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こだまの世界

2001年2月中旬号

"To Democrats, Republicans are a bunch of Texans who pollute the earth. Correspondingly, to Republicans, Democrats are a bunch of Californians who pollute the culture."

Harold Myerson, quoted in `The state they're in'
in the Guardian (saturday review, 10/Feb/2001)


11/Feb/2001 (Sunday/dimanche/Sonntag)

休日の過ごし方

「週末なにしてたの」

「ええと、ヴェトナム料理屋に行ってみたり、 スクワッシュをしたり、古本屋に行ったり」

「…勉強は?」

「しましたしました。 自律とか自由についてのラズの考え方を勉強しました」

「ラズの言うautonomyは、 カント的な自己立法した道徳律に従ったときに人ははじめて 自由で自律的な存在になるという高尚な考え方とは違い、 もっと俗っぽくて、 幸福になるためには自分で生き方を選ぶ必要があるということだから、 自律よりも自己決定と訳した方がいいんじゃないの」

「そですね、しかし、自己決定権という言葉が日本にはありますが、 あれはautonomyの訳語なんですかね。 self-determinationなんて長々しい言葉はあんまり聞かないですもんね」

古本屋で買った本


12/Feb/2001 (Monday/lundi/Montag)

今日の最高気温は12度(最低気温は4度)。霧雨。まるで春のようだ。

(追記: 午前中はよかったが、 昼下がりから強風をともなう雨になり、ひどい目にあった)

明日、院試があるらしい。テストを受ける人の健闘を祈る。

日記の整理

夕方、散髪に行く。ひどい目にあった。

永江さんの論文について

永江さんの大学における英語教育と情報教育に対する一提言をおもしろく読ませてもらう。 普段からこういうことを考えているわけではないのでたいしたことは言えないが、 簡単なコメントを。

まず、英語教育に関しては、大筋で賛成。 英語教育が本当に重要なら、学部生は半年か一年間、 強制的に留学させてしまうのがよいだろう。 (理科系はともかく、 文化系に関していえば、留学生を大量に呼びこむことは、 日本の教育レベルを考えると難しいように思うがどうか) 次に、情報教育についてはとくに意見はなし。 「4.4 情報教育に対する提言」は興味深く読ませてもらった。 最後に、福祉教育についてだが、 そもそも福祉教育で何を指しているのかわからないので、 なぜこれが「英語」と「情報」と並んで重要なのかわからない。 一応筆者の見解を示してほしいところ。

我田引水になるが、個人的には、「英語」「情報」「倫理」の三本柱にしてほしい:-) 大学卒業者が身につけていることが望まれるのは、 情報を集め取捨選択する技術、しばしばその情報を得るために必要となる英語、 そして、国内外の政治・社会問題についての問題意識のはず(たぶん)。 そこで、倫理では、医療問題、企業問題、政治問題、人種・性別などの差別問題、 ボクシング存廃論など、社会問題に則した議論をディベート形式で行ない、 社会問題に対する自覚を高める。

「なんだなんだなんだ。最近ようやく新聞を読みはじめたやつが偉そうに 『国内外の政治・社会問題についての自覚を高める倫理教育』を説くとは」

「いいじゃないですか。それに、 そもそもいかなる意見も個人の経験と無関係には出てこないわけですし」

「ふん、うすっぺらな経験から何が言えるか。 それに本当に大学卒業者の全員に英語が必要なのか? 結局のところ、市民の全員が医者になる必要はないのと同様に、 一部の訓練されたものが英語を堪能にしゃべり、翻訳できれば、 社会的に何も問題ないんじゃないのか。 戦後ずっとそうやってきて、それなりにうまくいっていたのではないのか」

「いや、日本もこれからますます国際化するわけで」

「ほう、八百屋が英語をしゃべらなきゃいけなくなるのか?」

「いや、それはわかりませんが」

「日本で働く会社員にしても、 英語がしゃべれるにこしたことはないが、 全員が全員、英語を堪能にしゃべれなくても困らないだろう」

「いや、しかし大学に残る研究者の人は…」

「研究者は英語ができないといけないだろうが、 そういう学生と学部を終えて就職していく学生を いっしょくたにしたらいけないだろう。 きみは留学を強制化するべきだと言っているが、 現在多くの大学がやっているように、選択できるだけで十分だ」


13/Feb/2001 (Tuesday/mardi/Dienstag)

法哲学の授業

ラズのwell-beingの概念について。あまり得るところなし。 ただし、The Morality of Freedomの第12章は、 self-interestとwell-beingの違いとか、 moralityとprudenceの違いとかについて述べてあるので、 ちゃんと読むべし。

写真掲載

以前に書いたが、 『週刊ビジュアル日本の歴史』の先月号(48号、1月16日発売)に、 おれが撮ったパーラメント(英国議院)の写真が掲載されているらしい。 まだお金が振り込まれていないんだけど。

こういうこともあるので、写真をまめに撮ってウェブに出すようにしよう。 最近は遠出をしないので、なかなか写真を撮る機会がない。

追記。上記の写真を寮の友人に見せたら 「絵ハガキをスキャナで読みとるかデジカメで撮ったんだろう」 と言われたが、そうではない。 橋の欄干にカメラをしっかり固定して、 露出補正をしてやれば、夜でもちゃんと撮れる。


14/Feb/2001 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

ベンタムの授業

朝、急いでディサテーションのプロポーザルをでっちあげ、 授業中に指導教官に渡す。

今日は某大学の先生が`Utility and Authenticity'という題で発表をした。 ベンタムはほとんど出てこず、終始スピノザの話になっており、 変な発表だった。

買った本

大学のそばの某本屋で、新本と古本を購入。

院試情報

某筋からさっそく院試の情報が伝わってきたので(感謝)、 英語の訳だけ作っておいた。 美学のことなど調べるのがめんどうなので、 専門語の訳が誤っているかもしれない。中世も同様。

専門の「倫理学理論を構築する際に直面する困難について、 倫理学史に適宜言及しつつ論じなさい」 という問題はおもしろいので考えてみたいが、 時間がないのでまたいつか。 理性と感情という対立軸を立ててやるとある程度うまく行くと思う。


15/Feb/2001 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

今日の勉強

来週水曜日のセミナーの予習を途中までする。 ハートの方法論について。 ひさしぶりに『法の概念』を読んだら、 最近いろいろ勉強しているせいか、 すこし見通しが良くなっていたので、 内容をより深く理解でき、面白いと感じることができた。 道徳の議論とパラレルに考えると興味深く読むことができるようだ。


16/Feb/2001 (Friday/vendredi/Freitag)

今日の勉強

引き続きハートの勉強。 Stephen Perryの`Hart's Methodological Positivism'という論文を読み終える。 この論文はハートを思いっきり誤解している気がするが (論証できないのでえらそうなことは言えないけど)、 この論文を『法の概念』とつきあわせて読んだおかげで、 ようやくハートの議論の全体像がつかめてきた。

メモ: 一次的規則の不完全さを補うために二次的規則が生じてきた、 という説明は、自然状態から社会状態への移行と類比的に考えられる。

また、真夜中にB. Williamsの`The Idea of Equality'も読む。 「等しい尊重」と「機会の均等」という考え方の説明と、 両者は衝突することがありえる、という話。 なんかごちゃっとした論文だが、影響力の大きい論文らしい。 「機会の均等」論はおもしろいので、さらに勉強すべし。

Hannibal

今日封切りだった映画Hannibalをさっそく観てきた。 The Silence of the Lambの続編。 今回はLector役はAnthony Hopkinsだが、 Clarice StarlingはJodie Fosterではなく、 Julianne Moore。監督はRidley Scott。

カメラワークや音楽は美しいし、 アンソニー・ホプキンスの圧倒的な存在感も堪能できるが、 ストーリーは長くて退屈だった。

おそらく、 レクターとクラリスの愛憎関係が物語の主軸になっていると思うのだが、 ジュリアン・ムーアの影が薄いのでその点が前面に出ず、 残酷でグロテスクなシーンだけが印象に残り、 見終わってもほとんどカタルシスを感じなかった。 問題は物語そのものかあるいは脚本にあるので、 たぶんジョディ・フォスターが演じても同じことになったと思う。 シガニー・ウィーバーあたりが演じると もうちょっとましかもしれないが。というわけでC。

ちなみに、今回はレスタースクウェアにあるEmpireという映画館に行ったが、 ここは巨大なスクリーンと快適な座席で映画を観ることができる。音響も良い。 ソーホーのCurzonはミニシアターだが、ここも音響が良くて快適。

「何がカ、カカ、カタルシスだ。勉強しろ勉強っ」

「してますってば。とくに今日はかなり勉強しました。 最近ようやく法哲学がおもしろくなってきて、やる気がでてきたんですから」

「映画に行く金があったら、あれだ、え、え栄養ドリンクを買って徹夜で勉強しろ」

「そんな無茶な。ただでさえ目が悪いのに、 映画も音楽もなしで法哲学ばっかりやってたら、 視野がさらに狭くなってしまって、 何も見えなくなってしまいますよ。 映画を観るのは息抜きと社会勉強を兼ねた貴重な活動でして…」

「ところで君はいったい誰に向かって自分の行為を正当化しようとしてるんだ?」

「さあ」


17/Feb/2001 (Saturday/samedi/Sonnabend)

今日の勉強

サンデルの`The Procedural Republic and the Unencumberd self'を読む。 ロールズのいう原初状態にいる人間は、 善の構想とか社会的役割から抽象されていてけしからん、 そういう個人主義的発想が現在の米国社会を毒している (あるいは社会を反映している)、 というような内容。

しかし、原初状態の意味が、 「正しい道徳原理をみちびきだすために、 自分固有の善の構想とか社会的役割はいったん脇に置きましょう」 ということであるなら、単にホーホーロン的装置であって、 道徳的に考えるために他人の立場に立つことを要求する 共感理論が特殊な能力を想定していないのと同様に、 unencumberedな存在としての自己を想定しているわけではないと思うのだが、 どうなんだろう。

新聞読書会

寮の友人が、新聞の主要な記事について話をしようと言うので、 これから週末に新聞読書会をやることになった。

今週の話題は、米国潜水艦事件、パレスチナ問題、 ナップスター問題、製薬会社の知的所有権問題、 ムガベ問題など。

Almost Famous

夜、Cameron Crowe監督の映画Almost Famousを映画館に観に行った。 70年代初頭の「もうすぐ有名になる」ロックバンドのツアーの姿を、 若きジャーナリストの目を通して記録したというような内容。

見終わってからThe Doorsを思い出した。 あの映画に比べると、音楽は今ひとつだし、 女優のケイト・ハドソンがメグ・ライアンほど印象深いかというとそうでもないし、 特に新しいところもなく、二番煎じ、三番煎じという感じの映画。 が、恋愛、笑い、別れなどなど、一応きちんと押えてあるので、 見終わったあとの印象は悪くない。 こじんまりしているがまとまりのある映画。B-。


18/Feb/2001 (Sunday/dimanche/Sonntag)

今日の勉強

Charles Taylorの`Atomism'を読んだ。 みんな個人の権利ばかり主張しているけれど、 このような価値観を維持し、自己実現するためには、 既存の社会を守る義務(obligation to belong)がある、 という内容(だったと思う)。 言いかえると、「なぜ国にしたがう義務があるのか」 というソクラテスが『クリトン』で発した問いに対して、 「社会が君に自由主義的価値観を与えたからというだけでなく、 君が社会を守らないと、 君が自分の価値観に従って自己実現することができないからだ」 という答え方をしている。

政治的義務に対する答としてはなかなか興味深いが、 一つの問題は、現代の社会はポリスと違って巨大なので、 一部にフリーライダーがいても倒産しないため、この答えは、 「なんでこのおれが社会的義務を守らないといけないの?」 という問いに対しては弱いということ。 もう一つは、たとえば中国でテイラーのこの論文を読んだ学生が、 自由主義的価値観に目覚めた場合、 中国社会と政府に対してどういう義務を持つのか、 という疑問がある。社会を変革する義務を持つのか、 あるいは中国の伝統的な価値観を維持する義務を持つのか。

買った古本

某所で古本を購入。


19/Feb/2001 (Monday/lundi/Montag)

時事問題

「『ハンニバル』の興業収入が米国で1億ドルを突破したそうです」

「なんであんな映画がっ。どどどこがおもしろいのか」

「いや、ほら、イノシシが人を食べる様子とか、脳ミソのステーキとか…」

「くだらんくだらん。続編を作るようだが、今度は絶対に観に行かないぞ」

「続編じゃなくて、『羊たちの沈黙』の前に作られた作品のリメイクだそうですよ」

「くだらんくだらん」

「そういえば、日本の森首相の支持率が9%で退陣は必至だとか」

「退陣退陣。一生ゴルフしてろ」

「ひどい言いようですね。ぼくは円安が恐いので、 今退陣してもらうと困るんですが」

「また自分勝手なことを。国民のことを考えろ。 あんな責任感のない人物が首相だと世界に顔向けできないだろう。 恥ずかしくてしかたがない。 ガーディアンでもおちょくられていたぞ。 頼むから退陣しろ」

「またまた。ぼくの日記であんまり過激なことを言うのはやめてください。 それに、ブッシュだってガーディアンでおおいにバカにされてましたよ」

「退陣退陣」

「しかし、次にだれが首相になるかという問題が大きいので、 やっぱり今やめてもらうと困る気が…。そういう意味では、 現在の英国の状況と似てますね。ほら、保守党の支持率が低いから、 いろいろ困難をかかえつつも労働党が与党になっているという…」

「退陣退陣。みんな退陣しろ。哲人王はどこに。クオワディス」

今日の勉強

「あれ、きみ、こんなところで何してるの。授業に出なくていいのか」

「今日は政治哲学入門の授業には出ませんでした。 学部生用の授業に出るのも参考になるかと思いましたが、 あの授業は退屈で退屈で」

「ふ〜ん。それで、きみが手にしてるのは何の論文だ」

「ゲスト教授の`Why the Law is Just'という論文です。 まだ最後まで読んでないんですが」

「どんな話なの」

「第一節では、法実証主義は裁判が正義を考慮して行なわれていることを考えると、 あきらかに間違っているという話で、 第二節では、「平等な尊敬equality of respect」 原理から、正義、自由、民主主義の基礎付けを行なうことができる、という内容です。 ちなみにこの論文はウェブ上で手に入ります。 (www.ucl.ac.ukから法学部のゲスト教授のウェブサイトに行くとよい)」

「ふ〜ん。きみの感想は」

「すごいすれちがいがあると思うんですよね、ベンタム系の法実証主義者と、 ドゥオーキン系の批判者のあいだには。 ゲスト教授はすぐに裁判をひきあいに出して、 弁護士も裁判官もみんな正義を念頭においている、 ほれ、裁判関係の機関はみんなjusticeという名前がついているだろう なんてことを言いますが、 ハートやベンタムはナチの悪法に直面した市民の立場に立って、 『法なんだから従わねばならない』という正当化はおかしい、 法は必ずしも正義を体現していないから批判的立場を保たないといけない、 と言うわけです」

「しかし、ドゥオーキン系の議論にも一理あるわけだろう」

「たしかに、裁判官は判決をするさいに道徳的考慮をしていると思います。 しかし、裁判官が必ずしも個人の道徳的確信に従って判決をするわけではなく、 The Next Best Thingで裁判官が 『あんた(Rupert Everett)に共感するけど、 カリフォルニアの法ではあんたの妻(Madonna)に息子をあずけざるをえないのよ』 と言うような場合もあるわけです」

「よくわからんぞ」

「あ〜、ぼくも混乱してますが、 とにかくなんでもかんでもすぐに裁判をひきあいに出して 法実証主義を論破した気になるのは一面的にすぎるといいたいのです」

「まあ、きみの気持ちもわからんでもないが、 ドゥオーキン系の議論の砦である裁判を土俵にして考えてみたら」

「そうですね。よく考えてみます。 また、『平等な尊敬』という議論もこれまた頭に来る話で」

「まあまあ落ちついて落ちついて。 きみ、たしかロス・ハリソンによる『平等な尊敬』 による民主主義の基礎付けを批判してたよね」

「はい。どうもこの議論は最近のはやりみたいですね」

「この議論の何がいけないの」

「何がいけないって、とにかく頭に来るのは、 この議論をする学者の現状肯定的な態度なんです。 自由も民主主義も正義も『平等な尊敬』で基礎付けられるとか言って。 この。この。こ、こんなあいまいな概念を持ちいれば、 共産主義でも資本主義でもなんでも基礎付けられますよ」

「落ちついて落ちついて。 きみは功利原理から一貫して社会改革を唱えたベンタムの態度が好きなんだろうけど、 別に現状肯定でもいいじゃないの、きちんと民主主義を基礎付けできるなら」

「それが、こ、こここの『平等な尊敬』というのが、 けっきょく黄金律となんらかわりのないわけで」

「どういう意味なのそれ、たしかきみ、 こないだのエッセイにもそんなことを書いて、 意味がわからないというコメントをもらってたんじゃないの」

「ゲスト教授がはっきり述べているように、 平等な尊敬というのは、『他人を自分と同じように扱え』 ということで、これを彼は『一人称の平等first person equality』 と呼んでいます。これが『真の』平等であり、 『道徳のかなめthe nerve of morality』なんだそうです」

「けっこうじゃないの。黄金律の何がいけないの」

「一つには、なぜ他人を自分と同じように扱わないといけないのか、 という根本的な問いにたいして、ゲスト教授は、他の学者もそうですが、 まともに答えてないんですよね。一応、もうしわけていどに、 『自分の意志を持っており』、『快苦を感じることができる』 とか言ってますけど、それだけの条件なら、 『あのなー、そんなんうちのネコでもできるで』 ですよ」

「あはは」

「おそろしい冗談はさておき、仮に黄金律が正当化されたとしても、 黄金律が自由や民主主義や正義を基礎付けできるんだったら、 政治哲学者は苦労しないわけです。 ゲスト教授はハートがフラー批判に使ったアパルトヘイトの例を挙げて、 ハートを批判していますが…」

「どんな話だっけ」

「フラーは平等な尊敬(正確には「同様な事例は等しく扱え」) を法の内的道徳原則の一つに数えていますが、 ハートは、このような形式的正義は、 アパルトヘイトを行なっていた南アフリカ共和国の法だって満たしている、 と主張しました。つまり、黒人には一律に黒人用の法律を適用し、 白人には一律に白人用の法律を適用する、というわけです。 それに対し、ゲストは肌の色によって差別しているんだから、 このような法は平等な尊敬を体現していない、というわけです」

「もっともじゃないの」

「ハートの議論をもう一度見直してみますが、じゃあたとえば、 『姦淫した者は男であれ女であれ一律に死刑』というのは、 『平等な尊敬』の議論に従えば、 正義を体現していることになるんじゃないでしょうか。 同時に、姦淫を違法としない制度も、やはり『平等な尊敬』 を体現している可能性があります。 だとすれば、 姦淫を法によって咎めようと咎めまいとどちらも正義を 体現していることになるんでしょうか?」

「その議論に従えば、そういうことになるかな」

「でしょう? 無性に腹が立つのは、 『自分がなされたいように他人を扱え』 というような原理は、 実際のところ道徳的議論というよりは『情けは人のためならず』 方式の議論であるのに、 あたかも道徳律のようにありがたがっておしいただく態度であり、 実際、この原理だけではたいしたことはできないのに、 まるで賢者の石かアメリカ新大陸でも見つけたかのような顔をして 得意気に語る態度で…」

「まあまあまあ。きみもいつも適当なことを偉そうに語ってるんだから、 人のことは言えないだろう。謙虚に行こうよ。冷静に冷静に」

「いや、やはりこの怒りを糧にして論文を書くべきかと。 論文は熱いうちに書け、と諺にもあるように…」

「そんなのないってば」

[追記: さらに、ゲスト教授の`Freedom and Status' Revisited: Where Equality Fits In'も読んだ。基本的に同じ内容]

Manhunter

夜、テレビでやっていたManhunterを観る。 The Silence of the Lambの前に作られた作品。 B級の感が強いが(カメラワークが悪いため、Lecktorに迫力がない)、 犯罪者の心理に焦点をあわせたストーリーはなかなかおもしろい。C。


20/Feb/2001 (Tuesday/mardi/Dienstag)

時事問題

「日本で中学の歴史の教科書がまた問題になっているそうです」

「日本の中学校はいつまでも英語ばかり勉強させてないで、 韓国語や中国語も学ばせ、韓国や中国の歴史の教科書を読ませるべきだ」

「まあ、偏った情報しか手に入らないのが問題なんでしょうからね。 しかし韓国語や中国語の教科書を読むというのは大変でしょうから、 せめて教科書か資料集に、 中国や韓国の教科書の翻訳を載せるというのはどうでしょう」

「日本のような国が学生に英語ばっかり勉強させているから、 つけあがった米国人や英国人が外国語を勉強せず、 『英語しかできなくて何が悪い。英語は世界の言語だ。がはは』 とのたまうようになるのだ。 これからは中国語だ中国語。きみも日記を中国語で書きなさい」

「そんな無茶な。第一、中国語IMEの使い方さえ知らないんですから」


何か一言

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KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jul 28 07:37:42 2000