批判 (ひはん criticism)
ケチをつけること。 哲学のテキストにかぎらず、どんなテキストを読む場合でも、 「あほ。死ね。ばか」とわめきながら読まなければならない。 そして、どうして「あほ」なのかが他人にきちんと説明できるようになれば、 立派な哲学者になったことになる。
「哲学において『批判する』というのは、 ふつうに使われている『ケチをつける』という意味ではない。 批判的態度でもってテキストを読むというのは、 テキストに書いてあることを鵜呑みにするのではなく、 議論に用いられている前提があやしくないか、 議論の筋にあやまりがないか、 結論が受けいれがたいものではないか、 などいちいち吟味しながら読むということである」 というもっともらしい説明がよくなされるが、 こんな説明を鵜呑みにしてはいけない。
すでに戦いは始まっているのであり、 「こんな説明はたわごとだ。 哲学において『批判する』というのはまさに『ケチをつける』ことであり、 テキストを読むときは「あほぼけ死ねカス」とわめくことであり、 学会に行けば相手を指差して『あなたの意見は完全に間違っています』 と口から泡を吹きながら叫ぶことである。 哲学はつねに権威に対する挑戦であり、 眉に唾をつけ、テキストに唾を吐き、 可能ならば論争相手に唾を吐きかける態度がもっとも大切だ」 と反論しなければならない。
I can think of a number of perfectly understandable reasons why philosophers [...] should be reluctant to break new ground. First, there are philosophically OK subjects, whose pedigree is established by their having been written about by OK philosophers, and one incurs a risk of professional oblivion by going outside them. Second, writing on a new topic may require a serious investment in learning the analytic techniques of some discipline and assimilating a mass of empirical material. And, third, it is damned hard work--much harder than reading six articles and pounding out a seventh on the same subject--with no guarantee of success.
from Brian Barry's Democracy and Power
(Oxford: Clarendon Press, 1991), p. 18.
ロールズの格差原理について。以下メモ。
通常は、期待効用を最大化する選択肢を選ぶのが合理的とされるが、 一回きりの人生の場合は、 「最悪のケースがいちばんマシなものを選ぶ」 というマクシミン原理が合理的であるとされる。 このマクシミン原理から格差原理が導きだされる。 しかし、期待効用最大化が望ましくないからといって、 ただちにマクシミン原理がもっとも望ましいことにはならないかもしれない。 他にも望ましい合理的選択原理があるんじゃないか、 という話。ロールズはこの反論を予想しているが(『正義論』第49節)、 ウォルドロンの批判を考えると、あまり説得力のある議論とは言えない、とか。 来週はドゥオーキンによる批判。要復習、要予習。
英国の学生組合(Student Union、以下生協)は、 大学ごとにいろいろ販売や宣伝を禁止しており、 たとえば、 いくつかの大学の生協はペプシがビルマで販売されているという理由から、 ペプシの販売を禁止している。 また、どういう理由か知らないが、 マクドナルドが倫理的でないという理由から、 学内でのマクドナルドの宣伝や割引券の販売を禁止しているところもあるらしい。 (The Guardian, `Students revolt as union bans Eminem', 02/Feb/2001)
それで、今問題になっているのは、 グラミー賞の有力候補になっている例のEminemである(実はまだ聞いてないが)。 このラッパーは、「ゲイや女性をたたき殺したい」 と歌っているらしく、 米国のゲイ団体やヘイトスピーチ反対団体から総スカンをくらっている。 この動きを反映して、英国の生協も 「寛容、平等、他の学生への尊敬」という観点から、 彼のCDの販売を禁止したり、 学生新聞にEminemについての記事を書いたり、 Eminemティーシャツを着て生協のバーに入ることを禁じるところがでてきて、 それに反発する学生との衝突が始まっている。
生協は単なる消費者団体であり政府機関ではないので、 検閲とは呼べないが、 このような形で販売を禁止すべきなのだろうか。
「いいんじゃないの。ペプシにしろ、キットカットにしろ、 学生全体が意思を表明しているわけでしょ」
「う〜ん、学生全体かどうかわかりませんが」
「生協が禁止しても、他のところでCDを買うなりなんなりすればいいわけだし」
「しかし、Eminemのティーシャツを着て学生食堂を使うことができない、 というのは行きすぎじゃないですか? 寛容が聞いてあきれます」
「といっても、まあ、 ゲイを殺せって言ってるやつの顔がプリントされているティーシャツを着ている 学生がうろうろしていたら、ゲイの学生はかなり不愉快になるというか、 ほとんど身の危険を感じる可能性もあるわけでしょ」
「でも、ゲイを殺せというのが真理かもしれないし、 たとえ真理でなくても、 ゲイを殺すべきでないという真理が硬直した独断的意見になることを 防ぐかもしれないし。議論すればいいじゃないですか」
「またこのエセ自由主義者がわけのわからないことを。 そんな理想論は通用しないってば。 ネオナチにしろ、Eminemにしろ、 特定のグループに対してあからさまな侮蔑をするような連中は 規制されてしかるべきだって。 まあ、さすがに米国政府は寛容で、Eminemは検閲にはかかってないけど」
「いや、それは19世紀まで続いていた無神論者やホモに対する規制論と 同じ理屈です。『非難はすれども禁止せず』 という自由主義の原則をつらぬくべきです」
「同じ理屈じゃないでしょ。 特定の人種やグループをあからさまに馬鹿にする意見は禁止してもよい、 ってのは」
「それだったらゲイ団体か何かが名誉毀損罪で訴えればいいじゃないですか」
「まあ、なんにしろ、生協は政府じゃないんだからいいんじゃないの。 個人経営のCDショップで、店主の信念からEminemのCDをおいてなくても 文句は言えないでしょ」
「まあそうなんですが…」
この寮にはスクワッシュのコートがあるので、 昨日、友人に誘われて10年ぶりにスクワッシュをした。 当然、今日は筋肉痛で苦しんでいる。
夜、映画館でTrafficという映画を観る。 メキシコ・米国間の麻薬密輸問題と、 米国における若者の麻薬使用問題についてのかなり深刻な映画。 ストーリー展開は複雑だがうまくまとまっているし、 映像も美しい。やたらと長いが、結末もよい。 B-。
次はAlmost Famousを観るべし。
先々週アマゾンに注文したものがようやく届いた。
ラズの自由主義論について。 今回は権威について話をしただけで、進まず。
それにしても、 ラズの冗長な文章やドゥオーキンの抽象的な文章を読むのは 苦痛で苦痛でしようがない。 本を読むのがいやになってくる。 マンガで書いてくれないかな。 ラップで法哲学やるとか。
Political Tacticsについて。 先週は予習ができなかったので、 今週は予習をしようと神に誓ったのだが、 テキストが図書館で借り出せなくて予習できなかった。
「図書館に行ったって? UCLの図書館以外にもいろいろあるだろう」
「いや、IALSの図書館でも借り出されてて」
「他にもあるだろう、LSEとかブリティッシュライブラリーとか」
「いや、忙しくてそこまではできませんでした」
「何を甘えたことを。次からは死ぬ気で本を手に入れろ。 他の学生が借りてたら、ただちに返却請求しろ」
「そんな無茶な」
夕方、ドゥオーキンのセミナーに出る。 `Political and Legal Archemedians'というタイトルの論文で、 この中でドゥオーキンは、自由や民主主義や法の概念の分析(記述)と、 実質的・規範的な議論を区別するアルキメデス的立場は成り立たないと主張。 かわりに、人間の幸福の観点から、 さまざまな価値を位置づけ調停するような倫理・法・政治理論を構築すべきだ、 となんだかプラグマティストのような結論を出している。 今回のセミナーは部屋に人が入りきれないほど盛況だった。 さすがドゥオーキン。
夜、 明日の現代政治哲学の授業の予習のためにドゥオーキンの`The Original Position' を読む。今週はドゥオーキン漬けだった。
ロールズの反省的均衡について。
ロールズによれば、 人々は、公平な状況として設定された原初状態という仮想的状況において、 正義の二原理を選択する。 しかし、原初状態をどう描くかは、一義的に決まっているわけではなく、 人間本性や環境という与えられた条件から正義の二原理が 演繹されるというのではない。 むしろ、原初状態をどのようなものとして設定するかは、 そこから導きだされる正義の二原理がわれわれの熟慮された判断とうまく一致するか、 という考慮に応じて変化する。 最終的に、正義の原理と、 熟慮された判断がうまいぐあいにかみあった状態が反省的均衡と呼ばれる。
「反省的均衡のアイディアはおもしろいですけど、 正義の二原理を擁護するのにほんとに必要なんですかね。 ロールズは『わたしの描いた原初状態は反省的均衡を使って得られたものだ』 と述べてますけど、 人々が社会のあり方について公平あるいは道徳的に考えることができる条件 というのを考えれば、 そんな方法論を用いなくてもだいたいロールズの描いた線に辿りつく気がしますし、 それに、ジョナサン・ウルフも彼の政治哲学入門では反省的均衡には 触れていないし…」
「しかし、公平に判断できる条件といえば、 スミス流の観察者理論もあるだろう。 あれは他人の立場に立って共感しないといけないから、 少なくとも他人についての知識が要求されるわけで、 ロールズの原初状態における人々の状況とはずいぶん違うぞ。 『正義論』30節を読め」
「そうですね、 原初状態にいるみんなが公平な観察者の条件を満たしていたらどうなるのか、 とかについても考えてみます。 あと、気になるのは、 熟慮された判断(considered judgment)についてなんですが、 『熟慮された』ってどういう意味なんでしょう?」
「『熟慮された判断とはつまり、 正義の感覚を働かせるのに都合のよい条件の下で --それゆえ誤ちを犯した場合によくなされる言い訳や説明が成り立たない状況において--なされた判断のことだ』と9節で述べてるぞ」
「しかし、『正義の感覚を働かせるのに都合のよい条件の下』って、 結局、原初状態のことじゃないんですか。だとすれば、 原初状態から導きだされる正義の二原理と、 原初状態から導きだされる熟慮された判断が一致しないはずはないわけで」
「う〜ん、よくわからんから、某ロールジアンにでも訊いてみろ」
「そういえば、今日の夜に、 `Justice as Fairness: Political not metaphysical'も読みました」
「ドゥオーキン漬けの次はロールズ漬けか」
「功利主義が自由主義に敵対的だというのは本当でしょうか。 『善に対する正の優先』というのが、 ロールズがこの論文で述べているように 『正義の原理によって、許容されうる善の構想に制限が加えられる』 という意味だとすると、 善の構想の多元性を認め、かつ危害原理を唱えたミルも 『善に対する正の優先』を認めるでしょうし、 ベンタムも認めると思うんですが」
「まあ、もうすこしよく読んで考えてみたら」
「ええ、ええ。 なんにしろ、ようやくロールズがおもしろいと感じるようになってきました」
「君、倫理学、何年やってるんだっけ」
「う。まあそういうことは言いっこなしということで。はは」
今日のガーディアンの`Bleak new world, as seen by the MoD' という記事には、英国防衛省がまとめた`The Future Strategic Context for Defence' (see: www.mod.uk) という将来予測の説明がある。 参考のために簡単に要点をまとめておく。
ノージックの経験機械を彷彿させる発明が登場したらしい (`Hi-tech aid to take the sweat out of sex')。 この発明によると、手元でボタンを押せばオーガズムが得られるそうだ。 ただし、今のところは女性だけで、 しかも臀部にタバコの箱ぐらいの大きさの信号発生器を埋めこむ必要があるそうだ。
「功利主義者はなんていうんでしょうね」
「ミルなら、もし女性がきちんと教育を受けていれば、 そんな下等な快に溺れる女性はいない、と言うんじゃない」
「まあ、上品な快楽と下品な快楽の区別はおいとくにしても、 どのような快を好むかは、他人に危害を加えないかぎり、 個人の自由にまかせるべきだと、 ミルもベンタムも言うでしょうね」
「しかし、その機械が、 女性に強制してもなおあまりあるほどの快楽が得られる機械だとしたら、 功利主義者は強制することになるんじゃないの」
「まあ、けど、そんなことしたら男性は非常に苦痛を感じるわけで、 子供の数も減っちゃうかもしれないし、 社会的に見ればかなり幸福の総量は減っちゃうでしょう。 功利主義的に考えても、強制すべきだ、ということにはならないでしょう」