哲学

(てつがく philosophy)

もしきみが哲学に志すならば、笑いものにされたり、 多くの人からからかわれたり、また彼らから、 「あいつは突然、哲学者になりすまして、私たちのところに帰ってきた」 とか、「どこからあいつは、 私たちのところへあの高慢ちきな顔をぶらさげてきたのか」 などといわれたりすることを、即座に覚悟しておきたまえ。

きみは哲学をやりながら、いままでと同じように食ったり、 同じように飲んだり、同じように怒ったり、 同じように不満だったりすることができると思うか。 きみは徹夜せねばならない、また骨折って働き、 身内の者たちから離れ、小僧からは軽蔑され、 会う人々からは笑われ、名誉においても、 公職においても、法廷においても、すべてのちょっとしたことにおいても、 万事ひけをとらねばならない。

---エピクテトス

哲学という語を最初に用い、また自らを哲学者(知恵を愛する者)と読んだ最初の人は ピュタゴラスであった。それは…ピュタゴラスが…神以外には誰も知恵のある者はいないと 語ったからだとされている。その営みが知恵(ソピアー)と名づけられたり、 またその営みに従事していると公言する者は精神的な完成に達しているのだろうとして、 知者(ソポス)と呼ばれたりするのはあまりにも性急すぎることであって、 哲学者(ピロソポス)とは知恵を熱心に追求する人のことなのである。

---ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』

われわれは、哲学を研究しているように装うべきではなくて、 真に哲学を研究すべきである。 なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということではなく、 真の意味で健康であるということなのであるから。

---エピクロス

なぜ人びとは、乞食には施しをするが、 哲学者にはしないのかと訊ねられると、 「それは彼らが、いつかは足が不自由になったり、 目が見えなくなったりするかも知れぬとは予想しても、 哲学者になるだろうとは決して思わないからだよ」 と彼[シノペのディオゲネス]は答えた。

---ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』

哲学という学問は、他の学問へ至る道である。 しかしそこで止まろうとする者は暗闇に落ち込む。

--ボナヴェントゥラ

哲学するために最初に求められる二つの要件は、 第一に、心にかかるいかなる問いをも率直に問い出す勇気をもつということである。 そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、 あらためてはっきりと意識し、 そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである。

---ショーペンハウアー

4.112 哲学の目的は、思想を論理的に明澄化することである。
哲学は教説ではない。活動である。
哲学上の著作は、本質的に、解明ということに成り立つ。
哲学の成果とは、「哲学的諸命題」のことではない。
諸命題が明澄になる、ということである。
哲学は、哲学なしにはいわば暗濁混迷の思想を、 明澄なものとし、鋭く境界づけられたものにしなくてはならない。

---ウィトゲンシュタイン

哲学における君の目的は何か? --蠅に蝿取り壺から脱け出す方法を教えることです。

---ウィトゲンシュタイン

哲学は必要か?と問われて、それがタレスからデリダに至る西洋の諸思想を 知る必要があるか?という意味であるならば、全然必要ない、と断言せざるをえない。 その種の「教養」に何か特別の価値を認める文化が終焉したのは、 たいへんよいことであった。しかし、 哲学を学ぶことは哲学者の思想(過去分詞形のthought)を学ぶことではなく、 哲学的に考えること(現在形のthink)を学ぶことなのである。 そして私は、この意味での哲学はどのような人生を送る人にも必要(…)であると思う。

---永井均

哲学については、 つぎの二つの事のほか、私は何も語るまい。 哲学が最も卓抜な精神によって幾世紀このかた開発せられて来たにもかかわらず、 未だに一つとしてそこで論争の種とならぬものはなく、 したがって疑わしからぬもののないことを私は見たから、 この学問で他の人人よりもうまくやり遂げたいと願うほど十分な自信など持てなかったということ、 それからまた同じ事柄に関しては、真なるべき意見はただ一つしかありえないにもかかわらず、 いかに多種多様な意見が学識ある人人によって主張せられうるものであるかを見、 真実らしく思われるにすぎぬような事はすべて、 ほとんど虚偽なるものと看做したということ。

---デカルト

正直なところ、ソークラテース、私は大いに愛智学(哲学) にいそしんでいるつもりでした。そしてこの学問こそ、 高雅有徳に達せんことを望む人間に、必須の事物をもっともよく教えて くれるものと、考えていたのです。 ところが、こう何もかもわからなくて、せっかく勉強したのに、 何よりも知って居るべきことをたずねられて、 少しも答えができず、自分ながら情けなくなっているのを、 あなたは何とお思いになるでしょう、しかもこの道よりほかに自分を 改良する道がないのです。

---エウテュデーモス

ところで、哲学することなしに生きてゆこうとするのは、 まさしく、目を閉じてけっして開こうとしないのと同じことです。

---デカルト

学問、芸術、技術、手仕事のすべてについては、 それを獲得するには多面的な労苦をともなう学習と訓練が必要だ、 と一般に信じられている。が、哲学にかんしては、いまや、 おかしな偏見が広く行きわたっている。 目と指をもち、その上に皮と道具が手に入れば、 それでもう靴を作れるかといえば、そうはいかないのに、 もってうまれた理性があれば、それが哲学の尺度となるから、 もういきなり哲学することも哲学を判定することもできるというのだ。 足さえあれば靴作りができるといわんばかりだ。

---ヘーゲル

「実際、いい年になってもまだ哲学をしていて、 それから抜け出ようとしない者を見たりするときは、 ソクラテスよ、そんな男はもう、 ぶん殴ってやらなければいけないとぼくは思うのだ」

---プラトン、『ゴルギアス』

「諸学の女王だって? やめてよ、そんながらじゃないわよアタシは。 そりゃ、若かったころはそんな風に呼ばれていい気になってたときもあったけど。 そうねえ、今のアタシは母親のようなものよ。 だから、 みんな内心では誇りに思ってるけど、人前に出すときには恥ずかしく感じるのね」

---『リンリー教授の哲学談議』より


かつては、すべての学問を包括する名称として用いられた。 今日では、 学問とはみなされないが大学で研究することをかろうじて許されている 研究分野を指すのに用いられる。

02/Feb/2000


関連文献


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Jul 14 13:20:36 JST 2021