(さんばじゅつ midwifery, maieutike)
産婆たちと同様の事情で、ぼくは智慧を生めない身なのだ。 だから、既に多くの人たちがぼくを難じて、 他人にたずねるばかりで、自分は何の智慧もないものだから、 何ごとについても、自分一個の見識は示さないと言ったのは、 いかにもかれらの非難の通りである。 これにはしかし、次のような仔細があるのだ。 ぼくは取り上げの役を受け持つように、神が定め給い、 生む方の役は、封じてしまわれたのだ。 だからこそ、ぼく自身は、まったく少しの智慧もない身であり、 自分の精神が生んだもので、これといって智慧者めいた発見などは、 何もないのだ。 ところが、ぼくと交わりを結ぶ者はというと、 当初のうちこそ全然の無智と見える者もないではないが、 やがてこの交わりが進むにつれて、 神の許しさえあれば、 すべての者が、わが目にも他の目にも、驚くばかりの進歩を遂げることは、 疑いないのだ。 それがしかも、これは紛れもない事実なのだが、 ついぞこれまで、何ひとつとしてぼくから学んだというわけではなく、 ただ自分だけで、自分自身の許から、数々の美事なものを発見し、 出産してのことなのだ。ただしそうは言っても、 その際の取り上げは神の御業であり、ぼくもまた、それには微力を 致しているのである。
---ソクラテス
問答法におけるソクラテスの方法論。 ギリシア語ではマイエウティケー。 自分は何も知らないことを自認するソクラテスは、 自分の母親パイナレテが助産婦であったことをひきあいに出して、 自分は話相手が自分の力で真理に到達することを助ける産婆のようなものだと述べた。 (当時、助産を行なう者はすでに出産ができなくなったものだけであった)
田中美知太郎によれば、このソクラテスの方法論は一つの教育のあり方を示している。 すなわち、教師が生徒に対して詰め込み教育的に教えるのではなく、 教師の手伝いにより生徒が自分で「発見」することを重視しているのである。 この点については『国家』第7巻518A以降(岩波文庫では下巻103頁以降)における プラトンの教育論にも継承されている。
想起説も参照せよ。
02/Oct/2002
冒頭の引用は以下の著作から。