出版の自由

(しゅっぱんのじゆう freedom of the press)

In 1800 the free expression of opinion was strictly limited by positive law, by social custom, and by prevalent habits of thought. [...]
To-day, at the beginning of the twentieth century, the expression of opinion has in England become all but completely free.

---A.V. Dicey

Why should freedom of speech and freedom of the press be allowed? Why should a government which is doing what it believes to be right allow itself to be criticized? It would not allow opposition by lethal weapons. Ideas are much more fatal things than guns.

---words ascribed to Lenin

Even in the area of ideas, the notion of a `free market' has to be regarded with some scepticism, and the faith in laissez-faire shown by the nineteenth century and earlier does not altogether meet modern conditions. If everyone talks at once, truth will not prevail, since no one can be heard and nothing will prevail: and falsehood indeed may prevail, if powerful agencies can gain an undue hold on the market.... Against the principle that truth is strong and (given the chance) will prevail, must be set Gresham's Law, that bad money drives out good, which has some application in matters of culture and which predicts that it will not necessarily be the most interesting ideas or the most valuable works of art that survive in competition -- above all, in commercial competition.

Bernard Willams et al.

質問は許さない--ダーズリー家で平穏無事に暮らすための 第一の規則だった。

---J.K.ローリング

もし或る人が私の考えや行動がまちがっているということを証明し納得させてくれることができるならば、 私はよろこんでそれらを正そう。 なぜなら私は真理を求めるのであって、 真理によって損害を受けた人間のあったためしはない。 これに反し自己の誤謬と無知の中に留まる者こそ損害を蒙るのである。

---マルクス・アウレリウス

議論のさいには、議論で負けた者の方が、新たに何かを学び知るだけ、 得るところが多い。

---エピクロス


政府による検閲を受けることなしに、 人々が新聞や雑誌などを通じて自由に意見を表明できること。 報道の自由、言論の自由とほぼ同義に用いられる。

以下では、ミルトンとロックとJ・S・ミルとベンタムの議論を簡単に説明する。

1. 検閲に反対し強力な論陣をはった人物としては、 まず、詩人のミルトン(1608-74)があげられる。 彼は清教徒革命前夜に議会を通過した出版許可法(1643年) に反対して『アレオパギティカ』 (Areopagitica: for the Liberty of Unlicensed Printing to the Parliament of England, 1644)というパンフレットを出版した。

この中で、ミルトンはのちにミルが 『自由論』 において用いる言論の自由擁護論のいくつかをすでに用いている。 たとえば次のような見解がそうである。

2. 次に、 名誉革命期に信仰の自由を擁護したジョン・ロックの 『寛容書簡』(A Letter concerning Toleration, 1689)が あるが、ロックの議論で重要なのは、 「個人の信仰を政府が強制することはできないからやめるべきだ」 というものであり、出版の自由の議論とはあまり関係がない。 というのは、たとえ政府がこの議論を認めたとしても、 この議論自体は、 望ましくない宗教観が社会に広まることを防ぐために 政府が検閲することに対する反論にはならないからである。 (たとえば、たとえ政府が個人の信仰を強制できないにせよ、 中国から日本に仏教の経典が入ってこないようにすることによって、 政府は日本人の信仰が変わらないようにすることができる)

3. さらに、ミルはヴィクトリア時代の個性を抑圧する文化に反対し、 『自由論』において 言論の自由や個性の尊重を説いた。 この書において、言論の自由の重要性を訴える消極的な議論としては 「他人に危害を加えないかぎり、個人は自由に発言し行動することがゆるされる」 という他者危害原則が挙げられるが、 積極的な議論としては、次のものが挙げられる。 (上のミルトンの議論と比較せよ)

  1. もしある意見が沈黙を強いられるとしても、ことによったらその意見は 正しいかもしれない。これを否定することは、 われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。
  2. 沈黙させられた意見が、たとえ誤謬であるとしても、 それは真理の一部を含んでいるかもしれないし、 また実際含んでいることがごくふつうである。 そして、ある問題についての一般的ないし支配的な意見も、 真理の全体であることは、めったに、あるいはけっしてないのだから、 残りの真理が補足される機会をもつのは、 相反する意見の衝突によってだけである。
  3. たとえ一般に受け入れられている意見が、 真理であるのみならず真理の全体であるとしても、 それが精力的にかつ熱心に論争されることを許されず、 また実際論争されるのでないかぎり、それは、 その意見を受け入れている人々のほとんどによって、 その合理的な根拠についてはほとんどなんの理解も実感もなしに、 偏見のような形でいだかれることになるであろう。 [→「思いなし」と「知識」の区別 を参照せよ]
  4. もし自由な討論がなければ、教説そのものの意味が、 失われるか弱められるかして、 人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、 という危険にさらされることになるであろう。 教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、 しかもいたずらに場所をふさぎ、 理性や個人的体験から、 なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものと なるのである。

(中央公論社の『世界の名著 ベンサム・ミル』の275-6頁から引用)

ミルの議論は、経済における自由市場のように、 言論の自由を保障すれば、いずれ正しい意見が誤った意見を駆逐する、 という前提があるが、 この前提を「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則を流用することによって 疑問視することは可能であろう。

また、真理は人間にとって常に有用なのかという問題もある。 よく挙げられる例は、原子力についての真理が発見されたことは、 人間にとって有用なのかどうか、というものである。 ヒトゲノム(人間の遺伝構造)の知識についても同様なことが言える。

上のような反論があるにせよ、ミルの言論の自由擁護論は非常に強力であり、 彼の熱のこもった議論は感動的でさえある。ぜひ一読をお勧めする。

4. ミルトンやミルが言うように、 言論や出版の自由は真理に到達するうえで重要な手段であるが、 同時にこうした自由を保障することは、 政府の悪政に対する重要な防衛手段でもある。 ベンタムは、 権力を握っている支配者は、ほっておけば、 社会の利益をおろそかにして自己利益を追求するのが普通なので、 それゆえこの傾向に対する防御策を講じる必要があると考えた。 そこで彼は、政府の行動を監視し必要ならば圧力をかける世論の重要性に着目し、 健全な世論を保つためには情報公開と出版の自由が必須だと主張した。 世論や出版の自由や情報公開の重要性についての彼の考えは、 今日の民主主義社会においても重要な意義を持っていると言える。
[「人は誰にも見られなければ悪いことをする」という考えについては、 ギュゲスの指輪の項を参照せよ]

5. 今日では、 言論・出版の自由が憲法修正第一条によって強固に保障されている米国を始め、 多くの民主主義国家では言論、出版、報道の自由はほとんど当然のものとして 保証されている。

しかし、 そうした先進諸国においても出版や言論の自由は完全に保証されているわけではない。 軍事や国家の安全にかかわることが自由に報道できないのは 比較的容易に正当化されるとしても、 たとえばドイツやオーストリアにおいてナチ称賛の言論が抑圧されていたり、 人種差別についての言論が抑圧されるのは、 ミルの視点からすれば正当化は難しいであろう。 (とはいえ、ミルが「ホロコーストはなかった」とか 「南京大虐殺はなかった」とか、「女性は男性よりも知能が低い」 という発言を禁止すべきだと言わないかどうかは簡単には答えられない問題である) また、哲学の世界でも、 ピーター・シンガーがドイツでの講演を妨害されたり、 彼の著作を用いて授業することを妨げられたりすることがあった。 (シンガーについては彼の『実践の倫理(第2版)』を参照せよ)

というわけで、今日においても、言論や出版の自由の限界がどこにおかれるべきか という問いは、重要な意義を失なっていない。

関連文献

14/May/2001; 19/May/2001更新


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Mon Jul 1 14:57:47 JST 2002