古典鍼灸研究会(付脉学会)の理念
当会の理念は「鍼灸師の医学」を確立することである。
井上雅文が述べる「診断としては脉診のみ、治療手段としては鍼と灸だけである経絡治療だけが唯一の診断から治療へのシステムを持ち、創立から鍼灸師の医学であった。」「我々鍼灸師には湯液を含めた薬というものを使うことはできない立場にあり、西洋医のように近代的な診断検査機器装置を使うことはできないが、それゆえ、今我々は人間にとっては極めて自然で害のない医学の創造に参加しているのではないか」という考えや「鍼灸師にとっての進歩とは、今日治せなかったものが明日治せるように、今年治せなかったものが来年治せるようになるということです。」という言葉を胸に同氏が復活させた人迎気口診を用いた臨床や中国伝統医学文献の研究と臨床への応用の検証を中心に活動している。
沿革
民間療法として残っていた鍼灸に啓蒙活動として研究グループの設立が欲求され、その欲求を持った人々が昭和15年(1940年)9月2日、本間祥白を中心に「古典研究会」を発足させた。
内容は古典的鍼灸術の基礎と思われた『内経』をはじめとする『古典』から経穴・病証・臨床等を学ぶことを目的としたものだった。
「鍼灸の本道は古典に帰るべし」と叫ばれた柳谷素霊を会長に、副会長には井上恵理を戴き、発会の場所は両国の柳谷素霊主宰の日本高等鍼灸学院(覚王山灸療院2階)。会員は10数名、中に小野文恵、鈴木啓民、谷田啓道、早川満男等がいた。
柳谷素霊が多忙の為に昭和15年(1940年)12月には代行として井上恵理が講義を担当するようになる。以後、柳谷素霊は昭和31年(1956年)12月まで会長の地位にあったが、秘法集公開や治験などの講義を行う位であった。
当時、研究会では講義の内容としては井上恵理が前年の昭和14年まで2年間にわたり岡部素道と毎朝行っていた『霊枢』の講読を基に行われ、他に『鍼灸重宝記』『鍼灸遡洄集』『十四経発揮』『医方大成論』『癰疽神秘灸経』『難経』なども行った。発足当時は毎週月金、朝の通勤ラッシュの前に終わらせるため早朝に行われ、後に夜に変更されたが時には遅くなって全員泊まり込みで翌朝帰宅の時もあった。
昭和17年(1942年)には本間祥白が『鍼灸補寫要穴之図』を自費出版で発行、後に医道の日本社より刊行された。これは本間祥白が約2年余りの間、井上恵理の下で各々患者に施した本治法の選穴を患者一人につき1枚の半紙毎に記録した後、その膨大な量の経穴を五行に分類し整理した結果、一枚の図に集大成されたものである。またこの二人によるもう一つの労作は『経絡経穴図鑑』であるが、その中に表されている人体は本間祥白自身のヌードである。
その頃から会員は『難経』の研究に時間を割き成書を目指した。昭和19年(1944年)の暮れには略原稿の完成までこぎつけたが昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で焼失、一番残念がったのは本間祥白であった。そのことが昭和38年(1963年)医道の日本社刊行の『難経の研究』に結実する。しかし残念ながら本間祥白は前年に本の完成を見ず他界していた。
昭和19年(1944年)3月、本間祥白は『東医宝鑑』、江戸期の医書を基に『鍼灸病証学』を医道の日本社より発刊。以来、病証学の研究は現在まで当研究会の伝統的な課題となっている。
昭和19年(1944年)12月、忘年会は迫りくる戦火のため灯火管制の下、暗闇の中で酒やつまみを持ち寄り開いたがその後、戦災死、応召、疎開などにより研究会活動は奪われ約2年間の休会に入る。
昭和21年(1946年)9月、古典研究会が再発足、足立区末広町の真田俊次宅で戦後最初の研究会が始まる。井上恵理が随時出席し研究指導を行い、参加者は、谷田啓道・小野文恵・真田俊次・橋本三郎・根本憲四の諸氏であった。
昭和23年(1948年)12月20日、井上恵理は東京台東区入谷に引っ越し、施無畏堂鍼灸療院を開設、そこが研究会の場所になった。同年11月19日には10周年記念長期講習会が開かれ、これは戦後最初となる一年間に亘る長期講習会の第2回目である。当会の会員資格は当会主催の長期講習会を受講した者が得られるが、だいたい3~5年おきに開かれている。令和3年(2021年)現在では、21回まで行われた。
昭和31年(1956年)12月には、柳谷素霊に代わり井上恵理が2代目会長に就任。当会は慣習として新年会はなく忘年会は毎年開かれている。それには亡くなるまで柳谷素霊が出席して、従容(しょうよう:ゆったりと落ち着いた態度)迫らぬ姿を見せていた。他に石野信安、竹山晋一郎、戸部宗七郎等が招待されるのが通例であった。
昭和34年(1959年)から始まった医道の日本社主催の経絡治療夏期大学は昭和44年の11回まで後援する。
昭和37年(1962年)8月に、副会長本間祥白、逝去。
昭和38年(1963年)4月に、経穴特別研究会発足(木曜会)。
昭和39年(1964年)12月に名称を「古典鍼灸研究会」とする。
昭和42年(1967年)5月に2代目会長井上恵理、逝去。同年7月、小野文恵が3代目会長に就任し、『鍼灸重宝記綱目』の講義を繰り返して後進の指導に当たった。
昭和48年(1973年)12月に小野文恵は東方会々長に専念する為、会長を委譲、4代目会長に井上雅文が就任。
その間、数々の古典籍の復刻を行う。その御苦労を厭わなかったのは大野健司である。
昭和55年(1980年)7月、井上雅文はそれまでの六部定位脉診に加え『脉経』に出てくる人迎気口診を復活・再構築し井上式脉状診を提唱、『脉状診の研究』を著す。
昭和57年(1982年)の初めから井上雅文の提案と他16名の会員の努力により、斯界では初の『八十一難経』の一字索引が約8ヶ月を掛けて完成、戦後の研究成果の一つのピークを示すもので、東洋医学研究会(現オリエント出版社)より『難経古注集成』と共に発刊された。
昭和60年(1985年)頃より医古文を読む為の勉学が他の古典派に先駆けて本会の例会で逐次始まる。
平成6年(1994年)4月に脉学会と合併し「古典鍼灸研究会(付脉学会)」が正式名称となった。
平成7年(1995年)11月23日、ホテルオークラに於いて、石田秀実先生・丹沢章八先生の記念講演をはじめ、岡田明佑先生・岡部素明先生・後藤修司先生・戸部宗七郎先生・戸部雄一郎先生方々のご臨席のなか創立55周年記念講演・祝賀会を開催。
平成12年(2000年)11月23日には、赤坂プリンスホテルに於いて創立60周年記念講演・祝賀会が開催され石田秀実先生による講演が行われた。
平成17年(2005年)、昭和56年からの木曜会(経穴部位の研究)の成果を踏まえ「経穴」の検討が進められた集大成である『経穴考按』が皆川寛の主導の下、高橋和夫会員の協力により纏められた。
平成19年(2007年)10月14日、会長井上雅文逝去
同年12月、5代目会長として樋口陽一が就任
平成23年(2011年)8月、『脉状診の研究』に基づき井上式脉状診と臨床を踏まえた井上雅文の講義録『脉から見える世界』を発刊する。
令和2年(2020年)12月、6代目会長として中村耕三が就任
現在も臨床を主体とし井上式脉状診を発展させながら中国伝統医学の研鑽と鍼灸師の医学の向上に取り組んでいる。
井上雅文
1937年東京生まれ。
経絡治療を提唱した井上恵理を父に持つ。
六部定位診を受け継ぎつつもその診断法、治療法に限界を感じ、人迎気口診を再構築する。日本伝統鍼灸学会、日本内経医学会などにも貢献。2007年に亡くなるまで37年にわたり古典鍼灸研究会の会長を務め、惜しむことなく会員を指導し、共に考えた。
臨床あってこそという態度を貫き、「鍼灸師にとって進歩というのは、去年治せなかった病気が今年は治せるようになること」と繰り返し語った。また「脉診して治療します、というのは脉診によって例えば肝虚証、腎虚証などの証を立てそれによって導き出されるツボに鍼を刺すことができれば良い、ということではない。その患者の症状からそれにふさわしい脉が想像できなければならないし、治療すれば脉がどう変わるか、また脉がどう変われば予後が良いのかもわからなくてはならない」とも語っている。著書に『脉状診の研究』。