『人間知性論』

(にんげんちせいろん An Essay concerning Human Understanding)


ロックの主著の一つ(1690)。 「人は生まれながらに知識を持っている」 という知識の生得説を批判し、 「おれらは生まれたときは真っ白で、 経験によってのみ知識を得ることができるんだ」 という経験論を説いている。

大槻春彦によって正確な訳が出ているので、ぜひ一度手にして読んでほしい。 (中央公論社の世界の名著に抄訳が入っている。 岩波文庫で4巻本の全訳があるが、これはなかなか手に入らない)

26/May/2001


(以下は1997年ごろの部分意訳です)

もしもおれたちがさ、「すべての物事を知ることは絶対にできない」って言っ て、何もかもを信じなくなっちゃうとしたら、それって「おれには羽根がない から飛べない」って言って、両足を使わないでじっと座って死んじゃうみたい なもので、馬鹿みたいだよね。

John Locke, An Essay concerning Human Understanding, The Clarendon Edition of the Works of John Locke, 1975, p. 46.

何が言いたいのかと言うと、「全てのことを確実には知ることはできないから と言って、手に入る知識まであきらめてしまうやつは馬鹿である」ということ である。

「全ての物事は疑わしい」と考える懐疑論に対する批判とも受け取れる。

また「ちょっとでも疑わしい知識があればもうみんな疑わしい。一部がだめな ら全部だめ」という完全主義に対する批判とも考えられる。上のと似たような ことだが。

まあ、経験主義者ロックらしい人生観ですな。


わたしが「快さpleasure」あるいは「苦しみpain」と言うときに意味している のは、何であれわたしたちを喜ばすdelightものあるいは苦しませるmolestも の全てである、と考えていただきたい。その場合、たとえ快苦がわたしたちの 心の中で考えられる事柄から生み出されようと、わたしたちの身体に作用する 何らかの事柄から生みだされようと、なんら違いはない。というのも、その一 方を満足、喜び、快さ、幸福などのどれで呼ぼうと、またその他方を不快 uneasiness、悩みtrouble、苦しさ、苦悩torment、苦悶anguish、不幸misery などのどれで呼ぼうと、それらの名称はやはり同じことでただ程度が異なる過 ぎず、快さあるいは苦しさの観念、すなわち喜びあるいは不快の観念に属して いるからである。

(ibid., p. 128)

おやまあ。政治理論ではベンタムの宿敵である ロックも、人間本性の理解においては非常にベンタムに近いんですね。ここで 言われているのは、快楽っていうのは肉体的などろどろしたやつだけではない よ〜、ってことです。精神的な快も身体的な快もみんな同じ快なんだよって。

この節の後でロックは、心理的快楽説(人間はより快さの多い、あるいはより 苦しさの少ない行為を選択する)を説いています。こういう発想って、功利主 義者たちだけでなく、英国人はみんな多かれ少なかれ持っていたわけですな。


第二巻第二十章
快楽と苦痛の様々な形態modeについて

1. 快楽と苦痛は単純観念っ

単純観念っていうのは、五感による感覚と心の働きについての反省ってい う二つの仕方で得られるのでした。

それで、そうやって得られる単純観念の中でも、快楽と苦痛はとりわけ重 要な単純観念なんです。

どうしてかって言うと、身体においては感覚は単にそれだけで生じるか、 または快楽や苦痛を伴うわけだけど、ちょうどそれと同じで、心が考えたり、 知覚したりするときもやっぱり、考えや知覚は単にそれだけで生じるか、また は快楽や苦痛を伴うからなんです。快楽と苦痛って言ってもいいし、喜び delightと苦しみtroubleって言ってもどっちでもいいんだけどね。

ところで、この快苦の観念は、他の単純観念と同じで、「かくかくしかじ かのものである」って説明することができません。それに、「快楽」とか「苦 痛」という名前を定義することもできません。快苦を知る方法はただ一つしか なくって、それは五感によって生み出される他の単純観念についても言えるこ となんだけど、経験によるしかありません。

っていうのも、仮に快と苦を「善goodや悪evilが存在すること」であるっ て定義したとするでしょ。けどその場合、この定義の仕方は、善と悪がいろい ろな仕方でぼくらの心に働きかけているときに、ええと、善と悪がさまざまな 仕方でぼくらに働きかけているときってのは、ぼくらがそれらについて考慮し てるときって言い換えてもいいんだけど、とにかくそのときに、「ぼくらが自 分自身の中で何を感じているかについて考えてみなさい」って説明するのと同 じことになるでしょ。

2. 善と悪とは何かっ

そこでさ、何かが善いとか悪いっていうのは、それが快や苦に対してどう いう関係を持っているかってことに他なりません。あれっ、「他なりません」 はちゃんとした日本語だっけ?

ぼくらが何かを善いって言うのは、それが自分の中に快楽を生み出してく れるとか増やしてくれるとか、もしくは苦痛を減らしてくれるとかしそうな場 合や、または、その善いものがあるおかげで、何か他の善を得たり保てたりで きるとか、他の悪を持たないで済んだりしそうな場合です。

それから、反対に、ぼくらが何かを悪いっていうのは、それが自分の中に 苦痛を生み出したり増加させたり、それとか快楽を減らしたりしそうな場合や、 または、その悪いものがあるせいで、他の悪を持つことになったり、他の善を 失ったりしそうな場合です。

あ、ぼくはこれまで快苦って言葉を使ってきたけど、これは体の快苦と心 の快苦の両方を指していると理解して下さいね。世間ではよくそういう風に区 別されてるでしょ。けど実際のところはさ、快苦っていうのは単に心の異なる 状態でしかなくって、この心の状態が時には体の変調で引き起こされたり、時 には心が抱く考えによって引き起こされたりするわけなんだよね。

ロック君による快苦と善悪の定義です。って言っても快苦はロックによると 定義不可能で経験的にしか知ることのできないものですが。

快苦を用いた善悪の定義はベンタムとほぼ同じと考えられます。ロック 君がベンタム君よりもずっと前にこんなこと言っているとはなかなか感心させ られます。もちろんベンタム君はロック君のこの一文を読んでるはずですが。

しかし、ロック君もやはりムーア先生 に「君は自然的誤謬を犯しておるっ」って叱られるでしょうな。


第四巻第九章
存在の三種類の知識について

3. 自分自身の存在に関する知識は直観的である

自分自身の存在についていうと、ぼくらは自分の存在をほんっとに明らか に、またほんっとに確実に知覚するから、証明なんて必要ないし、また証明で きっこないんだよね。

というのも、ぼくらにとっては、自分が存在しているっていうこと以上に 明らかなことはないんだから。

ぼくは考える。ぼくは推論する。ぼくは快苦を感じる。けど、これらのど れかがぼく自身の存在よりも明らかであるなんてことがありえるだろうかっ。

たとえぼくが他のすべてのものごとについて疑ったとしても、まさにその 「疑うこと」によってぼくは自分の存在を知覚しちゃうんだから、そのことに ついては疑いようがないわけです。

というのもね、もしぼくが「自分が苦痛を感じている」ということを知っ ているとすると、明らかにぼくは、「自分の感じている苦痛が存在する」こと を知覚するのと同じくらい確かに、「自分が存在している」ことを知覚してい るでしょ。また、もしぼくが「自分が疑っている」ことを知っているとすると、 ぼくは、「「疑い」と呼ばれる思考作用が存在する」ことを知覚するのと同じ くらい確かに、「疑っている者が存在する」を知覚してるでしょ。

だから、経験によると、ぼくらは自分自身が存在することについて、直観 的な知識と、「ぼくは存在する」という疑いえない内的な知覚を持ってます。

感覚や推論や思考のすべての行為において、ぼくらは自分自身の存在につ いての意識があります。そして、このことに関しては、ぼくらは最高度の確実 性を持っています。

ロック君の自己の存在証明です。 デカルト君と似てますね。ロック君に よると、自己の存在は直観によって知られ、神の存在は証明によって知られ、 それ以外のものの存在は感覚によって知られるんだそうです(これが「存在の 三種類の知識」の内容)。

上で言われたように、自己の存在は100%確実なんだけど、ロック君は 「これがわからないやつなんかとわたしは話すつもりはない。そんな馬鹿でも 腹が減ったら自分が存在することがわかるだろう」なんて意地悪なことを言っ ています(第四巻第十章第二節)。

やっぱりこれは疑いえない知識なのかなあ。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jan 28 07:20:26 JST 2000