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こだまの世界

---倫理学者のふしぎな日記---

99年6月上旬号

ムスタファ・モンド 「今では社会は安定している。人々は幸福だ。欲しいものは手に入るし、 手に入らないものはみんな欲しがらない」
(ハックスリー、『すばらしい新世界』、松村達雄訳、講談社文庫、1974年、 255頁)


6月上旬の主な話題


何か一言


06/01/99 (Tuesday/mardi/Dienstag)

お昼前

事務で科研費カードをもらう。やったあ。

昨夜は某古本屋で古本とジャンプを買う。


夕方

お昼、某喫茶店でミックスサンド。プレイボーイ。 銀行に行って家賃を振り込む。

お昼から、 情報倫理の授業と演習発表(某氏のH・A・サイモン)に出る。

その後、合宿(7月15日16日)の相談をしたり、留学の話をしたり、 『バイオエシックスの基礎』のトゥーリーのとこをコピーしたり。


今日やったこと


何か一言


06/02/99 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

お昼

昨日、伝染性の鬱に感染する。

夕方、某所で買物。店内で某S嬢に偶然出会う。 少し話す。某医短生なんだそうだ。将来は看護婦だそうだ。

下宿に戻り一時間ほど寝る。 某伝染病がほぼ治癒する。

夜中から料理を始める。また野菜炒め。 古くなった納豆を食う。 ごはんを一合半食べて苦しくなる。

それから『すばらしい新世界』を読了する。 『1984』同様、救われない話だ。

朝起きていろいろ。 お昼に大学に来る。 時間がないので中央食堂でツナサンドを買って食べる。


昼下がり

応用倫理学の授業に出る。某君の「情報倫理学入門」。


夕方

BMOR読書会。今回からロック生得観念説批判。


夕方、科研費のカードを手に握りしめて、某ルネへ。 至福のひとときを過ごす。

しめて3万円弱。一度にこれだけ本を買ったのはおそらく初めて。 いや、もちろん、本を買うだけじゃなくてしっかり読んで勉強します。 やります。やるっす。

それから某喫茶店でピラフセット。サンデー。マガジン。


日記の整理。

こちらは、 某先輩のサイトへのリンクっす。

さらに、 トゥーリー講演会のお知らせ。 ちなみにこれは某O君が作成したものです。御苦労さまっす。


今日やったこと


何か一言


06/03/99 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

真夜中

スクラーの復習中。 途中で腹が減ったので某所に行き、キムチ鍋。 『銀と金』第10巻から第11巻まで。

某古本屋と某コンビニに寄ってから戻ってくる。


イギリスでフレディ・マーキュリーの切手が発売されるんだそうな。

なんかすごく湿度が高い。う〜。勉強勉強。


スクラーの復習終わり。だいぶ手抜き。むずかしいっす。


前回の授業では 「デカルト積」という言葉と 「同値とは、推移律、反射律、対称律を満たすことである」 ということを学んだ。ううむ。勉強勉強勉強。


夕方

雨。明け方から昼下がりまで爆睡する。

起きてから某教授のクローン関係の論文を読んだり。


ルネでCDを一枚購入。

The Black Crowes, By Your Side, SME Records, 1999.


トゥーリーの勉強中。


今日やったこと


何か一言


06/04/99 (Friday/vendredi/Freitag)

昨日は夜に某古本屋に行って古本とチャンピオンとモーニングを買う。

夜中トゥーリーの勉強をする。 人格ってやたらとイカガワシイ。

朝7時に起きるはずが9時に目覚めたので急いで大学に来る。 科哲とトゥーリーの勉強をせねば。


お昼

文閲の自習室(というか、あそこを閲覧室と呼ぶんだろうけど)で1時間半くらい勉強。 なかなか快適な空間であることがわかったので、しばらく通いつめるかもしれない。

ただし、 (1) 二人でぼそぼそ喋ってるやつとか、 (2) 司書の人に大きな声で質問してるやつとか、 (3) 1分おきに咳払いするやつとか、 (4) カカカカッと鋭い音を立てながら激しく筆記するやつとかがいるので、 耳センが必要。さっそく購入した。(注: 半分冗談です)

また、お昼前にもなるとかなり人が溢れてくるのもあれだ。 ま、こっちの方は机に向かって勉強してるかぎりあまり気にならないが。


昼下がり

スクラーの授業。疲れる。


夕方

再び文閲に潜って自習。 これからトゥーリー対策(迎撃)勉強会。


トゥーリー勉強会終わり。疲れた。発表者の方、お疲れさまでした。

トゥーリーは、 「胎児も新生児も人格じゃないから殺してよし」 と主張する過激派として知られているが、 クローンについても、 「技術的な問題がある程度克服できれば、 臓器バンクとしてのクローンも、 人間としてのクローンも道徳的に正当化される」 と結論している。

彼の議論の特徴は、 人々の直観をうまく利用して話を構成している点だ。 たとえば、 「クローン人間を作ることが道徳的に許されないのは、 同一の遺伝子を持つ人間が二人存在することは その人々の個性を蹂躙することになるからだ」 という議論に対して、 「ほう、それではあなた、 一卵性双生児は同一の遺伝子を持つわけですが、 すべての一卵性双生児はお互いの個性を蹂躙しあっているというんですか」 という風に切り返す(ま、この議論は某教授をはじめ色々な人がやってるけど)。

こうすると、問題の直観がみなに共有されているかぎりは、 根本的な道徳原理から話を説きおこす必要がなくなり、 異なる道徳原理を持つ人々の間でも議論をすることが可能になる。 ただし、この種の議論では、 (1) 直観がみなに共有されており、 (2) 比喩ないし類推が妥当である 必要がある。 上の例でいけば、 「一卵性双生児とクローン人間には何か重要な違いがあり、 両者を同列に論じることはできない」 と反論する人もいるかもしれない。

トゥーリーの場合は(2)にかなり問題があるようだ。 よく考えてみるとけっこう無理な類推もある気がする。 しかし話がうまいので、 ついつい納得させられそうになる。 明日は何か質問できるといいが。

読書会のあと、数人の方々と某所で1時間くらい飲み喰いする。 ごちそうさまでした。次回はぼくがおごります(たぶん)。


今日やったこと


何か一言


06/05/99 (Saturday/samedi/Sonnabend)

昨夜は古本屋めぐりをしながら下宿に戻る。 某古本屋で2冊古本購入。

久しぶりに好きな本を読む時間があったので、 『教養としての言語学』と『法と比喩』を少し読む。 鈴木孝夫という人は文章が達者だ。 言ってることが容易に理解できる(気がする)。

1時30分ごろに寝る。 それからはっと起きて目覚し時計を見ると、なんと1時30分。 うげっ。そんなばかな。もう午後か? さっき寝たばかりの気がするぞ、 しかしそれならもう下宿を出て学校に行かねば。うげ。

と思ってラジカセの時計を見るとまだ朝6時。 PHSの時間表示を見ても朝6時。 どうも目覚し時計はすでにお亡くなりになっていたらしい。 ほっと一息ついてまた眠りだす。 結局起きたのは11時すぎ。

今週のビジネス英語によれば、 人間の理想的な睡眠時間は8時間から9時間ぐらいらしい。 ほっておくと10時間ちょっと寝るとか。 しかし一方では3時間睡眠で大丈夫などと書いてある本もある。 どれが本当なんだろうか。

また、日本の大学にもシエスタ(ラテンアメリカで広く行なわれてる昼寝の習慣) の制度がぜひぜひ導入されるべきだと思う。 日本の大学が無理なら京都大学だけでもよい。 もっといえば文学部だけでもよい。 3コマ目は2時半から始まるべきだ。

話が脱線したが、トゥーリーをさらに勉強したあと、 入浴してから大学へ。


昼下がりから京大会館でトゥーリーの講演会。

講演開始前は受付の仕事を手伝う。

トゥーリーの話は、英語が聴きとりにくいのでかなりリスニングの勉強になった:-) 質問も一応用意していたのだが、質問したい人がたくさんいたし、 トゥーリー氏の答が聴きとれるかどうかわからなかったし、 めんどうだし恥ずかしくもあったので、 結局何も質問しないままに終わってしまった。

懇親会の前に某先輩がトゥーリー氏に 今回の講演論文の翻訳の件を話されていた。

懇親会ではたくさん食べ、 某師匠が某先生やトゥーリー氏に議論をふっかけるのを聴いたりしていた。 トゥーリー氏が直観をよく取りざたするのは、 方法論として反省的均衡 を用いてるからだそうだ。

人数は少なかったが、なかなか楽しい講演会だった。

夜8時前に軽音のコマ取りがあったので いったん会場から抜けて大学に。

軽音で無事コマ取りをしたあと、 もう一度会場に戻ると、 某師匠たちが二次会に行くところだったので、 一緒に某スパゲティ屋へ。 しばし某先輩の婚約について意見がやりとりされた後、 某師匠を中心にクローン談議。 某師匠は「クローンは禁止されるべきかいなか」 という問題よりも「なぜクローンをしたいと思うのか」 とか「なぜクローンに対しておれらはいやあああな思いをするのか」 という問題に興味があるようだ。

疲れていたので、途中で退散。 きっとまだ延々と話し合われてるんだろう。


今日やったこと


何か一言


06/06/99 (Sunday/dimanche/Sonntag)

夕方

昨晩はちょっと『正義論』を読んだあと、 昼下がりまで寝る。

ギターのピックがなかったので、荒神口の某中古楽器屋に行く。 ついでにデジタルメトロノームも買う。

それから北上して河原町今出川へ。 某古本屋で本を買い、 その隣のレコード屋の店頭にあった古CDを購入。

メトロノーム用に単四電池が必要だったので、 最近出町にできた某日曜大工屋に行って買う。


昨日のトゥーリーの講演に関する某教授のコメント


今日やったこと


何か一言


06/07/99 (Monday/lundi/Montag)

お昼

昨日は夕方から2時間バンドの練習をしたあと、 某所に寄って買物をし、下宿へ。 下宿に戻ってすぐに雨が降り出した。

それからニラ玉炒めなんかを作って食べ、 二度シャワーを浴びたあと就寝。

しかし眠れなかったので、 しばらく本を読む。

『教養としての言語学』を読んであいさつの意義を知る。 これからはきちんとあいさつしよう。 おせじ言うのもうまくなろう:-)

結局3時すぎに寝る。

10時すぎに起きて入浴、大学へ。

さ、ヘーゲルの予習をせねば。


夕方

お昼過ぎ、予習不十分なままヘーゲルの授業に出席。

それから某ルネで買物。

雨も上がっていたので、 さらに足を伸ばして烏丸北大路の某洋書屋へ。 科研費で数冊本を購入。 科研費による書籍購入の手続きを詳しく知らなかったので恥ずかしい思いをする。 数日後に研究室に持ってきてくれるらしい。

大学に戻る途中、某喫茶店でミックスサンドのセットを食べる。 これからヘーゲルの復習をする予定。


ヘーゲルの復習終わり。 あまりにわからなさすぎて呆然とする。 ちょっとウェブに載せるのは恥ずかしいが、 まあ、こういう恥ずかしい姿も記録として残しておこう。

2-5-1. So ercheint der Vorstellung das Endliche als das Wirkliche, und das Unendliche dagegen als das Unwirkliche, das in trueber, unerreichbarer Ferne das Ansich des Endlichen, aber zugleich nur seine Grenze sey; denn beyde sind ausser und jenseits von einander.
このように、有限者[個物]は現実的なものとして表象され、 それに対して無限者[イデア、本質]は非現実的なものとして --それは、不透明で到達不可能な彼方における有限者の即自であるが、 同時にその境界でしかないものである--表象される; というのも、両者は互いの外側にあり、互いの彼方にあるからである。

大意: よくわからないが、とりあえず悪無限であると。

2-6-1. Sie sind ausser einander, aber ihrer Natur nach schlechthin aufeinander bezogen; jedes ist die Grenze des andern, und besteht nur darin diese Grenze zu haben.
無限者[イデア]と有限者[個物]は互いの外側にあるが、 しかしそれらはその本性に従って端的に互いと関連しているのである; それぞれは他方の境界であり、 そしてそれらの本質は、この境界を持つということにもっぱら存している。

大意: よくわからないが、 有限者と無限者の本質はそれぞれが隣合ってるところにある、と。

某教授によれば、und besteht nur darin diese Grenze zu haben のdarinは前の「それぞれは他方の境界である」の部分を受けていて、 文意は「そしてただその限界に存立するのはこの限界を持つためである。 限界に存在することにおいて、他者を限界としてもつ。 自他が限界があり、かつ限界をもつ。」ということらしい。よくわからん。

2-6-2. In ihrer Absonderung hat daher jedes zugleich diss sein Anderes an ihm selbst, aber als das Nichtseyn seiner | selbst, es eben so unmittelbar von sich abstossend.
そこで、無限者[イデア]と有限者[個物]が分離されている状態において、 両者は同時にお互い接し合っているのであり、 とはいえそれは自己の否定存在として接し合っているのであり、 同時に互いに自分から突き離しているのである。

大意: esはsein Anderesかな? 否定存在とは、無限者にとっては 有限者は《無限ではないもの》という存在であること(そして逆もまたしかり) を指してるんだと思う。 某教授の注釈は「他者を肌身離さず持っているが、 その他者は自己の非存在である。だから持つと同時に突き離してもいる」。

2-6-3. Ihre Einheit ist somit nicht die an ihnen gesetzte Beziehung; diese ist vielmehr ihre Beziehung als schlechthin Anderer, der Endlichkeit als der Realitaet, der Unendlichkeit als der Negation.--
だから両者を統一する性質は《接し合って存立する関係》ではない。 それはむしろ完全な他者としての関係であり、 現実としての有限者[個物]と(現実の)否定としての無限者[イデア]という関係である。

大意: よくわからんが、とにかくこれではだめらしい。

2-6-4. Ihre Begriffseinheit ist die Bestimmung, in der das Sollen und die Schranke als dasselbe war, und aus der die Endlichkeit und Unendlichkeit entsprungen sind.
両者を概念的に統一する性質は規定であり、 この規定においては当為と制約は同一であり、 この規定から有限性と無限性が生じてくる。

大意: 個物としてのリンゴもイデアとしてのリンゴも「リンゴの本質=リンゴ性」 を持つということじゃないのかな。 某教授の注では、「両者を貫く、概念統一は規定使命である。 そこでは当為と制約が一つになっている。 この使命から有限性と無限性は発生して出てくる」。 某教授はBestimmungを「使命としての規定」 あるいは規範性を持った規定と考えるべきだとよく述べている。

2-6-5. Aber diese Einheit hat sich in dem Andersseyn derselben verborgen, sie ist die innerliche, die nur zu Grunde liegt; -- daher scheint das Unendliche an dem Endlichen, und das Endliche an dem Unendlichen, das Andere an dem Andern, nur hervorzutreten, das heist, jedes ein eigenes unmittelbares Entstehen zu seyn, und ihre Beziehung nur eine ausserliche.
だが、この両者を統一する性質[規定]は他在の陰に隠れており、 それはただ根底にのみ存する内的なものにすぎない; --そこで無限者[イデア]は有限者[個物]に接して、 有限者[個物]は無限者[イデア]に接して、 他者は他者に接して生じるようにしか見えない。 すなわち、それぞれが固有の直接的な生成であり、 その関係は単なる外的なものであるようにしか見えない。

大意: さっぱりわからん。授業でなんか聞いたはずなんだが。 某教授の注は、「しかし、この統一は他在の陰に隠れている。 有限でないものが無限、無限でないものが有限。 両方同時に見ることができない」。

2-7-1. Es wird daher ueber das Endliche hinausgegangen in das Unendliche.
そこで有限者[個物]は無限者[イデア]へと越え出ていくのである。

大意: このesは自動詞の非人称構文で使われるものらしい。

2-7-2. Diss Hinausgehen ershceint als ein aeusserliches Thun.
この《越え出ること》は、外的な活動のように思われる。

大意: たしかに。

2-7-3. In diesem Leeren was entsteht?
この空虚において何が生じるのだろうか?

大意: 「この空虚」ってどの空虚? わからん。

2-7-4. Was ist das Positive darin? そこにおいて積極的なものは何か?

2-7-5. Um der Einheit des Unendlichen und Endlichen willen, oder weil diss Unendliche selbst beschraenkt ist, entsteht die Grenze; das Unendliche hebt sich wieder auf, sein Anderes, das Endliche ist eingetreten.
この無限者[イデア]と有限者[個物]を統一する性質のゆえに、 あるいはこの無限者[イデア]自身が制約されているという理由のゆえに、 境界が生じるのである; 無限者[イデア]は再度自己を止揚し、 自己の他者であるところの有限者[個物]が生じる。

大意: 意味不明。もはやついていけない。

2-7-6. Aber diss Eintreten des Endlichen, erscheint als ein dem Unendlichen aeusserliches Thun, und die neue Grenze als ein solches, das nicht aus dem Unendlichen selbst entstehe.
しかしこの有限者[個物]の発生は、 無限者[イデア]の外部における活動と思われ、 またこの新たな境界は、無限者[イデア]自身から生じたものではないように思われる。

大意: 意味不明。

2-7-7. Es ist somit der Rueckfall in die vorherige, aufgehobene Bestimmung vorhanden.
そこで以前の、止揚された規定に逆戻りしてしまう。

大意: しくしく。意味不明。

2-7-8. Diese neue Grenze aber ist selbst nur ein solches, das aufzuheben, oder ueber das hinaus zu gehen ist.
けれどもこの境界はそれ自体止揚されるべき、 あるいは越え出られるべきものでしかない。

2-7-9. Somit ist wieder das Leere, das Nichts entstanden, in welchem aber jene Bestimmung, eine neue Grenze gesetzt werden kann, und sofort ins Unendliche.
そこで再び空虚が、無が生じるのであるが、 しかしその空虚において例の規定が、新たな境界が措定されうるのであり、 こうして無限背進に陥いるのである。

大意: 空虚っていうのが何なのかわかんないから、 全体が何を言ってるかわかんないんだな。 某教授はここの議論をアリストテレスがプラトンのイデア論を批判するさいの 「第三の人間」論法 と結びつけて考えてるのかもしれない。 (しかし今日はその説明がなかった)

2-8-1. Es ist die Wechselbestimmung des Endlichen und Unendlichen vorhanden; das Endliche ist endlich nur in der Beziehung auf das Sollen oder auf das Unendliche, und das Unendliche ist nur unendlich in Beziehung auf das Endliche.
こうして有限者[個物]と無限者[イデア]の相互規定が表面化する; 有限者[個物]は当為すなわち無限者[イデア]との関係においてのみ有限であり、 また無限者[イデア]は有限者[個物]との関係においてのみ無限である。

大意: これはまあわかる気がする。男は女がいる限りで男であり、 女は男がいる限りで女である、というのと同じだな。

2-8-2. Sie sind schlechthin Andere gegeneinander, und jedes hat das Andere seiner an ihm selbst.
両者はまったくもって互いに赤の他人であり、 そしてそれぞれが他方と隣り合っている。

大意: 満員電車を想像してみるべし(と某教授が言ってたような気がする)。

2-9-1. Diese Wechselbestimmung ist es, welche naeher im Quantitativen als der Progress ins Unendliche auftritt, der in so vielen Gestalten und Anwendungen als ein Letztes gilt, ueber das nicht mehr hinausgegangen wird, sondern angekommen bey jenem: Und so fort ins Unendliche, pflegt der Gedanke sein Ende erreicht zu haben.
この相互規定は、実質的に(とは訳せないか)無限背進に陥いるのであり、 …

大意: よくわからんので省略。

2-10-1. Der Grund, dass ueber diss Hinausgehen nicht selbst hinausgegangen wird, hat sich ergeben.
この《越え出ること(運動)》がそれ自身を越えでない根拠は、すでに明らかになった。

2-10-2. Es ist nur das schlechte Unendliche vorhanden; ueber dasselbe wird allerdings hinausgegangen, denn es wird eine neue Grenze gesetzt, aber damit eben wird vielmehr nur zum Endlichen zurueckgekehrt.
ここにあるのは悪無限だけである; ただし、この悪無限は越え出られるのである。 というのは、あらたな境界が設定されるのだが、 しかしまさにこのことによってむしろ有限なものへと 帰ってきてしまうだけであるから。

大意: ?

2-10-3. Die schlechte Unendlichkeit ist dasselbe, was das perennirende Sollen, sie ist zwar die Negation des Endlichen, aber sie vermag sich nicht in Wahrheit davon zu befreyen; diss tritt an ihr selbst wieder hervor, als ihr Anderes, weil diss Unendliche nur ist als in Beziehung auf das ihm andere Endliche.
悪無限はくり返される当為と同一のものである。 それはたしかに有限者[個物]の否定であるが、 しかしそれは本当のところ、有限者[個物]から解放されることはできない; 有限者[個物]は再び無限者[イデア]自身に他者として接するのである。 というのは、この無限者[イデア]はそれにとって他者である有限者[個物]との関係 としてのみあるからである。

大意: ちっともわかりません。diss tritt...のdissは有限者[個物]でいいのか?

2-10-4. Der Progress ins Unendliche ist daher nur die sich wiederholende Einerleyheit, eine und dieselbe langweilige Abwechslung dieses Endlichen und Unendlichen.
それゆえ、この無限背進は自己を取り戻す一様性に過ぎず、 この有限者[個物]と無限者[イデア]の退屈な交代に過ぎない。

大意: しくしく。

2-11-1. Diese Unendlichkeit des unendlichen Progresses, die mit dem Endlichen behafftet bleibt, hat an ihr selbst ihr Anderes, das Endliche; sie ist somit dadurch begrenzt und selbst endlich; sie ist darum die schlechte Unendlichkeit, weil sie nicht an und fuer sich, sondern nur ist, als Beziehung auf ihr Anderes.
無限背進としてのこの無限性--それには有限者[個物]がつきまとっている--は、 その他者である有限者[個物]と接している; それゆえこの無限性はそれによって境界を持つことになり、それ自身有限である; この無限性が悪無限なのは、それがそれ自体で存在するのではなく、 他者との関係においてのみ存在するからである。

大意: これはまとめになってるのでなんとなくわかる。 悪無限における無限者[イデア]は有限者[個物]の否定として存在するので、 自立してないと。 ちょうど不良少年は優等生の否定として存在するので自立的存在じゃないような ものか。

2-12-1. Diss Unendliche ist selbst endlich.--
この無限者[イデア]はそれ自身有限である。

大意: 某教授によれば、 ここにはヘーゲルの「無限判断」 (「天使は不死である」のような、形式的には肯定文だが、 意味上は否定文であるような判断のこと)についての見解が示されているらしい。 よくわからんが。

2-12-2. Somit waere es in der That die Einheit des Endlichen und Unendlichen.
だから、実のところ、無限者[イデア]とは有限者[個物]と無限者[イデア] の統一なのだ。

大意: なぜwaereと接続法になってんだろう? 「おそらく〜だろう」と訳すべきなのか?

2-12-3. Aber auf diese Einheit wird nicht reflectirt.
しかしこの統一は反省がなされていない。

2-12-4. Allein sie ist es nur, welche im Endlichen das Unendliche, und im Unendlichen das Endliche hervorruft, und, so zu sagen, die Triebfeder des unendlichen Progresses ist.
しかし、この統一は、有限者[個物]において無限者[イデア]が呼び出され、 また無限者[イデア]において有限者[個物]が呼び出されるものでしかなく、 そこで、いわば、無限背進の推進力でしかないのである。

大意: しくしくしく。わかりません。許してください。 ほんとうにわからないのです。


今日やったこと


何か一言


06/08/99 (Tuesday/mardi/Dienstag)

お昼過ぎ

昨夜、 コプルストンによるアリストテレス形而上学の説明を読み、 ヘーゲルをさらに復習。 なぜヘーゲルの議論がアリストテレスの「第三の人間」論法と結びつくのか、 ひとまず理解できたように思う。 アリストテレスの『形而上学』は近いうちにきちんと読む必要がありそうだ。

(某古本屋にまだなかったので)ローソンで買ったジャンプを読んだり、 シャワーを浴びたりしてから3時ごろに寝る。

9時ごろに一度起きるが、つい二度寝をしてしまう。 3コマ目に出れず。すいません。すいません。 みんなヘーゲルが悪いんです。


業務連絡。青森の某さん、返事を書かなくてごめんなさい。 忘れてるわけじゃ決してないんです。もうすぐ出します。


夕方

昼下がり、某喫茶店でピラフのセット。プレイボーイ。 すこしパーフィットの勉強をする。

4コマ目の授業に出る前にルネでパーフィットの『理性と人格』を購入。 でかいしなんとなくとっつきにくそうな本だったが、 読むとなかなかおもしろい。

4コマ目の演習はパーフィットの人格同一性について。 パーフィットが軽く触れている国家の同一性の議論なんかは気になるところだ。


今日やったこと


何か一言


06/09/99 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

昼下がり

忙しいのでまた後で。


夕方

昨夜は夕方に古本屋めぐりをしてから下宿に。特に何も買わず。 あ、百万遍の某CD屋でエアロスミスのライブアルバムを注文。 ここは最近はほとんど通販の店と化しているらしい。 なかば強引に注文させられてしまった。

ところで、 CD屋の主人がウェブでも注文可能だと言ってURLを書いたチラシをくれたので、 「リンク貼ってもいいですか」と言うと、 「どんなホームページ作ってるの」と訊かれ、 「ええと、大学の授業とか」と答えると 鼻で笑われてしまった。 ま、そりゃそうか。 その店長はどうも「エアロ専門のページです」とかいう答を期待してたらしい。


アリストテレスの『形而上学』

下宿でアリストテレスの『形而上学』(出隆訳)を読み出す。 内容目次を読んで感動。

わけのわからない哲学はここに端を発していたのか。

とくに第五巻の「哲学用語辞典」は必読。 わけのわからない哲学の誕生を垣間見ることができます。

というわけで、 齢25才にして哲学史におけるアリストテレスの重要性を実感する。 タイムマシンが発明されたら真っ先に殺しに行かねばなるまい。


夜、久しぶりにカレーを作る。BMOR読書会の予習など。

お昼前に起きて風呂に入り、洗濯を二回して大学へ。

3コマ目の応用倫理学は某くんによるダムの話。 ダムの現状や問題点についてよくまとめてあったが、 倫理学的観点からの考察が欠けていると思う。 いや、もちろん人のことは言えないんだが。 それに「倫理学的観点って何ですか」と詰め寄られても困るのだが。

それからBMOR読書会。ロックの力(力能)と意志の自由の話。

昼がまだだったので読書会後に中央食堂で食事。 盛岡冷麺。サラダバーも使ってみる。


「こいつ、よくもひとのことをぶったな!」

今読んでいる鈴木孝夫の『教養としての言語学』に、 「自称詞(一人称)としての『ひと』」という章がある(132頁-)。

鈴木氏は、 「こいつ、よくもひとのことをぶったな!」 とか、 「あなた、よくもひとを騙したわね!」 などにおいてみられる 一人称としての「ひと」の用法に着目し、どのような場合に、 またなぜこのような表現が用いられるのかを検討している。

鈴木氏は、 文学作品から「ひと」が一人称として使われる用例 (たとえば、「ひとをからかう」「ひとに世話をやかす」「ひとを悪者にする」 「ひとの(楽しみの)邪魔をする」「ひとが話しているのに」など) をいくつか抜き出したあと、 話者が相手に対して自分のことを「ひと」 と称するのは、「話者が相手に対して、 自分の権利や尊厳が侵害されたことに対する不満、焦燥、 怒り、拒否といった心理的対立の状態にある場合に限られる」(143頁)とし、 そして「話者が『ひと』を自称詞として使うときに気持は、 『おれはお前にとっては無関係の他人だ。つまりお前の力、 権限、干渉、関心の範囲外の人間だぞ。つまらぬよけいなことを言うな』 といったもので、それまで存在していた二人を包む共通の枠を、 この一言で壊してしまうのである」(146-7頁)と説明している。

さて、この話題が興味深いのは、 倫理学的観点からするとおそらく別の説明ができるように思われるからだ。 (いや、倫理学的観点ってよくわからないんだけど)

たしかに、話者が相手に対して自分のことを「ひと」 と称するのは、「話者が相手に対して、 自分の権利や尊厳が侵害されたことに対する不満、焦燥、 怒り、拒否といった心理的対立の状態にある場合に限られる」 という理解は正しいと思う。

しかし、 この用法は自分が相手と「赤の他人」 であることを強調するために用いられるのではなく、 むしろ 自分と相手が共通して持つと思われる一般的道徳規則に訴えるために 用いられるのではないだろうか。

たとえば、 「よくもおれをぶったな」という非難の背後に隠れているのは、 「おれをぶつことは正しくない、おれはぶつべきでない」 という道徳規則だと思われるが、 「おれをぶつことは正しくない」はあまり直観的に自明ではない。 (したがって、相手はこの道徳規則には同意しないかもしれず、 「いや、おまえをぶつことは正しい」と言うかもしれない)

一方、「よくもおれをぶったな」と言う代わりに 「よくもひとのことをぶったな」と言うとどうだろうか。 この発言はより一般的で直観的に自明な道徳規則である 「ひとをぶつことは正しくない、ひとをぶつべきではない」 に直接に訴えかけており、 非難する側としては「よくもおれをぶったな」と言うよりも 効果的に相手の反省を促すことができそうである。

(もちろん、「よくもおれをぶったな」 も「ひとをぶつことは正しくない」 という道徳規則に訴えていると考えることができるが、 両者の関係は「よくもひとのことをぶったな」と「ひとをぶつことは正しくない」 ほどは直接的ではないので、 相手はその道徳規則に思い至らないかもしれない。 そこでやはり「よくもひとのことをぶったな」 という方がより効果的に非難を行なうことができるように思われる)

また、 この理解でいけば、「よくもに手を出したわね」 とか、「先輩の言うことに従わないつもりか」 などの表現が用いられる理由も同様に説明できると思う。 これらの表現も、自分と相手が「赤の他人」であることを強調するためではなく、 「親に手を出すのはよくない」とか「先輩の言うことに従わないのはよくない」 といった一般的な道徳規則に対してより直接的に訴えかけをするために用いられる のではないだろうか。

反論歓迎。


くだんの某CD屋にCDを受け取りにいく。

ううむ、すごいっす。


エアロを聴きながらスクラーの復習中。 しかし、最近のエアロのバラードって、 アメリカンロックの王道すぎて印象に残んないんだよなあ。 (う、ちょっと日本語が…)


スクラーの復習終わり。あいかわらず大変。


セクションD 非-ユークリッド世界の物理的可能性

1. 相対論以前の思想

2. 一般相対論のいくつかの基本的特徴

アインシュタインの等価原理については、 内井先生のウェブサイトを参照のこと。


今日やったこと


何か一言


06/10/99 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

昼下がり

昨夜、某古本屋で本を購入。マガジンとサンデーも購入。

お昼前に起きる。 文学部図書室からの留守電が入っていたので、 「また何か悪いことしたかな」とおそるおそる行ってみると、 某本屋から先日注文した本が届いていたのだった。

だんだん天気が崩れてきた。


母に会いにJR京都駅へ。途中、四条河原町の某漬物屋で 漬物を買ってもっていく。

大学に戻ってくる途中、 ジュンク堂に行ってドイツ語の参考書を物色する。 なかなか良いのないなあ。

それから倫理学入門読書会(「功利性と善」その1)。 善の理論(価値の理論)としての功利主義について。 快楽説、選好充足説、利益充足説など。 以前に一度読んだ論文だが、まあ、もう一度読むのもよかろう。

また、今回から4回生の某君と 米国の某大学から留学してきているミスター某が参加することになった。 ネイティヴスピーカーがいるとなにかと便利だ:-)

読書会の後、何人かで某定食屋へ。 年下の連中に「学生の本分」について講釈を垂れる。 いやはや、おれも偉くなったもんだ。

久しぶりにフランス語の勉強をしよう。


『普遍文法』の続き(p. 12)。

S'il y a quelques autres sons simples (come pouuoit estre l'aspiration de l'Aiin, parmy les Hebreux) ils sont si difficiles a` prononcer qu'on peut bien ne les pas comter entre les lettres qui entrent dans l'vsage ordinaire des Langues.

うわ。もうすっかり忘れてしまった。 え〜と。「単純な音が他にまだいくつかあるとしても、 それらはとっても発音しにくいので、」

comterってなんだ? 辞書辞書。え、伯爵? あ、これはどうもcompter「数える」の異形のようだ。 entreはamongだから、 「言語で通常に用いられる文字のうちには数え入れることはできないだろう」

それでカッコの中はというと、いいかげんだが、 「ヘブライ語の中にあるAiinの気息音はその一つと言えるだろう」 かな? comeってなんだ?

というわけで結局、「単純な音が他にまだいくつかあるとしても (ヘブライ語の中にあるAiinの気息音はその一つと言えるだろう)、 それらはとっても発音しにくいので、 言語で通常に用いられる文字のうちには数え入れることはできないだろう」

Pour toutes les autres qui se trouuent dans les Alphabets Hebreux, Grecs, Latins, & des Langues vulgaires; il est aise' de monstrer que ce ne sont point des sons simples, & qu'ils se rapportent a` quelques-vns de ceux que nous auons marquez.

pourはfor、aise`は「容易な」、monstrerは「示す」かな? ne ... pointで「少しも〜でない」、 se rapporterは「〜と(a`)関係がある」。 なので、「ヘブライ語やギリシア語やラテン語や他の俗語のアルファベットに 見い出されるその他すべての文字に関しては; それらが単純な音でないことを示すのは容易であり、 また、それらがわれわれがすでに論じたもののいずれかと関係を持っている ことを示すのは容易である」。

今日はここまで。眠い。


今日やったこと


何か一言

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KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sat Oct 9 20:31:31 JST 1999