代理母

(だいりぼ [だいりはは] surrogate mother)


子供を生みたいがなんらかの理由で自分で出産を行なわない女性のために、 子宮を提供する人のこと。

代理出産の項も参照。

加藤先生によると、 自精子、他卵子、他子宮という組み合わせが代理母と呼ばれ、 自精子、自卵子、他子宮という組み合わせは借り腹(ホスト・マザー) と呼ばれるようだ(自精子とは夫の精子のこと、自卵子とは妻の精子のこと、 他卵子や他子宮とは夫と妻以外の第三者の卵子や子宮のこと)。


関連文献


代理母のアンケート項目についての倫理学的考察

[以下は日記に書いた文章を 一部修正して転載したものです。04/Jun/2001]

MSNのウェブサイトで 代理母についてのアンケートがやっている(いろんなとこでやってると思うが)。

こういう市民の意見に直面したときに、 倫理学者がやるべきこと、できることの一つは、 これらの意見(今回の意見はMSNの方が用意したもの)の背後にある前提を明るみに出し、 その前提がもっともらしいか、他の信念と衝突しないかなどを吟味することである。 だいたいこれらの前提は「自然に反する」とか「すべり坂だ」 などのおなじみの議論に行きつくので、 倫理学者としてはこれらの議論がどの程度説得力があるのかを検討することになる。

そこで、以下では、 MSNの代理母アンケートの各項目の背後にひそむ前提というのを順に考えてみよう。 (得票数は2001年5月28日ごろのもの)

  1. 不妊に悩む人には朗報: 119票
  2. 法整備の上ならOK: 23票
  3. 誕生する子が混乱する: 31票
  4. 医師の売名行為: 11票
  5. 迅速な法規制を: 11票
  6. 十分な論議を待たない暴走: 16票
  7. 女性は子を産むための器ではない: 33票
  8. いきつくところはクローン: 13票
  9. 代理母の体や感情がないがしろにされる: 24票
  10. ビジネスにする人間がでてくる: 29票
  11. 感情的に許せない: 11票
  12. 感情的には理解できる: 78票
  13. その他: 13票

1. 不妊に悩む人には朗報

背後にある前提は、「悩んでいる人は助けてしかるべきだ」だろう。 同様の議論が、 ハゲや水虫や不能、 エイズやアルツハイマーやパーキンソン氏病を治す薬や治療にも適用されうる。

もちろん「不妊に悩んでいる人」の全員に朗報なのかとか、 「不妊に悩んでいない人々」にとっても朗報なのかどうか という問題も考えないといけないわけで、それはたとえば 「米国のミサイル防衛システムは、 不穏国家に悩む米国人には朗報」だからといって、 ただちに米国の政策が国際的に支持できるわけではないのと同様である。 帰結を論じる場合は、一部の人間に対する(短期的)帰結だけでなく、 より大きな(そしてより長期的な)帰結まで考慮する必要がある。

2. 法整備の上ならOK

背後にある前提は、 「何が合法で何が違法か(何が許され何が許されないか)の合意を形成 してから実行すべきだ」だろうか。 この前提はしごくもっともである。

3. 誕生する子が混乱する

背後にある前提は 「誰かを混乱させる行為はよくない」か。 「悩んでいる人を助けるべきだ」というのと同様にこれももっともな道徳原則。

ただし、誕生する子が本当に混乱するのかという事実問題を確かめる必要があるし、 たとえ事実だとしても、解決策がないのか、ということを考える必要がある。 また、子供の幸福が一番大事だとしても、1.と同様に、子供だけでなく、 カップルの悩みや、その他の人々の利害も真剣に考える必要がある。

4. 医師の売名行為

前提「有名になりたいという動機で行為すべきではない」。 もちろん、この道徳原則をそのまま受けいれる人はすくないだろう。 芸術家やスポーツ選手やテレビタレントが、 有名になりたいという動機から行為してもおそらくそれほど非難する人はいまい。 こういう批判は、 医者や代議士などの「崇高な」職業についてなされるのがふつうである。

しかし、医師の売名行為というのは代理母にかぎったことではないし、 また代理母に本質的なことでもない。AIDSの薬を作ったり、 ガンの治療法を開発したりする人も同じ動機で行為するかもしれないが、 だからといってそのような動機から生まれたAIDSの薬を使うべきでないとか、 もっと「崇高な」動機からその治療法を適用しようとする医師を妨害すべきだ ということにはならないだろう。 動機が善いことはけっこうなことだが、 動機の善し悪しだけで行為を判断したり、 ましてやある人の動機が劣っているからといって、 同じ行為を他の人がすることを禁止したりすべきではない。

5. 迅速な法規制を

2.と同様。もっともである。

6. 十分な論議を待たない暴走

同上。これももっともである。ただし、 往々にして法規制というのは暴走が起きてから深刻に検討されるものである。

7. 女性は子を産むための器ではない

これは前提を推測するのがむずかしく、 また一番興味深い議論だが、 おそらく「女性は『女性が有する本質的な目的』以外の目的で使われてはならない」 というような原則だろう。 もっと一般化すれば、「人は、 人の本質(本性、自然)に反する目的で使われてはならない」 というおなじみの原則と言える。

この議論は、「性器は生殖のためにあるのだから、 快楽のために用いられてはならないし、売春はもってのほかである」 とか、「肛門は排泄のためにあるのだから、性交に使ってはならない」 とかいう議論と同じ形式を持っている。 ただし、今回の場合は女性の「目的」なるものが明確にされていない という違いがある。

ただし、こういう意見を述べる人は、 「じゃあ女性の目的は何なんですか」と尋ねられた場合、 「それは女性一人一人が決めることです」と答えるわけにはいかない点に注意。 というのは、その場合「女性は子を産むための器だ」 と主張する女性が出てくるかもしれないからである。 そこで、 上のような議論をする人は、女性の普遍的な目的を提示するという困難な 作業をする必要がでてくる。

それでも、「女性に普遍的な目的がなんであるのかははっきりしないが、 女性が子を産むための器ではないことはたしかだ」 とがんばる人がいるかもしれない。

しかし、その場合には「一般に、ある物に普遍的な目的があるとして、 そもそもなぜその目的以外でそれを使ってはいけないんですか。 かなづちは釘を打つために作られたのでしょうが、 貯金箱を壊すために使ってはならないのでしょうか。 口がキスするために作られたとは思いませんが、 われわれはキスは口が持つ目的ではないのでしてはならないとは言いません。 だったらなぜ女性を子を産むための器をして使ってはいけないのでしょう」 と反論できるだろう。

だが、けっきょくのところ、「女性は子を産むための器ではない」 という背後にある本当の前提は、 カントの 「人(理性的存在者)は、単に手段としてではなく、 同時に目的自体として扱われなければならない」 という道徳原則なのかもしれない。 すなわち、上の主張は、 「女性を女性に本質的な目的以外で使用してはならない」と言いたいのではなく、 「女性を単に手段として使用してはならない」と言いたいのかもしれない。

(ところで、手元に文献がないので正確な引用ができないが、 結婚と性交についてカントは男女間の性器使用の契約だと言っているので、 この文脈でカントを援用しようとするのはあまり好ましくないかもしれない)

このカントの議論をやっつけるのはたいへんなので、 とりあえず間接的な(しかし深刻な)反論を二つ挙げておくと、 「他人の女性の子宮を使用する代理母は女性を手段として 使用することになり許されないが、 自分の奥さんの子宮を使用することは許されるのはなぜなのか」というものと、 「親が子に片方の肺や腎臓をやったりすることも、 やはり子が生きるための手段として親を使うことになり許されないのか」 というものである。代理母だけでなく臓器移植の完全禁止をも主張する人は 後者を簡単に退けるかもしれないが、 それでも前者の問いにきちんと答える必要があるだろう。

8. いきつくところはクローン

これは前提というよりも、 次のような推論がなされていると言える。 「代理母を許すならば、すべり坂をずるずるすべって、 けっきょくヒトのクローンも許すことになるので、やるべきでない」。

すべり坂議論というのは、簡単に言うと、 男性に手を握ることを許したら、 「手をにぎっていいならキスだって。キスがいいんなら体を触ったって…」 とずるずるすべっていき、最後にはムチとロウソクになってしまうという議論。 そこで、 最初はキスはよくてもSMはぜったいにいやと思っていても、 ずるずるとすべっていってしまうので、 男性には手を握らせるべきではないことになる。 同様な議論が、安楽死反対論や マリファナ禁止論にも使われる。

これに対する反論は、すぐに思いつくだけでも3つある。 くわしく議論するのはたいへんなので、列挙するだけにとどめる。

  1. 代理母を許したら、ずるずるとクローンを許し、 さらには優性思想を許し、オーダーメイドベイビーまで許すというのは、 まったく明らかではない。
  2. もし代理母からクローンまでノンストップですべっていくという 仮定を認めた場合でも、 代理母はすでに坂道の途中であり、 IVFや排卵剤の使用など、 不妊治療を開始した時点からすでにすべっているとも考えられる。 だとすれば代理母を禁止できると考えるのはおかしい。
  3. (2)と同様にすべり坂議論を認めたとしても、 ヒトのクローンがなぜ望ましくないかを示さないのであれば、 この議論は説得力がない。

9. 代理母の体や感情がないがしろにされる

この主張の前提はもちろん、 「人の体や感情をないがしろにする行為をすべきではない」である。 苦悩や混乱が望ましくないのと同様に、 人をないがしろにするのは好ましくないのは当然である。

しかし問題は一つに、代理母の制度を認めることによって、必然的に、 あるいはかなり高い可能性によって代理母がないがしろにされることが示されるか どうかである。これを調べるためには、理論をふりかざすだけでなく、 代理母が実際にないがしろにされているかどうかという事実を米国の例などから 集めるのも重要である。 また、第二に、代理母の体や感情がないがしろにされることが多いことが 予想されたとして、それに対するいかなる対策も立てられないのかということも 議論する必要がある。

そもそも「体や感情がないがしろにされる」のは なにも代理母にかぎったことではなく、 売春や労働や結婚にだってありえることである。

売春にもこの議論を用いる人もいるだろうが、 売春を職業と認め、 売春をしている人々の社会的地位を向上させることによって、 事態を改善することは可能であろう。

同様に、「資本主義は労働者の労働や感情をないがしろにする」 ことがたとえ事実だとしても、 労働状況の改善や社会の福祉政策などによって、 事態を改善することは可能だろう。

また、結婚にしても、歴史的に見れば多くの場合、 女性は財産として扱われてきたわけで、 体や感情がないがしろにされてきたことは想像にかたくない。 しかし、男女間の平等を保障することにより、 この問題があるていど改善されたことを認めないわけにはいかないだろう。

したがって、代理母についても、 適切な法規制や社会政策を行なうことにより、 この制度が持つ望ましくない側面を軽減することができると思われる。 もし代理母が以上の例とは異なり、 「代理母は女性の価値を貶める側面をその本質として持つ」 というのであれば、どうしてそうなのかを示す必要がある。

10. ビジネスにする人間がでてくる

前提は、 「ある種の行為や物事はビジネス(商売)にしてはいけない」。 お金目当てに行なってはいけない行為がいくつかあり、 代理母はその一つだということであろう。

どういう物を商売にしてはいけないかを考えてみると、 土地を売ったり知識を売ったりするのは許されるが、 身体的なものを売ることにはかなりの道徳的反発が存在することに思いあたる。 たとえば、肺を売ったり、腎臓を売ったりするのは許されない、 あるいは望ましくないと考える人は多いだろうし、 自分の身体をまるごと売ってしまって奴隷になるというのは ばかりか ミルも許さない行為である。

しかし、その一方で、血や髪や爪を売ったりすることは比較的許される行為である。 おそらくその理由は、 「一回売ってしまえばおしまい」である肺や腎臓とは異なり、 基本的に何回でも売れるからであろう。 とくに髪を売ることなどはほとんど道徳的反発を伴わず、 散髪を無料でやるためにモデルになることを非難する人は (宗教的な理由でもないかぎり)めったにいないだろう。

とすると、ビジネスあるいは商売にしてはいけない行為は、 「身体の全部あるいは一部を売る行為」ではなく、 「一度売ってしまうと元に戻らない行為」 であると論じることができるかもしれない。 だとすれば、子宮を貸す商売は、労働力を売る商売と同様、 許されると論じることができるかもしれない。

しかし、代理母と売春--また最近では卵子の提供--は、 上で挙げた肺や腎臓の例と血や髪の例の中間に位置し、 それゆえしばしば論争になる、と言えるのかもしれない。 もちろん、そのような事情があるにせよないにせよ、 売春は「最古の商売」と言われるわけだが…。

11. 感情的に許せない

前提は「わたしが感情的に許せない行為は禁止されるべきである」。 こういう独裁者的なことを言う人は、 いますぐ本屋に行き、ベンタムの『道徳と立法の原理序説』第2章を読むべきである。

一歩譲って、この議論の前提には 「社会の多くの人が感情的に許せないと感じている行為、 あるいは社会の道徳に反すると感じている行為は、禁止すべきである」 という原則(リーガル・モラリズム)があるとしても、この原則は、 現在の常識や社会の道徳を絶対的な基準にしている点でまちがっている。 それは、「ナチスの法であれ南アのアパルトヘイトの法であれ、 法が禁じている行為は道徳的に不正である」という原則がおかしいのと同様である。 代理母という新しい現象によって、 常識の正しさや、社会の道徳の正しさが問われているのだから、 それらの正しさを頭から仮定するのではなく、 きちんと根拠を問いただす必要がある。

12. 感情的には理解できる

感情は大切だが、11と同様、「感情的には理解できる」 「感情的には理解できない」と主張しても始まらないので、 どうしてそう感じるのか、 感情の背後にある理由あるいは前提を検討する必要がある。 倫理学は感情だけで議論するわけにはいかない。


以上、いろいろ検討し、とくに最後に感情では議論できないと述べたが、 誤解をさけるためにもう一度強調しておくと、 こう言ったからといって、子供の苦悩や代理出産した女性の苦悩、 あるいはそれ以外の人々の苦悩を 考慮に入れる必要がないと言っているのではけっしてない。 3.や9.で述べたように、 代理母という制度にこのような弊害が伴うのであれば、 それを取り除く適切な方法を考えるべきだし、 弊害が大きくどうしても軽減できないならば、 代理母を法的に禁止する強い根拠になるだろう。

しかし、代理母制度を認めることによって生じる苦悩を考慮に入れる一方で、 禁止することによって生じる苦悩も考慮に入れなければならない。 どうしても子供が欲しいのに身体的問題から子供を生めないカップルや、 非合法に代理母を行なうことから生じる問題、 また代理母が認められていたならば得られたかもしれない幸福、等々。

おそらく賢明な政策は、完全禁止、完全自由化というのではなく、 法によって規定された適切な手続を経た場合にのみ 代理母による出産を許すというものであろう。 もちろん、このような法をつくる前に、 十分な議論と実態調査をし、 適切な規制を行なえばうまくいく事例が十分にありえる ことを確認すべきことは言うまでもない。 そして、社会的合意を形成するために十分な議論をするためには、 倫理学者を仲間外れにしてはならないことも言うまでもない。

以上の議論を読んだら、練習問題として、 毎日新聞の社説 「代理母出産 認めるわけにはいかない」(2001年05月20日) を批判的に検討してほしい。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jul 3 11:41:28 JST 2009