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「おいでませ 祇園祭りへ」 京都微生物研究所  杉浦 生美子

 山口県 防府市から上京して始めてみた京都のお祭りは、祇園祭りでした。
祇園囃子・駒形提灯の火・宵山の人波からのがれる様に一筋入ると、そこにも山や鉾が建ち、子供達が厄除けの粽やお守り、ろうそくを売る声が聞こえます。
郷里でのお祭り体験は、神社に参拝して、何を買おうかと露店を巡る・・といったもので、直接参加する事は無かったので、「自分のお祭り」がある子供達を、とてもうらやましく思いました。

祇園祭は平安時代(869年)に疫病の平癒を願う「祇園御霊会」として始まりました。この時、全国の国の数と同じ、66本の矛を建てたという記録が、現代の「鉾」の最も古いよりどころとされています。当時は疫病の流行した年に「御霊会」を行っていましたが、「苦しい時の神頼み」では、あまりにも虫が良すぎる事に気づき、100年後の970年からは毎年行われる様になりました。疫病の流行しない年は人々の心も穏やかで、祈願の甲斐があったと感謝し、疫病が流行った年は、祈願がたりなかったと反省し、御霊会は年々盛大になりました。清少納言の「枕草子」にも 「心地よげなるもの、 神楽の振幡とか持ちたる者。御霊会の馬の長」と記されています。御霊会は「神に対する敬虔な気持ち」を忘れる事なく変化を重ね、今日の様式がうかがえるものに定着したのは応仁の乱の後、1500年とされています。変わらないお祭り「葵祭り」変化を続けた「祇園祭り」はこれから先、どの様になるのでしょう?

縁あって、平成13年1月に中京区に引越して来ました。「室町通三条下がる烏帽子屋町」祇園祭「黒主山」の町でした。6月に「祇園祭に参加しませんか」と言う案内が来ました。せっかく、祇園祭の山鉾町に住むことになったのだから、手伝いをさせてもらえるといいなと思っていたので、「吉符入りには女が参加してもいいのか」と管理人さんから「黒主山保存会」の理事長に確認してもらい、実際に手伝う仕事もあるとの事なので、興味津々夫婦で参加しました。

7月1日 吉符入り:町家(ちょういえ)に集まりご神体礼拝・神事係よりお祭りの段取り等説明八坂神社へお祭りの無事を祈りお千度詣(時代劇に出てくるお百度参りの回数を数える札の入った箱が八坂神社に預けてありました)
7月2日   籤取り式
7月13日   山建て
7月14日   お山飾り付け:町家のお飾り場に御神体をおまつりし、正面・両側の壁面にちまき準備、見送り・胴掛を展示する。
7月15日   14日〜16日まで、お祭り見物の人達に見てもらい、
7月16日   町内の子供も手伝って厄除け粽を売ります。
7月17日  
巡行当日 7:30 いよいよ御神体を山に飾り、胴掛・見送りを付け巡行の準備
9:30 お供は裃姿で集まります。

実際に山を担ぐのは、山建てをされた鳶職の方達と、大学生のアルバイトです。

黒主山は謡曲「志賀」を題材に「古今和歌集」の六歌仙の一人「大伴黒主」をご神体にした山です古今集の序に「大伴の黒主はそのさまいやし、いはば薪負へる山人の花の蔭に休めるが如し」とあるのが誤解され、「黒主」と言う名前のイメージもあり、歌舞伎等では、悪人役にされています。人形は白髪の古希を越えた老人像で、自然木の杖によりかかり、まぶしそうに桜を見上げており、なかなか渋いご神体です。

祇園祭のお手伝いを少しさせてもらい、町内の方達と顔見知りになる事ができました。外で出会った時、挨拶を交わす人が有るのはとてもうれしい事です。烏丸通りから西へ、油小路通。姉小路通から南へ松原通まで、ゆっくり歩いて見て下さい。注連縄がかかっている所は、御神体をお祭りしてある所です。室町通の朝は早く、家の前を掃き清め東に向かって手を合わせる人の姿があります。この様な方達の力で、1000年余の昔からお祭りが伝えられてきたのだと思います。烏帽子屋町は過去に火事を経験し、毎年5月に町内で愛宕山に参拝・火廼用心のお札をさずかり、気を引き締めます。仕事帰り、祇園囃子が聞こえてきます。もう一月すると祇園祭り、今年は3回目のお祭り体験です。皆さんぜひ「浴衣姿」で祇園祭に来てください。

「おいでませ 祇園祭へ!!」黒主山がお待ちしています。

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