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コラム

「命をみつめて」 京都第二赤十字病院 芦田 英之

医師より 肺に水ありと 「僕は長くない」
淡々と 私に告げる
野の花を喜び 音楽を聴き
一日穏やかにながれる日
かっては二人 仕事に忙しかった
(中略)
夜中にお風呂
看護婦さんに内緒 二人ではいる
浴場の窓より ながれる夜空の星
仕事で通った筑後大堰 二人で歩いた高良山
よく走った筑後川 最後の勤務地 春振山の麓
展望風呂にて眺む
久留米で過ごした 二十五年間
(安里 明子さん著 「生とは 死とは」から)
読売新聞の医療ルネサンスで取り上げられた内容を抜粋してコラムに書かせて頂きます。
臨床検査技師であったご主人の看病を通じて「命をみつめて」という心境が伝わり、私は出勤前に新聞を読み泣いた事を思い出しました。

肺がん治療を終えた臨床検査技師の安里 昌家さんは99年3月、57歳の誕生日に退院した。「もう入院はしたくない」「精いっぱい。充実した生き方をしたい」・・・・・・
6月のある朝、玄関にシャーレが置かれていた。
安里 昌家さんが自分で取った血痰だった。
妻は何も聞けなかった。血痰から癌細胞が見つかった。「入院準備を頼む」
昌家さんは勤務先から自宅に電話した。勤務先の検査室の荷物を片付けた。
九州がんセンターに再入院した。抗癌剤の点滴が始まった。カテーテルの処置で気管に近い動脈が傷ついた。約3週間ベッドで動けず、治療は困難になった。
妻の心労は限界に近づいた。「治ると思い看護をした日は、気も張っていた。今は甘えたくても、だれもいない」
「これも俺の運命だから」と夫は仲間の働く病院で恨み言を何も言わなかった。
二人は残された時間を安らかに生きる道を選んだ。
10月、久留米のホスピス病棟のある病院に転院した。ホスピスはとても新鮮だった。
見舞いの友人と喫茶や音楽を楽しみ、妻も一緒に泊まり、部屋で食事も作ることもできた。
夫の表情もやっと、ようやく和らいだ。
12月、夫は主治医を招き、とっておきのブランデーを開けた。自分は一滴も飲まなかったが、心から楽しそうだった。
次の日に大量の喀血があった。手当てのかいなく亡くなった。
葬儀の時に義母が言った。「昌家は、本当は沖縄戦で死んだ子。それが57歳まで生かされれたんだ」戦時中に生また夫は3歳の時に沖縄戦を経験した。
身体の弱かった夫は祖母と一緒にやむえず自宅に残っていた。その時に米軍の沖縄上陸が始まった。住民の大半が日本軍のいる南部に避難したが、祖母は親戚を頼り、米軍が迫る北部に走った。3歳の昌家さんをおぶって逃れ、九死に一生を得た。
祖母の兄弟や、親戚は全員亡くなった。
おばあ(祖母)が体を張って守った夫の命。つらくても、残された家族が生き抜くことの大切さを、教えられた気がした。「夫の分まで生きないと」・・・・
3回忌の12月、親しい友人たちが夫を偲んでマラソンに挑戦する事になった。
毎年、マラソンに参加した。夫の人生が仲間の記憶の中で豊かに広がっている事を感じた。

闘病の思いを綴った詩文「生とは 死とは」を自費出版し、ホスピスや看護学校に置かれた。がん患者や家族、若い看護学生らに読みつがれている。
がん患者の家族から手紙などが来る。「自分も同じ思いだった」
感じることがある。「夫が今でも旅をして、いろいろな人に会って励ましている。そんな気がします」
夫の死後、家に閉じこもり、夫の知人に会うだけでも涙がこみあげた3年間だった。
心の整理がついてきたのは最近のことだ。
「ヌチドゥタカラ」沖縄の言葉で、「命は宝」という意味だ。
困難があっても、生きがいを持って生きる時間の中に、人生の宝がある。
「一日一日を大事に生きる大切さを教えてくれたことが、夫の最大のプレゼントだったと思います」

ねえ パパ
人生というマラソンを
わたしは ゆっくりと走ることにしました
どんなに抜かれようと
ゴールの向こうに
あなたは必ず待っていてくれる
そして
「よく頑張った お疲れさま」
こう言ってくれることを
信じて   (安里 明子さん著 「生とは 死とは」から)
皆さん、一日一日を大切に生きて生きましょうね、

引用資料 :読売新聞:宮崎 敦
:「生とは 死とは」:安里 明子

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