大会長挨拶

ごあいさつ  第36回日本看護歴史学会学術集会  会長:矢野正子


 


25回学術集会に向けて

 令和4年8月26日(金)・27日(土)、第36回日本看護歴史学会学術集会を東京で開催いたします。テーマは「健康科学における看護科学の発展―東大看護の歴史から―」です。

 戦後の昭和28年4月、わが国の大学における看護教育は、国内で二番目に東京大学医学部衛生看護学科が誕生しました。それ以来今日までに70年が経過しつつあります。

○ 東大看護学教育の歴史 

 衛生看護学科の誕生は、昭和22年にわが国ではGHQ公衆衛生福祉部の指導の下にあって看護の教育制度の大改革が行われましたが、「看護婦に大学教育をしてどうするんだ」と言われた時期でした。 そんな中、昭和27年、東京の小石川・雑司ヶ谷にありました東京大学医学部附属病院分院の看護学校が廃止されることになり―本院は存続―、分院長であった三沢敬義教授が、代わりに外国に多々あるような四年制の看護大学を試しに作ってみては、と提案し、当時の文部省大学課長の意向もあり、予算と組織が認められ、発足したものです。

○ 衛生看護学科におけるナーシングnursingとは

 昭和28年、衛生看護学科の学科主任は生理学教室の福田邦三先生であることはよく知られています。先生は、昭和28年から32年3月の第一回生が卒業するまで、学科主任として、また先生自身も一回生の卒業と同時期に定年を迎えておられます。 福田先生の学科についての考えを当時書かれたものからすこし引用してみます。福田先生は「看護」という言葉の意味が、本学科と世間ではちがうと述べています。

 「衛生看護学科というもの」から(昭和29年) 言葉の意味 

 「看護」ということを、世間の大部分の人はしろうとにもできるような病人の「みとり」をすることだとか、病人の用事をする下女の役目なすことだと思っているらしいのです。また今までの病院を知っている人は、看護婦は医師の手つだいをする補助員だと思っています。これは日本が、ナイチンゲール以来現在までの間の世界の看護サービスの発達についていくことができず、とり残されたことを意味するものです。そして今となってはヨーロッパ、アメリカのナース(nurse)を「看護婦」と訳し、かの女らがするナーシング(nursing)を「看護」と訳すことが大変な誤解を招くようなありさまになってしまったのです。ナーシングは「はぐくむ愛の心ずくし」であります。自分の子供に対してでも、患者に対してでも、社会民衆に対してでも、学校において学童に対してでも、産業界の労働者に対してでも、すべて健康を回復し、確保し、増進するように世話をすることをナーシングというのです。衛生と言っても同じことです。乳幼児ほ育も妊産婦の健康指導も、学童の養護も、部落の健康管理も、事業所の衛生管理もみなナーシングです。病院では積極的に治療を企画するのは医師ですが、これに呼応して患者の一般的条件を整え、身体的にも、精神的にも、社会的にも、遺憾のないように、慈愛と思慮とをもって患者の回復を促進するように措置をするのが臨床ナースの役目です。

 本学科のねらい  

 近代社会の不可欠の要素として、このような保健活動をする婦人、すなわち欧米的な意味での有能なナースを看護婦、保健婦、養護教諭として日本にもほしいものです。それにはまずその指導者も養成したいのです。そして日本の民衆のために本格的なナーシングを広めようとするのが本学科のねらいです。もちろんナーシングの理論や技術について、真理の解明や方法の改善は本学科の重要な研究課題であります。 

 近代的ナーシングをもって人々のあらゆる意味での健康を回復、保持、増進するように努めるためには、心に深い人間愛をたたえていなければならないことはもちろんですが、なおその上に患者の状態と医師の処置とを理解するに必要な医学知識、保健衛生学の専門的知識、心理学および社会学でとり扱う人間生活の充分の理解、および実施する看護技術の学問的は握と熟練とが必要であります。それで本学科では一般教養としての大学教育を正規の課程で授けた上に、8講座の陣容をもって科学的裏付けのある本格的なナーシングの教育を実施し、右のような能力のある卒業者を世に送るように努めています。

○ 現在までの道のりその後

 衛生看護学科は12年間続き、昭和40年から保健学科と改称され、女子のみの入学を改め、駒場の教養学部で男女ともに進路を選択し進学するようになりました。昭和59年には文部省の視察により保健学科における看護教育に対する指導があり、昭和61年には看護学の教授を迎え、平成4年には健康科学・看護学科と再び学科名が改称されました。そして平成22年には、学科は健康科学の個別の集合体としてではなく、健康に焦点をあてた総合科学としての「ヘルス・サイエンス」を目指す「健康総合科学科」となり、現在に至っております。このように健康と保健を学科の大きなコンセプトとして、看護学または看護科学は学科名に見えたり隠れたりしながらも看護学教室あるいは講座として看護学教育と看護学研究を継続し、発展させてきました。最近ではよりグローバルな視点で、健康総合科学を世界に発信することを目指しています。

○ 東大での看護の芽生え

 東大病院の起源は安政5年(1858)に開設されたお玉ゲ池種痘所とされ、後にこれは医学所となりました。戊辰戦争が始まった明治元年(1868)10月に、日本で最初に看病婦人が働いていた横浜病院が東京へ移転し、これが医学所と合併して大病院となり、その後の東大病院の医療・医学・看護の歴史に繋がっていきます。その中で官立における近代看護婦教育は東大で最初に開始されました。明治20年(1887)10月、帝国大学医科大学附属第一医院で看護法講習規則が作られ、当時来日していたナイチンゲール方式の看護学校の一つ、エデインバラ王立救貧院病院看護学校卒業生M. Agnes Vetchが教育を1年間担当し、桜井女学校附属看護婦養成所から大関和・鈴木雅子ら6名と病院から選ばれた者22名、計28名が1年間学び第一回生となりました。明治23年(1890)年5月には医科大学産科学教室に産婆養成所が開設されました。平成14年(2002)3月にはともに閉校となりましたが、それぞれ110余年の歴史があります。

○ 今回の学術集会が意図する将来の看護学 

 今回の学術集会において、東大で看護を学んだ者として、看護をどう捉え自分の研究・教育・実践などにおいて活かしてきたかを振り返ってみます。これからも看護を担い追求する方々のお話から、ご参加の皆様が看護の過去・現在・未来を考え、検討し考察し、新しい学問を見出していく機会になっていただければ幸いです。