる必要があるんでしょうか」
「高級な苦と低級な苦ってなんだ?」
「う〜ん、なんでしょうね。 豚や犬や馬鹿やのろまや悪者でも感じるような苦、 たとえば殴られたり蹴られたり、 お腹が減ったり疲れたりしたときの苦は低級な苦ですよね、きっと。 とすると、 やっぱりまともな人間にしか感じられないような高次の能力が要求される苦痛が 高級な苦でしょうか」
「それってたとえばどんな苦痛なんだ?」
「共感の苦痛とかでしょうか。犬がいじめられているのを見て苦痛を感じるとか。 また、名誉の苦痛とか、恋愛の苦痛というのもありますね。 あと、ハードディスクが飛んでデータがすべて失なわれたときに感じる苦痛なんかも、 そうかもしれません」
「しかし、その高級と低級の区別は経験によって決まるのか? 指の先を一本一本ペンチでつぶされる苦痛と、 死ぬほど辛い失恋の両方を体験した人は、 どっちを選ぶわけ?」
「ええと、それやっぱり、 選ばれた方が低次だということになるんじゃないですか、おそらく」
「ということは、みな指先をペンチでつぶされる苦痛を選ぶわけか」
「う〜ん、失恋の度合にもよると思いますけど…」
「あれ、しかしすると変なことにならないか」
「え、どうしてですか」
「だって、快については、 ミルは高次の快を感じられるように教育すべきだと言うわけだろう」
「ええ」
「とすると、高次の苦についてはどういうわけ? やっぱりこういう人間独特の苦を感じられるように 陶冶されるべきだというんだろうか」
「そういうことになりますね、ソクラテス」
「だれがソクラテスだ」
「いや、すいません、つい」
「しかし、高次の苦は、 低次の苦とはくらべものにならないくらい辛い苦痛なんだろう」
「そうです」
「とすると、そんな苦痛はそもそも感じない方が、 功利主義的にはいいんじゃないのか」
「あれ、そうですね。なんか相づちがわざとらしくなってきましたが」
「しかし、他方でミルは高次の能力を陶冶すべきだと考えているわけで、 ここには矛盾があるんじゃないのか」
「あれ、どうもそんな気がしてきました。 ひょっとすると、快と苦の関係は非対称で、 苦痛には高次も低次もないんですかね」
(2001年4月下旬の日記より)
ブタとソクラテスがいずれがより幸福かについて激しく議論していました。そ してブタはアポロン様にかけて、きっとソクラテスを食べてやるぞと誓いまし た。この言葉に対してソクラテスは皮肉に「アポロン様にかけて誓うなんて、 こりゃうまいこったね。君があのお方に一番愛されているのは明瞭だからね。 ところがわたしときたら、デルフォイでアポロン様に『ソクラテス以上の知者 はいない』と言われたんだからね。幸福の最良の判断者としてどちらが優れて いるかは、明瞭じゃないかね」と言いました。すると、ブタは「ブタも人も知 恵や皮肉のみにて幸せになるわけじゃない。毎日御飯を仲間とおいしいおいし いと言いながら食べた方が人生(豚生)満足度により貢献するという調査も出 ているからな。」そういってブタは仲間と一緒にソクラテスを平げて一層幸せ になりました。
この物語は、現実には哲学者たちが考えたのと別の人々が幸せになっているこ とを明らかにしています。
(岩波文庫『イソップ寓話集』の「〈互いに罵り合う〉猪と犬」を参考にした。)
上の引用は以下の著作から。