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こだまの世界

---倫理学者のふしぎな日記---

99年9月中旬号

私の、 幸福があらゆる行動律の基本原理であり人生の目的であるという信念は微動もしなかったけれども、 幸福を直接の目的にしないばあいに却ってその目的が達成されるのだと、 今や私は考えるようになった。 自分自身の幸福ではない何か他の目的に精神を集中する者のみが幸福なのだ、 と私は考えた。 たとえば他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、 それを手段としてでなくそれ自体を理想の目的としてとり上げるのだ。 このように何か他のものを目標としているうちに、 副産物的に幸福が得られるのだ。…。 自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、 とたんに幸福ではなくなってしまう。 幸福になる唯一の道は、 幸福をでなく何かそれ以外のものを人生の目的にえらぶことである。

(J・S・ミル、『ミル自伝』、朱牟田夏雄訳、岩波文庫、1960年、128頁)


9月中旬の主な話題


何か一言


09/11/99 (Saturday/samedi/Sonnabend)

夕方

ぎゃっ。もう11日の夕方。ど、どうすんねん。

昨夜は生命倫理学勉強会のあと、しばらく研究室でウダウダ。 それから某所に行き、焼きそばを食べた。 『サラリーマン 金太郎』第7巻-第8巻まで。 夜中に大雨になりそうだ、という話を聞く。

いったん下宿に戻ってしばらく寝てから大学で勉強しようと思い、 下宿に戻ってしばらく寝ていると、 ゴガゴガゴジャジャジャジャーと雷と雨の音が。 う〜ん、これじゃあ学校に行けないなあ、などと理屈づけて、 えんえんと寝てしまう。 (眠いときはどんな理由によっても寝ることが正当化されうる)

起きると11日の昼下がり。あほかおれは。なぜ半日以上も寝てしまうのだ。 自分の情けなさに腹が立ち、床をゴロゴロ転がりワアワアわめく。いや、うそだが。

某喫茶店に寄ってから大学へ。 停電のせいでpascal-cicero間の接続が切れているようで、 メイルが読めない。くそ。なんとかならんのか。

あ〜、勉強勉強。


哲学・倫理学用語集にについての 項目を書いてみた。不完全だがこれで外堀は埋めたことにして、 これからベンタムの徳について考えていくことにする。


何か一言


09/12/99 (Sunday/dimanche/Sonntag)

真夜中

…12日。ら〜ら〜ら〜。まだ1行も書いてないなんて、恐くて誰にも言えない。

悪魔の誘いに誘惑されて、 某所で行なわれたオフ会の二次会に出席してしまった。 行ったら行ったで、 某師匠に「こんなことしてて発表大丈夫なん?」 などと脅かされ、冷汗をたらす。鬼。悪魔。

あ〜、書きます書きます。たった今から人類の第一歩を踏み出します。


書き出しました。現在600字前後。原稿用紙1枚半を超えようとしています。 さあ、どうなるどうなる。がんばれこだまっ。


そろそろ1000文字の大台に乗ろうとしていますっ。 10000字とすれば、あとたったの10分の9ですっ。 がんばれ、がんばれこだまっ。


早朝

2121字! あと5分の4! 2.5分の2! 1.25分の1! てことは、あと1で終わりだ! あと1! あと1!

(いやはや、数字の魔術って恐いっすね…)


2680字。う〜ん、疲れてきたので、 ただでさえ愚鈍な頭がますます回らなくなってきた。 ちょっと寝よう。

え〜と、今7時前ですが、12時には必ず復活します。宣言。


昼下がり

あ〜、だめでした、宣言撤回。お昼過ぎまで寝てました。


現在約3000字。

うしろを振り向かずにどんどん書こう。 一貫性なんか気にしちゃだめだ。 とにかく書くのだ。書けばいいのだ。 書きさえすればなんとかなるのだ。 書きながら考えるのだ。考えながら書くのだ。 いや、考えなくてもいいから書くのだ。 書いてから考えればいいのだ。 とにかく書け。まず書け。書け。 一息ついてないで書けったら。


夕方

う、ゴホゲヘ。ゴホゲーゴホセンに行ってしまったゴホ。ゲホゲホ。 ついでに某所で遅い昼食を食べてくる。ガーリックライス。ゲホ。


夕方、バンドの練習。久しぶりに曲を作ったので3曲ほど持っていくが、 1曲ヒット、1曲ボツ、1曲今後に期待。ぐすん、せっかく作ったのに。

さて、精神的には沈滞しつつあるが、やらねばやられる。やらねば。


さて、『はじめの一歩』第25巻も読んだし、やるかあ。


真夜中

だめ。ぜんぜん進まなくなった。冷汗だらだら。 研究室にいると気が狂いそうになってきたので、 しばらく山に籠って勉強することにする。

う〜ん。月曜と火曜の二日でできるんかいな。 授業は両日ともサボるつもり。すいません。


今日やったこと


何か一言


09/13/99 (Monday/lundi/Montag)

クリスプの講演に一応出席。何も手伝えなくてすいません。

ノストラダムスを罵倒してみたり、 「ヘルプミー、マイロード」などと言って天を仰いでみたり。 やはり最後に残る手段は他力本願。


何か一言


09/14/99 (Tuesday/mardi/Dienstag)

昼下がり

ひたすら勉強。ぐうぐう寝たり、マガジンやサンデーを読んだりしながらも、 ひたすら勉強。現在6500字程度。

某書類を提出し、新幹線の切符を買うために、ちょっと大学に来る。 顔を見せといて授業に出ないなんてすみません。 例外的な状況なので通常の義務が当てはまらないのです。 どうかお許しを。


夕方

中央購買部で買いもの。 法学部の証明書発行ロボが故障中なので、 工学部8強姦(ん、何でこんな変換が最初に出るんだ?)に行き、 ここにもある証明書発行ロボを使い、学割を入手。 無事新幹線の切符その他を購入。 あと、着替えやらハンカチやらも購入。

東館から中央食堂の間にはすでにケモノ道ができている。 工学部8強姦の前に自転車をとめて歩いていけばよいのではなかろうか。


今日やったこと


何か一言


09/17/99 (Friday/vendredi/Freitag)

生きてます。念のため。


何か一言


09/19/99 (Sunday/dimanche/Sonntag)

真夜中

自転車のカギがない。また失くしたらしい。なんてことだ。なんてことだ。

11時すぎに京都駅に着く。 地下鉄で今出川まで行き、それからタクシーで百万遍。 大学に置いておいた自転車に乗ろうとすると、 カギがなくなっていてガックリ。 てことは、またタクシーに乗らないといけないのか。 金ないのに。

しんどいので日記の整理はまたあとで。


1999年関東の旅

以下は、某ノートパソコンに書きためておいた日記。 ちょっと量が多いが、記録のために残しておく。


14日夜

夕方、情報研を出て、某教授室に行く。某氏が来ている。 しばらくすると某教授が来たので、 ギリシア語のhexisと英語のdispositionとの関係を訊ねる。 結果はゲホゲホ。 そのあと、某教授と某氏は、 某先輩と某後輩も合わせて4人で焼肉を食べに行ったようだ。 おれはもちろん遠慮させてもらった。

それからルネに行き、洋書のコーナーでニコマコス倫理学の英訳を見る。 巻末のギリシア語−英語の訳語対応表を見ると、 hexisはstate or dispositionとなっていた。 この本もオックスフォードから出ているので、ロスの影響があるようだ。

そういえば、こないだローティーの講演を聞いていて思ったのだが、 アメリカの哲学の興隆は、 主に第2次世界大戦前後に分析哲学系の人々が 大量に亡命ないし移民してきたことによって生じたのだ (たぶん)。 日本も英米系の教授をどんどん講師として迎えれば、 もうちょっとよくなるのではないだろうか。

それはともかく、注文していた本を含め、何冊か書籍を購入。

え〜と、明日までの時間割は。逆算すると。

ということは。残された時間は…10時間か。う。もうそれだけか。


15日真夜中

ひい。もうあと5時間もない。まだ2節まるまる残ってるってば。

そんなこんなしているともうこんな時間。ひい。

ひいい。あと4時間。

わああ。あと3時間。

あああ。あと1時間半。まだ8300字。全然無理じゃん。 どうしよう。どうしよう。


夜明け

約9000字。まだ最後の1節がまるまる残っている。 某先輩の発表を聴くのはあきらめて、 夕方6時の夕食に間に合うように行くことに決めた。 というわけで新しい時間割は。

う〜ん、厳しい。あと6時間か。ちょっと寝たいしなあ。


お昼前

わああ。11時45分。まだできてない。どうしよう。


昼下がり

案の定、論文が完成しないまま出発することに。 雨の降るなか情報研まで行き、 インクジェットのプリンタのケーブルを探すが見つからないので 研究室のカントのケーブルをかっぱらってき (すみません)、 テストプリントをしてみてからうまくいったのを確認し、 大学を出てバスに乗り烏丸今出川まで行って地下鉄に乗り、 JR京都駅から14:34分のひかりに乗って出発。 自由席はほぼ満席。 となりに基地外みたいなおじさんが乗ってくる。 どうにかしてくれ。


16日早朝

論文は一応完成した。コピーも済んだのであとは発表をするだけ。

昨日は新幹線で少し寝た後、新横浜から乗り換え乗り換えして横浜に行き、 そこからさらに京浜東北線で逗子まで行く。 駅から降りてバスを待っていたら某先輩から電話が来て、 タクシーで来たら、と言うので、 タクシーで某関東学院大学セミナーハウスへ。 夕食に間に合う。 夕食の席では某先生と某先輩とご一緒する。

それからワインパーティーと称して、畳の部屋でサシミや果物をつまむ。 去年も同じだったな。 某ローゼン氏や某ウォルフ氏と話す。 ローゼン氏とはベンタムの『義務論』の話をいろいろ。参考になる。 ウォルフ氏は平等論をやっているらしい。 平等論のどこらへんがおもしろいのか、とか質問する。 先日某クリスプ氏の講演に出たのでなんとなく話を合わせることができた。 Philosophy and Public Affairsに論文が載ってるんだそうな。

それから部屋にこもって勉強。 なぜか12畳の部屋を一人で使えることになったので、 部屋の隅に某師匠からお借りした某ノートやらプリンタやらを広げて 勉強を始める。 まず明日おれが司会と予定討論者をやることになっている 某大先生の英語の論文を読む。

それから1時間ほど寝て、 朝までかかって論文を一応完成させる。 英文のレジメのようなものも書く。 とりあえずできたので涙を流して喜ぶ。 仕事が終わるっていいなあ。

明け方、少し寝ようと思ったが、寝付けなかったので、 海岸まで散歩に行く。 歩きながら、ベンタムの徳の分類は失敗していると確信する。 それからまた戻ってきて、原稿をコピー。

これから朝食を食べて、いよいよ発表。 座りっぱなしで背中が痛い。


17日昼下がり

現在、市ヶ谷にある某法政大学大学院に潜入中。 2時からブラッド・フッカー氏の「規則帰結主義」 という講演があるのだ。


18日真夜中

15日からの記録。 朝食のあと、発表。 日本語の発表なので会場には外国人がおらず、 約10人強しかいない。 まず横浜市大の某氏が「ベンサムの間接立法論」 を発表。某大先生が司会。 それからおれの「ベンタムにおける徳と幸福」。 司会は引き続き某大先生。 早口で一気にしゃべり倒した。 某先生やら某先輩やら某先輩やら 某先生やら某先生やらに質問される。 半分は答えて、半分はわかりませんと言う。

ま、とりあえず質問が出て良かった。 終わってほっとする。

それからお昼。みなでそばを食べに行く。

昼過ぎに某大先生の'Berlin on Mill' の司会兼予定討論者。 しかし、何も質問をせず、 さっさと会場の質問に回してしまった。 某大先生怒ってるかもしれない。 すいません。許してください。

そのあと、某イタリア人による発表があったが、 ほとんど居眠りしていた。 それで学会はすべて終わり。 来年は7月3日4日にあるそうだ。

某先輩と某先生と大船までご一緒し、 おれは某線に乗って兄の家へ。 鈍行に乗ったので1時間30分ぐらいぐっすり眠った。 ホームの売店でチャンピオンを買って読む。

夜は母と夕食を食べてさっさと寝る。 あ、コンビニでモーニングを買って読む。

17日、早朝に起きる。 兄が会社に車で行くというので、 乗せてもらうことにしたのだ。 市ヶ谷で一緒に朝食を食べた後、 おれは一人で靖国通りをずっと歩いていき、 神保町へ。少し古本を見たがまだ疲れていたので、 早々に電車に乗り新宿へ。 新宿の新しい方の紀伊国屋で 洋書を何冊か科研費にて購入。 ほとんど哲学事典類。

それから電車に乗り、 再び市ヶ谷に。 王様のカレーというところで おいしくもまずくもないカレーを食べた後、 法政大へ。 フッカー氏の講演は居眠りしつつ聴く。 すいませんすいません。

講演後、フッカー氏、某法政大の先生、 某法政大のOD氏、 横浜市大の某氏と一緒に、 ホテルの喫茶店で歓談。

それから和食を食べることになっていたようだが、 おれは遠慮して兄の家へ。 電車の中でアームソンの『アリストテレス倫理学入門』 を読んでいろいろ納得したり。

兄の家で夕食をごちそうになって、 母の家に送ってもらい、 しばらく寝る。 近くの駅で帰りの新幹線の切符も買った。 明日、八王子にある都立大に行った後、 夜に京都に戻ることにした。

そして、真夜中に起きてちょっとテレビを見ながら、 この日記を書いている。


今日も寝不足。朝7時に起きてシャワーを浴び、 母に車で駅まで送ってもらう。 某線に乗って国分寺に行き、 それからなんとか線で八王子まで行き、 さらに横浜線で橋本まで行き、 そこで荷物の一部をコインロッカーに入れた後、 京王線で南大沢という駅へ。

荷物を橋本に置いてきたのは、 帰りは新横浜からの方が近いと考えたため。 ただし、新幹線の切符は東京から。 もったいない。

南大沢の駅前のマクドナルドで朝食を取ったあと、 すぐそばに見える都立大へ。 行くとものすごくでかいキャンパスであることがわかる。 自転車でないととても移動できない。 自然も多く、すばらしい大学である。 いいなあ。ほんとに。

歩きに歩いてようやく国際交流会館に到着。 日記を書こうとしていたら某先生と某ローゼン先生にお会いする。 懇親会のお金などを払って会場入り。 某先生の話では中央大もすぐそばにあるらしい。


昼下がり

午前中の発表はふたたび寝倒してしまった。最低っす。 お昼は生協で食事。ルネみたいな食堂だった。

もう少ししたら質問の時間になる。 今日は勇気を出して質問しよう。 やります、見ていてくださいアリストテレス先生!

ちなみに、報告者と発表内容は以下のとおり。


夕方

とろとろ質疑応答が進行中。眠い。 しかし、質疑応答って、英語になると通訳なんかも必要になり、 ほんとに遅くなって退屈だなあ。なんとかならんのか。

日本功利主義学会では英語で発表すべきだったと悔やまれる。 いや、まあ、日本人の質問者から有益な意見を聞けたし、よかったんだけど。 ま、今度英語にして外国人に聞かせりゃいいんだよな。 日英両方の言語で論文を配るのが理想的か。

あ、そういえば、今日、某スコフィールド氏に、 英仏対訳の『存在論』をいただいた。 感謝感激。


石炭ハヤ積ミハテツ。だっけ。ようやく新幹線に乗った。

シンポジウムでは一つだけ質問。 某先生が社会の捉え方(機械論的社会観、有機体的社会観など) を分配的正義の捉え方と対応させるという興味深い試みを行なっていたのだが、 そのときに、ホッブズを機械論的社会観を持っていた思想家の一例として 述べていたので、ホッブズの社会観はむしろ有機体的なものではないのか、 という質問を英語で。しかし、よく考えてみれば、 ホッブズの有機体に対する捉え方そのものが機械論的なんだから、 機械論的社会観と言うのも正しいですね、と付け加えておいた。

ローゼン氏の、道徳権利論とベンタムの功利主義を近づける試みにも 疑問があったのだが、これはシンポが終わった後に訊いた。 要するに、ベンタムの功利主義が平等を強調しているという論点は 正しいかもしれないが、それだけで権利論と功利主義が 「ほぼ同じことを言っている」ことにはならず、 「ある種の行為が絶対的に不正である」ことをベンタムが認めるのか どうか、という点も大きな問題点になるのではないか、 というような話。だいたいのところは同意を得る。

それから懇親会。いろいろな人にペコペコ頭を下げて名刺を渡してくる。 ペコペコ頭を下げて愛想笑いをするのが結構楽しくなってきた。 おれもいよいよ有徳になってきたな:-) しかし、なかなか名前と顔を覚えられない。 一度会ったら忘れないようにしなければ。

懇親会は顔見知りも多く、けっこうおもしろかったが、 適当に切り上げ、新横浜へ。 京王線で橋本に戻り、 横浜線で新横浜まで。 橋本でみどりの窓口に相談すると、 東京−京都間の切符を新横浜−京都間の切符に交換して、 一部返金してくれた。感謝。 新幹線の時間に間に合わないかと心配したが、 さいわい十分間に合う時間に付いた。

さて、少し寝るか。忙しいが楽しい旅行だったな。 関係者各位に感謝。


関東に行ってやったこと


今日は朝起きて洗濯したり風呂に入ったりする。 昼ごろに少し寝てからバス停まで歩き、 バスで大学へ。研究室にギターを取りにいき、 それからバンドの練習。 今日は久しぶりに4時間もやった。

そのあとみなで某定食屋に行き、夕食。 解散後、研究室へ。眠い。


ずいぶん遅くなったが、日記の整理


今日やったこと


何か一言


09/20/99 (Monday/lundi/Montag)

真夜中

もう20日か。

昨夜は、研究室でメイルの返事を書いたり、 日記の整理をしたり、『はじめの一歩』第26巻を読んだりして過ごす。 某先輩に、 某氏によるトゥーリーの翻訳の手直しをやるように頼まれたので、 引き受ける。今月末も忙しくなるな。

それから某所に行き、焼きそば。 『サラリーマン 金太郎』 第9巻から第10巻まで。

コンビニに寄ってから某所へ。 さっそくトゥーリーのやつをやらないとな。

前回、自転車のカギを替えてもらったのは、 7月下旬だったようだ。いやはや。


こないだの学会で発表した原稿をHTML化しておいた。 これをもとにして『実践哲学研究』の原稿を書くつもり。 ご意見お待ちしております。

なにはともあれ、徳についていろいろ勉強できてよかった。 少し「徳とは何か」について理解できた気がする。 なかなか徳は身につかないが:-)


東京の街を歩いているといつも何かしら憂鬱になるんだけど、 なんでなんだろう。一つ思いあたったのは、 地下鉄とか、駅の構内とか、 長いエスカレータとかがどこか人に疎外感を与える感じがするということ。 最近あまり電車に乗らないから、 とくにそんな風に感じるのかもしれない。 ずーっといると平気になるのかなあ。


夜明け前

ああ、そろそろ夜が明けてしまう。寝なきゃ。


夜明け

あっ、そういえばたった今思いだしたが、 この日記を書き始めてもう4年目になったのだった。 忙しくてすっかり忘れていた。

去年のアンケートの結果もまとめてないから、 とてもアンケートを作る気にはなれないが、 この日記を日頃から読んでくれている人は、 ひとことメイルをくれるとうれしい。


しばらく某ソファで寝る。眠い。

この日記を日頃から読んでくれている人は、 ひとことメイルをくれるとうれしい。


自転車を抱えて自転車屋さんへ。 不幸にも雨がふりだす。カギは2分たらずで付けかえてくれた。 800円。


昼下がり

某教授のヘーゲルの授業に参加。 眠かったが意志の強さによって最後まで起きていた。 復習はまたあとで。

それにしても、「無限性」と「無限者」あるいは 「有限性」と「有限者」を一緒くたにして話すヘーゲルのずさんさにはおどろく。 「ある性質」と「ある性質を持つ者(物)」は別ではないか。 ある性質をあたかも存在するかのように語る誤まりは ベンタムが彼のフィクション論において再三注意しているものである。 スコフィールド氏のオントロジーの本をもらったし、 そのうち詳しく勉強してみよう。

授業が終わり研究室に戻ってくると、 机の上にベンタム全集がドンと乗っけてある。 某洋書屋に頼んでおいたものがついに届いたのだ。

あわてて値段を見ると、20万ちょい。 う〜ん、これで今年の科研費は完全に消費してしまったな。 3ヶ月あまりであっという間に使ってしまった。 ちょっと50万を超えてしまうと思うが、 その分は相談して自分で払わないとな。


某喫茶店でピラフセット。 『地球の歩き方』をマーカーで線を引きながら熱心に読む。

どうでもいいが、 この「地球の歩き方」という名前は非常にセンスが良いと思う。 ななななんというかこの、 「ロンドンの歩き方」とか「東京の歩き方」ならまったく普通だけど、 「地球」と「歩き方」という観念を結びつけてしまう感覚があの、 なんというか、ととととにかく斬新だ。

猛烈に眠いが、いろいろ仕事があるので片付けていかねばならない。 まずヘーゲルの復習をしよう。 日記に長々と書くと一部の人が迷惑がるが、 それはがまんしてもらうとして、どんどん書く。

BCa2-7. Nicht im Aufheben der Endlichkeit ueberhaupt wird die Unendlichkeit ueberhaupt, sondern das Endliche ist nur dies, selbst durch seine Natur dazu zu werden.

有限性一般の止揚において、無限性一般が生じるのではない。 有限者とは、自分がその本性を通じて無限者になるものにほかならない。

某教授はカエル(無限者)とオタマジャクシ(有限者)の例でうまく説明していました。 「オタマジャクシが止揚されることによって、カエルが生じるのではない。 オタマジャクシとは、自らその本性を通じてカエルになるものにほかならない」。 これだとまだ「止揚」という言葉がわかりませんが、 以下で明らかにされるでしょう (たぶん)。

BCa2-8. Die Unendlichkeit ist seine affirmative Bestimmung, das, was es wahrhaft an sich ist.

無限性とは、有限者の肯定的な規定であり、 有限者が真に身につけているものである。

意訳すると、 「カエル性とは、オタマジャクシのもつ積極的な使命(目指すべきところ)であり、 オタマジャクシが真に有しているものである」。 an sichの意味を忘れた。「身につける」でよかったかな。 (注: 普通は「即自的」と訳されます)

BCa2-9. So ist das Endliche im Unendlichen verschwunden, und was ist, ist nur das Unendliche.

だから有限者は無限者の中で消え失せるのであり、 実在するのは、無限者だけなのである。

「オタマジャクシはカエルになると消えるのであり、 そこで存在するのはカエルだけである」。

b. Wechselbestimmung des Endlichen und Unendlichen
有限者と無限者の相互規定

BCb1-1. Das Unendliche ist; in dieser Unmittelbarkeit ist es zugleich die Negation eines Anderen, des Endlichen.

無限者は存在する; 直接的には(文字通りには)、 無限者は同時にまた、有限者という或る別のものの否定である。

「文字通り」と書いたのは、 UnendlicheはEndlicheという他のものを否定した形で述べられるということ。

BCb1-2. So als seiend und zugleich als Nichtsein eines Anderen ist es in die Kategorie des Etwas als eines bestimmten ueberhaupt, naeher -- weil es das in sich reflektierte, vermittels des Aufhebens der Bestimmtheit ueberhaupt resultierende Dasein, hiermit als das von seiner Bestimmtheit unterschiedene Dasein gesetzt ist -- in die Kategorie des Etwas mit einer Grenze zurueckgefallen.

そこで、存在するものとして、 また同時に或る別のものを否定するものとして、 無限者は規定されるもの一般のカテゴリーに、 より詳しく言えば --無限者は自己の内で自らを反映させ、 規定性一般の止揚を通じて生じた存在者であり、 したがって自己の規定性から区別される存在者として措定されるから-- 境界を持った何かというカテゴリーに逆戻りする。

「カエルは存在するものであり、同時に (オタマジャクシ)否定でもあるので、 カエルは規定を受ける種類のものに逆戻りする (無限者はいかなる規定も受けないはず)。 さらに言うと、 --カエルとは、規定一般を止揚することを通じて生じた存在者であることにより、 カエル性を自らのうちに反映した存在者であり、 したがってそのカエル性からは区別される存在者とみなされるから-- 限界(有限さ)を持った何かに逆戻りしてしまう。

BCb1-3. Das Endliche steht nach dieser Bestimmtheit dem Unendlichen als reales Dasein gegenueber; so stehen sie in qualitativer Beziehung als aussereinander bleibende; das unmittelbare Sein des Unendlichen erweckt das Sein seiner Negation, des Endlichen wieder, das zunaechst im Unendlichen verschwunden schien.

有限者は、その規定性に従って、無限者に対し、 実在的な存在者として対峙する。 だから両者は、質的な関係においては、 お互いに外部にとどまるものとして存する。 無限者の直接的な存在は、 その否定である有限者 --はじめは無限者の中で消え失せてしまったように思われた有限者-- の存在をふたたび呼び起こす。

う〜ん、わからん。 「オタマジャクシは、カエルに対し、本当に存在するもの としてある。だから両者は質的な関係においては お互いの外にとどまる (カントのカテゴリー表 有・無・無限を参照)。 カエルの直接的な存在は、その否定、すなわち、 はじめはカエルの中で消え失せるように思われた オタマジャクシの存在をふたたび呼び起こす」。 まだ「直接的」とか「本当に存在するもの」とかがわからんなあ。

BCb2-1. Aber das Unendliche und Endliche sind nicht nur in diesen Kategorien der Beziehung; die beiden Seiten sind weiter bestimmt, als bloss Andere gegeneinander zu sein.

しかし、無限者と有限者は単にこの関係のカテゴリーにあるだけではない。 この両者は、 互いに対する単なる他者以上のものとして規定される。

オタマジャクシとカエルは単なる赤の他人であるわけではないと。 ちなみに、 ここのalsの読みは(寺沢訳のように)bestimmtと結びつけるよりもむしろ、 weiter..., als と考えた方が良いそうだ。たしかにそうだろう。

BCb2-2. Die Endlichkeit ist naemlich die als Schranke gesetzte Schranke, es ist das Dasein mit der Bestimmung gesetzt, in sein Ansichsein ueberzugehen, unendlich zu werden.

すなわち、有限者(有限性)は、制約として規定される制約であり、 それは本質を発現してもつ存在へと移行し、 無限になるという規定を持った現存在として規定される。

この一文は文法的に変。 授業中もいくつかの読み方を示唆されたが、 「有限性」は「有限者」と取り、esを「有限者」と取るのが妥当だと思う。 「オタマジャクシは、カエル性を抑制するものとみなされるオリであり、 それは、カエル性を発現した存在へと移行し、 カエルになるという規定(使命)をそなえた存在者なのである」。

BCb2-3. Die Unendlichkeit ist das Nichts des Endlichen, dessen Ansichsein und Sollen, aber dieses zugleich als in sich reflektiert, das ausgefuehrte Sollen, nur sich auf sich beziehendes, ganz affirmatives Sein.

無限性(無限者)は有限者がまったくないことであり、 有限者にとっての本質を発現してもつ存在であり目指すべき姿 であるが、 これは同時に自分の内で反映したものとしての、完成した当為であり、 ただ自分とのみ関係する、完全に肯定的な存在である。

この文も最初を無限者と考え、diesesを無限者を受ける中性1格と考えた方が いいのではないだろうか。 「カエルはオタマジャクシがいないことであり、 オタマジャクシにとってのカエル性を発現して持つ存在 であり目指すべき姿であるが、 これは同時に、自分の内で(カエル性)を反映したものとしての、 完成した当為であり、ただ自分とのみ関係する、完全に肯定的な存在である」。 つまり、オタマジャクシは潜在的にカエル性を持ってはいるが、 それをまだ実現していない。カエルはカエル性を実現した存在として、 完全なのである。よくわからんが。

BCb2-4. In der Unendlichkeit ist die Befriedigung vorhanden, dass alle Bestimmtheit, Veraenderung, alle Schranke und mit ihr das Sollen selbst verschwunden, als aufgehoben, das Nichts des Endlichen gesetzt ist.

無限性(無限者)においては、充足がある。 すなわち、すべての規定性、変化、すべての制約、 そしてそれと共に当為自身も、止揚されたものとして、消え失せ、 有限者がいないこととして規定されるという充足がある。

ちょっと文法的にわからん。als aufgehobenのあたり。 もっと勉強せねば。 まあしかし、大意としては、カエルは完全な状態にあるということだ。

Als diese Negation des Endlichen ist das Ansichsein bestimmt, welches so als Negation der Negation is sich affirmativ ist.

有限者のこのような否定として、本質を発現して持つ存在は定義されるのであり、 だから否定の否定としてそれ自身は肯定的なものである。

オタマジャクシはカエル性を否定しているから、 そういう否定的なオタマジャクシを否定することにより、 カエルは「否定の否定としての肯定」という意味を持つ、ということらしい。

今日はここまで。疲れた。


ところで、この日記を日頃から読んでくれている人は、 ひとことメイルをくれるとうれしい:-)


今日やったこと


何か一言

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KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Sep 15 14:29:36 JST 2005