その日、いつもより急いで白衣を脱ぎ、身支度を整えテレビをつけました。舞鶴はすでに暴風雨圏内です。怖いくらいに増水した川を横目に同僚と駐車場へ向かいます。あわてて車に乗り込み、逃げる様に走り出しました。私の自宅は舞鶴西端の由良川沿いです。舞鶴の東端にある病院から東舞鶴市内を通り、西舞鶴市内を抜けさらに峠を越えなければなりません。距離にして約20km、時間にして35分くらいです。
帰宅途中に横断するどの川も今にも橋に届きそうなくらい水かさが増えており、時折突風にあおられながら車列に沿って走ります。西舞鶴の中心部に来た時、歩道を歩く人の足元を見ると、ふくらはぎの所まで水につかっていました。『ドキッ』としました。この場所で水につかるのは初めてです。これから満潮時にいつも冠水する場所を越えなければなりません。迂回してその道を避けようかとも思いましたが、路地は水でいっぱいです。思い直して、国道を行くことにしました。やはりそこは水が深く、車が一台路上に停止していました。その横を緊張しながら通って行きました。それからも動けなくなった車を横目に、車の流れに添って行きました。やっと峠の麓に差し掛かり、水も出ていない道路へ出てほっとしたのもつかの間で、車はピタッと止まり峠に向かう車のライトの帯は動きません。病院を出てから1時間半以上たっていました。
どれくらい止まったのでしょうか、そういえば対向車も来ません。止まってから30分ぐらい経ちました。対向車が何台か来た後、やっとライトの帯が動き出しました。峠付近の水が噴出していました。両脇に動けなくなった車がいて、警察の方が誘導しています。何とか前の車について行き峠を越えました。由良川を渡りやっと国道175号線に出ました。家まであと10分くらいです。
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あふれる川
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削り取られた道路
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車のスピ−ドをゆるめて左折した途端、急に水が深くなって車のライトがちらつき、消えそうになりました。とっさに車のギヤをドライブからセカンドに切り替えて止まらずに進みました。無我夢中でした。さらに進むと土砂崩れの場所があり、警官が立っていました。その横を通ってまた、水が深そうな場所に差し掛かりました。しばらく行くと水が増えるばかりです。再びライトがちらつき、今度は本当に車が止まってしまいました。車のライトと車内の電気は点いています。近くに家は無く、水は大型トラックのタイヤぐらいまで来ていました。遠くにある由良川が大河となり、一人車で浮かんでいるようでした。
怖いくらい静かでした。このまま死んでしまうのかと思いました。気が動転して、携帯をかけようとした瞬間足元に落としてしまいました。足元は冷たく水が入って来ていました。必死で携帯を拾いましたが、水につかり画面は真っ白です。もうだめだと思いました。横をトラックが通りました。窓を開けて、身を乗り出しました。重みで車が傾きましたが、必死で叫びました。「助けてください!!」声は届きません。バスも乗客を乗せて走り去って行きました。
その時です、白い乗用車が一台目の前に来たかと思うと、「バタン」と男性がドアを開けて降りてきました。その時初めて車から出て歩いて行くことを思いつきました。急いで鞄だけ持って車から降りました。水はすでに腰の辺りまで来ていました。夢中で向うに見える民家の明かりだけを頼りに道路の真中を歩きました。裸足でした。民家に着いたころには、水は胸の近くまで来ていました。3階建ての家でした。外にいる人に助けを求めて男性と私は避難させていただくことになりました。石垣をよじ登り家に入りました。1階が理髪店の仕事場で、玄関は2階にあります。ドアはまだ外に誰か居るのか開けたままで、中には先客が5人居ましたがみんなずぶ濡れです。震えが止まりませんでした。携帯を借りて夫に避難先を伝えました。夫は手前の駐在所に避難していました。年老いた義父母と子どもが待つ自宅には、停電のためか連絡がつきません。後から男女2名が消防署の方と一緒に来られました。女性の話では車が止まりパニックになっている所を消防車に乗せてもらい避難する途中、消防車も止まってしまったそうです。水の深さは女性の背丈ほどあり、消防車の上に避難するように言われたそうですが、怖くてとても上がれなかったそうです。それで消防士におんぶされて、最後には消防士は泳いでたどり着いたそうです。消防車の上には隊員と一般の方が取り残されていました。
2階に上がり、借りた服に着替えて少し落ち着いたころ、停電になりました。外は時折突風が吹きます。消防隊の方はまだ2名取り残されているので、2階の玄関先で二人を励ましていました。さらに水かさが増し、私たち9人と家族の方8人は3階へ移動しました。暗闇の中、小さな明かりを頼りに2階の荷物を3階へ運びました。消防隊は玄関先のままです。どうやら水は消防車に残された人のすれすれまで来ていて、「近くの電柱か街路樹に飛び移れないか」と言う声が響いて来ました。しばらくして「難しい」と言う声が聞えました。外は暗く消防車の姿も見えません。ただ直ぐそばを川が流れるだけでした。あの二人はどうなったのか、気になってなかなか寝付けません。その時、自衛隊の船が救助に向かっていると言う声が響きました。その後、自衛隊員の呼びかけに答える元気な声が聞こえて来ました。良かった無事だ。どうにか流されながらも街路樹に移れたようでした。こちらの消防隊員の声援も強く聞こえます。1分1秒が長く感じられます。1時間が経ちましたが、一向に救助船の姿が見えません。外で声が響きます。「救助船はどこですか」「向かって居るからがんばれ」「辛いです」「がんばれ」、声だけが響きわたります。とうとう自衛隊の救助船は流れが急なため救助を断念しました。「空が明るくなったら救助隊が来るから、それまでがんばれ」と言う声が聞こえました。闇の中に風の音と「おおーい」「おおーい」と言う声と、時折笛の音が響いていました。自然の恐ろしさと人間の無力さをひしひしと感じた夜でした。
空が明るくなると同時にヘリコプタ−の姿が見えました。1台、また1台、来たと思ったらまた行ってしまいました。『位置を知らせろ』と言う消防本部の連絡がありました。街路樹につかまっている二人は空に向かってライトを照らしているが、外が明るくて見えませんでした。ヘリコプタ−は探していました。3階の窓から身を乗り出して手を振る者、ライトで二人を照らす者、服を回す者みんな必死です。やっと街路樹の二人を見つけたヘリコプタ−から2名レスキュー隊が降りて来て一人ずつ救出していきました。拍手喝采でした。よくここまで寒くて冷たい中がんばりました。そして、「同僚ががんばっていますから」と言って、家の中にも入らず、暖かい物も飲まないで応援しつづけた消防隊員にも拍手です。
国道175号線に取り残された人々のドラマはいたるところでありました。観光バスの話は有名ですが、土砂崩れの前で立っておられた警察官も逃げ遅れた人たちとタンクロ−リ−の上に避難されたとかで、「警官になって、初めて死ぬかと思いました」と言われました。今年4月に赴任されたばかりで、もうじき赤ちゃんが生まれる予定だそうです。観光バスを含む40台以上の車が巻き込まれて、亡くなられたのはただ一人と言うのは本当に奇跡と言うほかはありません。この奇跡の影には励まし合い、助け合いが合ったからだと思います。
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後片付けをする人々
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橋が水で埋まっています
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観光バスの前で流されたトラックの運転手の方には本当にお悔やみを申し上げます。午後には水も引き、スリッパを借りて、夫と歩いて家に帰りました。通りは水に浸かった家でごった返していて、まるで戦時中の様でした。(戦争は未経験です)。車は廃車となりましたが、自宅はあと数センチの所で水が引いて大丈夫でした。それでも、おじいちゃんの指示で1階の畳や、オーディオ製品などの持てる範囲の電気製品をみんなで協力して2階へ上げたそうです。家に帰れず連絡もとれなかったので、家族はみんな職場でがんばっていると思っていたそうです。今回の台風一過ではお年寄りの経験と智恵の豊富さと子供の成長を感じました。
今もなお、水害で苦しんでいる人々、また、後に起こった地震で被災して不安な日々を過ごされている方々、明日はきっとあります。がんばって下さい。
そうそう、私の前で車から降りた私の命の恩人は、腰まで水に浸かりながら左手に鞄を持ち、右手に黒いこうもり傘をさして、助けてもらったおじいさんに「あんた傘はいらんやろ、傘は」と言われるまで傘をさし続けていました。あなたはいざとなったらどんな行動をとりますか? |