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こだまの世界

---倫理学者のふしぎな日記---

99年5月下旬号

フィリッポスは彼の息子のアレクサンドロスが マケドニア人の好意を得るために金を与えようとしたといって、 ある手紙の中で、いみじくも彼を叱責している。 彼は曰く、 「お前が金で買収した人間が、お前の忠実な部下になるだろうなんて希望を、 一体どうして抱くようになったのか。 それとも、お前はお前が彼等の王とならずに、 彼等の賄方か食料調達吏にでもなることを、 マケドニア人に期待させようと運動しているのか。」
(キケロー、『義務について』、角南一郎訳、古典文庫、1974年、 119-20頁)


5月下旬の主な話題


何か一言


05/21/99 (Friday/vendredi/Freitag)

昼下がり

「昨日は学振成金一日目。古本に約5000円使う。 夜、研究室にいると某君が来たので夕ごはんをおごる。 某お好み焼き屋で飲み喰いする。約5000円。

「ついにおごられる側からおごる側に移ってしまった。 しかし、おごる側がウーロン茶をちびちび飲んで、 おごられる側が生ビールをごくごくやるというのは理不尽な気がしないでもない。 こんどからはおごる相手にもむりやりウーロン茶を飲ますか:-)

「某コンビニに寄ったあと、 下宿に戻って勉強。 生命倫理学読書会の予習をする。 ジェームズ・レイチェルズの「倫理学説と生命倫理」という論文。 生命倫理学にとって倫理学説(功利主義、カント主義等)は必要であるが、 倫理学説から生命倫理学へという『原理→応用』という一方通行ではなく、 むしろ生命倫理学の研究が新たな普遍的倫理学説を生み出す一助になる (つまり、倫理学説と生命倫理学は相互作用する) という内容。なんだかどこかで何度も聞いたような話。 新しい展開はないのだろうか。

「夜中にふらりと某24時間営業の本屋に行く。 新書の棚を長時間見るということを久しぶりにした。 財布の具合が違うと見るところも変わってくるもんだ。 しかしけっきょく何も買わず。

「そのあと下宿に戻り、 キケローの『義務について』を読む。 これからは『気前良さ』の徳を身につけなければならない と思ったため。3時ごろ寝る。」


さてさて。

朝9時すぎに起きて布団を干し、スクラーの予習。 お昼前に某所に寄って生活品を購入。やっぱり約5000円。

いったん下宿に戻って買物袋を置いたあと、大学へ。 お昼に某師匠とルネで買物。新しいCDを2枚買ってしまう。 ビジネス英会話のテキストも買う。これもやっぱり約5000円。


生協でサンドウィッチを買って食べたあと、 某先生の授業に出る。 けっこう進んで、自分の番が回ってきそうだったのであせった。 授業中に必死に予習する:-) しかし、結局ちょっと手前で終わったので一安心。


ところで、上のキケローの文章には続きがある。 「とはいうものの、時には金銭の贈与もなすべきであって、 この種の施しは、一概に貶すべきではなく、 我々はしばしば人格的に尊敬すべき貧乏人には、 我々の財布から分けてやるべきだが、 それも慎重に、しかも節度をもってしなければならぬ。 というのは、無分別なほどこしのために、 親譲りの財産を使い果した人も随分あるのだから。 ……。 それからまた、あまりに気前よく与えていると、 泥棒をせねばならなくなる。何故かといえば、 施与の結果、人が貧乏し始めると、 やむをえず、他人の財産に手をつけるようになる。 ……。

「だから、財布の紐は、親切を施そうと思っても、 開けられぬほど固く締めるべきだはないが、 それかといって、 弛めすぎて、誰彼なしに解放[ママ]すべきでもない。 ある限度を守るべきで、その限度は、我々の視力によって決定さるべきである。」 (上掲書、120-1頁)

う〜む。中庸な男、その名はキケロー。


夕方

腹の調子が相変わらず悪い。 気温の変化についていけないのか。

某所でチャンピオンとモーニングを購入。


生命倫理学の読書会に出る。

その後、さっき買ったモーニングを某所で読む。


日記の整理


今日やったこと


何か一言


05/22/99 (Saturday/samedi/Sonnabend)

昼下がり

「昨日は学振成金二日目。 買物をしたりCDを買ったりして1万円以上使ってしまう。 ちょっと反省。節約せねば。 しかし、『金が入って視野が広がる』というのは本当だと思う。 いや、この科白は今の自分の気持ちを格言風に述べたものだから、 それを本当だと思うのはあたりまえなのだが。」


さてさて。

あさ起きる。軽音の部費を払う必要があったので、 お昼過ぎに軽音の部室に行く。 しかし、会計が休みだとかで部費を払うことができなかった。 また来週行く必要あり。

それから某喫茶店でお昼にしようかと思ったが、 例の火事があったとこが工事中でうるさいので、 百万遍のパン屋でパンを買って某所に来る。

今日はスクラーの復習をして、competenceの勉強をせねば。


夕方

ちょっとゲーセンに行ってみる。150円。 某古本屋と古CD屋さんにも行ってみる。見ただけ。


スクラーの勉強中。 曲線とか曲面は容易に想像できるが、 「曲がった空間」というのを最初に想像した人はすごいと思う。 きっと性格も曲がっていたに違いない:-)


スクラーの復習終わり。難しい。 というか、この人は話の進めかたがあまりうまくないと思う。


うう。脱力。

そうそう、BMOR読書会の予習もせねばならないのだった。


今日やったこと


何か一言


05/23/99 (Sunday/dimanche/Sonntag)

昼下がり

昨日ハ特ニ無駄使イセズ。

昨日はあれから下宿に戻ってBMORの予習はしたがcompetencyの勉強はできず。 やばいやばいやばい。

お昼に起きてBMORの予習の続きをし、大学へ。


夕方

BMOR読書会終わり。 カドワースの自由意志論。 なかなか議論が細かい。


夕方、某所で遅い昼ごはんを食べる。 キムチ鍋。『銀と金』1巻から4巻の途中まで。 おもしろい。

それから某所まで足を伸ばし、 靴と下着を買う。

靴はまたコンバースの青だが、 今度は短い方 (これしかなかった)。 今履いてたやつは1年前ぐらいに買ったものだと思う。 それから今日までほぼ毎日履きつづけてきた。 お勤めご苦労さまでした。合掌。

服も少し見たが、買わず。 今年はミリタリーモードというのが流行ってるんだろうか。

それからまた某所へ。勉強勉強。


なかなか勉強すすまず。某教授室に行くと新刊本をいただいた。感謝。

う〜。勉強勉強。


今日やったこと


何か一言


05/24/99 (Monday/lundi/Montag)

真夜中

competencyの勉強中。なかなか進まない。 腹が減ったので夜中に某ラーメン屋へ。 ついでに某古本屋と某コンビニで買物をする。


うわ。全然終わらないけどもう夜明け。いったん下宿に戻ろう。 今日はヘーゲルの授業もあるんだよな。


お昼前

夜明けに下宿に戻り、ゴミを出してシャワーを浴び、寝る。 ヘーゲルの予習をしたかったので10時ごろに起きて大学に来る。 ひさしぶりの雨。眠い。


お昼前

夜明けに下宿に戻り、ゴミを出してシャワーを浴び、寝る。 ヘーゲルの予習をしたかったので10時ごろに起きて大学に来る。 ひさしぶりの雨。眠い。


ヘーゲルの予習。今日はどっからやるんだろう。

Endlichkeit und Unendlichkeit. 有限さと無限さ

Daseynの有限さ

Das Daseyn ist bestimmt;
そこらへんに存在してるものは規定づけられている。

und die Bestimmtheit setzt sich als Negation und Schranke dadurch, dass sie als insichseyende Bestimmtheit zugleich ueber sich hinausgeht, und sich auf sich als auf ihre Nagation bezieht.
そしてこの規定性は次のことを通じて否定と制約としてデンと居座る。 すなわち、それが内的な限界として、しかも同時に自己を超え、 そして自己の否定としての自己と関係を持つことによって。(意味不明)
改訳: そしてこの規定性は次のことを通じて否定と制約として現われる すなわち、それが自己内在的な規定性として、しかも同時に自己を超え出て、 そして自己の否定としての自己と関係を持つことによって。
(よくわからんけど、おれは、おれ以外の人や物の存在によって 初めて「おれ」たりえているということらしい。 んで、「おれ」性っていうのはたしかにおれに内在してるんだけど、 それは非-「おれ」性と接しているので、「自己を超えでて」いることになるらしい)

Das Daseyn ist auf diese Weise nicht nur bestimmt, sondern beschraenkt;
そこらへんに存在しているものはこのように単に規定づけられているだけでなく、 また制約づけられてもいる;

endlich, und es ist nicht nur endlich, sondern es ist die Endlichkeit.
すなわち有限なのである。そしてそれは単に有限であるばかりか、 有限さなのである。(意味不明)
(これは某教授も意味不明だと言っていた。「言葉のあやだ」って)

Insofern wir von den Dingen sagen, sie sind endlich, so wird darunter verstanden, dass sie nicht nur eine Bestimmtheit enthalten, -- denn die Qualitaet kann als Bestimmung oder auch als Realitaet genommen werden, -- sondern dass nicht das Seyn, vielmehr das Nichtseyn als Schranke ihre Natur ausmacht.
われわれが事物について語るなら、事物は有限である。 そこで次のことが理解されるであろう。 すなわち、事物は単に規定性を含むだけではなく、 --事物の本質は、規定[定義?]としても実在としても考えられるから、-- 存在ではなく、むしろ非存在こそが制約として事物の本性を形づくるのである。 (わかったようなわからないような)
改訳: われわれが事物について「事物は有限である」と語るかぎりにおいて、 そのことによって意味されるのは、次のことである。 すなわち、事物は単に規定性を含むだけではなく、 --というのは、 事物の本質は、[かくあるべしという]規定としても実在としても考えられるから、-- 存在ではなく、むしろ非存在こそが制約として事物の本性を形づくるのである。

Das Bestimmte ist aber nur im Sollen endlich;
しかしながら、規定されたものは、当為においてのみ有限である。(意味不明)

das heisst, insofern es ueber sich selbst als ueber seine Negation hinaugeht.
すなわち、 それがちょうど自己の否定を超えるかのように自己自身を超えるかぎりにおいて。 (どこらへんがdas heisstなのか不明)

Das Endliche ist Negation, insofern es sich Negation ist, sich auf sich als auf Nichtseyn bezieht, insofern es also die Schranke eben so sehr aufhebt.
有限者は否定である。それが自分にとって否定であり、 存在しないものとしての自分に関係する限りにおいて、 また、それがまさにその程度、制約を止揚する限りにおいて。(意味不明)

Es ist naemlich die Grenze, insofern sie das Ansichseyn, oder die Bestimmung ausmacht, das heisst, eben so sehr insofern es sich auf sich bezieht, also sich selbst gleich ist.
有限者はすなわち境界(限界)なのである。 境界がAnsichseynまたは規定を形づくる限りにおいて。 すなわち、有限者が自分を自分に関係づけ、また自分が自分自身に等しい というまさにその程度において。(意味不明)

In dieser Beziehung der Negation | auf sich selbst aber besteht das Aufheben der Negation seiner, oder seiner Ungleichheit.
しかしながら、この自分自身とその否定との関係にこそ、 自己の否定あるいはその差異の止揚が存するのである。(意味不明)
改訳: しかしながら、この否定とそれ自身との関係にこそ、 自己の否定あるいはその不等性の止揚が存するのである。

Die Bestimmtheit ist also nur insofern Negation und Endlichkeit, als zugleich darin die Beziehung auf sich selbst, die Gleichheit mit sich, das Aufheben der Schranke vorhanden ist.
規定性はまた、次の限りにおいてのみ否定であり有限性である。 すなわち、そこにおいて自分自身との関係であり、 自分と平等であり、制約の止揚が手元にある限りにおいて。(意味不明)

Das Endliche ist also selbst dieses Aufheben seiner, es ist selbst dis, unendlich zu seyn.
有限者はまた、この自分の止揚ですらある。 それは無限であることでさえある。(意味不明)
改訳: 有限者はまた、それ自身がこの自分の止揚である。 それはまさに無限であることである。
disはdiesなんだそうだ。selbstの意味がうまくつかめん。

Wie sich also der Begriff des Unendlichen ergeben hat, so ist es das Andersseyn des Andersseyns, die Negation der Negation, die Beziehung auf sich, durch Aufheben der Bestimmtheit. --
ちょうど無限者の概念がそれ自身を生み出すのと同様に、 それは規定性の止揚を通した、 他者存在の他者存在であり、否定の否定であり、自己関係である。
改訳: こうして無限者の概念が明らかになったのであるが、 それは規定性の止揚を通した、 他在の他在であり、否定の否定であり、自己関係である。
あれ、大誤訳。

Das Unendliche in diesem seinem einfachen Begriffe kann als die zweyte Definition des Absoluten [angesehen] werden;
この単純な概念における無限者は、絶対者の第二の定義と[みなされ]うる。

er ist tiefer als das Werden;
無限者は生成よりも深い。

aber hier noch mit einer Bestimmtheit behafftet; しかし、それでもなお一つの規定性を背負い込んでいる。

und die Hauptsache ist, den wahrhaften Begriff der Unendlichkeit von der schlechten Unendlichkeit, das Unendliche der Vernunft von dem Unendlichen des Verstandes zu unterscheiden.
そして肝心なことは、 無限性の真の概念を劣悪な無限性から、 すなわち理性の無限者を悟性の無限者から区別することなのである。 (この話は前にもやったな)

Zuerst hat es sich am bestimmten Daseyn gezeigt, dass es in seinem Ansichseyn sich als Endliches bestimmt, und ueber sich als die Schranke hinausgeht.
まず、規定されたそこらにあるものについては、 以下のことが示された。すなわち、 そこらにあるものはその即自存在においては自己を有限なものと規定し、 そして制約としての自己を超え出ていくのである。

Es ist also uberhaupt die Natur des Endlichen selbst, ueber sich hinauszugehen, die Negation zu negieren und unendlich zu werden.
そこで次のことは一般に有限者自身の本性である。 すなわち、自己を超え出ること、否定を否定すること、 そして無限となること。
あ。alsoは「また」じゃなくて「したがって」か。しまった。 しかし論理的関係かどうかよくわからんもんなあ:-)

Das Unendliche steht also nicht als ein fuer sich fertiges ueber dem Endlichen, so dass das Endliche ausser oder unter jenem sein Bleiben haette und behielte.
したがって無限者は、 まるで有限者が無限者の外か下かに存在しそこに留まるといったように、 有限者の上に立ってそれ自体で完成したものではない。
(接続法二式が使われてるんだそうだ)

Noch gehen wir nur als eine subjective Vernunft ueber das Endliche ins Unendliche hinaus.
また、われわれはたんに一つの主観的な理性として、有限者を超えて 無限者の内へと入っていくというわけでもない。

Wie wenn man sagt, dass das Unendliche der Vernunftbegriff sey, und wir uns durch die Vernunft ueber das Zeitliche und Endliche erheben, so geschiet dis ganz unbeshaedet der Endlichkeit, welche jene ihm aeusserlich bleibende Erhebung nichts angeht.
「理性概念の無限者が存在する」とか 「われわれは理性を通じて時間性と有限性を超越するのだ」 とか言われるが、これは有限性とは無関係になされ、 そのようなものは有限者にとって外的なままである「超越」とは無関係である。 (意味不明)

Insofern aber das Endliche selbst in die Unendlichkeit erhoben wird, so ist es eben so wenig eine fremde Gewalt, welche ihm dis anthut, sondern es ist dis seine Natur, sich auf sich als Schranke zu beziehen, und somit ueber dieselbe hinauszugehen.
しかしながら、有限者自身が無限性へと高められる限り、 これをなすのは外的な力ではなく、 むしろこれは有限者の本性なのであり、 それは自己を制約としての自己と関係づけ、 それにより自己自身を超えていくような本性なのである。
(わかったようなわからないような)

Denn wie sich gezeigt hat, ist die Schranke nur, insofern ueber sie hinausgegangen wird.
というのは、すでに示されたことであるが、 制約とは、それが超え出られるかぎりにおいてのみ、存在するものだからである。
(つまり、制約とは乗り超えられるためにあるということ。ほんまか?)

Also nicht im Aufheben der Endlichkeit ueberhaupt, besteht die Unendlichkeit ueberhaupt, sondern das Endliche ist nur dis, selbst durch seine Natur dazu zu werden. Die Unendlichkeit ist seine Bestimmung, oder das was es an sich ist.
したがって、有限性一般の止揚に無限性一般が存するのではなく、 むしろ有限者とはそれ自体が自己の本性を通じて無限者へと成る ということでしかない。 無限性は有限者の[目指すべき]規定であり、 すなわち、有限的なものが本性的にそうあるところのものなのである。
(歩が金になるようなものか。しかし金になるのは歩の本性か?)

ふう、終わった:-)


昼下がり

ヘーゲルの授業に出たあと、 中央食堂で食事。 某ルートからハクスリーの『すばらしい新世界』 が手に入ったので(といっても借りただけ)、 全部コピーしてしまう。 文庫をコピーするのは今回が初めてかもしれない。

ちょっとヘーゲルの復習。上の予習に手を加えることにしよう。 それが終わったらcompetenceの勉強をせねば。


今日やったこと


何か一言


05/25/99 (Tuesday/mardi/Dienstag)

真夜中

某所でキムチ鍋。『銀と金』第4-6巻。おもしろい。

大学に戻ってくる前に某所に寄ってジャンプを買ってくる。

さ、勉強勉強。


う〜む。がんばって勉強してるがまだまだ。 レジメができるのは発表当日になりそうだ。 あくまで「できたら」の話だが。


昼下がり

明け方、某コンビニで買物をしてから下宿に戻り、 シャワーを浴びて寝る。

お昼前に起きて、J・ロックの勉強を少ししてから入浴、 大学へ。

文学部事務に顔を出す。 科研費の書類で、 外国旅行費が申請してあるのに空港までの国内旅費が申請されてないのは まずいんだそうだ。なるほど。

それから医学部図書館へ。 今回初めて行ったが、感じのいいとこだった。 書庫にも自由に入らせてくれる。 某南部生協でコピーを済ませ、戻ってくる。

ああ。やばい。発表の準備が…。


夕方

演習発表に出る。ロックの知識論と道徳論。

腹へった。


中央食堂で食事する。それからさらにcompetenceの勉強。


今日やったこと


何か一言


05/26/99 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

やばいっ。


昼下がり

ふう。発表終わり。

朝9時すぎに大学に行き、 3コマ目直前まで必死にレジメ書き。 コピーに時間がかかって少し遅れてから発表。

論文にするにはまだまだ研究が足りないけど、 一応それなりの発表はできたんじゃないかと思う(注)。

(注: 自我の崩壊を防ぐために自己評価の基準は甘めに設定しております)

あとで某教授室に行くと、 理論的なつめが足りないので、 最新の研究を集めて議論を分析しろ、 とのこと。了解しました。

腹減った。


今日やったこと


何か一言


05/27/99 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

昨夜は大雨。そろそろ雨漏りが心配っす。

昨日の昼に学振と科研費の説明会が開かれたはずなのだが、 発表で忙しくて完全に忘れていた。 とりあえず事務の人にへこへこ謝っておいた。


お昼過ぎ

BMOR読書会の予習中。

そういえばフルブライトの応募書類も書かないといけないんだったな。 う〜、めんどう。


昼下がりに中央食堂でツナ冷麺その他を食べたあと、 BMOR読書会。カドワースの自由意志論の続き。 心的能力を実体化して考える当時の心理学説の批判。

それから中央購買部でちょっと買物。

一時間半ほど倫理学入門読書会の予習をしてから読書会。 「環境倫理学(その3)」。

《何を基準にして道徳的に重要な事物を決めるか》 (たとえば 「利害関心を持つものは道徳的に重要視されるべきだ」とか、 「有機体的組織を有するものは道徳的に重要視されるべきだ」とか、 「美しいものは道徳的に重要視されるべきだ」とか) という議論であったが、 「なぜ利害関心を持つものは道徳的に重要視されるべきなのか」 「なぜ美しいものは道徳的に重要視されるべきなのか」 というさらなる問いを検討することがなかったので、 いまひとつ掘り下げが足りない感じがする。

読書会は来週はお休みらしい。

読書会の後、何人かで某所に食事に行く。 某君の最近の動向などを詳しく聞く。 ごはん代だけおごる。

さて、今夜はスクラーの予習をしないと。勉強勉強。


う〜。しかし今日は疲れたなあ。 読書会しかしてないんだけど。 ま、きちんと予習する読書会が一日に二個もあると、 丸一日がつぶれちゃうわけだな。


今日やったこと


何か一言


05/28/99 (Friday/vendredi/Freitag)

昼下がり

昨夜は、某古本屋と某コンビニに寄ってから下宿へ。 某古本屋には新書が大量に入荷されていたが、 某君が先に来て買占めて行ったので、 目ぼしいものはあまり残っていなかった。 モーニングも買う。

下宿に戻ったらシャワーを浴びてすぐ寝る。疲れてたので。

朝9時すぎに起きてスクラーの予習。 風呂に入ったり洗濯したりしていると あっという間にお昼になってしまう。

時間ぎりぎりに下宿を出る。 郵便箱を見るとTOEFLから封筒が来ている。 4月に受けたテストの結果だろうと思って 急いで部屋に戻ってハサミで開封してみると、 次のような結果になっていた。

SECTION 1 -- 65
SECTION 2 -- 68
SECTION 3 -- 65
TOTAL SCORE -- 660

「うおっ、偏差値66! すげえっ。 お、おれは超能力者だったのか」 と自分で思ってしまった。 (ちなみに、TOEFLは偏差値方式なので最低点は200点、 最高点は677点となっているそうだ)

ちょっと気分が良くなりつつ、急いで大学へ。 大学に入るときに他の自転車とちょっと接触してしまう。 ごめんなさい、急いでいたのです。

息を切らしながらスクラーの授業に出席。 いろいろ誤りを指摘されつつも、 なんとか担当の部分を終える。 つかれた。

授業の後、某君と中央食堂で食事。 某君が近々開催されるマイケル・トゥーリーの講演のポスターを作ったので、 食事のあと、某君は医学部に、ぼくは法経館にポスターを貼りに行く。

(トゥーリーの講演は来週の土曜日3時から京大会館であります。 クローン関係の話っす)


夕方、某師匠と一緒にタクシーに乗り、京産へ。 エリック・レイモンドという人の講演を聴く。 ちょっと寝てしまったがなかなかおもしろい話だった。 通訳がひどかったのが残念。 筑波大の某氏と同席する。

帰りは某氏と某師匠と3人で叡山電車を使ってもどる。 元田中で降りて某所でお好み焼き。

今日も疲れたっす。


今日やったこと


何か一言


05/29/99 (Saturday/samedi/Sonnabend)

昼下がり

昨夜も、某古本屋で買物。

朝起きてお昼前に大学に来る。

横浜市大の某氏と某フランス料理屋でお昼を食べる。 某氏は京大で今週末に開かれている政治思想史学会に来たんだそうだ。 いくつか情報をいただく。某氏は情報通である。 (というか、おれが情報獲得を怠りすぎてるんだよな)

それから軽音の部費を払う。四人分12000円立て替える。 新入生用の説明会が開かれていたのでずいぶん待たされる。


やっとBMORの予習終わり。大変っす。 週末にスクラーの復習とBMORの復習をすること。 フルブライトの申請書類も書くこと。(死ぬ)


夕方

BMOR読書会終わり。 カドワースの自由意志論が終わったので、 次回からロック。


某所で一時間ちょっと眠る。復調。

しかし今週も忙しいなあ。きっと来週も忙しいのだろう。 (ここで軽率な帰納法を使えば、 死ぬまで忙しいということになるかもしれない。 しかし、その帰納はあながち間違っていないのかも…)


今日やったこと


何か一言


05/30/99 (Sunday/dimanche/Sonntag)

お昼前

昨夜は某寿司屋で寿司を食う。 しかし、やはりまだ身分不相応。 定食屋の方が居心地いいっす。

下宿に戻る途中、 途中某古本屋による。 ここも文庫と新書が50円セール(正確には2冊で105円セール)をしていた。

下宿に戻ってビジネス英語を2日分聴く。

それからシャワーを浴びてハクスリーの『すばらしい新世界』を読み始める。 たしかにおもしろい。ユーモアのセンスもすごい。 とくに、イエス(Lord)の代わりに自動車王フォード(Ford)が神になり、 それにともなって十字架の上を切り落してT字型にする、 という発想は強烈。既知外だ。

朝起きる。シリアルを食べて大学に。

昨日気づいたが、明日がフルブライトの〆切だった。 やばい。出すなら今日中に書かねば。


夕方

昼下がりに某所で昼寝する。爆睡。ちょっと元気になる。

それから今までBMOR読書会の復習。うう。フルブライト…。


ギターのやつが練習より早目に京都に来たので、 一緒に古本屋を見てまわり、某所で餃子定食を食べる。

それからバンドの練習。ストレスを少し発散させたような気がする。

フルブライトの書類書きを始める。う。TOEFLを受験したときにスコア・レ ポートの送付先の一つをフルブライトにすべきだったのか。まったく忘れてい た。いやはや。


あれ、たしかおれは思想文化学専修倫理学専攻だったが、 今では「思想文化学」とは言わずに「哲学基礎文化学系」というのか? こういうの英語で訳すのがめんどうなんでなんとかならないのかな。

上のやつだけど、「思想文化学」を訳せないし、 「専修」と「専攻」をどう訳しわけるかもわからないので、 にEthicsとだけしておいた。まずいかな。

あ、東大は学科を`Division'、 専攻を`Program'、専修を`Course'、 そして「思想文化学科」を`Division of General Culture'にしてるようだ。 よしよし、これに合わせておこう。

あ、いや、倫理学専攻は`Dept. of Ethics'にすべきなのかな? ややこしいな。

ん? 在学先のe-mailってどこにしたらいいんだろう。 ethics@ethics.bun.kyoto-u.ac.jpにすると、おれのとこに来るんだけど:-)


ん〜。おれは何の学位を取ったんだろう。Ethics? Philosophy?


真夜中

フルブライトの書類作成中。

研究テーマは「J・ベンタム研究を基礎にした現代権利論の再検討、 およびその研究成果を現代の倫理的諸問題に適用する試み」(50字)。 ううむ。あれだな。あれ。ええと、なんていうんだっけ。そう。月並。 (今ふと思いついて「検討」→「再検討」にしてみた)

英訳は`A close reexamination of modern right theories based on the study of Jeremy Bentham, and the application of its results to contemporary ethical problems' (25語)。 え〜と。誤訳してないだろうなあ。ちょっと心配。

まだ英文(250-300語)での研究テーマの説明その他が残っている。ぐえ。


今日やったこと


何か一言


05/31/99 (Monday/lundi/Montag)

お昼前

真夜中、某所に行ってキムチ鍋定食。 『一二の三四郎2』第3-4巻、『銀と金』第7-9巻読む。

それから下宿に戻って少し寝る。寝不足気味。

朝、某喫茶店に行き、モーニング。 ううむ。『理科系の作文技術』も名著だな。

やばい。フルブライト。


お昼過ぎ

う。ちょっと間に合いそうにないんだけど。やばい。授業が。授業が。


夕方

一応5時までに出せてしまう。

お昼は中央食堂で売っている弁当で済ます。 3コマ目のヘーゲルの授業に出たあと、 フルブライトの書類を仕上げる。 英語で作文するのは大変だ。

高野の郵便局なら7時まで郵便物を受け付けてくれることが (ある方のおかげで)わかったので、 それほど急ぐ必要はなかったのだが、 結局5時前に近くの郵便局で郵送することになる。

あとでTOEFLのスコアレポートの手続きをする必要あり。

某君に『H・A・サイモン研究』(高巌、文眞堂、1995年) のコピーを一部いただく。感謝。今夜読まねば。


ヘーゲルの復習。

2. Wechselbestimmung des Endlichen und Unendlichen
2. 有限者と無限者の相互規定

2-1-1. Die Unendlichkeit ist die Bestimmung des Endlichen, aber diese Bestimmung ist das Bestimmte selbst.
無限者であるイデアは、有限者である個物の規定(本質-あるべき姿)である。 しかし、この規定(本質-あるべき姿)は、規定されたもの自身(現にある姿)でもある。

大意: ヘーゲルの無限者と有限者の話はこのように イデア論として読むのが 正しいんだそうだ。びっくり。そうだったのか。

2-1-2. Die Unendlichkeit ist also selbst bestimmt, Beziehung auf Anderes.
したがって無限者自身も規定されており、他者との関係である。

2-1-3. Das Andere aber, auf welches sich das Unendliche bezieht, ist das Endliche.
しかし、無限者が関係するこの他者とは、有限者なのである。

大意: イデアは個物との関係において規定されてるんだそうだ。 まあ、そういえなくもない気がする。 (しかしbestimmenって正確にはどういう意味なんだ?)

2-1-4. Sie sind aber nicht nur andere ueberhaupt gegeneinander, sondern sind beyde Negationen, aber das eine ist die an-sich-seyende Negation, das andere die Negation, als nichtansichseyend, die Negation als Nichtseyn, als aufgehobenes.
しかしそれらは単に相互に他者一般であるだけではなく、二つの否定でもある。 しかし一方は即自存在的な否定であり、他方は非-即自存在的な否定 非-存在としての、止揚された否定である。

大意: 「即自的」の意味がだんだんわかってきたが、 まだ説明できない。 上の「一方」は「個物」、「他方」は「イデア」と理解できる。

2-2-1. Nach dieser seiner Bestimmtheit gegen das Unendliche, ist das Endliche die Negation als die Bestimmtheit am Daseyn;
この無限者に対する規定性にしたがって、 有限者は現存在の規定性としての否定である。

es ist nicht die Negation der Negation; sondern die erste Negation, oder die welche das Seyn zwar in sich aufgehoben hat, aber es in sich aufbewahrt, nur die unmittelbare Negation.
有限者は否定の否定じゃない。それは最初の否定だ。 すなわち、たしかに存在を自身のうちで止揚しているが、 しかし存在を自身のうちに保存してしまってるので、 単なる直接的な否定でしかない。

大意: 意味不明。

2-2-2. Das Endliche steht daher als das reale Daseyn dem Unendlichen als seiner Negation gegenueber.
したがって、有限者は実在的な現存在として、 その否定である無限者と向かいあっている。

大意: そうらしい。

2-2-3. Beyde stehen nur in Beziehung aufeinander; das Endliche ist noch nicht wahrhaft aufgehoben, sondern bleibt demselben gegenueber stehen;
両者はお互いとの関係の中にのみ存在する。 有限者はまだ本当には止揚されておらず、 無限者と向かいあっている。

unmittelbar hat das Unendliche gleicherweise das Endliche nicht wahrhaft in sich aufgehoben, sondern hat es ausser sich.
同様に無限者も有限者を本当には自己のうちに止揚しておらず、 有限者は自己の外にある。 (ここでのunmittelbarはどう訳すのかな)

大意: 有限なものが無限なものの外側にある、という話。悪無限というやつですな。

2-3-1. So das Unendliche gesetzt, ist es das Schlecht-Unendliche, oder das Unendliche des Verstandes.
無限者がこのように考えられるならば、無限者は悪無限であり、 すなわち悟性の無限者である。

大意: これがアリストテレスのイデア論批判と結びつくそうだ。 う〜む。普通わからんよなあ、これだけじゃ。

2-3-2. Es ist nicht die Negation der Negation, sondern ist zur einfachen ersten Negation herabgesetzt.
この無限者は否定の否定ではなく、単なる最初の否定になりさがってしまっている。

大意: そうらしい。

2-3-3. Es ist das Nichts des Endlichen, welches das Reale ist, es ist das Leere, bestimmungslose Jenseits des Daseyns.
この無限者は、実在である有限者の否定[無]であり、 (それゆえ)空虚なもの[実在しないもの]であり、 現存在の規定のない彼岸である。

大意: 無限者が単なる有限者の否定になってしまうと、 のっぺらぼうになってしまうらしい。

2-3-4. Es ist auf diese Weise wohl die Bestimmung des Endlichen, unendlich zu werden, aber es hat diese seine Bestimmung nicht an ihm selbst;
たしかにこの無限者は、このような仕方で、 「無限になれ」という有限者に対する規定[あるべき姿]となるが、 しかしこの無限者はこの規定[あるべき姿]を自分の手に持っていない。

sein Ansichseyn ist nicht in seinem Daseyn, sondern ein Jenseits seiner.
無限者の即自的存在はその現存在のうちにはなく、現存在の彼岸にあることになる。

大意: 無限者[イデア]と有限者[個物]が乖離していると。 ちなみに、an ihmは「自分の側に、自分の手に、自分に接して」 という意味なんだそうな。

2-4-1. Dis Unendliche ist dieselbe leere Abstraction, die als Nichts im Anfange dem Seyn gegenueber stand.
このような無限者は、 はじめに無として存在[有]と対立していたものと同じ空虚な抽象[概念]でしかない。

大意: そうらしい。

2-4-2. Dort war es das unmittelbare Nichts; hier ist es das Nichts, das aus dem Daseyn zuruckkommt und hervorgeht, und als nur unmittelbare Negation in Beziehung auf dasselbe steht.
そこではその空虚な抽象[概念]は直接的な無でしかなかった。 ここではそれは現存在から戻ってきて現われ出た無であり、 直接的な否定としてのみ現存在と関係する無である。

大意: これはだめなイデアだ、と。

Weil ihm das Endliche so als Daseyn gegenueber bleibt, so hat es seine Grenze an diesem, und ist somit nur ein bestimmtes, selbst endliches Unendliches.
無限者に対して有限者がこのように現存在として対立したままであるので、 無限者はその限界を有限者の側に持ち、 そしてそれゆえに無限者は単に規定されたもの、 それ自身有限な無限者でしかないのである。

大意: 「無限者はその限界を有限者の側に持ち」がよくわからん。 esは「有限者」と取る解釈も可能かもしれないとのこと。

う〜ん、ヘーゲルは相変わらず意味不明だなあ。


今日やったこと


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KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sat Jun 12 00:13:37 JST 1999