がん治療を巡る変化
私が医師として仕事を始めた30年ほど前には、緩和ケアに関する臨床研修プログラムはありませんでした。がんを告知するか否かが医学的な問題になっていた時期で、一般臨床ではがんについて話すことはタブーとされていました。臨床研修プログラムを修了した後、主に肺がんの臨床に従事していましたが、病状が急変しても緩和ケアを必要とする患者さんを受けいれていただける医療機関がありませんでした。
その時代には、患者さんやご家族向けにがんに関する情報ができることなど考えられませんでした。「患者必携 がんになったら手にとるガイド」や「ご家族のための がん患者さんとご家族をつなぐ在宅療養ガイド」(2024年に新版を発行しました) (以下「在宅療養ガイド」)ができたことに、新薬の開発といった治療面の向上だけでなく、がんを巡る考え方が大きく変わってきたことを感じます。
私にとって一番大きな転換点は、がん研附属病院が2005年に現在の江東区有明に移転する際に、緩和ケア病棟が新設され、地域の医療機関とのネットワークを新たにつくることが必要となったことでした。現在は緩和ケアセンターとしてがん患者さんとご家族の支援、そのために重要な医療者などの連携に携わっています。「在宅療養ガイド」の制作にも、患者さんを支援する立場で関わらせていただきました。
[患者必携]がんになったら手にとるガイド
普及新版
(国立がん研究センター がん情報サービス)
もしも、がんが再発したら
[患者必携]本人と家族に伝えたいこと
(国立がん研究センター がん情報サービス)
「在宅療養ガイド」の意義
「在宅療養ガイド」も 「患者必携 がんになったら手にとるガイド」も、患者さんとご家族が必要とする基本的な情報が入っています。近年はがんについての情報がインターネット上にあふれていますが、あまりに多くの情報に混乱してしまう方もおられます。信頼できる基本となる情報として、多くの方々に共有していただきたいのが「患者必携」と「在宅療養ガイド」です。
こうした情報は、制作に関わった専門家の観点を、患者さんやご家族にチェックしていただき、さまざまな提言や要望をいただいて反映している点で、専門家や医療機関によるがん関連書籍やネット情報とまったく違うものになっています。医療の専門家は医学的な情報を詰め込みがちです。「在宅療養ガイド」は、患者さんとご家族を主体として、当事者ならではの視点で悩みや迷いに寄り添う内容になっています。
在宅療養はすべての方たちにとっての選択肢であることを知っていただくためにも、「在宅療養ガイド」をぜひ活用していただきたいと思います。
地域に託す
「患者必携」とともに「わたしの療養手帳」がつくられ、さらにこれらを補完する身近な医療機関や相談窓口、地域の療養に役立つ情報をまとめた、都道府県ごとのがんの療養に関する冊子が自治体や医療者の協力によってまとめられました。こうした冊子が次々にできたのは、2006年にがん対策基本法が成立して、国の政策として進められるようになったことが大きかったと思います。
2015年に作成された「在宅療養ガイド」が2010年に公開された「患者必携」よりずっと簡潔なものになったのは、地域ごとの情報ツールがつくられ、相談窓口や支援体制が充実してきたからでしょう。広く共有できる情報を冊子にまとめ、そこから先は地域の医療機関等に相談すれば安心して在宅療養ができるようになるのが理想だと思います。
国の政策として、地域包括ケアシステムの構築が進められていますが、がん患者さんの在宅療養もこうしたシステムに吸収されていくのが望ましいと思っています。がん患者さんに限りませんが、在宅療養では地域包括支援センターを中心とした、徒歩圏のコミュニティーが大きな役割を担うことが大切です。地域での支援体制を構築するために、医師や看護師などの医療者や介護に携わる多様な職種の人たちをまとめる行政のリーダーシップに期待したいと考えています。そうした場面で、在宅療養に関わるさまざまな人たちが共有するベーシックな情報として「在宅療養ガイド」は役に立つと思います。
都市部での在宅療養支援の難しさ
いろいろな形で情報が提供されるようになって、患者さんやご家族は緩和ケアについての知識を得られています。しかし実際には、緩和ケアの現場は一様ではありません。地域による格差もあります。
有明病院でも緩和ケアセンターができたからといって、それまであった問題がすべて解決できたわけではありません。多くの患者さんは個々に家族構成や経済事情などまったく違います。それぞれの事情に即した要望に応えられる、多様な選択肢を提供できるようにしなければなりません。そのためにも地域の病院との連携が欠かせません。
有明病院の患者さんの55%は東京都区内在住の方ですが、医療機関の数やベッド数で都区内でも地域格差が存在します。地域のコミュニティーが成り立ちにくいところもあり、医療と介護の連携が難しいケースもあります。患者さんが安心して在宅療養できるかという観点からは、東京は後発地であるといわざるを得ません。
都内は医療機関が多いので在宅療養支援は誰かがやってくれるだろうと考えられるのか、在宅療養へつなぐ先が地域の中核になる医師に集中しているように、私は感じます。地域全体の在宅療養支援のレベルを高めるためにも、より多くの病院、クリニックや介護の専門家に関わっていただきたいと思います。
在宅療養を考える患者さんとご家族に
在宅療養について患者さんとご家族が話し合われることも大事ですが、医療機関や自治体の相談窓口にぜひ相談してください。不安をゼロにすることはできませんが、減らすことはできます。私たちは、少しでも安心していただけるように努めています。
がんについての知識を持つことは大切ですが、治療や在宅療養を100点満点でやることにもとらわれないでください。病状も家族の事情もそれぞれ違うのです。患者さんとご家族はみなさん、できることを懸命にやっていらっしゃいます。みなさん合格点です、と申し上げたいです。
「在宅療養ガイド」はまず、患者さんご家族の中で、ご本人から少し距離のある方にお渡しするのがよいだろうと考えています。例えばご夫婦のうち一方が患者さんですと、多くの場合、お二人ともさらなる治療の可能性に期待を持っています。患者さんご夫婦より状況を客観視できる子ども世代の方に読んでいただけば、在宅療養についてご家族で相談するきっかけにもなるでしょう。また「在宅療養ガイド」によって、在宅療養はすべての方にとっての選択肢の一つであると知っていただければと思います。
今後さらに高齢化が進むことから医療、介護の専門家だけでなく、患者さんやご家族も含めた一般の市民が地域の在宅療養に関わるような仕組みがつくられると思います。それによって地域包括ケアがどんどん変わって、地域で安心して在宅療養ができるようになることを期待しています。
その時に、在宅療養のハンドルを握り、指示を出すのは患者さんとご家族です。それを支援するのが地域であり、医療や介護の専門家たちです。患者さん、ご家族には、そうした意識も持っていただければと思います。