(じゆういし free will)
何故、自由意志学説によって人が元気づけられ、 自分を高貴なものと考えるかといえば、 それはこの自由意志学説によって、 我々に自分の性格形成を支配する本当の力が備わっているという確信を 与えられるからだ。
---J・S・ミル
意志の自由などとも言う。 人がある行為をするかしないかと考える場合、 その人がどちらを選ぶかはあらかじめ必然的に決まっているわけではなく、 その人の意志しだいでどちらも選びうる、 と考える立場。 対照的に、 そのような意志の自由はないとするのが決定論 である。
責任とか、(キリスト教的な)罪という考え方には、 「やらないこともできたはずだ」 という意志の自由が前提されることがしばしばであるので、 昔から激しい議論になってきたようだ。
ちなみに、 ホッブズのように、 決定論をとりつつ意志の自由を認める立場を、 両立説compatible theoryと言う。(04/18/99)
両立説についての補足: ホッブズのような両立説論者にとって、 自由であるとは「自分の意志した通りに行為すること」であり、 したがって、「意志すること」自体が自由かどうかは問題ではない。 それゆえ彼らにとっては、 ナワなどで物理的に拘束されているような場合は、 自分の意志した通りに行為できないから自由ではないことになり、 そうでない場合は自由であることになる。 これは、非常に普通の意味での「自由」だと思われる。 (02/May/2000)
自由の項も参照せよ。
上の引用は以下の著作から。