弁証法

(べんしょうほう dialectic)

ヘーゲルにいわせれば、 それだけで真理を完璧に表現しているような絶対的原理などありえない。 そもそも一つの命題や主張(正)は、 そのままでは一面的だから、 かならず、それと対立する命題や主張(反)によって否定される。 この反対の命題や主張も一面性を免れないから、 正と反のそれぞれよいところを組み合わせた第三の命題や主張(合)が 出てこなければならない。 こうしてそれぞれの段階のすぐれた部分は保持したまま、 より適当な表現へと進んでいくことが、 弁証法的止揚(アウフヘーベン)と呼ばれる。

---中岡成文

ただの二回しか現われない「ディアレクティケー」という専門用語的な名詞は、 プラトン以降ひとり歩きを始め、アリストテレスから近・現代に至るまで、 それぞれの国の語形にそのまま移されて(dialectic, Dialektik, dialectique, etc.)、さまざまの--必ずしも原義どおりではない--意味内容をこめて多用されてきた。 特にわが国では、これがなぜか「弁証法」という意味不明瞭な言葉に変えられて、 この硬直した訳語が万能の魔法の杖のように乱用された。

---藤沢令夫


形而上学と並んで理解不能な哲学用語の一つ。

元をたどればプラトン対話(問答法)に行きつくが、 通常はヘーゲルの用語として知られている。

伝え聞くところによると、昔むかしドイツにヘーゲルという偉い学者がいて、 この人は「すべてのものは自己矛盾(正と反)をはらんでいて、 それゆえより高次のもの(合)へと解消(止揚 Aufheben)されなければならない。 世界の歴史もこの道のりを辿っている」と唱えたらしい。

たとえば、資本主義から社会主義への発展を考えると、 資本主義には資本者階級(正)と労働者階級(反)という内的対立があり、 革命を通じてみなが平等な社会主義(合)が完成される(らしい)。

同様に、イギリス経験論(正)と大陸合理論(反)が、 ドイツ観念論(合)によって乗り越えられるというのも弁証法的過程である(らしい)。 (正・反・合は即自・対自・即自かつ対自という組合せで語られることもある)

ヘーゲルは歴史の発展を世界精神がその姿をあらわにする過程として捉え、 弁証法を用いて説明したが、 マルクスは社会主義的経済へといたる過程として捉え、 やはりこの弁証法を用いて説明した。 前者は精神の発展を説明しているので観念論的弁証法、 後者は経済の発展を説明しているので唯物論的弁証法として 区別されることもある。

世界精神の項も参照せよ。 なお、「いかなる議論も一面的であることを免れない」 という上の中岡成文の説明は、 言論の自由を正当化するミルの議論を想起させる。

17/Apr/2001; 14/Dec/2001追記


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Oct 8 10:04:31 JST 2002