合理的配慮とICF

最近、障害者権利条約関係で「合理的配慮」という言葉をよく聞くようになりました。これはもともと「社会モデル」から来ている概念で、現在のわが国の議論も「社会モデル」の流儀のものが多いようです。しかし、現在、ICFでは「医学モデル」と「社会モデル」の対立を超えて個人と環境の相互作用による生活機能観が示されているのだから、ICFの観点から、合理的配慮を考えてみたいと思います。

合理的配慮(Reasonable Accommodation)

1990年のADA(障害のあるアメリカ人法)で一躍有名になった概念で、障害のある人の場合、環境整備や配慮等がないと能力自体が発揮できないことがあるので、能力評価の前提として、必要な配慮を行うのは社会的責務であるということです。

「差別禁止」と言っても、「あの人は仕事に必要な能力がないから採用しないだけで、他の人と公正な競争での選考を行っています。」という理屈で障害のある人が排除されてしまうと、実質的な社会統合はできません。障害のある人の多くは、少しの配慮があれば、十分に能力を発揮できるので、そのような配慮を前提として能力評価を行うようにすることを要請するものです。

また、配慮がある状況で能力が発揮されているのを「ゲタをはかせた能力」として、処遇等で、実質的に低く評価されると差別禁止の意味がありません。したがって、必要な配慮は社会的責務として当然のこととされ、その条件で発揮される能力を、その人本来の能力として評価し、処遇する必要があります。

職業場面での具体的内容の参考となるのが、米国での実際に行われている内容です。障害のあるアメリカ人法(ADA)制定以来、20年先行して実際に取り組まれてきたわけですから。日本語に翻訳されているものは、
ADAに基づく合理的配慮及び過度の負担に関する雇用機会均等委員会施行ガイダンス(2002)(PDFファイル)
があります。
また、「配慮」と訳されている「accommodation」ですが、その具体的イメージについては、米国労働省のサービスJob Accommodation Network(JAN)のサイトを見ればよくわかります。
日本語訳は、
JAN日本語訳
で見ることができます。

標準的環境(Standard/Unique Environment)

ICFが社会モデルを統合した際に、環境因子や、能力/実行状況の2つの評価点と同時に提案されている概念に「標準的環境」があります。これは、単に能力評価の条件の標準化されたテスト環境のことと矮小化されている感じもしますが、社会モデルの統合の趣旨からすると、合理的配慮の概念に近いものがあります。

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能力(capacity)の評価点とは,ある課題や行為を遂行する個人の能力を表すものである。この構成概念は,ある領域についてある時点で達成することができる最高の生活機能レベルを示すことを目的としている。個人の完全な能力を評価するためには,異なる環境が個人の能力に対してもつさまざまな影響を中立化させるような「標準化された」環境をもつことが必要であろう。この「標準化された」環境とは,(a)テスト場面において能力評価のために通常用いられている実際の環境,または(b)それが不可能な場合,画一的な影響を有すると想定することができる仮想的な環境である。この環境は「画一的」(uniform)あるいは「標準的」(standard)環境とよばれる。したがって,能力は環境により調整された個人の能力を反映する。この調整は,国際的な比較を行うために世界中の全ての国の全ての人について同じでなければならない。この画一的あるいは標準的な環境の特徴は環境因子の分類を用いてコード化することができる。能力と実行状況の間のギャップは現在の環境と画一的な環境の影響の差を反映し,したがって,実行状況を改善するために個人の環境に対して何をなすべきかについての有用な手引きを提供する。(ICF 序論4-2 (3))
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「実行状況」と「能力」は、「標準的環境」と深く関係しています。

合理的配慮の考え方と同じく、標準的な環境整備のある状態で評価されたものを「能力」と呼ぶことにしています。一方、現実では、そのような環境整備が不十分であるために妨げられた「実行状況」にある、という考え方です。視力検査で、検査表との距離や明るさを一定にしないと能力評価に意味がないように、生活面の能力や職業面の能力も、一定の環境、それも、最高に能力を発揮できる環境での測定を求めるものです。

個人と環境の相互作用によって生活機能が決まると言うことは、物理的、人的、「態度的」、制度やサービス面等の環境整備の状況によって、障害のある人の能力が左右されるということです。したがって、職業場面では処遇等に大きく影響する能力評価のあり方として、配慮等の条件を社会的コンセンサスとして明確にする必要性があるということです。

このように、ICFの「標準的環境」と「合理的配慮」を比較すると、「合理的配慮」が差別禁止法の文脈で出てきた理由も分かります。「障害があっても仕事はできるのだから、採用や処遇で差別してはいけない。」という基本的な理念がまずあって、次に、「障害があっても仕事はできる」ということについて、社会側の責務として必要な配慮を要請しているという構図です。(「配慮」という言葉に引きずられて、「仕事のできない人への」配慮として、障害のある人の能力の過小評価を続けるような取組は、「合理的配慮」の趣旨に反するものであることも明らかでしょう。「合理的配慮」は「仕事ができるようにするための」配慮です。)

画一的な標準的環境?

一方、標準的環境という概念が、合理的配慮と異なるのは、それが全世界で画一的だという考え方です。ICFでは、能力評価を全世界で共通化するためのテスト環境ということに偏りすぎて、例えば、職業能力というものを画一的な環境で測定するナンセンスさを見落としているようです。障害のある人が仕事をしやすくするような、合理的配慮のあり方は、一人ひとり、あるいは、職場等の状況によって、個別的に検討されるべきものです。

ICFは、医学モデルと社会モデルを統合したとされていますが、こういうところで違和感があります。実際、ICF開発時に「環境因子タスクフォース」のchairpersonとして、社会モデルの観点の統合を推進してきた当の本人である、DPI(障害者インターナショナル)のRachel Hurstさんが、ICF完成直後に、ICFは医学モデルに揺り戻される危険性があると指摘しています。

「合理的配慮」が社会モデルとして洗練された概念である一方で、社会モデルを統合したはずのICFの「標準的環境」の概念は、特に職業能力のような、社会的参加に深く関係する領域で十分とはいえません。ICFの「標準的環境」は、従来医学モデルを中心として考えられてきた「能力」評価を、「環境因子」の相互作用として科学的に理解すべきものとして方向性を示している点で、単なる社会モデルでの検討枠組を超えていますが、具体的な内容としてはまだ不十分です。この関係がより整理されれば、ICFの医学モデルと社会モデルの統合もより進むことになるのでしょう。


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Yuichiro Haruna