(きょうどうたいしゅぎ communitarianism)
From the standpoint of individualism I am what I myself choose to be. I can always, if I wish to, put in question what are taken to be the merely contingent social features of my existence. I may biologically be my father's son; but I cannot be held responsible for what he did unless I choose implicitly or explicitly to assume such respoinsibility. I may legally be a citizen of a certain country; but I cannot be held respoinsible for what my country does or has done unless I choose implicityly or explicitly to assume such responsiblity. Such individualism is expressed by those modern Americans who deny any responsibility for the effects of slavery upon black Americans, saying `I never owned any slaves'. It is more subtly the standpoint of those modern Americans who accept a nicely calculated respoinsibility for such effects measured precisely by the benefits they themselves as individuals have indirectly received from slavery. In both cases `being an American' is not in itself taken to be part of the moral identity of the individual.
---Alasdair MacIntyre, After Virtue.
ヴィクトリア朝の英国の病は、 閉所恐怖症でした。つまり、閉塞感があり、 この時代の最も優れた才能のある人たち、 ミルやカーライル、ニーチェやイプセン、 左派の人も右派の人も、もっと空気を、もっと光を、 と要求しました。 私たちの時代の大衆神経症は、 広所恐怖症です。人々はばらばらになり、 あまりにも指導されない状態を恐れています。…。 多すぎる自由は彼らを広大でよそよそしい何もない空間、 道や道標や目標のない砂漠に置き去りにするように見えるからです。
---アイザイア・バーリン
A・マッキンタイア(Alasdair MacIntyre)、C・テイラー(Charles Taylor)、 M・サンデル(Michael Sandel)らによる、 自由主義批判を指す。 彼らは総じて、自由主義が想定する人間観と、 その人間観に基づいた政府の役割を批判し、 共同体の価値を強調するため、この名前で呼ばれるようだ。
自由主義が想定する人間観とは、共同体主義者によれば、 特定の共同体の伝統や慣習から切り離された、 いわば「原子」のような個人である(`atomism'と批判される)。 この個人は社会契約によって自由に社会から出たり入ったりでき、 社会の価値観とはまったく無関係に 「善き生」 の構想を作ることができるとされる。 そればかりでなく、 個人の性別、人種、家族、等々の属性は「偶然的」で「切り離すことが可能」 なものと考えられ、 個人はこうした属性なしに人格あるいはアイデンティティを形成することが できると考えられる(「負荷なき自我」`unencumbered self'と批判される)。 要するに、自由主義者は個人を共同体からあまりに切り離して考えすぎだ、 ということである。 これは、普遍性を志向する自由主義が持つ没歴史的(ahistorical)な アプローチに対する批判とも言える。
これに対して、共同体主義者は、個人と共同体の密接な関係を強調する。 共同体の価値(伝統や慣習)や個人の属性(性別その他) というのは個人にとって「所与」のものとしてあり、 個人の人格や善き生の構想を考えるうえで捨象して考えることはできない。 こうした「所与」を切り離して議論する自由主義は、 方法論(議論の仕方)として最初から間違っている、とされる。
さらに、共同体主義は自由主義の想定する政府の役割をも批判する。 自由主義によれば、政府がやるべきことは、 各人の善き生の構想(人生設計)には口を挟まず、 ただ各人の人生設計がうまくいくように手段を提供するだけである。 すなわち、各人の目的にはいっさい干渉せず手段の提供に終始すべきである。
このように自由主義は政府の中立性を主張するが、共同体主義は、 政府の非中立性を主張する。すなわち、 共同体の伝統や慣習に基づいた人生設計を尊重・助長し、 それ以外の生き方については、手助けしないか、 あるいは妨害すべきだと考える。 ブッシュ大統領は共同体主義者ではないと思うが(たぶん彼は知らないと思う)、 彼の「品性のある社会にはポルノの存在する余地はない」 という発言は、典型的な共同体尊重、非中立の態度である。
このように非中立の立場を主張する根拠の一つは、 みながみな全然ちがった価値観を持つのでは、 共同体を形成する意味がない、ということである。 なぜ全然ちがった価値観を持つ人間と一緒の共同体に住み、 高い税金を払って助け合わなければならないのか。 中立的立場を主張することは、最終的には共同体の崩壊を招くのではないか、 という心配があるようである。
まだ書き足りないが、続きはまた今度。
正に対する善の優越の項も参照せよ。
(11/Apr/2001; 17/Mar/2003追記)
上の引用は以下の著作から。