(そくじそんざい being in itself, être-en-soi)
意識とは、その存在がそれとは別の一つの存在を巻きぞえにするかぎりにおいて、 それにとってはその存在においてその存在が問題であるような一つの存在である。 (中略) 意識によって巻きぞえにされるのは、このテーブルの存在であり、 このシガレット・ケースの存在であり、そのランプの存在であり、 いっそう一般的には世界の存在である。
---サルトル
フランス語のen soiは〈自分が自分の中にある〉ことであり、 〈それ自体〉とか、〈それ自身〉とかの意味に用いられる。 つまり、自分が自分自身と一体をなしていることである。 即自存在とは、何かがそれ自体において存在していることそのことである。
pour-soiとは、〈自分が自分に相対(あいたい)していること〉である。 相対しているのであるから、自分は自分に一体化していない。 自分が自分から離れている。自分は自分自身であることができない。 あるいは、自分は自分をもっていないといってもいい。 対自それ自身は無なのである。
が、他面からいえば、自分が自分に対していることは、 自分が自分を意識していることである。対自とは意識のことであり、 対自存在とは意識が存在していることである。(中略)
この即自それ自体は無意味な物質的素材のあり方であり、 対自はこの素材を意味づける意識のあり方なのである。---市倉宏祐
一見たいへん難解な言葉。存在と意識のあり方について、 対自存在(être-pour-soi)と対比されて用いられる。 以下ではサルトルの『存在と無』 を横目で見ながら説明する。 ヘーゲルの「即自/対自」の区別については弁証法のところを見よ。
サルトル的には、世の中にあるあらゆる物事(存在者)には、 二通りの存在の仕方がある。 意識(と意識を持つ存在者、とくに人間)は、対自的に存在していて、 それ以外のものはすべて即自的に存在している。
意識について考えてみると、「考える自分」(主体)と「考えられる対象」(客体) という二つの要素がある。たとえば、わたしがこの目の前のマウスを意識するとき、 そこには意識する自分と意識されるマウスがある。 このように、意識においては「考える自分」は「考えられる対象」 から切り離されてある。
意識が対自存在と言われるときにとくに重要なのは、 自分について考える反省的思考である。 自己についての意識なので自己意識と呼ばれる。 「オレってバカだなあ」とか「あ。オレ今緊張してるのが自分でわかる」 と考える場合、 「考える自分」と「考えられる自分」は同じではなく、距離があり、 切り離されてある。 この切り離されたあり方、 自分に対して自分が向かっているというあり方を対自と言う。 この意味で、意識または意識を持つ存在者である人間は 対自的な存在の仕方をしている。
それに対して、即自存在というのは、 意識の対象にはなっても、それ自身が自分について考えたりしない ような存在の仕方のことである。 テーブルやシガレット・ケースは、意識の対象にはなるが、 意識が持つ「自己から切り離される」という経験はおそらくしていないので、 即自的な存在の仕方をしている。
以上のように、即自存在と対自存在というのは、 存在のあり方を分析するために用いられる区別である。 とくに、人間が対自的に存在しているという事実は、 実存主義では人間の不幸の始まりとされる。
と書いたが、こういう話はあまり得意分野ではないので、 かなり適当な説明である。上の説明を鵜呑みにしないように。
23/Mar/2002
冒頭の引用は以下の著作から。