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香取研究室は、医学誌・盲人史・東洋医学研究をメインにしています。

按摩盲人史・鍼灸按摩史研究室

1)按摩史盲人史 鍼灸・按摩史 Q&A 2019

 目次・見出し

はじめに

 第1編 盲人史・鍼灸・按摩史の概要
第1章 盲人史の基本的事項
1.盲人の名前

2.歴史上の盲人の職業
3.当道座(とうどうざ)とは
4.検校(けんぎょう)とは


第2章 杉山 和一について
第3章 和一の弟子と子孫
第4章 和一が賜った俸禄・所領とその変遷




 第2編 理療教育の変遷
第1章 教育制度の変遷
1.明治時代以前の理療教育
(1)杉山 和一が弟子を育てた時期――世界で最も早い障害者教育
(2)杉山流鍼治導引稽古所の創設と継承
(3)技術の伝授方法
(4)和一の流派の広がり

2.明治時代の盲人や理療を取り巻く情勢
3.盲学校の創立・盲教育制度の確立へ
4.あはき存続の危機を乗り越えて
第2編のまとめ


 第3編 盲人史・鍼灸・按摩 Q&A 第1章
第1章 文献について
Q1 医学史について知りたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q2 杉山 和一について知りたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q3 杉山三部書の内容を簡単に知るにはどんな文献がありますか? 
Q4 杉山三部書以外にも杉山流の秘伝書はありますか? 
Q5 盲人の歴史全体について知りたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q6 塙 保己一(はなわ ほきいち)について知りたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q7 按摩の歴史について知りたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q8 按摩の古典を読みたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q9 鍼灸の歴史について知りたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q10 江戸幕府の医療制度について知りたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q11 御薗 意斎(みその いさい)について知りたいのですが、どんな文献がありますか? 
Q12 歴史が好きな人が理療を好きになれるような文献はありますか? 
Q13 香取先生の執筆した物はどんなものがありますか。 
//
第2章 盲人・鍼医について、その1(Q14―Q25)
Q14 歴史上の盲人はどのように規定されていますか? 
Q15 盲人の名前には「一」がつく人が多いのですが、何か決まりがありますか? 
Q16 歴史上の盲人の職業にはどんなものがありましたか? 
Q17 当道座(とうどうざ)とは何ですか? 
Q18 検校とは何ですか? 
Q19 当道座の入門について、どんな決まりがありましたか? 
Q20 盲人はどんな服装をしていましたか? 
Q21 盲人は社会でどんな地位だったのですか? 
Q22 杉山 和一以前にも盲人の鍼医はいたのですか? 
Q23 杉山 和一は幕府の御典医になったのでしょうか? 
Q24 杉山 和一の一生とはどんなものでしたか? 
Q25 杉山 和一の業績は何ですか? 
//
Q26 杉山 和一にはどんな弟子がいたのですか? 
Q27 杉山流鍼治稽古所とは何ですか? 
Q28 杉山流鍼治稽古所の場所はどこにありましたか? 
Q29 門人 三島 安一が、江戸近郊4ケ所と諸州45ケ所に講堂を増設したというのは本当ですか? 
Q30 江戸時代、盲人に対して点字のない時代にどうやって教育が行なわれたのですか? 
Q31 鍼治稽古所の修行の様子はどうだったのでしょうか? 
Q32 鍼治稽古所の免許状は残っているのですか? 
Q33 杉山 和一の子孫はどうしたのでしょうか? 
Q34 盲人はどうして鍼術・按摩術を手にしたのですか? 
Q35 鍼の刺し方は色々あるのですか? 
Q36 江戸幕府にはどんな人が医師として登用されたのですか? 
Q37 医員について詳しく教えてください。 
Q38 医員はどんな服装をしていたのですか? 
Q39 江戸幕府ではどんな診療科目で治療していましたか? 
Q40 江戸幕府の鍼医にはどんな人がいましたか? 
Q41 盲人で幕府に鍼医以外で登用された例はあるのですか?
Q42 吉田流の按摩があると聞いたことがあります。どんな流派なのでしょうか? 
 また、この晴眼者の吉田流と盲人の抗争があったと聞きますがどんな内容ですか。
Q43 どうして按摩と盲人が結びついたのでしょうか? 
Q44 按摩師というと笛の音が町にこだまするイメージがありますが、今も笛は手に入りますか? 
Q45 なぜ、日本では按摩が医療として発達しなかったのですか? 
Q46 古法按摩(こほうあんま)について知りたいのですが。 
Q48 杉山 和一の墓は二つあると聞きましたが、どういうことですか? 
Q49 (平成21年7月3日、茨城県土浦市大聖寺 小林住職から)Q51 (宍塚の自然と歴史の会 鶴田 学氏から)
Q52 (平成23年12月7日、茨城県土浦市教育委員会文化財課 関口氏より)
Q53 (平成23年11月22日、茨城県水戸市在住の兼子國廣氏から)
Q54 江戸時代の各藩藩の医療制度の研究は行われているのですか? 
Q55 私の先祖が東京都の寺に葬られたのですが、戦災などで分からなくなっています。どう調べたらよいですか?
Q56 江戸幕府に関係する鍼医を追求していますが、徳川一橋家の附医・茂木家の詳細が20数年来深まりません。ご存じですか?
Q57 平成24年度の当初に点字出版社の桜雲会から群馬県出身の富岡兵吉【とみおか へいきち】の墓地について問い合わせがあった。さらに、同年5月21日に群馬の地方紙・上毛新聞社の記者の方から「富岡兵吉の偉人伝について記事を書きたいのだが詳細が分かるか」との問い合わせがあった。
Q58 視覚障害者や教育のことを知ろうとすると栗原光沢吉の著書をよく見かけます。どんな人物ですか。
Q59 埼玉県の川越にある喜多院の五百羅漢に按摩をしている羅漢様がいると聞きましたがどんなものですか。
Q60 明示事態の鍼灸の免許鑑札とはどんなものだったのでしょうか?
Q61 杉山鍼按学校があると聞いたことがあるのですが、どんな学校でしたか。
Q62 近代の盲学校の創立を調べたいのですが何か良い本はありますか?
Q63 東海道五十三次に盲人の姿が描かれているということを聞きました。どんなものですか。
Q64 江戸時代の武士達が屋敷を与えられるとどこにあったのか知りたいのですが、どうすれば良いでしょうか。
Q65 本川(もとかわ)自哲の子孫ですが、どのくらいのことや、どんな本に詳しく載っていますか?
Q66 点字が制定される前には、盲人は文字を持たなかったのですか? あったとすれば、どんな文字をどのように工夫していましたか?
Q67 視覚障害者の使用している白杖の歴史は古いのですか?


第4編発表原稿
 1.補訂復刻・瀬間福一郎先生の思い出
 2.歴史に消えた先駆的な盲学校2014年 日本盲教育史研究会発表 
 3.茨城経穴 講演レジュメ 2016 年
 4.江戸から近代の理療の発展  *群馬県の事例を中心にー 2016年 日本盲教育史研究会発表  年
 5.江戸期の理療教育 − 杉山流の理療教育を中心に ―  2017年 社会史鍼灸研究会発表
 6.杉山和一と綱吉 バスツアー 香取  2017 年
 7.医道の日本880 標準点の経穴を臨床で使ってフィードバックヲ 2017年
 8.群馬県立盲学校 校内基礎研修R 専攻科の指導について 2017年
 9.史料にみる杉山和一 杉山遺徳顕彰会講演会 2003年
 10.江戸幕府鍼科医員の治療の一断面 ー天璋院様御麻疹諸留帳」を中心としてー 
『漢方の臨床』52−12、2005年


盲人史 鍼灸・按摩史 Q&A 2014

第1編 盲人史・鍼灸・按摩史の概要


第1章 盲人史の基本的事項

盲人史を理解するために最低限、知っておいてほしい事項をまず書きました。

1.盲人の名前

「杉山 和一」・「塙 保己一(はなわ ほきいち)」など、「一」がつく人が多いのに気づくと思います。さらに調べると「城」で始まる人と、「一」で終わる人の2通りに分けられます。それは、南北朝の時代、琵琶の名演奏者に城一(じょういち)という人がいたことに由来します。

城一の弟子たちが「城方流(じょうかたりゅう、八坂方・やさかかた)」と「一方流(いちかたりゅう)」に分かれた名残です。城方流(じょうかたりゅう)であれば「城管(じょうかん)」「城泉(じょうせん)」などと付き、一方流では「和一」・「保己一(ほきいち)」などと付く、という具合です。

古い文献では、「都」という字がついているケースがありますが、文献の中に「いち」とルビがついてあるものがあり、「春都」は「はるいち」と読むのだと分かります。

2.歴史上の盲人の職業
古くは呪術的宗教者である盲僧・祈祷師として活躍しました。その後13世紀から14世紀に琵琶を弾奏しながら平家物語を語る平曲弾奏や、曽我物語を語る瞽女(ごぜ)が存在しました。
 琵琶にも幾つかの形や流派があるというので、
 日本琵琶楽体系 ビクターエンタテインメント 2010年
でその音色の違いも知りました。

 また、過日、広島県の宮島観光協会(電話0829−44−2011)に平家琵琶のcdが販売しているのを知り購入しました。
 以下のものが在庫で購入しました。1つ1000円でした。

荒尾 務 正調平家琵琶 祇園精舎
荒尾 務 正調平家琵琶 平曲 小宰相
荒尾 務 正調平家琵琶 木曽最期
荒尾 務 正調平家琵琶 入道逝去
荒尾 務 正調平家琵琶 先帝入水
荒尾 務 正調平家琵琶 那須与一
荒尾 務 正調平家琵琶 敦盛最期【熊谷直実】
荒尾 務 正調平家琵琶 卒塔婆流
荒尾 務 正調平家琵琶 大塔建立

 以下のCDもあります。
佐藤正和・三品正保・今井勉 荻野検校没後200年 当道の平家 ー名古屋三代の系譜 こじま録音
今井勉 平家琵琶 cd  琵琶法師の世界 平家物語  こじま録音 解説 薦田治子 1.鱸/吾身栄 2.卒塔婆流花 3.紅 4.竹生島詣・生食葉 5.宇治川/横笛 6.那須与一 7.祇園精舎【復元】  

 また、各地で平家琵琶の保存運動も興っています。
 東京墨田区の江島杉山神社で、新潟大学名誉教授  鈴 木 孝 庸先生を中心に実施されています。
(平曲) 一ツ目弁天会(ひとつめべんてんかい)
Mobile:070-6980-7123/FAX:03-3304-3939
E-mail:heikyoku.hitotsume@gmail.com
Facebook :@hitotsumebenten

 【参考】
安田 宗生 肥後の琵琶師―近世から近代への変遷/2001年 三弥井書店
 山野 幡能 盲僧 歴史民族学論集2 名著出版
薦田治子/著 平家の音楽 当道の伝統 (2011) 第一書房
西日本文化協会編 福岡県史−文化資料編 盲僧・座頭−【1993】 福岡県
高松敬吉編 宮崎県日南地域盲僧資料集(伝承文学資料集成 18)【2004】 三弥井書店
福田晃編著 荒井博之編著 巫覡・盲僧の伝承世界 第1集【1999】 三弥井書店
福田晃編著 荒井博之編著 巫覡・盲僧の伝承世界 第2集【1999】 三弥井書店
福田晃編著 荒井博之編著 巫覡・盲僧の伝承世界 第3集【1999】 三弥井書店
末永和孝著 日向国における盲僧の成立と変遷−盲僧史への一視座として−(みやざき文庫 23)【2003】 鉱脈社
兵藤裕己著 琵琶法師−〈異界〉を語る人びと−第3刷(岩波新書 新赤版 1184)【2009】 岩波新書


 さらに江戸時代には鍼・按摩、浄瑠璃、琴(筝曲)、三味線などの芸能へと、活躍の場を徐々に広げていきました。
 芸能面では、長唄・常盤津(ときわづ)・謎解き話芸・狂言・尺八・歌念仏・舞曲・声帯模写等の諸芸能に活躍した盲人が多くいました。
なお、箏(琴)では八橋検校城談(やつはしけんぎょうじょうだん・1614−1685年)が有名です。

釣谷 真弓『八橋検校十三の謎 ー近世箏曲の祖』(アルテス・パブリッシング)は、興味深く八橋検校を理解できる書物です。

 また、江戸時代には、幕府の盲人保護政策として高利貸しが認められました。


3.当道座(とうどうざ)とは
 当道座がいつから設けられたのか。
盲教育史研究会 ミニ研究会      令和元年(2019)6月29日(土) 於 江島杉山神社で行われた
 平家琵琶と當道座           
新潟大学名誉教授  鈴 木 孝 庸先生の講演がありました。

 「当道」について、「もともとは、各種の藝能・藝道に携わる者が、「われわれが伝承し演奏する藝能の道」という一人称的表現であったものが、盲人の技藝または組織および所属員に関する一人称的・三人称的呼称に変化・固定して行ったと考えられていると思います。」と指摘しています。


盲人達は、13世紀から14世紀ごろに当道座という音楽集団を作り、この集団に属することで身を守り、社会的地位を高めようとしました。当道座は平曲の琵琶法師としての芸能集団であり、その特徴は以下のようにまとめられます。

(1)階級制度である

(2)師弟制度である

(3)京都を中心とした全国組織である

この本拠地は「当道職屋敷(とうどうしきやしき)」と呼ばれ、現在の下京区仏光寺通東洞院東入にあったといわれています。

明治4年(1871年)11月3日、太政官布告によって廃止されるまで、当道座は盲人をまとめ、権利を守る重要な集団でしました。

その痕跡は、洛央小学校の片隅に碑文があることで確かめることができます。平成23年10月28日に現地を訪れてみました。
にぎやかな町中にあり、小学生の元気な声も響いていました。

4.検校(けんぎょう)とは
当道座の最高の盲官です。盲官とは当道座を維持する役目の者たちで、江戸時代の封建社会を象徴するように、座内も階級制度でした。

 盲官は4つに分かれていて、下から座頭→勾当(こうとう)→別当→検校となります。更に4つの盲官の中が、16階73刻に分かれていました。
最も下が初心・無官、一つ上が打掛(うちがけ)です。

1刻上がるごとにお金を上納するしきたりだったようで、この点は今の華道・茶道の家元制度のようです。

なお、検校まで昇ると719両かかるとの計算があります。上納されたお金は京都の職(しき)屋敷に納められ、配分されました。当道座に定員はなかったので、数多くの盲人が入ればそれだけ座が潤いました。また、官位昇進の速度・年齢の制限もなく、その財力により一夜にして検校となる者もいました。
江戸時代に、大金が出来た盲人は昇進のために京都に上りました。中には不幸にして大金を携えていたので強盗に襲われて死んでしまう事件もありました。

5.当道座への入門
古い式目では、10才以下は親が決め、11才以上は本人次第となっていました。
寛文10年(1670年)6月23日に式目が改められ、15才以上が本人の心次第となりました。

6.歴史にみる盲人の服装

生活の豊かでない盲人を除くと、名のある盲人は歴史上、琵琶法師・勧進などの僧の系譜を引くことから僧体をとりました。盲官となると、身分の違いを明らかにするために服装や杖が決められていました。

具体的には、服装は階級が上がるにつれて綿布・浅黄→紫素絹→緋(ひ・あか)の衣、杖は白色の樫木のL字杖→黒塗の棒→鳩目塗の両橦木(しゅもく、T字杖)などと決められていました。

平成23年10月28日に京都府盲に所蔵されている元松阪検校の所有という検校杖(けんぎょうづえ)を見せて頂きました。螺鈿(らでん)の両橦木(しゅもく、T字杖で、3段で分かれていて、回してはめ込むものでしました。全長は135センチメートルと意外に長いのもので初めて触らせていただきました。
京都府盲の資料室に記して感謝申し上げます。




7.鍼の刺し方(刺鍼法)

刺鍼法には大きく三つあります。

一つめは、中国から最初に伝えられた方法=撚鍼法(捻鍼・ねんしん・ひねりばり)です。これは道具を何も使わず身体に挿入する方法で、下手な人がやると切皮(鍼が皮膚に侵入する)時に大変痛いものです。

二つめは、戦国時代に御薗意斎(みその いさい、1557−1616)が創始したという打鍼法(だしん・うちばり)です。これは金(きん)の鍼を使い、主に腹部の硬い部分に鍼を立てて木槌で鍼の頭を少しずつ叩いていく方法です。天皇寵愛の牡丹が枯れそうなのを鍼で治したというので「御薗(みその)」の名前を授かり、代々宮中の鍼医として活躍し、子孫が明治期に京都府盲で教員となったといいます。その後、時代の波の中で使用する人が次第に少なくなり、現在はほとんどみられません。

三つめは、杉山 和一(1610―1694)が大成した管鍼法(かんしん・くだばり)です。いわば御薗意斎の打鍼法を、盲人が使いやすいように管で鍼をリードさせ、木槌の代わりに指で鍼の頭を叩く方法です。
 師匠の入江流の伝承でもありました。

後者二つは、日本独自の刺し方です。

 以下の書籍を参考にしてください。
京都府医師会医学史編纂室 編『京都の医学史 本文編』(思文閣出版、1147-1157頁、1980年)
 〃『京都の医学史 資料篇』(思文閣出版、1980年)
 松本弘巳『刺鍼技術史』(谷口書店、1991年)なる書籍もあります。
東京九鍼研究会編『ビジュアルでわかる九鍼実技解説 九鍼の歴史から治療の実際まで』(緑書房、2012年)


8.幕府に登用された盲人
 江戸幕府には、鍼医師として12人、平曲2人、鼓弓1人、俳諧1人、不明1人の計15人が知られています。
 ここでは、鍼医の名前を述べてみたいと思います。
 

 山川城管(貞久、?〜1643年) 
 江戸幕府の旗本であったが、中途失明し鍼医となった。3代将軍徳川家光のブレーン=談伴衆でもあった。
 学友の澤登 寛聡「「平塚明神併別と城管寺縁起絵巻の成立」(東京都北区『文化財研究紀要』第6集、1993年)を参照下さい。


 杉山和一
 5代将軍徳川綱吉に召し出され、度々鍼施術を行ったが、御殿医とはならず、「扶持検校」として勤めた・


盲人の医員…10家
  三島検校安一(やすいち)
 杉岡検校語一(つげいち)
 杉島検校不一(ふいち)
 杉枝検校真一(さないち)
 島浦検校益一、(えきいち)
  板花検校喜津一(きついち)
 島崎検校登栄一(とえいち)
 石坂検校志米一、(しめいち)
  (以上杉山門弟)
 平塚惣検校東栄一
  (幕末の杉山流)
 芦原検校英俊一(源道)

 横田観風『鍼道発秘講義 葦原源道著『鍼道発秘』解説』(医道の日本社、)
 横田観風『新版・鍼道発秘講義』(日本の医学社、2006年1月)

 ※栗本杉説俊行(晴眼の鍼医、杉山和一の弟子)

 後にも掲載してありますが、大名諸家に登用された弟子達も紹介しておきます。

◆ 大名の鍼医、4名

(1) 徳山 ゑ一
出羽国米沢藩上杉綱憲

(2) 松山 てる一
加賀国金沢藩前田綱紀

(3) 本川(もとかわ)自哲
肥前国大村藩大村氏

(4) 美尾都(みおいち)
肥前国大村藩大村氏

◆ 大名の按摩医、2名

(1) 美津都(みついち)座頭
(2) 春都(はるいち)座頭

いずれも、因幡国鳥取藩池田氏


第2章 杉山 和一について

盲学校の職業教育に鍼・按摩が存在するのは杉山 和一(1610―1694)の存在があったらばこそ、といえます。和一が江戸時代に、盲人へ鍼・按摩の教育を施し、盲人の職業として鍼・按摩を定着させたことが、明治の盲学校設立後の職業教育に鍼・按摩が取り入れられた経緯へとつながっていきました。以下、和一について説明したいと思います。

まず、和一の業績をまとめてみました。

(1)鍼の刺鍼技術の一つである管鍼法(かんしんほう)の大成。

(2)鍼・按摩の教育と施設の設置(杉山流鍼治導引稽古所)。

(3)鍼灸・按摩を盲人の職業として確立させた。

(4)弟子達を幕府や諸大名の医師に仕官させた(杉山自身は医員に登用されず)。

(5)将軍綱吉に寵愛され、その庇護下に当道座(盲人の芸能集団)組織を再編。

(6)当道座の中心を関東にも設けた(関東惣検校、惣録屋敷)。

最近、様々な史料が公開され、入江流(いりえりゅう)の鍼術との関係が明確になり、和一が管鍼術を創始したことはなく、その大成や伝播に功績があったとなりつつあります。

次に、和一の一生を表1にまとめてみました。なお、和一の肖像は、藤浪 剛一 著『医家先哲肖像集』 刀江書院(1936年)で確認することができます。多くの盲人と同様、坊主頭に僧体の姿だったようです。


年 月 日 で き ご と  和一年齢  (数え年)
1603(慶長8) 2月12日 徳川家康が征夷大将軍となり、幕府を開く(62才、江戸幕府の成立)。 −
1604(慶長9) 2月4日 江戸の日本橋を五街道の起点とし、諸道を整備する。 −
1605(慶長10) 4月16日 家康は将軍職を徳川秀忠に譲ることにし、この日秀忠が征夷大将軍に任命される(2代将軍)。 − 「徳川家康」から「徳川」を取る。
1610(慶長15) − 和一、伊勢国津藩(藩主・藤堂高虎)の家臣杉山権右衛門重政の長男として生まれる(戌年)。 1 「戌年生まれ」から「生まれ」を取る。
1612(慶長17) 3月21日 幕府がキリスト教の布教を禁止する。 3 「江戸を取る。」
1614(慶長19) 11月15日 家康、諸大名に大坂城を攻めることを命じる(大阪冬の陣始まる)。 4 「攻めることをを」→「を」を1つ取る。「大阪冬の陣」は「坂」に変更。
1615(元和元) 4月6日 家康、ふたたび諸大名に大坂城を攻めることを命じる(大坂夏の陣始まる)。 6

1615(元和元) 7月7日 幕府が武家諸法度を制定し、諸大名や家臣の決まりを定める。 6 「江戸」を取る。
7月17日 幕府が禁中並 公家諸法度を制定し、天皇・貴族・僧侶の決まりを定める。 ルビは「きんちゅうならびにくげしょはっと」。「江戸」を取る。
不明 − 和一、失明する(5才か10才)。 −
1616(元和2) 4月17日 家康が駿府城で没する。 7
不明 − 和一、江戸の山瀬啄一の弟子となる。 − ルビは、やませたくいち(ルビは均等割付にせず漢字に対応する位置に全てする。)
不明・伝説 − 和一、江ノ島の岩屋で管鍼法を考え出す。 − ルビはかんしんほう。「江の島」→「江ノ島」。
不明 − 和一、江島神社の恭順院に鍼術を学ぶ。 − ルビは、きょうじゅんいん
不明 − 和一、京都の入江豊明に鍼術を学ぶ。 − ルビは、いりえとよあき
不明 − 和一、江戸に帰り名声を上げる。 −
不明・伝説 − 和一、江ノ島道(藤沢宿から江ノ島)沿いに道標を建てる。その中に「願主 麹町に住む」とある。 − →ルビを「えのしまどう」、「ふじさわじゅく」、どうひょう、がんしゅ こうじまち。「江の島道」→「江ノ島道」、「江の島」→「江ノ島」。
1623(元和9) 7月27日 徳川家光、上洛し伏見城で将軍宣下を受け、3代将軍になる。 14 ルビは、じょうらくせんげ
1630(寛永7) 10月5日 藤堂高虎、江戸の藩邸で没する(75才)。 21
1635(寛永12) 6月12日 幕府が武家諸法度を改め、参勤交代を制度化する。 27 ぶけしょはっと、さんきんこうたい。「江戸」を取る。
1637(寛永14) 10月25日 過酷な政治とキリシタンの弾圧に、九州の島原半島と天草諸島の農民とキリシタンが反乱を起こす(島原の乱)。 28 かこく、だんあつ
1639(寛永16) 7月4日 幕府、キリシタンの増加をおそれポルトガル船の来航を禁止し、貿易国を中国とオランダに限定する。また、海外渡航も禁止する(鎖国の開始)。 30 「江戸」を取る。
1645(正保2) ー "後に和一の弟子となる三島 安一が生まれる。
安位置は、本国は伊豆国三島。父は西谷縫殿助某で、母は常陸国真太群宍塚の天貝氏の女として生まれる。
"
1646(正保3) 1月8日 徳川綱吉、生まれる(戌年)。 37 いぬどし
1651(慶安4) 8月18日 徳川家綱、4代将軍となる。 42
1657(明暦3) 1月18日 本郷の本妙寺より出火した火事で江戸の大半が焼け、多くの死傷者が出る(振り袖火事)。死者の供養のため両国に回向院が建てられる。 48 えこういんん
1658(万治元) 11月23日 和一の鍼の師、山瀬琢一が検校となる。 49 追加
1663(寛文3) 5月 幕府が武家諸法度で殉死を禁止する。 54 ルビはじゅんし。「江戸」を取る。
1670(寛文10) 正月元日 和一、検校となる。 61 けんぎょう、昇進は「となる」がよいか
1676(延宝4) 11月11日 和一、伊勢国津藩2代藩主・藤堂 高次(とうどう たかつぐ)を治療する。 67
12月20日 藤堂高次没する(74才)。 とうどうたかひさ  藤堂高久(藤堂高次の長男を足すことに賛同
1677(延宝5) 7月25日 大久保加賀守忠朝(おおくぼ かがのかみ ただとも)、老中となる。 68 かがのかみ、ろうじゅう
1680(延宝8) 2月11日 和一、江戸城に登城し、家綱を治療する。そのため、鳥取藩への診療ができなくなる。 71 「4代将軍徳川」を取る。
3月8日 和一、弟子の美津都(みついち)を伴い、鳥取藩の芝(千代田区丸の内)にある上屋敷を訪れる。美津都が藩主・池田光仲(いけだ みつなか)を按摩する。 みついち。「藩主池田」→「藩主・池田」
3月18日 和一の弟子美津都が鳥取藩に登用される。和一、藩主・池田光仲にお礼を申し上げる。 「藩主池田」→「藩主・池田」
3月28日 和一、家綱に初見する。 しょけん。「4代将軍徳川」を取る。
5月8日 家綱没する(40才)。 「徳川家綱」から「徳川」を取る。
8月23日 徳川綱吉、5代将軍となる。
1682(天和2) 和一、将軍綱吉から鍼術振興を命じられる?(『皇国名医伝』のみ確認) 家塾を杉山流鍼治導引稽古所として改める? 73
1683(天和3) ー 座等意津一の不行跡について、岩船検校城泉(?~1687)が座頭仲間の法に従い簀巻きにして佃島沖にて沈める。
1684(天和4) 4月27日 和一の弟子春都、鳥取藩に登用される。 75 はるいち
1684(貞享元) 12月22日 和一、相模国大住郡大神村(神奈川県平塚市)座頭密通事件の裁決をする。 ざとう、おおがみむら、みっつう
1685(貞享2) 正月3日 和一、江戸城の黒書院勝手で綱吉に年始の御目見をする。 76
1685(貞享2) 正月8日 和一、綱吉に召されて仕える。
8月5日 和一、幕府に召出され、月給20口を与えられる。
8月 和一、道三河岸(大手町)に116坪余りの屋敷を賜う。 どうさんがし、おおてまち、たまう
1686(貞享3) − 大久保加賀守忠朝、下総国(千葉県)佐倉から相模国(神奈川県)小田原の藩主となる。 77 ルビはかがのかみ、しもうさ
1687(貞享4) 正月元日 和一の弟子杉岡つげ一が検校となる。 78 しょうるいあわれみのれい
正月14日 三島安一が検校となる(43才)。
2月27日 最初の生類憐れみの令が出される。以後たびたび発布される。 やくどし、ごまどう。「将軍綱吉」から「将軍」を取る。「江の島」→「江ノ島」。
7月18日 岩船検校城泉、京都において没する。
ー この年、綱吉は42才の厄年にあたる。和一は江ノ島下の宮に護摩堂を建てて、綱吉の厄除けの祈願をする。
正月元日 和一の弟子・杉岡五一、検校となる。
ー "この年、和一の弟子4人が大名諸家に仕えていることが確認される。

 松平上野守(内藤正勝)殿御内 杉島勾当(不一)
 藤堂和泉守(高久)殿御内 杉浦勾当(五一)"
1688(元禄元) 11月12日 柳沢保明(のちに吉保)が側用人となる。 79 やすあき、よしやす
1689(元禄2) 正月元日 和一の弟子・杉島不一、検校となる。 80 たかじょうまち
5月7日 和一、鷹匠町(神田小川町)に530坪余りの屋敷を賜う。
10月9日 和一、鍼治の効果が大なので、常に綱吉の治療に召される。褒美に月給が廃止され、代わって年俸300俵をもらうようになる。 「廃止され年俸」→「廃止され、代わって年俸」と加える。
1690(元禄3) 7月吉日 "和一の弟子三嶋検校安一(46歳)華鬘(けまん)を某所に奉納。
茨城県水戸市兼子國廣氏所蔵。

1691(元禄4) 7月18日 和一、江戸城中勝手向まで輿に乗ることを許される。 82
8月22日 和一の弟子杉岡つげ一・三島安一が大奥の治療を命じられ、月給20口を与えられ、医員に召出される。 ルビは「みしまやすいち」、「おおおく」。
1691(元禄4) 12月2日 和一と弟子の三島安一が綱吉の治療に当たり、その褒美としてそれぞれに年俸200俵が加えられる。 82
1692(元禄5) 4月17日 和一は江ノ島弁天の護摩堂を祈祷所とすることを願い、許される。江ノ島東岸の漁師町(藤沢市江ノ島)に朱印地10石8斗6升余りを賜う。 83 石・斗・升にこく、と、しょうのルビを。「江の島弁天」→「江ノ島弁天」、「江の島東岸」→「江ノ島東岸」
5月9日 和一、綱吉の治療をし、精勤の褒美に27番目検校より関東総検校に任命される。
5月9日 和一、綱吉から当道座の式目(決まり)を改正するように命令される。 ルビは「とうどうざ」、「しきもく」。
1692(元禄5) 6月9日 和一自身が総検校就任のお礼に京都に上らなければならなかったが、綱吉の治療を昼夜にわたり行っているため暇がなく、職事が代行して京都に上る。和一は、治療をしているが奥医師ではなく「扶持検校」という立場である。 83 「総検校のお礼に」→「総検校就任のお礼に」
9月29日 和一、死ぬまで緋衣・紋白を許される。 ひのころも、もんぱく
9月29日 和一、京都職屋敷に添えて拝領地を賜う。 しきやしき
和一、当道座の新式目(決まり)を作成し、幕府に提出する。
12月15日 和一の弟子栗本俊行、老中・小田原藩主・大久保忠朝家医から幕府寄合医員に召出され、年俸200俵をもらう(俊行は晴眼者)。
1693(元禄6) 正月26日 栗本俊行が奥医となる。 84
5月16日 和一、南本所一ッ目に1860坪余りの屋敷を賜う。
6月18日 和一、綱吉から弁財天像を賜い、本所一ツ目の屋敷の一部を弁天社として認められる(現在の江島杉山神社)。
7月7日 鳥取藩主・池田光仲、鳥取城で没する(64才)。 「藩主池田」→「藩主・池田」
11月10日 栗本俊行、奥医の役料100俵をもらう。
12月9日 杉岡つげ一、行状がわるく幕府の医員をやめさせられ、藤堂高久に預けられる。
12月11日 栗本俊行、年俸100俵が加増され印籠3つをもらう(年俸合計300俵、奥医役料100俵、借宅三番町一色数馬屋敷の向い。
ー この年、江ノ島下の宮に三重塔
ー この年、三島安一が奥医師に任命される。
− この年、和位置と三島安一の屋敷が鷹匠町(神田小川町)に隣接して存在する。
1694(元禄7) 3月10日 和一と三島安一が綱吉の治療にあたる。その褒美として給料を和一に300俵(計800俵)、安一に200俵が加えられる。 85
6月26日 和一、没する(85才)。江の島下の宮に葬られる。に本所二ッ目の弥勒寺にも墓を建てる。
7月11日 和一の養子安兵衛昌長が家を継ぎ小普請となる。
8月12日 和一の養子安兵衛昌長が綱吉に初見する。 ー
8月19日 和一に代わって三島安一が2代目関東総検校になる。
この年 和一の弟子杉枝真一、柳沢保明(吉保)の家臣として勤める。 ー
1695(元禄8) 1月9日 綱吉の50才の慶賀の宴が江戸城中で行われる。 ー けいが、うたげ
9月吉祥日 三島安一が綱吉50才にあたり健康・長寿の祷願のため、大日如来像を建立する(土浦市大聖寺現存)。 とうがん、つちうら、だいしょうじ、きっしょうび
1696(元禄9) 5月11日 三島安一が小谷方の母高岳院を治療し効果があり、褒美として年俸100俵が加増される。 − ルビは「こたにのかた」。
1697(元禄10) 7月26日 幕府、旗本に対して地方直しを始める。和一の養子安兵衛昌長の俸禄も所領に直され、上野国内に800石を与えられる。 ー
1700(元禄13) ー 柳沢吉保の正室・(曽雌)定子が江ノ島の和一の墓の前に灯篭2基を寄進する(和一の七回忌)。 −
1701(元禄14) 2月4日 江戸城で播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつける。 − →年が明朝体
6月1日 三島安一、綱吉より「大弁才天」の掛物一幅を賜う(57才、東京都江島杉山神社に所蔵)。
12月2日 杉枝真一、綱吉が柳沢吉保宅に御成の時に初見する。
1702(元禄15) 12月3日 三島安一、月給が廃止され領地に代えられる。この時、200石を加えられ、合計500石の領地を武蔵国(東京都・埼玉県)に与えられる(58才)。 −
12月15日 赤穂浪士が本所松坂町吉良邸に討ち入る。
12月28日 栗本俊行没する(59才)。本所妙源寺に葬られる。 「松坂町」の「町」に「ちょう」とルビ。
1703年(元禄16) 正月元日 和一の弟子島崎登栄一、検校となる。
1703年(元禄16) 三島安一、駿河台に屋敷を拝領する(59才)。 屋敷渡預絵図証文
1703年(元禄16) 12月15日 三島安一、法眼に叙される(60才)。
1704(宝永元) ー 杉島不一、桜田の館で家宣に仕えていたが、家宣が西城に入るときに従い、医員に登用され西城に勤仕し月俸20口を賜う。 −
1705(宝永2) 閏4月19日 杉島不一、廩米150俵を加増される。
1706(宝永3) 10月19日 和一の弟子杉枝真一・島浦益一(子孫は和田)、検校となる。
1706(宝永3) 12月11日 三島安一、法印(元興院)に叙される(62才)。
1706(宝永3) 12月11日 杉枝真一、綱吉が柳沢吉保宅に御成の時に幕府の奥医に召し出され、月給20口をもらう。
1708(宝永5) 7月2日 島浦益一が幕府の医員に召し出される。月給20口を与えられ、西城大奥に候せられる。 −
1709(宝永6) 1月10日 第5代将軍綱吉没する(64才)。 − 「徳川」を取る。
2月21日 三島安一、寄合医師となる(65才)。
2月21日 杉枝真一、寄合医師となる。
10月15日 和一の弟子・板花検校喜津一、家宣に初見する。
10月19日 三島安一が総検校辞職の願いを出す。辞職は許されるが、治療は続けるように命ぜられる(65才)。代わって島浦益一が3代目関東総検校となる。
11月1日 島浦検校益一(300俵)・板花検校喜津一(月俸20口)、鍼治を善くするにより召し出され奥医並となる。
11月13日 島浦益一の2代目和田春徹直秀家宣に初見する。
1711(正徳元) 12月6日 板花検校喜津一、千駄ヶ谷抱屋敷の内500坪を拝領屋敷に仰せつけられる。
1711(正徳元) 12月15日 島浦検校益一、するがたいに534坪8合の屋敷を拝領する。
1712(正徳2) 10月14日 第6代将軍家宣薨去。
1713(正徳3) 11月29日 杉島不一、奥医師に准ぜられ、勤めを辞し小普請医師となり、この日に隠居(致仕)する。
1716(正徳6)
(享保元) 4月30日 第7代将軍家継続薨去。
5月16日 島浦益一、家継の薨去に及び寄合医師に列す。 ー 武鑑
12月16日 板花検校喜津一、廩米200俵を賜う。 ー
ー 島浦益一、麹町に住居する。 ー 武鑑
1717(享保2) ー この年、和市の子孫と三島安一の屋敷が鷹匠町(神田小川町)に隣接して存在する。
1717(享保2) 2月27日 島浦総検校益一、駿河台屋敷付として内藤宿に屋敷440坪を拝領する。
1718(享保3) しょうがつ22日 杉島不一、没し市ヶ谷の長延寺に葬られれる(68才)。
1720(享保5) 4月4日 "三島 安一が没する。谷中(やなか、現在の台東区にある)の元興寺加納院(がんこうじ、かのういん)に葬られる(76才)。
後年、家系断絶により生地の常陸国信太郡宍塚(ひたちのくにしだぐんししづか)村(現在は土浦市郡宍塚字西屋敷の共同墓地のうち、雨貝家の墓所)に改葬する。
" − やなか、がんこうじ、かのういん
1721(享保6) 6月29日 板花喜津一が没し、麻布の本光寺に葬られる(70才)。
1723(享保8) 2月9日 杉枝検校真一、広敷の療用を承り、家重・家継の母月光院(勝田氏)・吉宗の母浄円院(巨勢氏)等の治療に当る。
1723(享保8) 3月15日 杉枝検校真一、長福君(家重)御不予のの治療に当たり、その褒賞に金5枚を賜う。
1723(享保8) 12月28日 杉枝検校真一、多くで治療をし褒賞を賜う。
1723(享保8) この年年 島浦益一当道座の、職・十老と争う(最初田浦・湊・里見が三カ状の願書を職・十老も同心し幕府に提出したが、島浦は二・三カ条目は納得したが一カ条目は幕府より仰付られていらい年久しく自分まで勤めてきたことなので納得できないという))。
1725(享保10) 8月15日 杉枝検校真一、廩米200俵を賜い月俸は収められる。
1728(享保13) 12月7日 和田春徹直秀、天英院(家宣室)の広敷に候し、月俸10口を賜う。
1729(享保14) 4月13日 島浦益一、西城奥医に准ぜられる。
1730(享保15) 4月13日 島崎登栄一、盲人にて大納言殿(家重)の鍼治を善くするにより医員に召し出され年俸20口を賜う。
1730(享保15) 5月15日 島崎登栄一、吉宗に初見する。のち御方々の療治を承り、また西城の大奥も承る。
1732(享保17) 7月21日 島浦益一の3代目和田春長正、吉宗に初見する(15才)。
1736(元文元) 2月22日 島浦益一、隠居(致仕)したが、なお西城大奥の療治を承り、2代目和田春徹直秀が家を継ぎ、直秀のいままでの月俸十口を益一が養老の料として賜う。また、江戸に惣検校を置くことを止め、惣検校を京都の職検校に返すこととなる。
1736(元文元) 3月23日 島浦益一、隠居に月、島崎登一が初代江戸惣録に任ぜられる。
1737(元文3) 6月 杉枝真一、5代目惣録となる。
1738(元文3) 12月1日 和田春徹直秀、父島浦益一に先立ち手没する。
1738(元文3) 12月27日 和田春長正直、遺跡を継ぎ小普請医師となる。
1739(元文4) 2月朔日 杉枝真一、5代目惣録を辞す。
1739(元文4) 5月21日 和田春長正直、二丸広敷の療治を勤める。
1740(元文5) 正月5日 島浦益一、一橋宗尹の痘瘡に際し鍼治療をし、治癒の酒湯の祝いに巻物を賜う。
1741(寛保元) 4月5日 杉枝真一、致仕する。これ以前に綱吉自筆の「福禄」の二字を賜う。
1742(寛保2) 8月29日 島崎登栄一、没し牛込の浄輪寺に葬られる(68才)。
1742(寛保2) 11月5日 島崎登栄一2代目栄元片成、新たに鍼医に召し出されて10口を賜う。のち一ツ橋の館に附属させられた。
1743(寛保3) 9月28日 島浦益一、没して浅草正法寺に葬られる
1747(延享4) 9月23日 杉枝真一、没して駒込の高林寺に葬られる(74才)。

月給について
1口=1人扶持と同じ意味です。1口は、一日に米5合として計算してください。


表1の中で、特に指摘しておきたいことが三つあります。
(1)和一が文献上に初めて登場するのは、61才に検校へ昇進した時

(2)和一が綱吉に仕えたのは1685年(貞享2年)、当時76才

(3)和一は、高齢になってから活躍したこと



和一の一生を簡単に振り返ると、次のような内容になるかと思います。

これまで挙げた内容と重複する部分が多々ありますが、ご容赦ください。

和一は、1610年に伊勢国(今の三重県津市)に生まれました。

5才または10才頃に失明し、15才前後で当道座へ入門し、一方流妙観派の平曲を学びました。その後、鍼の修行のため江戸の山瀬 啄一へ弟子入りしたものの、なかなか修行が進まず、啄一の元を去ることになりました。

和一は失意のうちに実家へ帰ることとなり、途中、信仰していた江ノ島へ立ち寄りました。そこで弁天の岩屋に21日間篭もり、その結果、刺鍼法の一つである『管鍼術』を考案できたというのです。

その後、京都へ上り、入江 豊明(いりえ とよあき)の許で修行を重ねた後に江戸へ戻り、名声を高めていきました。


 大浦慈観著・長野 仁編『皆伝・入江流鍼術ー入江中務少輔御相伝針之書の復刻と研究ー』(六然社、2002年)が発刊され、入江流とは伝説の師匠ではなく、実際の人物でしかも鍼術の内容が和一独創の考えではなく、入江流の応用であることも明らかになってきました。

大浦慈観氏から「『杉山流家譜』―杉山流の系譜と伝授方式を開示した新資料」(『日本東洋医学雑誌』60巻別冊、2008年)やその翻刻のデータを供与いただいた。

 詳しい伝授者の系譜を知ることができます。これまでは、盲人の山瀬検校琢一の名しか知られていませんでしました。

@杉山和一に先立つ鍼法伝授者について
〔A〕阿弥陀院(不明)→龍安寺殿(細川勝元)→天行寺(加賀天行寺)→鍼恵(鍼徳)→徳明(光樹院徳明維遠)→常善(園田常善法眼道保)→和一
〔B〕入江中務少輔頼明(入江流開祖)→片岡源太夫宗勝(2代目、入江中務良明か?)→佐川貿内則義(3代目、入江中務豊明か?)→山瀬検校琢一→和一
〔C〕?寿軒圭菴(?寿軒圭菴元影、『鍼灸大和文』著)→和一

 また、和一の門下から別れたものとして、杉山流と杉山真伝流の2流をあげています。

〔A〕「杉山流」…惣録屋敷管轄下の鍼治学問所で教えられる狭義
〔B〕「杉山真伝流」…和田家の奥義…巻物は、和田(島浦)家四代目正胤の時に流出し、大正〜昭和初期に鈴木慶助の手に渡り、天野黄陽氏に伝えられた

 3代目総検校島浦益一(和田一)は、和一・安一の教義を大成し『杉山真伝流』の秘伝書を完成した人物です。子孫も和田と復姓して幕末まで幕府の鍼科の中心的存在でもあり、真伝流を継承した家柄でもありました。
 私は幕府に提出した系譜から、その先祖の出身をあやふやにしてきました。
 残された史料に『杉山真伝流鍼治手術詳義』というものがあります。これは米沢の大沢周益)が筆記したとあり、米沢に和一の弟子が登用されて広がったものと考えていました。

 また、杉浦逸雄「市立米沢図書館所蔵『内題杉山先生御伝記』の紹介」(2013年10月19日日本盲教育史研究会第2回研究会 レジュメ)にも、以下の記事があります。
「◎嶋浦益一
 出羽国米沢,遠山村の生まれ。和田紀四郎橘の正安の長男。
 宝永6年10月19日 三代目惣検校となる。この頃所々に学問所・出張稽古所つくられる。」

 このことから、益一が米沢藩の出身であることが理解できました。


 次に、伝授の段階がどんな完成系をもっていたかも分かるようになりました(大浦論文)。
 @杉山流を名乗り治療が許可されるまでの流れ…社約→句読→正誤→講書→刺法」の各段階
 A「杉山流の上手」として一家の法を伝える…「紀録→神鍼→疑問」の段階を経、奥儀が伝えられる。

島浦和田一 撰『秘傳・杉山眞傳流(杉山検校没後三百十年大祭記念)』(杉山遺徳顕彰会、2004年)が発刊され、いよいよ鍼術の内容が明確になってきました。

 再び和一について考えてみたいと思います。
史料上に初めて登場するのは、和一が61才、1670年(寛文10年)に検校へ昇進した時の記事です。このころ和一は鍼師としてより名声を高め、1676年(延宝4年)、和一が67才の時には、生まれ故郷である伊勢国の領主、藤堂 高久を治療しています。また、弟子達の教育も進め、多くの弟子を鍼師として各領主に仕官させたりもしました。1684年(貞享元年)、75才の時には当道座内部での地位も高まり、関東の盲人の取り締まりを担うようになりました。

和一の評判はいよいよ将軍綱吉の耳にも届き、1684年(貞享元年)、1月8日、76才にして召し出されました。皆さんが考えるより随分高齢だと思います。この時、和一は医員として登用されてはいませんでしたが、昼夜綱吉の側に仕え、鍼や按摩を施しました。和一は綱吉に寵愛され、関東惣検校に任命されて盲人を全国的に統括したり、江戸城の近くに屋敷を賜ったり、後に約2000坪もの屋敷を拝領したりしています。

この2000坪の屋敷については有名なエピソードがあります。綱吉に「欲しいものは何か」と聞かれ、和一は「一つ目が欲しい」と答えました。綱吉は目の代わりに本所一つ目にある土地を和一へ与えました。そこには江ノ島神社の分社と当道座の役所が置かれ、神社には杉山流鍼治稽古所もありました。

その場所は現在の江島杉山神社(東京都墨田区)に当たり、両国駅から南へ15分ほど歩いたところです(国技館の反対側)。また、1694年(元禄7年)6月26日、和一は85才で没しましたが、和一の位牌所と管鍼法大成の関係から、江島杉山神社の敷地に岩屋があります。

和一の墓は2箇所あります。一つは、江島杉山神社の東にある弥勒寺に(徒歩約10分)、もう一つは江ノ島にある江ノ島神社です。江ノ島の墓の近くには、和一がつまずいて管鍼法を創案したという「福石」もあります。
 大正12年6月24日に江ノ島の墓所を発掘したところ、中より和一の遺体を発見した(嶋浦和田一(益一)『』秘傳・杉山眞傳流(杉山検校没後三百十年大祭記念)』、桜雲会、2004年)。


第3章 和一の弟子と子孫

仕官した和一の弟子は合計15名でしました。内訳は、幕府の鍼科医員が9名、諸大名の鍼医が4名、同じく按摩医が2名でした。

幕府の鍼科医員となった弟子9名中、5名の子孫が幕末まで役職を務め、中には晴眼者の弟子もいました(栗本 俊行など)。また、石坂 志米一の子孫には、幕末にシーボルトに鍼を教えたといわれる宗哲がいます。

和一自身は実子がなく、弟を養子を迎えましたが、その子孫達は鍼医を継がず、武士として明治に至りました。これについては後で詳しく述べたいと思います。

第4章 和一が賜った俸禄・所領とその変遷

【杉山検校遺徳顕彰会『杉山和一生誕400年記念誌』(杉山検校遺徳顕彰会、2004年)に投稿】
 和一は、次の年次的な経過で米による俸禄を増加させ、最終的には廩米(りんまい)八百俵となり没しました。
 1685(貞享2)1月8日に綱吉に召し出される→同年8月5日月俸20口→1689(元禄2)10月9日月俸が廃止され年俸300俵→1691(元禄4)12月2日200俵加増→(1692(元禄5)5月9日関東総検校)→1694(元禄7)3月10日300俵加増(合計800俵)→1694(元禄7)6月26日没する(85才)

 江戸幕府の武士は@所領だけ、A所領と廩米、B廩米だけの3形態の俸給を与えられていました。
和一は先のB廩米だけの俸禄でした。
 そして、和一の子孫は医業を継がずに武士として勤めました。
 子孫は廩米800俵を800石の所領に替えられ江戸時代を終えたのでした。

 もう少し詳しく述べると、和一の死亡に際し、実子がなく、安兵衛昌長が養子となりました。1694年(元禄7)7月11日に遺跡(廩米800俵)を継いだが医業ではなく武士として勤めました。
当初は、小普請(こぶしん)となり、8月12日に綱吉に初見(しょけん)し、1697年(元禄10)7月26日に米800俵を廃止し、改められ上野国(こうずけのくに、群馬県)内に800石の所領を賜りました。これが幕末までの領地高でした。

 この所領替えはいわゆる「元禄地方直し(じかたなおし)」という政策で、旗本全体に対し、廩米を所領へ移行させる政策でした。これにより、幕府は直接に米を支出することがなくなり財政再建の一手段となっていました。

これと共に、村の支配は、一村一領主から「相給(あいきゅう)」という複数領主への分散が勧められました。相給により、一村の飢饉や災害で領主が財政困難にならず、複数村で一分の村が飢饉や災害になっても大きな財政困難にならないための工夫でした。
 和一は俸給で廩米でしたが、和一を嗣いだ安兵衛昌長(養子)は所領に改められました。
幕府の政策で俸給は所領となり、上野国(こうずけのくに)内に賜りました。
検校の家系とはいえ、幕府の家臣なのでその同行は他の家臣団と同様であることの一面が推測できます。

和一の子孫が賜った所領の村は、元禄15年(1702)時点で9箇所だったことが分かっています。
大まかには、現在の群馬県中央部(中毛)から西部(西毛)、利根川沿いの南部の村に散在しており、多胡(たご)・緑野(みどの)・新田(にった)・佐位(さい)・群馬の五郡の中にありました。

領地が800石を超えるのは、かなり裕福な方で、収穫高であり、これに年貢をかけていきます。なお、1868年(明治元)になると所管の変更があったものと考えられます。

多胡郡・緑野郡

現在の多野郡(神流町:かんなまちと読む、上野村)、高崎市の一部(八幡町・吉井町・新町)、藤岡市

新田郡
現在の太田市(新田町・尾島町・薮塚本町)、みどり市(笠懸町)

佐位郡
現在の伊勢崎市全域(平成の大合併後の状態)

群馬郡
該当区域が広い。現在の高崎市中心部〜西部・北部、吾妻郡の一部、前橋市(元総社町近辺)、佐波郡玉村町付近



表3.杉山家の領地高・年次的推移
* 1行目に村名(現在の地名)を記載。
* 2行目で、元禄15年(1702年)、元禄16年(1703年)、天保年間(1830―1843)、幕末の順に記載。
* 表中の「――」は、そのころ領有していなかったことを表します。


新田郡備前島村(太田市備前島町)
417.732の内 139.244 139余、8軒 139.244

佐井郡今泉村(伊勢崎市今泉)
542.970の内 84.4734 ―― ――

佐位郡保泉村(ほずみむら)(伊勢崎市境保泉)
379.939の内 58.813 58余、7軒 ――

群馬郡東明屋(あきや)村(高崎市箕郷町東明屋:みさとまち ひがしあきや)
361.119の内 110.4896 110余、17軒 ――

群馬郡池端村(前橋市池端)
350.555の内 29.6941 25余、5軒 29.6941

群馬郡下野田村(北群馬郡吉岡町下野田)
562.782の内 187.594 187余、26軒 ――

群馬郡宮沢村(高崎市宮沢町)
321.612の内 107.204 107余、32軒 ――

多胡郡黒熊村(高崎市吉井町黒熊)
391.879の内 130.6264 130余、11軒 ――

緑野(みどの)郡西平井村(藤岡市西平井)
1310.260の内 202.736 202余、14軒 ――

合計
(内 800石) 1046.8745 958余、120軒 168.9381

【参考文献】
1.『新訂寛政重修諸家譜』第21(398〜400頁、続群書類従完成会) 杉山家の系図
2.『杉山検校伝』(河越恭平、杉山検校遺徳顕彰会、1956年) 所載の杉山家伝来の系図
3.『徳川実紀』6篇(国史大系編修会編) 徳川幕府の公式記録として参照
4.『新訂増補国史大系』(吉川弘文館)
5.『関東甲豆郷帳』(関東近世史研究会校訂、近藤出版社、1988年)
6.『上野一国高辻』全2冊
7.『上野国村高記』 文献6と7は元禄15年から16年ごろの状況を知るのに利用
8.『上野国御改革村高帳(上)(下)』(岡田昭二)『群馬歴史民俗』 第11号・第12号(1989・1990年) 上の文献8と9は天保年間の状況を知るのに利用
9.『尾島町誌・通史編』上巻(新田郡尾島町)
10.『旧高旧領取調帳』関東編(近藤出版社、1980年) 上の文献10と11は、幕末から明治初期の状況を知るのに利用


盲人史 鍼・按摩史 Q&A
第2編 理療教育の変遷


第1章 教育制度の変遷

1.明治時代以前の理療教育

(1)杉山 和一が弟子を育てた時期――世界で最も早い障害者教育

日本の盲人が鍼灸按摩の技術を獲得したのは1600年代の前半で、山川 城管(貞久、生年不明―1643)が知られています。やや遅れて、山瀬 琢一(1658年に検校となる)と、その弟子である杉山 和一(1610―1694)、仙台藩の鍼医となった矢口 城泉(1669―1742)が現れました。

既に述べたように、和一は数多くの弟子を育てました。その舞台として、「杉山流鍼治導引稽古所」の存在が指摘されます。

 「杉山流鍼治導引稽古所」の論文をいくつか紹介します。

浅田 宗伯(1815―1894)が記した『皇国名医伝』、それを継承した富士川 游の『日本医学史』の中に、「天和2年(1683年)、綱吉の鍼治振興令を起源とする」との説が有力です。

木下晴都『杉山和一と大久保適斎』(『漢方と臨床』三十七年十一月を再編、医道の日本社、、第3版、1982年)に、
「 杉山検校は七二歳の一六八二年(天和二年)九月一八日、私塾を改めて鍼治学問所と呼び、その教科書には杉山三部書を撰述し、わが国盲人教育の先鞭をつけたことは当時の世界でも類例のない偉業である。」

杉浦逸雄「市立米沢図書館所蔵『内題杉山先生御伝記』の紹介」(2013年10月19日日本盲教育史研究会第2回研究会 レジュメ)にも、以下の記事があります。
  「将軍家綱公にお目見。そののち小川町表猿楽町に居屋敷拝領。天和2年9月18日。杉山和一先生居屋敷の外続きに75坪の地所を拝領し、杉山流鍼治学問所を建てる。」

 それぞれ、確実な史料がない中での指摘で当時を推測させる記事です。

 しかし、ここ10年あまりに新たな史料が発掘され、その教育や手技が分かってきました。精力的に解明したのは大浦 慈観氏です。

長野 仁編 皆伝・入江流鍼術ー入江中務少輔御相伝針之書の復刻と研究ー 六然社 /2002年
 これにより、杉山流が入江流の管鍼術を継承していたことが判明しました。
大浦慈観 杉山真伝流臨床指南 六然社/2009年
大浦慈観 DBDブックス 杉山和一の刺鍼テクニック 医道の日本社2012
 大浦 慈観氏により詳細な手技の解明が進みました。

大浦慈観 杉山真伝流按摩舞手 桜雲会/2016年
 杉山流の按摩術の一部が明らかになりました。

東京医療福祉専門学校 吉田流あん摩術 江戸時代に生まれた日本伝統の手技療法 医道の日本社/2016年
 晴眼の吉田流の按摩術は杉山和一(1610〜1694年)の弟子・石坂志米一の子孫からの伝授も判明しました。杉山流と吉田流の手技の区別も判明しました。


 筆者は、和一の史料を年代順に並べて考えてみました。

多くの弟子達が幕府の医員に登用されたのにとどまらず、米沢や金沢・鳥取・大村藩などの地方の藩医にも登用されたことは述べました。

和一の弟子達は、幕府医員へ9名・諸大名へ6名(鍼医4名、按摩医2名)と登用されました。

和一の弟子が史料に初めて登場するのは1680年(延宝8年)に美尾一と春一の二人の座頭が鳥取藩へ按摩医として仕えた記事です。

 1680年以前から師弟教育がなされ、和一没後も鍼治稽古所は存続し、その後も弟子達によって引き継がれていきました。

 とすると、鍼治稽古所の創設よりも早い時期に弟子が養成され、登用されていることが理解できると思います。こんな事情から稽古所とは私塾を改めたのが天和年間とされているのかと思います。
 この振興令や鍼治稽古所創設について少し考えてみます。
綱吉は1680(延宝8)8月23日に将軍となりました。この2年後に振興令が出されたというのです。ただ、調べた限りの法令集には確認できず、この振興令とは法令ではなく口頭の言い渡しか、または実際にはなかったのかもしれないと筆者は考えています。それとも、綱吉と和一のつながりはもうこの時期にあり、綱吉が将軍となってから2年間に信頼を受けるような歴史のロマンが存在したのでしょうか。

 歴史を学んでいたり史料をみていると、幕府の家臣になるということが簡単でないことがわかります。

江戸幕府も鎌倉幕府依頼の武家政権として、医師やどんな家臣でも「初見の礼」、つまりお目見えと給料の扶持が必須です。
ここでもう一度、綱吉将軍就任と振興令の後の年譜をあげます。

@1680(延宝8)
5月8日 家綱没する(40才)。
8月23日 徳川綱吉、5代将軍となる。
閏8月13日  岩船検校城泉(?~1687) 綱吉の将軍選下の慶会において大廊下にて無官医員と共に綱吉に目見をする。


A1682(天和2)
和一、将軍綱吉から鍼術振興を命じられる。
9月18日 私塾を改めて鍼治稽古所とする。

B1683(天和3)
岩船検校城泉(?~1687)、座等意津一の不行跡について、座頭仲間の法に従い簀巻きにして佃島沖にて沈める。

C1684(貞享元) 12月22日
和一、相模国大住郡大神村(神奈川県平塚市)座頭密通事件の裁決をする。

D1685(貞享2) 正月3日
和一、江戸城の黒書院勝手で綱吉に年始の御目見をする。

E1685(同年) 正月8日
和一、綱吉に召されて仕える。

F1685(同年) 8月5日
和一、幕府に召出され、月給20口を与えられる。

ーーーーーーー

@Bの史料の評価は、
 岩船検校城泉(?〜1687年)が初見の例をとり、関東の当道座の責任者をしていたことを示す者といえます。

Cでは、
和一が関東の盲人の支配をバトンタッチしていて裁決をしたと考えられます。

Dでは
関東の盲人支配者としてお目見えをしたのではないでしょうか。

 和一が幕府に召し出されたのはEFで、この段階が綱吉との初めての公的な臣下関係の構築だったのではないでしょうか。

 筆者が言いたいことは、綱吉将軍就任直後の天和年間は和一と綱吉の接近はあまりなかったのではないか。
和一が1685に正式に江戸幕府に登用された。

 とすれば、綱吉から召し出されていない和一が鍼治振興令を命じられたのか。

 鍼術振興令はなかったのではないか?

 綱吉から稽古所を命じられたと言うよりは私塾が続いていた。それを天和年間とすると、その前の弟子の要請と矛盾するのではないか。

 「鍼治稽古所」の名称が天和年間とするだけなら、筆者には反論する気持ちはありませんが、多少歴史の事実が曲がっていると思うばかりです。
 
ともあれ、和一は70才台のことなのて、これ以前に十分な弟子の教育がなされていたと思います。
 
 さらに、和一は医師として召し出されたのではなく、史料に「扶持検校」とあります。医療行為をしていても、それは幕府の医員ではありませんでした。

綱吉が将軍に就任した1680年前後からの歴史の裏側をどう考えるか…それは読者の皆様のご想像にお任せしたいと思います。
 あの世の和一先生に聞いてみて真実が分かったら却ってつまらぬものになるかもしれません。

初見の礼・取り立てについては、時代は下りますが宝暦13年(1763)6月24日に医師並に召出された田村玄雄の日記『田村藍水西湖公用日記』(続群書類従完成会)を参考にすると、細かな手続き・段取りや儀式を経た後に登用されていることが分かります。

さて、脱線しましたが、和一が1680年以前から盲人の弟子を育てたこと、これは世界で最も早い障害者教育なのです。そして、和一が鍼や按摩を伝授した「杉山流鍼治導引稽古所」こそが、理療教育の先駆けと言えるでしょう。

(2)杉山流鍼治導引稽古所の創設と継承

和一の師弟教育の様子を見ていくと、私塾のような形で始まり、和一が関東惣検校に任命された1692年(元禄5年)以降、次第に当道座の運営に移っています。施設の名称も、鍼治と按摩(導引)が伝授されたことから鍼治導引稽古所と呼ばれたり、時代とともに講習所・学問所・学校などと呼ばれたようです。

鍼治稽古所は和一の屋敷内にあったと推測されています。

先の杉浦氏の紹介した『内題杉山先生御伝記』には、
「将軍家綱公にお目見。そののち小川町表猿楽町に居屋敷拝領。天和2年9月18日。杉山和一先生居屋敷の外続きに75坪の地所を拝領し、杉山流鍼治学問所を建てる。」とあります。

 参考になることはありますが、筆者の年表と比較すると一つ一つの年次的な事実が新旧混迷しています。
 ※1680(延宝8) 家綱拝領 → 1682(天和2)稽古所創設 → 1689(元禄2)5月7日鷹匠町(神田猿楽町)に屋敷拝領 

和一が京都から江戸へ戻った当初は糀町(現在の麹町)に住んでいたと推測していますが、
幕府に登用されてからは道三河岸、そして鷹匠町(のち神田小川町)に移り、没した時は本所一つ目に住んでいました。

江戸時代の絵図で確認できた鍼治稽古所は本所一つ目の弁財天社内で、現在の江島杉山神社内にありました。

 和一の鷹匠町の屋敷は、現在JR中央線お茶ノ水駅を明治大学の法に歩いていき、南に坂を下った右の角地に飲食店辺りとして跡地を伺えます。ここを右に曲がると神田の古本屋街に当たります。

 和一の没後は和一の子孫と弟子の三島安一の屋敷 → 島浦の屋敷と変わっていきました。
稽古所は明和6年(1769)、鷹匠町から本所一つ目の拝領地内に移築され、明治4年まで存続していました。

 初歩の鍼灸按摩の手ほどきが一つ目の杉山理由鍼治導稽古所で行われ、杉山流と称し、

 更に技術が進んだり
高度の学術を望む者には小川町の和だ家で行われ、杉山真伝流と称しました。
 
片桐一男 伝播する蘭学 −江戸・長崎から東北へ 勉誠出版/2015年

 和田家の初代 島浦和田一(益一)は米沢の上杉家に仕官ししていました。その縁から上杉家から鍼の留学生がいたことがわかります。


 では、本所一つめにあった杉山流鍼治稽古所はどんな規模であったのか紹介してみます。
 敷地は東西に長く、北から南へ向かって竪川・河岸・竪川通り・社地と続きます。西門から社地内へ入ると、東の拝殿へ向かう参道が続き、その両側に門前の町家が建ち並びます。南側の町屋敷が終わった所に(北側はもう少し屋敷が東へ続く)高さ1尺4寸の銅造りの鳥居があり、「福寿弁財天」の額が掛かっています。

南側の町屋敷の東側には、社地最初の建物である社役の居宅(4間×3間半)、続いて「杉山流鍼治稽古所(4間余り×5間)」があります。和一の死後、稽古所のさらに東側に、位牌所である「即明庵(9尺×3間)」を建て、その中に和一の木座像(高さ1尺1寸)を安置しました。

稽古所の広さは縦4間余り×横5間で、面積は20坪余り。言い換えると40畳余りになります。
 先の『内題杉山先生御伝記』には鷹匠町の稽古所は「75坪」とありました。こちらはなかなか資料的に証明できていません。
では、稽古所が何カ所あったかというと、先の浅田 宗伯は「江戸近郊に4ヶ所、諸州に45ヶ所」と記しています。ただ、これも裏付けに乏しく、存在していても小規模だったと推測されます。
 弁天社内の稽古書が思ったよりも小さな施設で教育が行われていたと感じました。ですので、全国の講堂も検校の自宅程度の規模であったならば、全国に展開していたり、現存しないのも納得できる考えになりました。

 江戸時代は町毎に寺子屋があるほど教育熱心で、鍼灸按摩の稽古も寺子屋程度のものが多かったと思われます。
 2019年7月に緒方洪庵の適塾を訪れてみましたが、2階建てとは家、とてもこじんまりとしていて、ここに多くの塾生がいたのかとつぶやいてみました。
 干※適塾
 所在地:大阪府大阪市中央区北浜三丁目3−8


さて、近代の盲学校も私立が多く、大なり小なり野規模脱兎いえます。
 群馬県立盲学校創立70周年記念誌『群馬県盲教育史』(1978年)巻頭写真の中に
 「曲輪町私立盲学校校舎見取り図(明治38年、1908)」には、
 居室3部屋、実習室、職員室、物置、教具室、玄関、廊下、便所となっています。
教室3部屋、

 「桐生盲学校敷地および建物配置図(大正10年、1921)」には、
 建物は2階建てで、間口7間、奥行き3間(21坪・42畳)で、ほぼ稽古書と同じ規模です。
 階下には、事務室・実習室・寄宿室・勝手・土間・押し入れ・廊下・便所2カ所です。
 2階には、講堂・教室3部屋・廊下・会談があります。
 そして校庭もありました。
 同年の桐生市の市制開始記念事業として同市の鍼按組合の要望がわき上がり、市内の慈善団体の積善会(明治43年4月創立、桐生町と附近の寺院38ケ寺が中心に托鉢等による資金をもとにして、出獄人の保護、孤児等の養育、その他のことを使命)が気持ちをくみ入れ、私立桐生盲学校を経営しました。
 所在地については、1923年(大正12年)8月27日に「盲学校及び聾唖学校令」に基づく認可申請書(『群馬県盲教育史』p209〜)に、大正12年(1923)11月28日認可、桐生市大字桐生398番地とあります。
 田中山浄運寺(浄土宗鎮西派、桐生市本町六丁目398番地)内に創建されたという話も聞いていますので、認可申請の住所と浄運寺が同じところかは確認しています。
 明治6年(1873年)11月 桐生市立北小学校の前身である桐生学校が浄運寺を仮校舎として創立したことも、盲学校の施設を置くことの機縁となったのでしょうか。

 同記念誌には、大正11年4月18日に高崎市の鍼按協会の寄付により創建された「私立高崎鍼按学校建築ず面(大正13年)」も残されています。
 市立高崎鍼按学校は高崎市羅漢町の法輪寺(高崎市羅漢町72番地3内にありました。
 市立桐生盲学校のように間口等が記載されていないのは残念です。
 後者と附属建物、野外体操場があります。

 「同建築図面(同年)」には2階建ての図面で、
 階下には、教室3部屋、廊下、教員室、実地室、押し入れ、2カ所、昇降口、湯飲み所、小使い室、便所、玄関、非常口
 2階には、教室3部屋、廊下、実地室、機械室


(3)技術の伝授方法
これまでは、師弟間での口授と、それを聞いての暗記が主だったと考えられます。

 しかし、大浦 慈観氏により細かなことが明らかになってきました。
 ※『杉山流家譜』  杉山流の系譜と伝授方式を開示した新資料


H20.6.8第59回日本東洋医学会学術総会

 ●要点
 @3代目総検校島浦益一により、流儀の伝授方式が確立された。
A伝授方式は、「社約→句読→正誤→講書→刺法」の各段階を経、杉山流を名乗り治療が許可される。
B「紀録→神鍼→疑問」の段階を経、奥儀が伝えられ「杉山流の上手」として一家の法を伝える立場となる。

 ●解説
まず弟子入りする際には、「社約」といって弟子の守るべき誓約書を交わします。その上で、初めに
『杉山流三部書』が与えられ通読します。そして「句読」といって個別の章について理解を深めます。
それが一通り終えた段階が「正誤」という立場です。さらに全文を誤りなく暗唱し他人に示す「講書」
という立場になります。次に『杉山真伝流』の「表之巻」が流儀書として与えられ、診断法および18
種の手技術を学習します。これが「刺法」という段階です。そして原本を抜き書きすることが許され
る「紀録」という段階になります。流儀の鍼法も上達すると、「神鍼」という立場になります。最後に
流儀の奥義について「疑問」を残すことなく師匠と議論し合い、独立して杉山流の一家を構えること
が許されます。その証(あかし)が、「目録之巻」「皆伝之巻」です。


教育内容はおよそ4段階に分かれていたようで、それぞれに教科書も作られていました。

 また、加藤康昭氏は次のようにまとめました。

◆ 第1段階
6年間あり、3年が按摩、3年が鍼の修行でした。14〜15才で入門し、17才までの3年間は、杉山流鍼学皆伝の免許で、いわゆる基礎編を学びました。按摩のみ、または鍼のみの免許の者もいたようです。
教科書は、杉山三部書の療治之大概集・選鍼三要集・医学節用集を用いました。

◆ 第2段階
17才から28才前後までの修行段階。
教科書は、杉山真伝流の表の巻を中心に用いました。

◆ 第3段階
30才前後の3年間。修了すると門人神文帳一冊が伝授され、他人に伝授できる段階と認められる。いわば教員免許状に当たるものでした。
教科書は杉山真伝流目録の巻物一巻(真伝流の表の巻・中の巻・奥龍虎の巻)でした。

◆ 第4段階
50才前後。修めると、杉山真伝流秘伝一巻が伝授されました。
 ここまできますと、名人で幕府の御殿医クラスでした。

 筆者が施術している管鍼法の技術は、主に第2段階程度であろうと恥ずかしい思いにいます。
 最近の大浦慈観氏の論述で、その技術が解明されてきたのは喜ばしいことです。
 例えば、『杉山真伝流臨床指南』(六然社、2009)
 詳細に説明されていますので、参考にしてください。

(4)和一の流派の広がり
 和一の弟子達は杉山真伝流から始まり、その弟子達の独立と共に次第に流派を立てていきました。

 大浦氏により、和一の技術は大きく二つに分かれていたことが指摘されています。
〔A〕「杉山流」…惣録屋敷管轄下の鍼治学問所で教えられる狭義
〔B〕「杉山真伝流」…和田家の奥義…巻物は、和田(島浦)家四代目正胤の時に流出し、大正〜昭和初期に鈴木慶助の手に渡り、天野黄陽氏に伝えられた


 さらには、弟子達が独立して各流派を名乗るようになりました。
 主な弟子達の流派を紹介します。
 杉山流…三島安一→島浦益一(のちに和田と改姓→杉山真伝流の分派)
 杉山真伝流…和田家
 杉岡語一…不行跡で断絶
 栗本杉説俊行…晴眼→幕末まで
 杉島検校不一…中途で断絶
 杉枝検校真一 →幕末まで
 板花検校喜津一…一代で断絶
 島崎検校登栄一…中途で断絶?
 石坂検校志米一、 →幕末まで
 杉山夢想流

 

 次に、明治の流派の鍼や鍼管を一覧にした金原廣哉「毫鍼に就いて」(『日本鍼灸雑誌』第100号、明治44年・1901年)を芦野純夫氏が発見されました。

※ 平成17年度 関東地区理療科教育研究会 八王子大会レジメ「鍼先形状の由来に関する一考察」の中に、記載を見つけることができます。


その中で17の流派が紹介されています。そのうちから盲人の流派と考えられるものを抜き出してみます。

真伝流以外に杉山流、石坂流が和一の直接の弟子と確認できます。平塚流は幕末の真伝流の検校で、芦原流は幕末より少し前の検校です。

以下に紹介しますが、鍼の長さや鍼管に様々な違いがあることに驚きます。

大まかには、長さは1寸6分、太さは2〜4番が多く用いられました。また、鍼尖の形状については、和一の流派では松葉形が主ですが、幕末の平塚流だけはすりおろし形を用いたようです。

表4.江戸時代に使われた鍼の種類

※ 鍼柄は竜頭、鍼頭は鍼尖を意味します。また、鍼の番号は鍼体の中央を基準に示します。

1.
杉山流
出生地名
なし

鍼柄の形
ナカマキ軸
鍼柄の長さ
6分

鍼体の長さ
1寸6分
主な材質
金銀
鍼頭の種類
松葉

鍼の番号
なし


2.
杉山真伝流
出生地名
なし
鍼柄の形
タワラ軸
鍼柄の長さ
6分

鍼体の長さ
1寸6分
主な材質
金銀
鍼頭の種類

松葉


鍼の番号
2,3,4番

3.
石坂流
出生地名
なし

鍼柄の形
ホソヌメ軸
鍼柄の長さ
6分

鍼体の長さ
1寸3分

主な材質
金銀

鍼頭の種類
松葉

鍼の番号
2,3番

4.
平塚流
出生地名
なし

鍼柄の形
ナツメ軸

鍼柄の長さ
6分

鍼体の長さ
1寸6分

主な材質
金銀

鍼頭の種類
スリオロシ

鍼の番号
元5番 中5番

5.
蘆(芦)原流
出生地名
肥前

鍼柄の形
下半ハス軸

鍼柄の長さ
6分

鍼体の長さ
1寸5分

主な材質
金銀

鍼頭の種類
松葉

鍼の番号
3,4番


 【補足】
 医学史の通説では、大宝律令の医疾令に婦人科に女医が存在している記載以来、鎌倉〜江戸時代の女医の存在は指摘されてきませんでした。明治の医制でも、女医の採用は困難を来たし、初めての女医として埼玉県出身の荻野吟子(1851〜1913年)が有名です。

 盲人史の通説でも、男性は当道座で音曲・鍼灸・高利貸しなど、女性は音曲のみというものでした。
 最近、ジェンダー文化の研究から
鈴木則子 近世後期産科医療の展開と女 アジア・ジェンダー文化学研究 1号 2017
鈴木則子 江戸時代における大坂の女医 日本医史学雑誌 第64巻第2号(2018)
 ※女医の存在を『大坂医師番付集成』(思文閣出版,1985年)等から紹介している。

鈴木 則子 江戸時代の産科手術 ―回生術の展開と受容をめぐって― 日本医史学雑誌 第59 巻第2 号(2013)
 植松 三十里 千の命 講談社/2006年
 ※賀川玄悦の生涯の小説です。 

 杉山流の按摩の記録にも「女工」などの記載も見えて、今後は江戸期の女性の活躍も見逃せないと感じている。

2.明治時代の盲人や理療を取り巻く情勢

江戸時代に特権を許された当道座は、1871年(明治4年)11月3日、太政官の布告により廃止され、多くの盲人が貧窮していました。そんな中、翌年の1872年(明治5年)8月に学制が発布され、続いて1874年(明治7年)年8月18日に医制が発布されました。

医制発布の中で、はり・きゅう業は医師の監督下に行うという趣旨はあったものの、実際には行われませんでした(按摩・柔道整復は規定なし)。

1885年(明治18年)3月23日、内務省は「入歯抜口中療治接骨営業者取締方」(内達甲7)を、二日後の25日には「鍼術灸術営業差許方」(内達甲10)を、それぞれ通達しました。それにより、はり・きゅうの免許鑑札、営業許可、取り締まりを各府県で行うことになりました。なお、あん摩業は規定がなく、各府県の対応はまちまちでした。

この状況が改善されたのは、1911年(明治44年)8月14日に「按摩術営業取締規則」(内令10)、「鍼術灸術営業取締規則」(内令11)が施行されてからでした。これらにより、あはきの全国的、統一的な体制が作られましたが、主な内容は以下のとおりでした。

(1) 地方長官の行う試験へ合格する、または長官の指定する学校・講習所を卒業した後に、免許鑑札を受けることを定めた。なお、長官が行う試験には甲種、乙種の2種類が設けられた

(2) 一定の欠格事由のある者に免許鑑札を交付しないことを定めた

(3) 広告に一定の規定を設けた

(4) 業務停止、免許取消等の行政指導を定めた

(5) 従来交付されていた免許鑑札を追認した

(6) 盲人への優遇措置が設けられた。盲人だけが受験資格・試験内容が簡易な乙種試験を受けられ、当分の間、地方の状況によって無試験でも免許を受けられるようにした。

「盲人への優遇措置」は、盲人団体の活動により、1909年(明治42年)の第25回帝国議会において、あん摩業の盲人専業請願が提出されたことが影響していました。

その後、附則が同年12月14日に示され、その中で、学校や講習所の基準が示されました。施行の細則は各府県ごとに定められ、例えば東京府では施行細則の制定、翌年に盲人のための按摩学校2校が指定されていました。

3.盲学校の創立・盲教育制度の確立へ

さて、上に挙げた流れとは別に、宗教家・医師・視覚障害者・外国人などの中には、当道座の廃止で貧困した盲人たちを救い、職業自立をさせようとする篤志家も大勢現れました。

彼らは盲唖学院・訓盲学院の創立に励み、その結果、京都と東京でその創立の動きが見られました。

京都では、古河太四郎が待賢校(上京第17番小学校)でわが国最初の盲聾教育を始め、1878年(明治11年)5月24日、御池東洞院上る船屋町(現在の京都市中京区船屋町)に京都盲唖院が開校しました。

東京では1875年(明治8年)5月に楽善会が発足し、1879年(明治12年)12月、築地に校舎が完成、1880年(明治13年)2月に盲生2名が入学し、授業が始まりました。

京都盲唖院は京都府立盲学校、楽善会訓盲院は筑波大学附属視覚特別支援学校の元となりました。

※ 京都府立盲学校、筑波大学附属視覚特別支援学校の始まりについては、同校のホームページを参照しました。

「日本で最初の盲学校はどこか?」と聞かれることが多いですが、京都と東京のどちらかと言われると答えに窮してしまうのが正直なところです。

群馬県では、1890年(明治23年)年に私立上毛訓盲院が創立されましたが、2年から3年で廃校となってしまったようです。

 その後、日露戦争(1904年・明治37年)の戦傷者(失明者)を職業自立させるために、1905年(明治38年)年9月18日、現在の群馬県立盲学校の元となる上毛教育会附属訓盲所(現住所とは違い県庁前)が作られました。創立当初の全校生徒は27名で、そのうち、別科が12名でした。

旅順攻防戦の転機となった逸話で、164高地を高崎15連隊が攻略し203高地(海抜203M)の占領に成功し、旅順攻防戦の集結につながりました。
 この旅順攻防戦の指揮を執っていた乃木大将が「164高地を高崎山」と命名し感謝して感状授与されたという話です。

 群馬の教育・軍事の責任者の大塚なる人物が「死傷者も多く、失明軍人もある故に、この失明軍人のために何かの方法を設けて職業を得させたいものだ」と、高崎山攻防の活躍に報いるために心痛していたといいます。
 大塚は、高配の東京盲唖学校校長の小西信八に相談し、更に小西に瀬間が白羽の矢を立てられたといいます。
 日露戦争による群馬県内の失明軍陣は11名でした。この数は多いのか、少ないのか。どう判断すればよいのでしょうか。
旅順攻防戦の死者は日本側で6万人、ロシア側で1万5千人で、戦傷者数は数万人と言われています。
 乃木大将の二人の息子も戦死したそうです。
 乃木も、失明というハンディキャップは適当な仕事のないことを実感していたので失明軍人の点字習得や按摩による社会復帰を念願していたといいます。
 多くの戦死者や傷病兵の方に改めて哀悼の意を捧げたい。そして、二度と戦争が起こらないことを祈念したい。

 本校の70周年記念誌では乃木の本校慰問の新聞記事や逸話も記載されています。7
 失明軍人の職業教育のために、1905年(明治38年)9月18日、現在の群馬県立盲学校の元となる上毛教育会附属訓盲所が作られました(ただし、現住所とは違い県庁前)。
 瀬間は、小西の薦めによりこの訓盲所の教師になりました
 本校の当初の目的が「お国のために失明した軍人の教育」でしたが、瀬間は一般の盲人達の救済も念頭に会ったと考えられます。翌10月には一般の盲人も5名入学させました。

 創立の翌年1906年(明治39年)11月11日に乃木大将が高崎15連隊への感謝と失明者への慰問に訪れました。
 この時に、東京盲唖学校長・小西信八(1854〜1938年、84才)、山岡熊治(1868.12.8〜1921年、53才)なども〃道しています。
 山岡は、旅順攻防戦の第3軍参謀で、奉天会戦で両眼を失明し、帰国後中佐となり、のち盲人協会会長を務めた人物です。
 乃木の訓示と山岡も訓話があったようです。失明中佐の訓話に失明軍陣は感動したとあります。
新聞記事も残されています。(1884年8月8日にに高崎〜前橋が開通)
 乃木は、11月10日午後7時22分着で前橋まで単独で汽車で来て、徒歩で本町白井屋の山岡の所に行き、宿帳の記入と言われたのに「急ぎには及ばず」と言い名前も名乗らなかったようです。宿泊者の名前を軽擦に届けるのに再度宿帳にと迫られ「軍人乃木希典」と署名し、やっと乃木大将であることが分かり、大騒ぎになったようです。
 翌11日に本校に行かれ、入られるとすぐさま、瀬間の手をとられ、「瀬間さん、御苦労様です。」と言われたので、瀬間先生は感激の余り、言葉も出ず、涙さえ浮べられたと書かれています。
 乃木の休息の間に吸っていた煙草は庶民的な「あさひ」で、訓辞を15分行い、庭に松の記念植樹をして、午後1時20分の汽車で帰郷したそうです。

 乃木の訓示は本稿の70周年記念誌に口絵写真とその逸話が掲載されていますが見たことがありませんでした。現在は本校の教材教具室にありましたので、その後は校長室に保管してもらうことになりました。
 桐の箱に入った乃木希典の訓示が掛け軸として表装され1本、ただ掛け軸になったものが1本、表装も何もしていないものが1枚。
 以上が所蔵されています。

 以下に文字化したものを紹介します。

(桐箱表書)
「乃木大将訓辞」

(箱裏書き)
「為群馬縣立盲唖學校 陸軍少将 桜井忠温書」

(本文)
「乃木希典訓示
富國強兵といふ事に就いて、何が基であらうかと言へば、國家として遊民廃人の無いことが望である。然るに此れを望めば教育と云ふ事より大切な事は無い。教育に於て盲唖の人を教わる其の方法手段、今日の如きに及んだのは、眞に文明の賜である。然しながら之を學ぶ人は大いなる勇氣が必要であると考へる。普通健全な者ですら耐えざる事に耐えるのみならず、其の學びえた事を實行する上に就いては、其の勇氣と忍耐とによりて、健全にして遊情無能の人を戒め懲らすことに於て、即ち富國強兵の大なる力となる事を信じる。
  右は、明治三十九年十一月十一日、群馬縣前橋なる上野教育會が明治三十八年九月縣下失明軍人六名の為に訓盲所を設けしを見舞はれし際、訓示されし言葉で、生徒が點字を以て筆記したものである。 陸軍少将 桜井忠温書(□印)」

 本文の最期に 乃木大将の訓示を生徒が点字で書き留め、陸軍少将の桜井忠温(ただよし、)1879.6.11〜1965.9.17)が書き写したとあります。

 桜井はウイキフエリアによれば、愛媛県松山出身で、松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征し、乃木将軍配下で、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負ったようです。余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという逸話も残されています。
 帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録『肉弾』を1906年(明治39年)に刊行し、戦記文学の先駆けとして大ベストセラーとなり、英国、米国、ドイツ、フランス、ロシア、中国など15カ国に翻訳紹介されました。
 陸軍省新聞班長を勤めたり、他に著書も幾つかある執筆家でもあるようです。

 桐の箱の訓示は、差くらい氏からの寄贈と思われます。
 ただ掛け軸になっている物がありますが、裏には、創立60年の折に、中村武雄氏が寄贈したものと書かれています。
 本校の同窓会は明治38年に発足しています。その中には中村氏の名前はありませんでした。
 同窓会名簿を確かめましたら、
明治40年 4名
明治41年 7名
となっています。訓辞には6名の失明軍人とあります。
 3つの訓示は同じ書体と思われますので、桜井が失明軍人の6名に書いて与えた者が所蔵されて来たのかとも考えました。

 年表だけ見ていましたが、この訓示を読むと乃木大将の思いやりや、失明した軍人への叱咤激励を感じます。

  『群馬県盲教育史』の口絵写真に「乃木大将御手植えの松 旧群馬師範学校校庭(明治39年)」とあり、、これを本校が移転の度に植え換えて寄宿舎の庭にあると考えられます


 また、この創建に尽力した人物に瀬間福一郎(せま ふくいちろう、1877年12月〜1962年10月)がおります。
 瀬間は、盲目の盲学校教師で、鍼灸按摩の仕事をしながら草創期の苦難を耐えて視覚障害教育に尽力しました。
 1877年(明治10)12月 群馬県北甘楽郡馬山村「現在は甘楽郡下仁田町馬山」に生まれ、5歳のころに完全に失明したが、下仁田に盲人の城定という鍼医がいて、毎日4キロの道を通って鍼灸按摩の修行をしたといいます。 
1893年(明治26)、東京盲唖学校に入学
1897年(明治30)、東京盲唖学校を卒業し、横浜訓盲院の教師になるキリスト教の先例を受ける。
1899年(明治32)、横浜訓盲院を退職し、馬山村に帰り磯部で開業
1901年(明治34)、前橋市で開業
1901年に点字が官報に掲載され、点字草創期の苦難があったと考えられますし、また点字により多くの情報が獲得できるようになったとも言えます。現在は、点字使用者が少なく、この大発明が泣いている現状でもあります。
1902年(明治35)、自宅で点字や鍼灸按摩の塾を開く
1905年(明治38)、東京盲唖学校校長の小西の薦めにより上野教育会が運営する訓盲所の教師になる
 瀬間は、給料が10円という当時でも低い給料なので治療院も併せて開いていたという。
 当時の授業は先生が読み上げる教科書を、生徒が書き写すなどで、現在は想像もつかない授業風景であったと考えられる。
 1927年(昭和2)には群馬県立盲唖学校が発足するのであるが、予算が少なく瀬間はこの学校には採用されなかった。
 時に50才という若さで、その後は治療院を開業して終わったという。何といたわしい状況だったのか。調べていて涙が出る思いでした。
 しかし、その貢献は忘れられずに色々な表彰を受けたというので、胸をなで下ろしました。


教育機関を作る気運は明治時代に全国を駆けめぐり、1912年(明治45年)末には、全国で57もの盲学校がありました。

現在の理療科教員制度についても、1903年(明治36年)、「東京盲唖学校」に「教員練習科」を置いたことが始まりとされています。なお、東京盲唖学校は先に述べた楽善会訓盲院から続く学校で、現在の筑波大学附属視覚特別支援学校に当たります。

大正時代に入ると、盲人への義務教育制度が整ってきます。1923年(大正12年)8月27日に「盲学校及び聾唖学校令」、二日後の29日には「公立私立盲学校及聾唖学校規定」が相次いで公布されました。これにより、各道府県に対する盲学校の設置義務が課せられ、7年の移行期間を経て完了することとされました。この時期、私立の学校を府県へ移管する動きも多く見られました。

 1939年(昭和14)『全国鍼灸医家名鑑』(帝国鍼灸医報社)には、当時の鍼灸家が掲載されています。私たちが知っている有名人が何人かいます。その有名人や杉山流に関する人物を抜き出してみました。

  ▲環鍼流祖 新井友好
  東京市下谷区上野桜木町36
  電話下谷(83)3129番
 先生は本年37歳の小壮鍼灸家で明治35年2月15日誕生、埼玉県秩父郡国神村に生れ、同地の学校卒業後、秩父郡横瀬村の杉山真伝流初代中津川澤ノ市検校の2代目鈴木金悦師に就いて真伝流の秘伝を受け、今より10数年上京後は現在の所に開業されて小壮成功者の一人である。其の独特なる淋巴環流術に至っては如何なる難症も治ざせる事はなしと、宜なる哉、伊藤是博士の推挙で東京市立女子商業学校のマッサージの先生をされ、山内外科病院のマッサージも担当され、下谷鍼灸マッサージ組合の高級役員としても活動されて居る。其の趣味も広い事も有名で、小唄は春日とよ氏の高足で、旅行等にも趣味を持たれ、営業の研究は古今の書物を読破され其の造詣の深い事は下谷組合でも有数の一人である。
 前途洋々たる先生の研究を益々大成されん事を。本誌の講演者の一人としても有名である事は既に知らる所であろう。(昭和13年1月号帝国鍼灸医報誌掲載)

 麹町区
岡部福次:九段1の18の2 岡部鍼灸院 趣味・読書 雅号・素道 29歳
武井正衛:麹町6の7の6 (元日本鍼灸学院長) 雅号・菖昔尾

 神田区
城一格:猿榮町1の6 鍼灸科 壽伯 61歳
山崎ゑい:猿榮町2の8 杉山眞傳流(佐藤喜又直流) 41歳
小椋道益:美土代町1の22 皇漢法
堀越亀蔵:小川町3の3 (沢田流) 神田2503
赤塚光雄:銀冶町2の12(神田駅前) 淋病の灸 摂生堂 36歳

 日本橋区
吉田弘道:堀留町2の8の6 盲人技術学校教頭 浪花(67)0733 74歳
石坂宗哲:蠣殻町1の12 石坂流5代目 茅場町6029 読書
吉田久庵:江戸橋1の4 吉田会会長

 京橋区
首藤永新:木挽町4の3 鍼灸院 京橋2971 趣味・読書

 牛込区
大塚敬節:市ヶ谷船河原町6 医師(漢法)

 小石川区
桑原吉衛:原町10 元東盲教諭
小濱伊次郎:雑司ヶ谷122 東京盲学校教諭
小川源助:雑司ヶ谷122

 本郷区
平方龍男:駒込追分町90 平方流鍼術 小石川2021

 下谷区
澤口亀吉:上野町2の28 杉山流
平井政雄:新坂上町根岸79 仏眼盲学校教諭

 豊島区
井上榮太郎:巣鴨3の27 雅号・惠理

 葛飾区
柳谷清助:下小松町772 日本高等鍼灸学院長 趣味・読書 雅号・素霊 33歳

  ●長野県
 市郡
代田文誌:長野市県町115 澤田流鍼灸院

 明治から昭和に至っても杉山流の鍼述は残っていたことが分かります。和一の残した盲人への意志は受け継がれていたと考えられます。


4.あはき存続の危機を乗り越えて

太平洋戦争が終わってまもなく、業界にとって歴史上最大とも呼べる問題が起きました。

1947(昭和22)年9月23日、連合国総司令部が「按摩、鍼灸、柔道整復などの全面禁止要望」を提出したのです。

これに対し、全国盲学校長会や鍼按科教員などを中心とした猛烈な存続運動が展開されました。その結果、同年12月7日、「あん摩、はり、きゅう、柔道整復術等営業法」(法律第217号)が衆議院本会議を通過、その後、公布され、「あはきの存続問題」は終結を迎えました。

なお、この時に公布された営業法は、現行の「あん摩・マッサージ・指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」へと受け継がれていきます。

教育法規に関しては、1947(昭和22)年3月31日の教育基本法・学校教育法の公布、翌年4月1日より新制教育制度と「あはき営業法による学校、養成施設認定規則(文、厚生令)」により全国の盲学校に中等部鍼按科4年が廃止され、6、3制の上に高等部5制理療科(本科3年、専攻科2年)が実施されました。

1949(昭和24)5月31日、教育職員免許法の公布により、盲学校特殊教科(理療科)教諭免許状)も制定されました。

2007(平成19)4月 特別支援教育始まる

2013(平成25) 筑波大学理療課教員養成施設 創立110年となる。



【参考文献】

1.厚生省『医制百年史』(p96〜98、ぎょうせい、1976年)

2.加藤康昭『日本盲人社会史研究』(未来社、p119〜126、1985年)

3.群馬県教育委員会『特殊教育義務制施行記念誌 ―盲・聾学校40周年、養護学校10周年―』(同教育委員会、1990年)

4.筑波大学理療科教員養成施設創立90年誌事業実行委員会『筑波大学理療科教員養成施設創立90年誌』(同施設、1993年)、鈴木力二編著『図説盲教育史事典』(日本図書センター、1985年)

5.香取俊光「杉山 和一 その文献と伝説」『理療の科学』第18巻第1号(日本理療科教員連盟、1994年)

6.香取俊光「杉山 和一の屋敷と杉山鍼治講習所について(1)(2)」『医道の日本』第54巻第10号・第55巻第7号(医道の日本、1995・1996年)
7.文部省『盲聾教育80年史』(文部省1958年、)
また、以下の文献も近代の視覚障害教育の内容を知るために活用しています。

加藤 康昭『盲教育研究序説(東方書房、1972年)
加藤 康昭・中野 善達『わが国特殊教育の成立 改定新版』(東方書房、1967年)

中村 満紀男・岡 典子「日本の初期盲唖学校の類型化に関する基礎的検討--明治初期から1923(大正12)年盲学校及聾唖学校令まで」(『東日本国際大学福祉環境学部研究紀要』7(1)、pp.1-33、pp.1-33、2011年)
中村満紀男・岡 典子「新しい日本障害児教育史像の再構築のための研究序説」(『障害科学研究』2011-03、2011年)
中村満紀男・岡 典子「新潟県内盲唖学校5校の経営困難問題と社会的基盤との関連―大正12年勅令までの高田校と長岡校を中心に―」(『障害科学研究』2012-03、2012年)
岡 典子・中村満紀男・吉井 涼「日本の初期盲学校の創設理念とその達成状況に関する検討―高田・福島・東海3校の比較―」(『障害科学研究』2012-03、2012年)
岡 典子「大正12年盲学校及聾唖学校令の教育の質の改善に対する効果」(『障害科学研究』2013-03、pp.129-143、2013年)
中村満紀男・前川久男編著『理解と支援の特別支援教育2訂版』(コレール社、2009年)

メアリー・ウォーノック ブラーム・ノーウィッチ 著、ロレラ・テルジ 編、宮内久絵 青柳まゆみ 鳥山由子 監訳『イギリス特別なニーズ教育の新たな視点 ー2005年ウォーノック論文とその後の反響ー』(ジアース教育新社、2012年)


第2章 盲人と文字

1.大まかな点字の歴史
現在、盲学校では点字使用者が激減し、盲教育=点字とはいかなくなりましたが、依然、点字の恩恵は計りしれません。

日本版の点字は、1890年(明治23年)11月1日に制定されたといわれています。その創案者は、静岡県浜松生まれの石川 倉次(1858―1945)という人です。

点字の歴史は、1822年のフランスまでさかのぼります。軍事用に開発された点の暗号を元に、同国の軍人シャルル・バルビエが盲人用12点式点字を考案しました。

これをさらに、同国の盲人ルイ・ブライユ(1809〜1852)が6点式点字へとまとめ、現在使われている点字の基礎を打ち立てました。石倉 倉次は東京盲唖学院の同僚であった小西 新八らと共に、9点・7点・8点等の試案を経て、現行の日本版点字を作り上げました。倉次の銅像は現在も、筑波大学附属視覚特別支援学校の正面玄関近くに顕彰されています。

2.点字が開発される以前の文字使用

点字が作られる前、盲人は師匠からの言葉を暗記する形でした。つまり、盲人にとっては「文字がない」時代が長く続いたのです。

江戸時代の盲人の暗記について具体的に挙げると、内容を覚えるために4度読み聞かせたので覚えただろうという資料や、将軍綱吉が柳沢 吉保の邸宅に赴いた時、盲人の一人が『大学』の序を諳誦したとか、鍼書・医書・『徒然草』の諳誦をしたとあります。塙 保己一(1746―1821)が2度聞いたものは覚えたという逸話もあるようです。

明治時代の中ごろ、訓盲学院の相次ぐ創設に伴い、使用文字の問題が浮かび上がり、様々な工夫が試みられました。紙の折り方の違いで表したもの、紐に珠の大小を通して現したもの、鍼で字を浮き出させる鍼文字などがありましたが、いずれも簡便ではなく、普及には至りませんでした。

点字は上に挙げた様々な工夫に比べて、扱いが簡単で修正もしやすく、情報の保存にも向いていました。盲人史の中で、点字は革命という名にふさわしい発明だったのです。

これらの歴史的な事情が背景にあったため、かつては盲学校において、全盲・弱視を問わず、全生徒に点字の読み書きを行わせた時代もありました。

第3章 群馬県立盲学校の歴史(概要)


筆者が勤務している群馬県立盲学校について、その大まかな歴史をご紹介したいと思います。

本校は表5に示したように変遷し、敷地も転々としました。現在の校名と敷地に定まったのは、1927年(昭和2年)3月のことでした。その当時の児童生徒数は表6のとおり、全校で27名でした。また、施設はおよそ表7のようでした。

表5.群馬県立盲学校の略年譜

※ 一部、県外の動きも入っています。

1878(明治11)

私立京都盲唖院(現在の京都府立盲学校)が創設される。

1890(明治23)

私立上毛訓盲院が創設されるが、2、3年で廃止となる。

1890.11.01(同年)
石川 倉治が日本語用の点字を完成させる。

1905.09.18(明治38)
上毛教育会附属訓盲所が創設される(群馬県立盲学校の原点)。

1908(明治41)
群馬県師範学校附属訓盲所が設立される。

1914(大正3年)
私立前橋訓盲所が設立される。

1915(大正4年)

私立前橋訓盲所が私立前橋盲学校に改名される。

1921(大正10年)
桐生訓盲所が設立される。桐生市の大蔵院内

1923.08.28(大正12)

盲学校及聾唖学校令が発布され、義務教育制度が発足。各府県に盲学校の設置が義務づけられる。

11月 28日 私立桐生盲学校認可される。
(桐生市本町・浄運寺内)
1924(大正13)
 私立高崎盲学校(高崎市羅漢町法輪寺内)と私立高崎聾唖学校(高崎市並榎町490番地)が設立される。高崎盲学校は昭和32年に廃校となる。
 

1927(昭和2).03 群馬に公立盲唖学校設立
私立前橋盲学校・私立桐生盲学校・私立高崎聾唖学校を統合し、県立盲唖学校が設立される。これは現在の盲学校の場所(前橋市南町)に当たる。

1936.4.1 (昭和11) 県立盲唖学校聾部に中等部新設。(工芸、裁縫の二科を置く)
 ※同十五年四月一日 聾?部中等部に理髪科を設置し、同初等部の学級を一学級増加

1948.04.01(昭和23)
県立盲唖学校を、県立盲学校・聾学校に分ける。ただし、両校とも同じ敷地に設立された。また、このころは高崎盲学校からの転校が続く。

1952(昭和27)
県立聾学校の校舎の一部が、現在の前橋市民文化会館の場所(前橋市南町)へ移転する。

1957(昭和32) 高崎盲学校廃校。
1954.09(昭和29)
県立聾学校の校舎が、盲学校から完全に分離する。寄宿舎はまだ、両校で共同使用していた。
聾学校は、昭和51年に現在の場所(前橋市天川原町)へ移転しました。

1961.02(昭和36)
県立聾学校の寄宿舎が新築され、移転する。これにより、盲学校と聾学校の校舎・寄宿舎が完全に分離・独立し、現在に至る。


表6.県立盲唖学校、創設当時の在籍数(盲部のみ)

初等部
13名
3学級
1年生
1名
2年生
0名
3年生
2名

4年生
3名
5年生
4名
6年生
3名

中等部
2名
1学級
1年生
2名
2年生
0名
3年生
0名

別科
12名
1学級

合計
27名
5学級

※ 1927年3月(昭和2年)時点

※ 学齢より年齢が高い、いわゆる過年齢の生徒が多く、初等部では13名中、10名が過年齢でした。また、全校生徒27名中、21才以上の者が5名いました。

※ 別科は2年課程

表7.県立盲唖学校、創設当時の施設の概要

◆ 盲部校舎

南西部の現在の小学部棟・管理棟の位置に、3階建ての木造校舎があった。

◆ 聾唖部校舎

敷地の中央部の現在の体育館のあたりにあった。

◆ 寄宿舎
北西部の現在の北校舎の位置にあった。1階は聾唖部、2階は盲部として使われた。
聾唖部の生徒は、緊急時に音が聞こえず危険、との配慮でした。

◆ 講堂
現在の北校舎と南部の管理棟の間、プレイルームの→の位置にありました。

管理棟・プレイルームは、平成12年から14年に建て替えられました。建て替え前の建物は、昭和2年からそれぞれ、本館・格技室として利用されていました。


 また、本校70周年記念誌『群馬盲教育史』の巻頭写真に、大正10年(1921)に群馬県桐生市に創建された桐生訓盲所の見取り図が残されています。
 建物は2階建てで、間口7間、奥行き3間(21坪・42畳)で、ほぼ杉山流鍼治稽古書と同じ規模です。
 東京豊島区大塚にあった杉山鍼按学校(認可・大正4年・1915年・12月22日)は59坪1棟とのことでしたので、規模は杉山鍼按学校の方が大きかったことが分かります。
 桐生訓盲所の所在地は天善山日輪寺大蔵院内(桐生市東久方町甲1-1-36)に当初設立され、すぐ田中山浄運寺(桐生市本町六丁目398番地)に移転したようです。
 大蔵院内にあったと想われる桐生盲学校見取り図には階下には、事務室・実習室・寄宿室・勝手・土間・押し入れ・廊下・便所2カ所。
 2階は、講堂・教室3部屋・廊下・会談がとあります。
 そして校庭もありました。

 同記念誌には、大正11年4月18日に高崎市の鍼按協会の寄付により創建された「私立高崎鍼按学校建築ず面(大正13年」も残されています。
 市立高崎鍼按学校は高崎市羅漢町の法輪寺(高崎市羅漢町72番地3内にありました。
 市立桐生盲学校のように間口等が記載されていないのは残念です。
 見取り図には、後者と附属建物、野外体操場があります。
 「同建築図面(同年)」には2階建ての図面で、
 階下には、教室3部屋、廊下、教員室、実地室、押し入れ、2カ所、昇降口、湯飲み所、小使い室、便所、玄関、非常口
 2階には、教室3部屋、廊下、実地室、機械室とあります。

第2編のまとめ
盲学校の設立までを振り返り、原稿を書き連ねるたびに、杉山 和一など遙かに遠い人物に限らず、多くの盲人の辛苦や先輩教職員の苦労が偲ばれ、ありありと目に浮かんでくるようでした。

現在の盲学校の情勢は厳しさを増し、決して楽観できるものではありませんが、例えば在籍生徒数一つ取っても、創立当時は27名であったことを考えれば、現在、生徒数減少にあえぐ私たちも、苦労に耐えられる気になってきます。歴史を振り返ったからといって現在の課題をすぐ解決できるわけではありませんが、勇気を与えられたように感じました。

【参考文献】
1.群馬県盲教育史七十周年記念事業実行委員会『群馬県盲教育史』(群馬県立盲学校、1978年)
2.群馬県教育委員会『特殊教育義務制施行記念誌 ―盲・聾学校40周年、養護学校10周年―』(同教育委員会、1990年)
3.堺 正一『わたしの町の盲学校 川越の埼玉盲学校90年の歩み』(自費出版、1997年)
4.鈴木 力二 編著『図説盲教育史事典』(日本図書センター、1985年)

5.香取 俊光「江戸幕府における鍼科医員と盲人鍼医(1)・(2)」(『理療の科学』16―1・17―1、1992年、1993年)

6.香取 俊光「杉山 和一 その文献と伝説」(『理療の科学』18―1、1994年)

7.香取 俊光「杉山 和一の屋敷と杉山鍼治講習所について(1)(2)」(『医道の日本』54―10・55―7、1995年・1996年)



【補足】
師範学校規程(抄)(明治四十年四月十七日文部省令第十二号)


 師範学校規程ヲ定ムルコト左ノ如シ
 師範学校規程

 第一章 生徒教養ノ要旨

 第二章 予備科及本科
  第一節 学科及其ノ程度
  第二節 教授日数及式日
  第三節 編制
  第四節 教科用図書
  第五節 入学、退学及懲戒
  第六節 学資
  第七節 卒業後ノ服務

 第三章 講習科

 第四章 附属小学校及附属幼稚園

 第五章 設備

 第六章 設置及廃止

 第七章 補則

 第八章 附則

 師範学校規程

第一章 生徒教養ノ要旨

 第一条 師範学校ニ於テハ師範教育令ノ旨趣ニ基キ特ニ左ノ事項ニ注意シテ其ノ生徒ヲ教養スヘシ

 一 忠君愛国ノ志気ニ富ムハ教員タル者ニ在リテハ殊ニ重要トス故ニ生徒ヲシテ平素忠孝ノ大義ヲ明ニシ国民タルノ志操ヲ振起セシメンコトヲ要ス

 二 精神ヲ鍛錬シ徳操ヲ磨励スルハ教員タル者ニ在リテハ殊ニ重要トス故ニ生徒ヲシテ平素意ヲ此ニ用ヒシメンコトヲ要ス

 三 規律ヲ守リ秩良ヲ保チ師表タルヘキ威儀ヲ具フルハ教員タル者ニ在リテハ殊ニ重要トス故ニ生徒ヲシテ平素長上ノ命令訓誨ニ服従シ起居言動ヲ正シクセシメンコトヲ要ス

 四 教授ハ教員タルヘキ者ニ適切ニシテ小学校令及小学校令施行規則ノ旨趣ニ副ハンコトヲ旨トスヘシ

 五 教授ハ常ニ其ノ方法ニ注意シ生徒ヲシテ業ヲ受クル際教授ノ方法ヲ会得セシメンコトヲ務ムヘシ

 六 学習ノ方法ハ偏ニ教授ノミニ憑ラシムヘキモノニアラス故ニ生徒ヲシテ常ニ自ラ学識ヲ進メ技芸ヲ研クノ習慣ヲ養ハシメンコトヲ務ムヘシ

第二章 予備科及本科

第一節 学科及其ノ程度

 第二条 本科ヲ分チテ第一部及第二部トス但シ第二部ハ土地ノ情況ニ依リ之ヲ設ケサルコトヲ得

 第三条 予備科ハ本科第一部ニ入学セントスル者ニ必要ナル教育ヲ為スヲ以テ目的トス

 第四条 予備科ノ修業年限ハ一箇年トス

 本科第一部ノ修業年限ハ四箇年トス

 本科第二部ノ修業年限ハ男生徒ニ就キテハ一箇年、女生徒ニ就キテハ二箇年又ハ一箇年トス

 第五条 予備科ノ学科目ハ修身、国語及漢文、数学、習字、図画、音楽、体操トシ女生徒ノ為ニハ裁縫ヲ加フ

 第六条 本科第一部ノ男生徒ニ課スヘキ学科目ハ修身、教育、国語及漢文、英語、歴史、地理、数学、博物、物理及化学、法制及経済、習字、図画、手工、音楽、体操トス但シ英語ハ随意科目トス

 前項学科目ノ外農業、商業ノ一科目又ハ二科目ヲ加フ其ノ二科目ヲ加ヘタル場合ニ於テハ生徒ニハ一科目ヲ学習セシムヘシ

 第七条 本科第一部ノ女生徒ニ課スヘキ学科目ハ修身、教育、国語及漢文、歴史、地理、数学、博物、物理及化学、家事、裁縫、習字、図画、手工、音楽、体操トス

 前項学科目ノ外随意科目トシテ英語ヲ加フルコトヲ褥

 第八条−第二十七条 略

 第二十八条 本科第二部ノ男生徒ニ課スヘキ学科目ハ修身、教育、国語及漢文、数学、博物、物理及化学、法制及経済、図画、手工、音楽、体操トス

 法制及経済ハ中学校ニ於テ学習シタル生徒ニハ之ヲ欠クコトヲ得

 第二十九条 本科第二部ノ女生徒ニ課スヘキ学科目ハ修身、教育、国語及漢文、数学、博物、物理及化学、裁縫、図画、手工、音楽、体操トス但シ修業年限ヲ二箇年ト為シタル場合ニ於テハ歴史、地理ヲ加フ又随意科目トシテ英語ヲ加フルコトヲ得

 第三十条−第四十条 略

第二節 教授日数及式日

 第四十一条−第四十三条 略

第三節 編制
 第四十四条−第四十六条 略
第四節 教科用図書
 第四十七条 略

第五節 入学、退学及懲戒

 第四十八条−第五十八条 略

第六節 学資

 第五十九条 公曹生ノ員数、之ニ支給スヘキ学資及其ノ支給方法ハ地力長官之ヲ定ム

 私費生ヲ置カントスルトキハ地方長官ハ其ノ員数ヲ定メ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ

 第六十条 懲戒ニ因リ放校ニ処セラレタル者及自己ノ便宜ニ因リ退学シタル者ニ対シテハ地方長官ハ公費生ニ就キテハ授業費及其ノ在学中支給シタル学資、私費生ニ就キテハ授業費ヲ償還セシムヘシ但シ情状ニ依リ其ノ全部又ハ一部ノ償還ヲ免除スルコトヲ得前項授業費ノ金額ハ年額三拾円以下ニ於テ地方長官之ヲ定ムヘシ

第七節 卒業後ノ服務

 第六十一条 本科卒業者ハ左ノ各号ノ一ニ規定セル期間其ノ道府県ニ於テ小学校教員ノ職ニ従事スル義務ヲ有ス但シ次条ノ義務ヲ終リタル者ハ学事ニ関スル他ノ公職ニ従事シ尚特別ノ事情ニ依リ地方長官ノ許可ヲ受ケタルトキハ他ノ道府県、台湾又ハ樺太ニ於テ就職スルコトヲ得

 一 第一部公費男子卒業者ニ在リテハ卒業証書受得ノ日ヨリ七箇年

 二 第一部公費女子卒業者ニ在リテハ卒業証書受得ノ日ヨリ五箇年

 三 第一部私費卒業者ニ在リテハ卒業証書受得ノ日ヨリ三箇年

 四 第二部卒業者ニ在リテハ卒業証書受得ノ日ヨリ二箇年

 第六十二条 本科公費卒業者ハ左ノ各号ノ一ニ規定セル期間其ノ道府県ニ於テ地方長官ノ指定スル小学校教員ノ職ニ従事スル義務ヲ有ス
 一 第一部男子卒業者ニ在リテハ卒業証書受得ノ日ヨリ三箇年
 二 第一部女子卒業者ニ在リテハ卒業証書受得ノ日ヨリ二箇年
 三 第二部卒業者ニ在リテハ卒業証書受得ノ日ヨリ二箇年
 第六十三条 学資ノ支給額ニ差等ヲ設ケタル場合ニ於テ本科第一部公費卒業者ニシテ最多額ノ支給ヲ受ケサル者ニ就キテハ第六十一条ノ期間ヲ男子五箇年、女子三箇年トス
 第六十四条−第六十八条 略
第三章 講習科
 第六十九条 小学校教員講習科ハ小学校教員免許状ヲ有スル者ニ必要ナル講習ヲ為スモノトス
 特別ノ必要アルトキハ尋常小学校教員タラントスル者ニ必要ナル講習ヲ為ス為小学校教員講習科ヲ設クルコトヲ得
 第七十条 尋常小学校准教員タラントスル者ノ為設クル講習科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ身体健全、品行方正ニシテ修業年限二箇年ノ高等小学校ヲ卒業シタル者又ハ之ト同等ノ学力ヲ有スル者トシ其ノ講習期間ハ一箇年以上トス
 尋常小学校本科正教員タラントスル者ノ為設クル講習科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ身体健全ニシテ尋常小学校准教員免許状ヲ有スル者又ハ身体健全、品行方正ニシテ之ト同等ノ学力ヲ有スル者トシ其ノ講習期間ハ二箇年以上トス
 第七十一条 幼稚園保姆講習科ハ保姆タラソトスル者又ハ保姆タルヘキ資格ヲ有スルニ必要ナル講習ヲ為スモノトス
 第七十二条 講習期間一箇年以上ノ講習科ヲ置キタルトキハ一学級毎ニ一人以上ノ割合ヲ以テ第四十六条ノ教員定数ヲ増スヘシ
 第七十三条 講習科ニ関シ必要ナル規程ハ地方長官之ヲ定ム
 第四章 附属小学校及附属幼稚園
 第七十四条−第八十条 略
第五章 設備
 第八十一条−第八十七条 略
第六章 設置及廃止
 第八十八条−第八十九条 略
第七章 補則
 第九十条 略
第八章 附則
 第九十一条 本令ハ明治四十一年四月一日ヨリ施行ス
 第九十二条−第九十九条 略


群馬県では、1890年(明治23年)年に私立上毛訓盲院が創立されましたが、2年から3年で廃校となってしまったようです。

 その後、日露戦争(1904年・明治37年)の戦傷者(失明者)を職業自立させるために、1905年(明治38年)年9月18日、現在の群馬県立盲学校の元となる上毛教育会附属訓盲所(現住所とは違い県庁前)が作られました。創立当初の全校生徒は27名で、そのうち、別科が12名でした。

旅順攻防戦の転機となった逸話で、164高地を高崎15連隊が攻略し203高地(海抜203M)の占領に成功し、旅順攻防戦の集結につながりました。
 この旅順攻防戦の指揮を執っていた乃木大将が「164高地を高崎山」と命名し感謝して感状授与されたという話です。

 群馬の教育・軍事の責任者の大塚なる人物が「死傷者も多く、失明軍人もある故に、この失明軍人のために何かの方法を設けて職業を得させたいものだ」と、高崎山攻防の活躍に報いるために心痛していたといいます。
 大塚は、高配の東京盲唖学校校長の小西信八に相談し、更に小西に瀬間が白羽の矢を立てられたといいます。
 日露戦争による群馬県内の失明軍陣は11名でした。この数は多いのか、少ないのか。どう判断すればよいのでしょうか。
旅順攻防戦の死者は日本側で6万人、ロシア側で1万5千人で、戦傷者数は数万人と言われています。
 乃木大将の二人の息子も戦死したそうです。
 乃木も、失明というハンディキャップは適当な仕事のないことを実感していたので失明軍人の点字習得や按摩による社会復帰を念願していたといいます。
 多くの戦死者や傷病兵の方に改めて哀悼の意を捧げたい。そして、二度と戦争が起こらないことを祈念したい。

 本校の70周年記念誌では乃木の本校慰問の新聞記事や逸話も記載されています。7
 失明軍人の職業教育のために、1905年(明治38年)9月18日、現在の群馬県立盲学校の元となる上毛教育会附属訓盲所が作られました(ただし、現住所とは違い県庁前)。
 瀬間は、小西の薦めによりこの訓盲所の教師になりました
 本校の当初の目的が「お国のために失明した軍人の教育」でしたが、瀬間は一般の盲人達の救済も念頭に会ったと考えられます。翌10月には一般の盲人も5名入学させました。

 創立の翌年1906年(明治39年)11月11日に乃木大将が高崎15連隊への感謝と失明者への慰問に訪れました。
 この時に、東京盲唖学校長・小西信八(1854〜1938年、84才)、山岡熊治(1868.12.8〜1921年、53才)なども〃道しています。
 山岡は、旅順攻防戦の第3軍参謀で、奉天会戦で両眼を失明し、帰国後中佐となり、のち盲人協会会長を務めた人物です。
 乃木の訓示と山岡も訓話があったようです。失明中佐の訓話に失明軍陣は感動したとあります。
新聞記事も残されています。(1884年8月8日にに高崎〜前橋が開通)
 乃木は、11月10日午後7時22分着で前橋まで単独で汽車で来て、徒歩で本町白井屋の山岡の所に行き、宿帳の記入と言われたのに「急ぎには及ばず」と言い名前も名乗らなかったようです。宿泊者の名前を軽擦に届けるのに再度宿帳にと迫られ「軍人乃木希典」と署名し、やっと乃木大将であることが分かり、大騒ぎになったようです。
 翌11日に本校に行かれ、入られるとすぐさま、瀬間の手をとられ、「瀬間さん、御苦労様です。」と言われたので、瀬間先生は感激の余り、言葉も出ず、涙さえ浮べられたと書かれています。
 乃木の休息の間に吸っていた煙草は庶民的な「あさひ」で、訓辞を15分行い、庭に松の記念植樹をして、午後1時20分の汽車で帰郷したそうです。

 乃木の訓示は本稿の70周年記念誌に口絵写真とその逸話が掲載されていますが見たことがありませんでした。現在は本校の教材教具室にありましたので、その後は校長室に保管してもらうことになりました。
 桐の箱に入った乃木希典の訓示が掛け軸として表装され1本、ただ掛け軸になったものが1本、表装も何もしていないものが1枚。
 以上が所蔵されています。

 以下に文字化したものを紹介します。

(桐箱表書)
「乃木大将訓辞」

(箱裏書き)
「為群馬縣立盲唖學校 陸軍少将 桜井忠温書」

(本文)
「乃木希典訓示
富國強兵といふ事に就いて、何が基であらうかと言へば、國家として遊民廃人の無いことが望である。然るに此れを望めば教育と云ふ事より大切な事は無い。教育に於て盲唖の人を教わる其の方法手段、今日の如きに及んだのは、眞に文明の賜である。然しながら之を學ぶ人は大いなる勇氣が必要であると考へる。普通健全な者ですら耐えざる事に耐えるのみならず、其の學びえた事を實行する上に就いては、其の勇氣と忍耐とによりて、健全にして遊情無能の人を戒め懲らすことに於て、即ち富國強兵の大なる力となる事を信じる。
  右は、明治三十九年十一月十一日、群馬縣前橋なる上野教育會が明治三十八年九月縣下失明軍人六名の為に訓盲所を設けしを見舞はれし際、訓示されし言葉で、生徒が點字を以て筆記したものである。 陸軍少将 桜井忠温書(□印)」

 本文の最期に 乃木大将の訓示を生徒が点字で書き留め、陸軍少将の桜井忠温(ただよし、)1879.6.11〜1965.9.17)が書き写したとあります。

 桜井はウイキフエリアによれば、愛媛県松山出身で、松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征し、乃木将軍配下で、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負ったようです。余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという逸話も残されています。
 帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録『肉弾』を1906年(明治39年)に刊行し、戦記文学の先駆けとして大ベストセラーとなり、英国、米国、ドイツ、フランス、ロシア、中国など15カ国に翻訳紹介されました。
 陸軍省新聞班長を勤めたり、他に著書も幾つかある執筆家でもあるようです。

 桐の箱の訓示は、差くらい氏からの寄贈と思われます。
 ただ掛け軸になっている物がありますが、裏には、創立60年の折に、中村武雄氏が寄贈したものと書かれています。
 本校の同窓会は明治38年に発足しています。その中には中村氏の名前はありませんでした。
 同窓会名簿を確かめましたら、
明治40年 4名
明治41年 7名
となっています。訓辞には6名の失明軍人とあります。
 3つの訓示は同じ書体と思われますので、桜井が失明軍人の6名に書いて与えた者が所蔵されて来たのかとも考えました。

 年表だけ見ていましたが、この訓示を読むと乃木大将の思いやりや、失明した軍人への叱咤激励を感じます。

  『群馬県盲教育史』の口絵写真に「乃木大将御手植えの松 旧群馬師範学校校庭(明治39年)」とあり、、これを本校が移転の度に植え換えて寄宿舎の庭にあると考えられます


 また、この創建に尽力した人物に瀬間福一郎(せま ふくいちろう、1877年12月〜1962年10月)がおります。
 瀬間は、盲目の盲学校教師で、鍼灸按摩の仕事をしながら草創期の苦難を耐えて視覚障害教育に尽力しました。
 1877年(明治10)12月 群馬県北甘楽郡馬山村「現在は甘楽郡下仁田町馬山」に生まれ、5歳のころに完全に失明したが、下仁田に盲人の城定という鍼医がいて、毎日4キロの道を通って鍼灸按摩の修行をしたといいます。 
1893年(明治26)、東京盲唖学校に入学
1897年(明治30)、東京盲唖学校を卒業し、横浜訓盲院の教師になるキリスト教の先例を受ける。
1899年(明治32)、横浜訓盲院を退職し、馬山村に帰り磯部で開業
1901年(明治34)、前橋市で開業
1901年に点字が官報に掲載され、点字草創期の苦難があったと考えられますし、また点字により多くの情報が獲得できるようになったとも言えます。現在は、点字使用者が少なく、この大発明が泣いている現状でもあります。
1902年(明治35)、自宅で点字や鍼灸按摩の塾を開く
1905年(明治38)、東京盲唖学校校長の小西の薦めにより上野教育会が運営する訓盲所の教師になる
 瀬間は、給料が10円という当時でも低い給料なので治療院も併せて開いていたという。
 当時の授業は先生が読み上げる教科書を、生徒が書き写すなどで、現在は想像もつかない授業風景であったと考えられる。
 1927年(昭和2)には群馬県立盲唖学校が発足するのであるが、予算が少なく瀬間はこの学校には採用されなかった。
 時に50才という若さで、その後は治療院を開業して終わったという。何といたわしい状況だったのか。調べていて涙が出る思いでした。
 しかし、その貢献は忘れられずに色々な表彰を受けたというので、胸をなで下ろしました。

 2015年の春に群馬点訳奉仕の会の方の紹介で瀬間福一郎の妹くにさんのお孫さん・瀬間光則氏に出会うことができました。
 光則氏から提供頂いた戸籍から年譜を作りました。
 
瀬間福一郎年譜(経歴)
年 月日 事項
明治10(1877)年 12月4日 群馬県北甘楽郡馬(ま)山(やま)村に生まれる。父乙五郎、母かつ。
明治12(1879)年 4月18日 2歳 妹くに生まれる
明治13(1880)年 2月29日 3才 横野りき、継母として迎えられる。
明治15(1881)年 5才 角膜乾燥炎により失明。
明治21(1888)年 8月 11才 下仁田町、院小黒城定(おぐろ じょうさだ)に按摩鍼灸を学び始める。
明治26(1893)年 3月 16才 東京盲唖学校へ入学。
明治30(1897)年 3月 20才 東京盲唖学校卒業。
6月 横浜訓盲院の教員として就職。嘱託。創立者マイライネ・ドレパールと協力して(聖書友の会)を結成し、聖書頒布の運動が広がる。
明治32(1899)年 3月 22才 横浜訓盲院を退職。馬山村に帰り、磯部で開業。
明治33(1990)年 12月7日 23才 佐藤やすと結婚。
明治34(1901)年 24才 前橋で開業。
10月1日 妻やす死亡。
明治35(1902)年 25才 前橋市の自宅で塾を開く。
7月9日 キリスト教団前橋教会で洗礼を受ける。
明治36(1903)年 12月4日 26才 西山千代子(ちよこ)と結婚。
明治38(1905)年 5月8日 28才 長女育子生まれる。
7月31日  同年東京盲学校でのマッサージ講習会に参加し、校長小西信八に盲学校創立を勧められる。
9月18日 上野(こうづけ)教育会の訓盲所創立(現在の群馬会館の西)、嘱託。生徒は失明軍人。群馬県立盲学校の起源。
10月 同訓盲所に失明軍人以外の生徒を入学させる。
明治39(1906)年 5月8日  29才 妹くに、婿として竹松を迎える。
11月11日 訓盲所に乃木希典大将の慰問を受ける。
明治41(1908)年 4月  31才 先の訓盲所が上野(こうづけ・群馬県)師範附属小学校特別学級に改変(現在の前橋市日吉町)、引き続き嘱託・訓導心得。技芸科2年4時間授業課程、国語・生理・按摩を担当。生徒を自宅に下宿させる。
明治42(1909)年 32才 長男 均生まれる。
明治44(1901)年 34歳 次女怡志(いし)生まれる。
明治44(1911)年 10月11日 午前6時 長男 均死亡
大正2(1913)年 10月29日 36歳 瀬間竹松・くに妹夫婦、下仁田町馬山2193番地に分家。
大正3(1914)年 4月 37才 上野師範付属特別学級は桃井(もものい)小学校特別学級(市立訓盲所、現在の前橋市役所南)に改変(翌7月に閉鎖)、引き続き嘱託。
大正4(1915)年 9月6日 38才 産婦人科医師後藤源久郎が私立前橋盲学校を創立(現在の群馬会館の所)。勤務。
大正6(1917)年 4月 40才 私立前橋盲学校校長後藤源久郎逝去直前に枕元にて前橋盲学校を託される(同月17日 後藤源久郎逝去、60余歳)。
6月 盲学校内の教室を寄宿舎として使用し、舎監となる。
9月 盲学校校長・経営者として上毛孤児院より大森房吉就任。
11月 盲学校に隣接する上野図書館跡を寄宿舎として移転、舎監を継続する。
大正8(1919)年 12月25日 42歳 盲学校の終業式。午後から瀬間夫婦などとクリスマス会。
大正9(1920)年 2月27日 43才 三女 和子生まれる。
5月24日 群馬県慈善教会から表彰。
6月19日 東京・全国盲人大会に参加。
9月18日 勤続15年祝賀式、並びに感謝会。
大正10(1921)年 4月6日 44才 群馬県鍼灸按摩試験委員となる。
大正14(1925)年 5月17日 48才 盲教育50周年祝賀会があり、参加。
10月6日 盲学校創立10周年記念式。式の司会をする。後藤源久郎墓参。その後婦人に対する感謝会。
昭和1(1925)年 11月 49才 市内整備に伴い盲学校・寄宿舎が堀川町(現在表町)に移転。寄宿舎の舎監辞任。校長大森氏舎監を兼務。
12月25日 継母りき死亡(享年78才)。
昭和2(1927)年 3月26日 50才 私立前橋盲学校閉校式。廃校となり退職(退職金100円)。4月1日より県立盲学校創立、7月に現在地に移転。
昭和6(1931)年 6月18日 54才 父・乙五郎死亡(90才)。
昭和9(1934)年 57才 群馬県鍼灸按摩組合連合会会長となる。
昭和10(1935)年 11月11日 58才 群馬県盲教育創始30周年記念会から表彰。
昭和11(1936)年 9月22日 59才 長女育子、岡山県に嫁ぐ。
昭和12(1937)年 4月17日 60才 後藤源久郎の20年忌法要を実施(前橋市紅雲町の長昌寺、瀬間夫妻の墓に隣接)。
昭和16(1941)年 4月9日 64才 妹くにの子・敏雄を養子に迎えるが、同年12月8日には協議離縁する。
5月17日 次女 怡志(いし)、勢多郡荒砺村荒口(前橋市荒口町)に嫁ぐ
昭和19(1944)年 67才 群馬県鍼灸按摩組合連合会会長辞任。
昭和20(1945)年 68才 勢多郡荒砥村荒口へ疎開(第2次世界大戦)。
昭和21(1946)年 69才 群馬県鍼灸按摩試験委員辞任。
昭和23(1948)年 9月6日 71才 ヘレン・ケラー女史歓迎全国盲人大会から表彰。
2月23日 次女怡志(いし)離婚して復籍。
昭和25(1951)年 10月28日 74才 卒業生による先生ご夫妻に対する感謝会。
昭和29(1954)年 77才 大手町に(自宅)移転。
昭和31(1956)年 3月30日 79才 午前5時10分 妻・千代死去(82才)。
昭和32(1957)年 10月18日 80才 群馬県盲教育創立50周年記念会から表彰次女怡志(いし)。代理出席。
昭和37(1962)年 9月26日 85才 午前4時30分 死去。
平成14(2002)年 4月23日 次女、い志死去(91才)。
  


第4章 大正12年の盲学校および聾学校令と関東大震災1.盲学校および聾学校令
 戦前の盲学校において、最大の出来事は大正12年8月28日付の「盲学校及び聾唖学校令」、その勅令の直後の9月1日11時58分に発生した関東大震災ではなかろうか。
まず、勅令について 「点字毎日」よりの引用を衷心に紹介してみよう。
大正12(1923)年 8月23日 盲唖教育令案閣議で決定 去る17日の定例閣議は、午前10時より首相官邸において開会。加藤首相、水野内相、eaいちぎ蔵相欠席したる他各大臣出席。内田外相より最近海外事情の報告あり。のち去る1日枢密院本会議において決定された盲学校及び聾唖学校令を初め他6件を決定し、午後1時散会した。待ちに待った盲唖教育令もいよいよ近く官報を以て発布される筈。
しかし、内閣総理大臣の加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日に急死した。


大正12(1923)年 8月30日 盲学校及び聾唖学校令発布 "『大阪点じ毎日』69号付録 
 大正12年
盲学校及び聾唖学校令
 発布 ー 
 文部省は・8日官報を以ていよいよ盲学校令及び聾唖学校令(勅令)公布したが、これに伴のう小学校令・私立学校令・公立学校職員制・公立学校職員俸給令、公立学校職員待遇官等・等級令・公立学校職員分限令の各改正勅令も同時に公布された。而して本令は大正13年4月1日より施行になっている。

「盲唖教育制度制定について」山崎普通学務局長談
 「多年の懸案でありました盲学校及び聾唖学校令は、今回いよいよ勅令第375号を以て公布せられ、同時にこれと関連して小学校令を初めその他に改正を加えられ、ここに初めて盲唖教育に関する独立の学制が確立せられましたことは、この教育のため誠に慶賀に耐えない次第であります。その学制の主要なる点は・
 1.各府県をして盲学校及び聾唖学校を少なくとも各1校づつ設置せしむるを本態とし、特別の事情ある府県には当分の内、公立または私立の学校を代用するを得しめ、尚、その代用をもなすあたわざる場合には本令施行後7け年以内学校設置の猶予を認めたること。

 2.学校の組織を初等部・中等部に分かち、初等部は小学校に準じて普通教育を施し、中等部は中東学校に準じて、主としてもーシ、ン盲人及び聾唖者の生活に適切なる技術教育を施すこととし、土地の状況によったは初等部または中等部のみを置くを得しめたること。
 3.就業年限・入学視覚
 学科・学科目などに関しては、大体において準則示し、十分取捨斟酌の余地を与え、地方の状況により適当に定むるを得しめたること。

4.教員の名称・待遇は、初等部にては小学校に準じ、中等部にあっては中等学校に準ずること。

 5.府県立その他の公立学校の初等部またその予科にあっては、絶対に授業料を徴収するを得ざらしめたること。

6.盲学校及び聾唖学校は、各別個の学校とするを本態とするも、盲学校の学科と聾唖学校の学科とを併置する学校も当分のうち、設くるを得しめたること。
等であります。
 尚、本年度よりは特に盲唖教育補助費を予算に計上すると共に、教員陽性の施設を拡張し、また教科書の編纂に着手するなど制度の制定と相まって盲唖教育の発達を図ることになりました次第であります。
  28日山本権兵衛伯に後継内閣組織の大命下る。



 外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任して職務執行内閣を続け、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任(大命降下は8月28日)と政界もあわただしかった。


2.関東大震災と盲学校
 全国の盲学校では、勅令の対応にあたふたしていた9月1日11時58分32秒頃マにグニチュード7.9の台紙心が襲い、東京・神奈川を中心に被害があった。東京では出火してはまたあちらから出火と市内を襲い10万5千人の被害者があったという。
 9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣の後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。
 また、ラジオ放送が始まった初期で、罹災後ラジオの普及が広まったという。

 「点字毎日」が大正11年から発刊されていたが、その紙面を見ると、以下のことが目に付く。
 点字投票友好運動
 検定試験点字友好運動
 検定試験を文部使用に移管要望
 全国の障害者数調査の開始…大正13年
 義務教育運動
 エスペラントの教育
 視覚障害者の急増と眼科検診
 大正デモクラシーと生徒の権利運動
 盲唖学校令の後の課題


 では、関東大震災による盲学校の様子をみてみよう。
■罹災盲学校
東京盲学校、東京盲人技術学校、同愛盲学校、杉山鍼按学校
東京聾学校…詳細は調査未踏
 神奈川県下の横浜訓盲院、横浜盲人技術学校、中郡盲人学校
横須賀盲人学校

 震災直後は東京・神奈川以外にも千葉木更津訓盲院、静岡の沼津訓盲院にも被害があったと想定されていたようである。
 ※以下資料は点字毎日の記事である。号数と頁表題、記事の内容を示す・
大正12(1923)年 9月13日 関東大震災の概要 *我らは目の前に見せつけられた。横浜盲人技術学校、東京盲人技術学校、同愛盲学校が校舎その他を烏有に帰せしめたのを初めとして損害の程度は決して少々ではないらしい。雨風を凌ぐに所なく、飢えと疲れと不安の内にあることここに10数日、震災地幾千の盲人のために我らは徒に胸を痛めているにすぎない。幸いにほかは英米ロシア、支那を初め書学校をの同情ある救いの方法をこうぜられ内は義捐金申込者殺到し、慰問袋はどしどし集まってくる。…
大正12(1923)年 9月20日 *盲学校の罹災状況 今回の災害によって東京築地の盲人技術学校、本郷の同愛盲学校、横浜の盲人学校は、いずれも焼失し、横浜訓盲院、横須賀盲人学校、神奈川県中郡盲人技術学校、千葉県木更津訓盲院、沼津訓盲院等災害についてはいまだ判明せず。

 しかし、段々と事情が判明して東京市の盲学校の中でも重大な罹災は築地の東京盲人技術学校と本郷の同愛盲学校、神奈川県全ての盲学校(横浜盲人技術学校・中郡盲人学校、横浜訓盲院、横須賀盲人学校)であることが判明してきた。
大正12(1923)年 10月25日 *文部省の罹災対応 今回宮内省より築地の技術学校に1000円、同愛盲学校に400円、その他横浜盲人学校、中郡盲人学校にもそれぞれ下賜金があった。各学校ではそれぞれ焼け跡にバラックの仮校舎を建て、近く授業を始むる由。
とであった。


 ○東京同愛盲学校→戦後廃校、ヘレンケラー学院に発展
大正12(1923)年 12月6日 *同愛盲学校の復興状況 焼失した東京同愛盲学校では、先に見宮内省臨時救護事務局から60坪のバラック材料を給与されたところ、以前の地主が敷地の貸与を拒みし、ため、バラックを建てることができず、非常に困っている。目下応急の策として来年3月卒業の者だけ高橋教師の宅で授業している。
大正12(1923)年 12月20日 *東京同愛盲学校復興状況 東京同愛盲学校は、過日来バラック建設地を求めていたが、適当な場所なく取りあえず、去る15日から麻布密教会で授業を始めた。
大正13(1924)年 3月20日 同愛盲学校復興状況 昨年台紙自身の際、焼失した東京の同愛盲学校は、苑の地敷地の選定に苦しんでいたが、今回府下中野町やとに新築することとなり、着々準備中。
大正13(1924)年 7月10日 東京同愛盲学校、長崎盲学校、豊橋盲唖学校、山形庄内盲学校の4校に対し文部省より開校認可があった。

※東京都立文京盲学校『創立100周年記念誌』(同、2008年) PP.94-96
小林 一弘「東京都の盲学校の変遷と文京盲学校」

 東京同愛盲学校は、浅草三筋町の美普(メソジスト)教会の大儀見元一郎牧師によって、明治39年1月に「浅草訓盲所」として創設されました。翌41年に「同愛訓盲院」と改称、アメリカの美音教会から経営資金の援助を受け、本郷金助町(現在の本郷3丁目)に移転、大正9年「同愛盲学校」と改称、大正12年の関東大震災で校舎類焼。中野区城山町に校舎を新築して「東京同愛盲学校」と改称。昭和20年5月の空襲で再び校舎全焼。終戦後の昭和24年4月、新宿区西大久保の東京盲人会館内に暫定的に復興誹召和28年5月から世田谷区三軒茶屋の聖ルカ失明教会内で授業を再開しましたが、私立学校の維持経営は難しく、昭和31年4月、惜しまれつつ廃校となりました。
 ※社会福祉法人東京ヘレンケラー協会編『視覚障害者と共に50年 ー社会福祉法人 東京ヘレンケラー協会の歩み 社会福祉法人東京ヘレンケラー協会創立50周年記念誌ー』(社会福祉法人東京ヘレンケラー協会、PP57、2000年 )

ヘレン・ケラー学院の前身一東京同愛盲学校


 ○東京盲人技術学校・築地盲学校→都立文京盲学校
 ※創立100周年誌には「校舎全焼」
大正13(1924)年 8月7日 *築地盲学校開校認可  東京市築地の盲学校に対し、去月31日文部省告示を以って開校認可があった。
1924年(大正13年)4月 - 中等部を設置。
1925年(大正14年)4月 - 研究科、別科を設置。
1929年(昭和 4年)- 新校舎(小田原町)が完成。

 ○中郡盲人学校→神奈川県立平塚盲学校
大正12(1923)年 10月11日 *神奈川県中郡盲人学校の罹災状況 神奈川県中郡盲人学校では、去月1日職員会議中に大地震起こり、逃げ出す暇もなく校舎倒れ、宮内校長を初め飯島・寺田両教授及び書記はいずれもその下敷きとなったが、幸い無事に助かった。その後同校は寄宿舎を修繕して、今月中旬より授業を始む筈であったところ経済界不振のため突然9月30日限り廃校することとなった。職員を初め十数名の生徒は全く途方にくれている。誠に同情に耐えない次第である。
大正12(1923)年 10月25日 *中郡盲人学校の復興状況 既報神奈川県中郡盲人学校は、去月限り廃校となったが、その後同校職員らの奔走により再び継続すること隣、去る20日より要村のキリスト教講義所を仮校舎として授業を始めた。
大正13(1924)年 3月27日 神奈川県中郡盲唖学校復興状況 神奈川県中郡要村の盲人学校は、昨年の大地震で丸つぶれとなったため、仮校舎で授業をしているが、今回平塚町小学校裏手に移転することとなり、同時に簡易な聾唖教育も併置する筈。

 ○横浜訓盲院
大正12(1923)年 10月25日 *横浜訓盲院の復興状況 横浜基督教訓盲院は、寄宿舎半壊し、校舎の壁や天井が落ちたが、応急の修理をなし、11月1日より授業を開始の筈。
大正12(1923)年 11月29日 *横浜訓盲院復興状況 横浜訓盲院は震災のため半壊した校舎を修繕して既に授業開始の筈であったが、大工がないため、予定の如く修繕がでぎず目下熊本県から、大工を呼び寄せて工事を急いでいる一方、同院は米国赤十字社テント病因の払い下げを乞い、テントと校舎、テント寄宿舎を今月中に完成し、ただちに授業を開始する筈。
大正13(1924)年 6月19日 横浜訓盲院復興状況 仮校舎落成式が去る10日行われた横浜訓盲院は、テント校舎・テント寄宿舎で不便な授業をしているが、知覚寄宿舎の本建築が落成する筈。
大正13(1924)年 7月24日 横浜君猛威で整復制定 横浜訓盲院では、盲女生徒の運動を奨励すべく先ず服装を洋服にすることとなった。

 ○横浜盲人学校→横浜市立視覚特別支援学校
大正12(1923)年 11月29日 横浜盲人学校復興状況 全焼した横浜盲人学校は、三橋校長を始め理事たちが先日来しばしば県や市の教育課長を訪問し復興方を陳情した結果、大阪他6県が寄贈した中村町のバラックを市から借り受けて近く授業を開始すると。

 ○横須賀盲人学校→廃校
大正13(1924)年 2月14日 横須賀盲人学校復興 横須賀盲人画工は、昨年の大地震の再、焼失してしまったが、近く神奈川県から5000円の補助金をもらい、新築することに決定し、これを同時に財団法人組織に改め、面目を一新する筈であるが、長岡げんかく氏は校長として在任3カ年の間、僅かに数回顔を出しただけであるので、排斥の声が他覚新築と同時に校長を変えることになるだろう。


 戦前には、山手線の大塚駅の近くに杉山鍼按学校があったが、第2次世界大戦で焼失し廃校となった。また、学校の被害よりも創立者の千葉勝太郎が呉服屋の保証人となり、地震の被害で祖父千葉周作の遺産を以て弁償し、更には割腹自殺して学校を維持させ建て言う。
 ○杉山鍼按学校
大正12(1923)年 10月11日 *杉山鍼按学校の罹災状況 杉山鍼按学校長千葉勝太郎氏は、駿河台の自宅を焼きだされ、巣鴨の同校にありて罹災盲人のために種々尽力されているが、また一方、市内按摩業者と相計り一般罹災者並びに帝都復興に従事している労働者を慰するために無料で按摩を行っている。兎角暴利を貪らんとする今日、かかる麗しい情緒が我が盲界に表れているのは誠に喜ばしい。
大正13(1924)年 1月10日 杉山鍼按学校長千葉勝太郎氏逝去 東京府下杉山鍼按学校長千葉勝太郎氏は、去る3日の明け方突然逝去さる。享年63才
大正13(1924)年 7月31日 東京府下巣鴨の杉山鍼按学校、群馬県の高崎盲学校、福島県の郡山訓盲学校の3校に対し、去る26日文部省より開校認可があった。

 東京盲学校にも被害はあったが、他から比べると被害は少なかったようである。
 ○東京盲学校
大正12(1923)年 9月13日 *東京盲学校の罹災状況 東京盲学校・東京聾唖学校は共に無事。町田盲学校長、石川舎監も無事、富岡【兵吉】・小出の両教授は消息不明。
大正12(1923)年 10月4日 *東京盲学校事業再開 震災のため過日来休校していた東京盲学校は来る15日より授業を始むることとなった。
大正12(1923)年 11月1日 東京盲学校の生徒職員の被害状況 最近、東京盲学校の報告によれば、今回の震災により同校生徒中死亡者1名、罹災者22名、ほかに罹災職員5名。(小出、はりおか、富岡、本庄、石川文蔵)であると。
大正12(1923)年 11月22日 *東京盲学校の罹災状況 最近の報告によると東盲同窓会の震火災による損失高は756円45戦にして、なお他損失価格不明の物が600円程ある。
大正13(1924)年 東京盲学校卒業式 東京盲学校では、27日第36回卒業式を挙ぐ。卒業生は普通科技芸科師範科合わせて88名の多数に上り、文部大臣代理の杉社会教育課長の祝辞があった。また、普通科音楽科卒業の牛島・山口・斎藤3人の合奏「松づくし」、師範科音楽科の石田蔵吉、水のよしえ両人の長唄「菊水」の演奏があった。


 罹災の傍ら第2次世界大戦で焼失し廃校となった仏眼協会盲学校の創立もあった。
 ○仏眼協会盲学校創立
大正13(1924)年 4月 仏眼協会盲学校を開校  東京の東浅草内の本願寺内の仏眼協会は、盲人救済のため盲学校を15日から開校する。15歳以上の者を入学させ、鍼按教育を行う。
大正13(1924)年 4月24日 東京仏眼協会盲学校設立 東京浅草本願寺内の仏眼協会では盲人九歳のためかねて盲学校新設の計画中であったが、いよいよ15日から開校され、15歳以上の盲人を入学させ、鍼按教育を施す筈の貧困者には学資補助の道もある由。
大正13(1924)年 5月1日 文部省開校認可 文部省告示を以って新盲学校令により4月より開校認可を受けし者にて、去月21日より26日までの分は、仏眼協会盲学校(東京浅草、私立静岡盲学校、私立彦ね訓盲院、私立宇都宮盲唖学校の4校。


○一般学校対応
大正12(1923)年 9月13日 *文部省の震災対応 文部省は、東京・横浜等にある直轄学校の授業を当分休むことにした。これらの学制は地方の同種学校に委託することになるであろう。
86 大正14(1925)年 2月  東盲師範科生同盟休校 " 東盲師範部鍼按科生は、12日町田【則文】校長に対し、
 1.4月から9月まで授業を毎朝午前8時から始められたきこと。
 2.実地授業を午後に回わさせられたきこと。
 3.付属治療所を設置されたきこと。
 4.医師を招聘し実地指導に充てられた気こと。
 5.師範部音楽科および鍼按科卒業生 の待遇を改善されたきこと。
 6.師範生に対する給費額は各科同一にせられたきこと。
 6項目にわたる陳情書を提出したが、校長が拒否。
 13日から鍼按科生34人は同盟休校に突入。
 同校は13年4月、新規則により従来の就業年限2カ年の鍼按師範科を就業を、年限3カ年の甲種師範部鍼按科と改称されたが、その内容は従前となんら異なったところなく、単に名称を改め年限を延長したに過ぎず、また師範部生に対する給費は晴眼普通科生には毎月一人20円支給されているのに、盲人の鍼按科生には毎月一人7円、それも全員に与えられるのではない。その上卒業後の待遇についても晴盲の間に大きな差別があるとして、師範部鍼按科生は再々その改善を校長に働きかけてきた。
しかし、改善の意志ないとして生徒は硬化し、加えて先の陳情が拒否されたために同盟休校に入ったもの
"
87 大正14(1925)年 2月 東盲同盟休校解決 " 6箇条の要求が拒絶起こった東盲師範部鍼按科されて生の同盟休校は、益々拡大していくことを憂いた大阪・兵庫・和歌山・奈良・岡山の各府県に住む東盲出身者十数人は、22日神戸盲に集まり、母校ストライキ問題の善後策について協議。
今関【秀雄】神戸盲校長、金成和歌山盲唖学校教諭、中村点毎主筆の3氏が上京、朝廷に当たることを決めた。
3氏は、上京して文部省や学校側と折衝。
結局、学校側は学生側の提出した6箇条の要求を全面的に認め、学生側に一人の犠牲者も出さないことで解決。
26日より平常に戻った。
なお、きしだか たけお、石川しげゆき両教諭は辞表を提出。
"
91 大正14(1925)年 5月 東京と京都で盲教育50年記念 " 東盲【筑波大学附属資格特別支援学校】・築地【文京盲学校】・杉山【戦災で廃校】・同愛【廃校、ヘレンケラー学院に発展】仏(ぶつほとけ)眼(げん)【戦災により廃校】の5盲学校出身者達は、明治8年5月22日楽善会が組織された時をもって日本盲教育の記念として、17日、東盲で盲教育開始50周年記念祝賀会を開催。
 一方、京都では、23日、京都市立盲学校で開催。
古河太四郎氏の胸像除幕式の後、全国盲学校卒業者大会・代表者会を開き、
 1.失明防止に関する方策。
 2.盲人に対する教育の機会均等に関する研鑽。
 3.鍼灸マッサージ師法制定の件。
 4.国立点字出版所の件。
 5.点字出版振興のために補助金下付の件。
 6.点字普及の促進を期すの6件を審議。

"
大正15(1926)年 2月  横須賀盲人学校 校名変更 " 横須賀盲人学校は、盲人学校という校名は、社会的にもかんばしくないとして名称変更を申請。
 20日、文部大臣からよこすか盲学校として認可。
"


○周囲の対応
大正12(1923)年 9月20日 *神戸盲人技術学校の罹災者対応 神戸盲人技術学校の生徒たちは、神戸に上陸した避難民を無料で治療して新設に労わっている。
大正12(1923)年 9月27日 *震災地から大阪方面へ避難した盲人の消息  震災地から大阪方面へ避難した盲人は目下25・6名であるが、去る23日ちくこう二条通りますだ常吉方へ落ち着いた横浜吉田町の盲人石井兵器地(40才)は、地震の際、居合わせた同業盲人米谷金太郎、柳しんぞう、岸本まさおとの4人が、申し合わしたように箪笥の蕎麦にはい寄り、引き戸を破って外に出で、4人がたとい死んでもその手は離すまいと互いに必死と手を握り愛、眼秋でさえ困難な非日の中を耳や皮膚の感覚を働かせてやっと逃れ出で、山崩れや崖崩れの道をたどりながら3日横須賀に落ち延びそれから船で清水港に上陸して大阪まで来たので、その大胆な避難ぶりには眼秋もおどろいている。
大正12(1923)年 9月27日 京浜地方罹災盲人救護団創立  京浜地方在住の盲人中今回の災害を被った者は、その数日に数千に達し、命からがら逃げ出した者の莫大な財貨は焼き尽くし、これからどうしてよいかと途方に暮れ、日増しに加わる冷気は一層身にしみ、実に同情に耐えざる者も少なくない。ここにおいて、在京の日本盲人協会東京鍼按連合会、日本盲人後援婦人科医、盲人保持協会希望者、盲人慰安部盲人信仰会、盲人恩知キリスト協会、旧姓軍盲人部、その他有志が発起となり、京浜地方罹災盲人救護団なるものを組織し、事務所を東京市小石川区雑司ヶ谷町108 日本盲人協会に置き、広く一般より金銭・衣服(古着)の寄付を受け、哀れな罹災盲人を救済することとなって、同会宛同情ある諸君の義捐を望む。取扱期限は12月15日まで。
大正12(1923)年 10月 震災の罹災者1300人 " 震災で、災害を受け、焼け出された盲人は東京市だけでも約1300人いるが、そのうち消息の判明は百数十人。
東京市では、避難盲人のため青山の明治神宮外苑のバラック小屋、総計畳数30畳を貸与。
"
大正12(1923)年 10月11日 *震災で焼け出された盲人の数と避難状況  今回の震災で災害を受け焼け出された盲人は東京市だけでも約1300人あるが、そのうち消息の判明している者は僅かに百数十名に過ぎない。東京市ではこれら避難盲人のために青山の明治神宮外苑のバラック小屋第31号第1室より第5室まで総計総畳数30畳を貸与さるることになり、目下数十名の盲人が収容されている。
大正12(1923)年 10月11日 罹災者に対し下賜金 両陛下の思し召しにより去月16日罹災地社会事業団体に3万円を下賜しされが、5日更にこれら社会事業保護事業・盲唖教育事業等20団体に対し応急施設費として1万円を下賜された。尚、来春行わせられる御慶事には饗宴その他を廃止、極めて質素に取り行わせらる筈であるが、全国の優良社会事業団体に対しては、凡そ120万円を下賜せられるとのことである。
大正12(1923)年 10月11日 *お茶ノ水女子高等師範学校罹災につき、東京盲学校大講堂に避難 今回の震災でお茶の水女子高等師範学校は全焼したので、東京盲学校の大講堂に畳を敷き詰め、女子こうしの寄宿舎に当てている。尚、東盲の寄宿舎にも多数避難盲人が収容されているが、同寄宿舎は今後改築せねば危険であると。
大正12(1923)年 10月25日 失業盲人について "我らは霧の中を歩いている。誰でも自分らが歩いていることだけは分かっているけれども、たれ一人どちらを目当てにして進みつつあるかを知らない」と 「かつてロイド・ジョージは叫んだ。
 去る9月1日より向こう3日間、煙の内に包まれた京浜において、特にしみじみと感ぜられた。警察犬は頼みならず、新聞は容易に手に入らぬので何が何やら世間が真っ暗になってしまった上に、流言飛語は紙を役よりも早く、人の心はいやが上に脅かされてくる。ピストルにナイフに竹槍に身を固めた人々や自警団の物騒さといったらない。身動きのならぬためじっとしていた幾千の盲人に比べ、歩行自由な聾唖者の内に自警団のために傷つけられ殺された者が却って非常に多かった手のは、特に痛ましく感ぜられる。
 一度焼けたと伝えられた横浜訓盲院校舎は無事であった。
 維持困難の故を以て先月末の評議委員会において一度廃校と決まった中郡盲人学校は再び授業を開始するに至った。
 バラックの内にただ1本の笛の与えられんことを求む盲人按摩手の上に秋の夜寒が襲ってきた。「こんな時だ。肩の凝るくらい辛抱せよ」という節約家の門前には笛の音も力がない。
 関西地方にすら娘の琴の稽古を遠慮させている向きもまだかなりあるらしい。秋まさに酣といっている内に冬は近く、我が前にある手も足も出されぬ。
 焼け野原に取り残された多数失業盲人のためにも、我らはまた考える。
 必要がある救済事業は第2期に入った。「情けは

人の為ではない」。
"
大正12(1923)年 10月25日 *京浜地方罹災救済団報告  京浜地方罹災救済団よりの去る15日の報告によると、調査したる罹災盲人110人()盲学校生徒・職員は別、寄付金高149円、寄付物品衣類185、布団、枕2,かいまき3、嘱託1,その他35。第1回の配給人員46人、第2回は目下配給中。青山のバラックにいる者12人。
大正12(1923)年 11月8日 *東京府下駒込罹災盲人救済会報告 東京府下駒込の罹災盲人救済会の手によって調査された罹災盲人は、518名。そのうち生活に困らぬ者は僅か43名。家族の生死や行方不明のため同会に乗せ和になっている者及び病気にて手当て中の者が尚48名ある。同会ではこれまで漸々職業教育を受けていない老幼のために私塾を設けて職業を教えたり、また修身救済の道を講じている。
大正12(1923)年 11月22日 帝都復興委員より復興費予算発表 帝都復興委員は、復興費7億500万円6懸念継続事業と発表した。内4億8千万円が東京の文であるが、その半額を東京市の負担となし6懸念間は無利息で国庫から貸し付けるというのである。しかし東京市は非常な不満で、焼けない前の都市計画でさえ8億円であったのに、これではあまり貧弱すぎると市会の反対決議文を後藤総裁に提出した。
大正12(1923)年 11月29日 *文部省震災復興予算 文部省は東京、神奈川、千葉、埼玉、、静雄か、山梨の1府5県における罹災中等学校及び盲唖学校の復興計画が容易に捗らず非常な困窮状態にあるので、大蔵・内務両省としばしば折衝の結果、低利資金782万6263円をこれらの学校に公布することになった。そのうち私立盲唖学校の分は4万2267円である。
大正13(1924)年 3月6日 罹災地盲唖学校救援近畿盲唖教育社連合会義援報告 罹災地盲唖学校救援近畿盲唖教育社連合会にて募集した義捐金は645円77銭にて先月末罹災地の8盲唖学校にそれぞれ分配した。
大正13(1924)年 5月15日 *内務省社会局東京市内のバラックを整理
大正13(1924)年 6月19日  京浜地方罹災盲人 救済団から最近報告があった。それによると寄付金総額2110万円99銭。その他物品の見積もり価格約3000円で、その配給を受けた盲人は東京で300名、横浜で200名とあったと。
大正13(1924)年 8月14日 *文部省被災私立盲学校へに貸付金  文部省では昨年の大地震の際の罹災私立学校に対し、本年3月に既に150万円の復旧に貸付を実行したが、更に先般の特別議会で300万円の貸付金追加予算が通過したので、先日以来その振り当て額につき種々協議中であったが、去る6日普通学務局関係の分だけ決定した。それによると、盲唖学校の分は、22160円にして、その内訳は東京築地の盲人技術学校9055円、同愛盲学校4527円、横浜盲人学校4527円、横須賀盲人学校2264円、中郡盲人学校1787円。


 ■罹災後に発生した課題
 施設
 教科書
 生徒と職員の罹災
 罹災学校は公立化が困難…東京では代用学校に

大正12(1923)年 10月4日 *震災による点字出版物の状況  今回の震災により帝国盲教育界の点じ教科書の原版及び東盲同窓会の改版された現場等を焼き点じ出版界に多大の影響を与え、また大半完成していた日本盲人後援婦人会点じ英和辞書も浅草伊達氏宅にあったため焼失したのは遺憾である。また銀座の米国聖書会社焼失のため8月末できあがった旧約聖書エレニヤ紀100冊を初め多数の点じ聖書を失ったが、幸いに点じ聖書の原盤は全て小石川の盲女寄宿舎にあったため災厄を免れた。神田の大日本国民中学会も焼失したが牛込区矢来町の同会盲人教育部(小浜氏方)は無事にて点じ中学講義録には何ら損害を及ぼさない。府下柏木の盲人キリスト信仰会も全く安全にして同化井野出版物は全て無事である。
大正12(1923)年 11月22日 帝都の震災状況 震災以来殺人・発狂・赤痢・腸チブスと、それからそれへ大小災厄に脅かされている帝都では、最近結膜炎や夜盲症がその勢いを逞しゅうして市民の7・8分通りはこれに侵されている。警視庁衛星課では全力を上げてこれが予防と治療に当たることとなった。
大正12(1923)年 11月22日 *東京仏眼協会で無料診療 仏眼協会の本部である浅草本願寺では、東京帝大の石原博士及び京都帝大の菅沼博士を聘しての無料診療を行っているが、毎日100名乃至150名の患者を取り扱っている。その多くは砂埃に冒された結膜炎と栄養不良が災いした夜盲症、すなわち鳥目である。


  おわりに
 関東大震災は東京、神奈川県の盲学校にとって以上のような状態であるといえますが、群馬ではあまり申告な影響はありませんでした。
 以下は、高崎市の広報の一部に掲載された物です。
 
たかさき100年第20回関東大震災と高崎
たかさき100年第20回写真 震災後の浅草仲見世通り
大正12年(1923)9月1日の昼ごろ、高崎は大きな地震に襲われました。電柱はグラグラと動き、棚の上にあったものが音を立てて落ち、何かにつかまらなければ立っていられないほどでした。激しい揺れはおよそ10分間続きました。午前11時58分、相模湾を震源地とするマグニチュード7.9の大地震が起こったのでした。
高崎板紙株式会社(現高崎製紙)の大煙突2本が途中から折れ、上州絹糸紡績会社など多くの工場の煙突も折れてしまいました。土蔵の壁が崩れ落ちたのも多かったのですが、つぶれた家はありませんでした。夜までに大小の余震が30回以上も続き、南東方面の空は真っ赤に染まりました。いろいろな流言飛語も流れました。人々は道路や広場に避難し、ほとんど寝ないで夜を明かすありさまでした。やがて、東京で大災害が起こったことが伝えられたのでした。
9月2日の午後、所沢の飛行場を飛び立った飛行機が高崎の連隊の上空を旋回して通信筒を落とし、連隊を通じて救援を要請しました。高崎市でも救援活動を始めました。救援物資を集め、3班の救護班を結成して東京に派遣することにしたのです。荒川の鉄橋は不通になっていましたが、この日の午後遅くなると、埼玉県の川口駅から通じていた高崎線に乗って、着のみ着のままの避難者が高崎駅にたどり着くようになりました。煤と泥で汚れた人たちで列車はすべて満員でした。
駅頭では、市内のいろいろな団体が救護所を設けて、次から次へとたどり着く避難者に対し、傷の手当てをしたり、食べ物や着る物を配ったり、必死の救護活動を行いました。こうした活動には、中学校や女学校の生徒たちも加わっていました。また、体一つで逃げてきた人たちには、宗教界が手を差し伸べ、高盛座(劇場)や延養寺などに無料で宿泊させました。まさに総掛かりの救護活動が行われました。
高崎市から震災の現地東京へ派遣された救護団は、9月3日の早朝高崎駅を出発、川口駅から歩いて東京へ入りました。救護団は被害の激しかった日比谷・本郷・芝浦・築地など主に下町方面で救護活動に当たり、多くの被災者を懸命に助けました。
(石原征明)

 盲教育史の中では、大正デモクラシーの中で、盲人達の要求と政府の政策との間での評価が論じられています。 私たちの先輩は、大正末からしょうわ、平成といくつもの課題と闘ってきました。生徒の確保、天災、戦災、盲唖学校の離合集散、学校の私立から公立へ、義務教育生、点字による普通選挙の実施、教科書の安定な配布、教育課程の変遷など、。また、私たちも同じように生徒の確保や教育課程の変更、国家試験合格率の向上次から次へと課題が集積していきます。
 また、障害者自身にとって天災は何時、どこに発生するか分からないが、関東大震災後のいくつもの天災では一般の方と共に障害者にさらなる苦痛があることが証明されている。このレポートが何かの役に立ててくれればよいと思う。


平田勝政「大正デモクラシーと盲聾教育 ―「盲学校及聾唖学校令」の成立過程の分析を通して」(『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第37号、p21〜44、1989年)
岡 典子・他 大正12年盲学校及聾唖学校令の教育の質の改善に対する効果 障害科学研究37/p.129-143,2013年

【参考】
平田勝政「大正デモクラシーと盲聾教育 ―「盲学校及聾唖学校令」の成立過程の分析を通して」(『長崎大学教育学部教育科学研究報告』第37号、p21〜44、1989年)より、足利の沢田正好の躍動を抜き出す。
 
 A盲人団体の場合
 一方,盲人団体は,意気軒昂できわめて積極果敢な運動を展開し,当局から危険視されるほどの動きを示した。その端的な例が,第七回全国盲人大会(1922.2.18〜20)と全国盲人文化大会(1922.3.27〜28)であった。
 前者の第七回大会(於・東京神田三崎会館)は,第六回大会(1920.6.19〜20)で結成された「帝国盲人聯合団」が呼びかけたものであった(31)。
その大会開催にあたりマスコミの注目を集めたのは,沢田正好,長島文太郎らを中心とする「足利盲人革新団」の去就であった。この盲人団体中の急先峰である「革新団」は,大会開催数:日前から足利で示威運動を展開し,その余勢を駆って大会の前日(2.17)東京に乗り込んだ。すなわち,一行12人(内4人は付き添い)は浅草駅に着くと同時に,
「『点字投票を認めよ』『盲人にも義務教育を授けよ』『足利盲人革新団』と大書した長慌を押し立ててプラットホームから」降り立ち,自動車に分乗して市内を練り廻し,窓から次のような文面の宣伝ビラを散布した。
 「一.盲人にも義務教育を授けよ,吾等も亦忠良なる陛下の赤子である,国民中野教育    者の存する事は国家の恥辱ではないか,宜しく吾等盲人にも一般国民と等しく義    務教育を授けよ
  一.盲人の点字投票を有効ならしめよ,吾等盲人も優良なる国民ではないか,若し然らずんば寧ろ死を与へよ」
 そして,大会当日(2.18)には,沢田正好(但し,「都新聞」は長島文太郎と報じる)が,議事の途中で,「日程を変更して是より大挙,文相,内相に直接談判せよ」と叫んで緊急動議を提出し,議場内を騒然とさせた。しかし,採決の結果「百五十野選」対「十六名」で否決された。このことが示すように,「革新団」には,当局に対する強い不信感と同時
に,「期成会」の運動の手ぬるさへの反発があった。急進的な「革新団」の動きは小数派であったとはいえ,盲人運動に強い刺激を与え,その主張と行動は後々の語り草となった。
結局,大会は,最終的に「革新団」のスローガンと同様「盲人教育令を速かに発布せられんことを文部大臣に建議すること」及び「点字投票の効力を認められんことを内務大臣に建議すること」を決議し,それぞれ実行された。とくに,前者の教育令発布を求めた次のような「建議中の一句」は,当局者(=文部省第四課社会教育調査室)をして,「何たる哀調!何たる悲調!」(32)と言わしめるほど,強く迫るものがあった。

 ※この沢田正好は、私の父親の恩賜で、この記事を話してもピントこないようであった。父親と接したのが、昭和20年前後のことであったためか。


第5章 第戦争と障害者

 2019年は終戦から74年となり、戦争当事者がかなり少なくなり、いよいよ戦争を実体験した方々がいない世の中になった。
 2017年夏に学兄で、日本盲教育研究会の事務局長の岸博実氏(京都府立盲学校講師)がラジオ深夜便に出演して話されたことをまとめてみた。
 岸氏はは、戦争によって視覚障害者は以下の状況にあったという。
 1.差別、のけ者
 2.被害者として
 3.協力者として
 4反戦者として

 以上について、私が集めた資料などを紹介してみる。
 まず、「1.差別、のけ者」としての資料は管見しなかった。
 2.被害者としての資料を紹介する。
 資料は「毎日新聞点字毎日『激動の80年――視覚障害者の歩んだ道程(点字版)』(毎日新聞社点字毎日、2002年)の号数と頁を示す・元本は点字なので、筆者がテキスト化した。
  (1)学校体性・盲界について
昭和16(1941)年 3月 盲学校規定改正  文部省は、31日付官報で、国民学校令実施に伴い、文部省令第25号で公私立盲聾唖学校規定の改正を公布。
 それによると、盲学校初等部の教科および学科目については、国民学校初等科の教科および科目に関する規定(第5条)を準用し、
 中等部普通科の学科目は、終身・国語・外国語・数学・歴史・地理・理科音楽および体操(女子には家事・裁縫を加う)とし、
 普通科意外の学科にあっては、終身・国語・体操および技芸に関する学科目睹し、土地の状況によりその1科目または数科目を除き、もしくは必要なる学科目を加えるのことができる(第5条の2)。
 また、初等部の毎週教授時数は国民学校に順次、
 中等部は学科の種類に応じ、中学校、高等女学校、または実業学校に準じて定める()第7条。
 また、盲学校は、国民学校、その他の学校に併設することができる(第20条)。

昭和16(1941)年 5月 弱視児は国民学校で  文部省は、8日付官報で、国民学校令実施に伴う擁護学級設置に関する文部省令を公布。
  擁護学級は、1学級定員30人以内で、身体虚弱・精神薄弱・弱視・難聴・吃音・肢体不自由の障害別に編成し、養護訓導を配置。

昭和16(1941)年 12月 盲聾唖学校規定改正 文部省は、24日付で、文部省令第87号を以て、公私立盲聾唖学校規定の一部を次のように改定。
 第14条 第10条および第11条の資格を有せざる教員数は、これを有する教員数の2分の1を超過することを得ず。ただし、特別の事情ある場合は、この限りにあらず。
 前項、但し書きのある場合においては、私立学校に有りては設立者において地方長官の認可を受くべし。
 地方長官は、公立学校にして第1項但し書きの規定によりたるとき、または前項の規定により認可をなしたるときは、これを文部大臣に回診すべし。
 前項の回診中に対しては、当該学校現在、教員の氏名、履歴、資格、従事の学科、担任の学科目、毎週教授時数、および詳細なる事由を記載したる書類を添付すべし。
 第15条  盲学校および聾唖学校においては、校地、校舎、体操場および校具を備うべく、なお、なるべく寄宿舎を備うべし。
 なお、第10条および第11条の有資格者というのは、東盲、東聾の師範部卒業生。文部大臣の師弟したる失明軍人教育所師範部卒業生および盲唖教育の経験の、いわゆる文部大臣の認可教員のこと。

昭和18(1943)年 4月 盲唖学校規定改正  文部省は、18日付で、文部省令第19号を以て、公私立盲聾唖学校規定をの一部を改正。
 その主なる点は、
第5条および第6条で中等部の教科および科目にについては、中学校・高等女学校および実業学校の教科および科目に関する規定を準用すること。

昭和19(1944)年 3月 大阪の女子勤労総動員体制  大阪府は、女子勤労総動員体制の徹底的強化を期するため、府下の各種学校45校の新規生徒募集の禁止。在学生に対して急ぎ職場配置につけと、勤労動員を行う。
 これに関連して、関西鍼灸学院、明示鍼灸学校、および大阪電位学校も新学期から女子生徒募集を禁止されたが、男子生徒は従来通り授業継続。
昭和19(1944)年 4月 盲学校の日曜返上始まる  政府の非常措置要項に基づき、和歌山盲は、今年度から日曜を返上。戦時下盲生徒の修練に努める。
 京盲も5月から日曜返上。
762 昭和19(1944)年 4月 大阪に当道錬成道場開校  大阪の当道音楽会本部はけっせんか・箏曲 専門師匠の再教育機関として当道連戦道場を新設し、8日開校。道場では毎週月・木の2回日本宗教。日本音楽などの講座を開くと共に、禊ぎ・勤労奉仕などを行う。会費月5円。
昭和15(1940)年 3月 盲唖義務制実施は無期延期  6日開かれた衆院市町村義務教育費国庫負担委員会で、民政の伊藤とういちろう氏の質問に答えて松浦文相は、盲唖児童は普通児に比しその数も少ないため、もしこれを義務制とする時は、自然1カ所に集める必要上、これらの児童は家を離れ、遠距離の地に収容することになる。
 従って、寄宿舎をはじめ諸種の施設が必要となる訳で、経費の問題などの問題も考えなくてはならなければならないから、まず当分実現は困難であると回答。
 13年12月8日教育審議会の答申書第14項で、
「殊に盲聾唖教育は、国民学校に準じ、速やかにこれを義務教育とすること」とあり、これを受け手盲唖学校長建議事項委員会は、関係方面に強力な働きかけを行う一方、関係者も社会政策上その必要を認め、その機運が盛り上がっていた時だけに関係者のショックは大きい。

昭和19(1944)年 5月 奈良盲の戦時教練  奈良盲は、盲唖生の戦時教練として盲部生徒には鉄砲体操を実施。文部省の補助金550万円で設備を完成。
昭和19(1944)年 5月 盲学校の閉鎖始まる  緊迫せる時局下、政府の命令で東京・横浜・横須賀・名古屋・大阪神戸・尼崎・および関門・北九州など重要都市にある盲唖学校は、空襲の惨禍から児童生徒を守るため、疎開または授業停止
昭和19(1944)年 6月 文省の許可・認可 地方長官に移される   政府の決戦非常措置要項に基づき、文部大臣の許可・認可事由の一部が、1日から地方長官に移される。
 内、盲聾唖関係では、
 1.予科・別科・研究科および専科生。
 2.生徒定員解放期日の変更
の2件で、いずれも文部大臣に報告するだけになるる

昭和19(1944)年 6月 大阪市盲の疎開  大阪市盲は、府下高槻市天理教清原分会を借り受け集団疎開に決定。
 初等部27人、鍼按科28人、音楽科8人、職員15人が、同地で決戦授業を開始。

昭和19(1944)年 7月 呉市盲人の疎開促進  緊迫せる情勢下、呉市は防空活動に適さぬ市内盲人に対し、全面的な疎開を勧奨。
昭和19(1944)年 7月 高崎盲への転学者急増 盲学校の疎開で、群馬県高崎盲への転学者が激増。既に築地盲から21人、仏盲から8人。、同愛・杉山盲数名づつ転学疎開。
同校では収容しきれないため、隣接のお寺の本堂を臨時寄宿舎に解放してその受け入れに奔走。

昭和19(1944)年 8月 東京技盲通信教育  東京盲人技術学校は、授業停止以来、生徒の学習について検討しているが、毎週1回職員が出勤して通信教授をなす他、実地は地域的に生徒を集め、短期間に缶詰教授を行い、進級させる方針。
昭和19(1944)年 8月 仏盲父兄教育  仏眼盲は授業停止後、家庭にある盲人のために、まず父兄教育をすることになり、毎週2回、父兄を学校に集め、点字教授など実施。
昭和19(1944)年 9月 東盲二手に分かれて疎開  東盲鍼按師範は、静岡県伊豆長岡温泉、さかや旅館に疎開。15日から授業を始める。
 また、普通師範中等部・初等部の生徒は、富山県宇奈月温泉に疎開。

昭和20(1945)年 1月 神戸盲 兵盲に疎開  昨年の6月以来授業を休んでいる神戸盲(林宅)は、兵盲(垂水区内に疎開しての授業再開を県に要望していたところ、19日許可。26日から授業を再開。
 午前は兵盲が、午後は神戸盲が授業を行う。
昭和20(1945)年 3月 教育諸団体の統合 帝国けんかの情勢に即応する協力な教育推進機能を発揮するため、全国教育諸団体を統合・一元化し、大日本教育会を新発足させることにてし、帝国盲教育会、ならびに全国盲学校長協会に対して、その特殊部会として参加を要請。
 これを受けた両団体は、書面をもって関係者の意見を聴取。
昭和20(1945)年 9月 姫路市の戦災者数  姫路市内の盲人44人中、戦災者は23人。内戦災死1人、妻子を失った人1人。
昭和20(1945)年 10月 奈良盲内の神社撤去 "奈良もうは、事変以来校庭に祭るって礼拝を続けてきた神社を、敗戦の今日、県からの注意もあり、31日最後のお祭りを行って撤去。
 なお、朝会のの際行っていた橿原神宮遙拝も取りやめた。"

 (2)失明社対策
昭和13(1938)年 2月 傷病兵補導計画  第4師団は、陸軍病院に入院中の傷病兵に対し、職業訓練と精神教育を行い、退院・除隊後は一角の働き手として更生させる目的で、傷病兵補導実施要項を発表。
昭和13(1938)年 4月 【特設】広盲に臨時失明軍事講習所  特設広島盲は、今時、事変で失明した軍人のために同校内に臨時失明軍人講習書を特設。
 6日開校式を行う。所長には八尋【樹蒼】同校校長が就任。
 講習科目は、点字と鍼按術。講習生は、3人で、毎日自動車で陸軍病院から通学。
545 昭和14(1939)年 2月 失軍職業研究所発足  失明軍人の将来に光明を与えるために、東盲内の失明軍人教育所に失明軍人職業研究所を設置。
 専門委員を委嘱して失明軍人の職業、個性・適正などを詳細に調査し、農業・園芸・簡易工作・工芸品製作、速記術、治療、作業、音楽など各種職業の研究を進め、更に防護・聴音術などの研究により失明者の更生を有効に行かしていく。
569 昭和14(1939)年 12月 失軍教育書完成  東盲内に公費8万円をかけて建設中の失明軍人教育書は、この程完成。
 木像2階建て2棟。
昭和15(1940)年 1月 失軍寮落成  東京大塚の火薬庫跡に、新築中の失明軍人寮は20日落成。
 敷地1800坪、一部2階建て、木像(589坪)。
 敷地内に恩賜財団軍人援護会総裁朝香宮【鳩彦王】殿下から収容慰安のためとして特に寄付された平屋建て135坪の建物に「せいきかん」と命名。

昭和15(1940)年 10月 失軍教育書初の卒業生  失明軍人教育書の第1回卒業式は、30日挙行。8人(師範部3人、中等部5人)が卒業。
 師範部出身の近藤まさあき氏は、愛知盲に、鈴木れんじ氏は庄内盲に、片山せんぞう氏は平塚盲に就職。
昭和15(1940)年 12月 失軍も就業年限は4年  厚生省衛生局長は、16日付で北海道庁管からの、11月30日付紹介「旭川盲の鍼按科に学失明軍人の就業年限を2カ年にして差し支えなきや否や」に対し「、鍼按学校指定に関する通牒並びに鍼按取締規則にある就業年限4カ年の趣旨は、単に学術を取得したるを以て足れりとせず。4カ年以上、その術の就業をなすことを必要とする趣旨であるから、たとい特別の教育を施し一般の生徒が4カ年に習得する科目を2カ年に習得せしめた場合でも4カ年就業すべきものである」と回答。
 これは、5月、奈良で開かれた校長会議の際、盲学校鍼按科に学失明軍人の就業年限の2年または4年が論議されたため。
昭和16(1941)年 7月 失軍寮にプール完成  恩賜財団軍人援護会は、公費7900円で東京小石川の失明軍人寮内に我が国最初の盲人用プールを完成。
昭和18(1943)年 2月 盲人更生講習会  東京盲人会館は、11日から毎週月・水・金の3回、盲人更生講習会を開催。
 普通科は、2カ年で中途失明者の更生に必要な学科を課し、専科は、半年で鍼按受験準備の科目を授け、点字科は、3ヶ月で点字を教授。
昭和19(1944)年 3月 盲人更生補導所開設  東京盲人会館は、昨年の2月から中途失明社の更生講習会を行ってきたが、今度これを常設的に開館、附属盲人更生補導所としてスタート。
 1日、開所式を行う。本科・専科・予科の3科を置き、授業は毎週月・水・金・土。
 勤導主任には関学出身の高尾たかのり氏。
昭和19(1944)年 9月 失軍教育所など富山県に疎開  東京にある失明軍人教育所と失明軍人寮は富山県傷痍軍人宇奈月温泉療養所に疎開。
昭和20(1945)年 3月 陽光会解散 " 昭和9年創立以来、10年の歴史を持つ斎藤武弥・百合夫妻経営の陽光会は、緊迫せる時局の影響を受け、3月末限り解散することとなり、この程、解散声明書を発表。
 なお、斎藤氏は、今後日盲副会長として東京豊島の自宅で日盲相談部を設け、全国盲界のために各種の相談・問い合わせに応ずる。
 手数料は1件につき20銭。
"
昭和20(1945)年 4月 徳盲内に職業補導所  徳島盲は、軍事援護会県支部の委嘱により補導書を設け、家庭マッサージを教授。
昭和20(1945)年 9月 失軍会館 治療鍼製作始める  空襲・疎開・終戦などで一時頓挫していた関西盲人兄弟社の治療鍼製作は、関田技術顧問の考案で、20分の1のモーターを利用して精巧な鍼先研磨機が完成。 盲人でも用意に操作ができるので、これまで電波兵器製作に当たっていた軍人会館
金属部は兵は産業に切り替え治療鍼製造に決定。
昭和21(1946)年 2月 失軍教育書など改変 " 保護院の管轄にあった失明傷痍軍人教育所と失明傷痍軍人寮は所管が厚生省社会局福利課に変更。
 名称は、特設失明社教育所光明寮とそれぞれ改名。
 入所・入寮資格者も従来の戦盲者から戦災による失明者および軍需工場で失明した者などに拡大される。"
昭和21(1946)年 3月 大阪失軍会館 ライトハウスに  大阪失明軍人会館は、1日からライトハウスに改称。
昭和21(1946)年 3月 第1病院眼科点字室解消  失明軍人点字教育のため昭和13年以来設置されていた国立東京第一病院(元・陸病)眼科点字室は31日をもって解消。]

 本校でも、昭和16年-17年には失明軍人への講習会を実施し、点字やマッサージの講習をした。
傷痍軍人の保護について金蘭九1「戦前・戦中期における傷痍軍人援護政策に関する研究 ―職業保護対策の日韓比較―」(『九州看護福祉大学紀要』7−1、2005年)は、戦争と傷痍軍人への対応が概略的に知ることができるものである。
  また、久松寅幸『近代日本盲人史』(東京ヘレンケラー協会、、2018年)第2節 戦後における身障者福祉法の制定に以下のように見える。以上の資料よりは簡単な記事である。
1 傷痍軍人対策から障害者対策へ
(1)傷痍軍人援護対策の廃止と再編
 明治以後,我が国の身体障害者(以下「身障者」という場合がある)に対する行政施策は,生活困窮者対策の中に含めて取り扱われていた。すなわち,戦後「身体障害者福祉法」が施行されるまでは,傷痍軍人を除いて,障害の特殊性を考慮しての援護制度はなかったのである。もっとも,明治期から昭和戦前期にかけて見られた「盲人保護法」制定運動のように,一部に障害の特性に配慮した施策の充実を求める動きはあったが,具体的な法制化には至らなかった。
 1929(昭和4)年に制定された救護法においては,その救護対象の中に「不具廃疾,疾病傷痍其ノ他精神又ハ身体ノ障碍ニ因リ労務ヲ行フニ故障アル者」を明記しており,その障害の範囲及び程度も勅令で厳格に定められていた。すなわち,身障者は1個の生活困窮者として取り上げられているに過ぎなかったのである。
 終戦となり,特に数年は,食糧・物資の不足や配給機構の停滞,物価の高騰など社会情勢の混乱により,救護法の機能の発揮が著しく困難になったため,1945(昭和20)年12月に「生活困窮者緊急生活援護要綱」が閣議決定され,翌1946(昭和21)年9月には「生活保護法」が制定された(救護法は翌10月1日付で廃止)。これにより身障者に対する取り扱いに関しても,医療面の強化,生活扶助,生業扶助の程度の向上,施設収容の拡充等,一定の貢献がみられた。しかしながら,ここでも身障者は一般生活困窮者の一部として位置づけられており,身障者の福祉そのものにねらいをつけた法制ではなかった。
 このように,戦前・終戦直後における我が国の一般身体障害者対策にはほとんどみるべきものはなかった。
 しかし,傷痍軍人に対する施策のみは,国の特別の意図の下に積極的に行われてきたのである。特に,日華事変が起こった1937(昭和12)年には軍事扶助法が制定され,翌1938(昭和13)年には傷痍軍人保護対策審議会と傷兵保護院が設置された。そして1939(昭和14)年には,さらにこれらを拡充し,それぞれ軍人保護対策審議会と軍事保護院が設置されたのである。また,国立施設として結核療養所,精神療養所,職業補導所,失明傷痍軍人寮など数多くの施設が設けられ,戦傷病者の医療と更生援護に巨額の経費と最高の技術が傾けられた。その結果として,障害の種類と程度に応じた特殊の保護と更生指導についての研究・実践が進められていったのである。
 具体的に,失明軍人対策としては,軍事保護院が戦傷失明者を東京音楽学校(現・東京藝術大学)お茶の水分校に教育を委託して,ピアノ調律師の養成に成功を収めている。また,ライトハウス(戦時中は失明軍人会館,現・日本ライトハウス)では,失明軍人が電波機器の製作などに従事している。当時,恩賜財団軍人援護会大阪府支部常任理事を兼任していた大阪府軍事課長は,軍事保護院総裁(陸軍大将)等の会館視察の様子を次のように回顧している。
 「作業中の失明傷痍軍人を慰問激励され,長時間にわたって,その作業をご覧いただくことができた。その際,会館の事業について『よくやってくれてありがとう。今後もよろしく頼みます』と,岩橋館長に対し,感謝と激励のお言葉をいただいた。なお,失明軍人会館が発足してから,本部である恩賜財団軍人援護会会長,同会理事長,軍事保護院副総裁の外,軍事保護院の局長,課長,事務官をはじめ,報道関係者や,その他官民の方々の御視察が多かった」(『日本ライトハウス四十年史』1962)
 しかし,このように手厚い傷痍軍人援護行政も,1945(昭和20)年8月の終戦以降,連合国軍の非軍事化・民主化政策の中で急速に解体されていった。
 例えば,軍事保護院は,1945(昭和20)年11月に廃止され,翌12月には新たに厚生省の外局として保護院および医療局が設置された。だが,保護院は翌1946(昭和21)年2月に勅令によって廃止され,その所管業務は,職業補導については勤労局(後の労働省職業安定局)に,その他一切は社会局に引き継がれることとなった。そして,かつて軍事保護院が傷痍軍人に対して行っていた医療,訓練,生活援護,職業補導等の一連の施策は,あらためて身体障害者一般に対するものとして,職業補導については労働省の職業安定局へ,医療行政については厚生省医務局へ,その他については厚生省社会局へと分割・再編されることとなった。
 このようにして厚生省は,身体障害者に対する各種行政中,職業補導を除く全分野を担当することとなった。その結果厚生省は,手厚い保護を奪われることとなった傷痍軍人の他,大規模な戦災による戦争傷病者と,昔からほとんど顧みられることもなく放置されていた一般身障者について,早急に施策を立て,遂行しなければならなくなったのである。

 (2)戦傷失明杖
 戦争による失明者への慰安のために戦傷失明杖が配布された。
 昭和13年12月には、失明有志に尊敬と慰めを捧げるため傷兵保護院は、「戦傷失明図絵」を製作し、陸海軍病院を退院する失明軍人に逐次送呈することにした。杖は、桜の木で作り、長さ3尺8寸上品なため色塗り(赤黒い漆塗り)で、正面に銀色「戦傷失明」、やや下がって「傷兵保護院」と彫りつけ。裏には公布番号が記された。『(しょうけい館)館だより』第50号(2011年)によれば、銀座の杖の老舗、株式会社橋商店(現在・タカゲン)が製作し・試作品を所蔵していて、昭和13年から支給していた(陸軍省は昭和14年、海軍省は昭和18年から支給)という。現在は現存がほぼ確認されていない。この後に「戦傷奉公杖」が支給された簡単な白杖から。陸軍省(握りが鷲)・海軍省(握りが錨)と発展した。海軍のものは戦禍が極まる中の支給なので現存が少ないという。
昭和13(1938)年 12月 戦傷失明杖  失明有志に尊敬と慰めを捧げるため傷兵保護院は、「戦傷失明図絵」を製作し、陸海軍病院を退院する失明軍人に逐次送呈することにした。正面に銀色手
 杖は、桜の木で作り、長さ3尺8寸上品なため、色塗り(赤黒い漆塗り)で、正面に銀色「戦傷失明」、やや下がって「傷兵保護院」と彫りつけ。裏には公布番号が記されている。
昭和18(1943)年 11月 須山【いさむ】氏 盲人用縫針を考案  大阪西成の須山いさむ氏は、手術用の針から盲人用縫針を考案し、失明勇への贈り物として陸海軍へ献納。

 (3)戦災
昭和20(1945)年 7月 沖縄盲のその後  点毎に1日付で沖縄盲校長高橋福治氏から次のような手紙が届く。
 「沖縄の戦局緊迫化に伴い、沖縄盲も県の命令で疎開することになり、私しは疎開地物色のため、2月下旬、先発して宮崎県に向かい、職員・生徒は後を追って、次の便で出帆することになっていたが、戦局の周辺に湯より、ついに職員・生徒は那覇を引き上げることが不可能となり、沖縄島死守のため、よく敢闘して、ついに皇土護持の尊い犠牲となった…。」 

昭和20(1945)年 8月 広盲 原爆で使用不能  広島市尾長長の広島盲本校舎は、6日の原子爆弾でほとんど使用不能にまで破壊される。
昭和20(1945)年 8月 【長崎盲校長】多比良【義雄】氏死去  長崎盲校長多比良義雄氏は、9日公務で長崎へ出張中、原子爆弾のため、頭部や顔面に不詳。
 市街長与村の疎開学舎に帰校、療養中のところ、19日死去。57才。
 氏は、昭和10年以来、長崎県立盲聾唖学校長として奉職。

昭和20(1945)年 8月 戦災盲学校  点毎の調査によると、戦災を受けた盲学校は、八王子、青森、平、杉山、仏眼、横訓、浜松、豊橋、愛知、名古屋、岐阜、富山、和歌山、大阪市、神戸、広島、下関、徳島、香川、大分、差が同愛など40校以上と判明。
昭和20(1945)年 9月 姫路市の戦災者数  姫路市内の盲人44人中、戦災者は23人。内戦災死1人、妻子を失った人1人。

 3.産科・協力者として
 (1)【艦上戦闘機】「日本盲人号献納運動
昭和17(1942)年 3月  第619号「日本盲人号(艦上戦闘機)」の命名式は、他の報国飛行機6機、ないかてい2隻の命名式と29日大阪歌舞伎座で挙行。
 「日本盲人号」関係者として全国から304人が出席。一昨年奈良県橿原で開かれた奉祝2600年全日本盲人大会の「軍用飛行機献納基金募集決議」によりライトハウスに事務所を置き、全国各地から資金が寄せられ、総額4万8520円37戦に達する。
昭和17(1942)年 3月 【艦上戦闘機】「日本盲人号」命名式報告
昭和18(1943)年 12月 日盲・日鍼 両支部長会議  大日本盲人会支部長会議並びに大日本鍼灸按マッサージ師会師会長会議は、12日、東京駿河台の日本医師会館で開催。 31都道府県の支部長師会長および関係者など124人が出席。
 全員畏くも御神拝祈念の時刻に恭しく伊勢神宮を遙拝して大東亜戦争必勝を祈願。
 なお、代表をそれぞれ明治神宮と靖国神社に送って、皇軍の武運長久を祈願。
 議事は議案を整理して第1部(部推進)、第2部(実践)、第3部(訓練)の3分科会で審議。分科会報国通り決議。
 1.軍用機「鍼師灸師号」献納運実施動(会員は最低3万円。来年6月までに完納)。
 2.
昭和19(1944)年 7月 九州各県業者の献納機
 九州各県業者のせきせいの結晶艦上戦闘機「九州鍼按按師号」の命名式は2日鹿児島地方海軍人事部で行う。九州各県代表64人出席。海軍大臣代理から浜田献納委員長に対し、献納旗を大型写真が授与。
昭和19(1944)年 8月 日盲日鍼号献納
 大日本盲人会、大日本鍼灸按マッサージ師会の飛行機献納全国代表者会議は、16日東京駿河台の医師会館で開催。全国から54人が出席。今関氏を議長に推し、献納機の名称について審議。鍼按按号、決戦盲人号、愛国盲人号、決戦日鍼号などが提案。結局当局の意向汲み「愛国××日盲日鍼」と可決。献納者代表に日盲総裁かわたただかきち、日鍼会総裁おおだち しげお両氏の名を以て陸軍戦闘機1機を献納することを決議。引き続き海軍機1機を献納することにし、締め切りを9月末日までと決める。尚、今回の献納金は11万1500円。

 (2)防空間使
昭和9(1934)年 7月 三重盲防空監視  三重盲生徒は、26日からの近畿防空演習に出動。聴音機を使用して防空監視の任に当たる。
昭和12(1937)年 1月  海軍技術研究所は、軍艦や潜航艇の所在を知る聴音機を操縦する者の、聴覚能力研究で盲人について試験。
 東盲の全盲生5人
が、12日から実験にはいる。
昭和16(1941)年 10月 七尾市で盲人が監視所に 12日から10日間全国的に行われた第2次防空訓練に、石川県警防課は、前谷最初の試みとして七尾市の盲人・小林としお(32)・大宮つとむ(27)・高木かんじ()23
の3君が市内3カ所の監視所にそれぞれ配置。
 爆音とその方向足底に当たり晴眼者より数秒早く爆音を聴取し、かつその方向も正確に判定して好評。

昭和17(1942)年 2月 盲人の監視員誕生  石川県警防課は、昨年、総合防空訓練の際、全国に先駆けて七尾市の盲人3人を試験的に監視所に配置し、成果を収めたことから、石川県下の重要監視所に盲人を配置することを決定。
 これを受けた石川県盲人報國団長・三谷復二郎氏は、適任者35人を推薦。
 県は、聴力検査の後、30人を採用し、防空第一線につく。

昭和18(1943)年 11月 レコードによる敵機の判別 耳の錬成会  石川県盲人報國団は、空襲時に備えるため、レコードによる判別、耳の錬成会を3日金沢、7日大聖寺、10日小松の3カ所で開催。
 昭和16(1941)年3月31日、学校長倉林佐市氏退職する。県立安中高等女学校教諭川辺録朗学校長に補せらる。さらに寄宿舎木造2階建32坪増築なる。10月頃に完全なる戦争態勢に入り、銃後々援強化週間開始される。依って本校もこの目標に沿って積極的協力することを余儀なくされる。10月12日、市内警備団による防空監視哨を屋根に設け、本校上級生をも之に参加協力する。12月8日、太平洋戦争の開幕でいよいよ以って戦争態勢となり、本校に於いても防空資材の整備戦勝祈願等ひたすら望む。以来本校の非常事態中の一員として活躍し、主として農村の勤労作業、マッサージ慰問治療等に専念する。さらに戦争失明軍人の点字講習の実地、続いて学徒動員、これには栃木県黒磯飛行隊、【高崎市】堤ヶ岡飛行隊へそれぞれマッサージ治療を奉仕し、飛行兵を慰問した。斯くして本校生徒、主として中等部生徒が当時の国策に全面的貢献をなした事は実に見捨てがたいものがある。
 ※石川盲松井繁「戦時中苛酷な防空監視に従事した近江谷勤」(『道を開拓した21人 不滅の足跡を残した石川の視覚障害者達、関係者』(橋本確文堂、P45〜69、2015)に、石川県下には敵機判別レコードが残されていて、盲人達の、戦時下の防空監視の詳細な様子が記述されている。@は三重盲の防空監視の事例であるが、恩師長尾栄一先生が防空監視に当たった話しをかつて聞いたことがある。また、

 (3)物資の献納
昭和16(1941)年 2月 【佐賀県】杵島郡鍼灸師会ウサギの皮を献納
 佐賀県杵島郡鍼灸師会は、一昨年来会員がウサギを飼育し、行軍将兵へ毛皮を献納し、銃後奉公。昨春は24枚、今年は36枚。来年からは会員一人3枚ずつ、計78枚を献納することを申し合わせる。
昭和17(1942)年 7月 【盲聾唖者】わだがき【よしお】氏彫刻献納
 盲聾唖の彫刻家わだがき よしお(51)氏は、大東亜戦以来彫刻献納を発起し、このほど完成。陸軍省へ献納。作品は高さ1尺5寸、長さ2尺5寸で二人の子供が遊戯している明るいもので、触覚のみで造られたもの。
昭和17(1942)年 8月 横浜盲銅像献納  横浜盲人学校は、出征できない盲生徒に代わって第一線で活躍してもらおうと同校校庭に建てられてある創立者浅水十明明翁の銅像を、24日軍に献納。
 1943年  
○ 3月    山口県立盲学校、創立者今冨八郎銅像供出

 (4)勤労奉仕
 ※群馬盲
 昭和12(1937)年7月、中華事変開始され戦争状態となる。10月1日より毎日交代にて高崎陸軍病院」群馬日赤病院に収容の戦争傷病兵に対し治療奉仕をする。この奉仕は昭和15(1940)年に至る間続行されたが、奉仕を受けた傷病兵の数は実に延1万5千人の多きに上った。
昭和20 1945 4月 群盲唖に学徒動員令発令。
5月 群盲唖盲部卒業生、栃木県黒磯飛行隊へ航空マッサージ実施。引き続き、在校生の堤ヶ丘飛行場(前橋飛行場)にも奉仕実施。
昭和18(1943)年 10月 旭川盲勤労報告隊を結成  旭川盲は、職員・生徒で勤労報国隊を結成。
 27日から近郷町村へでかけ、園農作業に従事。

昭和18(1943)年 12月 【愛知県】盲人の鍼按奉仕にストップ  愛知県鍼按組合は、鍼按報国団を結成。鍼按治療奉仕を続けているが、翼産会県支部から空襲必死の今日、身体不自由な盲人は遠慮して欲しいとう申し入れにより同団を改組。
 団員を身体自由の 第1種と身体不自由の第2種に分離。
 第1種団員のみが鍼按奉仕を行うことを決める。
 これに対し、第2種団員から反対の声あがる。

昭和18(1943)年 12月 出軍産業戦線に【盲人工員を採用】  大阪阿倍野の早川電気工業会社は、失明軍人を産業戦線に立たせ、戦力増強に挺身せしめるため、山本卯吉、須藤千明、両准尉、山本・松下成田各1等兵、大阪盲協の寺川の6氏を工員に採用。
 31日、入所式を行う。
 これら工員は、大阪市内庄和町の失明軍人会館に設けられた分降工場で電機部分品の打ち抜き磨きなどを行う。
 月給60円。

昭和19(1944)年 2月 【大阪府】按摩業者に増配  大阪盲協は、国に対し筋肉労働の按摩業者に労働者としての増配を嘆願。その結果、按摩業者に限り警察署の保有米を一人付き3升以内で増配を許可。
昭和19(1944)年 4月 木炭増産に励む角田【ようじ】氏  福島県大沼郡の角田ようじ()55氏は、盲人の身で木炭増産に精励。昨年は2000貫の割り当てを見事完遂。今年も2500貫の割り当てに対し、既に2300貫を完遂したことから、神山県知事から製炭功労者として表彰。
昭和19(1944)年 6月 産奉【産業奉仕】按摩出現 産業戦士の疲労回復に適切なる按摩の確率を図るため、東京盲人会館は、20日航空按摩の創始者足立軍医中佐を招いて研究会を開催。
 杉山鍼按講の戸田めぐむ・吉田春吉両氏を委員にあげ、産奉按摩の研究と普及に努める。
 なお、産奉とは、産業奉仕の略で、一名能率按摩とも言われる。
 全身を12分間で揉み、3分間で選択局所の治療を行う方式で、特に他動運動に重きを置く。
昭和19(1944)年 6月 岐阜盲の三療奉仕  岐阜盲は、昭和9年6月以来、毎日上級生4人ずつが岐阜陸病を訪れ白衣有志に三療奉仕を続けているが、この10年間に三療奉仕に従事した生徒は、実に延べ1万1165人に達する。
 同校は、30日陸病を訪れ生徒の積誠こもる慰問金27円54銭に「ますらおを撫で擦すりして盲目児【めしいこ】がとどせの月日誠捧げふ」の1首を添えて送る。

昭和19(1944)年 8月 都盲協深夜挺身隊派遣  東京都盲協の治療奉仕隊は、各支部から2人がつえり抜きの深夜挺身隊を編成。
 10日から20日まで、日本無線工場にでかけ、夜中の12児から明け方まで奉仕治療。

昭和19(1944)年 8月 東盲会館 産奉技療手養成機関設置  東京盲人会館は、産奉按摩が各方面で好評をはくしているのにかんがみ、予算3万円で産奉技療手養成機関を設ける。
昭和19(1944)年 9月 産奉按摩技療手訓練講習会  東京都盲協・東京盲人会館共催の産奉仕按摩技療手訓練講習会は、15日から1月間行う。
 技術指導には、西つたえ、戸田めくむ、吉田春吉の3氏。
 なお、訓練生には30円の手当を支給。

昭和20(1945)年 1月 愛媛盲中等部生に学徒動員  愛媛盲中等部生60名に対し、学徒動員命令が下り、15日から3月31日まで東中身並み3伊予地区の軍需工場に出動。
 60人生徒を5班に分け、航空機増産に敢闘する産業戦士の疲労回復に当たる。
 なお、治療のの余暇に工場で移動教授を行って学力の低下を防止。
昭和20(1945)年 4月 大阪市盲 早川電機工場で挺身敢闘  大阪市盲は、教育局の動員命令で、半盲の中等部生20人が、16日から早川電機工場で電波平気の部品製作に挺身敢闘。
昭和20(1945)年 6月 松盲 戦時体制  松本盲は、苛烈な航空決戦に直結して教室の一部を工場化して、全校職員・生徒が一丸となって、毎日2時間ずつ木製飛行機の補助タンク磨きを実施。

昭和20(1945)年 6月 栃盲授業を決戦型に  栃木盲は、苛烈な戦局に中等部男女54人は、生産意欲に燃え、プレス工場でヤスリかけ作業場での軍服のボタン付けをしていたが、4月から授業を決戦型に切り替え重点的に鍼按科5時間、国民科4時間、理数科2時間、体練と音楽各1時間の週23時間で、午前は授業、午後は講堂を工場化して電気溶接棒の構成作業を行い、月産3万個の責任生産完遂を期す。

 (5)技療手
 更には、もっと積極的に戦争に参加して、技療手として最前線で治療に奉仕し、戦死した事例もある。
昭和18(1943)年 11月 茨城盲の海鷲慰問隊  茨城盲は、南海の前戦で死闘を続けている海鷲慰問隊として在校生4人と卒業生4人が海軍技療手に選抜。
昭和18(1943)年 12月 海軍 技療手養成  東京都鍼按師会は、昨年の夏以来海鷲の疲労回復にと、海軍の養成に努めていたが、ようやく海軍当局の認めるところとなり、都内神田の訓練所を海軍省直轄の海軍技療手訓練所に移管。
 所長に東京都師会長橋本たろういえとし氏を任命し、山形・福島・栃木・茨城の諸県から選ばれた○○人を技療手として訓練。

昭和19(1944)年 1月 足盲技療手志願者の繰り上げ 栃木県足利盲は、航空決戦苛烈の織柄、技療手の任務の重きを痛感。
今春卒業の鍼按科生の内技療手志願者には繰り上げ卒業をさせ、前戦に送ることを決定。

昭和19(1944)年 2月 前戦の【山梨盲卒】古屋【しゅし】君から第1報  昨春、山梨盲を卒業した古屋しゅし(19)君は、決戦した職域奉公の熱意に燃え、昨年夏、海軍技療手志願。
 目下、○○で敵機の前戦空爆下寧日なく戦っている我が海鷲の疲労回復に敢闘。
 この程、母校山梨盲に第一報が届いた。
 「今度○○へ参りました決戦、日本の一役を背負って戦場へ出ることが叶いました。生まれて初めて味わう色々珍しいことが耳に入りますが、残念ながら書けません。3月には、卒業生が出ることでしょう。願わくは一人残らず軍属に志願せられ、どしどし進出せられんことをお待ちします。」

昭和19(1944)年 2月 陸軍も技療手を養成  東京神田の海軍技療手訓練所は、近く第3期生○○人の卒業式を行い、全線へ送り出すが、陸軍でも技療手の成果を認め、15日陸軍航空本部より海軍技療手訓練所に対し、陸軍技療手養成方を正式に委嘱。
 同訓練所では、16日志願者の体格検査を行い、○○人の入所を許可。
昭和19(1944)年 3月 日鍼会陸軍技療手を調査  大日本鍼灸按マッサージ師氏会は、その筋の支持によって陸軍技療手志願者を全国各府県支部に調査することを支持し、志願者の資格は18才以上30才以下の男子で、視力0.3以上、身体強健、思想堅実、按摩・マッサージの資格所有者に限る。
昭和19(1944)年 3月 茶木【よしお】氏 名誉の戦死  北太平洋方面で、海鷲の疲労回復に挺身していた海軍技療手茶木やすお氏は、昨年9月20日名誉の戦死をとげた旨、東京深川の留守宅に香典。
昭和19(1944)年 8月 海軍技療手訓練所内に技療神社  東京感だの海軍技療手訓練所は、第1戦航空基地にあって、海鷲の疲労回復に挺身する技療生にも名誉の戦死者5人を出すにいたり、同訓練所内に技療生の英霊を祀る技療神社を建設し、訓練生が朝夕参拝し、決意を新たにする。
昭和20(1945)年 2月 海軍技療手訓練所移転  東京神田の海軍技療手訓練所は、東京世田谷区多摩川に移転。
 ※高知盲 退職教員の事例
大正10年8月 宮崎県で生まれる
昭和13年   在学していた大分商業から、大分盲学校へ転入学
昭和17年3月 大分盲学校卒業
同年4月より  別府海軍病院にマッサージ師(技工士)として勤務
同年7月より3ヶ月間、教育召集(丸亀第32部隊にて衛生二等兵)
昭和18年5月より、海軍艦船(瑞鶴、翔鶴)に乗艦し、マッサージ師として勤務。この間艦船は、太平洋方面、南洋群島(ラバウル島、トラップ島など)方面へ。
昭和19年8月 臨時召集。特設第49機関砲隊に所属し、衛生上等兵として南大東島などで戦務につく。
昭和20年12月 召集解除。本籍地である高知県に帰り、高知盲学校に勤務。
昭和56年   同校定年退職後、高知市内で治療院を開業
現在、83歳

西日本新聞電子版
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健常者に負けたくない

負傷兵をマッサージ治療
田久保 龍三さん(87)
田久保 龍三さん
 広い境内に響き渡る、人生で一番の大声を張り上げました。「前へー進め!敬礼!」。海軍記念日とあって福岡市の筥崎宮は、他校の学生や参拝者でいっぱい。号令係の私は、この時こそほかの中等学校に負けてはならんという思いだった。自分でもびっくりするような声が出て、その後数日間は声がかれたですよ。
 〈幼少期に病気が原因で左目を失明。右目にはわずかに視力が残った。旧制小学校卒業後、福岡市の福岡盲学校中等部に入学した〉
 健常者の友人のように学徒動員に行けない中、どこか負い目を感じていた気がする。はり・きゅうマッサージで国に奉じよ、と報国精神をたたき込まれ、それが当然だと思っていた。
 〈負傷兵がいる陸軍病院に実習生で通い、体内に弾丸や破片が残って曲がりにくい肘や膝を押した〉
 みんな若い人たい。うめき声を上げながらも「田久保君遠慮するな。もっとやれ」と言ってくれた。少しずつ治っていく様子にやりがいを感じた。旧制小学校では弱視でいじめられたが、仲間に恵まれ、手に職を持ったのが支えになった。
 〈1944年秋、海軍技療手の募集があった。特攻隊員など航空隊員の体をケアする仕事で、軍属として戦地に赴く可能性もあった。志願しようとしたが、父に反対されて断念した。福岡盲学校からは6人の海軍技療手が旅立った。その1人、西亘さん(故人)は戦後、手記にこう記した〉
 「夜中に呼び出されると、明朝に出撃する若い少尉が右腕を抱えて背を丸めていた。腕が痛くて操縦かんが握れないという。きゅうを据え、300まで数えたところで少尉が『良くなった』と叫んだ。未明に再び起こされると、昨夜の少尉が『どうもありがとう。元気でな』と歌集を私に差し出した。早朝滑走路から見送った後、二度とその少尉の姿を見ることはなかった」
 〈福岡盲学校の志願者6人は全員帰郷し再会した〉
 生きていて良かったと互いに喜び合った。博多駅でバンザイしながら見送った時、もう会えないかもしれないという思いがそれぞれの胸にあったから。
 戦時中は戦争に行く覚悟を植え付けられていただけに、終戦を知った瞬間はいろいろな思いが交錯したね。その日の朝まで、出征した人を見送ったんですよ。
あれは何だったのかと。70年たったけれど、戦争はこりごりだ。
(福岡市早良区)

=2015/05/31付 西日本新聞朝刊=
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 (6)その他
148 大正15(1926)年 10月 盲学生の軍事教練  松本盲生徒24人は、藤田校長に引率され、20日から2日間松本連隊の有明演習地に至り、まず小康から軍事講演を聴き、序で整列し、普通人と同様の徒歩教練を受けた。また同夜は兵舎内で休み、21日午前5時起床ラッパを合図に床を離れ、軍隊式の朝飯6時半から正午まで軍事教練を受けて帰校。盲学制の軍事教練は我が国で、これが初めて。
昭和17(1942)年 12月 戦時下盲人決意の標語  点毎は戦時下盲人の決意を表す標語を募集。応募数2782通。28日審査の結果入選5人と佳作12人を決定。
 入選:決戦だ 心の眼は鉄壁だ(大阪植木はるあき)、目を国に捧げた友と大進軍(群馬県時沢福松)、さあ 決戦へ この目忘れて(岐阜盲館林とらお)心眼で日の丸仰ぐ総進発(静岡県中だよしたろう)、見える目で見えない適を打ち破れ(京都福山ちよ)
 
昭和18(1943)年 4月 日本報国運動委員会結成 決戦下全国の決起結集の勤労報国の実を上げようと、10日東京丸の内の中央庭で、大日本産業報国会、東京盲人会館、大日本盲人会の関係者が集まって、大日本盲人報国運動委員会を血清。委員長に岡田しゅうぞう日盲副総裁を選出。
昭和18(1943)年 10月 【宮崎県】盲僧 敵撃滅祈願祭  宮崎県北部在住の盲僧54人は、27日から3日間、延岡市内の善正寺で敵米英撃滅の祈願祭を行う。
昭和18(1943)年 12月 原田【末一】氏「」戦盲記出版 「」 盲傷痍原田末一氏は「戦盲記」を東京丸の内の水産社から出版。。戦盲有志が、かく生きると失明苦を克服して、愛媛今治の青年学校の教壇に再起する道程を書き上げた者。定価1円50銭。
 なお、軍事保護院は、推薦図書として取り上げ、同書を戦盲有志の再起の杖としてその座右に贈ろうと、点字版の製作を点毎に依頼。点毎は3掛け津野日誌を費やし、上下2巻、1千部を完成。軍事保護院に納める。
ーーー記事の引用ーーー
失明戦傷病者:歴史を克明に 東京・しょうけい館で今治出身・故原田さん紹介 /愛媛◇来月25日まで

 日中戦争で失明した今治市出身の故原田末一さん(1896〜1999)の歩みを中心に、当時「戦盲」と呼ばれた失明戦傷病者がたどった歴史を紹介する展示が、東京都千代田区の戦傷病者史料館「しょうけい館」で開かれている。原田さんは失明後、出征前の職業だった教師に復職。戦中に自身の体験を書いた手記はベストセラーとなり、戦後は傷病軍人の福祉に努めた。9月25日まで。無料。【津島史人】
 原田さんは、1937年11月、戦場で両眼を負傷し失明。39年、出征前に勤務していた今治市立今治青年学校に復職した。失明を乗り越えた軍人の模範としてメディアに伝えられ、手記「戦盲記」(43年発行)はベストセラーとなった。同書は点字に訳され、全国の失明戦傷病者に配られた。
 生徒にも慕われた。空襲で自宅が焼けた際は、教え子たちが真っ先に駆けつけて家の再建を手伝ったという。
 戦後、元軍人だったことから公職追放で教師を辞めるが、傷病軍人の福祉にかかわる活動に取り組んだ。晩年は書道にも取り組み、周囲への感謝を表現する作品を残している。
 戦時中、国は失明戦傷病者を生活、雇用にわたり積極的に支援。原田さんらも、ラジオや集会で自身の体験などを話した。しかし、敗戦で一転して支援の多くは廃止され、失明戦傷病者らは食糧難や就職難の影響を強く受けた。その後、新しい職業の開拓や教育の発展に取り組むなど、活躍する人が現れた。71年には「日本失明傷痍軍人会」が結成された。
 展示は、原田さんの遺族から贈られた遺品約200点のうち、手記や写真、書など約70点。原田さんの歩みに合わせて、失明戦傷病者が置かれた状況を戦時下、終戦直後、戦後と時代ごとに説明している。
 同館の木龍克己学芸課長は「知られざる失明戦傷病者の歩みに加え、戦争で負ったハンディを乗り越えた人がいたことを知ってもらうことは、意味がある」と開催の意義を話す。
 問い合わせは、しょうけい館(03・3234・7821)。


 4.反戦社
 私は資料が集められませんでした。

 ※、岸博実氏の部ログからを参照下さい。

京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史
史料を掘りおこし、共有していきましょう! 感想・ご意見もお待ちします。


以上


盲人史 鍼灸・按摩史 Q&A
第3編 盲人史・鍼灸・按摩 Q&A 第1章


第1章 文献について(Q1―Q13)

Q1 医学史について知りたいのですが、どんな文献がありますか?

A1
入門書から少し難しい物まであげてみます。

富士川 游『日本医学史 決定版』(形成社復刻、1979年)、服部敏良『日本医学史の研究』(吉川弘文館復刻、1988年)は、非常に本格的な内容です。
酒井 シヅ『日本の医療史』(東京書籍、1982年)は比較的読みやすい分量かと思います。
服部 敏良(としなが)『医学史』(近藤出版、1981年)はコンパクトにまとめられています。
服部 敏良『奈良時代医学史の研究』(吉川弘文館)
服部 敏良『平安時代医学史の研究』(吉川弘文館)
服部 敏良『鎌倉時代医学史の研究』(吉川弘文館)
服部 敏良『室町 安土桃山時代医学史の研究』(吉川弘文館)
服部 敏良『江戸時代医学史の研究』(吉川弘文館)
服部 敏良『近代諸家の死因』(吉川弘文館)
藤浪 剛一『医家先哲肖像集』(刀江書院、後に国書刊行会が復刻)
日本学士院 編『明治前 日本医学史 補訂復刻版』全5巻(日本古医学資料センター)

京都国立博物館 監修『医学に関する古美術聚英』(便利堂)
竹内 孝一『江戸・明治の医具の変遷(図解) 鍼・華岡流器械より引札・看板まで(私のコレクションより)』(自費出版)
小池 猪一『図説 日本の医の歴史』上・下(大空社)
塩田 廣重『日本医学百年史』(臨床医学社)
新村 拓『日本医療史』(吉川弘文館、2011年)
山本和利 編『医学生からみる医学史』(診断と治療社、2005年)

日本の律令と医療制度については、以下の新村氏の文献が詳しい。
新村 拓『古代医療官人制の研究』(法政大学出版局、1990年)
鍼灸などについても、詳しく知ることができます。

 律令自体については、
井上光貞/関晃/土田直鎮/青木和夫校注『律令 日本思想史大系第3巻』(岩波書店、1976)
を参考にしてください。

 ※医疾令の部分だけ点訳データがあるので、問い合わせてください。

 また、私が戦国期以降の文献に興味が深いので、その文献ばかり紹介してしまいます。

服部 忠弘 医の旅路はるか -曲直瀬道三とその師田代三喜篇- 文芸社/2011
服部 忠弘 医の旅路るてん 曲直瀬玄朔と聖医父曲直瀬道三篇 文芸社/2015

鈴木 尚 骨は語る徳川将軍・大名家の人びと/1992 東京大学出版会
青木 歳幸 江戸時代の医学 吉川弘文館/2012年
海原 亮 近世医療の社会史 吉川弘文館
海原 亮  江戸時代の医師修業 ー学問・学統・遊学ー  吉川弘文館
鈴木 正夫 江戸の町は骨だらけ/2006 おおくら出版
谷畑 美帆 江戸八百八町に骨が舞う 人骨から解く病気と社会 歴史文化ライブラリー/2006 吉川弘文館

鈴木 則子 江戸の流行り病 吉川弘文館
立川 昭二 江戸病草紙 筑摩学芸文庫
中野 操 大坂名医伝  思文閣出版社

青柳 清一『近代医療のあけぼの ― 幕末・明治の医事制度』(思文閣出版社、2011年)
小高健『日本近代学史』(考古堂、2011年)
油井 富雄 浅田宗伯 ー現代に蘇る漢方医学会の巨星 医療タイムス社
坂井 建雄, 澤井 直, 瀧澤 利行, 福島 統, 島田 和幸 我が国の医学教育・医師資格付与制度の歴史的変遷と医学校の発展過程 医学教育41/p.337-346/2010年
 国内外の有名人の病気について
古井 倫士 偉人達の生徒死のカルテ 黎明書房 2018年

京都橘女子大学女性歴史文化研究所 医療の社会史―生・老・病・死 思文閣出版 2013年
 ※ネットの解説
 明治初期、各農村は近代的な医療制度をいかに構築していったのであろうか。本論文は、明治元年から明治22(1889)年の町村制実施までの期間を対象とし、京都近郊の乙訓郡上植野村(おとくにぐんかみうえのむら;現、向日市上植野)における医療環境について考察している。その際、「上植野区文書」(向日市文化資料館蔵)などの史料を用いながら、近代的な医療システムが導入されたときに、その農村において残った旧来の医学的伝統と徐々に西洋化されていく医療制度の両側面を描き出している。
 明治7(1874)年に発布された医制は近代的な医療制度の象徴であるとされるが、医師の学統や民衆の日々の医療環境をみる限り、明治20年代ぐらいまでは漢方医学の伝統がある程度は残っていたと言える。たとえば、乙訓郡での医師登録者は、明治9(1876)年時点で旧医師6人、新医師0人であり、西洋医はいなかった。なお、ここでいう旧医師とはそれまで開業していた漢方医たちであり、新医師とは物理や生理学の大意試験を受けた西洋流の医師たちである。乙訓郡では早くとも明治11(1878)年までは旧医師だけしかおらず、記録上、はじめて新医師がみられるのは明治15(1882)年であった。明治24(1891)年になると旧医師は7人、新医師は3人となっている。同じ時期、京都全域において医師の7?8割は旧医師であった。ただし、その数は時代が下るに連れ着実と減っている。一方、民衆は日々の病気についてはこれまで通り、漢方薬の置き薬によって対応していた。そういった売薬は富山のものが多く、他に大阪からも取り寄せられていたようで、多い場合には一つの家で20種類の薬が常備されていたようである。なお、明治15(1882)年に「売薬印紙税規則」が発布されたことを受け、上植野村の5組すべての家で薬の調査がおこなわれたため、置き薬に関する記録が多く残っているようである。
 このように、明治前期においては旧来の漢方医学の伝統は残っていたが、もちろん、各地自体は医療制度の近代化を進めようとしていた。なかでもそれが如実にあらわれたのが感染症対策であり、明治6(1873)年に京都での天然痘流行を受け、翌年に京都府はその対策のために「種痘規則」を制定している。その後、各郡でも種痘掛医が設置され、上植野村では宇田退蔵・宇田弘・並河雄三郎の三人によって、村民への種痘が進められた。ただし、この時期はまだ種痘にかかる費用が公的に負担されることはなく、その費用は受療者が医師に幾分かの気付を払うことで賄われていた。その後、明治11(1878)年に京都府は医師に支払うべき金額を具体的に定め、初種痘の者は15銭、再種痘の者は5銭の支払、貧窮の者は各区長が負担とするようになった。そして、明治13(1880)年には原則種痘料が無料となったが、受療者から医師へ少額の気付はいぜんとして支払われていたようである。なお、天然痘に対する種痘以外にも、自治体は感染症対策をおこなっている。たとえば、明治14(1881)年には、ある患者が腸チフスの診断を受けたとき、郡の衛生委員会を中心に、その報告が郡長や警察宛に速やかに届け出されている。このように、感染症の状況を衛生委員会がしっかりと把握するための制度・連絡経路が構築されている。こういった感染症に係る医療・衛生制度の構築に加え、自治体は西洋医師に対して積極的なサポートをおこなった。先に明治10年代半ばまで乙訓郡には西洋医がいなかったことをみたが、そのような背景もあって明治10年代後半から20年代末にかけて、六人部是蔵という西洋医を支援するために「六人部講」がつくられ、郡内の有力者がそれに資金を投じることで財政的な支援を試みたようである。

 読みやすい、篠田達明氏の一連の著述があります。

@『病気が変えた日本史』(NHK出版、2004年)
A戦国武将のカルテ 角川書店 2017年

BA徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書)

C『空の石碑 ー幕府医官・松本良順』(nhk出版)

D『白い激流・明治の医官相良知安』(新人物往来社、1997年)

E『歴代天皇のカルテ』(新潮新書、)

F『日本史有名人の臨終カルテ』(新人物往来社、2006年)

G『日本史有名人の臨終図鑑1』(新人物往来社、2009年)

H『日本史有名人の臨終図鑑2』(新人物往来社、2011年)


Q2 杉山 和一について知りたいのですが、どんな文献がありますか?

A2
木下 晴都『杉山和一とその医業』(『漢方の臨床』9-11・12、1962年、後に《杉山和一と大久保適斎》として医道の日本社で出版、1971年)は、和一の一生と学術について書かれたもので、筆者も参考にしました。

拙稿『杉山 和一 その文献と伝説』(『理療の科学』18-1、1994年)は和一関係の文献と管鍼法創案の逸話について、同じく『杉山 和一の屋敷と杉山鍼治講習所について(1)(2)』(『医道の日本』54-10・55-7、1995年・1996年)は和一の屋敷の変遷、杉山流鍼治稽古所について述べたものです。

姥山 薫(墨字訳 牛山和枝)『惣検校杉山和一神正記』(江島杉山神社、1993年)

 藤原自雄・光岡裕一・和久田哲司「杉山和一に関する調査報告 ――江ノ島道の道標と各地の遺徳顕彰碑など――」(『筑波技術大学テクノレポート』16、筑波技術大学、2009)

また、和一の生誕400年に当たる2010年以降に、

拙稿『目の見えない はりの神様 杉山和一物語 〜ある一日の息子とのエピソード〜』(岡山ライトハウス、2010年)

長尾 栄一『史実としての杉山和一』(桜雲会、2010年)

松本 俊吾『『腹脈証と『杉山流三部書』の診法』(桜雲会、2010)

今村鎭夫原作、執印史恵編集、山田倫子挿絵、杉山検校遺徳顕彰会『杉山和一 目の見えない人たちを救った偉人』(桜雲会、2011年)
新子嘉規【あらたし よしのり】『鍼医・杉山検校『管鍼法誕生の謎』/・デイジー付き』(桜雲会、2013年)

桜雲会篇『世界に誇る江戸期の偉人 ー杉山和一と塙保己一ー』(桜雲会、2012年)

 桜雲会編『盲人の心』(桜雲会、)2014年

が出版されました。


Q3 杉山三部書の内容を簡単に知るにはどんな文献がありますか?

A3
三部書とは、

療治之大概集(りょうじのたいがいしゅう)

選鍼三要集(せんしんさんようしゅう)

医学節用集(いがくせつようしゅう)

という、杉山真伝流の初等教育の教科書です。

先ほど挙げた木下先生の『杉山 和一とその医業』で知ることができるほか、以下のような文献があります。

丸山 敏秋『鍼灸古典入門 ―中国伝統医学への招待―』(思文閣出版、1987年)

伴 尚志 現代訳『杉山流三部書』(谷口書店、1992年)

・ 杉山和一《解説 杉山流三部書(全):復刻版》(東洋はり医学会機関紙部、2008年)


・ 杉山和一遺徳顕彰会『杉山流三部書・復刻版』(桜雲会、2010年)



Q4 杉山三部書以外にも杉山流の秘伝書はありますか?

A4
前掲の木下先生の論文にも若干の説明がありますが、表の巻・中の巻・奥龍虎の巻があり、あまり知られていないが『杉山流鍼術』があります。ただし、和一の弟子の島浦 益一の編著といわれています。残念なことに活字本はありません。

現在は次のような文献が出版されています。

・ 島浦 和田一(益一)『杉山真伝流』(表之巻5巻・中之巻5巻・奥龍虎之巻3巻、『続・鍼灸医学諺解書集成』5・別巻1、1-778頁、オリエント出版社、1988年)

・ 島浦 和田一(益一)『杉山真伝流表之巻』(写本、異本3種類所収、『臨床鍼灸古典全書』8、75-488頁、オリエント出版社、1989年)

また、絶版となっていますが、

・ 杉山遺徳顕彰会秘伝の島浦和田一 撰『秘傳・杉山眞傳流(杉山検校没後三百十年大祭記念)』(杉山遺徳顕彰会、2004年)
これを読みやすくしたものとして、次のものがあります。

・ 大浦 慈観編『秘伝 杉山真伝流・表之巻(和訓・註釈』(桜雲會、2004年)

・ 同『秘伝 杉山真伝流・中之巻(和訓・註釈』(桜雲会、2005年)

・ 大浦 慈観編『杉山流鍼術』(写本、『臨床鍼灸古典全書』8、489-578頁、オリエント出版社、1989年)


さらに手技が解説された大浦 慈観《杉山真伝流臨床指南』(六然社、2007年)、松本俊吾『腹脈証と『杉山流三部書の診法』(桜雲会、2010年)が発行されています。

和一の分派については、山形の米沢にいた弟子、大沢 周益が口述筆記した『杉山真伝流鍼治手術詳義』(『続・鍼灸医学諺解書集成』5・別巻1、779〜824頁、オリエント出版社、1988年)があり、筆者が製版した点字版もあります。

別の分派の夢想杉山流については、『(夢想杉山流) 鍼術十箇条』(刊本、『臨床鍼灸古典全書』8、41-74頁、オリエント出版社、1989年) が秘伝書として残っており、その一部は拙稿「江戸幕府の医療制度に関する史料(6) ―鍼科医員島浦(和田)・島崎・杉枝・栗本家『官医家譜』など―」(『日本医史学雑誌』41-4、1995年)に掲載しています。

近年、和一の師匠である入江流の秘伝書が発見され、入江流と和一の技術の関係も明らかになってきました。長野 仁編『皆伝・入江流鍼術 ―入江中務少輔御相伝鍼之書の復刻と研究―』(六然社、2002年)で知ることができます。その技術を解説したものとして、先に紹介した大浦 慈観『杉山真伝流臨床指南』(六然社、2007年)も出版されています。

 『医道の日本』861号(2011年6月号)に
特集 杉山和一の施術テクニックがくまれている。
 1) 杉山和一と杉山三部書 尾榮一
 2) 和一の刺鍼テクニック 大浦慈観
 3) 「杉山流」の腹診とその手ワザ 松本俊吾
 4) 江戸期の按摩術 和久田哲司



和一の教えは三嶋安一 → 島浦和田一と継承し、島浦の子孫が和田と名乗り杉山真伝流を受け継いでいきました。その他の和一の弟子達は、杉枝流、石坂流、栗本流、島崎流などと称して、それぞれ独立していきました。

こうしてみると、いよいよ入江・杉山真伝流の関係や真髄が明らかになってくるという期待感がふくらんできます。

Q5 盲人の歴史全体について知りたいのですが、どんな文献がありますか?

A5
先駆的な研究として、

中山 太郎『日本盲人史(正・続)』(正1933年、続1936年、パルトス社合本復刊、1986年)があります。また、筆者の愛読書であり、羅針盤となった著書として、加藤 康昭『日本盲人社会史研究』(未来社、1974年)があります。

しかし、これらは大著なので、これから手をつけたいという方には、次のような著書をお薦めします。

谷合 侑(たにあい すすむ)『盲人の歴史』(明石書店、1998年)

谷合 侑『盲人福祉事業の歴史』(明石書店、1998年)、生瀬克己『日本の障害者の歴史 近世篇』(明石書店、1999年)

鈴木 力二編著『図説盲教育史事典』(日本図書センター、1985年)

大隈 三好『盲人の生活』(雄山閣、1998年)

が読みやすいと思います。

盲人史については、まだまだ私も把握できないものもたくさんあります。一応整理した文献のリストはありますので、お問い合わせください。
 今回管見の文献リストを掲載しました。


Q6 塙 保己一(はなわ ほきいち)について知りたいのですが、どんな文献がありますか?
A6
物語で読みやすいものに、日向 国俊編著『児玉の生んだ盲目の国学者 塙保己一物語』(児玉町郷土研究会、1990年)がありますが、手に入れるには現地へ出向かなければなりません。

購入できるものとして、

温故学会『盲目の大学者 塙保己一』(温故学会出版部)

同『塙保己一の生涯と「群書類従」の編纂』((温故学会出版部)

太田 善麿『塙保己一』(吉川弘文館、1988年新装版)、花井康子『眼聴耳視 塙保己一の生涯』(紀伊国屋書店、1996年)

を挙げておきたいと思います。

以下、専門書も紹介しておきます。

温故学会編『塙保己一研究』(ぺりかん社、1981年)

温故学会編『塙保己一論纂』(錦正社)

温故学会編『盲目の大学者 塙保己一』(温故学会出版部)

温故学会編『塙保己一研究 中江義照記念論文集』(温故学会)

温故学会編『塙保己一記念論文集』(温故学会)

斎藤 政雄『和学講談所御用留の研究』(国書刊行会)

また、堺 正一氏の一連の文献があります。

『埼玉の三偉人に学ぶ』(埼玉新聞社)

奇跡の人・塙保己一『』埼玉新聞社()

『素顔の塙保己一―盲目の学者を支えた女性たち』(埼玉新聞社)

『塙保己一とともに ヘレン・ケラーと塙保己一』(はる書房)

『続 塙保己一とともに―いまに“生きる”盲偉人のあゆみ』(はる書房)

まだ手に入る物もありますので一読ください。、

Q7 按摩の歴史について知りたいのですが、どんな文献がありますか?
A7
筆者が重用しているものとして、兪 大方ほか「中国伝統手技 ―推拿の歴史―」(『マニュピレーション』2-2、1987年)、小川 春興「按摩術の歴史」(『最新日本按摩術全書』(半田屋出版部、1-7頁、1933年、のち『マニュピレーション』2-2、1987年に転載)があります。ただし、小川先生の文献は手に入れづらいようです。


Q8 按摩の古典を読みたいのですが、どんな文献がありますか?

A8
手に入れづらい文献もありますが、いくつか挙げたいと思います。

丹波 康頼 編「導引」(『医心方・養生篇』,原文巻27・22丁、現代訳 156-165頁、出版科学総合研究所、1978年、絶版)

喜多村 利且 編著・坂出 祥伸・小林 和彦 訓注『導引體要』(谷口書店、1986年)

大久保 道古 著、谷田 亭造 訳『古今導引集』(京都鍼灸振興会)

宮脇 仲策 著、大黒 貞勝 編著『導引口訣鈔(附)按腹図解』(谷口書店、1986年)

宮脇 仲策 著『導引口訣鈔』(至文堂、1982年)

世良 彰雄『導引口訣鈔注解(点字版のみ)』(京都ライトハウス、1982年)

賀川 玄悦・賀川 玄迪・橘 南谿『産論・産論翼・続産論』(出版科学総合研究所、1977年)

藤林 良伯『按摩手引』(医道の日本社、復刻第2版、1987年)

世良 彰雄『按摩手引注解(点字版のみ)』(愛媛県盲人福祉センター、1974年、絶版)

太田 晋斎『按腹図解』(医道の日本社、1986年、増永静人の解説のみ点訳あり)

世良 彰雄『按腹図解注解(点字版のみ)』(愛媛県盲人福祉センター、1977年、絶版)

なお、藤林 良伯『按摩手引』について、医道の日本社の出版については、活字版・点字版の作成に筆者も携わりました。

Q9 鍼灸の歴史について知りたいのですが、どんな文献がありますか?

A9
丸山 敏秋「古典資料を中心とした日本鍼灸史略」(『現代東洋医学』8-2、1987年)、またはQ3へのお答えで挙げた文献が参考になると思います。

東洋医学全体の歴史については、小曽戸 洋『漢方の歴史―中国・日本の伝統医学』(大修館書店)も興味深く読むことができました。


Q10
江戸幕府の医療制度について知りたいのですが、どんな文献がありますか?

A10
 私は下の論文がなければ、江戸幕府の医療制度は遅々として進まなかったと思うものです。
しかし、あまり活用している方はないかと思います。
 江戸幕府の概観から詳細までよく理解できました。

 久志本 常孝「徳川幕府における医師の身分と職制について(1)〜(5)」(『古医学月報』22・23・26・27・28、1975-1976年)

 久志本先生の論文を参考として筆者も挑戦しました。

拙稿「江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究」(長尾榮一教授退官記念論文集『鍼灸按摩史論考』、1〜146頁、桜雲会、1994年)
同「江戸幕府における鍼科医員と盲人鍼医(1)・(2)」(『理療の科学』16-1・17-1、1992年、1993年)
同「元禄時代の鍼・灸・按摩・医学史料 ―附 『隆光僧正日記』医師・医事索引―」(『理療の科学』20-1、1997年)

私の点訳したデータもあります。

Q11
御薗 意斎(みその いさい)について知りたいのですが、どんな文献がありますか?

A11
御薗 意斎(1557-1616)については、

杉立 義一『京の医史跡探訪』(思文閣出版、79-81頁、1984年)

京都府医師会医学史編纂室 編『京都の医学史 本文編』(思文閣出版、1147-1157頁、1980年)があります。

『京の医史跡探訪』には京都に関する医史跡が網羅されており、歴史に興味のある人は楽しく読めると思います。筆者が部分的に点訳したものがあります。

『京都の医学史』には、明治に入り意斎の子孫が京都盲唖院(もうあいん)の鍼の教師として勤めたとあります。平成23年10月28日に京都府立盲学校の資料室を訪れましたが、その遺品は皆無のように思いました。資料室の岸 博実先生のお話では、子孫がいらっしゃるそうです。

Q12
歴史が好きな人が理療を好きになれるような文献はありますか?

A12
筆者にとって大きなきっかけとなったのが、鈴木 尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会、1991年)
これを読んだ時、それまでと全然違った角度から歴史や理療を見ることになりました。歴史と理療、両方にとって動機付けとなった文献でした。

この関連の書籍も興味深く読んだ者を掲載します。
 鈴木尚・他編『増上寺徳川将軍家とその遺品・遺体』(東京大学出版会、1996年)
鈴木尚先生傘寿記念会編『鈴木尚骨格人類学論文集』(てらぺいあ、1992年)
 片山一道『古人骨は語る 骨考古学ことはじめ』(同朋舎出版、1999年)
鈴木隆雄『 骨から見た日本人 古病理学が語る歴史』(講談社学術文庫、2010年)
鈴木隆雄『骨が語る―スケルトン探偵報告書―』(大修館書店、2000年)
鈴木正夫『江戸の町は骨だらけ』(おおくら出版、2006年)
谷畑美帆『江戸八百八町に骨が舞う 人骨から解く病気と社会 歴史文化ライブラリー』(吉川弘文館、2006年)


Q13
香取先生の執筆した物はどんなものがありますか。

A13
私の著したものを、重複するものもありますが紹介しておきます。

香取俊光著述一覧

   <著書>
 1.『武蔵国児玉郡西今井村鈴木喜太夫家所蔵文書目録』(自費出版、1985年)
 2.『目の見えない はりの神様 杉山和一物語 〜ある一日の息子とのエピソード〜』(岡山ライトハウス、2010年)
3.『群馬県立盲学校創立110周年記念回顧録 愛盲の光と情熱』(桜雲会、2016年)

   <論文>
 1.鳥羽金剛心院について−上野国新田荘本家職をめぐって−(『史報』4、1982年)
 2.江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究(長尾榮一教授退官記念論文集『鍼灸按摩史論考』、pp.1-146、桜雲会、1994年)
 3.江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究(昭和63年度 筑波大学理療科教員養成施設『卒業論文・研究論文抄録集』、pp.17-20)
 4.江戸幕府における鍼科医員と盲人鍼医(1)・(2)(『理療の科学』16-1、pp.63-70、17-1、pp.64-69、1992年、1993年)
 5.杉山和一 その文献と伝説(『理療の科学』18-1、pp.47-56、1994年)
 6杉山和一の屋敷と杉山鍼治講習所について(1)(2)(『医道の日本』54ー10・
pp.110-116、55−7、pp.165-173、1995年・1996年)
 7.元禄時代の鍼・灸・按摩・医学史料 ー附 『隆光僧正日記』医師・医事索引ー(『理療の科学』20-1、pp.25-51、一九九七年)
 8.杉山和一の弟子達 ー江戸幕府鍼医三島安一・杉岡つげ一・栗本俊行・杉枝真一について(北原進『江戸時代の地域支配と文化』、大河書房、pp.299-331、2003年)
 9.「理療教育制度の変遷」(『理教連五十年史 〜理療教育50年の歩みと展望〜』、pp.62-66、日本理療科教員連盟、2002年)
 10.「第二次経穴委員会便り第14回 ― 江戸幕府鍼科御典医の鍼灸奥義書『鍼灸枢要』 ―」(『医道の日本』743、2005年9月)
 11.「第二次経穴委員会便り第20回 ― 江戸時代の経穴書 ―」(『医道の日本』750、2006年6月)
 12.新発見・三嶋総検校安一の史料と土浦の伝説((『医道の日本』68-10、2009年)
 13.「杉山総検校和一の俸禄とその継承」(『杉山和一生誕400年記念誌』P.35、杉山検校遺徳顕彰会、2010年)
 14.「■Q&Aで和一の偉業とその遺徳を偲ぶ」(『視覚障害ブックレット』14、pp60-67、2010年)
 15.「江戸期の理療教育 ―杉山流の理療教育を中心に―」(『理療教育序説』、pp24-35、ジアース教育社、2015年)
 16.「江戸期の鍼灸・按摩と視覚障害者 ー杉山鍼術の江戸から明治の展開を中心にー」(《社会鍼灸学研究》11、pp7-24、2017年)

  <史料紹介>
 1.江戸幕府の医療制度に関する史料(1)ー元禄13年『侍医分限記』ー(『日本医史学雑誌』35−3、pp.73-79、1989年)
 2.国立公文書館所蔵『曲直瀬養安院家由緒書』など(『漢方の臨床』36−10、pp.52-75、1989年)
 3.江戸幕府の医療制度に関する史料(2)ー土岐長元家由緒書などー(『日本医史学雑誌』36−2、pp.45-58、1990年)
 4.江戸幕府の医療制度に関する史料(3)ー河野平之丞家由緒書などー(『日本医史学雑誌』36−3、pp.95-104、1990年)
 5.江戸幕府の医療制度に関する史料(4)ー文化6年6月録『官医分限帳』ー(『日本医史学雑誌』36−4、pp.85-93、1990年)
 6.江戸幕府の医療制度に関する史料(5)ー文政度『官医分限帳』ー (『日本医史学雑誌』37−3、pp.97-110、1991年)
 7.『五雲子先生伝』・『森氏由緒書』翻印(『漢方の臨床』38−10、1991年)
 8.江戸幕府の医療制度に関する史料(6)ー鍼科医員島浦(和田)・島崎・杉枝・栗本家系図『官医家譜』などー(『日本医史学雑誌』41ー4、pp.111-151、1995年)
 9.江戸幕府の医療制度に関する史料(7)ー鍼科医員上田・吉田・山本・畠山家『官医家譜』ー(『日本医史学雑誌』42ー1、pp.87-931996年)
 10.江戸幕府の医療制度に関する史料(8)ー鍼科医員佐田・増田・山崎家『官医家譜』などー(『日本医史学雑誌』42ー4、pp.117-128、、1996年)
 11.江戸幕府の医療制度に関する史料(9)ー坂四家『官医家譜』などー その1〜3(『日本医史学雑誌』45ー3、pp.449-458、46−1、pp.8698、46−2、pp.215-166、1999年、2000年、2000年)
 12.江戸幕府鍼科医員の治療の一断面 ー天璋院様御麻疹諸留帳」を中心としてー(『漢方の臨床』52−12、pp.170-180、2005年)


ー書評ー
 君塚美恵子編『紀州藩医 泰淵の日記』(『日本医史学雑誌』39−2、273頁、1993年)

■経穴について
<共同執筆・協力>
 WH/WPROからその合意内容が英語版で発刊( 2008年5月)
 『WHO/WPRO標準経穴部位―日本語公式版―』(医道の日本社、2009年3月)
  理教連+東洋療法学校協会編『新版 経絡経穴概論』(医道の日本社。以後改訂版が出版、2009年)
 第二次日本経穴委員会編『詳解・経穴部位完全ガイド ー古典からWHO標準へー』(医歯薬出版社、2009年)
 第二次日本経穴委員会編『経穴部位国際標準化への歩み ー第二次日本経穴委員会活動記録集 2003年WHO/WPRO会議から2012年解散までー』(医道の日本社、2013年)
 ☆上記の『経穴部位国際標準化への歩み』に以下の論述が掲載されています。
医道の日本 平成16年(2004)12 「第3回 国際経穴部位標準化に関する非公式諮問会議報告 形井他
医道の日本 平成16年(2004)12 「第二次日本経穴委員会」便り 第5回 参加しての印象 香取俊光
医道の日本 平成17年(2005)09 「第二次日本経穴委員会」便り 第14回 江戸幕府鍼科御殿医の奥義書『鍼灸枢要』 香取俊光
医道の日本 平成17年(2005)11 第5回国際経穴部位標準化に関する非公式諮問会議報告 形井他
医道の日本 平成18年(2006)04 「第二次日本経穴委員会」便り 第20回 江戸時代の経穴書 香取俊光
医道の日本 平成18年(2006)05 第6回国際経穴部位標準化に関する非公式諮問会議報告 361穴の部位すべて決定! 形井他
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医道の日本880 平成29年(2017)09 88人のツボのとらえ方 85人に聞く/29.標準点の経穴を臨床で使ってフィードバックを p87−88




盲人史 鍼灸・按摩史 Q&A
第3編 盲人史・鍼灸・按摩 Q&A(第2章-1)



第2章 盲人・鍼医について、その1(Q14―Q25)

Q14 歴史上の盲人はどのように規定されていますか?
A14
古代の法律『律令』戸令によると、租税の免除について三段階あり、以下の内容でした。

(1) 残疾 一目盲・両耳聾・手二指無し・足に三指無し・手足に大拇指無し等

(2) 廃疾 白癡・唖・侏儒・腰背折れる・一支廃

(3) 篤疾 悪疾・癲狂・二支廃・両目盲

この中の、片目か両目が見えない者が盲人と考えられます。

その後、筆者が知る限りの資料では、12世紀前半の成立と考えられる『今昔物語』に7名の盲人が登場しています。

Q15 盲人の名前には「一」がつく人が多いのですが、何か決まりがありますか?
A15
(本稿の「第1編 第1章 1.盲人の名前について」参照)

南北朝時代、城一という琵琶の名手がいました。その後、「城方流(八坂方)」と「一方流」の二つに分かれ、それが盲人の名前に反映されるようになりました。

城方流であれば「城管」・「城泉」などと前に城がつき、一方流では「和一」・「保己一」などと後ろに一がつくという具合です。

Q16 歴史上の盲人の職業にはどんなものがありましたか?
A16
(本稿の「第1編 第1章 2.歴史上の盲人の職業」参照)

江戸時代より前は、呪術的宗教者である盲僧・祈祷師として活躍し、13〜14世紀ごろから琵琶を弾奏しながら平家物語を語る平曲弾奏や曽我物語を語る瞽女が現れ、戦国時代には鍼・按摩、浄瑠璃、琴(筝曲)、三味線を新たな職業とする者が多くなりました。

江戸時代は、幕府の盲人保護政策として高利貸しが認められたほか、長唄・常盤津・謎解き話芸・狂言・尺八・歌念仏・舞曲・声帯模写等の諸芸能に活躍した者が大勢いました。

その一部は現在にも受け継がれ、その代表があん摩・マッサージ・指圧師、はり師・灸師や琴・琵琶・三味線の師匠です。

また、箏(琴)では八橋検校城談(1614−1685年)が有名です。
 次に盲僧が昭和の時代まで存在していて、こんなことに関与していたかと驚く記事を紹介します。

 『点字毎日』昭和18(1943)年10月より

【宮崎県】盲僧 敵撃滅祈願祭  宮崎県北部在住の盲僧54人は、27日から3日間、延岡市内の善正寺で敵米英撃滅の祈願祭を行う。



Q17 当道座(とうどうざ)とは何ですか?
A17
(本稿の「第1編 第1章 3.歴史上の盲人の職業」参照)

13・14世紀ごろ、音楽集団である「当道座」を作り、この集団に所属することで社会的地位を高め、身分を守ろうとしました。

当道座は平曲の琵琶法師としての芸能集団であり、階級制度や師弟制度を特徴とした全国組織で、中心は京都に置かれました。

明治4年(1871年)11月3日、太政官布告により廃止されるまで、盲人をまとめ、権利を守る重要な集団でした。


Q18 検校とは何ですか?

A18
(本稿の「第1編 第1章 4.検校とは」参照)

当道座の最高位の盲官です。盲官とは当道座を維持する職で、江戸の封建社会を象徴するように、座内も階級制度でした。その内容は大まかにいうと初心・無官→打掛→座頭→勾当→別当→検校となっており、このうち、座頭から上の四つが盲官に当たります。各階級は16階73刻に分かれ、1刻上がるごとにお金を上納しました。検校に昇るまでの金額は719両との計算があります。この、階級が上がるごとに上納金が必要という仕組みは、現在の華道・茶道の家元制度における免許状と似ています。

上納金は京都の職屋敷に集められ、そこから全国の当道座へ配られました。当道座には定員はなく、入座する盲人が多いほど座が潤いました。

また、官位昇進の速度・年齢にも制限はなく、財力をもって一夜にして検校となる者もいました。ちなみに杉山 和一は61才で検校になりましたが、これは平均的な年齢です。

Q19 当道座の入門について、どんな決まりがありましたか?
A19
(本稿の「第1編 第1章 5.当道座の入門について」参照)

古い式目では、盲人が10才以下の場合は親が、11才以上は本人が決めるとされていました。寛文10年(1670年)6月23日に式目が改められ、「11才以上」が「15才以上」に変わりました。

Q20 盲人はどんな服装をしていましたか?
A20
(本稿の「第1編 第1章 盲人はどんな服装をしていたか」参照)

盲官(座頭以上)については、地位を明らかにするために服装や杖が決められていました。また、名のある盲人は、盲人の歴史が琵琶法師・勧進などの僧の系譜を引くことから、僧体を取りました。

以下に、地位ごとの服装を、上の階級から順に挙げます。

◆ 総検校

緋(ひ・あか)の衣。なお、袈裟の着用を許されたのは、権大僧都(ごんの だいそうず)にも任命された杉山 和一のみ

◆ 検校

袈裟のない紫色の衣(紫素絹)と、白長袴または浅黄・小柳袴、杖は鳩目塗の両橦木(しゅもく、T字形の意味)

 検校の衣は、天台宗にならって定められていました

◆ 総別当

燕尾服

◆ 別当

黒素絹の衣(色物は許されない)、両橦木の杖

◆ 勾当(こうとう)中二度以上

黒素絹に白長袴の衣、杖は半橦木(L字形)

◆ 勾当一度

長絹の衣に半橦木の杖。袴は許されない

勾当一度と、それより下の地位では、袴の着用を許されませんでした。

◆ 座頭四度

白綾絹の衣で帽子をかぶらず、杖は黒塗の棒(塗杖)

◆ 半打掛以上

浅黄または萌黄色の綿布の衣、杖は白い樫木

Q21 盲人は社会でどんな地位だったのですか?
A21
鎌倉時代以前の盲人は、琵琶法師のような例を除くと多くが苦しい生活を強いられていました。13から14世紀に当道座が成立すると徐々に生活が向上していき、室町時代の天文騒動を経て、江戸時代には幕府の庇護政策の下、高利貸しの許可などもあって安定した生活を送れるようになりました。中には「座頭貸し」ともいわれる悪徳な者もいて、高利に苦しめられた者は盲人を蔑視しました。

盲人の生活は、明治4年(1871年)、当道座廃止令でその庇護がなくなると一変してしまいます。家庭の奥でひっそり生活するか、街頭で喜捨によって生活するかという状況に陥りました。その後、盲人にあはきの免許が与えられ、第二次世界大戦直後に起きた業界存続の危機を乗り越えて現在に至っています。


Q22 杉山 和一以前にも盲人の鍼医はいたのですか?
A22
筆者の知っている限りでは、山瀬 啄一、山川検校城管貞久、矢口 城泉の3名を挙げることができます。

山瀬 啄一は和一の鍼の師匠としてよく知られています。1658年に検校となりました。

山川検校城管貞久(生年不詳―1643年)は徳川3代将軍 家光の相談役(談伴衆)で、鍼医でもありました。

矢口 城泉(1669―1742)は仙台藩の鍼医で「無雲鍼法」を武田 玄了に学び、第4代藩主 伊達 綱村に勾当の身分で10年間仕えた後、1699年に検校となりました。仙台市の青葉区町には、そのゆかりから「勾当台公園(こうとうだいこうえん)」という場所があります。

Q23 杉山 和一は幕府の御典医になったのでしょうか?

A23
御典医とは:江戸時代、将軍家・大名家の上級の支配者の治療に当たった医師のこと。奥医・近習医・側医ともいわれる。
和一が御殿医になったかは資料上では、はっきりしません。和一が綱吉に仕えたのは76才の時で、高齢のため任命されなかったと推測されます。

 将軍綱吉は和一を大変気に入り、その寵愛は並々ならぬものでした。当道座のトップである検校に据え、京都にあった当道座の役所を江戸にもつくり、新たに「関東惣検校」として任命しました。

和一が育てた弟子たちの中には、幕府や大名の医師となった者も大勢いました。


Q24 杉山 和一の一生とはどんなものでしたか?

A24
(詳しくは、「第1編 第2章 杉山 和一について」の中に載せた、「表1.杉山 和一関係の年表」をご覧ください)

杉山 和一は1610年に今の三重県で生まれました。5才または10才ごろに失明し、15才ごろ当道座へ入門し、平曲は一方流妙観派でした。また、1694年に江戸で没しました。

以下、没するまでに特筆すべきことをいくつか挙げておきたいと思います。

まず、多くの弟子を育て、延宝8年(1680)2月11日には、鳥取潘 池田氏に美津都座頭・春都座頭を按摩医として仕官させています。既にこの時期に師弟教育が行われており、世界で最も早い視覚障害教育を示す一例といえるでしょう。

貞享元年(1684)12月22日には、相模国大住郡大神村(現在の神奈川県平塚市大神)の座頭遊立が引き起こした密通事件について、当時75才の和一が裁決しています。

 史料を紹介してみましょう。
1行目は書き下し、2行目は原文です。
「壱人 女じょこ これは伊沢吉兵衛知行所の相州(大住郡)大上村彦右衛門の女房にして、この者は同村遊立と申す座等と、七年以前より密通いたし、その上本夫を当九月十九日の夜に遊立が切殺そうろう付、召捕えて、所の者共訴出そうろう付、僉議をとげそうろう処、右の段紛れなくそうろうに付、遊立の儀は杉山(和一)検校方へ差遣し、この者の儀は評定そうろう所より籠舎し、右のじょこ、同子十二月廿九日その所ニおいて死罪とする」
「壱人女じょこ 是ハ伊沢吉兵衛知行所相州(大住郡)大上村彦右衛門女房、此者同村遊立と申座等と、七年以前より致密通、其上本夫を当九月十九日之夜遊立切殺候付、召捕、所之者共訴出候付、遂僉議候処、右之段無紛付、遊立儀杉山(和一)検校方え差遣、此者儀評定所より籠舎、右之じょこ、同子十二月廿九日於所ニ死罪」

(『近世法制史料叢書』第1、151頁、創文社、1981年復刊より)


このことから、この時期既に当道座内で関東の盲人の責任者として位置づけられていたことを示すと言えます。

幕府と和一の関係をみると、延宝8年(1680)2月11日、71才の時に江戸城に登城しており、同年3月28日には将軍家綱に初めて拝謁しています。そして、貞享2年(1685)1月8日、76才の時に綱吉に召し出されました。

その後、和一が綱吉に寵愛されたことが、後世に大きな遺産を残すことになりました。

元禄5年5月9日には関東惣検校に任命され、盲人を全国的に統括することになりました。また、江戸城の近くに約2000坪の屋敷を拝領しています。

この2000坪の屋敷は、綱吉に「欲しいものは何か」と聞かれた時に、和一が「一つ目が欲しい」と答え、目の代わりにと、本所一つ目に拝領したものです。そこへ江ノ島神社と当道座の役所を建て、さらに杉山流鍼治稽古所を設けました。現在の江島杉山神社(両国駅の近く)が、その場所に当たります。

Q25 杉山 和一の業績は何ですか?
A25
(「第1編 第2章 杉山 和一について」参照)

(1) 鍼の刺鍼技術の一つである管鍼法の大成。

(2) 鍼・按摩の教育と施設の設置(杉山流鍼治導引稽古所)。

(3) 鍼・按摩を盲人の職業として確立させた。

(4) 弟子達を幕府や諸大名の医師に登用させた(和一自身は医員に登用されず)。

(5) 将軍綱吉に寵愛され、その庇護下に当道座(盲人の芸能集団)組織を再編した。

(6)当道座の中心を関東にも設けた(関東惣検校、惣録屋敷)。






盲人史 鍼灸・按摩史 Q&A
第3編 盲人史・鍼灸・按摩 Q&A(第2章-2)



第2章 盲人・鍼医について、その2(Q26―Q40)

Q26 杉山 和一にはどんな弟子がいたのですか?

A26
(「第1編 第3章 和一の弟子と子孫」参照)

15名が知られています。9名が幕府鍼科医員、6名が諸大名に鍼医・按摩医として登用されました。詳しくは以下のとおりです。


◆ 幕府の鍼科医員、9名

(1) 三島 安一

医員(一代で断絶、2代目関東惣検校)

(2) 杉岡 つげ一

藤堂高久に仕えた後、医員(不行跡により断絶・藤堂家お預け)

(3) 島浦 益一

医員(3代目関東惣検校)

(4) 杉枝 真一

柳沢 吉保に仕えた後、医員(4代目関東惣検校)

(5) 杉島 不一

内藤 正勝、家宣 附医に仕えた後、医員(子孫は武士)

(6) 栗本杉説俊行

小田原藩大久保 忠朝に仕えた後、医員

(7) 島崎 登栄一

家重附医を経て医員

(8) 板花 喜津一

医員(一代で断絶)

(9) 石坂志米一

医員

◆ 大名の鍼医、4名

(1) 徳山 ゑ一

出羽国米沢藩上杉綱憲

(2) 松山 てる一

加賀国金沢藩前田綱紀

(3) 本川(もとかわ)自哲
肥前国大村藩大村氏
 鍼科 → 子孫は内科に転科して現在まで相続している。

(4) 美尾都(みおいち)

肥前国大村藩大村氏

◆ 大名の按摩医、2名

(1) 美津都(みついち)座頭

(2) 春都(はるいち)座頭

いずれも、因幡国鳥取藩池田氏

幕府の医員のうち、杉枝 真一・島浦 益一(のち和田と改姓)・島崎登栄一・石坂志米一・栗本杉説俊行の5名が幕末まで鍼科医員を勤めました。なお、栗本は和一の晴眼の弟子です。

石坂の子孫には幕末にシーボルトに鍼を教えたと言われる宗哲がいます。幕末に医員に登用された平塚 東栄一は、杉山真伝流の継承者で、鍼治学校の学頭もしました。

また、和一は当道座の一員ですので平曲の師弟関係もあります。
 鍼の弟子は、同じ平曲の一方流妙観派(いちかたりゅう みょうかんは)以外にも広がっていて、平曲の師弟関係から枠を超えての鍼灸按摩の師弟関係が広がりつつあったことを推測させます。

さらに詳しいことは、拙稿「江戸幕府における鍼科医員と盲人鍼医 (1) ・(2) 」(『理療の科学』16―1・17―1、1992年、1993年)をご覧ください。

Q27 杉山流鍼治稽古所とは何ですか?
A27
(「第2編 理療教育の変遷 第1章 教育制度の変遷 1.明治時代以前の理療教育 (2)杉山流鍼治導引稽古所」参照)

鍼や按摩を伝授するために杉山 和一が開いた教育組織です。世界史上でも最も早い障害者教育の例です。

最初は和一の私塾だったものが、当道座の運営に移っていったと考えられます。按摩も伝授していたので鍼治導引稽古所とか、時代の推移に伴い講習所・学問所・学校の名もあります。

創立した時期は、浅田 宗伯の『皇国名医伝』や、富士川 游の『日本医学史』にある「徳川綱吉の鍼治振興令(天和2年、1683年)」を起源とする説もあります。
 また、杉浦逸雄「市立米沢図書館所蔵『内題杉山先生御伝記』の紹介」(2013年10月19日日本盲教育史研究会第2回研究会 レジュメ)にも、以下の記事があります。
 「天和2年9月18日。杉山和一先生居屋敷の外続きに75坪の地所を拝領し、杉山流鍼治学問所を建てる。」
との記事もあります。

 私は未だこの年に創建したことが信じられません。


A23でも挙げたように、和一はこれより以前の延宝8年(1680年)に、弟子2人を鳥取藩へ仕官させています。一つの目安はこの1680年かと考えています。

Q28 杉山流鍼治稽古所の場所はどこにありましたか?
A28
(「第2編 理療教育の変遷 第1章 教育制度の変遷 1.明治時代以前の理療教育 (2)杉山流鍼治導引稽古所」参照)

和一は、糀町(こうじまち)→道三河岸→鷹匠町(後の神田小川町)→本所一つ目と屋敷を移っています。その都度、自分の屋敷で弟子を養成していたでしょうが、資料で確認できるのは、本所一つ目の弁財天社(現在の江島杉山神社)にあった「鍼治稽古所」です。

この神社は、和一が元禄6年(1693年)5月16日に将軍綱吉から拝領した土地1890坪余のうち、約半分の989坪余に建立されました。残りの半分、社地の東側に当たる901坪余には惣録(当道座)役宅を置きました。

敷地は東西に長く、北から南に向かって竪川・河岸・竪川通り・社地と続きます。西門から入ると東へ向かう参道があり、拝殿へ続いています。その南北両隣に、門前の町家がありました。南側の町屋敷が終わった所に、高さ1尺4寸の銅の鳥居(1757年11月創建、1809年11月再建)を建て、「福寿弁財天」の額を掛けました。

南側の町屋敷の東側に、西から順に、社役居宅、杉山流鍼治稽古所、即明庵(和一の位牌所)と続きます。なお、即明庵は、和一死亡時に建てられ、中に和一の木座像(高さ1尺1寸)を安置しました。

鍼治稽古所は広さが4間余り×5間で、面積が20坪余り、つまり40畳余りでした。施設というより一つの家屋と考えれば、その面積も納得がいくかと思います。現在では、児童遊園の砂場の辺りが、あった場所のようです。

鍼治稽古所については、拙稿「杉山 和一の屋敷と杉山流鍼治稽古所について(1) (2) 」(『医道の日本』54―10・55―7、1995年・1996年)をご覧くだされば幸いです。


Q29 杉山和一の門人 三島 安一が、江戸近郊4ケ所と諸州45ケ所に講堂を増設したというのは本当ですか?
A29
(「第2編 理療教育の変遷 第1章 教育制度の変遷 1.明治時代以前の理療教育 (2)杉山流鍼治導引稽古所」参照)

資料上からは確かめられません。あったとしても、先ほどの「杉山流鍼治稽古所」が20坪余りですので、規模は小さかったと思われます。

加藤氏は、平曲の師匠を学問所と呼んだので、それが当道座以外の人に誤解されたのかもしれないと指摘しており、筆者も同様に考えています。

Q30 江戸時代、盲人に対して点字のない時代にどうやって教育が行なわれたのですか?
A30
(「第2編 理療教育の変遷 第1章 教育制度の変遷 1.明治時代以前の理療教育 (3)技術の伝授方法」参照)

基本的には口伝・暗記だったようです。具体的には、内容を覚えるために4度読み聞かせたので覚えただろうという資料や、綱吉が柳沢 吉保の邸宅に赴いた時、盲人の一人が『大学』の序を諳誦したといいます。塙 保己一が2度聞いたものはほとんど覚えたという逸話もあります。このような暗記を基礎に、鍼書・医書・『徒然草』の講義をした盲人もいました。

Q31 鍼治稽古所の修行の様子はどうだったのでしょうか?
A31
和一のころと幕末では大きく変化していたと思われますが、幕末から明治初期にかけて江戸で鍼治家として活躍した武蔵野検校勝虎一(1818―1887)の鍼治修行履歴が残っているので、これを題材にして、下の表7.のようにまとめてみました。

表7.武蔵野検校勝虎一の生い立ちと修行履歴

文政元年(1818)1月:1才

武蔵国橘樹郡矢上村に生まれる。名は柴崎甚之助。

文政7年(1824):7才

疱瘡のため失明。

天保2年から3年ごろ(1831―1832):14―15

江戸惣録役所所属の鍼治学校に入門。平川検校麓一の弟子となり、倉之一と称す。

天保5年(1834)7月28日:17才

杉山流鍼学皆伝の免許状を受く。時に当道の官位は過銭打掛。

弘化2年(1845):18才

杉山真伝流表の巻を伝授される。

弘化5年(1848):21才

杉山真伝流目録の巻物一巻と、門人神文帳一冊を授けられる。

嘉永5年(1852):35才

検校となり、橘一と称する。

文久3年(1863):46才
杉山真伝流秘伝一巻を受ける。

杉山流では基礎から応用編を学ぶのに4段階あり、以下のようでした。

(1) 14才頃から17才までの3年間は杉山流鍼学皆伝の免許で、いわゆる初等科・基礎編。

(2) 17才から28才の11年間は杉山真伝流の中等科で、表の巻を中心とした伝授。



(3) 28才から31才までの3年間は杉山真伝流の高等科で、目録の巻物一巻と門人神文帳一冊が伝授され、いわば教員免許状といえます。

(4) 31才から46才までの15年間で杉山真伝流秘伝一巻が伝授されます。いわゆる最終段階と考えられます。

また、入門は盲人に限られ、入門には一定の期日が定められていたこと(例えば11月)などと考えられています。

他の検校の履歴には杉山流鍼学皆伝の免許(初等科卒業)までは6年かかり、前半3年が按摩、後半3年が鍼の修行であることが知られています。武蔵野が鍼だけ学んだので3年で済んだのか不明ですが、ともあれその授業の内容は杉山三部書の暗記だったと考えられます。

修行が進むにつれ、真伝流の表の巻・中の巻・奥龍虎の巻と進み、現代の管鍼法の技術よりも高度なものが伝授されたと考えています。

Q32 鍼治稽古所の免許状は残っているのですか?
A32
いくつか現存し、先ほどの武蔵野の杉山流鍼学皆伝の免許状が紹介されています。以下、まずは原文を引用します。

其方儀杉山流鍼学校執心不残令伝授之畢雖然誓詞之通於御府内者仮令為名附共指南勿論他言致間敷候若他国ニ而懇望之者有之者在江戸学頭江相届差図以可為指南者也仍免状如件

天保五甲午年七月廿八日

添役 河上 勾当 (印)

学頭 平塚 (東栄一)検校 (印)

学頭 吉見 (英受)検校 (印)

倉之一

本文を読み下しますと、次のようになります。

「その方儀、杉山流鍼学校に執心し、残らずこれを伝授せしめおわんぬ。然りといえども、誓詞の通り御府内においては、たとえ名附どもの指南は勿論、他言は致すまじくそうろう。若し、他国にて懇望の者がこれ有りとあらば江戸学頭へあい届け、差図を以て指南たるべきものなり。よって免状、くだんのごとし。」

そして、裏側には、

表書之通相違無之もの也

惣録

関 検校 (印)
という書面があり、「表書の通り、相違これなきものなり」と念押しされていました。

この免状から、次の3点が注目されます。

(1) 伝授内容の他伝・他言をしないことを、入門時あるいは免許前に誓わせ、それを文書で提出させている。

(2) 実際の教授に当たる者に、学頭の検校二人と添役一人が置かれている。

(3) 学校が免許相伝権を独占しており、免許後も江戸府内の指南は許されず、他国でも学頭の指図を要する。

こうしてみると、技術を守るために厳格な取り決めを交わしていた様子が浮かび上がってきます。

Q33 杉山 和一の子孫はどうしたのでしょうか?
A33
(「第1編 第5章 和一の子孫と、子孫が賜った俸禄の変遷」参照)

和一をはじめ、当時の盲人は僧体ですので実子がありません。

二代目である安兵衛昌長については少し説明が必要です。和一に妹があり、同じ藤堂家の家臣、山下 喜三郎某の子、小右衛門重之に嫁ぎ、重之は藤堂家の実家の養子となって跡を継ぎました。

重之には実子がなく、牧野佐渡守の家臣である、山下 惣左衛門某の子の安兵衛昌長を養子としました。母は九鬼長門守の家臣、野呂 直右衛門某の娘です。こうして藤堂家に仕えていた昌長は、後に、子がなかった和一の養子となりました。

このような事情で安兵衛昌長が二代目となり、元禄7年(1694)7月11日に遺跡を継ぎました。昌長は和一の鍼術を引き継がず武士となったので、幕府の一般の旗本(小普請)となりました。元禄10年(1694)7月26日に和一の俸禄が所領に代えられ、その場所は、上野国(群馬県)多胡・緑野・新田・佐井・群馬五郡にあり、合計800石でした。

800石の所領はかなり裕福な待遇で、大身の旗本でした。同12年5月27日に書院番になり、奥羽の争論の土地を検分したり、本所深川の屋敷改めを勤め、元文元年(1736)6月12日に88才で没し、青山の円通院に葬られました。四代目の正純まで円通院が葬地でしたが、五代目、正勝以降は、谷中の大雄寺に葬られたとのことです。

子孫は無事に幕末まで勤めて明治を迎えました。

Q34 盲人はどうして鍼術・按摩術を手にしたのですか?
A34
やはり、杉山 和一の存在が大きいと考えられます。

和一は将軍綱吉に寵愛されて昼夜にわたり側に仕え、そのお陰で弟子達が幕府や諸大名の鍼医・按摩医に登用されていきました。また、関東惣検校という、当道座のトップにも抜擢され、盲人界を統括する地位に就き、杉山流鍼治導引稽古所で弟子の教育に当たりました。

こうしてみると、全国へ杉山流の鍼術・按摩術が広まるには充分な状況であったと考えられます。もちろん、三島・島浦・杉枝・石坂など、弟子たちの活躍があったことも見逃せません。

また、盲人にとって、鍼・按摩は天職と言えるのではないでしょうか。明治時代、当道座の廃止で困窮した時期があり、戦後に業界存続の危機がありました。それらの自然淘汰を乗り越えているのですから、やはり、視覚障害者にとって、鍼・按摩は天職なのだと思います。

Q35 鍼の刺し方は色々あるのですか?
A35
大きく3つあります。

◆ 撚鍼法(捻鍼)

中国から最初に伝えられた方法です。道具を何も使わず身体に挿入する方法で、下手な人がやると切皮(せっぴ、鍼を皮膚に入れる)時にとても痛いものです。

◆ 打鍼法

戦国時代、御薗 意斎(1557―1616)が創始したといわれています。主に腹部の硬い部分へ金の鍼を立て、木槌で鍼の頭を少しずつ叩いていく方法です。

天皇の牡丹を鍼で治したというので「御薗」の名前を授かり、代々宮中の鍼医として活躍し、子孫が明治期に京都府盲で教員になったといいます。その後は残念なことに、時代の波の中で次第に使う人が減り、現在はほとんどみられません。

◆ 管鍼法

ご存じ杉山 和一(1610〜1694)が創始した方法です。打鍼法と比べると、管の中へ鍼を入れて導き、木槌の代わりに指で鍼の頭を叩くという手順が特徴的です。

ここで、鍼の材質について述べておきたいと思います。

江戸時代には金製でできたものもありましたが、多くは鉄製でした。蹄鉄から鍼に加工すると折れにくい鍼ができるといわれていたようです。

現在は銀やステンレスで作られた鍼が主流です。金の鍼もありますが高価なのであまり使われません。銀も元来曲がりやすいですが、製錬技術の進歩と共に折れにくい銀鍼が開発されています。また、ブラチナ鍼も作られるようになりました。

なお、近年は感染防止や衛生面保持の立場から、鍼管・鍼を個別に消毒・包装し、1回の施術ごとに鍼を廃棄するディスポーザーブル鍼が広く用いられるようになってきました。

Q36 江戸幕府にはどんな人が医師として登用されたのですか?
A36
幕府の医師は「医員」といい、その中のトップが奥医師()です。ただし、現代の医師免許制度とは異なり、受験資格・免許・欠格事由といったものはありませんでした。医師の系譜を整理してみると、以下のようでした。

(1) 家系が医師であった者。

(2) 著名な医家に学んだ者。

(3) 自らの経験や独学で医業の知識を深めた者。

この中で特に、著名・優秀な治療成績を挙げている者が幕府の医員に登用されました。医員の出自も多様で、階層もまちまちで、朝廷の医官・武士・奥坊主・藩医・町医師・町民・神官・社人・寺僧・検校などがありました。言い換えれば、治療成績が優秀であれば盲人でも医員に登用される道があったのです。当時の史料を見ると、医療は治すことが重要で、治せる者が医師である、と意識された様子が垣間見えてきます。

なお、杉山 和一については既出のとおり、本人ではなく弟子たちが医員となりました。

奥医師は、近習医師・側医・典医・侍医・匙医師などとも呼ばれました。

Q37 医員について詳しく教えてください。
A37
医員は若年寄の支配下にあり、以下の手順を踏んでいました。ただし、(1)初見の礼と(2)召出(任命)は、同時におこなった例もあるようです。

(1) 初見の礼

将軍に拝謁します。これは鎌倉幕府以来の武家の慣例でした。

(2) 召出(医員に任命される)。

(3) 家臣・御家人となる(士籍)。

(4) 医員という役職を勤める。

(5) 領地または俸禄を与えられる。

(6) 剃髮・僧体し、僧の官位を受けます。法橋、法眼、法印と進むほど、地位が高くなりました。

(7) 将軍の代替わりごとに医師より誓詞を提出する。

また、医員には次の階級がありました。

◆ 奥医師(近習医・側医・典医・侍医・匙医師)

医員の最高役職です。毎日江戸城に登城し、将軍や奥向きの人々の治療に当たっていました。給料は200俵、番料200俵でした。

◆ 番医師(表番医師)

必要とされた時に江戸城へ登城し、診療に当たりました。給料は200俵以下、番料100俵でした。

◆ 寄合医師

非常時に診療に当たりました。給料は特になし。

◆ 小普請医師

武士の小普請組の支配下にある医師で、給料は30人扶持でした。武士・町人を診療して修練を積み、番医師・奥医師などに抜擢された者もいました。

なお、医員を「医官」と呼ぶのは厳密には誤りです。これには少し説明を要します。

皆さんもご存じのとおり、江戸時代には、二つの政治体制がありました。幕府(封建体制)と京都の朝廷(律令体制)です。そして、朝廷は官僚制度、幕府は役職制度です。

医師が朝廷と幕府の両方に仕えたり、幕府が所領の代わりに名誉・カリスマとして朝廷の官職(法橋・法眼・法印)を授けたので、時代と共に混同されるようになっていったのでした。

Q38 医員はどんな服装をしていたのですか?
A38

皆さんの想像する医者の服装はいかがでしょうか。髪の毛を伸ばし、後で束ね、縫掖(ほうえき)を着て薬箱をぶら下げているイメージがある人も多いのではないでしょうか?

実は、医員は僧衣に坊主頭でした。

僧衣は十徳というものを着ました。これは、僧服の「直綴(なおつづり)」の転という服装(素襖に似た服装)の、脇を縫いつけたものでした。

武士は葛布で白または黒、胸紐があり、中間・小者・輿舁などは布を用い、胸紐がなく、四幅袴を用いました。その服装は鎌倉末期に始まり、室町時代には旅行服だったようです。

江戸時代には儒者・医師・絵師などの外出に用い、絽・紗などで作り、黒色無文、共切れ平絎の短い紐をつけ、腰から下に襞をつけて袴を略したものでした。

なお、医師の身分(法印・法眼・無官)によって、少しずつ形や紐の色が違っていました。

皆さんの想像した姿は後藤艮山(1659―1733)が始めたもので、いつしか町医者の間に流行したものです。これが幕末の文久2年(1862年)12月7日、医員にも蓄髪を認める触書が出され、更に医業を廃業して武士になることも許されました(『幕末御触書集成』第3巻、3249頁、岩波書店)。

Q39 江戸幕府ではどんな診療科目で治療していましたか?
A39
医員の科目は、次の7つでした。

(1) 本道(内科・大人科)

(2) 外科(瘍科)

(3) 鍼科

(4) 口科

(5) 眼科

(6) 小児科

(7) 産科(婦人科)

このほか、馬医・犬医等もいました。

現代と同様、医師の中には複数の科目を兼ねる者や転科する者もいました。また、A37にも挙げたお触書により、幕末に廃業する者も現れました。なお、幕末は情勢が複雑に変化しているので、詳しいことは機会を改めてお話しできればと思います。

Q40 江戸幕府の鍼医にはどんな人がいましたか?
A40
まずは、表8に示しましたので、ご覧ください。

表8.江戸幕府内の鍼医

 ※ 1行目で、通し番号、氏名、『諸家譜』における該当巻数とページ数を表します。

※ 2行目以降で備考(出自・治療の月日など)を示します。

※ 江戸幕府の鍼科の医員とならなかった者は、氏名の前に◎がついています。

(1) ◎熊谷(くまがや)伯安宗祐 13巻1頁

慶長16年(1611年)に初見。京都の医者。曾谷氏の祖先である。外科の医員で、鍼を行う。駿府の家康に仕えていた。慶長18年(1613)年8月28日に家康の、元和6年(1620年)4月に秀忠の腫物に鍼を行い平癒する。

(2) 坂 寿三幽玄 5巻267頁

寛永5年(1628年)初見。京都の医者。子孫も鍼科の医員を勤める。

(3) ◎山川検校城管(貞久) 21巻327頁

慶長16年(1611年)初見。元は御家人(節)、後に失明。医員にはならなかった。寛永11年(1634年)のころに、鍼治をよくおこなった。

(4) ◎竹田慶安定賢 12巻170頁

寛永8年(1631年)7月1日、秀忠を鍼で治療。紀伊大納言頼宣附医。一族は本道(内科)の家系。

(5) 藤木十左衛門成祥 (『諸家譜』に記載なし)

寛永16年(1639年)10月15日に召出。賀茂社人。鍼治に携わる。駿河流。御園意斎の弟子、藤木 成定の子。

(6) 坂 立雪元周 5巻268頁

慶安2年(1649年)2月、井伊掃部頭直孝の家医となる。初見の後、鍼科医員となる。その子の寿庵元歓は、鍼科より本道へ転科。

(7) 山本民部道照 21巻343頁

慶安3年(1650年)10月1日、加茂の鍼医を勤めていた時に初見。京都の医者。子孫も鍼科の医員を勤める。

(8) 佐田玉川定重 20巻38頁

万治2年(1659年)10月3日、町医者だったのが初見、召出される。子孫も鍼科の医員を勤める。

(9) ◎吉田一貞円節ー (『諸家譜』に記載なし)

延宝8年(1680年)2月29日、松平越前守綱昌の家医を勤めていた時、急に召されて家綱の鍼治療をする。

(10) 杉山検校和一 21巻398頁

延宝8年(1680年)3月29日に初見。貞享2年(1685年)1月8日に召出。盲人。一代限りの鍼施術。医員にならなかった。子孫は武士。

(11) 三島検校安一 22巻395頁

元禄4年(1691年)8月22日に初見。盲人。杉山検校和一の弟子。一代限りの鍼科奥医。子孫は武士。宝暦12年(1762年)4月11日、4代目長五郎某が討死。3代目助左衛門某を改易し、家系は断絶する。

(12) ◎杉岡検校つげ一 (『諸家譜』に記載なし)

元禄4年(1691年)8月22日に初見。盲人。杉山検校和一の弟子。一代限りの鍼施術。元禄6年(1693年)12月9日、行状不良により月俸を奪われ、藤堂 高久へ預けられる。

(13) 佐田玉縁定之 20巻39頁

元禄5年(1692年)11月23日、尾張光友の家医を勤めている時に初見し、医員に召出。子孫も鍼科の医員を勤める。

(14) 山崎宗円次氏 20巻100頁

元禄5年(1692年)11月23日に初見。奥(小納戸)坊主から医員になった。子孫も鍼科の医員を勤める。

(15) 栗本杉説俊行 22巻39頁

元禄5年(1692年)12月15日、町医者をしている時に初見し、医員に召出。杉山検校和一の弟子。子孫も鍼科医員を勤める。

(16) 岡本寿仙祐品 10巻96頁

元禄6年(1693年)3月27日、鍼医の免許を持ち、小普請医師を勤める。『江戸鹿子』では「鍼立師 岡本玄糸告」とある。

(17) 増田寿徳良貞 21巻120頁

元禄8年(1695年)12月11日、町医者をしている時に初見し、医員に召出。子孫も鍼科の医員を勤める。

(18) 須磨(すま)良仙某 22巻410頁

元禄12年(1699年)3月28日、町医者をしている時に召出。子孫も鍼科の医員を勤める。安永8年(1779年)8月4日に、5代目良川某が遠方へ流される。

(19) 杉枝検校真一 21巻338頁

元禄14年(1701年)12月2日、柳沢 吉保家の瞽者の身分で初見。宝永3年(1706年)12月11日、同瞽師より鍼科医員に召出。盲人。杉山検校和一の弟子。子孫も鍼科医員。著述『鍼灸約』一巻(伝存しているか不明)

(20) 上田施鍼庵東暦 20巻371頁

元禄16年(1703年)6月18日に初見。京妙心寺僧から医員になった。子孫も鍼科の医員を勤める。

(21) 吉田秀庵不先 22巻108頁

宝永元年(1704年)初見。家宣附医から医員へ。子孫も鍼科の医員を勤める。

(22) 杉島検校不一 20巻125頁

宝永元年(1704年)初見。盲人。杉山検校和一の弟子。家宣附医。一代限りの奥医師並。子孫は武士を勤める。

(23) 島浦検校益一 20巻345頁

宝永5年(1708年)7月2日に初見。盲人。杉山流門人。子孫は和田に復姓し代々鍼科の医員を勤める。

(24) 島田幸庵某 22巻417頁

宝永6年(1709年)10月15日、町医者の時に召出。子孫も鍼科の医員を勤める。寛政6年(1794年)10月10日、6代目の東雲某が行方をくらまし、家系が断絶する。

(25) 板花検校喜津一 19巻296頁

宝永6年(1709年)10月15日に召出。盲人。一代限りで、奥医師並。子孫は武士として勤める。

(26) 島崎検校登栄一 22巻178頁

享保15年(1730年)4月13日に初見。家重附医。盲人。杉山流の門人。子孫も鍼科の医員を勤める。

(27) 畠山玉隆常信 20巻267頁

享保19年(1734年)4月28日、酒井雅楽頭忠挙家医より召出。子孫も鍼科の医員を勤める。

(28) 石坂検校志米一 (『諸家譜』に記載なし)

元文元年(1737年)10月4日に初見し、医員となる。盲人。杉山流の門人。子孫も鍼科の医員を勤める。

(29) 前川玄徳雄寿 22巻195頁

元文4年(1740年)11月15日、町医者から召出。子孫も鍼科医員を勤める。文化元年(1804年)11月27日、4代目雄テイ(「氏」の下に漢数字の「一」)某の子、玄孝雄隆の罪により士籍を削られ、医員を罷免される。

(30) ◎.村井閑節某 (『諸家譜』に記載なし)

明和元年(1764年)12月15日、町医者をしている時に初見し、御目見医師となる。

(31) ◎.細見幽悦某 (『諸家譜』に記載なし)

明和5年(1768年)12月28日、町医者をしている時に初見し、御目見医師となる。

(32) ◎小崎三省敬直 21巻249頁

明和8年(1771年)7月8日に初見。鍼科の医員と見える史料あり。家は代々外科。

(33) 茂木玄隆某 (『諸家譜』に記載なし)

文政6年(1823年)『武鑑』以降、一ツ橋家附鍼科医員を勤め、のち医員となる。子孫も鍼科医員を勤める。


(34) 芦原検校英俊一 (『諸家譜』に記載なし)

天保2年(1831年)12月1日に召出。盲人。一代限り鍼科医員。駿河流鍼術。のち源道義長と名を改めた。

(35) 平塚惣検校東栄一 (『諸家譜』に記載なし)

元治元年(1864年)1月29日に初見。盲人。京都で召出。奥医師と、一代限りの鍼科医員を勤める。杉山流鍼治学校の学頭。

※『諸家譜』・『徳川実紀』・『続徳川実紀』・『武鑑』等を参考に作成しています。

※『諸家譜』は、『新訂寛政重修 諸家譜』の略です。この項の数字は同書の巻数と頁を示します。

まとめますと、幕府の鍼科医員は25名が知られており、うち9名が盲人です。それ以外の盲人鍼医が和一を含めて3名、他科の医員で鍼を使って施術した者が3名、御目見医師2名、医員以外で鍼施術を行った者が2名です。

幕府の鍼科に初めて登用されたのは坂氏です。

盲人の鍼医は、鍼科医員9名、医員以外の鍼医3名の計12名で、このほか、和一の弟子の一人に、晴眼者の栗本杉説俊行もいます。

なお、幕末に登用された芦原 源道(英俊一、1821年検校)は木曽義仲の子孫で、群馬県渋川市北橘町の木曽神社に墓があり、著書には『鍼道発秘』(医道の日本社)があります。
 『鍼道発秘』は 横田観風『鍼道発秘講義 葦原源道著『鍼道発秘』解説』(医道の日本社、)があるが、絶版となり『新版・鍼道発秘講義』(日本の医学社、2006年)として内容を増補して出版されている。
 横田氏から滋賀県大津市の木曽寺には、源道が建立した石碑があること、群馬渋川市にお墓があることなど、史料や写真をいただいていた。

 地元なので何時かはお墓参りをしてみたいと思っていた。直ぐに行けると思い、なかなかその思いを果たせずにいたが、2012年の10月に思い立って訪れてみたが、横田氏からいただいた写真の場所にはお墓がなくなっていた。どうも社地を整理していて移転していたようで、見つけれずに帰宅した。

 源道については、横田氏の後継者である大浦氏が幾つか論述している。

大浦宏勝「葦原検校の足跡 」(『日本医史学雑誌』51-1、51-81頁、2005年)
同「葦原検校の遺跡と木像について-『鍼道発秘』を著し、没落した木曽家を再興を果たした生涯(抄)」(『日本医史学雑誌』51-2、322-323頁、2005年)

 これ以外にインターネットを検索すると長野県の松代市豊栄栄の虫歌観音堂と千葉県旭市の東漸寺に伝説が残っている。
◆-「日本鍼灸」の特徴と真髄(『北米東洋医学誌』2007年11月発刊号)-より抜粋
 大浦慈観
 「長野市松代町虫歌観音堂にある幕末の名鍼医・芦原(英俊)検校の木像。芦原検校は松代城主真田侯に従い、松代の地をしばしば訪れ、里人ら5000人を治療した。その報恩のために里人が堂内に奉納した検校26才の座像。 」

◆東漸寺に残る伝説
所在地,千葉県旭市イ2337
山号, 殿玉山. 宗派, 真言宗智山派. 本尊, 愛染 明王. 創建年, 永禄2年(1593年). 開基, 木曾義昌. 正式名, 殿玉山 西徳院 東漸寺. 文化財, 懸仏(旭市指定文化財) 木曽義昌公遺跡(旭市指定文化財)

「弘化元年(1844年)3月、木曾氏の末裔と称する木曾義長(芦原検校)が東漸寺で木曾義昌250回忌を営んだが、其のとき葦原検校と親交のあった大名、貴族公卿など多くの人が追悼の和歌を寄せた。
これを纏めたものが「慕香和歌集」として残っている。更に後年、地元の人々の和歌、俳句を加えて刊行したのが「波布里集」である。平成3年12月、残されていた版木により「波布里集」が復刻された。」

 以上のことを含めて源道の業績・移籍なども『新版・鍼道発秘講義』にまとめて所収されている。
 拙稿も引用されているので是非参照いただければ幸いである。






盲人史 鍼灸・按摩史 Q&A  2014
第3編 盲人史・鍼灸・按摩 Q&A(第2章-3)



第2章 盲人・鍼医について、その3(Q41―Q54)

Q41 盲人で幕府に鍼医以外で登用された例はあるのですか?

A41
  江戸幕府と当道座の関係は伊豆惣検校円一に始まるといわれています。
 円一は江戸初期の人で、家康と個人的関係を持ち、小田原や地方の勢力の情報を伝えるスパイだったともいう。幕府と当道座の関係を作り出し、円一は慶長8年(1603)、家康が征夷大将軍となり拝賀した折に
 @当道の古来の格式、検校・勾当への座中官物や座頭以下への諸道運上を認める。
 A式目の改正を命ぜられる。
 B代々の将軍就任の拝賀と当道座の惣検校昇進の御礼をする。
などのことを言い渡されたという。政治的な顧問ともいえよう。
 また、家康は慶長19年(1614)4月1日に平家琵琶法師・棋師・象棋師を駿府に呼び寄せている。これ以後の将軍は琵琶をよく聴聞したという。
 更に、山川検校城管貞久(?〜1643)は三代将軍家光に仕え、鍼医とも見えると共に談伴衆(政治顧問)としても知られている。
 談伴衆は三組に分かれて将軍にまみえ、貞久は三番であった。医師も含まれ、今大路道三親昌・岡道琢孝賀・半井驢庵成近・吉田松庵某・田村安栖長有の5人がいた。
 貞久の弟子・岩船検校城泉(?〜1687)は関東の当道座の最高責任者として歴史上に登場します。
 城泉は政治的な面だけではなく、平曲の名人でもあり、四代将軍家綱に何十回も召し出されて弾奏しています。
 城泉については、熊本国際観光コンベンション協会のホームページに、「肥後琵琶の夕べ」として以下の文が掲載されていました。思いもよらぬ情報にびっくりしました。熊本は群馬の風土と合って何回とも訪れていたので、もっと早く知っていたらばと思いました。

 「〜肥後琵琶とは〜
延 延宝二年、1674年京都の岩船検校が、細川藩主の御前で平曲を弾奏し菊地一族の「菊地戦記」を作り肥後の盲僧に教えたのがはじまりとされています。
筑前盲僧琵琶の一種ですが、形は小型、「古浄瑠璃」の形を色濃く残し、肥後の伝説に取材した語り物も多く、即効性の面白みがある独特の芸風です。
口承で伝えられてきた地元の貴重な伝統芸能でございます。」
 また、
山鹿良之『肥後の琵琶弾き 山鹿良之の世界~語りと神事~』(日本伝統文化振興財団、2007年)
 安田宗生『肥後の琵琶師―近世から近代への変遷』(三弥井書店、2001年)
野村 眞智子『肥後琵琶語り集』(三弥井書店、2006年)もあります。

 これ以外に、以下のような幕府登用の資料もあります。


鍼医師として9人、平曲2人、鼓弓1人、俳諧1人、不明1人の計15人が知られています。




Q42 吉田流の按摩があると聞いたことがあります。どんな流派なのでしょうか?
 また、この晴眼の吉田流と盲人の抗争があったと聞きますがどんな内容ですか。

A42
江戸時代、杉山流と並ぶ晴眼者の按摩の流派です。幕末には杉山流・吉田流の間で争いごとが起きたともいわれています。
 この事件については、
 加藤康昭『日本盲人社会史研究』
第1部 近世社会と盲人の生活
第2編 封建体制解体期における盲人問題の展開
第2章 封建体制解体期における盲人の窮乏化過程
4.晴眼者との競合/400頁〜

にあり、 以下のような内容です。
ーーーーーーー

 文政・天保期には吉田久庵が江戸日本橋四日市床見世で治療を施して以来、吉田流は同所に門戸を張り晴眼の按摩業者を傘下におさめ、招く者の手引を要しないことと治療に若干の新手を加えたことで大いに勢力を伸ばしたので、杉山流の盲人按摩業者とのあいだに縄張争いが表面化してきた。
 文久のころ、盲人按摩数十人が吉田流家元の家に押しかけ、明眼の者が盲目者の業をなしては盲目者は活計に苦しむので業を転ぜられたい、しからざれば我等を養い給えと要求して寝込むという事件がおきた。
 吉田家からこれを不当の行為として南町奉行に訴えた
結果、奉行所では明眼の按摩者は路上を流し行くことなく病家の招きに応じて行くのみであるから盲目者の害とはならず盲目者の行為は不当であるとして、押しかけた盲人たちの身柄を一つ目の惣録役所に引き渡したという。【『訂正増補日本社会事彙』上巻、五八頁】
 増加する都市貧民の一部は、盲人の有力な競争相手として按摩業に流入し、ほとんどそれ以外に口過【くちす】ぎの手段をもたない下層盲人は、生活の脅威にさらされてこの集団的すわりこみ戦術に出たのである。
 ーーーーーーー
 吉田流の新手とは何か?

 杉山流は輪状に揉み、吉田流は線状に揉んだと言われています。これも確実なことなのか確かめられていません。
 新手とは、この線状(筋肉に垂直に揉む)だったのかもしれません。

 吉田流の按摩は現在、東京医療福祉専門学校(東京都中央区八丁堀、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師を養成)に伝えられているといいます。
  1898年に吉田久庵三世が創設した学校です。

 府中市の多磨霊園に記念碑があるそうです。
 【www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-21.html】

吉田久庵(?〜 1895.10.26、明治28)
 埋葬場所: 3区 1種 1側
 記念碑…2区1種7側沿いのバス通り角地。墓所内墓石左面に名が刻む。 裏面には建立者の二代目吉田久庵の名も見ることができる。和型。

堺 正一 続 塙保己一とともに―いまに“生きる”盲偉人のあゆみ はる書房

 第11章 受け継がれる盲人史の伝統
 長い歴史を持つ盲人と晴眼者との攻防/116頁
でも紹介されています。

 また、杉山流の按摩術といっても明確に分かっていなかったが、
大浦宏勝,長野仁,市川友理
杉山流按摩術の流儀書『杉山真伝流按摩舞手』および大澤周益の残した書籍類について
日本医史学雑誌 第60巻第2号(2014年)
 

古本屋から入手した新たな史料で今後杉山真伝流の按摩術が明らかになっていこうとしている。


Q43 どうして按摩と盲人が結びついたのでしょうか?
A43
明治初期には、生業を持つ盲人の80%が鍼・按摩業という統計があります。江戸時代以降、鍼・按摩を職業としていた盲人が多くいました。中途失明者の生活はとりわけ苦しく、按摩を職業として町中を流して歩く姿が印象的となっていったようです。

Q44 按摩師というと笛の音が町にこだまするイメージがありますが、今も笛は手に入りますか?
また、按摩笛の音はどんなものですか?

A44
 按摩笛は江戸の中期頃から使われたと言います。
 加藤康昭『日本盲人社会史研究』(未来社、p398、1985年)
 「第二章 封建体制解体期における盲人の窮乏化過程、三 盲人=按摩像の定着」の中にその創始のことが書かれています。

 杖を突き笛を吹きながら流して歩く按摩の姿は江戸時代の風俗誌によく描かれている。
彼ら墜裏店や按摩の溜り宿に住み、あるいは師匠の家に寄宿し、客を求めて得々を呼び歩くのが普通であり、店で客を待ちあるいは得意先の求めに応じて療治におもむくのは比較的羽振りのよい方である。
按摩の流しは江戸では「按摩針の療治」と呼び歩いていたものを、明和・天明ごろから笛も吹くようになり、
それが吉原から始まって天明・寛政ごろから他所でも吹くようになり、
他方京都では安永の末ごろには笛を吹いて流しており、天保ごろには三部諸国ともに振り按摩は小笛を吹くことが目じるしとなった。
また京坂では夜陰のみめぐり、江戸では昼夜を問わず流して歩いたという。
この流しに笛を吹く風俗の伝播は、同時に流し按摩とその需要の地域的時代的広がりをも示すものであろう。

 実際に按摩笛を購入してみると
音階が使える男笛(おぶえ)と、竹を2つ並べて共鳴させる女笛(めぶえ)がありました。現在も時代劇や演劇の効果音用に販売されています。

 私は3本所有しています。
 大岡紫山氏の作成したものは以下の@とAの二つです。竹の中野細工も木製です。
 @男笛…一本の竹、長さ、15cm、太さ1.1CM。表面は、窓(切り欠き)の穴と、3つの穴が空いています。3つふさぐと静養音階の“レ”、上と真ん中をふさぐと“ミ”、上だけふさぐと“ソ”、全部あけると“シ”より少し高い音が出ます。
 笛の解説書にはチャルメラも吹けるので工夫してくださいとありました。
 A女笛…2本とも同じ長さ13.5cm、太さ1.1と1.2CM。表面に窓の穴しか開いていないものです。太さが違い振動数の少し異なる2管の竹の笛2本が対になって作られています。

 B女笛…長さ15.4と15.8CMの長さの違う者、太さ1.1CM。表面に窓の穴しか開いていない。2本が対になっています。
民俗楽器のコイズミで購入した女笛(中野細工はプラスチック)

 女笛は、2本を同時に吹くことにより、独特の音色になります。こちらの方が時代劇によく使われていますので[聞いたことがある!]と思われるのではないでしょうか吹き方は、息をきらずに、初めは弱く、次に強く、そしてまた弱くと吹きます。強く吹くと一般に「せめ」と呼ばれる1オクターブ上の音が出、弱めると「フクラ」と呼ばれる1オクターブ下の基音にもどります。

 視覚障害者は、右手に白杖を持ち歩いて笛を吹かねばならないので、按摩笛は紐でくくり、首からかけるなどしていていたと考えられます。そのために、上のような簡単な笛が作られたのだと思います。

 按摩笛の男女がある理由について、女笛の解説書に男は男笛、女は女笛を吹いて、患者が強く門でもらいい時などには男子を招くなどとしたとあります。
 
 しかし、筆者は違うのではないかと考えています。

 江戸期の盲人の男性は座頭(ざとう)と言われ、琵琶を弾いて平家物語を語ったり、鍼灸・按摩を職業としていたと考えています。
女性は瞽女(ごぜ)と言われ三味線や胡弓を弾き唄うなどをした旅芸能社であったと考えています。

この男女の盲人と按摩笛の男女とは結びつかないと考えています。
尺八では、息をかけて音を作り出す唄口(うたぐち)の形状が都山流(とざんりゅう)と琴古流(きんこりゅう)では違うそうです。按摩笛も流派によって違ったのかと考えていますが、解説の通りなのかもしれません。

 また、30年前に年配の按摩マッサージ師がプラスチック製の按摩笛を持っていて、見せてくれた思い出があります。

 筆者は学兄の芦野純夫先生が[按摩笛は今でも売っているよ]との情報で東京の浅草、仲見世通りの中ほど、浅草寺に向かって左手にある小山商店で購入しました。1度目は定価3,800円でしたが、平成17年の夏に再度購入した時は4,700円に上がっていました。
 購入する際は、お店の方に男笛・女笛どちらが良いか聞いてみてはいかがでしょうか。
 この情報を桜雲会に紹介したところ、同会でも販売するようになっています。男笛は4,800円、女笛は5,600円で、かなり売れているそうです。
 また、桜雲会編『あんま笛と流しあんま(解説書)(CD付)』(桜雲会)も出版されています。
 按摩笛は以上の場所以外でも販売していますので、インターネットが得意な肩は探してみてはいかがでしょうか。
 コイズミでは、女笛だけですが廉価に販売しています。入荷しているときと品切れの時があります。
 色々な笛の形があるのも勉強になりました。

 実際の音も聞いてみたいとのことでしたので、音と写真もアップしました。笛は私が吹いているのでご了承ください。



Q45 なぜ、日本では按摩が医療として発達しなかったのですか?

A45
いくつかの理由が考えられます。

(1) 安易にできる

按摩は鍼よりも危険が少なく、子どもの肩たたき・足踏み等のように簡単にできる部分があります。

(2) 按摩は入り口が広く、奥行きが深い

見よう見まねでできるものから按腹のように熟練を要するものまで、様々なやり方があります。

(3) 免許・資格に関する認識の曖昧さ

日本では、歴史的に能力主義・成果主義の医療が幅を利かせており、医師免許またはあん摩マッサージ指圧師免許を持たない様々な立場の者が按摩業をおこなっています。

(4) 差別意識との関わり

按摩業は多くの盲人が生業としてきた歴史があり、視覚障害と共に按摩自体が蔑まれてきた部分があります(いわゆる「あんまさん」)。ただ、地球全体で見ると盲人の職業自立は悲惨な状況です。日本だからこそ、盲人が鍼灸・按摩を職業として自立して来られたのです。

今は、業界人の大半が晴眼者(視覚障害がない)になりました。それでもなお、視覚障害者が鍼灸・按摩で職業自立できるのは、杉山 和一以来から続く盲人の先覚者のお陰です。そのことを決して忘れてはならないと思います。

Q46 古法按摩(こほうあんま)について知りたいのですが。
A46
古法按摩の3法といわれるものに、

(1) 調摩の術(現在の軽擦法または按撫法)

(2) 解釈の術(揉捏法)

(3) 利関の術(運動法)

がありますが、これは『按摩手引』ではなく『按腹図解』の内容です。気血の通り道(経脈)の流れる方向や経穴(いわゆるツボ)をめがけて押したり撫でたりする方法も、古法按摩と考えてよいと思います。

そうすると、『按腹図解』の3法を古法按摩と定義していいのかという疑問が生じます。以下、少し長くなりますが、説明します。

現行のあん摩術式は、「衣服の上から、心臓から離れる方向に、撫でる・押す・揉む・叩く・関節を動かす等を行う」のが標準かと思います。しかし現実には、「リラクゼーション」「○○国式マッサージ」と称して、いろいろなあん摩が行われているようです。

このような現状なので、「ルーツとしての古法按摩」をお問い合わせいただく機会が何度かありますが、お恥ずかしながら、現状では私自身がまだ充分に勉強できておりません。ただ現時点で言えるのは、現在の日本と同様、多種多様な按摩があったようだ、ということです。

あん摩は中国発祥の手技療法で、唐の時代(618−907)には法令で按摩の医療科目を作っていました。日本はこれを元に律令体制を作ったため、国家医療に「按摩」を含んでいました。なお、当時の按摩は骨折の整復などもおこなっていたようです。

また 現在と違う考えの一つが「四末束悗(しまつそくばく)」という治療法を含んでいたことです。『霊枢』雑病篇第26に概要が記されていますが、「患者の四肢を縛って憤悶の気を起こさせ、その後に束縛を解くと気血の流通を助けられる」というものです。

以下に、その一例を挙げます。

「手足が冷えて萎え、自由がきかなくなる痿厥というものに、患者の四肢を縛り、患者が苦しくなるのを待ち、すぐに縄をほどく。一日に二度行う。

しびれて痛痒を感じない者は、治療後十日でその感覚をとり戻す。ただし、途中で止めず、病が癒えるまで続けなければならない。」


現代ではいろいろな意味で誤解を受けそうな治療法ですが、当時は国家政策で教えていたようです。

この話には後日談があり、講演などで話題にすると「自転車のチューブで縛っている治療法を見ました」などの情報提供もあって驚かされました。「按摩としてではなく、手技療法として現在に伝えられているのかな」とも思いました。

さて、話を古法按摩に戻しますと、江戸時代初期に登場した杉山 和一は多くの弟子に鍼と按摩を教え、幕府や大名に医師として登用させました。盲人が鍼と按摩を職業自立するきっかけを作ったのです。そのことから、杉山 和一は管鍼法のみならず按摩もおこなっており、弟子にも教えていたことが推測できます。

 先のQ42でもふれましたが、晴眼の吉田流の存在も考えなくてはなりません。


按摩は民間療法としても広まり、庶民の中で職業とする者も現れました。船の艪のようなものに掴まって患者を足で踏み、按摩とする足力(そくりき)も、このころ生まれたようです。

これに対し、「民間療法となった按摩」という状況を嘆き、書物を著して学術を残そうとする動きが現れました。

以下に、主なものを挙げます。

◆ 『導引体要(どういんていよう)』

伊勢(現在の三重県)の林 正且(はやし まさかつ)が『素問・霊枢』から研究し、慶安元年(1648年)に著した。これが按摩術復興の火付け役となる。

近江(現在の滋賀県)の喜多村 利且(きたむら としかつ)が受け継いた。

◆ 『古今導引集(ここんどういんしゅう)』

肥後(現在の熊本県)の大久保 道古(おおくぼ みちふる)が宝永4年(1707年)に著した。

◆ 『導引口訣鈔(どういんくけつしょう)』

宮脇 仲策(みちわき ちゅうさく)が著す。

◆ 『古今養生録』

竹中 通庵(たけなか つうあん)が著し、養生あん摩を提唱。

◆ 『按腹図解』

大阪の太田晋斎が文政年間(1818―1829)に著した。香川修庵・賀川玄悦・賀川玄迪らがこれを引き継ぎ、養生・産科応用のあん摩法を説いた。

◆ 『按摩手引』

伏見の藤林 良伯が寛政年間(1789―1800)に著した。「原気の滞りを活発にし、臓腑を和らげ、気力を盛んにする」という按摩の効果を詳しく述べた。

これらのうち、『導引口訣抄』・『按摩手引』・『按腹図解』は古法按摩研究の上で大切な文献になります。『按摩手引』の後半に簡単な鍼法の記載があったり、幕府の鍼科医員が鍼と共に按腹もおこなっていたりと、鍼医が按摩術に携わっていたのが理解できます。何より『按摩手引』は、私たちの按摩の教本において揉む手順などに大きな影響を与えています。

また、最近出版された『マッサージ医療の開拓者「富岡兵吉先生の思い出」と「日本按摩術」』(栗原光沢吉・富岡兵吉、桜雲会、2008年)の著者は、2名とも群馬県ゆかりの方です。

47 私は東京都北区に住んでいました。
鍼の免許を取り、鍼の歴史を勉強していて、山川城管という鍼医をこのページで知り、
調べてみると、北区上中里の城管寺に葬られていることが分かりました。どんな鍼医でしたか?

A47
それは、山川城管貞久(生年不詳―1643)という人です。江戸幕府の御家人でしたが失明し、当道座に入門して鍼の技術を習得したようです。その後、三代将軍家光の談伴衆(政治顧問)となりました。家光の病気に際して病気平癒を祈願し、ますます信任が厚くなり城管寺の所領を賜ったといいます。

盲人鍼医で歴史上初めて登場する人物かもしれませんが、断定できていません。

山川と城管寺創立の一連の縁起が巻物として本寺に所蔵されており、筆者の学友である澤登 寛聡(さわと ひろさと)氏が「平塚明神併別と城管寺縁起絵巻の成立」(『文化財研究紀要』第6集、1993年、北区教育委員会)として報告しています。

しかし、この巻物や報告をもってしても鍼の技術などに関する内容は不明なままで、杉山 和一の管鍼法との関わりも疑問のままです。

城管寺にを詣でて、山川の墓参りをしましたが、寺内には多紀桂山一族の墓も整然とあります。現在東京都指定文化財となっています。多紀家の史料も巻物として残されていました。


Q48 杉山 和一の墓は二つあると聞きましたが、どういうことですか?
A48
和一は元禄7年(1694年)5月20日に没し、観音振興により遺言で5月18日を命日としました。また、6月26日に、本所二つ目の弥勒寺で葬式が行われ、墓が建立されました。

このような理由で墓が二つあることになりました。

江ノ島の墓は、江戸時代から台風などで土砂崩れに遭っていたようです。

大正12年(1923年)6月24日に発掘調査が行われた際、瓶の中に石灰があり、首をうなだれたような形できれいに人骨が残っていたそうです。

Q49 (平成21年7月3日、茨城県土浦市大聖寺 小林住職から)
三島惣検校安一の資料が、当寺から発見されました。関連する資料を教えてください。
A49
大聖寺 小林住職の話によると、奥本尊の大日如来の破損がひどいので修復に出したら、頭部に体内墨書がみつかり、三嶋総検校安一の名前があった、ということでした。ホームページでこの私のことをご覧になり、問い合わせられてこられたようです。

小林住職からは、平成21年7月2日(金)付の茨城新聞と、同年7月20日(金)付の常陽新聞の記事と共に、関連資料をご寄贈いただきました。盲人史の研究をしてきた中で、数年に一度くらいの大きな出会いでした。

三島 安一(みしま やすいち、1645?―1720)は、杉山 和一の一番弟子です。よく読み間違えられるようですが、検校の登録名簿(『三代関』・さんだいせき)に仮名で書かれており、「やすいち」と確認できます。

「新発見・三嶋惣検校安一の史料と土浦の伝説」(『医道の日本』第793号、平成21年10月号、2009年)に、小林住職からいただいた資料についてまとめてあります。詳細はそちらをご覧ください。ここでは、三島 安一の事跡を簡単にご紹介します。

まず、こんな伝説があるようです。

大聖寺から少し離れた宍塚村(ししづか、現在の茨城県土浦市宍塚)に再婚した母と住んでいたが、幼くして失明し、日本一の琵琶法師になろうと宍塚村にある般若寺に祈願したという。琵琶と鍼の諸国修行に出て、途中で水戸のお姫様の病気を鍼で治し、その縁で江戸まで同行し、鍼の有名な師匠について修行した。

その後、将軍綱吉の生母である桂昌院の癪(しゃく)を治療することとなった。そのため旗本三島家の養子となり、鍼治療で治癒へ導いた。綱吉はたいそう喜び、三島 安一を関東惣検校に任命した。祈願成就のお礼として、安一は般若寺に釈迦堂を建立した。

この伝説を一つひとつ検証してみました。地元の皆様をがっかりさせるつもりはないのですが、鍼の修行の過程、三島家への養子縁組、関東惣検校の逸話は全く史実と合致しておらず、水戸家や土浦藩土屋家との関係も、調べた限りでは証明できませんでした。

ところが、伝説と土浦との関係を裏付ける内容が発見されたのです。

大聖寺は奥本尊として大日如来像を納めています。仏像は桧づくりで、高さ約47cmの寄せ木造り、玉目(ぎょくがん)のものです。本体や台座、光背の傷みを京都の仏具店で修復していた時に、この墨書が見つかりました。

仏像頭部の内壁には、こう書かれていました。

「洛陽大仏師大邇(らくよう だいぶつし だいに)木原宗慶 藤原兼長 武州江戸表而造立(ぶしゅう えどにて ぞうりつす)」、そして「綱吉公為御祷願(つなよしこう ごとうがんの ため) 奉造立之(これをぞうりつする) 元禄八年乙亥九月吉祥日 三嶋惣検校安一」

小林住職は、土浦と幕府との密接な関係や、安一の神仏にすがる思いとしての大日如来の建立を考えておられたようですが、筆者が正面から否定してがっかりさせてしまいました。

ただ、住職からお話を聞いた時、師匠の和一が綱吉の厄除け祈願のために江ノ島に護摩堂を建立したことが頭に浮かびました。そこから「弟子の安一も綱吉の健康長寿を祈願したのではないか」という思いが、ふと頭をよぎりました。

これを検証するために、あれこれと文献を見てみると…行き当たったのは、大日如来が建立された元禄8年(1695年)は、綱吉が50才になるということでした。

この年に、何かお祝いや催しがあったのか、50才と健康祈願の関係はあるのか…半信半疑で資料を検索し続けました。

そして、徳川幕府の公用日記『徳川実紀』元禄8年1月9日の記事に、「江戸城内で誕生日の宴会が開かれた(綱吉は1月8日生まれ)」を見つけた時、思わず小躍りしてしまいました。「これで、安一が健康長寿の建立をする名目が立てられる」と確信を深めました。

これらの史料から、大聖寺と綱吉・土浦藩主土屋氏との直接的な関係が全く無いとは言えないのでは?と思いました。

この後、小林住職は寺内や旧宍塚村を探索され、安一野墓碑や五輪塔をみつけて私に報告してくださいました。さらに、土浦市所蔵の史料があることが後日、判明しました。

大聖寺に安一発願の大日如来が伝来しているのは、安一が宍塚で出生したこと、家系改易となり、残された家族が土浦に戻ってきた証拠ではないかと考えました。安一の墓碑や五輪塔が残されていることが何よりの証拠でもあるように思います。そして、古老の話として言い伝えられたのではないのでしょうか。

またまた後日談ですが、平成23年12月16日(金)に大日如来改修の開眼供養が行われました。大聖寺では、これまでの大日如来の修復や三嶋安一との関係をまとめた「大聖寺奥本尊大日如来と三嶋総検校安一との関係について」と題した立派なパンフレットを作成し、私にもご寄贈いただきました。大日如来と宍塚の安一遺跡が後世まで保存されるよう、祈るばかりです。

茨城新聞の朝刊(平成23年12月19日付)に、三島 安一関連の記事があるとのことです。

最後に、安一の年譜を表9として紹介しておきたいと思います。私が作成したものに、宍塚の自然と歴史の会の鶴田氏からの加筆をいただきました。

表9.三島 安一の年譜

年号 年齢 事項 備考
正保2年(1645) 1歳 伊豆国三島出身の西谷縫殿助某の子として生まれる "御家人分限帳には、「西谷縫殿助子」と記載
三島出身については、別資料"
─ ─ 般若寺釈迦如来像胎内墨書では、当村雨賛氏出生、完塚村天賛縫殿助氏出生などと記載 "土浦市博物館H23
土浦の文化財関係資料集P8、10"
─ ─ 母親は新治郡田宮で生まれ、寛文年間、筑波郡平沢の弥右衛門に嫁ぎ、一児を出産。その後、生家に戻っていたが、宍塚の雨貝文右衛門の後妻となった。 中家ものがたりP115
─ ─ 母親は、新治郡山ノ荘田宮村の杢兵衛の娘として生まれ、慶安4年(1651)、筑波郡平沢村の弥右衛門に嫁ぎ、承応3年(1654)、一児を出産。その後、子どもと連れて宍塚村の文右衛門と再婚。 古老が語る宍塚の歴史(佐野邦一)
─ ─ 幼くして失明し、常陸国宍塚村に住む(伝説)
─ ─ 常陸国宍塚村の般若寺に釈迦堂を建てる(伝説) ⇒般若寺の胎内文書、粕毛の弥陀堂棟札などあり
─ ─ 江戸にて山瀬琢一に鉱術を学ぶ(伝説)
─ ─ 杉山和一に琵琶・鉱術を学ぶ(『系譜・三代関』より)
加茂真淵の同門である安房館山の城主、宇佐美山城の守、江戸寄合旗本直参、三島大膳の養子分になり、三嶋の姓をもらって、お目見えの格式を整えた。 "裏付けはない。
中家ものがたりP118"
寛文10年(1670) 杉山和一(61歳)検校となる。 杉山検校遺徳顕彰会HP
貞享4年(1687) 43歳 検校となる
元禄3年(1690) 46才 7月吉日に 華鬘(けまん)を某所に奉納。 茨城県水戸市兼子國廣氏所蔵。
元禄4年(1691) 47歳 同門杉岡つげーと共に大奥の療治を承り月俸20口を賜う(医員に登用)
元禄5年(1692) 杉山和一 惣検校に任ぜられる。
杉山和一、小川町の邸に惣検校役所を設置
元禄6年(1693) 49歳 神田小川町に屋敷在り(師匠・椙山和一の子孫宅の隣)
"杉山和一 本所一つ目の土地を拝領。弁財天を祀る。
後年、江戸惣禄屋敷、鍼治学問所が移設される。" "杉山検校遺徳顕彰会HP
江戸名所図会に弁財天あり
現在の江島杉山神社"
─ ─ 奥医に列す(時期は不明)
元禄7年(1694) 50歳 ・杉山和一と安一が綱吉の治療に当たり、その褒賞として庫米二百俵を加えられる
杉山和一 5月18日没 享年85歳 杉山検校遺徳顕彰会HP
・同人の門弟の輩は、三島元興院の門人と与に流儀の事を相論じる。 6月7日、杉山流家譜
・杉山総検校の後室、及び杉山安兵衛、並びに家来・榊原杢右衛門、齋藤新兵衛等、各おの立合いの上、秘書残す所無きの条、証文を取り、具(つぶさ)に源本の目録を認め、同日之れを元興院に下し給わる。 7月9日、杉山流家譜
・杉山和一の逝去につき、2代目関東惣検校となる 8月19日 徳川実紀など
元禄8年(1695) 51歳 綱吉50歳にあたり健康・長寿の祷願のため、大日如来像を建立する(土浦市大聖寺現存)。 大聖寺資料
元禄9年(1696) 52歳 小谷方の母高岳院を治療する。快癒ありし賞として百俵を賜う
元禄10年(1697) 53歳 正月、護国寺観音堂新営の幕命。8月に落成供養。 護国寺史P34〜
元禄13年(1700) 56歳 護国寺の解体された旧観音堂の古材で土浦宍塚に釈迦堂を再建 "古老が語る宍塚の歴史
(中家ものがたりP119は釈迦堂縁起によったのか、弘安6年としているが、これは、最初に建築された時の話で誤り。)"
元禄14年(1701) 57歳 綱吉より[大弁才天」の掛物一幅を賜う(東京都江島杉山神社に所蔵)
土浦宍塚の粕毛弥陀堂の棟札に、元禄14年正月に、三嶋惣検校安都が再築した旨の記載がある。 "土浦市博物館H23
土浦の文化財関係資料集P32"
元禄15年(1702) 58歳 200石を加増され、庫米を改め計五百石の領地を賜い、月俸は収められる(領地は武蔵国)。
元禄16年(1703) 59才 駿河台に屋敷を拝領する。 屋敷渡預絵図証文
宝永元年(1704) 60歳 法眼に叙される
三嶋惣検校が、般若寺に田畑を寄進 般若寺資料
宝永3年(1706) 62歳 法印(元興院)に叙される
宝永6年(1709) 65歳 武蔵国に500石20人扶持の所領をもつ 御家人分限帳
寄合医師となる
惣検校辞職の願いは許されるが、治療は続けるように命ぜられる3代目総検校には島浦益一が任ぜられる。
享保2年(1717) 73歳 猿楽町(神田小川町)に屋敷在り(師匠,椙山和一子の孫宅の隣)
享保5年(1720) 76歳 "三嶋元興院方眼法印安一
阿弥陀如来、釈迦如来などを再興、そのほか、大日、薬師最高、不動尊寄進、幟、花鬘、打ち敷き、などなどを寄進 3月吉日" "土浦市博物館H23
土浦の文化財関係資料集P8、10"
逝去、谷中の元興寺加納院に葬られる 4月4日
"宍塚の共同墓地の雨貝家の墓所に墓碑
 享保五庚子年 四月四日
    前惣検校元興院殿法印権僧都智光明道" そばに五輪塔も建てられている。


【参考文献】
1.般若寺釈迦如来

胎内木札墨書 土浦市資料集

土浦の文化財関係史料集 雨谷 昭 編修 発行 土浦市立博物館

印刷 株式会社 横山印刷 H23.3.18発行

2.粕毛弥陀堂棟札等 土浦市資料集

土浦の文化財関係史料集 雨谷 昭 編修 発行 土浦市立博物館

印刷 株式会社 横山印刷 H23.3.18発行

3.三嶋検校 中家ものがたり 編集者 佐野春介 編集発行 中家ものがたり刊行会

印刷所 鰍けぼの印刷所 S54.11.30発行

4.佐野邦一翁 古老が語る宍塚の歴史

前惣検校三嶋権僧都について 1〜3 宍塚の自然と歴史の会 会報 五斗蒔だより

1998年6月号 通巻103号 佐野邦一口述筆記 宍塚の自然と歴史の会 1998年6月

5.佐野邦一翁 古老が語る宍塚の歴史

前惣検校三嶋権僧都について 4〜6 宍塚の自然と歴史の会 会報 五斗蒔だより

1998年7月号 通巻104号 佐野邦一口述筆記 宍塚の自然と歴史の会 1998年7月

6.佐野邦一翁 古老が語る宍塚の歴史

前惣検校三嶋権僧都について 6-2〜8 宍塚の自然と歴史の会 会報 五斗蒔だより

1998年8月号 通巻105号 佐野邦一口述筆記 宍塚の自然と歴史の会 1998年8月

7.佐野邦一翁 古老が語る宍塚の歴史

前惣検校三嶋権僧都について

8.宍塚の自然と歴史の会 会報 五斗蒔だより

1998年9月号 通巻106号 佐野邦一口述筆記 宍塚の自然と歴史の会 1998年9月

古老の言い伝えは資料と引き比べて検討していく必要があるかとは思いますが、残された資料から宍塚との関係は証明されていくと思います。

Q51 (宍塚の自然と歴史の会 鶴田 学氏から)
 香取先生が懸案とされている、武蔵国内の三嶋の領地に関する資料を、先日、お送りしました。その中に古老が語る宍塚の歴史があり、以下の記載が見つかりました(A51の冒頭を参照)。
 これによると、下総国東葛飾郡金宿邑(現在の金町)となっていますが、寛政年間に江戸川(旧太日川)の西側は武蔵国の葛飾郡となっていたようです。佐野翁が語るこの資料には根拠が示されておらず、史実と異なる部分も多いですが、すべて異なるとも言えないようです。
 杉山 和一の話と混同されているのかもしれませんが、何かの参考になれば幸いです。
A51
鶴田氏から寄せられた「古老が語る宍塚の歴史」の内容は以下のとおりでした。

注戸城に参内し、将軍および桂昌院の御前に伺候した明道に対し、綱吉公は言うにおよばず桂昌院も自ら高座より、妾を生死の谷間より救ってくれた感謝の気持ちを述べるとともに、「汝に褒美をとらす。何なりと望みを申してみよ」との有り難い言葉でした。

綱吉公は明道に対し『その方の功績天晴れである。綱吉からも褒美を取らす。望みがあれば遠慮なく申し出よ』との温かい心遣い、感極まった明道は『褒美は決して望みません。拙僧は、常洲筑波山麓の寒村に生を受け、幼児の時より両眼が開かず盲目の不自由さを人に支えられ37歳の今日、歴代の将軍殿および桂昌院殿の厚い帰依を受け、由緒ある護国寺の知足院住持とまで出世させて頂き、この上の希望無きことを進言におよびました。加うるに、ただ一つ心残りは、両眼盲目であるため将軍殿の御威光で片方の目だけでも開ける事が叶うことなれば、誠に恐悦至極に存じます』と悪びれる様子もなく云い及びしところ、綱吉公、暫し途惑う様子であったが軽く膝を叩き咄嗟に『余の威光で汝の両眼を開けて遣わそう』と。

後日、奏者番職に在った土屋殿に桂昌院光子殿より仰せがあり、江戸本所村の内にて一ツ目を下賜され、綱吉公常憲院からはニツ目の村を下賜されました。その上、両村の税金を収入とすることを許されました。下総の国東葛飾郡金宿村(現在の金町)にて3百石の食封を賜わったことになります。斯くの如く、両眼を開けて頂き面目を施したという三嶋惣検校の美談の一節でした。

併せて、鶴田氏からいただいた示唆は大変参考になりました。

領地について、安一58才の時、元禄15年(1702)12月3日に綱吉の近習の治療をして褒美に200俵を給わり、合計500俵となりました。後に領地500石へと改められましたが、この領地は安一が享保5年(1720)4月4日に逝去するまでの限られた期間(元禄・宝永・正徳・享保)なので、史料の発見が難しいと予想されます。東日本では、江戸前半の史料はなかなか残っていません。

いただいた示唆を元に、以下の文献を調べてみました。

1.『新編武蔵風土記稿』(雄山閣出版)

→金町(2巻87上)の記載には三嶋家の文字はありませんでした。

 三嶋清左衛門 12巻46頁下

 三嶋平之丞 12巻56頁上

以上の二人の名前は安居千野家系には見えません。

埼玉県史編纂室『旧旗下相知行調』(埼玉県史刊行協力会)

→賀美郡内に三嶋銓之丞が知行している村々が確認できるが、三嶋安一家の家系にはこの名前はいないので他家と考えられます。

小野文雄編『武蔵国村明細帳集成』(武蔵国村明細帳集成刊行会)

→葛飾郡金町の明細帳はありませんでした。

上総国町村誌 上・下巻』(名著出版)

→葛飾郡は含まれていませんでした。

今後、更に江戸時代の資料や市史の資料編を探求して検討していきたいと思います。歴史の偶然・いたずらを期待しつつ、気長に探索させていただきます。

Q52 (平成23年12月7日、茨城県土浦市教育委員会文化財課 関口氏より)
土浦市内の大聖寺大日如来、宍塚の三嶋の墓碑や五輪塔、同市の博物館に所蔵されている般若寺関係の資料と、前掲の鶴田氏が紹介した史料をどう評価していますか?
A52
土浦市大聖寺の大日如来の文化財指定や、関係資料の保存をお考えのようです。関係図書の寄贈も拝受しました。三島 安一について書いた私の論文もご覧になったとのことで、恐縮しきりです。

さて、幾つかの疑問にお答えしなくてはなりません。

1.三嶋安一の歴史的評価

日本の盲人の職業自立には、師匠 杉山 和一の教えを継承した安一の存在は大きいと言えるでしょう。将軍綱吉の在位中、多くの盲人が幕府の鍼医となって隆盛しましたが、その学術や社会的地位の中心にいたのが安一でした。次の2点に、安一の功績を集約できるかと思います。

(1) 和一の学術を継承し、発展させた。

秘伝書の中に安一の教えが見える。杉山流鍼治講習所の運営や発展に寄与した。

(2) 社会的地位を継承し、盲人の地位を維持していった。

2代目関東総検校を継承し、島浦 益一(3代目)へ伝えた。

2.大聖寺大日如来と安一との関係

安一の子孫は医学を継承せず、武士として家系を継ぎました。

ところが3代目助左衛門某の代に改易となってしまいました。それは宝暦12年(1672)10月4日のことで、長男 長五郎某の罪に連座したものです。

残された安一の子孫は、ゆかりの地である常陸国宍塚へ身を寄せたのではないでしょうか。安一の墓碑・五輪塔などの遺品がそれを物語っているように思われます。大聖寺の大日如来は、この時に持参したものか、それとも安一の生存中に大聖寺に奉納されたのか、それは不明ですが、地縁により現在に至っていると思われます。

3.宍塚の墓碑や五輪塔、博物館の史料郡の評価

宍塚村の古老の話に「安一が宍塚村の出生」とありました。博物館の般若寺廃寺後の史料『般若寺釈迦如来 胎内木札墨書』・『粕毛弥陀堂棟札』は、これをいくらか裏付けると考えられます。

土浦市に残された上記の史料からは、今まで私が確認できなかった「綱吉の健康長寿を切に願った安一の思い」「郷土の般若寺への温かい思い」が、ひしひしと伝わってきます。また、多くの幕府の史料を見ていると、以下のようなことが言えます。

1.父親の祖先、西谷氏は伊豆国 三島の出身で、それ故にその場所が本国と認識されていたようです。常陸国に生まれた安一は、父親の関係から三嶋と名乗ったと考えられます。

このことは、幕臣たちの履歴書ともいうべき「明細短冊」(国立公文書館所蔵)という史料から、本国と生国の二つが記されていることで分かります。

2.幕府が盲人を医員に登用する事例をみると、旗本へ養子縁組するなどの手続きをしていない場合が多くみられます。幕府へ安一を登用するに当たり、古老の話にある「水戸藩の姫君を治療した、旗本三嶋家に養子に入った、など」は必要なく、本国の三嶋からの検校名として名乗れば良いと思われます。そのことから、師匠である和一の引き立てにより登用されたと解釈しています。

いずれにせよ、土浦市に残された大日如来の内面の墨書や他の遺跡は、安一の事跡を埋める貴重な資料であることは間違いありません。

大日如来の保存を始めとして、墓碑や五輪塔、博物館にある史料が適正な評価を受けることを望みます。

Q53 (平成23年11月22日、茨城県水戸市在住の兼子國廣氏から)
「元禄3年七月吉日 三嶋検校安一奉納」の華鬘(けまん)を骨董屋で購入し、由来や伝来を調べていた。大きさ約22cm、レンゲの花模様と、彫金で上気の文字がある。箱書きには「島津家蔵」との墨書がある。
A53
鶴田さんに続いて兼子さんからお問い合わせをいただき、「こうも三嶋安一の資料が立て続けに出てくるのか!?」とびっくりしました。

先に紹介しました三嶋 安一の年譜を、いま一度参照していただきましょう。

元禄3年は、師匠の杉山 和一が将軍綱吉に寵愛され、綱吉の治療に召され、鷹匠町(現在の神田小川町)に屋敷を拝領している頃です。

しかし、関東惣検校に昇進したことや、和一が「目が一つ欲しい」と言って本所一つ目に屋敷・弁天社を拝領したのは元禄5年から6年のことです。

安一が同門の杉岡 五一(つげいち)と幕府の委員に登用されたのは翌4年8月22日です。

こんな情勢の中で華鬘(けまん)の話が出てきたので、安一の昇進以前のことを明らかにする大事な史料の一つといえます。

では、華鬘はどんな理由で制作・奉納されたのでしょうか。可能性を考えてみました。

1.安一の出生地の般若寺への寄進

→ 再建の年号と合わない。

2.年表で主たる寺院の建立や再建がないか。

→ 大きな年表を一覧したが安一と関係するような記事がない。土浦市内の寺院の関係があるか。

更にこの年の史料を検索する必要があると思います。

3.般若寺の再建に護国寺の廃材を利用したというので護国寺に寄進。

→ 年表には元禄3年7月に護国寺の再建や増設などの記事がない。

→ 鶴田さんからの意見

華鬘(元禄3年7月奉納)の件、『護国寺史』(昭和63年 護国寺発行)によると「元禄3年9月10日に護摩堂・御座所が完成」との記載があります。

また、付録の年表では、その頃、森長武や牧野成貞、前田綱紀等等からの寄進の記事もあり、綱吉、桂昌院の祈祷寺として、日常的な寄進があったのかもしれません。

なお、般若寺の釈迦堂や粕毛の弥陀堂に移築されたとされる護国寺の観音堂は、同史によると元禄10年に建て替えられています。

→ 香取。「島津家蔵」の箱の中にありましたので、島津家も護国寺に寄進していたなどの縁もあったのでしょうか。島津家との関係はどう考えるのか難しい課題です。

4.安居千野墓所、谷中元興寺加納院との関係

→ インターネットで探した限りでは、該当する記載が見つからなかった。

5.江戸幕府の正史『徳川実紀』元禄3年7がつ12日条に日光山堂舎の造営の記事がある。

→ 日光と安一との関係が確認できていない。

6.杉山流鍼治講習所との関係

→ 否定される項目はないが史料がない。

7.湯島聖堂との関係

→ 和一や安一と関係が知られていないのであまり考えられない。

8.墨田区の江島杉山神社との関係

→ 元禄3年には存在していません。

未だ決定的な資料が見つかっていないので、今後の課題とさせていただきます。

Q54 江戸時代の各藩藩の医療制度の研究は行われているのですか?
A54
藩ごとの医療制度については、研究の進み具合にかなりばらつきがあるように思われます。

『鳥取県史』通史編では鳥取藩の医療について書かれていました。

私の勉強不足で断片的ですが、私の蔵書の中から、各藩の研究について個々にまとまっていると感じたものを紹介してみたいと思います。

山崎 佐『各藩医学教育の展望』(国土社)

石島 弘『水戸藩医学史』(ぺりかん社)→大著です。

森 納・安藤文雄『因伯杏林碑誌集釈』(河出書房新社)

森納『因伯医史雑話』(自費出版)

深川 晨堂『大村藩の医学』(大村藩之医学出版会)

大村市医師会『大村医史』(大村市医師会)

北条 元一『米沢藩医史私選』(米沢市医師会)
片桐一男 伝播する蘭学 −江戸・長崎から東北へ 勉誠出版
米沢市立上杉博物館 特別展「米沢藩 医家の系譜 〜堀内家文書を中心に〜 米沢市立上杉博物館/2015年

君塚美美子編『紀州藩医・泰淵の日記』(かのう書房)

社団法人茨城県鍼灸マッサージ師会『西村元春先生没後300年式典 記念誌』(同社)

海原 仁 江戸時代の医師就業 吉川弘文館

地方の医学史については、以下のものがあります。

丸山 清康『群馬の医史』(群馬県医師会)

杉立 義一『京の医史跡探訪』(思文閣出版)

京都府医師会編『京都の医学史』(思文閣出版)

京都府医師会編『京都の医学史 資料篇』(思文閣出版)

中野 操『大坂名医伝』(思文閣出版社)

『大坂医師番付集成』


順天堂大学 2013年 順天堂公立175年の軌跡 ーいま、再び仁 古き歴史と日進 順天堂大学
日本医史学会 佐倉順天堂 ー近代医学発祥の地 日本医史学会



盲人史 鍼灸・按摩史 Q&A
第3編 盲人史・鍼灸・按摩 Q&A(第2章-4)



第2章 盲人・鍼医について、その4(Q55―


Q55 私の先祖が東京都の寺に葬られたのですが、戦災などで分からなくなっています。どう調べたらよいですか?

A55
 明治の廃仏毀釈や東京大空襲、長年の歴史の中でお寺が残っていることは奇蹟なのかも知れません。
 私のホームページで載っていたお寺が、たまたまご先祖のお寺と同じ名前で問い合わせられて来られたかと思います。
 私は以下の本で調べています。
 江戸幕府 編 / 朝倉 治彦 解説 御府内寺社備考 全7巻・別冊1 名著出版
本末帳研究会 編 江戸幕府寺院本末帳集成 全3巻 雄山閣
 前者は徳川幕府編纂による江戸の神社・寺院について文政年間にまとめられた「御府内備考続編」です。御府内の寺社、約1000か所について縁起・宝物・境内図などを詳細に記録されています。
 後者は、寺院の本末を知る上では貴重な本です。。

Q56 江戸幕府に関係する鍼医を追求していますが、徳川一橋家の附医・茂木家の詳細が20数年来深まりません。ご存じですか?

A56
 茂木家は文化六年(一八〇九)以降の『武鑑』に見える鍼医です。それによれば、文化六年には、茂木玄隆が徳川民部卿斎敦附の奥医師で、文政六年(一八二三)には茂木幽益と共に徳川兵部卿斎礼附の鍼医師で、代々一族は一ツ橋家の附医師です。
 『続徳川実紀』慶応二年(一八六六)八月二十二日条に新規に取り立てられた記事があり、
  一                  医師
                       茂木 玄隆
                       柏原 與而
                       高松 凌雲
   奥詰医師被 仰付之
と、柏原與而・高松凌雲と共に奥詰医師に任命され、玄隆はこれ以後の『武鑑』には奥詰医師とみえる。
 慶喜は、慶応4年(明治元年、慶喜32才)1月の鳥羽伏見の戦いより帰り、朝廷から追討令が下り、2月12日に江戸城より上野寛永寺に蟄居し、3月には五箇条の御誓文、4月11日に江戸開城し、水戸弘道館に謹慎・転居し、さらに7月に駿府に転居している。
 この流れの中で、『続実紀』明治元年四月五日条に、
  上様(徳川慶喜)水戸表江被為  入候ニ付。御供致。罷越候様可被致事。
    (中略)
  同文言
  一      石川香雲院
        林  洞海     
        戸塚 文海
     石坂 宗哲
     茂木 玄隆
  同文言
  一      杉枝 仙貞
  上様水戸表江被為 入候ニ付。可被致候事。茂木玄隆御供被仰付候。同人病気全快迄為代御供相勤候。
  一     林 洞海
  水戸殿御附属ニ付。上様御供被 成ニ御免候。
  一      坪井 真良
と、上様(徳川慶喜)が江戸開城と共に水戸弘道館への謹慎・退去の御供に命じられた記事であるが、玄隆が病気に突き全快まで林洞海が代わりの御供の記事が続いている。
 
 以下の本も調べましたが、これ以上のことは分かっていません。
 ご存じの肩や恩師ソンの方があればお教え下さい。
 『茨城県立歴史館所蔵 一橋徳川家名品図録』(茨城県立歴史館)は、医師などに関わるものは収録されていない。
 『新稿 一橋徳川家記』(続群書類従完成会)を見てみたが医師の記事が見えずに茂木家の詳細が分からない。
 石島 弘『水戸藩医学史』(ぺりかん社)も、一橋家の鍼医については触れられていない。


Q57 平成24年度の当初に点字出版社の桜雲会から群馬県出身の富岡兵吉【とみおか へいきち】の墓地について問い合わせがあった。さらに、同年5月21日に群馬の地方紙・上毛新聞社の記者の方から「富岡兵吉の偉人伝について記事を書きたいのだが詳細が分かるか」との問い合わせがあった。

A57
 兵吉については、十数年前に恩師・故・長尾栄一先生から「私が医学史の教科書に最初に紹介したんだよ」と言われ、本県出身の視覚障害者の偉人伝であることを知っていた。盲人で日本で初めての病院マッサージ師としか認知していなかった。
 本県の偉人でもあるので、少しずつ資料を集めていた。初めは「富岡」という姓なので、県内の富岡出身の方かと思っていた。問い合わせが続いたので急ぎ用意してあった資料を見返したり、インターネットで調べてみた。その結果を上毛新聞社に送り、何回か電話で問い合わせを受け、同紙・平成24年6月14日(木)の記事となった。
 まずは、その記事を紹介する。
◆◆◆

日本初の病院マッサージ師
視覚障害者 就労に道
富岡兵吉(写真略)

130年を超える歴史を持つ筑波大学附属視覚特別支援学校(東京都文京区、旧東京盲学校)。これまでに数多くのマッサージ師や鍼灸師を輩出してきた同校の授業で、現在も取り上げられる盲目のマッサージ師がいる。
日本初の病院マッサージ師として知られる、旧利根村(現沼田市)出身の富岡兵吉だ。死後90年近くを経過してもなお、手に職を持つ視覚障害者の先駆けとなった偉業は色あせていない。
同校の卒業生を調査した星山洋子教諭(54)は富岡について「視覚障害者が勉強することも難しい時代に、努力を重ねて活躍したすばらしい人」と評価する。当時の文献には富岡の人柄や品格をたたえる記述も残ると紹介。星山教諭は「まだ認知度は低いので、紹介する機会を増やしたい」と話す。
 富岡は1869年、4人兄弟の末っ子として生まれた。幼少時から視力が低下し、園原小学校卒業の際にはマッサージやはりを学ぶことを決意したという。
 沼田で修行を始めた後、さらなる技術を求めて、88年に東京盲学校に入学。卒業後は病院に勤務する日本初のマッサージ師として、東京帝国大附属病院(現東大附属病院)に勤務した。病院では、多くの患者に慕われたと伝えられている。
 その後、母校である東京盲学校に戻り、教員としての活動をスタート。後進の指導にあたったほか、日本に伝えられたマッサージ技術をまとめた著書「日本按摩術」を完成させた。同書は現在も貴重な専門書として活用されている。
 盲人史を研究する県立盲学校(前橋市南町)の香取俊光教諭(54)は富岡について「時代を切り開く力を持った人物」と分析。当時、障害のある人は働く機会を得ることが難しい環境だった上、教育や交通機関も未発達だったと指摘する。そうした中で頭角を現した富岡について「職業人としての自覚、マッサージ師としての高い技術など現在も学べるところは多い」とたたえている。

メモ
1869年生まれ。88年、東京盲学校(現筑波大附属視覚特別支援学校)に入学。卒業後は東京帝国大附属病院(現東大附属病院)などに勤務し、その後、東京盲学校教諭として活動。1926年死去。
◆◆◆

 兵吉については、栗原光沢吉【くりはら つやきち】『大正の東京盲学校』(あずさ書店、223ページ、1986年)や同・桜雲会編『マッサージ医療の開拓者「富岡兵吉先生の思い出と『日本按摩術』」(桜雲會、2008年)がある。また、インターネットでもアップされていた。これらをまとめてみた。

○業績…日本で最初の視覚障害者の病院マッサージ師、盲目の盲学校教師。マッサージの実技所を残した。
 ○生没…1869(明治2)3月3日〜1926(大正15)2月18日午後3時40分、数え58才
 ○出身群馬県沼田市利根町薗原(そのはら)
 ○葬地…浅草今戸(いまど) 広楽寺
 (〒111−0024 台東区今戸2-4-2)
 電話03−3873−5707
 墓地は、第二次世界大戦の戦火で一時所在不明ということであったが、平成24年10月4日に広楽寺様に問い合わせしたところ現存しているとのこと。機会を得て、お参りしたいとかんがえている。

 ○略歴
明治2年(1869年)3月3日、上野国(こうづけのくに)利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)で生まれる。
3〜4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。
12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった。
1880年3月に園原小学校下等科を卒業
翌1881年に沼田市馬喰町(元の川田村)の深代某氏に入門し、按摩・鍼を習う。按摩をした旅人から東京盲唖学校のことを聞き、そこでの就学を決意する。
1888(明治21)年10月 東京の築地にある東京盲唖学校に入学したが、このころまでには完全失明していた。
  東京盲唖学校教師の奥村三策宅に下宿する。
1889(明治22)年3月に東京盲唖学校按摩科を卒業し、さらに鍼治科に学ぶ。
1 1890(明治23)年11月 東京盲唖学校が小石川の雑司ヶ谷町に移転。
1891(明治24)年3月に東京盲唖学校鍼治科を卒業し、4月から東京帝国大学附属病院に日本で初めてのマッサージ師として勤務する。
1895(明治28)年3月に西山なおと結婚して、その後2男2女を得た。
1898(明治31)年、勤務先を築地の山田病院に替える。
1912(大正1)年に東京盲学校(東京盲唖学校を盲部門と聾唖部門に分離した盲教育部門。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の嘱託になり、警視庁鍼灸按摩試験委員、文部省盲教育講習会の講師を務める。
1913(大正2)年に東京盲学校訓導になり、文部省経穴調査委員になる。
1916(大正5)年に東京盲学校教諭になる。
1917(大正6)年に著書『日本按摩術』を刊行する。(大正)
1920(大正9)年、東京盲学校の同窓会理事長になる。
1921(大正10)年に点字著書『点字存稿集』を出版する。
1923(大正12)年 関東大震災で自宅が全焼したが、同窓会会員の罹災救護に励む。
1926(昭和1)年2月18日に肋膜炎のために逝去した。享年57歳。
1938(昭和13)年2月13日には、東京盲学校講堂で、奥村三策先生二十七回忌、富岡兵吉先生三回忌の追悼式が行われ、かつて教師として教え子に影響を与えた2人の事跡が偲ばれた。

【著書】
『日本按摩術』(前掲桜雲会にて再出版)
『点字存稿集』点字出版

Q58 視覚障害者や教育のことを知ろうとすると栗原光沢吉の著書をよく見かけます。どんな人物ですか。

A58 勤務先の大先輩である群馬県立盲学校の盲目の教諭です。
 多くの著書により、群馬県の盲教育の創世記の苦難やその教育の実態などを伝えています。
 私は直接接触がありませんでしたが、先輩の先生から逸話を聞いたことがありましたが、どんな人物だったか知りませんでした。この機会にまとめてみました。
 光沢吉については柳本雄次『群馬の障害教育を創めた人々』(あずさ書店、9〜34ページ、1990年)に詳しく、群馬県内の視覚生涯教育創立の苦難も描かれています。
 墓地については分かりませんでしたので、ご遺族の方に問い合わせて、快くご教示いただきました。ここに記して感謝申し上げます。
 群馬県立盲学校のことについては群馬県盲教育史編集委員会『群馬県盲教育史』(群馬県立盲学校)、群馬県教育委員会編『特殊教育義務制施行記念誌 ー盲・聾学校40周年、養護学校10周年ー』(群馬県教育委員会)もあります。

 ○業績…盲目の盲学校教師。多くの視覚生涯教育に関する著書を残した。多くの著書により、群馬の盲学校創立のくなんや実像を知ることが出来る。
 ○生没…1897(明治30)2月28日〜1996(平成6)3月、数え100才
 ○葬地…前橋市富士見町米野→東京都多磨霊園
 ○略歴
1897(明治30)2月28日  群馬県前橋市(旧南橘村)に生まれる
1900(明治33)年 群馬県北橘村の小学校教師栗原又一とハツ夫妻の養子になる
1911(明治44)年 桃川高等小学校を卒業する。小学校入学前から夜にはよく見えない状態となり、小学生のころには弱視がしだいに進む。そのため旧制中学への進学もできず、職業訓練もできなかった
1913(大正2)年4月 前橋市の訓盲所に通い、普通科目・鍼按科を学習する
1914(大正3)年4月 東京盲学校普通科4年(5年制)、技芸科(鍼按科)2年(4年制)に編入学する
1916(大正5)年3月 東京盲学校普通科を卒業し、専攻科・鍼按科4年生になる
1916(大正5)年4月 東京盲学校師範科に入学する
1919(大正8)年3月 東京盲学校師範科を卒業する。
 同年4月 、私立前橋盲学校の教師になる。ただし俸給は少なく、どの教師も、午前は授業、午後は鍼・按摩・マッサージの治療を行う状態だった
1924年 黒沢てつと結婚
1927(昭和2)年 群馬県立盲唖学校が開校し、私立前橋盲学校の生徒・職員はここに移籍する
1934(昭和9)年 群馬県立盲唖学校内に治療部を設置
1948(昭和23)年) 長い間の懸案であった盲聾分離が実現し、群馬県立盲学校になる。しかし、建物は従来通りで、校長も兼任であった。校長の分離は1953年から、校舎の分離は1955年だった
1957(昭和32)年3月 群馬県立盲学校(教頭)を退職し、住居を東京都杉並区上高井戸3丁目に移す。
 退職後は、日本点字図書館の本の校正をボランティアでしたり、盲教育中心に歴史を証言する文章を書いた。著書は後に詳述した。
1996(平成6)年3月 逝去、享年99歳
 前橋市富士見町米野に墓があったが、子供たちが東京に全員出てしまったので東京都多磨霊園に夫婦共改葬した。

【著書】
『富岡兵吉先生の思い出』(桜雲会、点字出版)
『瀬間福一郎先生の思い出』(桜雲会、点字出版)
『富岡兵吉先生の思い出』(1971年、ガリ版印刷)
『大正の東京盲学校』(あずさ書店、1986年1月、223ページ) ※サピエにデイジーデータあり。
『点字器とのあゆみ』(あずさ書店、1988年8月、B6判157ページ) ※サピエに転じデータあり。
『群馬の盲教育をかえりみて』(あずさ書店、1989年8月、A5判606ページ)
『点字の輝きに生きる』(あずさ書店、1990年7月、B6判197ページ)
『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』(あずさ書店、1993年5月、B6判136ページ)※サピエに転じデータあり。
『むつぼしの歌 ー栗原光沢吉短歌集ー』(あずさ書店、1994年8月、B6判、198ページ) ※サピエに点字データあり。
『点字随筆・老いのつぶやき』(あずさ書店、1995年4月、B6判、107ページ) ※サピエに点字データあり。
『点字器とのあゆみ』『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』(大空社、1998年(「盲人たちの自叙伝 51」第3期20冊の1冊として上掲2冊を合本復刻)
『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』(文芸社、2007年(上掲のものを再録)
桜雲会編「マッサージ医療の開拓者「富岡兵吉先生の思い出と『日本按摩術』」(桜雲會、2008年)

Q59 埼玉県の川越にある喜多院の五百羅漢に按摩をしている羅漢様がいると聞きましたがどんなものですか。

a59  江戸時代から視覚障害者と鍼・あんまは深くつながっていることは、良く知られています。それでもその密接さを端的に表すものはなかなかありません。そんな時に、かつて友人から「川越の喜多院にあんまをしている羅漢様がいるのを知っているか」と聞かれ、写真まで渡されたことがあります。この情報を知って個人的に喜多院を訪れたり、盲学校の研修で生徒を引率したこともあります。羅漢様まで作られるほど民衆に浸透していたんだなあ!と考えられました。
 出入知覚の売店でこのあんまをしている五百羅漢をモデルに土鈴にしたものを見つけて小躍りしながら購入しました。
喜多院には約540の羅漢様が建立されていて、その中に左側を下にして腕枕した羅漢様に後ろ側から足をもんでいる羅漢様2体があります。これを浮き出させて土鈴にしたもので、視覚障害のある人にも触って確認できる者です。土鈴の表面には、向かって右を頭にこちらを向いてもまれている姿です。盲人史の講演や地域の視覚障害者の啓蒙活動では必ず持参しています。私は明るい黒と黄土色の2種類の土鈴を購入しました。 
 実際に喜多院を訪れて五百羅漢を拝観してみると、入り口知覚の右側にあり、更に後ろに離れてもう1体の羅漢様が眺めています。あたかももんでいる羅漢様にあんまの手ほどきや稽古をつけているかにも見えます。
羅漢様は喜怒哀楽の色々な表情や庶民的な姿ですが、正式には阿羅漢といい、「悟りを開いた人」「涅槃に達した人」を示し、仏教の究極の心理に達し得た偉い方々のことだそうです。
 喜多院の五百羅漢の建立年代は、天明2年(1782)より志誠(しじょう)が中心となって約50年間をかけて完成したといわれています。明治初期には廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壊され、その後にばらばらのものを復元したので、一部ちぐはぐなものもあります。
 建立当時は、百姓一揆や打ち壊しが各地で多発し、天明の大飢饉、大洪水、浅間山の大噴火という世の中の騒然とした時代の中で、親の供養や民衆の安泰を祈願してつくられていったと思われます。
 また、昔は亡くなった人に再会したい人は、夜にこっそりと羅漢様をなでて翌朝再び詣でると、その人に出会えたという伝承があるそうです。現在は、土鈴をなでてあんまの技術の上達を願ったり、くよくよしないで元気に生きることが託されているのでしょうか。明るく安全な社会でありますように祈るばかりです。

Q60 明示事態の鍼灸の免許鑑札とはどんなものだったのでしょうか?

A60
 私は木製の札のようなものと思っていましたが、今の免許状と同じ紙製の免許状であることが分かりました。
 少し解説を加えてみたいと思います。
江戸時代に特権を許された当道座は、1871年(明治4年)11月3日、太政官の布告により廃止され、多くの盲人が貧窮していました。その中、翌年の1872年(明治5年)8月に学制が発布され、続いて1874年(明治7年)8月18日に医制が発布されました。
 医制発布の中で、はり・きゅう業は医師の監督下に行うという趣旨はあったものの、実際には行われませんでした(按摩・柔道整復は規定なし)。
 1885年(明治18年)3月23日、内務省は「入歯抜口中療治接骨営業者取締方」(内達甲7)を、二日後の25日には「鍼術灸術営業差許方」(内達甲10)を、それぞれ通達しました。それにより、はり・きゅうの免許鑑札、営業許可、取り締まりを各府県で行うことになりました。なお、あん摩業は規定がなく、各府県の対応はまちまちでした。
 1911年(明治44年)8月14日に「按摩術営業取締規則」(内令10)、「鍼術灸術営業取締規則」(内令11)が施行されました。これにより、あはきの全国的、統一的な体制が作られ、地方長官の行う試験へ合格する、または長官の指定する学校・講習所を卒業した後に、免許鑑札を受けることが定められました。なお、長官が行う試験には甲種、乙種の2種類が設けられました
 この監察はどんなものであったか見ますと、鹿児島盲・旭川盲学校の創立者 南雲總次郎(1877〜1960年)の監察が残されていますので、紹介してみたいと思います。

      山形県南置賜群南原村南石垣町
            南雲 總次郎
 右ハ杉山流鍼学修業以来無油断勉励致鍼術卒業候条茲免状譲与
 【右は杉山流鍼学修業以来、油断なく勉励致し鍼術卒業そうろう条、ここに免状を譲与す。】
 明治二十八年九月
     山形県米沢市座頭町
            星 香橘カッコ(○印) 

 このように今の免許状と同じ者でありました。また、その文言の中に杉山流の伝承が明記され、鍼灸・按摩は日本国中に広まっていたということも確認できました。

Q61 杉山鍼按学校があると聞いたことがあるのですが、どんな学校でしたか。

A61
 私も10数年前からその存在は知っていましたが、なかなかその実態に迫れませんでした。
 杉山鍼按学校についてまとめて書かれていた物は見つけられませんでした。

 私が杉山鍼按学校の名前を知ったのは「理療教育制度の変遷」(藤井亮輔編『理教連五十年史 〜理療教育50年の歩みと展望〜』、62〜66頁、日本理療科教員連盟、2002年)の執筆依頼があり、資料を探している時でした。
 盲学校の恩賜・木村愛子先制から資料として筑波大学理療科教員養成施設創立90年誌事業実行委員会『筑波大学理療科教員養成施設創立90年誌』(同施設、1993年)をいたたいて、その中に盲学校の創立一覧があり、杉山鍼按学校の名前を見ました。
 当時は江戸幕府と盲人鍼医やその代表的な杉山和一のことを調べていたので、「杉山」の名称が気になっていました。
 先輩の先生方に聞いても、「出身者がいたなあ?」というくらいで、なかなかその実態に迫れませんでした。現在では杉山鍼按学校の卒業生は存命の方は少ないと思います。

 また、その跡地に、第二次経穴委員会作業部員として7年通った日本鍼灸会館が建てられたとも聞いていました。
 同会館は大塚駅から歩いていける場所にあるので文京区にあると思い込み『文京区史 全5巻』(文京区役所、1968年)を何回もひっくり返しても見つかりません。
 あきらめていたところ、最近近代の盲学校の創立についての問い合わせがあり、あれやこれやいんたーねっとで検索していると『豊島区史 通史編第2巻』の目次がアップされていて、杉山鍼按学校の名前を見た時に思わず手を叩いてしまいました。

 その後豊島区郷土資料館や文京区ふるさと歴史館の学芸員の方にお骨折りをいたたき、杉山鍼按学校について調べてもらいました。
 やはり、文京区の法には関連資料は見あたらないとのお返事をいただきました。
 豊島区郷土資料館の学芸員の方からは、豊島区のいくつかの本に掲載があるとのことで、紹介していたたいた本を購入しました。

 分かってみれば、いくら文京区を探しても見つかる訳がありません。

 大塚は文京区にもありますが、豊島区にも南北の大塚があり、みんな混乱しているそうです。
 また、大塚駅は豊島区であるし、ましてや日本鍼灸会館も 東京都豊島区南大塚3-44-14 です。
 落ち着いて考えれば豊島区を探せばもっと早く分かったのかもしれません。

 蔵書の中から、伊藤 栄洪、仲田 喜三郎、堀切 康司『豊島区史跡散歩(東京史跡ガイド〈16〉』(名著出版、1977年)を開いてみましたが出てきませんでした。

 以下、『豊島区史 通史編第2巻』を中心に、これまで分かったことを紹介してみます。

     杉山鍼按学校の認可
 杉山鍼按学校の設置について、千葉勝太郎が東京府知事に認可申請したのは、大正4(1915)10月4日のことであり、認可されたのは、同年12月22日です。
 千葉勝太郎は、文久2(1861)3月7日の生まれで、士族の出である。目が不自由なので鍼按を業としていた。
 【インターネットで検索してみると、
 ○千葉勝太郎は周作成政(1793〜1856年)の孫で、父は道三郎光胤で、勝太郎は勝胤といい、祖父母・父道3郎と供に東京都豊島区巣鴨の本妙寺に葬られている。
 ○千葉周作は浅草誓願寺内仁寿院に葬られたが、その後勝太郎により本妙寺に改葬された。
 本妙寺にお尋ねしてみると、やはり本当のことで、更に没年を確認していただいた。子孫の方にも承諾をいただいて、大正13年(1914)1月3日に亡くなられ享年は不明とのお返事をいただいた。
 生年が1861年で没年が1924年なので、享年は63才となるであろうか。
 本妙寺は徳栄山総持院といい、豊島区巣鴨5−35−6(山手線巣鴨駅下車・国道17号線を北に徒歩10分程度)にあります。
 江戸幕府の老中の久世大和守歴代の墓、時代劇で有名な遠山左衛門尉景元の墓、囲碁をされている方ならご存じの本因坊歴代の墓などがあることで有名です。

 勝太郎の死亡には関東大震災が関わっていました。
 大正12年(1923)9月1日11時58分の関東大震災は杉山鍼按学校の校舎には被害を与えませんでしたが、別の形で危機を迎えました。大浦『臨床指南』(P247)に、関東大震災により勝太郎は「壊滅した日本橋の呉服屋の保証人だったことから、莫大な借金の返済を迫られ、学校を小川健三郎に託し、お玉が池の邸宅を売却し、自らは割腹自決する。」とあります。
 勝太郎の割腹自決した大正13年は和1が没後230年に当たり正5位が追贈されています。関東大震災により江島杉山神社に被害を与え、その復興と和一の報恩の結果だったようです。勝太郎の思いはいくばかりだったでしょうか。
  勝太郎の身の上に起きた不幸を涙すると供に和一への報恩の気持ちと杉山鍼按学校への愛情も感じました。しかし、その必死の継続の気持ちで小河に托した杉山鍼按学校は、昭和20年の東京大空襲で灰燼として消え去り、二度と最高されなかったのは歴史の皮肉でしょうか。

 芦野純夫氏は、杉山流鍼治稽古所に学んだから「杉山鍼按学校」としたのではないかと質問されてきた。しかし、前記のように1861年に生まれ、11才で失明したとしたら時は既に命じ5年(1872)で当道座が廃止された後ですので、可能性はなかったかと思います。

  勝太郎は、明治21年(1888)に、府より鍼按営業の免許を、同45年(1912)には、警視庁より按摩術の営業免許を受けている。当時、勝太郎は、盲人鍼按協会の代表であり、神田区小川町1番地に居住していた。そして、目の不自由な人の中では、相当な人材として認められていたのである。
 【この免許は先にあげた南雲總次郎の観察と同様であろうか。】

【明治35年(1902)吉田弘道など40名と供に杉山報恩講(昭和5年に杉山検校遺徳顕彰会となり現在に至る)にも加わり、杉山和一の鍼術復興にも貢献していた。】

 【いんたーねっとを検索すると、以下のこともありましたが、確証となる史料には行き当たりませんでした。参考に記して、今後の課題とします。

 ○勝太郎は宮内省侍医・岡本元資に弟子入りして鍼術を学び、神田小川町一番地に 鍼医院を開いた。
 ○勝太郎は明治11(1878)当時の東松下町二十八番地、明治14(1881)当時では東松下町五十四番地(中央区神田東松下町)に三百坪あまりの土地を有していた。ここが玄武館道場と思われる。現在は旧千桜小学校跡地に碑が建てられている。】

     杉山鍼按学校の開校と内容
 杉山鍼按学校の名称は、盲人鍼按術の開祖といわれている杉山検校からとった。
 【どうして杉山の名前が入っているのか疑問であったが、杉山報恩講の発足など杉山和一の事業に関わっていたからと分かった。】

 この学校は、報徳会会長渋沢栄1より、巣鴨村大字巣鴨字宮仲2025番地の木造瓦葺の59坪余の家屋1棟を借り受けて開校した。
 【渋沢栄1は、塙保己一の群書類従の版木を補完している温故学会の創立にも関わっている。】

 貸借期間は2年、地代の半額は借主負担、灯火は電灯使用とした。

 規則書によると、鍼按学校は、およそ、次のようになっていた。
 学校の目的は「盲人ニ対シ鍼術・灸術・マッサージ並ニ按摩手技ヲ綬ケ、当該手技諸流ノ奥儀ヲ研究教授スル最高専門所トス」(『豊島区史 資料編4』260n)とある。
 修業年限は簡易科2年、本科3年、研究科2年。
 学科課程は、例を本科にとると、1年は、物理化学1般・解剖・鍼治マッサージの実地・日本按摩の練習・修身・算術・作文・読本・日本地理・理科・体操・唱歌、
 2年には、物理化学1般・解剖・日本按摩の練習、日本地理に代って、生理・電気マッサージ・経穴・病理総論・外国地理・日本歴史が加わり、
 3年になると、病理学・鍼灸学・マッサージ学・鍼治マッサージの実地応用・衛生学の大意・修身・読本・算術・外国歴史・地文学・体操・唱歌となっている。

 授業は午後1時より4時まで、試験は学期毎に実施し、学年の終わりに卒業試験を行う。【3学期制、1学期は4〜8月、2学期は9〜12月、3学期は1〜3月】
 【明治・大正の群馬では9時から13時までの授業で、午後は教員が自らの生活費を稼ぐために治療院を開業していた。杉山鍼按学校では午前中が授業がないことに疑問がわいた。
 それとも夜に鍼や按摩の仕事をして朝が遅いからだったのだろうか?】

 休業日ハ日曜日・祝祭日・杉山祭・その他。夏期・冬期ノ休業ハ1般学校と同じ。
 入学については、簡易科程度の資格がある者や乙種免許鑑札を持つ者は無試験入学、その他は入学試験があった。研究科は、本科卒業程度に相当する資格を持つ者は無試験で、他は試験があったのである。
 授業料・入学金は無料、収容人員男子20名の寄宿舎を設置し、寄宿料も無料とした。その費用は東京市養育院の費用をもって、それにあてた。生徒は主として、東京市養育院在院者とし、その他は目の不自由な人に限った。
 年齢は10歳以上50歳以下の男女とし、簡易科50人、本科100人、研究科50人の計200人を募集することにしました。
 職員は校長、教員2名、幹事兼寄宿舎監、事務員の計5名とあります。
 収入は援護会よりの助成金月に70円、盲人鍼按協会の助成金月30円の計100円を経費とし、そのほかは寄付金に頼ったのである。
 【視覚障害者に対して、この当時から授業料が無料で、かつ男子のみとはいえ寄宿舎も完備していたことに驚嘆した。】

   その後の杉山鍼按学校
 大正6年(1917)2月、府より助成金の交付を受けた。
 大正8年3月の状況報告書によると、当時の教員数は7名、うち、技術教師は普通教師との兼任を含めて5名であった。
 学級数は4、生徒数45名である。
 同8年当時の統計によると、大正4年度(1915)は、入学15名、5年度は入学11名、6年度には12名入学し、5名卒業、7年度は入学16名、卒業7名で、男女の比率は、圧倒的に男性が優位で、4年間の入学者44名中、女子は10名であった。
 経営についていえば、養育院の在院児童を依託され、毎年、市より補助金を受けており(大正7年度は367円)、他に寄付金を待て、月謝は無料であった。
 大正6年度の収支は618円、同8年の収入は1200円となっている。

 大正9年7月2日には、警視庁より無試験按摩術営業の指定学校として認可された。
 同年10月3日、大字巣鴨字宮仲2083に教舎を改築して移転した。
 翌年2月2日に内務省より奨励金が交付され、さらに次の年の2月2日にも、宮内省より下賜金、文部省より補助金を受けた。

 【下賜金の事例は上記だけではなく、何回かあったようで、神戸大学図書館の「新聞記事文庫」に下賜金の記事が幾つか確認できます。
 報知新聞1934年2月10日(昭和9)に名前が見えるが、金額は不明である。では、そこの部分だけ抜き出してみます。

社会事業団体に奨励金を御下賜
七百八十七団体に及ぶ

けふ紀元の佳節に当り、畏き辺りでは御恒例により社会事業御奨励の有難き思召により内地並びに植民地の社会事業団体に対し奨励金を御下賜遊ばされる旨御沙汰あり十一日の佳き日各省からそれぞれ伝達するはずであるが、光栄に浴した団体は内務省所管三百八十、司法省所管二百十、逓信省所管三、文部省所管五十九、拓務省所管百三十五の七百八十七団体であって昨年より約百団体も多く、関係の各省では大御心のほどに感激している
文部省所管【30】
東京▲盲人技術学校(現在・東京都立文京盲学校)▲東京同愛盲学校(現在・東京ヘレンケラー学院)▲杉山鍼按学校(終戦時に廃校)▲仏眼協会盲学校(終戦時に廃校)▲八王子盲学校】
 また、大正13(1924)7月24日には、盲学校令及び盲学校規程によって、文部大臣の認可を受けている。

 【この後の記事はなく、昭和20年(1925)に東京大空襲で焼け、廃校となったことが言い伝えられていました。
 一般に東京大空襲というと昭和20年の3月10日が有名で、都内各地で追悼行事があります。
しかし、豊島区域は昭和19寝んん12月12日をはじめ10回を数え、その中でも4月13日の空襲は東京西北部を330機が襲う城北大空襲と呼ばれ一番激しかったそうです。杉山鍼按学校など一面が焼け野原となり、この日に豊島区空襲哀悼の日の行事が催されています。
 これにより、杉山鍼按学校は再建されることもなく廃校となり、我々の知らない歴史の彼方に消えるところでした。
 このため、豊島区には勝太郎の戸籍謄本などは残っていないようで、インターネットには千代田区に勝太郎の除籍謄本が残っているとの記事もありました。
 『激動の80年 ー視覚障害者の歩いた道程ー』(毎日新聞社点字毎日、2002年)は、点字のみですが、筆者が杉山鍼按学校について翻刻・抜き出してみました。

 大正12(1923)年5月 1巻32頁
   盲女子寄宿舎
東京都小石川区同心町に我が国唯一の盲女子寄宿舎がある。みふ協会婦人ミッションの経営で盲学校にはいるために上京した女子ばかりを収容するもので、現在6人がおり、同愛盲や杉山鍼按学校へ通学。また、学資のない者には給付しており、二人がその恩恵に浴している。最近、東京府からも10円、市から100円が助成。また、
余暇に米国聖書会社の依頼を受けて点字聖書の印刷と製本を行い、好成績。

 杉山鍼按学校は、男子の寄宿舎のみのため・こんな裏事情があったことが分かりました。

昭和4(1929)年5月 1巻177頁
   関東北部盲学制陸上競技大会
 在 東京5盲学校主催の第1回関東北部盲学制陸上競技大会は、19日学習院競技場で開催。
東盲・築地・ 〃愛・仏眼・杉山・中郡・横浜訓盲・横浜盲人・新潟・石川・岩手・磐城・庄内・茨城・宇都宮・足利・埼玉の17校が参加。
東盲が総合優勝。

 この当時は、東京に盲学校が5校(東京盲学校・築地盲人技術・〃愛・仏眼協会盲学校・杉山)あり、その他の東日本の盲学校陸上競技大会が開催された。
 仏眼協会盲学校については、後日に改めて報告しようと思います。
 群馬の高崎・前橋が参加していないのが残念である。

 昭和19(1944)年7月 2巻131頁
   高崎盲への転学社急増
盲学校の疎開で、群馬県高崎盲への転学社が激増。既に築地網から21人、仏盲から8人。、同愛・杉山盲数名づつ転学疎開。
同校では収容しきれないため、隣接のお寺の本堂を臨時寄宿舎に解放してその受け入れに奔走。

 高崎盲学校は、大正13(1924)年に私立高崎市羅漢町の法輪寺内に創設されました。このような疎開者が集まり、しばらくは続いていましたが、生徒減・経営困難で昭和32(1957)年に群馬県立盲学校に統合されてしまいました。
 高崎盲学校の跡地は法輪寺保育園となって現存しています。


昭和20(1945)年8月 3巻150頁
   戦災盲学校
 点毎の調査によると、戦災を受けた盲学校は、八王子、青森、平、杉山、仏眼、横訓、浜松、豊橋、愛知、名古屋、岐阜、富山、和歌山、大阪市、神戸、広島、下関、徳島、香川、大分、差が同愛など40校以上と判明。

 『豊島区地域地図集(複製)第2集 近代後期(事情明細図)』(豊島区、1988年)で、昭和元年(1925)の巣鴨村の地図を見ると、杉山鍼按学校が掲載されています。
 大塚駅の南口から、都電の早稲田方面に向かう線路の北側の沿線上にあります。駅前のロータリーから3軒目に見えますので、視覚障害者でも通学出来そうな環境の良い場所です。
 2013年7月に、歩いてみました。現在は豊島区南大塚3丁目34番地14ゴーのマンション当たりかと思われました。
 大浦慈観『杉山真伝流臨床指南』(六然社、244頁、2009年)では、「天祖神社横町に解説」と書かれていました。
 先の昭和元年の地図にも杉山鍼按学校のある線路の向こう側に天祖神社が見えます。

 天祖神社(大塚天祖神社、豊島区南大塚3-49-1)は、旧巣鴨村の総鎮守で大塚駅より徒歩2分にあります。

 近くには北豊島郡第三巣鴨小学校(大正9年4月1日創立、西巣鴨町大字巣鴨字宮仲2120番地、現在は大塚台小学校→2003年より朋友小学校に統廃合して校舎が利用)があり、少し行くと巣鴨刑務所(現在はサンしゃいんシティ)があります。】

     盲人鍼按協会
 盲人鍼按協会は、その沿革によると、明治35年(1902)5月7日に成立し、日本橋区長谷川町に本部が置かれた。各県に分会、東京市内各区に支部があった。初代会長は斎田重蔵、会員1250名を数えた。明治37(1904)、斎田会長が辞任し、千葉勝太郎が2代目会長となった。
 鍼按協会の事業として、全国盲人大会を既に4回開催しており、参会者は5000乃至1万人に及んだという。
【明治38年(1905)に吉田弘道自宅に鍼按講習所を開講し、初代所長に吉見英受(1833〜1907年)が当たった。

 1939年(昭和14)『全国鍼灸医家名鑑』(帝国鍼灸医報社)には、
 日本橋区
吉田弘道:堀留町2の8の6 盲人技術学校教頭 浪花(67)0733 74歳
とあります。 1891年(明治24)の「惣検校杉山和一肖像記」に吉見英受の住所が「日本橋区南茅場町四番地」とあります。】

 【文部省普通學務局『経穴經穴調査委員報告書』「文部省普通學務局、1918年」の中に以下のような部分があります。
下名等ハ大正二年十一月中經穴調査委員囑託ノ命ヲ受ケ候ニ付爾來愼重調査中ニ有之候處今般調査結了致候ニ付別冊ノ通報告候也

 大正七年四月
          吉田 弘道
          富岡 兵吉
医学博士 文学博士 富士川 游
          町田 則文
医学博士 理学博士 大澤岳太郎
医学博士      三宅  秀

   文部大臣  岡田 良平殿

 本県出身の富岡兵吉も名が見えるのは興味深い。】

 また、明治37年には、京橋区8丁堀長島町に、盲人鍼按講習所を開設し、盲人子弟を入学させて、鍼接の学術・技芸の普及を計った。
 明治40年(1907)9月、講習所は築地本願寺に移管し、盲人技術学校と名を改めた。

 【発起には、京都本願寺の法主光尊上人、板垣退助伯爵、奥野市次郎などが深く関与しました。】
 【この盲人技術学校は東京都立文京盲学校の前身であり、同校の『創立百周年記念し』・ホームページ世にれば盲人技術学校の創立した明治41年9月21日が創立記念日となっている。】

 協会は各方面に巡回教師を派遣して、会員の技術向上を計り、実地研究会を開いたりした。そのほか、書籍出版部を設け、盲人教育に力を入れていた(『豊島区史 資料編4』263n)。
 【主な事業
(1)盲人技術学校
(2)施療部
(3)聖恩点字図書館
(4)常設三術研究会
(5)点字図書出版】

 今まで歴史の遠くにいた千葉勝太郎の活躍を少しでも顕彰できたであろうか?本稿を通じてまた多くの盲人達の資料に巡り会えることを祈りたい。


Q62 近代の盲学校の創立を調べたいのですが何か良い本はありますか?

A62
 私も最近まで、各盲学校の創立記念誌を集めたり、いんたーねっとであくせくと検索し、無駄なことをしてきた感じがします。
 
 世界盲人百科事典編集委員会 世界盲人百科事典(再販) 日本図書センター
 意外と「こんなことまで」といった内容の本です。

 また、本校の創立70周年記念誌の中に『盲聾教育80年史』(文部省、1958年)により草創期の盲学校の一覧が書かれていることに気づきました。
 明治 設置校数
21 1
22 1
23 0
24 3
25 0
26 1
27 3
28 1
29
30
31 3
33 4
34 1
35 1
36 4
37
38 7
39 7
40 6
41 11
42 3
43 7
44 4
45 1
T2 4
3 4
4 5
5 2
6 1
7 1
8 3
9 3
10 3
11 6

 

 そこで、友人に頼みいんたーねっとで古本を探してもらい入手しました。
 『盲聾教育80年史』については、点訳データがありますので、問い合わせてください。データの提供をいたします。

 近代の視覚障害教育について、参考文献を羅列します。
 文部省初等中等教育局特殊教育主任官室編 盲聾教育80年史 文部省/1958年
 鈴木力二 編著 図説盲教育史事典 日本図書センター 
 加藤 康昭 盲教育研究序説 東方書房/1972
 加藤 康昭・中野 善達 わが国特殊教育の成立 改定新版 東方書房/1967年
 中村満紀男, 前川久男編著 理解と支援の特別支援教育2訂版 コレール社、2009年
 メアリー・ウォーノック ブラーム・ノーウィッチ 著、ロレラ・テルジ 編、宮内久絵 青柳まゆみ 鳥山由子 監訳 イギリス特別なニーズ教育の新たな視点 ー2005年ウォーノック論文とその後の反響ー ジアース教育新社、2012年
 中村 満紀男; 岡 典子 日本の初期盲唖学校の類型化に関する基礎的検討--明治初期から1923(大正12)年盲学校及聾唖学校令まで 東日本国際大学福祉環境学部研究紀要/7(1)/pp.1-33, 2011-03
 中村満紀男・岡 典子; +岡 典子 新しい日本障害児教育史像の再構築のための研究序説 障害科学研究, 2011-03
 中村満紀男・岡 典子 新潟県内盲唖学校5校の経営困難問題と社会的基盤との関連―大正12年勅令までの高田校と長岡校を中心に― 障害科学研究, 2012-03
 岡 典子・中村満紀男・吉井 涼 日本の初期盲学校の創設理念とその達成状況に関する検討―高田・福島・東海3校の比較― 障害科学研究, 2012-03
 岡 典子 大正12年盲学校及聾唖学校令の教育の質の改善に対する効果 障害科学研究/pp.129-143, 2013-03

また、各地方の盲学校の創立記念誌、都道府県の県史、市町村の市史などを丹念に調べていくと史料が残されていることがあります。

 ※視覚障害者の方は、中村・岡先生のデータについては問い合わせてください。


Q63 東海道五十三次に盲人の姿が描かれているということを聞きました。どんなものですか。

A63
歌川広重(1797年〜1858年、享年62才)の描いた『東海道五十三次』の中に3つの浮世絵版画があります。
 一つ目は、7番目の宿場の藤沢(遊行寺・ゆぎょうじ)の中に盲人・座頭の姿が見えます。
 広重の死因はコレラだったと伝えられ、墓所は足立区伊興町の東岳寺です。
 藤沢は、戸塚から7.3粁の宿場です。
  この絵の画題は「遊行寺」で正面丘の上に描かれているのが遊行寺で、街道は、この寺の前を通って鳥居のところにきます。
 鳥居は、左下に描かれ、その上を左右(藤沢宿に沿って)に境川が流れ、鳥居の前に橋がかかっています。鳥居が江の島弁天への道の入口を示していて、江の島参詣の道との岐れ道となっています。
   寺の門前町の家並から橋を渡って往還はかなり賑わっています。大山参詣などの東海道の旅人、江の島参詣の人々などが面白く描かれています。
 美術的な評価は、霞を隔てて遊行寺の森、堂字が近景を圧する描き方が殊更に名刹遊行寺を印象づけている点だそうです。

 この中に、坊主頭の4人の盲人の旅姿が描かれています。左下の方に、橋を渡り終えようとする四人の盲人が、それぞれ直状の杖をついています。江ノ島に参詣した後のところかと考えられます。
 藤沢に盲人が描かれたのは、江ノ島弁天と盲人の関係が深く、江ノ島参詣の盲人が多かったことを示していると思われます。
 皆様の多くが知っている杉山和一と江ノ島での逸話があります。和一は江ノ島で管鍼法の着想を得ました。
 それ以来、和一は江ノ島に月参りをして感謝を示したと言われます。そのために、藤沢から江ノ島にかけての江ノ島道に杉山和一が建立したという道標が48基もあり(現存は12基)、盲人が触って分かるように平均よりは深く彫ってあるといいます。

 この版画を外国人も注目していて、ジナ・ヴェイガン著、加納由起子訳 『盲人の歴史 - 中世から現代まで -』(藤原書店、2013年)の巻頭の「日本の読者へ」」に「盲人たちは木の橋をわたったところである。多分、遠くに見える遊行寺にお参りした帰りなのだろう。全員が木の棒を手に持ち、お互いの後ろについて、大きな鳥居に向かって歩いている。音楽の女神を祀った神社の鳥居である。彼らは通常の巡礼なのか、それとも盲人楽師なのだろうか。日本には長い間、当道座という盲人音楽家のギルドが存在したと聞くが、彼らもそうした人たちなのだろうか。」とあります。
 大きな勘違いは盲人達は遊行寺に参詣ではなく江ノ島参詣であることが外国人には理解されていないことが気になりました。盲人と音楽・杉山和一との関係が理解されていなかったのでしょう。
 ただ、この本については、購入者で視覚障害者などにデータの提供をしていただけるとのことで、私はありがたく拝受しました。このような理解ある書店が増えますようにここに感謝と理解の深まる祈りを共に記したいと思います。

 また、2つ目・3つ目は、瞽女(ごぜ)の姿が描かれたものです。旅芸人の瞽女の姿が象徴的です。
 16番目の宿場・蒲原(かんばら) (夜の雪」
 吉原から富士川を船渡しで越し、小池村をすぎて十一.三粁、蒲原塾に入ります。
  蒲原は雪が降りませんが、画題として鑑賞することが重要なようです。
 森々と降る雪の中に、人家も遠山に埋れていて、眠っている。
 深く積もった雪の道を三人の瞽女がふんでいく。

 34番目の宿場・二川 「猿ヶ馬場」
 白須賀から4里で二川宿。このあたりは、赤松林はあるが平坦で画ざいにも乏しいことろである。
 街道の右手には巌殿観音があり、去来の句、「岩鼻やここにもひとり月の客」がある。
 名物の「かしは餅」の看板のある茶屋が、左手に描かれていて、画面中央に夕暮で、なにもかも薄暗い夕闇の中を、旅する三人の瞽女(ごぜ)が歩いています。

 ※瞽女の浮世絵については、筑波大学の柿澤 敏文教授からご教示いただきました。感謝してここに記します。
 ※浮世絵の開設は、有限会社 アート静美洞のホームページを参考にさせて頂きました。

 瞽女については、加藤康昭『日本盲人社会史研究』 

第1部 近世社会と盲人の生活
   第1編 近世社会の構造と盲人の存在携帯
   第3章 近世社会における盲人仲間の存在携帯
   第3節 均整の瞽女仲間」244頁〜()を参照されたい。


Q64 江戸時代の武士達が屋敷を与えられるとどこにあったのか知りたいのですが、どうすれば良いでしょうか。

A64
 私は朝倉治彦 監修の次の書物を利用しています(全て原書房)。
 『江戸城下武家屋敷名鑑 上巻 人名篇』
 『江戸城下武家屋敷名鑑 下巻 地域・年代篇』
 『江戸城下変遷絵図集 御府内沿革図書』1〜20()

 また、『東京市史稿 市街編』・『同 事項別目次索引』を使い調べています。
 また、最近になりこの中で使われている屋敷の伝来の史料『屋敷渡預絵図証文【やしきわたし・あずかり・えずしょうもん】』は国立黒海図書館で原本が簡単に見ることができるようになりました。インターネットから国立国会図書館に入り、デジタル化史料、更に検索していきますと、画像データが見たり、ダウンロードできます。1コマ1コマクリックしていくのは大変ですが、国会図書館で検索したりコピーの依頼をするよりは数倍の効率の良い作業ができます。
 年月別に並び、絵図・文章と続きます。
 絵図は屋敷内の見取り図というより、他の屋敷との境界や間口を明確にするために残されたものです。一枚の絵図を真ん中で折って冊子に綴じられています。
 文章は草書体で書かれているので一般には分かりずライト思います。

Q65 本川(もとかわ)自哲の子孫ですが、我が家の祖先のことはどのくらいのことが分かっているのですか。また、どんな本に詳しく載っていますか?


A65
 平静25年11月8日、午後5時に近い時間に、本川(もとかわ)自哲の子孫の方から電話がありました。
 福岡県の歯科医師をされており、分家の方で、先祖のことを知りたいとのことでした。

 本川自哲は、杉山和一の弟子で肥前国大村藩大村氏の藩医として鍼をもって仕えました。
 私が昭和63年度の筑波大理療科教員陽性施設の卒業論文「江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究」「後に長尾榮一教授退官記念論文集『鍼灸按摩史論考』、1〜146頁、桜雲会、1994年」で、和一の弟子達をまとめた時には分かりませんでした。
 本校に奉職して本校蔵書に小川春興「杉山検校の史的研究 (全)」(『本朝鍼灸医人伝』、40頁、半田屋、1933年)がありびっくりしました。更に頁をめくっていくと、本川自哲(同上五三頁)など、これまで私が知らなかった和一の弟子達がいたことにも驚きました。

今までの研究では杉山の弟子に注目したものは少なく、先の小川前掲書で32)の中で三島・島浦・島崎・杉枝・石坂・栗本・板花・本川自哲の8名を、加藤氏康昭『日本盲人社会史研究』(未来社)では杉岡・三島・杉枝・島浦・杉島・板花・徳山ゑ一・松山てる一・美津都座頭・春都座頭の10名を指摘しています。
 これらの発見を拙稿「江戸幕府における鍼科医員と盲人鍼医(1)・(2)」(『理療の科学』第16巻第1号・第17巻第1号、1992年、1993年)、「杉山和一 その文献と伝説」(『理療の科学』十八−一、一九九四年)、「杉山和一の弟子達 ー江戸幕府鍼医三島安一・杉岡つげ一・栗本俊行・杉枝真一について」(北原進『江戸時代の地域支配と文化』、大河書房、2003年11月)で照会してきました。

 更に、本川について詳細が分からないのかと、1994年から1995年に長崎県大村市の教育委員会や医師会に電話でお尋ねしました。
 おおむらの史跡(観光パンフレット)」をいただいたり、大村市医師会『大村医史』(大村市医師会)を購入したり、古本屋に深川晨堂『大村藩の医学』(大村藩之医学出版会)が売っていることを知り購入したりしました。
 調べた結果は、その子孫は内科胃に転科して幕末まで仕えていたことが分かったのみで、いつ自哲が登用されたのか等々分からないままに今日に至ってしまいました。

 本川さんの子孫の方のお話しでは、本家が長崎の松浦にて内科医を続けられ、分家の分家の方が福岡で歯科医をされているとのことです。
 自分の祖先のことを調べようとして、本校のホームページをご覧になった訳です。
 「本川」を「ほんかわ」と読むのか「もとかわ」とすべきなのか分かりませんでしたが、「元川」が正しいことがご子孫の方からのお話しで確定できました。
 出自は小田原からとのお話もありました。
 本川家には、系図以外にはあまり史料が残されていないので、調べられているようです。

 私も先述以外のことは深められていないのが残念です。しかし、役20年ぶりに自哲について整理できました。


Q66 点字が制定される前には、盲人は文字を持たなかったのですか? あったとすれば、どんな文字をどのように工夫していましたか?

A66
 フランスのルイ・ブライユ(1809〜1852年)が現行の6点点字を開発したのは1825年であった。


 今回は盲人用文字について
 *****
 日本の江戸時代の盲人用文字の工夫については、加藤康昭『日本盲人社会史研究』に詳しい。
 いずれも、普通文字の習得を目指した物で、点字の発想はなかった。

「第2部 近世社会と盲人の教育
 第3章 近世の盲人と学問への志向
 第3節 近世における盲人用文字の探求/588頁」
に紹介されています。

結び・結び文字…こより文字とも言われ、こよりで文字の形を作り紙に貼り付けた。
 文字を切り抜き紙に貼り付ける。
凸字文字…
●木活字(もくかつじ)…葛原勾当みの一(1812〜1882)が発明。広島県生まれ

 特に葛原勾当みの一の木活字について抜き出してみます。

ーーーーー
最後に盲人の教育方法のうえで最も重要で、かつ困難な盲人用文字の探求について考察してみたい。寺子屋で初歩の教育を受けるにしても、さら隻同度の学問を学ぶにしても、文字の読み書きは必須の基礎的能力として要求されたから、盲人の場合でも文字をいかに教えるかに関心と苦心が払われたのは当然である。これまでにわれゎれがみてきたいくつかの個人的教育例においては、聴覚による学習を主としながらも、触覚をとおして普通の文字を認知させ、学習させようとする試みがなされているが、こうした盲人用文字の工夫はかなり古くから存在していたように思われる。

(中略) 

 葛原勾当(一八一二〜一八八二)は、 (中略)
音曲のほかに精巧な折紙細工やこより細工をよくし、また自分の義歯や瓢箪の口木(栓)なども自分で小刀で刻んでつくり、またその住家の設計もみずから黍殻で完全な模型を組み立てて職人に示したといわれるほどの発明と巧緻の才があり、彼の活字の工夫もこの才能によったものであろう。
葛原勾当はその稽古日記を文政一〇年(一八二七)からはじめている。それは代筆で「何年何月何日何村の何某に何という曲を琴にで己とか、「三味線にて」とかしるすだけの備忘録であったが、のちみずから書く
ことを工夫し、木活字をつくらせて天保八年(1837)より四十余年間活字で日記をつけ続けた。それが大正四年『葛原勾当日記』として刊行された。
 彼の使用した活字はいろはおよび数字を主とし、それに変体仮名と少数の日用漢字を加え、七字詰九行に排列し箱に納められている。各活字は押印の形をなし、長方形の柄の右側に凹線を刻み、その数は排列における行の数を示す。またその左側に凹線を刻み、列の数を示す。行数と列数の交叉するところによってその活字の位置を定める。この活字を印するには罫枠二本を用い、二本を縦に並べて第一行を書き終ると第一の罫枠を第三行に移して第二行を書き、順次行を違えずに書き進めることができた。

ーーーーーー

 葛原勾当のことは、堺 正一 続 塙保己一とともに―いまに“生きる”盲偉人のあゆみ はる書房
 第12章盲人発明のタイプライター
 「書くこと」へのこだわり/122頁
でも紹介されています。

 また、『点字毎日 激動の80年』に、以下の記事が見える(点字を筆者が翻刻)。

昭和11(1936)第3巻年
1月
新発田町で我が国最古の盲人用図書
 新潟県新発田町は郷土史編纂中に、弘化年代に工夫して作られた盲人用図書が発券。
 盲人里村ひでき氏がコヨリで文字の形を作り、これを一々紙に貼り付けた物で、方丈記4章・5章などが編纂。我が国最古の盲人用図書。





昭和49(1974)年 11月 "24日、盲人用文字の我が国第1号と見られる
凸凹【でこぼこ】符号が茨城県猿島郡猿島町の旧家で発見。
 明治5年の日付で、考案者は同町出身。東京で鍼業を営んでいた忍田清宝【お
しだ せいほう】(故人)さん。

茨城県猿島【さしま】郡猿島町は現在坂東市に編入されている。忍田家は旧家で、清宝は次男で
東京で死亡したが、その凹凸文字などは坂東市の実家に保存されている。「猿島
町市」の通史片と資料編・近現代にその報国が記されている。


 猿島町=現在茨城県坂東市に問い合わせましたら文化財の指定にはなっていま
せんが、現在も実家に保存されているようです。

近代になり、
盲人がより活用できる文字がないか、独自の点字を模索していて、1890(明治23)年11月1日、東京盲唖学校(当時)の点字選定会(第4回) で、石川倉次の案を採用することが決定され、この日を「日本点字制定記念日」としています。

 点字が制定されても、まだ工夫をしていた人もいます。

昭和17(1942)年 11月 点棒式盲人用文字考案

やはり、点字は習得に困難はあるとしても、点字制定以前の労苦に比べれば格段の情報を与えるものと考えます。
 現在では、音声パソコンや音声データ(デイジー形式)などの情報手段があり、益々情報の獲得と発信ができるようになったといえます。


Q67 視覚障害者の使用している白杖の歴史は古いのですか?

A67
 現在視覚障害者のシンボルともいえる白杖は、いつから使用されていたのか疑問にも持っていませんでした。
 白杖についてウイキフエリアに、次のような歴史が書いてあった。

イギリスのブリストルの写真家James Biggsは、事故により失明した。増加する交通量に家の周りを歩行することにも不便を感じていた彼は、杖を白く塗って周りからも見えやすくした。

フランスのある警察官の夫人だったGuilly d'Herbemontは、1931年頃、自動車の増加に伴って、視覚障害者が交通の危険にさらされているのを見て、夫の使っていた警棒からヒントを得て、現在の形の物を考えつくとともに、視覚障害者以外の人が白い杖を携行することを禁止させたという。
  ーーーーーーーーー
 日本の白杖について史料を探してみました。


点字のみのものですが、『点字毎日 創刊80周年記念出版 激動の80年 ー視覚障害者の歩んだ道程ー』(毎日新聞社点字毎日、2002年)を最初から見ていましたら、幾つか興味深い記事がありました(点字を文字に直したのは筆者です)。

大正12(1923)年
  2月 1巻
   盲人紐 大阪で実施
 大阪マッサージ・按摩組合員の企てで、20日から盲人が紐を付けることになる。
紐の長さは4尺5寸、紐の端に「信貴山浄福寺寄贈」と書かれた呼び子の笛を付けた者。東京の盲人がやめた赤紐を何故大阪の盲人が付けるかで9日大阪盲唖学校や訓盲院の有志を中心に懇談会を開催。
 赤紐の宣伝医員菅野氏は「道案内をしてあげようとしても盲人かどうか分からぬ。もし、何か印があると便利」、「警察側でも絶対にかけよ。」と言っていると説明。
これに対してかかる方法はよくない。救助を求めんとして却って嘲笑の的をつくることは過去の実例と、我々の常識が明らかに示している。
保護者側より見ればあるいは便利の場合もあるが、盲人は自己の欠陥を特に)表示を好まない。
菅野氏が一人でもめくらの子を持っておられたらならばか様な間違った同情はないだろうと反対続出

  3月 1巻
   盲人紐 宣伝デー
 大阪北市民館の盲人倶楽部と大阪マッサージ按摩連合会主催の盲人紐宣伝デーは、14日天王寺公会堂を中心に繰り広げられた。
宣伝委員は、8台の自動車に分乗。
15万枚のビラを市内にまいた。
会場では、赤旗を押し立て集まった400人。首に赤い盲人紐をかけ、紐の先の呼子の笛をピイーピイーと鳴らして5分間演説に、
われもわれもと壇上にああがり盲人紐は命の親。「盲人の錦糸勲章」、「極楽への道しるべ」などと大気焔。
これは一昨年秋、東京で桜井ちか子女史を会長とする日本盲人後援婦人会の提唱で始められたもの。
 ※桜井ちか子
 1855年(安政2年) - 東京日本橋で生まれる。
1928年(昭和3年) - 逝去

 現在、盲人紐は運用されていないことは、歴史上の淘汰として白杖が有用であったことが分かります。


昭和6(1931)年
  8月 
   日本にも白いステッキ
 先頃掲載された欧米盲人の間に流行している白いステッキの記事を一盲人から聞かされて、痛く感動した徳島市の小島社会課主任は、どうかして徳島の盲人を交通地獄から救いたいものだと思っていた折から、ある篤志家の寄付でと徳島全市の盲人300余人に白いステッキ1本ずつを寄贈。
 なお、同時に一般社会の理解を求めるため、全市に宣伝ビラを蒔く。

  10月 
白い杖 鹿児島と岡山にもお目見え
  鹿児島盲協は、10日、県下盲人大会で交通事故防止の一つとして県下盲人が全員白塗りのステッキを持参することを決議。
 また、岡山県でも25日の盲人大会で、盲人協会の手で白いステッキを制作し、全員が携帯することを決議。

  10月 
ゴム輪の車に鈴を
 福井県盲協は、盲人の交通安全対策の一つとしてゴム輪の荷車に鈴を付けるよう県に陳情。
 県は、その準備を始める。

 盲人と交通事故が社会問題となり、車道を走って行く荷車に鈴をつけるなどの工夫があったのは驚きである。

昭和7(1932)
7月 
   福岡刑務所で白い杖作り
 福岡県嘉穂盲人救護会は、盲人の交通安全を図るため、【嘉穂】郡内204人の盲人に白い杖を贈るために福岡刑務所に1本30銭で発注。



昭和25(1950)年
3月
 白ステッキに夜行塗料塗布
 兵庫県盲協は、白ステッキに夜行塗料を塗布。
昭和25(1950)年
5月 4−66
     小林氏ライトステッキ考案
 長野県の徽章販売小林ひさし(32)氏は、夜間でも安心して仕える盲人用安全ステッキ「ライトステッキ」を考案。柄のところに乾電池の入れ替え部分があり、スイッチを入れれば電機がつく。


 これらの新聞記事より昭和6(1921)年頃より日本にステッキがもたらされ、次第に広まり、道路交通法第14条に規定されるまでとなったことが推測できます。


Q68 明治以降の盲学校・視覚特別支援学校などについて、どんな文献がありますか。


A68 以下 文献を紹介します。

文部省初等中等教育局特殊教育主任官室編 盲聾教育80年史 文部省/1958年
文部省 特殊教育百年史 東洋館出版社/1958
文部省 特殊教育120年の歩み 文部省/1999
文部省 学制百ね史・同資料編 帝国地方行政学会/1972年
文部省 学制百ね史・同資料編 帝国地方行政学会/1972年
文部省 学制120年史 ぎょうせい/1992年

加藤 康昭 盲教育研究序説 東方書房/1972
加藤 康昭・中野 善達 わが国特殊教育の成立 改定新版 東方書房/1967年
鈴木力二 編著 図説盲教育史事典 日本図書センター /1985年
世界盲人百科事典編集委員会 世界盲人百科事典(再販) 日本図書センター/1972
下田 知江 盲界事始め あずさ書店/1991

中村 満紀男・岡 典子 日本の初期盲唖学校の類型化に関する基礎的検討--明治初期から1923(大正12)年盲学校及聾唖学校令まで 東日本国際大学福祉環境学部研究紀要 7(1), 1-33, 2011-03
岡 典子・中村 満紀男・吉井 涼・ 日本の初期盲学校の創設理念とその達成状況に関する検討 : 高田・福島・東海3校の比較 障害科学研究 36, 1-17, 2012年
中村 満紀男, 岡 典子 師範学校附属小学校特別学級設置勧奨に関する明治40年文部省訓令第6号の政策的再評価 福山市立大学教育学部研究紀要4 69−83 2016
岡 典子・佐々木 順二・中村 満紀男 大正12年盲学校及聾唖学校令の教育の質の改善に対する効果 : 公布前・後の実態比較に関する研究構想 障害科学研究 37, 129-143, 2013-03-29
中村満紀男・岡 典子 新潟県内盲唖学校5校の経営困難問題と社会的基盤との関連 ―大正12年勅令までの高田校と長岡校を中心に― 障害科学研究36.p33−51.2012年
中村 満紀男, 岡 典子 私立神都訓盲院(1919-1948)の各種学校としての教育的・社会事業的意義 社会事業史研究 47 5〜29 2015
中村 満紀男, 岡 典子 第二次世界大戦前と後の日本の特殊教育における不連続性と連続性に関する試論 福山市立大学教育学部研究紀要 2 73−90 2014
中村 満紀男, 岡 典子 "戦後特殊教育の再建と再編成における分離問題と設置責任主体に関する検討                 ー 昭和20年代を中心に ー" 障害科学研究 39 1〜6 2015
 以下の書籍は、上記の幾つかを含めてまとめられたものです。
中村満紀男編 日本障害児教育史【戦前編】 明石書店 2018年

平田 勝政 近代日本障害児教育史関係文献目録 長崎大学教育学部教育科学研究報告43 p89-118 1192年
平田 勝政 近代日本障害児教育史関係文献目録 (U) 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第53号 61〜70 1997年
坂井美恵子 "3府の盲唖学校則 −京都・大阪・東京の盲唖学校教育の共通性と相違点−" ろう教育科学,54 173−193 2013

山田 勲 柴内魁三伝 岩手の特殊教育の父 柴内愛教会 1979年
福士 醇 新柴内魁三伝 岩手の特殊教育の父 青少年のための柴内魁三伝 熊谷印刷出版 2017年
赤座 憲久 (著), 山城 見信 (イラスト) デイゴの花かげ ―盲目の先達・高橋福治 小峰書店/1989/年
 ※沖縄盲学校について
東海良興 森巻耳と支援者たち : 岐阜訓盲院創立のころ 岐阜県立岐阜盲学校創立120周年記念事業実行委員会 2010年
新潟県特別支援教育史研究会 (著), 丸山 昭生 (編さん) 捨身の願い―新潟県の特別支援教育を切り開いた人々 北越出版 (2015年
足立洋一郎 愛盲−小杉あさと静岡県の盲教育 静岡新聞社/2014
岸 博実 視覚障害教育の源流をたどる――京都盲唖院モノがたり 明石書店 2019年

手代木 俊一 明治期盲人教育におけるキリスト教と音楽 キリスト教と文化研究所『人文科学研究』31,pp67-78/2000年
梶本 勝史・井谷 善則・楠本 実 障害児学校の校歌・校章に関する研究 : 主として聾学校について 障害児教育研究紀要6 p37-53 1984年
梶本 勝史・楠本 勝史・井谷 善則 盲学校の校歌・校章に関する考察 : 聾学校との関連において 障害児教育研究紀要 7 13-25 1985
吉田直美 "盲唖学校における技芸科の形成過程*ー名古屋市立盲唖学校技芸科を事例としてー" ろう教育科学,58 p1〜21 1995年
梶本 勝史 新聞報道でよみがえった私立佐世保盲唖学校 発達人間学論叢(6) p55-61 2002年
梶本勝史 廃校になった小規模盲唖学校の光芒 ろう教育科学, 20 p151―152 1979年
梶本 勝史 口話法への移行期における‘手真似文字’と私立佐世保盲唖学校 『発達人間学論叢』第5号、p125-149、大阪教育大学発達人間学講座、2002年2月15日)
梶本 勝史・楠本  実 ある公立盲学校の開設と閉鎖?紀南盲唖学校を通して? ろう教育科学22−3・4 1980年

清野 茂 私立函館盲唖院長・佐藤在寛と昭和初期聾唖教育T 市立名寄短期大学紀要27 p41-58 1995年 平田 勝政・菅 達也 長崎県障害児教育史研究(第I報) ー1898年設立の私立長崎盲唖院を中心に 長崎大学教育学部教育科学研究報告55 p25-34 1998年
平田 勝政・菅 達也 長崎県障害児教育史研究(第 II 報) : 明治30-40年代の長崎県盲・聾教育を中心に
平田 勝政・菅 達也 長崎県障害児教育史研究(第III報) : 大正期の長崎県盲・聾教育を中心に 長崎大学教育学部紀要一教育科学57 p33-48 1999年
平田 勝政・菅 達也 長崎県障害児教育史研究(第W報) - 昭和戦前期(1929-1937)の長崎県盲・聾教育を中心に- 長崎大学教育学部紀要-教育科学58 p29-46 2000年
平田 勝政・菅 達也 ・他 長崎県障害児教育史研究(第V報) 昭和戦中期??戦後初期の長崎県盲・聾教育を中心に 長崎大学教育学部紀要. 教育科学62 p.25-32/2002年
平田 勝政・菅 達也 長崎県障害児教育史資料目録 ―戦前・盲聾教育編― 長崎大学教育学部教育科学研究報告51 p65〜72 1996年
平田 勝政 長崎・あの日を忘れない 原爆を体験した目や耳の不自由な人たちの証言(長崎文献社ブックレット) 長崎文献社 2019年

箕輪 政博 "日本の医学・医療と鍼灸の位置−日本近代期の私立鍼灸学校の成立過程に着目して−" 社会鍼灸学研究 2010 (増刊号) 2−60 2010
箕輪 政博 "例外的医療としての日本鍼灸−日本鍼灸の制度史から見た一考察−" 社会鍼灸学研究 5 53−62 2010

●戦争と障害者の社会自立の課題について
上田 早記子 傷痍軍人福岡職業補導所における職業再教育 四天王寺大学紀要58 p155−178 2014年
金 蘭九 戦前・戦中期における傷痍軍人援護政策に関する研究 ―職業保護対策の日韓比較― 九州看護福祉大学紀要7-1 p45-57 2005年
藤井 渉 障害とは何か ー戦力ならざる者の戦争と福祉ー 法律文化社/2017年
キャラミ・マースメ・河内 清彦 昭和初期における日本点字図書館の事業継続要因として失明軍人の果たした役割 障害科学研究35 p95−107 2011年
平野 隆彰 シャープを創った男早川徳次伝(手のひらの宇宙BOOKs 第16号) 日経BP社 2017年
 ※戦前よりシャープは視覚障害者を雇用していました。
社会福祉法人日本ライトハウス      往復書簡 日本の障害者福祉の礎(いしずえ)となったヘレン・ケラー女史と岩橋武夫 社会福祉法人日本ライトハウス/2012年
森田昭二著 近代盲人福祉の先覚者好本督−『真英国』と『日英の盲人』を中心に−(人間福祉学研究【2009】
森田昭二 好本督と「日本盲人会」の試み−盲人福祉事業の先覚者が描いた夢−(社会福祉学 第5【2010】
久松寅幸編著 視覚障害教育の歴史・現状・課題−職業教育・進路保障と地域支援の充実を願って− 岡山ライトハウス 2012年
平田 勝政・久松 寅幸 戦前日本の盲学校教育における職業教育と進路保障に関する歴史的考察 明治末〜昭和戦前期の各種盲教育大会等の議論の検討を通して 長崎大学教育学部紀要. 教育科学65 p.29-44 2003年
本間 律子 盲人の職業的自立への歩み ー岩橋武夫を中心に 関西学院大学出版会/2018年
平田 勝政・橋本 亜沙美 戦前日本の聴覚障害児教育における職業教育と進路保障に関する歴史的考察 : 明治末〜昭和戦前期の各種聾唖教育大会等の議論の検討を通して 長崎大学教育学部紀要. 教育科学71 p1-11 2007年

 ●一時期、横浜監獄内に盲唖懲治場という施設があり、点字などが教導されました。
竹原 幸太 非行児童処遇史における児童保護意識の発展 ─ 菊池俊諦の児童保護啓蒙活動に注目して ─ 東北公益文科大学総合研究論集17
伊藤 照美 横浜監獄内にあった盲唖懲治場(ちょうじじょう)をめぐって (第12回日本聾史学会 福岡大会) 日本聾史学会報告書 日本聾史学会報告書 8(-), 82-92, 2010-11
倉持 史朗 懲治場(特別幼年監)における「感化教育」の試行と挫折 : 洲本分監・中村分監・横浜監獄の実践に焦点をあてて 天理大学学報 66(1), 51-77, 2014-10

 ●戦前は、挑戦・台湾・樺太・中国本土にも盲学校が存在しました。
金峰蔓 朝鮮総督府済生院に関する一考察 ー盲唖部を中心にー 九州大学大学院教育学研究紀要創刊号 p229−242 1998年
金 仙玉 韓国の障害児教育の歴史的展開とインクルーシブ教育の現状と課題 人間発達学研究6 p27.39 2015年
大友 昌子 帝国日本の植民地 社会事業政策研究――台湾・朝鮮 ミネルヴァ書房/2007



Q69 盲教育史を学仲間はいますか。

A69 約200人の会員がいる「盲教育史研究会」があります。
 2012年に発足以後に、私も入会して、新たな学友を得手、楽しく情報交換を行っています。



 
 本会の出版物に
日本盲教育史研究会編『盲学校史・誌類目録−年史編−』
桜雲会点字出版部より 定価600円(税・送料別)


 本会の入会部分をホームページより貼り付けておきます。


盲教育史研究会 入会案内


 本会へのご入会をお待ちしています。入会申し込みは随時受け付けています。年会費は2000円です。趣意書・会則をご確認のうえ、加入申し込み用紙に必要事項を記入して事務局宛てにお送りください。同時に会費の振り込みもお願いいたします。送金先は、以下に掲出しています「加入申込用紙」にも記載してございます。

 会員には、本会が行う取り組みの案内、研究・研修会の要項、会報、事務局通信をお届けいたします。

 研究のテーマや範囲は、狭い意味での「盲教育史」(理念、制度、内容、方法など)だけに限るものではなく、視覚障害児者をめぐる医療、職業、リハビリ、福祉、文化なども包摂しますし、諸外国の盲人史・点字史など、広範な領域も想定しています。 

すでに各分野で研究業績を積んでいらっしゃる方々はもちろん、気鋭の中堅・若手、院生・学生・卒業生、点字ユーザー・弱視者・家族・ボランティア、関係機関のスタッフ、教育関係者、さらに「日曜歴史家」の皆様まで、幅広いご入会とご活躍に心より期待しています。


加入申し込み
1.申込用紙のタイプは4種「Word版」「テキスト版」「PDF版」「点字版」です。
2.いずれか適切なものを選んで必要事項をご記入のうえ、日本盲教育史研究会事務局宛に、郵送、ファックス、メール添付のいずれかでお申し込みください。
3.申込者に対して、会費の振込先に関する情報をお知らせします(振込先は「加入申込用紙」にも記載しております)ので、日本盲教育史研究会事務局が指定する口座に会費をご送金ください。
会費の納入を確認できた時点で会員としての資格が生ずることとなります。
日本盲教育史研究会の加入申込用紙Microsoft Office Word ファイル
PDF ファイル
テキストファイル
点字ファイル

申込用紙の一覧は以上です。


送付先:日本盲教育史研究会事務局
日本盲教育史研究会事務局
〒611−0013 京都府宇治市菟道とどう丸山1−70
岸 博実(きし ひろみ)気付

ファックス番号 : 0774−24−9623

メールアドレス : moshijimu@moshiken.org




Q70
 盲学校・視覚特別支援学校は幾つあるのですか。

A70 
 原則として各県に1校はありますが、北海道、長野・東京・神奈川・大阪府には複数の学校が存在します。
厚生労働省管轄の施設、教員養成施設、大学を含めて存在します。
また、毎年合併や名称変更を繰り返していますので、
70数校と思っていただければ幸いです。
 参考に海外の盲学校をあげてみます。
一、台南盲唖学校
2、台北盲唖学校
3、平壌盲唖学校
4、朝鮮総督府済生院盲唖部
5、大連盲唖学校
6、樺太盲唖学校


 また、晴眼者の鍼灸養成学校も100項を超えるようになってきました。


Q71
 これまでに盲学校はどのくらい創立・廃校していったのですか。

A71
 私が調べていて塾や日曜学校程度を含めて200校を超えました。
 思わぬ市町村に存在しました。
 私の興味だけで申し訳ありませんが、幾つかあげてみたいと思います。

山形県 私立羽陽鍼灸按講習所(東村山郡成生村)
福島県 私立喜多方訓盲学校
茨城県 土浦盲学校
栃木県 大田原鍼灸按摩学校
栃木県 日光盲学校
群馬県 桐生盲学校
群馬県 高崎盲学校
埼玉県 入間川盲学校
埼玉県 埼玉盲人技術学校(行田市)
千葉県 町立木更津訓盲院
千葉県 私立匝瑳【そうさ】鍼按協会学校(匝瑳郡八日市場町)
東京都 仏画ん協会盲学校
東京 杉山鍼按学校
東京都 同愛盲学校
長野県 上田盲学校
新潟県 私立中越盲唖学校(狩羽郡柏崎町)
新潟県 私立新発田訓盲院(北蒲原郡新発田町)
富山県 高岡鍼灸按摩学院
富山県 私立魚津訓育院(のち船見訓盲院、下新川郡魚津町)
静岡県 田方按鍼術学校(田方郡中郷村)
三重県 私立 神都訓盲院(宇治山だ市岩淵町)
和歌山県 町立紀南盲唖学校(西婁郡田辺町)
宮崎県 延岡盲唖学校
長崎県 佐世保盲唖学校
熊本県 私立熊本県鍼灸学校



Q72
 医学史研究の先駆者・富士川  游先生の蒐集した資料がデジタルで公開されたと聞いたのですが。

A72
 そうなんです。私も飛び上がるくらいうれしく思いました。
 

 東京大学附属図書館の公開された記事から紹介します。ル

 富士川游の旧蔵書、特に古医書や静養医学書などは京都大学及び慶應義塾大学で多く所蔵されており、それぞれ「富士川文庫」として受け継がれてきました。2018年9月末、両大学により「富士川文庫デジタル連携プロジェクト試行版」サイトが公開され、富士川文庫のデジタル画像を統合的に閲覧できるサイトが誕生しました。

東京大学大学院教育学研究科・教育学部図書室が所蔵する「富士川文庫」は富士川游(ふじかわ ゆう,1865-1940)の旧蔵書で、江戸後期から明治期にかけて利用された教科書や教育関係資料などから成ります。2000年からインターネット公開を行っており、2018年9月からはIIIF対応で公開しています。

 この元になったプロジェクトは

 富士川文庫デジタル連携プロジェクト

京都大学図書館機構と慶應義塾大学メディアセンターによる、富士川文庫のWeb上での合を目指したプロジェクトです。
【東京大学を含めた】三大学が分散して所蔵する富士川文庫資料を一堂に公開することを通じて日本医史学の究・発展に寄与するとともに、IIIF(Internationalnteroperability Image Framework)を活用した分散コレクションの仮想統合例を提示します。

2019年2月8日 東京大学大学院教育学研究科・教育学部図書室の資料172件が追加されました。
2019年4月25日 慶應義塾大学メディアセンターの資料332件が追加されました。


【関連リンク】
富士川文庫 東京大学教育学研究科・教育学部図書室所蔵
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/fujikawa/

富士川文庫 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/collection/fujikawa

富士川文庫(古医書コレクション) 慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/koisho
 これからの活用が期待されます。

 ー ■ ー ■ ー
第4編発表原稿

 ■1■補訂復刻・瀬間福一郎先生の思い出
 ※原本はワードデータで作成しています之手で、ご希望の肩は連絡下さい。


瀬間福一郎先生の思い出


群馬県立盲学校創立110周年記念
補訂復刻
    
  

晩年の瀬間福一郎先生【省略】



    凡例
   栗原 光沢吉(くりはらつやきち)著
 『瀬間福一郎先生の思い出』
   私家版 昭和51年6月4日発行(本文のみ)
  (のち、同氏『点字の輝きにいきる』、p11〜70に墨字翻刻し転載、あづさ書店、1990年)
   点字版 昭和53年1月20日発行、桜雲会
 ・私家版は本文のみで書き込みなどがあり、点字版を原本とし、前掲『点字の輝きにいきる』と校合しながら翻刻した。
 さらに、表紙を新たに作り、瀬間先生の肖像を加え、点字の前書きなどを削除し、栗原の本文だけを復刻した。
  ・姓名の記載で、苗字のみの者があったが、本校の同窓会名簿より補足した。
  ・旧字・仮名遣い・漢数字などを文意が変わらない程度に常用漢字や現代仮名遣いなどに訂正した。【 】で編著者の訂正や補足を示した。
 ・付録として、本校に関する新聞記事と栗原光沢吉氏の略歴を掲載した。
  

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「瀬間福一郎先生の思い出」復刻版発行にあたって

群馬県立盲学校長 長井 榮子

  創立110周年にあたり、本校の歴史を振り返る機会に恵まれた。「歴史を振り返る」と一言で言うのは易いが、どうしたものかと思案していたら、盲人の歴史を本校の香取俊光教諭が調べているという話を聞いた。香取教諭と話す中で、群馬県立盲学校の基礎を築いた瀬間福一郎先生のことについて、当時、瀬間先生に教えを受け、その後、盲学校の教師となった、栗原光沢吉(くりはらつやきち)氏が「瀬間福一郎先生の思い出」という文章を残しているという話を聞いた。しかし、残っているものは、栗原の書籍が見つかるまでは点字のみで、墨字のものはないとのことだった。
 そこで、その点字のものをぜひ墨字に起こし、110年の歴史の基を築いた偉大な瀬間先生のお人柄と盲教育への熱い思いを知ることができたら、現在の盲教育について再確認し、今後の盲教育の方向をしっかり見定めることができるのではないかと考えた。
 加えて、110年前の明治時代の状況を思い浮かべ、瀬間先生はじめ後藤先生達、先達の努力の一端をうかがい、功績を称え、盲教育の本質、目的を今一度考える機会としたいとも考えた。この人なくては、現在の群馬県立盲学校はなかったのである。
 また、学校創立の目的を確認することにより、盲学校の役割、盲学校だからこそできる教育について、今、ここで盲教育に携わっている私達が、しっかりと心にとどめ、これからの盲教育の歴史を創っていくという自覚を新たに、一歩を踏み出し、着実に歩んでいく基本となると考える。
 この「瀬間福一郎先生の思い出」を香取教諭及び本校の教職員の努力により、墨字として表すことができ、多くの人々に読んでいただけることは誠に嬉しいことである。
加えて、この本が視覚障害者の社会自立と盲教育の歴史、業績を後世に伝えていくための、貴重な資料となるであろう。
    


若い頃の瀬間福一郎先生(『図説盲教育史事典』の写真省略)


著者 栗原光沢吉

− 目 次 −
 1.はじめに                      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
 2.先生の誕生および幼年の頃        
 3.失明およびその後の先生           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
 4.下仁田での修行                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
 5.東京での修行                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4
 6.卒業およびその後の先生について     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
 7.結婚その他家庭の色々            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
  A奥様のこと  B.結婚式  C.子女  D.家督相続  E.先生のお宅
 8.公立の盲人教育所               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9
  (1)訓盲所
  (2)特別学級
   A.通勤   B.待遇について   C.指導   D.講習会   E.水の泡
   F.教え子への配慮
 9.私立前橋盲学校並びに舎監勤務      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
A.水浴び  B.丁寧なご指導   C.祈祷集会   D.先生の叱り方
  E.勉強家の先生  F.年始回り  G.甘酒  H.患者に対する心得
  I.東京の盲人会へ
 10.鍼灸按摩試験委員               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
 11.群馬県鍼灸按摩サッサージ連合会会長  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
 12.大東亜戦争以後の先生
  A.大手町のお住まい   B.恩給  C.先生の散歩  D.先生の健康法
  E.先生からのお頼り
 13.表彰並びに感謝会               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
  A.群馬県慈善協会からの表彰  B.勤続15年祝賀式
  C.瀬間先生の奥様の感謝会  D.本県盲教育創始30周年記念式での表彰
  E.ヘレン・ケラー女史歓迎全国盲人大会での表彰    F.感謝会
  G.群馬県盲教育創立50周年記念式での表彰
 14.先生ご夫妻の逝去                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
  A.奥さん  B.先生
 15.瀬間福一郎先生を偲んで            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23
 16.瀬間先生の年譜(経歴)             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
 17.おわりに                       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
 
追記
18.新聞記事(東京新聞)              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
  19.著者 栗原光沢吉 略歴            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28


    1.はじめに
 瀬間福一郎先生は、普通教育ですらまだ整わなかった明治20(1887)年代に、群馬県の山村から東京盲唖学校に学び、その知識や技能を我が群馬県の盲人教育に捧げて、多くの教え子並びに一般盲人の幸福増進のために尽くされ、85才の長寿をもって昇天されたのである。
 私(わたくし)が先に書いた『群馬の盲教育をかえりみて』(あづさ書店、1989年)と『群馬の盲人界』(絶版、入手困難)の中にも触れてあるが、明治38年、日露戦争での失明軍人の教育を行うために上野(こうづけ)教育会が設立した訓盲所は3年あまりで閉鎖され、師範学校附属小学校特別学級として引き継がれるも、また数年にして桃ノ井小学校に移ったのであったが、経費と指導者との関係でこれも廃止のやむなきにいたったのである。この間、盲人は、全く厄介者として取り扱われたのであり、「盲人に教育をして何になる」というような考え方で教育界からさえ冷遇されたのである。
 こうした中にあって、自分のことは顧みることはなく、「前途のある盲人達をして社会人として独立できる知識・技能を授けてやりたい」という信念のもとに、社会の無理解の中で、また、ほとんど無報酬に等しい状態で、黙々として指導に努められてこられたのが瀬間先生であった。
 私立の盲学校が誕生するに至ったのも、先生の忍耐と愛育の精神の賜であったのである。私立学校13年にして、昭和2年県立に移管されたのであったが、その間授業の担当者として、また舎監として奉仕的に勤められ、しかも県立盲唖学校の設立前に退職され、実情を知る者をして等しく遺憾に感ぜしめたのであった。
 このような陰徳というか、あまり人目には触れないけれども普通人にはなかなかできない先生のご人格について、私の思い出としてまとめてみたいと思い筆を執った次第である。
 この書をまとめるにあたり、先生の教え子で今なお活躍している方、その他関係の方々のご協力をいただいて、なるべく真実に近いものにするように努めた。誠に拙く不備なものではあるが、何かの折、わずかでもご参考にしていただければ幸いである。

   2.先生の誕生および幼年の頃
 瀬間先生は明治10年(1877年)12月【4日】に群馬県北甘楽(かんら)郡馬山(まやま)村で誕生した。その頃のことについて先生の三女である和子さんからお手紙によって教えいただいたことを記してみよう。
 「福一郎の生家は、今の甘楽郡下仁田町馬山の農家です。父親【乙五郎】は気のいい人だったようですが、祖父が頑固者だったらしく、福一郎が生まれるとまもなくその母親【かつ】は離婚され、次の母が迎えられ妹【くに】が生まれましたが、その出産の直後死亡し3度目の母親【りき】が迎えられたそうです。その母親には子はできませんでした。」とのことである。
 先生の幼い頃のお家には大変混み入った事情が相次いで、幼な心に何かと人の世の難しさを感じられたことだったろうと思われる。
 「忍耐」。これは先生の85年の立派なご生涯を支える強い力であったのではなかろうか。それがこの幼児期の、順調とは言えない環境により強く培い養われ、その尊いお人柄になったのではなかろうかと私は拝察するのである。
?
    3.失明およびその後の先生
 ここで少しく瀬間先生誕生の地である馬山村のことについて書くことにする。
 甘楽郡は群馬県の西南に位置し、高崎市から33キロ程のところに下仁田町があり、その間を結ぶ街道には、明治28年に軽便鉄道ができた。それからのち大正13年に電鉄となって今日に至っている。それが最も有用な交通機関であって、同郡の文化に大きな役割を果たしているのである。
 瀬間先生の生家のある馬山村は、この街道沿いで、下仁田から4キロ程離れたところにあって、今は千(せん)平(だいら)という停車場【上信電鉄千平駅】がある。しかし、先生の幼年時代にはもちろん何もない田舎道であって、荷馬車や手車や馬などが時々通る程度であった。ちなみに、先生の成長された当時の村の様子を知っている老婦人の話を聞いてみよう。
 「馬山村は、あまり高くない山が周りにあって、そこには雑木林がありました。西に鏑川が流れています。川は利根川の中流のように川原があって、その真ん中を水が流れていました。あまり深くはありません。それで、子供が夏になるとよく水浴びに行ったものです。小学校や役場のあるところに橋があって、下仁田へ行く道に出るのでした。村の人達は周りの雑木林から薪【たきぎ】を採って売ったり、蚕【かいこ】を飼って繭をとったり、その繭を糸にして売ったりして生計を立てていました。野菜類も良くできて、ネギなどは育ちが良く柔らかで、下仁田ネギと言われるほどでした。こんにゃくもいくらか作っていたようです。」
とのことである。瀬間先生のお宅は、これらのことを手広くやっている裕福な農家であった。
 明治20(1887)年頃では、東京まで子供を勉強のために何年もやっておくということは、容易なことではなかったのである。当時は、普通教育のうちで、義務教育は尋常小学校の4年だけであって、ほとんどの人がここを卒業すると家の農業の手伝いをし、他の職業を習うために出かけたので、高等小学校の4ヶ年に進む人はいたって少なかった頃である。老婦人は、
 「私の母は、高等小学校へ通うのに下仁田まで毎日往復したそうですが、女の子は1人だけで、あとは2・3人男の子がいただけだったそうです…、」
と言っていたほどであった。
さて、こうした環境の家に生まれた福一郎ちゃんは日ごとに成長していったのであったが、やがて思いもかけない失明という不幸せに遭われたのであった。前に述べた三女の和子さんの手紙には、
「福一郎が完全に失明したのは5才頃と聞いております…。」
とある。従って先生の失明の原因やその当時のお家の方々のことなどについては知ることができない。失明後のことについては
「農村のことで、周り中に親戚があり、従兄弟なども多くあって暖かく見守られていたようです。特に、叔母が福一郎を可愛がり、従兄弟達に仲間はずれにしないように言い聞かせていたということです。ですから一人ぼっちでいるということがなく、いつも男の子達と山へ行ったりして遊んでいたそうです。福一郎の妹【くに】は晩年、娘達に『いつも兄さんの手を引いていたので自由に遊べなかった…。』ともらしていたそうです。」
これによって、ややもすると盲児の陥りやすい“家の中に閉じこもりがちな孤独で不衛生な生活”とはならなかったことが伺われる。そればかりでなく、大変社交的であったことさえ次のことによって知ることができる。
 「私も子供の頃、父母に連れられて父の生家へ正月やお盆に行きましたが、その度に父の従兄弟や友人が訪ねてきて話しあっていました。その楽しそうな様子は羨ましいほどでした。」
とのことである。
【参考】
 馬山村は江戸時代末期には2007石7斗8升1合の村高で、大きな村であった。幕府領で岩鼻陣屋支配、東西一里五町 、南北壱里廿町であった。
 現在は富岡と下仁田を結ぶ国道254号線が通り、これに平行するように上信電鉄(上野鉄道株式会社として明治28年12月27日開業、明治30年9月25日全線開通)が走っている。
 瀬間姓が多いのは、馬山でもこの国道の南側の鎌田という地区である。福一郎の妹くにの孫・瀬間光則氏は「私の家も鎌田から出て、今は大束という場所に住んでいます。」と言われていた。大塚は鎌田の西側で、上信越自動車道の下仁田インターチェンジのそばにあたる。墓地もお住まいの近くの共同墓地であると言われていた。
 また、『群馬県盲教育史』によれば、瀬間の失明は角膜乾燥炎という。

   4.下仁田での修行
 子供同士で楽しく遊び暮らしているうちに、いつしか先生の心のうちに大きな変化が起こってきた。それは、友達が、次々に小学校に通うようになって、自分だけが一人取り残されて家に居なければならないようになったことである。事あるごとに幾度もご両親や叔母さん達に
 「学校にみんなと一緒に行きたい…。どうして行ってはいけないの…。」
と訴えたことだっただろうと思う。
 そうこうしているうち、いつしか数年が経ってしまった。ご両親や叔母さん達は、何とかして「福一郎の将来のためになるように。」といつも考えてはいたのだったが、とにかく明治20(1887)年代のことであるから良い方法が考えられなかった。
 その頃、下仁田に【小黒】城(じょう)定(さだ)という盲人の鍼医があって、病気の見立てから治療まで大変上手で、近村はもとより遠方から訪ねてきて治療してもらう者が多く、評判が良かった。
 「城定さんに弟子入りさせたらどうだろう…。」
ということになり、先方に尋ねたところ
 「それなら連れて来てみなさい。」
ということになり、いよいよ通いで鍼の仕事を教えてもらうことになった。
 和子さんの手紙には
 「従兄弟達は下仁田の学校へ、父は鍼医のところへ毎日一緒に通ったそうですが、従兄弟達の勉強と自分の習っていることが違うので自分も従兄弟達のような勉強がしたいと強く思ったそうです…。」
と言われた。これは明治21年(1888年)であって先生11才の時であった。老婦人に聞くと、
 「私の母は、明治20(1887)年頃、馬山から下仁田の高等小学校へ4年間通ったそうですが、いつも家で作ったわら草履を履いて行ったそうです。雪の降った日などは、草履がぬれてしまうので一足懐へ入れて行って、帰りに履き替えてきたそうです。『福一郎さんという目の不自由な方も、馬山で下仁田へ按摩や鍼の稽古に行っていたので、よく一緒になることがあったよ…。』と言っていました。」
とのことである。4キロもの田舎道を、雨の日や風の日、あるいは大雪の日など毎日の往復は並大抵なものではなかったであろう。しかし、この間に自然と身体は鍛えられ、不屈の精神も養われたことであっただろうと思う。?
【参考】
 甘楽郡下仁田町下仁田72の専修院本誓寺(浄土宗、無住)に弟子たちが建立した「杉山流 小黒城定の碑」がある(本道の右側)。ここには「杉山流」とも書き添えられ、盲人の杉山流の日本全国への伝播を証明する貴重な史料ともいえる。
 また、光則氏は祖母くにから、小黒城定の所に通うのに道すがら心ない人に木などを投げつけられるなどのいやがらせを受け、兄の手を引いて修行に連れて行った話を聞いたという。栗原の想像よりも現実は理解ない人が多かったようである。

   5.東京での修行
 毎日の寒風肌を刺すような日も、焼け付くような炎天下でも、4キロの道を歩いて通うというようなことは、交通機関の行き渡っている現在に暮らしている者には考えられないようなことであったけれども、それこそが失明という大きな障害にも打ち勝って、逞しく成長することの大きな力になったのであろう。
 明治26年(1893年)16才の時、先生待望の東京盲唖学校に入学することができた。その時の事情について和子さんは
 「…その時の村長さんが神戸(かんべ)【禎三郎】さんという方で、大変進歩的な方であって、東京の盲学校のことをご存知で、そこへ行くように勧めてくださったそうです。このことがなかったら盲学校へ入学することはなかったかもしれません…。」
と言われた。
これは全く幸運であったといわなければならない。この当時の村長と言えば、徳川時代の名主様と言われて村民から深く尊敬されていた者が、明治の新制度になって村長になったのであるから、やはり、村民の信頼と尊敬は大変なものであった。馬山と高崎の間にある富岡に、明治5(1872)年、我が国で最初の製糸工場ができた。ここでは、最も新しい西洋式の製糸が始められたのであり、煉瓦造りの建物は見る者を驚かせたのであった。こうした事情は他の方面にも影響して、東京や横浜との行き来も多く、自然と新しい文化が取り入れられるようになったのである。このような関係から、神戸【禎三郎】村長の盲人教育に対する理解も深かったのであろうと思われる。それには、これまで長い間役場の側を通って休むことなく、元気に通い続けている福一郎少年の、頼もしい姿を見て感心させられていたことも、大いに役立っていたことだろう。
 ある日村長は、「お宅の息子はなかなか感心だね。普通の者でも下仁田まで幾年も通うということは容易なことではないのに、目の不自由にも負けずに元気に通うというのは、余程しっかりしたところがないとできませんよ…。」と言った。
 父は「親としては心配で天気の悪い時など休んだらどうかと言っても聞き入れませんので…。」と返した。
 そこで村長は、「ところで、私が聞いたところによると、東京には盲唖学校といって盲人や聾唖の人を教育するところがあるそうだが、一つ入れてやってはどうです…」
と勧めた。
 父親は、「へえ、それは偉いことですね。けれども、親元を離れて遠くへやっておくのはとても気がもめますし、東京ともなれば費用も大変でしょうから…。」と尻込みした。
 村長は「鉄は熱いうちに鍛えろという。山や田畑は手放すこともあるが、教育をつけておけば一生涯その者の幸せになるのだから、まあ、良く考えて…。」
というような会話があったことと思う。
 お母さんや叔母さんからも熱心に「福一郎の一生のためだから思い切ってやった方がいいでしょう…。」と勧め、また福一郎少年も胸を躍らせて「是非やって…。」と頼んだのであろう。
【参考】
神戸禎三郎について、下仁田町歴史民俗資料館の平成8年度の特別展のパンフレットにまとめられていました。著名な村長で、天保13年(1842)に馬山で生まれ、大正2(1913)年6月、病気のため村長を辞職し、同年12月5日に逝去、享年71歳でした。若い頃に長野県の伊那に国学を学ぶために留学し、戸長と学務委員を兼ね、私財を投じて教育や鏑川に架橋を行い・明治22(1889)年に町村制が施行されると初代村長となり、村の殖産興業に挑み、麻の栽培の研究、桑の品種改良、蚕種の製造などが推奨し馬山を養蚕村として豊かな村に発展させた。

 そうしていよいよ準備が整って、【明治26(1893)年】4月の新学期に間に合うように出かけたのであった。軽便鉄道はまだできていなかったから、高崎までお父さんと一緒に歩き、初めて汽車というものに乗ったのである。この頃は、県の中でも汽車を知らない人が多くて、乗る人などもごく少なかったようである。それもそのはずで、上野から高崎までの汽車が開通したのは明治17(1884)年だったのであるから。希望に燃えた福一郎少年の心は、誠に晴れやかなものであったろう。それにつけても、思い浮かぶのは、後に東京盲学校の教諭になった利根郡出身の富岡兵吉先生が5年前の明治21年に、ここから汽車に乗って上京されたことである。東京へ出てから同県の者として、親しい交際が続いたことであろうことが想像される。なお、その後明治41(1908)年に、山田郡大間々町で成長して、のち東京盲学校の教諭となった小川源助先生も、この高崎を通過して東京盲唖学校へ入学したのであった。
 瀬間先生が入学された東京盲唖学校は、明治23(1890)年に、小石川区(今の文京区春日)指ケ谷【さしがや】町の薬草園の跡地に寄宿舎が新築され、翌24年に新校舎が出来上がって築地の訓盲唖院から引き移ったのであった。敷地も広く、寄宿舎も学校も衛生的で、人の目を引く誠に立派なものであった。この寄宿舎の1室に荷物を解いたのである。親切で、明朗で、動作の活発な多くの盲生達に迎えられた福一郎少年は、何もかも驚きと喜びに満たされたことであろう。しかし、お父さんが帰っていかれ、ねぐらへ帰る小鳥の声などを聞いては、言いようのない故郷への懐かしさと寂しさに襲われたことと思われる。
 校長は小西信(のぶ)八(ぱち)先生であったし、尋常科には石川倉次(点字の本案者)、石川重幸、技芸科には奥村三(さん)策(さく)など、立派な教育者がおられた。尋常科では国語・算術・講談(偉人の話や世間の出来事など話すこと)・体操などがあり、技芸科では按摩や鍼があって優れた指導が行われていたのである。
そればかりでなく、明治23(1890)年11月から、公に使われるようになった石川式日本点字で、我が国の盲人は、初めて自分で書いたり読んだりすることが自由にできるようになったばかりの時であった。
 「従兄弟達の勉強と自分の習っていることが違うので、自分も従兄弟達のような勉強がしたいと強く思ったそうです。」
との和子さんのお手紙にあったことを思い起こすと、どんなに福一郎少年の満足とうれしさが大きかったが伺われる。
 『点字発達史』の著者・大河原欽吾さんから聞いたと記憶するが
 「『瀬間福一郎写す』という点字書を見つけて大変驚いたことがありました…。」
と言われた。たぶんそれは、群馬県立盲学校で、点字についての講演をお願いした時のことだったと思う。また、私立前橋盲学校の職員室の東側に、高さ1メートル、幅5、60センチの本箱が置いてあったが、「この中の本は、私が、学生の頃に写した『万国史』ですよ…。」と、瀬間先生が話しておられたのを聞いたことがあった。多分10数冊の大部のものであったと思う。これによっても、先生が、どんなに多く点字を使っておられたかが知られる。群馬に点字を広めたのも全く先生によるものであって、休暇に帰った故郷での話の中にも必ずこの点字のことがあって、ご両親始めその他の人達を感心させたものであった。
 
   6.卒業およびその後の先生について
 明治30年(1897年)3月、20歳の先生はめでたく卒業され、希望に輝きながら社会人としての第一歩を踏み出したのであった。いうまでもなく、故郷の馬山村へ先ず帰って、待ちわびていたご両親始め叔母・神戸【禎三郎】村長に卒業を告げて喜んでもらったのである。それからのことについては、先生の教え子で元群馬県立盲学校教諭の小川徳太郎【大正6年卒】さんから次のような手紙をもらった。
 「瀬間先生は明治30年に東盲を出られ横浜訓盲院に就職し、2年勤めて退職され磯部鉱泉で開業されましたが、これもわずかで辞められて前橋へ出られました。」
とのことである。横浜訓盲院は、キリスト教会によって建てられた盲人教育の場所で、我が国でもいたって早い時期に建てられたのであった。横浜は土地柄から言っても、我が国と海外との接触する重要な場所であったのだから、瀬間先生は若い血潮を漲らせて、初の教師としての毎日を過ごされたことであろう。その頃の生徒のうちには、先生よりも年上の、3、40歳にもなる者もいたことであろうから、教授はなかなか容易でなかった点もあったと思われる。
 【参考】横浜訓盲院は、マイライネ・ドレパールにより明治22(1889)に創立された。

 明治32年(1899年)22歳の先生は一端馬山へ帰られたのであるが、農村のこととて治療を受ける者も少ないので、まもなく近くの磯部鉱泉(磯部は高崎から約18km。胃腸に効き、名物の磯部煎餅がある)で開業されたのであった。けれども、磯部もやはり人口が少ないために、結局先生にとっても宝の持ち腐れであった。
 そこで、明治34年(1901年)24歳の時に、県庁所在地である前橋へ出て開業されたのであった。新しい知識や技術を活かすためには、この上もないところであったと言わなければならない。
 それからまた小川【徳太郎】さんの手紙には、
 「瀬間先生は明治35「1902」年頃から塾を開いておられました。」
ともある。前橋のお住まいは、その頃、はっきりは分からないが、国道と県庁との間の北曲輪町【現在の千代田町】といったところであったようである。そのお家へ、先生のことを伝え聞いて、「点字というものを見せて下さい…。マッサージというのはどんなものですか…。是非教えて下さい…。」という盲人もあって、自然のうちに塾になったことと思われる。この塾は、それから後、明治38「1905」年に訓盲所が出来るまで続けられたのである。
【参考】
 戸籍に寄れば瀬間は、最初の結婚は佐藤やすと明治33(1900)年12月7日に挙げ、翌34年10月1日に死別している(下仁田町大字吉崎村 佐藤釜五郎次女)。
 伝説では前橋に出たのは明治34年か35年とあり、先妻との結婚か死別により前橋に出る事になったのかもしれない。?
    7.結婚その他家庭のいろいろ
   A:奥様のこと
 明治36年(1903年)、26歳の先生は、産婦人科の医師、後藤源(げん)久(く)郎先生の媒酌によって、西山千代子さん(明治17年生まれ)と結婚された。奥さんのことや、結婚のことについて和子さんは
 「母のことですが、生家は山形県の月山の麓のお寺と聞いています。父親【磐根】が早く亡くなり、母親が看護婦の資格を取るために同志社へ入ったので東京の叔父のところへ預けられ、後に前橋の後藤先生のところで働きながら産婆の資格を取る勉強をしたそうです。その頃、福一郎が後藤先生のお宅の近くで開業しておリ、先生の紹介で結婚したようです。」
と教えてくれた。

   B.結婚式
 瀬間先生は、横浜訓盲院におられた時、キリスト教の洗礼を受けられ、前橋へ移ってからも、前橋教会へ熱心に通っておられたことであろう。それで、やはり、クリスチャンとして教会へ出入りされていた後藤先生とお会いすることができた。それから、何かとお世話をして下さっていたのである。そうしたところへ千代子さんの洗礼式も済んで、誠に良い縁であることを認められてお仲人をされたのだと思う。
【参考】
 前橋市内には、単に「前橋教会」というと沢山の教会がある。色々と問い合わせた結果、「日本キリスト教団前橋協会」(前橋市大手町3−5−18)であることが分かった。
 戸籍によれば、瀬間と千代子の結婚は明治36(1903)年12月4日である。千代子は産婆としても働いていた。

   C.子女
 小川【徳太郎】さんの手紙には
 「育さんの生まれは明治38(1905)年ですが、兄さん【均】があったそうです。しかし、間もなく亡くなられたとのことでした。」とあった。
 「あの子が丈夫だったら…。」と、普段愚痴っぽいことを言われたことのない先生がもらされたのを聞いたことがあった。
 明治38年(1905)、長女育子さんが生まれ、大正【明治44(1911)年の誤りと思われる】、次女怡(い)志(し)さんが生まれ、大正9(1920)年、三女和子さんが生まれた。こうして3人のお嬢さんが、健やかに成長されたのである。やがてお嬢さん達は、小学校を終え、女学校を卒業し、さらに師範学校で学び、それぞれ小学校教員として長い間勤務されたのであった。なお、長女の育子さんは、【東京】女子高等師範学校【お茶の水大学】を卒業して女学校の教師となり、和子さんは群馬県立盲学校の教師となった。誠に、立派な家庭であったといわなければならない。この当時、中等学校へ進学する人の数は誠に少なくて、高等学校まで終える人は、ごく稀であったのである。

【参考】
 夭折された長男の方は均さんと言われ、明治42(1909)年2月19日に生まれ、同44(1911)年10月11日午前6時に亡くなられている(戸籍)。次女の怡(い)志(し)さんが生まれた1週間後のことで、その時の先生ご夫妻の悲しみは想像に絶するものであったと思う。

   D.家督相続
明治時代の農村のならわしでは、長男に嫁を取り、田畑の仕事が任せられるようになると、父親は息子に家督を相続させるのであった。瀬間先生のお宅でも、お家の仕事の都合で、妹【くに】さんに早く婿を取っておられたことだろう。そこで、お父さんが、「私も、もう年だから、福一郎、お前に、家督を相続させなければならないと思う…。」と言われたのに対して、先生は、「お父さん、私は東京まで勉強にやってもらったのだから、妹夫婦へ相続させて下さい…。」と言われた。お父さんも喜び、妹さんご夫婦も感激して、ある地所を先生の分として残し、他の財産を引き受けて立派にお家を引き継がれたのであった。
「これは馬山のねぎですが、先生方(3名)に食べていただきたいと思います。」と、奥様から私たちに一包みずつくださったことがあった。このようにして、先生の実家が益々繁栄されると共に、先生のお家にも十分余裕がおありになったようである。
【参考】
 戸籍によれば、父親乙五郎の死亡後は福一郎が家督を継ぎ(下仁田町馬山2193番地)で戸主である。福一郎の長男・均は夭折したので妹くにの4男俊雄を一時養子としたがすぐに協議離縁した。手元の戸籍では前橋市に戸籍を動かしていない。
 妹・くには、明治39年5月8日に甘楽郡一宮町大字神農(かの)原(はら)【富岡市】の今井和三郎の息子・竹松を婿にとり、 大正2(1913)年10月29日に分家した(下仁田町馬山2193)。この長男勇次の息子光則氏が現在の当主である。

   E.先生のお宅
 大正2(1913)年頃に私が知った瀬間先生の北曲輪町【千代田町】のお宅の記憶をたどってみよう。
 国道17号線(当時は県道)が郵便局の所から渋川方面へ曲がると竪川町通りになる。この角から5、600メートル北に行くと西に曲がる道があり、国道に平行して走る神明町通りへ出られる。この道の中程の南側に後藤【源久郎】先生の産婦人科医院があった。この道から神明町通りを南に2、300メートル行くと、県庁の方へ行ける東西の道があって、この角から4、5軒目の、南向きの陽当たりの良い平屋の家が先生のお宅であることを友達から教えられた。この頃、育さんは小学校へ通っていたようで、品の良いお年寄りがおられた。それが奥さんのお母【らく】さんだったのである。
【参考】前橋市紅雲町の長昌寺の瀬間家の墓域には瀬間家の隣に西山家の墓が寄り添うように建てられている。ここに千代子の母らくが眠っている。
 私の家の庭先に大きなザクロの木があって、毎年秋になると大きな実が沢山なった。この年も笑み割れた美しい実がなったので、母が、「瀬間先生のお嬢さんやお友達に上げたら…」と言ったので、私が持って行ったところ、奥さんが「まあ、良く出来たこと。みんなが喜ぶことでしょう。」と、言われたのを思い起こす。
 大正4(1915)年9月、私立前橋盲学校が開校して、校舎の西の方の部屋に生徒を寄宿させることになった。この時、舎監として瀬間先生のご家族もここへ引き移ったのであったが、それまでは北曲輪町【千代田町】におられたのである。?
    8.公立の盲人教育所
   (1)訓盲所
 明治38年(1905)9月、上野(こうずけ)教育会によって訓盲所が設立された。日露戦争によって失明した軍人を教育するためである。このことについては、『群馬の盲教育をかえりみて』(あずさ書店、1989年)を参照されたい。
 この時、東京盲唖学校校長の小西信(のぶ)八(はち)先生の推薦を受けて、瀬間先生が指導の任に当たられたのであった。乃木希(まれ)典(すけ)大将並びに、失明軍人、山岡熊次中佐の激励を受けて、力強く発足したのである。
 【参考】
 山岡熊次(1868〜1921年)は高知県出身。日露戦争で両眼を失明し、後に盲人協会会長など盲人のために尽くした。
 訓盲所は、授業は一日3時間、2カ年の講習で、国語・算数・按摩を伝授された。
   (2)特別学級
この訓盲所も、失明軍人の教育がわずか3カ年余りで終わり、その後、群馬県師範学校附属小学校の特別学級としてかろうじて生き続けることができた。けれども、それさえも6カ年程でその居場所を失ってしまい、ついに、前橋市立桃井(もものい)小学校【市立前橋訓盲所】に移らなければならないことになったのである。ところが、ここさえも1年にしてついに廃止のやむなきに至ったのであった。このように、めまぐるしい下り坂の変動の中にあって、終始盲教育への無理解と援助資金の乏しさに耐えてこられたのは、言うまでもなく瀬間先生その人であったのである。今、その頃の思い出のいくつかを、次に記してみよう。
【参考】
 明治40年4月17日の文部省訓令6号により、師範学校に特別学級が置かれることが通達された。
 群馬県では明治41(1908)年4月〜大正3(1914)年3月)の間、群馬県教育会附属小学校の特別学級として開校していた。
 群馬県師範学校は新制群馬大学学芸学部(現・教育学部)の前身の1つである。ここの群馬県師範附属小学校(明治7(1874)年8月開校)は現在前橋市若宮町にある群馬大学教育学部附属小学校(昭和24年4月1日開校)とは直接つながらない。瀬間が通勤した当時は前橋市商工会議所(前橋市日吉町1−8−1)の辺りにあった。
 また、前橋市立桃井小学校には大正3(1914)年4月〜大正4(1915)年7月の1年3ヶ月の間、教室を借用して市立前橋訓盲所として存在した。

A.通勤
 初め訓盲所は、県庁前、今の群馬会館の西側にあったから、瀬間先生のお宅から通うのには距離も近いし、静かで、まことに好都合であった。
 けれども、附属小学校は市の東北の田圃の中であったからそう簡単にはいかない。市の賑やかなところを横切っていくのであって、時間も相当(30分位)かからなければならないのであった。従って、先生お一人ではなかなか難しいので、時には奥さんが送り迎えをなさったこともあったろう。また、生徒のうちの多少視力のある者が案内したこともあったであろう。大正2(1913)年頃には、諸岡【忠三郎、大正6年3月卒】君という、半盲(弱視)の生徒が下宿させてもらっていて、先生と一緒に往復していた。「今朝は、諸岡【忠三郎】君一人だけ。瀬間先生は…」と聞かれて諸岡【忠三郎】君が、「先生は患者があって、僕、先に来たんだよ…」と言っているところへ、人力車に乗って先生が来られた。こうしたことは時々あった。当時は、人力車に乗る人は医師とか金持ちの人とかであって、一般の人はほとんど乗らないのが普通であった。自転車でも、村に何台もなかったのである。まして、自動車などは全く珍しいので、もし通ったとしたら、「あっ、ああ、自動車だよー…」と子供達が大声で騒ぐと、家の中から飛び出してきて、「速いもんだなー…」と、感心しながら見送るほどだったのである。人力車は市内が50銭だというのを聞いた覚えがある。米が1升(1.4キロ)2、30銭の頃であった。それで、「先生は偉いんだな。」と私達は思ったものである。

   B.待遇について
 ある時、父が、
 「瀬間先生は偉い方だ。良くやっていなさる…」
と言うのを聞いて私が、
 「何故…」
と尋ねたところ、
 「職員録を見ていたが、附属小学校のところに『瀬間福一郎 月手当10円』とあるんだよ。普通なら、なかなかやれないことだ…」
と言った。その頃は、まだ私には、給与のことなど何も分かってなかったから、ただそのことだけを耳に留めたにすぎなかった。けれど、今になって思えば、父が感心したのも無理でないことを思わせられるのである。大正12年公布の公立学校職員待遇官等給与令によると、盲学校の訓導の初任給は40円であった。この時よりも10数年前のことではあったが、大きな変わりはなかったと思われるので調べてみたのであるが、瀬間先生が師範学校におられた頃はもう10年ほど経っているのであるから、本当ならば5、60円以上になっていたことだろう。その差のはなはだしいのに驚かされる。例え、それが、全日勤務でなくて嘱託であったにしても、誠にお粗末なものだと言わなければならない。当時の盲人教育の中心は、何と言っても職業を授けることにあった。
 「手に職を付けてやって、親のない後でも、人様のご厄介にならずに、生けるようにしてやりたい…」
というのが、親の願いであった。だから、もし、按摩なり鍼などの技術が習えるということがなかったならば、恐らく、生徒は集まらなかったであろう。それほど大切な指導者に対する待遇の低さには、全く唖然たらざるを得なかった。これも、盲人の教育に対する一般の認識がなかったことを示すものであったのである。瀬間先生は人力車までも使って出勤され、授業に遅れたことや休まれたことはほとんどなかったのであった。盲人の幸せを図ってやろうという考え以外の何ものもなかったと言えよう。
【参考】
 栗原の養父又市(1863〜1939年)は小学校の訓導であった。43年間旧北橘村立橘小学校八崎分校に勤め、現在の渋川市立橘北小学校に頌徳碑が建立された(現在は不明)。

   C.指導
 私が先生の教えを受けた大正2年頃は、【栗原は大正2年4月から群馬県教育会附属小学校の前橋訓盲所に入学し、翌3年4月に東京盲学校普通科4年に編入した】生徒数は10人余りで、3学年ほどに分かれていた。生徒の年齢は、12、3才から30歳を過ぎた者まであった。この中には、学校へ全く行ったことのない者から、高等小学校を卒業した者まであって、女生徒が2人ほどいた。また、師匠の家から通う者が多くて、遅刻や欠席も少なくなかった。
 さて、解剖・生理・病理などの講義が朝の1時間目にあって、その時は、講義を受ける者の他は思い思いに自習をしていた。
 按摩や鍼の実習は、教室の片隅に敷いた畳4畳の上で行われていたのである。毛布の上に先生がおられて、一人一人に手技を教えては、先生の体をもんで鍼をするのである。この頃は何も知らなかったが、後になってみると、手洗いの設備や消毒器なども必要であったことが分かったのである。小さなビンにアルコールを入れて使う程度であった。
 教室は小学校の1室であって、そのうちの北側2メートル位離れたところに板の衝立があって、その部分は文房具屋の出張売り場になっていた。休み時間には、一般の小学生達が買い物に来るので賑やかであった。また、冬には、この広い室内に小さな手あぶりの火鉢1つが置かれただけであったので、冷え切った手をわずかに暖める程度で、細い鍼などを使うことは難しかった。また、皮膚の上に直接行うマッサージも思うようには出来なかったものである。このような整わない条件の下の指導であるから、計画の立てようもない程であった。先生のご苦労は多かったのである。

   D.講習会
 学友諸岡【忠三郎】君と話していた時、
 「僕は、これから先生を前橋駅へ送って行くんだよ。先生は、土曜日ごとに午後から桐生市の鍼按組合の講習会へ行かれるのだ…」
と言った。この頃は、群馬県の鍼灸按摩の検定試験が行われていたから、この試験を受けるには解剖や生理・衛生のことを知らなければならないし、按摩・鍼灸の実技も習わなければ免許が公布されないのであった。試験の答案は点字でも良いことになっていたので、そのためには講師として瀬間先生をお願いすることが一番良かったのであろう。ただ、その講習の日数などは分からなかった。
 瀬間先生を汽車まで案内した諸岡【忠三郎】君と私は、それから2人で市内を歩いた。

E.水の泡
 大正2(1913)年12月10日の私の日記に、「東京に行きたいということを瀬間先生にお話ししたら、先生は、『行くのはいいが、家の人達に心配をかけないようにしなくてはいけない。卒業しても、必ず良いとも限らない。運だから、先のことは当てにはならない。水の泡みたいなものだからね…』と言われた。」と書いてある。その頃は、あまり考えもしないで、ただ東京へ行って勉強したいことでいっぱいであった。けれども、今になって60年も前に言われた先生の言葉がしみじみ思い返されてくる。
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶうたかた(泡)はかつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」と鴨長明が書いているように、人の一生はどうなるものか予測できるものではない。訓盲所の学友14人のことについてみても、行方不明になった者もあれば自殺した者もあった。卒業後に若くして死亡した者もあれば、東京盲学校勉学中に病死した者もあった。開業して多くの患者を扱った者や、市会議員に選ばれた者、盲学校教員になった者など様々である。ただ頑張るだけではどうにもならない。大きな力に従うより他にないのである。瀬間先生が、「家に心配をかけないように」と言われた通り、気を付けながら最善を尽くすより他はないというのが、当時の私の心境であった。
【参考】
 栗原は、大正2年(1913)4月から1年間、前橋の桃井小学校附属訓盲所に通い、普通科目・鍼按科を学習した。翌3年(1914)4月から東京盲学校普通科4年(5年制)、技芸科(鍼按科)2年(4年制)に編入学した。
 また、本文中に出てくる「市会議員」とは、諸岡忠三郎のことと思われる。

   F.教え子への配慮
 卒業生の多くは、前橋へ出ると瀬間先生を訪ねることが多かった。
 「ふん、そうかね…」
と聞いてくれる先生にお会いしていることがうれしかった。これも在学中に親身になってお世話下さったからである。私が東京盲学校へ行く時にも、
 「これを富岡兵吉先生にあげて、よろしく言って下さい…」
と言って、名刺を下さったのであった。それから後も、先生ご夫妻にどのくらいお世話になったか知れない。

    9.私立前橋盲学校並びに舎監勤務
 大正4年(1915年39歳)9月、医師後藤源久郎先生によって、私立前橋盲学校が設立された。場所は今の群馬会館のところで、部屋が10ばかりある平屋の古い建物で病院に使われたものであった。生徒数は12名、職員は4名で、希望に輝いて開校した。その時瀬間先生は、鍼按摩の教授と、大正6(1917)年からは舎監を兼ねておられた。それで、校舎の西の端の部屋に家族の方々も移られたのであった。
 その後、大正7年、寄宿舎は元上野(こうづけ)図書館の跡に移った。この建物は校舎の西南にあって、同じ敷地内であったために、生徒の通学にも便利であり、建物も通風・採光共に良くて申し分のないところであった。

 それから、大正15年3月に至るまで、教授の傍ら舎監として常に10名内外の生徒の生活指導にあたられたのであった。もちろん舎監としては奥様の並々ならないお骨折りのあったことは忘れられることのできないところである。
 こうして、私立学校時代の卒業生は40数名であって、そのうち半数以上が寄宿舎生であった。この他、中途退学者も相当あって、先生ご夫妻のお骨折りに預かった者は多かった。これらの人達は、その後県下各地でそれぞれ営業し、地域盲人会のために働いている。
 では、ここで、私立時代の先生や奥様のことについての私の思い出を記すことにする。

   A.水浴び
 「水浴びなどに行ってはいけない。見えないんだから、間違いなんかあったら大変だ…」これは、私が東京盲学校へ入学して初めての夏休みに瀬間先生のお宅へご挨拶に言った時「水浴びに行ったりして、遊んでいます…」と言った時に、先生から注意されたのであった。その時には視力もまだあったし、友達と近くの川で泳いでいたので、あまり感じもしなかったが、長い社会経験の結果、大変良いご注意であったことが分かる。
 その後、私には次のような体験がある。学校へ勤めるようになってからの夏休みに、近所の人と、桃ノ木川という幅3・40メートルの川へ泳ぎに行った。子供の時から慣れていた所なので、気軽に出かけたのであった。ところが、私の留守の数年の間に川下に水車が出来て川が堰き止められていたのであった。向こう岸には泳ぎに行けたが、帰りに中ほどで方向を間違えて、川上に向かって泳いだとみえてなかなか岸に着けない。視力は大分無くなっていたために、困って立ってみたら、意外にも足が川底に届かないのであった。慌ててしまったが、ようやく、岸の方からの呼ぶ声を頼りにやっとたどり着くことが出来た。もし一人であったら、と思うとそら恐ろしい感じがしたものである。
 足利盲学校の生徒と群馬県立盲学校の生徒は、年に1〜2回競技会を開いた。その時に目覚ましい活躍をしていた足利のA君が、夏休み中に渡良瀬川で水泳中に死亡したということを聞いて、惜しいことをしたと語らったものである。
 昭和15年7月に、群馬県立盲学校で帝国盲教育会の総会が開かれた。その準備に忙しい前の日のことであったが、「Y君が川で死んだそうです。」という知らせを聞いた。丁度、私の受け持ちだったので、早速生徒代表とY君の家へ行った。農家で、丁度養蚕の盛りの時であったが、母親が、「子供を連れて近くの川へ泳ぎに行って、それっきりなんです。」と泣かれた。Y君は半盲で成績も良く、快活な青年であった。来春は卒業という時だけに人一倍哀惜の思いが深かった。
 瀬間先生の生家のある馬山村には前に記した通り鏑川があって、子供達は良く泳いだそうであるが、老婦人は、「私は父が留守だったために、母から水浴びは堅く止められていました。それで、仕方なく友達の泳ぐのを見ているだけだったのです…」と話していた。やはり、万一を慮って親たちは注意したのであろう。まして、目が不自由であるというので、特別に先生のご両親が厳しく言い聞かせていたことは良くわかるのである。そうしたことが、教え子に対する先生の愛情となって現れたのであろう。
 全国の60数校の盲学校の内には、まだプールを持たない学校も多数ある。この実情からみても、普通人でさえ水の事故は絶えないことをみても、この事故から救う唯一の方法は、指導、監督の立場にある者の絶え間ない心遣いにあることをしみじみ感じさせられる。

   B.丁寧なご指導
 瀬間先生の授業について、卒業生の柴崎さんは次のような思い出を寄せてくれた。
 「瀬間先生が解剖学を教えて下さる時は、その実物の模型を持ってきて下さって、一つ一つ丁寧に手に持たせて、『これは何々、これは何々』と細かく教えて下さいました。それを良く思い出します。夏休みなどにお伺いすると、ぽつりぽつりといろいろなことを聞かせてくれたものです。それから、授業の始まる前に、いちいちイエスキリスト様にお祈りして下さいましたし、賛美歌133番『罪の淵に陥りて』を、よく口ずさんでおいででした。」
【参考】
 この当時の卒業生の柴崎さんには、次のお2人がいらっしゃる。
柴崎ヒネ 昭和4年3月卒。
 柴崎一郎 昭和6年3月卒
 ※賛美歌 493 罪の淵に陥りて ※変ロ長調→イ長調に移調
新聖歌 435 罪に沈む汝が友に
@罪に沈む汝(なが)友に勧(すす)めよ 助け船を
 主なるイエスは誰人(たれびと)も  贖(あがな)い得(う)る 神なり
  (くり返し) いざ助けよ  汝友を
         イエスは救(すく)わん  愛もて

A主を侮(あなど)る彼らにも  救いの御手(みて)は伸びて
 信じ縋(すが)らば  罪赦(ゆる)し  救いを与え給わん
  (くり返し)

B悪魔の手は汝(なが)心  頑(かたく)なになしたれど
 神の御手は汝胸に  御歌(みうた)を奏で給わん
  (くり返し)

C主の力は新たなり  御前(みまえ)に祈るごとに
 なお励みて汝友を  御前に連れ行くべし
  (くり返し)

   C.祈祷集会
 瀬間先生をはじめ、奥さん、お嬢さん達もみな熱心なクリスチャンであって、先生のお宅は、神に対する敬虔さと気高さを感じさせるものがあった。次に、卒業生荻野力次郎(昭和15年3月卒)さんの手紙によって、その一端を知っていただくこととする。
 「瀬間先生は、非常に熱心なクリスチャンだったと思います。というのは、私共、寄宿生として5年間お世話になっておりまして、今でもはっきり印象に残っておりますことは、寄宿舎の毎日の日課の一つとして、夜の7時に瀬間先生が中心となって舎生が輪を作って賛美歌を歌いお祈りする、つまり祈祷集会を行なっていたことです。それこそ、雨が降ろうが風が吹こうが、激しい雷が鳴り響こうが、1年1日の如く、休むことはありませんでした。生徒は、大多数が信者ではありませんから、時たま、ふざけたり笑いこけたりすることもありますが、どういう場合にも決して怒られるようなことはありませんでした。」

   D.先生の叱り方
 なお、荻野【力次郎】さんは続けて、「それから、先生は、非常に低音で、何時もおっとりしておられ、何か事が起こっても急がず騒がずといったタイプで、例えば生徒が何か失敗したとか、あるいはいけないことをしたとか、そういう時も大きな声を出して頭から怒鳴りつけるようなことはしないで、静かに側に来て低い声で、『何をしたのか? 駄目じゃないか。』というような叱り方でした。」

   E.勉強家の先生
 引き続いて、荻野【力次郎】さんは、先生の勉強家であったことについて書いている。
 「先生はお身体が非常にご丈夫な方で、晩年になってもなお読書がお好きで、いろいろな医学雑誌を取っていたようでした。私が驚いたのは、多分先生が74、5才の頃だったと思いますが、私が先生のお宅へお邪魔した時、先生がおっしゃるのに、『君は杉山三部書という本を持っていますか』と聞かれたので、『あります』と答えましたら
 『それ、少し貸してくれないかね』と言われ、お貸ししたら、約1年位お読みになり、
 『参考になりました』と返されました。年を取ってから、必要性の少ない医学書、しかも古書を読まれたのです。手元にありながら、ろくに読んだこともない私などに比較して、いかに勉強家であったかと感服しております。」

   F.年始回り
 瀬間先生は、いつも元日の学校の拝賀式が終わると、盲学校の職員や知人の家へ年始の挨拶に行かれた。今、大正9(1920)年の私の日記を紐といてみたら、「諸岡【忠三郎】君に案内されて、瀬間先生と共に内田【粂太郎】・杉山【勇司】先生のお宅へ年始に行き、山田・北川、その他の医院を回って舎に帰り、うどんをご馳走になる。」とあった。先生が義理堅い方であったことが分かる。内田【粂太郎】さんは師範学校の音楽の教師で、盲学校へも来られた方。杉山【勇司】さんは、盲学校最初の普通科の教師であって、この他の方は医師であった。
 「まあまあ、お早々に…」と、丁寧に奥さん方が答礼された。私は、幾年かお供したが、舎へ帰ってお汁粉やうどんや蕎麦をいたたいた記憶がある。

  G.甘酒
 朝から雪が降っていて凍るような風が吹いていた。瀬間先生はお昼にはお帰りになるのだったが、帰り際に、「寒いから帰りに寄っておいでなさい。」と言われた。私は午後の授業が済んだので、小川【徳太郎】さんと寄宿舎へお邪魔した。「さあさあ、寒いから、甘酒をわかしておきましたよ…。」と、奥様が迎えてくれた。部屋へ入ると、先生は火鉢の前で煙草を吸っておられた。「火の近くへ、お寄んなさい。」と言われるままに、良くおこった炭火に手をかざしていると、「どうぞ」と奥さんが手に取って下さったのは熱い湯飲みだった。冷え切っていた手に一種の心地よさを覚えて、静かに湯飲みをいただいて口に当てた。舌先が焼けるかと思う程の熱い液体だ。一口飲み下すと腹の中から暖まって、生き返ったような気分になった。話も弾んで、やがておいとまして外へ出たらまだ雪はちらついていた。このようなことは時々あったのである。

   H.患者に対する心得
 ある時、先生から治療家としてのお話を聞いた。
 (イ)胃痛の患者があって医者から注射をしてもらったのだが、どうしても治らないので他の医者を頼んだ。すると診察を受けてから、また注射するのかと思って患者が暴れた。医者は「こんなに動くと心臓麻痺を起こして死んでしまう。心臓の薬を注射するから静かにしな…」と言って、静まったところで麻酔薬を注射して治したという。このように、患者の心を他に転じて治療することは大切なことである。しかしこれは患者に信頼されている時でないといけない。
 (ロ)鍼の治療に当たっては「万病癒えずということなし。」という古人の言葉は良いと思う。せっかく遠くから訪ねて来て、「これは、鍼は駄目だ…。」などと言われれば、患者は力を落とすであろう。あるいは、「鍼の仕方が分からないんだろう」と疑われて、信用を無くすることもあろう。暗示作用が功を奏することもあるのだから、適当な処置が必要である。
 (ハ)寒い時に着物を脱がせたために風邪をひくような場合もあり、患者によっては、面倒がって治療をいやがるような場合もある。それで、なるべく暖かにして治療するように心掛けるべきである。私が修行した明治20(1887)年代には、衣服の上から鍼を刺したのであったが、それでも冬は細菌も比較的少ないためか、それほど害があったことを聞かなかった。しかし、今は、出来るだけ直に鍼をするよう心掛けなければならない。

 これらのお話を伺って、私共は教えられるところが多いのである。特に、治療室の暖房については、大変便利になってきたし、消毒なども行いやすくなってきている。けれども、社会の複雑化と共に、ノイローゼ気味の患者も多くなってきているので、この方面に対する注意も一層必要になってきていると思われるのである。

   I.東京の盲人会へ
 瀬間先生は、学校の勤務の傍らお家で治療をしておられたため、県外へ出張されることは少なかった。しかし、東京で開かれた盲人の会には行かれたのであった。

  (イ)全国盲人大会
  大正9年(1920年 43歳)
 2月20日に、全国盲人大会が、東京盲学校を会場にして開かれた。主催は東京市鍼按組合であって、会の趣旨は「盲人保護法の制定促進」を議会に陳情すると共に、一般の世論を喚起し、按摩専業を実現しようとするものであった。先生は、この際に上京して大会に出席され、帰校後その模様を私共に話してくださった。

  (ロ)盲教育50周年祝賀会
  大正14年(1925年 48歳)
 5月17日に、盲教育開始50周年記念式が東京盲学校で開かれ、参加者は600余名と盛会だった。式後、続いて祝賀会に移ったのである。瀬間先生は、大森【房吉】校長と共に出席された。
  【参考】
『点字毎日』大正14年5月
  東京と京都で盲教育50年記念
 東盲【筑波大学附属視覚特別支援学校】・築地【文京盲学校】・杉山【鍼按学校、戦災で廃校】・同愛【廃校、ヘレンケラー学院に発展】仏(ぶつ)眼(げん)【仏眼協会盲学校、戦災により廃校】の5盲学校出身者達は、明治8年5月22日、楽善会が組織された時をもって日本盲教育の記念とし、17日、東盲で盲教育開始50周年記念祝賀会を開催。
 一方、京都では、23日、京都市立盲学校で開催。古河太四郎氏の胸像除幕式の後、全国盲学校卒業者大会・代表者会を開き、
 1.失明防止に関する方策。
 2.盲人に対する教育の機会均等に関する研鑽。
 3.鍼灸マッサージ師法制定の件。
 4.国立点字出版所の件。
 5.点字出版振興のために補助金下付の件。
 6.点字普及の促進を期する。
の6件を審議。


    10.鍼灸按摩試験委員
 群馬県の鍼灸按摩の検定試験は、明治44(1911)年の内務省令によって毎年行われた。初めは前橋市の鍼灸按摩組合の幹部のうちから試験委員が委嘱されていたが、大正10(1921 年44歳)から先生に代わったのであった。高崎市の組合からも1名加わったのだと思う。試験は学科と実地とに分かれていた。学科の答案は点字のものが多かったので、瀬間先生はこれを読みに行かれたのであった。学科の合格者が実地試験を受けるのであるが、その数はずっと少なくなり、免許を授けられる実地の合格者は更に少数になるのが普通だった。
  昭和14年(1939年 52歳)
 私が、この時から高崎市の方に代わって試験委員を委嘱されてからは、毎年先生のご指示のもとに試験に当たって、先生がお辞めになるまでの数年間をご一緒にさせていただいた。今、その時の思い出を記してみよう。
 昭和14年の試験の通知を受けたので、私は瀬間先生のお宅へお伺いして色々お聞きし、試験問題についての打ち合わせなどをした。この時のお宅は、群馬会館の前の通りから2・30メートル奥の、静かで陽当たりの良い2階家であった。当日は、奥さんのご案内で県庁内の衛生課へ行き、それからある1室で点字の答案を瀬間先生と代わる代わる読んだ。採点は衛生課の医師の方と話し合って決めたのである。それから2週間程経ってから実地の試験があった。試験は5月から6月が多くて、午前9時から午後3〜4時までかかることもあった。帰りには何時も先生のお宅へお邪魔してから帰宅した。

  昭和19年(1944年 67歳)
 この頃、大東亜戦争は日増しに激しさを加えて、出征軍人の後を守るために若い者は皆、勤労動員で働いた。盲学校の生徒も農家の桑の皮むきに行ったり、陸軍病院へ行って傷病兵のマッサージをしたりした。疎開する者や食糧を求めて農村へ行く者が多くなった。こうした中で6月5日に試験の答案を調べ、また、18日に実地試験を行った。受験者は13名で、雨の降る日曜日であった。全く「月月火水木金金」で皆働いたのである。昼食も、パンだけであった。

  昭和20年(1945年 68歳)
 この年は、6月24日に答案を調べ、7月13日に実地試験が行われたが、実地の受験者はわずか2名だった。この日には、瀬間先生は勢多郡荒砥村【現在前橋市荒口町】の方へ疎開されていたためお見えにならなかった。8月5日の前橋大空襲には、お宅は火災を免れたのである。

  昭和21年(1946年 69歳)
 6月22日に試験の答案を調べる通知があった。その日は少し具合が悪くて先生はお休みだった。この年には学科の合格者がなかったために実地試験は行われなかった。
 普段お丈夫な先生の健康は、戦後の悪条件にも関わらず、間もなく回復されたのである。
 こうして先生は、大正10年から昭和21年まで20数年間、群馬県の鍼灸按摩マッサージの試験委員として貢献されたのであった。
 昭和22年に、按摩鍼灸、柔道整復等営業法が公布されたのであったが、この年あたりから全国的に試験の会場が、主に盲学校に移されるようになり、試験委員も盲学校の職員が当たるようになった。5月と6月に盲学校の教室を使い、教師2名が加わり県から係員が出張して試験が行われたのであった。?
    11.群馬県鍼灸按摩マッサージ連合会会長
 群馬県の鍼灸按摩マッサージの組合は各郡や市町村単位で出来ていた。それが、明治44(1911)年内務省から取締規則が出て次第に強化されて連合会となった。
 先生は、昭和9年(1934年 57歳)に会長に選ばれて、その後昭和10年大東亜戦争が最も激しさを増して来た頃までの*1→2*0年間、その職責を全うされたのであった。
 特にその後半は、物資が益々不足し、敵機来襲もあり、不安は増すばかりであった。こうした中で医師幹部なども不足したため、業務の煩雑は異常に加わったのであったが、これらに打ち勝つために並々ならぬお骨折りがあったのである。瀬間先生の組合に対するお気持ちを、卒業生の稲浜【正三郎、昭和2年卒】さんは
 「私が、まだ子供の頃、天笠氏の弟子であった時、鍼按組合の幹部連の雑談の中に登場される瀬間先生は、一般盲人や業界のご指導にもかなり深く感心を寄せられ、前橋ないしは県下の鍼按組合の創立にも多大のご貢献をなされたように、陰ながら聞いておりました。」
と言っていた。

    12.大東亜戦争以後の先生
 大東亜戦争が敗北という、我が国にかつてみなかった悲惨な結果に終わってからは、至る所に大きな痛手の跡がまざまざと残った。けれども、中から若芽が萌え出し伸びて広がるように、新たな力が沸きあふれていった。
 瀬間先生は既に68才であったけれども、ご夫妻共お元気で、お嬢さんとも一緒に日々をお過ごしであった。一応、公職から退かれて、悠々自適の生活に入られたのである。次に、その間の幾つかの思い出を記してみることにする。

   A.大手町のお住まい
  77歳の年に、前橋市の市役所が群馬会館の南へ新築されたのであったが、そのために、先生のお宅一帯が他へ移ったのであった。この時に先生ご一家は大手町の群馬大橋の近くの、静かな陽当たりの良いお家へ替わったのである。私も何回かお邪魔した。玄関の右が治療室で、その北に居間やお勝手があるようだった。先生はやはり治療を続けておられたのである。その頃、和子さんは小学校から群馬県立盲学校へ替わって勤めておられた。前年の28年は、先生ご夫妻の結婚後50年に当たっており、また当年は先生が喜寿を迎えられるという喜びが重なったのであった。お2人も益々お健やかで、誠に、慶賀すべき年であった。

   B.恩給
 ある時、小川【徳太郎】さんが、次のようなことを言った。
 「良くしたもので、瀬間先生も年だけれども、毎日患者を診ておられますよ…。20年も勤めれば、今なら恩給も相当付くのだけれど馬鹿馬鹿しいようですね。でも、患者さんを診ていれば張り合いもあるし収入もあるのだから…。」
 全く、その通りである。その頃は、15年勤めれば恩給が付くのだった。その上、辞める際には、1・2級は給与を上げてくれるのが慣わしとなっていたのである。それで、恩給の年額は、月給の大体4ヶ月分と言われていた。もちろん、勤続年数によって変わるのであって、16年目から1年増す毎に給与の150分の1が加算されるのであった。
 瀬間先生がお辞めになった時に、大森【房吉】校長は、「瀬間先生へは100円をお上げしました…」
と言った。それは、退職金である。貨幣価値は違うと言っても、お粗末であったと言わなければならない。それもこれも、私立の、まだまだ社会からあまり認められてなかった経営の苦しさからでやむを得なかったのであろう。私達は、このような薄遇に甘んじておられた先生であったことを忘れてはならない。
【参考】
 当時の前橋盲学校は経営が困難で、他の盲学校の教員の手当が44・5円のところ、大正8(1919)年に教員として採用された栗原が5円、翌年採用された小川徳太郎は10円だったという。栗原『光うすれいく時』には退勤後・休日に診療して家計を助けていた逸話が書かれている。
 県立移管後、少しは上昇し、昭和10年から賞与が給与の7割で与えられた。栗原・小川が69円というので、給与は100円に満たなかった(『群馬県盲教育史』
P504)。

   C.先生の散歩
 先生のお宅は、最近(昭和28年)開通した群馬大橋の近くなので、私は小川【徳太郎】さんの案内で、土曜日の午後だったと思うが、出かけた。
 「瀬間先生のお宅をお訪ねしてから、今度出来た橋を渡ってきましょうよ…」
というのであった。丁度、先生も奥さんもお嬢さんもおられたので、世間話をしてから
 「ついでに、新しい橋を渡って、行きたいのですが…」
と言うと、お嬢さんが「そのことですが、この間、夜になって父がいないので、どうしたのか近所を見ていましたら、橋の方から歩いてくるではありませんか。まあ良かったと思って心配したことを話すと、『橋が出来たというから歩いて見てきた。立派なものだね…。』と暢気(のんき)そうに言っているのにはあきれました。」と笑って話された。
 「昼は賑やかなので、夜になると良く散歩に出るのですよ…」と、付け加えた。
 先生は、もう80歳に近いのだったが、やはり、運動は欠かしたことがなかったのである。この頃の交通事情は、まだまだのんびりしたものであって、夜になると市内でも静かになるのであった。今となって見れば懐かしく思い返されてくる。私共は、それから、出来上がったばかりの群馬大橋を渡って帰ったのであった。

   D.先生の健康法
 「私はね、この間、脈がおかしいので、どうかしたのかと思って気を付けていたら、そのうちに普通になりましたよ…。」と話されたことがあった。私は「なる程、長寿を保たれる方は、やはり普段の細かな点についての心配りが行き届いていて、大事にならないうちに健康を取り戻してしまうのであろう。」と思った。
 またある時、「父は、治療が済んで患者さんが帰ると、良く横になるんですよ。」と和子さんが話されたことがあった。
 運動と休養との調和こそが健康を保つ最も大切なことであるのは明らかな点であるけれど、なかなかこれを、実際に生活の上に実行していくことは難しいことである。けれども、もし、この法則を違えるならば、病気を招く他はないのである。散歩については、前に記したが、先生は夜の静かな道を良く歩いたとのことである。少年の頃に数キロのところを、毎日往復されたことによって鍛えあげられた健康が、自然、老後の先生をしてこのようになさしめたのであろうか。
 先生は、煙草を、時々お家で吸っておられた。その頃は、キセルをまだ使われていたので、良く火鉢の縁を軽く叩いておられたことが思いだされる。お酒は全くお飲みにならなかったようだ。

   E.先生からのお便り
 私は、昭和33(1958)年の4月に開かれた東京盲学校の同窓会総会に久しぶりで出席した。塩野・小浜・秋葉の諸先生をはじめ、中村京太郎・戸田めぐむなどの先輩がいたが、皆、瀬間先生のご存じの方で、楽しい1日を過ごすことが出来た。そこで、早速その模様を先生にお知らせした。すると、間もなく、先生から次のご返事をいただいた。多分、年賀状以外のお便りは、これが、最後であったろう。

    4月16日     栗原【光沢吉】様
                 瀬間 福一郎
懐かしきお便りで、同窓会総会の模様(決議事項・会員の話題)など、細々お知らせ下さ れしことをありがたく感謝します。ご出席の方々に敬意を表します。お宅でも、皆様お揃いで健康第一に、ご自愛のこと、お祈り申し上げます。

今読み返して、80歳を超された先生のお顔が目の前に浮かんできて、「大任を果たしましたね。ご苦労でした…。」と、私が退職してお伺いした時に言われたお言葉と共に、いい知れない敬慕の念に打たれるものである。
【参考】
 栗原は、大正8(1919)年4月〜昭和32(1957)年3月まで38年間教員として勤務した。

13.表彰並びに感謝会
 盲人の教育福祉などについてはまだ一般に理解の少ない時代であったが、瀬間先生の「盲人の幸福のために」という強い信念に基づいた22才からの奉仕的な盲人教育、そして、一般盲人の幸せのためのご尽力は、心のある人々から大いに認められている。次に、こうした先生のご功績に与えられた幾つかの表彰あるいは感謝の集まりなどについて記してみよう。

   A.群馬県慈善協会からの表彰
 大正9年(1920年 43歳)群馬県慈善協会(養老院・孤児院・感化院【児童自立支援施設】・年収保護など)から表彰された。

   B.勤続15年祝賀式
 大正9年9月18日に、瀬間先生勤続15年祝賀式、並びに感謝会が、盲学校および寄宿舎で開かれた。来賓には、附属小学校の正木【時雄】、桃ノ井小学校の本間【勤】、元本校職員の矢沢【島次郎】の諸先生、および鍼按組合の有志14名。まず、9時から学校で式が始まり、祝辞があってから記念品(置き時計)贈呈。そして、瀬間先生の謝辞があって式を終わった。それから、会場を寄宿舎に移し、昼食後余興として琵琶・浄瑠璃などがあって4時に閉会した。この祝賀会のために卒業生が何回か準備会を開いたのであった。

   C.瀬間先生の奥様の感謝会
 大正14年(1925年 48歳)
 10月6日に、盲学校創立10周年記念式が行われたが、午後6時から寄宿舎で、奥様に対する感謝会が催された。出席者は宿舎でお世話になった者で、郡部から出かけた者もあって20数名と職員4名であった。賛美歌を合唱しお祈りをしてから、記念品として瀬戸の火鉢をお贈りした。続いて、職員・在校生・卒業生から、感謝の言葉が述べられ、奥様の謝辞があって、楽しく晩餐をいただいて閉会した。
 いつも10名内外の生徒のお世話をして下さったのであるから、容易なことではなかったのである。
 「社会の人から、盲人を嫌なものに思わせないようにしたい、と気を配っていたのだけれど、なかなか思うようにはいきませんでした…。」と、奥様はいつも言っておられた。卒業生の上村(かみむら)【二郎七、大正12年卒】さんは
 「感謝会の時の記念品に差し上げた瀬戸の火鉢は、8円50銭でした。それで余りが3円50銭あったのを差し上げたら、奥さんは赤城梨の盆をお買いになりました。」
と話してくれた。

   D.本県盲教育創始30周年記念式での表彰
   昭和10(1935年 58才)
 11月11日に、本県盲教育創始30周年記念式が、県立盲唖学校の、講堂で開かれた。この式場で、盲教育の功労者として、瀬間先生を始め、数名の方々が表彰され、記念品を贈られた。
 当日の来賓は、県庁始め、市内の学校長、本校の関係者、卒業生・父兄など多数であったが、これらの方々は、記念品として、乃木【希典】大将が訓盲所生徒に対して行った訓辞を掛け軸にして配ったのであった。この訓辞を直接聞かれたのは、全く瀬間先生お一人であったことを思うと、お心のうちはどんなであったろうかと思われた。式後マッサージ室で、卒業生達が瀬間先生から創立当時のことなど色々伺って散会した。
【参考】
 「乃木希典訓示
富國強兵といふ事に就(つ)いて、何が基であろうかと言へば、國家として遊民廃人の無いことが望である。然るに
此れを望めば教育という事より大切な事は無い。教育において、盲唖の人を教える其の方法手段、今日の如きに及んだのは、眞に文明の賜である。然しながらこれを學ぶ人は大いなる勇氣が必要であると考へる。普通健全な者ですら耐えざる事に耐えるのみならず、その學びえた事を実行する上に就いては、其の勇氣と忍耐とにより、健全にして遊情無能の人を戒め懲らすことにおいて、即ち富國強兵の大なる力となる事を信じる。
  右は、明治39年11月11日、群馬縣前橋なる上野教育會が明治38年9月縣下失明軍人6名の為に訓盲所を設けしを見舞はれし際、訓示されし言葉で、生徒が點字を以て筆記したものである。
 陸軍少将 桜井忠(ただ)温(よし) 書(印)」

  E.ヘレン・ケラー女史歓迎全国盲人大会での表彰
   昭和23年(1948年 71歳)
 9月6日に、日本盲人会連合の主催の下に、東京盲人会館で開かれたヘレン・ケラー女史歓迎全国盲人大会の席上で、我が国盲人の教育者、援護者、善行者などの表彰が行われた。この時、瀬間先生は、群馬県から選ばれて表彰され、記念品として置き時計をお受けになった。

   F.感謝会
   昭和26年(1951年 74歳)
 10月28日に、瀬間先生ご夫妻に対する感謝会が、曲輪町のお宅をお借りして行われた。小川【徳太郎】さんは、その時のことについて、
 「先生のお宅の8畳と6畳の2間が一杯になったのです」と、言っていた。次に私の日記を、参考までに記しておく。
 「28日 日曜 曇り
 10時に、瀬間先生のお宅へ着く。下仁田・東京・水上・尾島・館林・沼田などから、恩師の徳を慕って集まる者、25名。老先生ご夫妻を囲んで感謝の会を開き、記念品として、座布団を贈呈した。久方ぶりに会って昔を語り合う者がここかしこにあって賑やかだった。賛美歌を歌い、万歳を唱えて、2時過ぎ閉会した。群馬の盲人の恩人の徳を讃える、美しい集まりだった。」

   G.群馬県盲教育創立50周年記念式での表彰
   昭和32年(1957年 80歳)
 10月18日の空は良く晴れて、もう肌寒さを覚えた。10時半から、県立盲学校の控え室で、盲教育創立50周年記念式が行われた。県庁の方々を始め、多くの来賓を迎えて式辞・感謝状並びに記念品の贈呈、祝辞などがあって、祝賀会が開かれた。瀬間先生には、教育功労者として、感謝状と記念品の置き時計が贈られたが、次女の怡(い)志(し)さんが代理としてお見えになったのであった

14.先生ご夫妻の逝去
 「生者(しょうじゃ)必滅(ひつめつ)、会者(えしゃ)定離(じょうり)」の世の慣わしこそ、人生の常である。群馬の盲人の父であり、母であった瀬間先生ご夫妻には、永遠にお別れしなければならない時が来た。次にそのことについて、記すこととする。

   A.奥さん
 和子さんのお手紙には
 「母が亡くなったのは、昭和31年3月30日で、82歳でした。」
 とあって、先生79歳の時のことである。卒業生の深沢はる【昭和3年卒】さんは
 「奥さんがお亡くなりになった時、先生はとても寂しそうで、私は、今でも、あの先生のお顔が、目に浮かんできて、本当にお気の毒でした。」と言っていた。
「奥さんが、この頃具合が良くないそうですよ。お見舞いに行きましょうか…」
 と、小川【徳太郎】さんに言われて、お宅へお邪魔したのは、多分2月頃であったかと、思われるが、その時には、奥さんは、奥の部屋に休んでいらして、私共が行ったので襖を開けて、「良くお出かけでしたね…。ありがとう…。なかなか良くなくて…。ゆっくりしていって下さい…。失礼します…。」とおっしゃって、襖を閉められたのであった。
 それがお別れだったのである。私は、風邪をひいたため、告別式に、参列することが、できなくて残念であった。

B.先生
 深沢はるさんの手紙によると、
 「瀬間先生は、昭和38年10月、86歳(数え)で、お亡くなりになられました…。先生が亡くなられた時、私はお顔を拝ませていただきましたら、すごく和やかなお顔をなされておられました。でも、今度は私が、先生とのお別れがあまり悲しくて、何時までも泣き続けて身のしびれるような感じがいたし恥ずかしくなりましたこと、今も忘れることができません。」と、その時の様子を語ってくれた。さらに深沢【はる】さんは、「ご夫妻共、前橋教会で、しめやかな葬儀が行われました。」
と結んでいる。
 ご夫妻共、神の御許にあって、盲人の福祉のためにお守り下さっていることと思う。
私も和子さんからのお便りに接して、いい知れない寂しさと、耐え難い空しさに襲われたのであった。それで、その時の感動をまとめて、『六星の光』に書いてみた。それを、次に記しておく。
【参考】
 瀬間ご夫妻の墓地は、長昌寺(前橋市紅雲町)で、墓碑に瀬間の没年は昭和37年9月26日 享年84歳」とある。戸籍には福一郎の死亡を「同居和子」が届け出たとある。

  15.瀬間福一郎先生を偲んで
 感銘深い瀬間先生の思い出のなかに、お父さんと言いたいような穏やかで人なつこさが浮かぶ。
 先生は、群馬の盲教育の開拓者。
 輝かしい功績を残して、85歳の高齢で昇天された。
 汽車も知らない者も多かった群馬の山村から、盲目の少年が東京で学ぶ。
 驚くべき決意である。
 明治30年、東京盲唖学校卒業。
 日本点字を最初に活用し、新しい技術を社会に応用した。
 群馬の失明軍人教育所に、奉仕的に勤めたのは、明治38年。
 その後、師範の附属に移され、さらに小学校に置かれ、遂に廃止された。
 失望する生徒。励ます瀬間先生。
 「一人だにも、滅ぶるは」と立った後藤【源久郎】先生。前橋盲学校を誕生させた。
12名の生徒の喜び、微笑みを讃えた瀬間先生。
 こうして群馬の盲教育は、ようやく軌道に乗った。

 群馬県立盲唖学校の設立。
 それは、昭和2年の桜咲く頃。
 この時、瀬間先生は退職。
 苦難に満ちた、20年の育みの親を見捨てて学校は舞い立つ。
誰が先生を惜しまぬ者があろう・
 徳望のいよいよ加わる先生。

 鍼按試験委員
 鍼按組合連合会会長
 信頼厚い治療家
 慈父如き卒業生の世話
  散歩を欠かすことのなかった先生
  婦人は、先頃亡くなられた。
  先生を助くること強く
  舎生を慈しむこと、母のようであった。
  3人の娘は、皆教育者
  三女は、県立盲学校の教諭
  在天のご夫妻 盲界を守りたまえ!!   

 16.瀬間福一郎先生の年譜(経歴)
年 月日 できごと
明治10(1877)年 12月4日 群馬県北甘楽郡馬(ま)山(やま)村に生まれる。
父乙五郎、母かつ。
明治12(1879)年 4月18日 2歳 妹くに生まれる
明治13(1880)年 2月29日 3歳 横野りき、継母として迎えられる。
明治15(1881)年 5歳 角膜乾燥炎により失明。
明治21(1888)年 8月 11歳 下仁田町小黒(おぐろ)城定(じょうさだ)に按摩鍼灸を学び始める。
明治26(1893)年 3月 16歳 東京盲唖学校へ入学。
明治30(1897)年 3月 20歳 東京盲唖学校卒業。
6月 横浜訓盲院嘱託。
明治32(1899)年 3月 横浜訓盲院を退職。馬山村に帰り、磯部で開業。
明治33(1900)年 12月7日 23歳 佐藤やすと結婚。
明治34(1901)年 24歳 前橋で開業。
10月1日 妻やす死亡。
明治35(1902)年 25歳 自宅で塾を開く。
7月9日 キリスト教団前橋教会で洗礼を受ける。
明治36(1903)年 12月4日 26歳 西山千代子(ちよこ)と結婚。
明治38(1905)年 5月8日 28歳 長女育子生まれる。
7月31日  東京盲学校でのマッサージ講習会に参加し、校長
小西信八に盲学校創立を勧められる。
9月18日 上野(こうづけ)教育会の訓盲所創立(現在の群馬会館の西)、嘱託。生徒は失明軍人。
群馬県立盲学校の起源。
明治39(1906)年 5月8日  妹くに、婿として竹松を迎える。
11月1*1*日 訓盲所に乃木希典大将の慰問を受ける。
明治41(1908)年 4月  31歳 上野(こうづけ)(群馬県)師範附属小学校特別学級に改変(現在の前橋市日吉町)、訓導心得。技芸科2年4時間授業課程、国語・生理・按摩を担当。
明治42(1909)年 32歳 長男 均生まれる。
明治44(1911)年 34歳 次女 怡志(いし)生まれる。
明治44(1911)年 10月11日 長男 均死亡(午前6時)
大正2(1913)年 10月29日 36歳 瀬間竹松・くに妹夫婦、下仁田町馬山2193番地に分家。
大正3(1914)年 4月 37歳 桃井(もものい)小学校特別学級(市立訓盲所、現在の前橋市役所南)に改変(翌4月に閉鎖)、嘱託。
大正4(1915)年 9月6日 38歳 産婦人科医師、後藤源久郎が私立前橋盲学校を創立(現在の群馬会館)。勤務。
大正6(1917)年 4月 40歳 私立前橋盲学校校長、後藤源久郎逝去直前に枕元にて前橋盲学校を託される(同月14日 後藤源久郎逝去、60余歳)。
6月 盲学校内の教室を寄宿舎として使用し、舎監となる。
9月 盲学校校長・経営者として大森房吉就任。
11月 盲学校に隣接する上野図書館跡を寄宿舎として移転、舎監を継続する。
大正9(1920)年 2月27日 43歳 三女 和子生まれる。
群馬県慈善教会から表彰。
9月18日 勤続15年祝賀式、並びに感謝会。
大正10(1921)年 44歳 群馬県鍼灸按摩試験委員となる。
大正14(1925)年 5月17日 48歳 盲教育50周年祝賀会・祝賀会に参加。
10月6日 盲学校創立10周年記念式。後藤源久郎墓参。
その後婦人に対する感謝会。
昭和1(1925)年 11月 49歳 市内整備に伴い盲学校・寄宿舎が堀川町(現在表町)に移転。寄宿舎の舎監辞任。校長大森氏舎監を兼務。
12月25日 継母りき死亡(享年78才)。
昭和2(1927)年 3月26日 50歳 私立前橋盲学校閉校式。廃校となり退職(退職金
100円)。4月1日より県立盲学校創立、7月に現在地に移転。
昭和6(1931)年 6月18日 54歳 父・乙五郎死亡(90才)。
昭和9(1934)年 57歳 群馬県鍼灸按摩組合連合会会長となる。
昭和10(1935)年 11月11日 58歳 群馬県盲教育創始30周年記念会から表彰。
昭和11(1936)年 9月22日 59歳 長女育子、岡山県に嫁ぐ。
昭和12(1937)年 4月17日 60歳 後藤源久郎の20年忌法要を実施(前橋市紅雲町の
長昌寺、瀬間夫妻の墓に隣接)。
昭和16(1941)年 4月9日 64歳 妹くにの子・敏雄を養子に迎えるが、同年12月8日には協議離縁。
5月17日    次女 怡志(いし)、勢多郡荒砥村荒口(前橋市荒口町)に嫁ぐ。
昭和19(1944)年 67歳 群馬県鍼灸按摩組合連合会会長辞任。
昭和20(1945)年 68歳 勢多郡荒砥村荒口へ疎開(第2次世界大戦)。
昭和21(1946)年 69歳 群馬県鍼灸按摩試験委員辞任。
昭和23(1948)年 9月6日 71歳 ヘレン・ケラー女史歓迎全国盲人大会から表彰。
2月23日 次女怡志(いし)離婚して復籍。
昭和25(1951)年 10月28日 74歳 卒業生による先生ご夫妻に対する感謝会。
昭和29(1954)年 77歳 大手町に(自宅)移転。
昭和31(1956)年 3月30日 79歳 午前5時10分 妻・千代死去(82才)。
昭和32(1957)年 10月18日 80歳 群馬県盲教育創立50周年記念会から表彰次女怡志(いし)。代理出席。
昭和37(1962)年 9月26日 85歳 午前4時30分 死去。
  
   17.おわりに
 昭和50年の体育の日に筆をとったものの、たどたどしい歩みはなかなか思うようには進まず、もう51年も半ばとなってしまった。一体どうなるかなど、もどかしい焦りをさえ覚えるようにもなったけれども、ようやく年譜(経歴)を書き終わってほっとしたのである。
 その間、それでもなるべく多くの資料を集めることに努めた。そして、少しでも事実を誤りなく伝えたいと願ったのであるが、その結果は、以上のように誠に物足りないものになってしまい、瀬間先生に対して申し訳なく思っている。しかし、幸いご協力をいただいた方々の尊い体験の記憶や感動や調査などによって、動かすことの出来ない真実の一端を記録することのできたことは本当に喜ばしいことであって、感謝にたえない。
 さて、瀬間先生が、失明という重荷背負われて、85才という立派なご生涯を過ごされたこと、そのことが既に人間としての生き方に対する貴重な教訓でなければならない。人は誰もが生まれ甲斐、生き甲斐のある命を全うしたいと願わない者はないからである。しかも、それが群馬県という所で、明治・大正・昭和にわたる、我が国として大きな変動の合間に起こったことであったことを思う時、そこに特別な意味を認めることができると思う。土中から掘り出された一片の骨や石器によって、何万年も前の人類の体型、生活様式を想像し、それに基づいて現代並びに将来の人間の生き方に示唆を与えられることを思う時、たとえその方法はつたなく範囲は狭くても、事実の記録はいつか役立つことがあろうと淡い希望を持つ訳である。盲人に関する文献の少ない今日、何かの参考にしていただければ幸いである。
    昭和51年6月4日  父母の命日に記す

 栗原氏の作成した年譜・経歴に香取が追加・訂正した。
 瀬間ご夫妻とも、前橋市紅雲町の長昌寺に眠る。
追記

  18.新聞記事   【東京新聞  平成26年11月17日(月)発行  群馬版より抜粋 22面】
手島仁の「群馬学」講座 167   「長昌寺に眠るクリスチャン(4)」
 長昌寺に眠るクリスチャンに、瀬間(せま)福一郎・千代子夫妻もいる。瀬間福一郎は明治10(1877)年、北甘楽郡馬山【まやま】村(現下仁田町)に生まれた。 幼少期に失明し、東京盲学校を卒業した。横浜基督(きりすと)教訓盲院嘱託などを経て、前橋市ではり、あんまを施す鍼(しん)按(あん)所を開業。明治35(1902)年からは瀬間塾を開いて、目の不自由な人に点字を用いて一般教養から鍼按まで教育した。
 瀬間塾が、群馬県で点字を使用した最初の盲教育機関であった。明治38年、瀬間は群馬師範学校長で県視学・上野教育会長の大束(おおつか)重善(しげよし)と相談し、上野教育会付属訓盲所を開設した。日露戦争で失明した軍人を教育し救済するためであった。
 この知らせを乃木希典は喜んだ。よく知られているように乃木は日露戦争で第3軍司令官であった。高崎に置かれた歩兵十五連隊は、乃木の第3軍に編入され旅順の占領を成し遂げた。
乃木は明治39年、お忍びで上野教育会付属訓盲所を訪問し、失明軍人を激励した。このとき、乃木が投宿したのが前橋市内の白井屋旅館であった。お忍びゆえ乃木は、宿帳への記帳を遠慮したが、宿の主人は警察への届け出の義務があることから催促した。乃木は鉛筆で薄く名前を書いた。それを見た宿屋の主人が驚いたのは言うまでもなかった。警察、新聞社に知られ大騒ぎとなった。
 乃木の訪問によって上野教育会付属訓盲所は、明治41年、一般の視覚障害者も受け入れ「群馬県師範学校付属訓盲所」となった。こうして本県の訓盲教育が始まったが、道のりは平たんでなかった。
 県師範学校付属訓盲所は前橋市立訓盲所となったが、前橋市は大正4(1915)年、経費節減を理由に廃止に踏み切った。そこで、同訓盲所に医師として出講していた後藤(ごとう)源久郎(げんくろう)は私財を投じて引き継ぎ、私立前橋盲学校を開校した。後藤は熊本県出身で、前橋市で開業する産科医であった。前橋教会初代牧師・海老名弾正から受洗し、同協会の役員として活躍する柱石であった。
後藤は校長として資産家、篤志家を回り資金集めをしながら、翌年、鍼按の免許取得の指定の認可を得るなど経営改善に努めた。一方、盲学校の運営は瀬間福一郎・千代子夫妻が担った。しかし、後藤はその過労が重なり、大正6年4月17日昇天した。後藤も長昌寺に眠っている。
 私立前橋盲学校は前橋教会員の大森房吉が校長となって運営された。大森は家族と共に校内に起居し、普通科の授業のほか、始業の鐘ふりなどもこなした。
手島仁(前橋市歴史文化遺産活用室長)










栗原光沢吉(くりはら つやきち)略歴
参照: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012版)

盲目の盲学校教師で、大正から昭和にかけての盲教育についての著作を多く著した。
? 1897年2月28日 群馬県南橘村(現前橋市)で生まれる
? 1900年 群馬県北橘村の小学校教師栗原又一とハツ夫妻の養子になる
? 1911年 桃川高等小学校を卒業
? 1913年 前橋市の訓盲所に通い、普通科目・鍼按科を学習する
? 1914年 東京盲学校普通科4年(5年制)、技芸科(鍼按科)2年(4年制)に編入学
? 1916年 東京盲学校普通科を卒業し、専攻科・鍼按科4年生になる
? 1916年 東京盲学校師範科に入学
? 1919年3月 東京盲学校師範科を卒業、私立前橋盲学校の教師になる。
? 1924年 黒沢てつと結婚
? 1927年 群馬県立盲唖学校が開校、私立前橋盲学校の生徒・職員はここに移籍
? 1957年 群馬県立盲学校を退職し、住居を東京都杉並区に移す。
? 退職後は、日本点字図書館の本の校正をボランティアでしたり、盲教育中心に歴史を証言する文章を書いた
? 1996年3月 逝去、享年99

? 著書
? 『富岡兵吉先生の思い出』桜雲会、点字出版
? 『瀬間福一郎先生の思い出』桜雲会、点字出版
? 『富岡兵吉先生の思い出』1971年、ガリ版印刷
? 『大正の東京盲学校』あずさ書店、1986年1月、B6判
? 『点字器とのあゆみ』あずさ書店、1988年8月、B6判
? 『群馬の盲教育をかえりみて』あずさ書店、1989年8月、A5判
? 『点字の輝きに生きる』あずさ書店、1990年7月、B6判
? 『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』あずさ書店、1993年5月、B6判
? 『点字器とのあゆみ』『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』大空社、1998年(「盲人たちの自叙伝 51」第3期20冊の1冊として上掲2冊を合本復刻)
? 『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』文芸社、2007年(上掲のものを再録)






















 






                           発行:群馬県立盲学校         
                                                 平成27年10月23日          
〒371-0805     
群馬県前橋市南町四丁目5番地1
TEL  027−224−7890 
FAX  027−243−2821

 ■2■歴史に消えた先駆的な盲学校2014年 日本盲教育史研究会発表 
歴史に消えた先駆的な盲学校 仏眼協会盲学校 
       群馬県立盲学校教諭 香取 俊光

はじめに
 これまでに存在した盲学校の全体像、校名・創立年代・創立地・創立者とその経緯など、これはこの日本盲教育史研究会や多くの研究者の一つの疑問ではなかろうか。
 現在の筆者の挑戦している一つの課題でもある。これまでに184校をピックアップして、発表の計画をしている。
 今回は、歴史に埋もれた盲学校の発掘作業の中で、興味を覚えた先駆的な盲学校・仏眼(ぶつげん)協会盲学校を紹介しようと思う。
 仏眼協会盲学校は戦前に東京浅草にあったが、戦災で焼失し、我々の記憶から消えてしまった。
 文部省編『盲聾教育八十年史』(文部省、1958年)にも名前しか出てこない。その他の書籍にも詳細に書かれている者は少ない。

1.仏眼協会盲学校の概要
 校名は「ぶつげん」と読む。浅草区松清町39(現在台東区西浅草1丁目)にあった。
 仏眼協会は、大正9年6月30日の創立といわれ、東本願寺布教使・和田祐意氏が中心となり、失明者防止と失明者保護を目的として社会福祉事業の一環として発足された。
 東京の仏眼協会盲学校は大正13(1924)年4月15日に開校し、昭和20(1945)年の東京大空襲で消失し、歴史に埋もれてしまった。
 また、現在京都に京都仏眼医療専門学校があるが、これも仏眼協会に由来する。同校に問い合わせをしたら、以下の創立経緯を教授していただいた。
 大正11年6月30日、真宗大谷派末寺僧侶有志の末日会員12名が設立運営する仏眼協会京都支部が発足し、京都帝国大学医学部教授市川清博士の指導により中途失明者のための鍼灸、あん摩マッサージの促成講習が開始された。これが、按摩マッサージの講習所として存続していき、昭和23年5月10日、学制改革で「仏眼厚生学校」となり、各種学校の認可受けたという。
 仏眼協会は、東京・京都以外にも大阪に支部があった。
 インターネットで仏眼協会を検索すると、総務省の法人の一覧に「大日本仏眼協会(宮城県仙台市青葉区本町1−4−35)」として見えるが、電話や手紙を出しても返事がない。
 また、同校の校歌は、広島呉市の著名な作曲家藤井清水が昭和7(1932)9月10日の作品である。作詞は、言語学者で東大名誉教授になった藤岡勝二である。この作品は歴史の彼方に消えてしまったと思っていたら、本会の事務局長・岸博実先生から作品を紹介いただいた。
 ※藤井清水(ふじい きよみ、1889年2月17日〜1944年3月25日)は、童謡作曲家、民謡研究家で、広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身であり、生涯に約1900曲も作曲した。
 呉市藤井清水の会が彼を顕彰し、藤井清水資料室もあり、資料室に仏眼協会の校歌が保存されているか問い合わせたが未所蔵であった。

2.先駆的な部分
 ●東西医学を合併した医療と盲学校の2施設がある。
。現在の盲学校は、医療機関と密接な関係を持つ施設はほとんどない。あるとすれば、厚生労働省管轄の国立リハビリテーションセンターなどくらいであろうか。現在でも先駆的な試みであった。

 図1 (東京都立公文書館所蔵)は、建設予定の見取り図を示した。全校舎の1階と2階部分だけを紹介した。
 全体は、地下1階、地上4階(屋上もあり)で、主な内部の施設を説明する。
 この図をみると、驚くべき規模であり、盲学校や東西医学の診療施設を併設したものであった。しかし、実際は盲学校のみ2階建てで、医療施設はヘット建てられたとようである。当初の計画では、建物は長方形で、地下だけ半分利用していた。
 敷地坪数 147坪
地下 75.01坪
 1階 107.77坪
 2階 107.77坪
 3階 107.77坪
 4階 107.77坪
 屋上 13.09坪 
 合計 519.18坪
 他にドライエリア 12.93坪
 主な部屋を紹介する。
 地下…食堂・炊事室・機関室
 1階…鍼灸按摩室・病室・暗室・治療室・手術室・応接室・薬局
 2階…寝室・生徒食堂・生徒病室・看護婦室・舎監室
 3階…マッサージ教室・教室(12人)・按摩教室・教務室・鍼教室・教室(18人)×2つ
 4階…教室(12人)×5・教室(24人)・理事室・講堂(144人)

図1.仏眼協会盲学校1階・2階見取り図(東京都立公文書館所蔵)


3.文字資料
 仏眼協会や盲学校に関係する文字の資料を『激動の80年 ―視覚障害者の歩んだ道程』(毎日新聞社点字毎日、2002年を中心に紹介する。
 『激動の80年』は、【点毎】と略して年月を附す。

 資料@【点毎】大正12(1923)年4月
 京都と滋賀で開眼検診
 京都仏眼協会は京大付属病院
市川【清】博士の協力を得て旧再診療を開始。11年4月から12月まで診察を受けた199人中、視力回復見込み者11人、視力増進見込み者41人。内診療を受けた20人中回復した者4人、増進した者16人。滋賀県では、救済協会が主催し、415人中122人が診療を受け。27人が回復、見込み者と診断。

 資料A【点毎】大正13(1924)年4月
  仏眼協会盲学校を開校
 東京の東浅草内の本願寺内の仏眼協会は、盲人救済のため盲学校を15日から開校する。15才以上の者を入学させ、鍼按教育を行う。

 資料B【点毎】大正14(1925)年5月
 東京と京都で盲教育50年記念
 東盲・築地・杉山・同愛・仏眼の5盲学校出身者達は、明治8年5月22日楽善会が組織された時をもって日本盲教育の記念として、17日、東盲で盲教育開始50周年記念祝賀会を開催。
一方、京都では、23日、京都市立盲学校で開催。
古川太四郎氏の胸像除幕式の後、全国盲学校卒業者大会・代表者会を開き、
 1.失明防止に関する方策。
 2.盲人に対する教育の機会均等に関する研鑽。
 3.鍼灸マッサージ師法制定の件。
 4.国立点字出版所の件。
 5.点字出版振興のために補助金下付の件。
 6.点字普及の促進を期すの6件を審議。


 資料C【点毎】大正15(1925)年3月
  日本盲人協会長に片山【国嘉】氏
 日本盲人協会長は、大正10年山岡熊次氏の逝去以来空席であったが、この程、仏眼協会盲学校長、医学博士片山国嘉【くにふさ】氏が就任。

 資料D【点毎】昭和4(1929)年5月
  関東北部盲学生陸上競技大会
 在東京5盲学校主催の第1回関東北部盲学生陸上競技大会は、19日学習院競技場で開催。
東盲・築地・ 同愛・仏眼・杉山・中郡・横浜訓盲・横浜盲人・新潟・石川・岩手・磐城・庄内・茨城・宇都宮・足利・埼玉の17校が参加。
東盲が総合優勝。

 資料E【点毎】昭和5(1930)年5月
  都下雄弁連盟発足
 東盲・築地・杉山・同愛・仏眼の5盲学校は、都下盲学生雄弁連盟を組織し、雄弁研究をスタート。

 資料F【点毎】昭和7(1932)年5月
  仏眼協会盲学校人事 相談部を開設
 仏眼協会盲学校は、5日同窓会創立総会を開き、藤岡博士を校長に推戴することを決めた後、人事相談部を設けて、失明者の職業紹介・同窓生の人事相談をすることなどを決める。

 資料G【点毎】昭和15(1940)年8月
  仏眼協会財団法人に
 山本暁得氏の尽力で生まれた仏眼協会は創設以来20年間開眼検診、按摩の講習会などを主催しているが、この程財団法人の認可を得る。

 資料H【点毎】昭和17(1942)年9月
  大日本仏眼協会結成
 東京浅草の財団法人仏眼協会と財団法人協会京都仏眼協会が合併して、2日東京浅草の本願寺で大日本仏眼協会結成大会を開催。総裁に大谷派本願寺裏方を会長に、読売新聞社長正力松太郎氏をそれぞれ推戴。

 資料I【点毎】昭和19(1944)年6月
  仏眼協会大阪に診療所開設
 大日本仏眼協会大阪支部は大正通に6日から仏眼協会診療所を開設。眼疾患者の治療を開始。

 資料J【点毎】昭和19(1944)年7月
  高崎盲への転学者急増
盲学校の疎開で、群馬県高崎盲への転学者が激増。既に築地盲から21人、仏盲から8人。同愛・杉山盲数名づつ転学疎開。
同校では収容しきれないため、隣接のお寺の本堂を臨時寄宿舎に解放してその受け入れに奔走。

 資料K【点毎】昭和19(1944)年8月
  仏盲父兄教育
 仏眼盲は授業停止後、家庭にある盲人のために、まず父兄教育をすることになり、毎週2回、父兄を学校に集め、点字教授など実施。

 資料L【点毎】昭和20(1945)年8月
  戦災盲学校
 点毎の調査によると、戦災を受けた盲学校は、八王子、青森、平、杉山、仏眼、横訓、浜松、豊橋、愛知、名古屋、岐阜、富山、和歌山、大阪市、神戸、広島、下関、徳島、香川、大分、佐賀、同愛など40校以上と判明。

 資料M 『京都盲唖院〜京都府立盲学校 新聞・雑誌が描いた盲唖院・盲学校』p186
 ○日時不詳  杉山鍼按学校、帝都空襲によって、一瞬の中に校舎を失った
 ○日時不詳  仏眼協会盲学校、東京空襲により校舎を焼失(復興断念・消滅へ)
 ★盲学校の疎開は、「現場任せの疎開先探し」「戦後の学校再開の遅さ」を特徴とする。

 資料N【点毎】昭和20(1945)年11月
  点字紙「仏眼[ぶつげん]」休刊
 京都の弘誓社発行点字宗教雑誌「仏眼」の発行人山本しゃっこう(暁得氏未亡人さん死去により、第256号)「山本しゃっこうさん」追悼号をもって休刊。

おわりに
 このように仏眼協会が失明防止の目的を持ち結成され、その目的の中で東京の仏眼協会盲学校は医療施設と協調して存在していた。眼科検診・治療と共に盲学校の授業を持つという東西医学合併の先駆的な学校で、現存すれば特異な盲学校であったといえよう。
 今後は、設立当初の計画と実際の建物の関係、学則や授業の内容など明らかにし発表していきたいと思う。
 付記:原稿作成では岸 博実先生にお世話になった。ここに記して感謝を申し上げる。

 ■3■茨城経穴 講演レジュメ 2016 年
第69回関東甲越地区協議会茨城大会基調講演レジュメ
日時:平成28年10月30日(日)
 場所: ホテルマロウド筑波

    経穴部位の世界標準化の課題 −鍼灸学史・臨床との関わり−
 講師:香取 俊光
(群馬県立盲学校教諭、元第2次日本経穴委員会作業部員、
鍼光会学術部長)

  【要点】
 1./何故経穴部位を変更しなくてはならなかったか?
 2.経穴の主治は決まっていない。
 3.古典や名人達の著書をどう理解するか。
 4.経穴の部位や流注は時代により変化している。
 5.標準部位の経穴と治療効果のデータの積み重ね。臨床をどうつなげるか。
 6.臨床メモ ・痛みの軽減の方法
 按摩…重いだけでなく軽いタッチ、どこを対象にするか
 鍼…左右陰陽調整、同盟陰陽経脈調整
?
  はじめに
 私は盲学校での経穴・東洋医学などの授業をしながら盲人鍼医杉山和一(1610〜1694年)の医学史研究を行っています。こんな事情から経穴部位の国際標準化の課題を歴史・臨床を含んで講演をさせていた炊きます。
 さて、杉山和一とその師弟教育は、現在の日本の鍼灸按摩に大きな影響を与えたと考えています。つくば市に隣接する土浦市永国の大聖寺には和一の高弟三島安一(1645〜1720年)が奉納した奥本尊・大日如来があり、その墓も土浦市宍塚般若寺に現存しています。水戸藩には西村流という一派もありました。
 また、2006年11月にこのつくばで経穴部位の国際標準が決議され0て、早くも10年以上が経ちました。私の参加した第2次経穴委員会は「日本経絡経穴研究会」として新規に活動しています。
 今回は関東甲越の指導者の方々が多いので、若い人たちとの経穴の部位の話題ができるように、「現在の人たちから見た経穴の変更」の資料を作成し、臨床化の方々のためにささやかな臨床の資料を提供しました。ご帰宅の後に詳細にご確認くだされれば幸いです。
 蛇足ですが、
 拙著、第二次日本経穴委員会 作業部会編『経穴部位国際標準化の変更点について ―経絡経穴を教える方たちへの虎の巻―』(日本経絡経穴研究会、2013年)
 日本経絡経穴研究会ホームページhttp://www.keiraku.org/wp/index.php
などを参考にして頂ければありがたく思います。

   1.経穴部位が国際標準化するまでの道のり
 中国の紀元前に経脈の発見があった。 
 『明堂経』 3世紀頃…正経12脈、奇経8脈、350穴
 『銅人?穴鍼灸図経』 1026年に編纂…14経、354穴を国家レベルで確定
 1989年に第1次経穴委員会により正穴361と決められた(ジュネーブ合意)。しかし、日本では批准せずにいた。2006年に正穴361の部位が国際標準化した(つくば合意)。6穴は1つの部位に決定できなかった。また、/正穴の主治、流注、奇穴・新穴の部位などは合意に至らなかった。
   2.世界の流れ
 我々の知らない間に用語、道具の世界標準化が進んでいる。中国・韓国の世界戦略。
 ・経絡は経脈とする国際標準
   3.経穴の国際標準の意味
 ・誰でも同じ位置を考えられる。
 ・誰が何度やっても同じ効果が出るようにする。
 ・治療点からどう離れたところが治療に有効であったかが客観かできる。
 古典や名人の著書は、本当にどこを取穴していたか分からない。標準点から上下左右にいどうしている可能性はある。

   4.若い人からみた経穴部位の変更とは。
 ・経穴の数は? 361←354
 指寸、1横指とは? …指寸は爪の先だけ、、横指は頬車・豊隆に使用する。
 両論併記の経穴(6穴)…2つの説が1つの説にできなかった。教科書の併記の表記のどちらが大事とは限らない。
 骨度法…生理と変更があった。

 同身寸法…1寸(親指の幅)、2寸(示指〜薬指)、3寸(示指〜小指)
 経穴の漢字は簡潔になった。古典を読むときは大変になった。
 名前が変わった経穴がある。…上関は昔は客主人
 本当に正確に感じを読んでいるのか?…肺兪は本当は「はいしゅ」、食竇は「しょくとう」と読む。
 上腕の流注の変更…陰経が上腕に平行から斜めになる。
 腹部の流注の変更…脾経が外方4寸←3.5寸
 肋間と同じ高さの違い…例えば中府を体表から触ると肋間のような感じがするが、実は下に肋骨はない。
 期門・日月の位置が変更…第9肋骨の下から第6(期門)・第7(日月)肋間に移動
 下腿の胆経はどこを流注するのか…基本的には腓骨の前縁
 取穴…骨度を基準に紐などを使い定める。中途半端な時は同身寸法を併用する。解剖学的な知識も活用する。
 上腕の取穴はどうするのか…肩を上げたり下げたりすると寸法が変わる。腋の下から肘までが9寸なので、この間の経穴は紐などで定める。腋の下と肩関節の間の経穴(臑会、肩貞)などは同身寸法で定める。
 前髪際の経穴…髪の毛が後退したらどう取穴スル。…前髪際は眉間から3寸と骨度で定めてある。
 ・体格の違いは標準点にどう関わるか…不容(胃経)・期門(肝経)・日月(胆経)は肋骨の広がり方が違うので前正中線からの取穴により必ずしも肋骨と関わらなくてもよい。
 列欠はどこから移動してきたか…肺経上にあったが今は限りなく大腸経上。
 陰谷・曲泉の位置関係…曲泉はホウコウ筋腱と薄筋腱との間、陰谷は今の曲泉穴の位置
 現在は…膝窩の内側から曲泉・陰谷・委中・委陽
 外膝眼はどこに…膝蓋靱帯上に犢鼻があったが、昔の外膝眼に移動。
 陽交。外丘の前後の移動…前に陽交、後に外丘であったのを、前に外丘・後に陽交、飛揚と並ぶ。
 名前が変わった経穴がある。…上関は昔は客主人
風市…日本人が足が短いのか?それとも手が長いのか?日本人がアジアの中でも一番短い。黒人が長い
 経穴の解剖は国際標準か?
 解剖擁護の点検…
 茎状突起…橈骨・尺骨の端の先の尖った部分。橈骨茎状突起は脈を診る隆起ではない。脈診部位は、今は橈骨下端隆起という。
 胸骨窩…頸窩は世界の解剖用語でない。
 内果尖・外果尖…触って一番高いところ。
 外側顆上稜…肘?穴の部位で上腕骨外側上顆の上縁。
 上項線…外後頭隆起の上縁に沿ったライン。
 側頸部がない(胸鎖乳突筋の後縁の前後で前後頸部)
 肩周囲部とは…今回新設
 ☆連線上…経穴委員会の日本語公式版の取穴に出てくる用語で、実際の体表は平面でないことを示している。

  【普段の研究から理解が深まったこと】
 督脈の絡穴・任脈の絡穴・脾の大絡とは何か。…長強は背中、鳩尾は腹部、大包は胸部の諸穴を結ぶ。
 12正経は環【たまき】の端がなく循環する…督脈と任脈、そして12整経の関係は、八の字型で循環している。任脈から督脈(経穴の順番とは逆に下方)に流れる。
 流注とは何か。経別・皮部との関係…経脈より浅井部分は皮部、経脈と体内を結ぶのは経別。臨床では流注を学んでおくと役立つ。
 ○顎の下や脇の下など、軽く撫でるだけでも効果がありますよ。
 ○こんな治療法をしっていますか?(必ずしも深く刺さない)
 ・右が痛ければ左の同じ部位に刺鍼。
 ・背中が痛ければ第9肋骨の先端に刺鍼。
 ・足の症状に頭のつむじの反応点
 →同盟陰陽経脈治療法…太陰肺経と太陰脾経(肘が痛ければ膝)
  【付記】
 私の専門は盲人史です。点薬データの提供希望や問い合わせがありましたら、以下のアドレスに連絡下さい。
E-MAIL: mojinshi@cronos.ocn.ne.jp
 また、インターネットで「私のホームページを索引ください。
 http://plaza.umin.ac.jp/~moujimshi
 「鍼灸按摩、盲人史q&a」などが掲載されています。
【拙著】
 「第2章1節 江戸期の理療教育 −杉山流の理療教育を中心に−」(『理療教育学序説』、ジアース教育出版社、p24〜35、、2015年)
?
【参考資料1】
  経穴部位の鍼灸比較表(変更のあったもののみ)
 ☆Noは、督脈から肝経までの経穴の通し番号を示した。変更のあった物だけ示したので、欠番がある。
 ☆No/経穴名/変更内容/旧経穴部位/旧教科書との変更の要点の順で記す。
   ――――――――――
 7/中枢/後正中線上,第10胸椎棘突起下方の陥凹部/ー/奇穴より正穴へ。
 26/水溝/人中溝中央か上1/3/人中溝中央/2説併記
 48/華蓋/前正中線上、第1肋間と同じ高さ/天突穴の下2寸、胸骨角上際正中線上/下方へ移動。
 51/廉泉/前正中線上、喉頭隆起上方、舌骨の上方陥凹部/喉頭隆起の上際で舌骨との間/上方へ移動。
 55/天府/上腕二頭筋外側縁/腋窩横紋の前端から尺沢に向かって下がること3寸/上腕内側二頭筋溝/流注が外側へ変更。
 56/侠白/上腕二頭筋外側縁、腋窩横紋の前端から尺沢に向かって下がること4寸/上腕の前内側/流注が外側へ変更。
 58/孔最/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。尺沢と太淵を結ぶ線上,手関節掌側横紋の上方7寸/尺沢の下方3寸/骨度の変更による移動。橈側へ移動。
 59/列欠/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。長母指外転筋腱と短母指伸筋腱の間/太淵の上方1寸5分で動脈拍動部のやや外側/骨度の変更による移動。橈側へ移動。
 60/経渠/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。橈骨動脈と下端隆起の間/太淵の上方1寸で動脈拍動部/骨度の変更による移動。橈側へ移動。
 62/魚際/第1中手骨中点の橈側、赤白肉際/第1中手指節関節の上、橈側陥凹部。/(別説1)の位置に変更。
 67/合谷/第2中手骨中点の橈側/第1・2中手骨底間の下、陥凹部、第2中手骨より/遠位に移動。
 69/偏歴/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。陽渓と曲池を結ぶ線上,手関節背側横紋の上方3寸/陽谿の上方3寸/骨度の変更による移動。
 70/温溜/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。手関節背側横紋の上方5寸/陽谿の上方5寸/骨度の変更による移動。
 71/下廉/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。肘窩横紋の下方4寸/曲池の下方4寸/骨度の変更による移動。
 72/上廉/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。肘窩横紋の下方3寸/曲池の下方3寸/骨度の変更による移動。
 73/手三里/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。肘窩横紋の下方2寸/曲池の下方2寸/骨度の変更による移動。
 75/肘?/上腕骨外側上顆の上方、外側顆上稜の前方/上腕骨外側上顆の上際で、上腕三頭筋外縁の陥凹部/前方へ移動。
 81/扶突/甲状軟骨上縁と同じ高さ、胸鎖乳突筋の前縁と後縁の間/喉頭隆起の外方3寸で下顎角の下方1寸。胸鎖乳突筋の前縁筋中/後方へ移動。
 82/禾?/水溝穴の外方5分/水溝穴の外方5分/2説併記
 83/迎香/鼻唇溝中で水溝穴の高さ/鼻孔の外方5分で鼻唇溝中/2説併記
 84/承泣/眼球と眼窩下縁の間、瞳孔線上/瞳孔の下7分、眼窩下縁の中央/上方へ移動。
 89/頬車/下顎角の前上方一横指(中指)/下顎角と耳垂下端の間の陥凹部/前方へ移動。
 90/下関/頬骨弓の下縁中点と下顎切痕の間の陥凹部/頬骨弓中央の下際陥凹部/下方へ移動。
 91/頭維/額角の直上0.5寸、前正中線の外方4.5寸/額角髪際、神庭穴の外4寸5分/5分後方へ移動。
 92/人迎/甲状軟骨上縁と同じ高さ、胸鎖乳突筋の前縁、総頚動脈上/喉頭隆起の外方1寸5分、動脈拍動部/後方へ移動。
 97/庫房/第1肋間、前正中線の外方4寸/第2肋骨上際にあり、乳頭線上/上方へ移動。
 118/犢鼻/膝蓋靭帯外方の陥凹部/膝蓋骨下縁と脛骨上端との中間で膝蓋靱帯中/外方へ移動(外膝眼)。
 124/解渓/足関節前面中央の陥凹部、長母指伸筋腱と長指伸筋腱の間/足関節前面中央、前脛骨筋腱の外側陥凹部/外方へ移動。
 125/衝陽/第2中足骨底部と中間楔状骨の間、足背動脈拍動部/第2・第3中足骨底間の前、陥凹部/後方(近位)へ移動。
 132/公孫/第1中足骨底の前下方、赤白肉際/太白穴の後ろ1寸/後下方へ移動。
 136/地機/脛骨内縁の後側、陰陵泉の下方3寸/内果の上8寸、脛骨内側縁の骨際/2寸上方へ移動。
 139/箕門/膝蓋骨底内側端と衝門を結ぶ線上、衝門から1/3、縫工筋と長内転筋の間、大腿動脈拍動部/膝蓋骨内上角の上8寸、縫工筋と大腿直筋の間/4寸上方へ移動。
 140/衝門/ソケイ溝,大腿動脈拍動部の外方/曲骨穴の外3寸5分、鼡径溝中の動脈拍動部/外方へ移動。
 141/府舎/前正中腺の外方4寸/臍の外3寸5分/5分外方へ移動。
 142/腹結/前正中腺の外方4寸/臍の外3寸5分/5分外方へ移動。
 143/大横/前正中腺の外方4寸/臍の外3寸5分/5分外方へ移動。
 144/腹哀/前正中腺の外方4寸/臍の外3寸5分/5分外方へ移動。
 149/大包/第6肋間/腋窩中央の下6寸/表現の違いで,ほぼ同じと考えられる。
 153/霊道/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。手関節掌側横紋の上方1寸5分/神門の上方1寸5分/骨度の変更による移動。
 154/通里/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。手関節掌側横紋の上方1寸/神門の上方1寸/骨度の変更による移動。
 155/陰?/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。手関節掌側横紋の上方5分/神門の上方5分/骨度の変更による移動。
 164/養老/前腕の骨度が1尺から1尺2寸に変更。手関節背側横紋の上方1寸/陽谷の上方1寸/骨度の変更による移動。
 165/支正/前腕の骨度が1尺2寸、尺骨と尺足手根屈筋との間。/尺骨後面のほぼ中央/骨度の変更による移動。内側に移動。
 169/天宗/肩甲棘の中点と肩甲骨下角を結んだ線上、肩甲棘から1/3にある陥凹部/棘下窩のほぼ中央/上方へ移動。
 170/秉風/肩甲棘中点の上方陥凹部/肩甲棘中央の上際/上方へ移動。
 171/曲垣/肩甲棘内側上方の陥凹部/肩甲棘内端の上際/上方へ移動。
 174/天窓/胸鎖乳突筋の後縁、甲状軟骨上縁と同じ高さ/下顎骨の後下方、胸鎖乳突筋の前縁で、扶突穴と天容穴のほぼ中央/後下方へ移動。
 175/天容/下顎角の後方、胸鎖乳突筋の前方陥凹部/下顎角の後ろで、胸鎖乳突筋の前縁/前方へ移動。
 178/睛明/内眼角の内上方と眼窩内側壁の間の陥凹部/内眼角の内方1分、鼻根との間/上方へ移動。
 180/眉衝/前頭切痕の上方,前髪際の後方5分/ー/奇穴から正穴へ。
 193/督兪/第6胸椎棘突起下縁と同じ高さ,後正中線の外方1寸5分/ー/奇穴より正穴へ。
 201/気海兪/第3腰椎棘突起下縁と同じ高さ,後正中線の外方1寸5分/ー/奇穴より正穴へ。
 203/関元兪/第5腰椎棘突起下縁と同じ高さ,後正中線の外方1寸5分/ー/奇穴より正穴へ。
 214/殷門/大腿二頭筋と半腱様筋の間、殿溝の下方6寸(殿溝〜委中間1尺4寸)/承扶穴と委中穴を結ぶ線のほぼ中央/1寸上方へ移動。
 231/秩辺/第4後仙骨孔と同じ高さ、正中仙骨稜の外方3寸/正中仙骨稜第3仙椎棘突起の下外方3寸/下方へ移動。
 232/合陽/腓腹筋外側頭と内側頭の間、膝窩横紋の下方2寸/委中穴の直下3寸/(別説)に変更。1寸上方へ移動。
 240/金門/外果前縁の遠位、第5中足骨粗面の後方、立方骨下方の陥凹部/申脈穴の前下方、踵立方関節の外側陥凹部/前下方へ移動。
 241/京骨/第5中足骨粗面の遠位、赤白肉際/第5中足骨粗面の後下際、表裏の肌目陥凹部/前方(遠位)へ移動。
 249/水泉/太渓の下方1寸/ー/順番変更
 250/照海/内果尖の下方1寸/ー/順番変更
 254/陰谷/膝窩横紋上、半腱様筋腱の外縁/膝窩横紋の内端で半腱様筋と半膜様筋腱の間/外方へ移動。
 273/天泉/上腕二頭筋長頭と短頭の間/腋窩横紋の前端から、曲沢穴に向かい下2寸/流注が外側へ移動。
 275/?門/前腕の骨度が1尺から1尺2寸。手関節掌側横紋の上方5寸/ー/骨度の変更による移動。
 276/間使/前腕の骨度が1尺から1尺2寸。手関節掌側横紋の上方3寸/ー/骨度の変更による移動。
 277/内関/前腕の骨度が1尺から1尺2寸。手関節掌側横紋の上方2寸/ー/骨度の変更による移動。
 279/労宮/手掌で、第2・3の間か第3・4の間/手掌の中央で、第3・第4中手骨の間/2説併記
 280/中衝/中指先端か尺側か/中指橈側/2説併記
 285/外関/橈骨と尺骨の前腕骨間の中点/総指伸筋健と小指伸筋健の間/橈側へ移動。骨度の変更による移動。
 286/支溝/橈骨と尺骨の前腕骨間の中点/総指伸筋健と小指伸筋健の間/橈側へ移動。骨度の変更による移動。
 287/会宗/尺骨の橈側縁/小指伸筋健の尺側手根伸筋腱の間/橈側へ移動。骨度の変更による移動。
 288/三陽絡/橈骨と尺骨の前腕骨間の中点/総指伸筋健と小指伸筋健の間/橈側へ移動。骨度の変更による移動。
 289/四?/橈骨と尺骨の前腕骨間の中点/総指伸筋健と小指伸筋健の間。肘頭のの下方5寸/橈側・上方へ移動。骨度の変更による移動。
 292/消?/肘頭と肩峰角を結ぶ線上、肘頭の上方5寸/清冷淵(肘頭の上2寸)と臑会(肩?の下3寸)の中央/上方へ移動。
 296/天?/下顎角の高さで、胸鎖乳突筋の後方の陥凹部/乳様突起の後下方で胸鎖乳突筋の後縁/後下方へ移動。
 306/上関/頬骨弓中央の上際陥凹部/客主人/経穴名称の変更。
 307/頷厭/頭維から曲鬢 を結ぶ曲線(側頭の髪際に平行)上/頭維穴と懸釐穴を結ぶ線上で、頭維穴の下1寸/後上方へ移動。
 308/懸顱/頭維から曲鬢 を結ぶ曲線(側頭の髪際に平行)上/頭維穴と懸釐穴を結ぶ線上で、頭維穴の下2寸/後上方へ移動。
 309/懸釐/頭維から曲鬢 を結ぶ曲線(側頭の髪際に平行)上/頭維穴の下3寸で、側頭下髪際と前兌髪際との接点/後上方へ移動。
 310/曲鬢/耳前の後髮際に沿う垂線と耳尖の高さの水平線の交点/角孫穴と和?穴の中間/上方へ移動。
 315/完骨/乳様突起の後下方の陥凹部/乳様突起中央の後方で、髪際を4分入ったところの陥凹部/下方へ移動。
 323/風池/風府と同じ高さ/乳様突起下端と?門穴との中間で、後髪際陥凹部/上方へ移動。
 325/淵腋/第4肋間,中腋窩線上/腋窩中央の下方3寸で中腋窩線上/表現の違いで,同じと考えられる。
 327/日月/第7肋間間隙で、前正中線から外方4寸/期門穴(第9肋軟骨付着部下際)の直下5分/上方へ移動。
 332/居?/上前腸骨棘と大腿骨大転子を結ぶ線上の中点/維道穴から環跳穴(大転子の頂点から上前腸骨棘に向かい1/3)に向かい下3寸/後下方へ移動。
 333/環跳/大転子の前か後ろか/大転子の前上部/2説併記
 334/風市/直立して腕を下垂し,手掌を大腿部に付けたとき,中指の先端があたる腸脛靭帯の後方陥凹部/ー/奇穴より正穴へ。
 335/中?/腸脛靱帯の後縁/腸脛靱帯と大腿二頭筋の間/前方へ移動。
 336/膝陽関/大腿骨外側上顆の後上縁/足膝関/経穴名称の変更。
 338/陽交/腓骨の後縁/腓骨の前縁/後方へ移動。
 339/外丘/腓骨の前縁/腓骨の後縁/前方へ移動。
  354/膝関/脛骨内側顆の下方、陰陵泉の後方1寸/曲泉穴の直下で脛骨内側顆の下縁/下方へ移動。
 355/曲泉/膝窩横紋内側端、半腱・半膜様筋腱の内側の陥凹部/ホウコウ筋腱と薄筋腱との間/後方へ移動。
 359/急脈/恥骨結合上縁と同じ高さ,前正中線の外方2寸5分/ー/奇穴より正穴へ。
 361/期門/第6肋間間隙、前正中線の外方4寸/第9肋軟骨付着部下際/上方へ移動。
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【参考資料2】
    同名・三陰三陽経を用いた痛みの治療

 手足の三陰三陽の同じ経脈を使う痛みに対する治療。基本は患側と同じ経脈の経穴を使う。
 【例】手の太陰経と足の太陰経
 1.手足を対象的に治療する。肘なら膝の同名経
  肩関節なら股関節や大転子周辺
 2.対象となる経脈の五行穴か急逝なら?穴、慢性なら絡穴(以下の一覧を参照)。
 3.治療に際しては、接触・浅刺を心がける。

 @太陰経の痛みに対する刺鍼点
 肺経(金)の痛み…商丘(経金)、三陰交
 脾経(土)の痛み…太淵(兪土原穴)
 A厥陰 経の痛み
 心包経(火)の痛み…行間(栄火)
 肝経(木)の痛み…?門・内関・
  中衝(井木)、刺しずライので中封(経金)
 B少陰経の痛み
 心経(火)の痛み…然谷(栄火)
 腎経(水)の痛み…少海(合水)
 C陽明経の痛み
 大腸経(金)の痛み…児[(井金)
 胃経(土)の痛み…曲池(合土)
 D少陽経の痛み
 三焦経(火)の痛み…陽輔(経火)、外丘(?)、光明(絡)、陽交
 胆経(木)の痛み…中渚(兪木)、三陽絡
 E太陽経の痛み
 小腸経(火)の痛み…崑崙(経火)
 膀胱計(水)の痛み…前谷(栄水)・支正(絡穴)

 ※これで治らない時は、患部と反対の健康側の同部位を浅刺。
 または、その経脈上の指間の反応点(浅刺)。


 ■4■江戸から近代の理療の発展  *群馬県の事例を中心にー 2016年 日本盲教育史研究会発表  年
【当日配布史料】
   江戸から近代の理療の発展  *群馬県の事例を中心にー
           香取 俊光: 群馬県立盲学校教諭
  はじめに
 群馬県立盲学校は、墨字1116頁という大冊『群馬県盲教育史』(1978年)と元教諭・栗原光沢吉(1897〜1996年)の多くの著書が残されていて、史料の保存が豊富な学校として評価されている。また、拙著『愛盲の光と情熱 ー群馬県立盲学校創立110周年記念回顧録ー』(2016年、桜雲会)で新たな調査結果を得たので、江戸期から近代の理療の発展と共に成果を述べてみたい。
 ●拙著の概要
 群馬県立盲学校創立功労者・瀬間福一郎(1877〜1962年)の真史料を探索し、その一生を再検討した。
 杉山流小黒城定(1837〜1905年)と明治の地図に「城医院」の存在が確認できる。江戸から近代の杉山流の継続が確定できる史料である。
 ・晴眼・東西医学を学び先駆的な医師・大久保適斎…現在も子孫が高崎市新町で開業。
 群馬県の盲学校の創立の事情を詳細に記載した。前橋市内の所在の変遷も詳細に追求した。
 盲学校の創立理由が傷病兵の職業教育としての事例は珍しい。本校は日露戦争後の創立で、乃木希典(1849〜1912年)の来校があり、点字の教育を賞賛した訓辞が残されている。
 私立前橋盲学校創立者後藤源久郎(1857?〜1917年)の業績を明らかにした。
 県立以前の校長や応援歌・寮歌・古い校歌などを探索して明確にした。
 盲唖学校時代や第二次世界大戦中の事情を知ることができる。

  1.江戸時代の盲人と理療
江戸期の医師が「病気を治せる者」として認知された。医師は視覚障害があることも妨げにはならなかった。盲人が街中で按摩笛を吹いている姿は広く知られている。このように盲人=鍼灸按摩を職業として獲得するには杉山和一(1610〜1694年)に大いに負うところであったが。幕府の御殿医ではなく、「扶持検校」として将軍の治療に当たっていたことはあまり知られていない。和一以前にも
和一以前にも盲人鍼医山川城管(じょうかん)(貞久、?〜1643年)が存在する。城管は、旗本であったが中途失明した後に鍼医となり、さらに将軍家光のブレン=談伴(ぱん)衆でもあった。この他に将軍にとって盲人は個人の嗜好によって様々な技芸で登用されていた。和一の弟子達は町医や藩医として活躍し、その一部が幕府の医員として登用されていった。
 幕府の医療制度は最初から完成していた訳ではなく、順次形成され本道(内科)・外科(瘍(よう)科)・鍼科・口科・眼科・小児科・産科(婦人科)の7科目となった。鍼科について詳述すると、治療手段は鍼にとどまらずに按摩(按腹)・灸も治療手段としていた。出自は、京都の名医・武士・藩医・町医師・盲人・社人・寺僧・奥坊主などの幅広い階層からで、幕末までに26家が登用され、そのうち10家が盲人で38.5%である。杉山流の鍼医は盲人9家と晴眼栗本杉説(さんせつ)俊行であった。この盲人の鍼医は幕府だけのことではなく、諸大名にも10名が鍼医・按摩医として登用されていたことも知られている(4名は幕府の医員に登用)。最近の研究では、杉山流の按摩術の秘伝書も公開されている(大浦慈観『杉山真伝流按摩舞手』、桜雲会、2016年)。この按摩に女工医がいたともいわれている。
 別の盲人の歴史的役割に、盲僧・平曲(平家びわ弾奏)に代表される古代より口伝の伝承者という部分がある。家元制度に類似した教育システムを持ち、江戸期の鍼灸按摩教育にスムズに移行したと思われる。
和一の鍼術は鍼治稽古所で伝授され、三島安一(やすいち)(1644?〜1720年)・島浦益一(えきいち)(?〜1743年)・杉枝真一(さないち)(1671〜1747年)と伝わる中で、テキストも用意され、教育システムも整備された。幕末までには全国に講習所・講堂が設けられた。鍼治稽古所は盲人の芸能集団の当道座が経営し基本的な学術が伝授され「杉山流」と呼ばれた。さらに高い学術は島浦とその子孫和田家が伝授して「杉山真伝流」と呼ばれた。この講堂の存在はいまだ証明されていない。

  2.盲学校の創立
明治4(1871)年の太政官布告により当道座という盲人の互助組織は廃止された。
学生・鍼灸按摩マッサージ法の変遷の中で理療の危機もあった。しかし、盲人達は杉山流の学術を伝えようと奮闘し、篤志家、外国人や宗教者の力を借りながら盲学校の創設は続いた。盲学校の職業教育として理療の存続も行われ、これまでの鍼灸按摩以外にマッサージの技術も取り入れていった。徒弟制度から医制の変化による専門性の要求に点字の学習も大いに有効であった。杉山流の奥義書は明治以降の盲学校の教科書に繁栄したり、設立の続く晴眼鍼灸学校の教科書として残っていった。
 盲学校の創立は、学制・医制などの変遷に振り回されつつ設立されていった。その用件は、@生徒、A教師、B資金、C教育内容、D支援者などであると考える。
杉山流の講習も認められなかった。

 3.群馬県の盲教育の概要
 群馬県の状況をみると、元前橋藩士の盲人伊藤詮吉が前橋市で明治23(1890)年に橋林寺内に私立上毛訓盲院が創立された。
伊藤・医師大久保適斎・僧侶・元県衛生局長などが創立に協力したが2、3年で廃校となった。
 これとは別に盲人・瀬間福一郎(1877〜1962年)がいて、下仁田の杉山流・小黒城定(1837〜1905年)に理療の手ほどきを受け、その後東京盲学校、卒業後に横浜訓盲院の教師として就職して、キリスト教の洗礼、、点字聖書の出版などをして帰郷した。帰京後は、前橋市で鍼灸按摩と点字の私塾をした。明治38(1905)年9月に日露戦争の傷病兵の職業教育として上野教育会訓盲書の創設に成功した。学校は度々の廃校の危機を迎えながら、
同じキリスト教徒の真と産婦人科医の後藤源久郎(1857?〜1917年)・元教師の大森房吉(1875〜1936年)と協力し、昭和(1925)2年の県立移管を果たした。しかし、瀬間は県立盲学校の教師として採用されなかった。
大正6(1917)年からの私立前橋盲学校時代は、始業式の中で賛美歌・校長の祈り・聖書の話などがあり、瀬間が舎監をしながら夜7時からの祈祷集会(自由参加)も行われていた。
学校教育においては、キリスト教徒の医師がウサギの解剖や人体模型の触察など今でも通じる教育をしていた。
瀬間の教え子の栗原光沢吉や小川徳太郎(1901〜?)が、当初は普通教育も含めて理療を教えていた。

鹿児島盲・稚内盲・旭川盲3校の創立者・南雲總次郎(1877〜1960年)
     山形県米沢市座頭町
            星 香(こう)橘(きつ) (印) 

小黒は
江戸期の杉山流の理療を伝えており、明治に老いてその下仁田に墓と治療院の位置も確認できた。
更には、高崎から小山に走るJR両毛線上に高崎・桐生・(栃木県足利)と盲学校が創立された。
 その支援者は寺院の僧侶が中心であったが前橋ではキリスト教徒で
明治17年9月9日「山口正篤外1名より杉山流鍼術伝習所設立願書に対し指令」(東京都立公文書館所蔵、請求番号:614.D8.01)
東京盲学校の理療科の教科書に『杉山流三部書』
杉山流の学術を伝授するためにJR大塚駅前に杉山鍼按学校を創設した(1915〜1945年)。
【注・参考図書】

大浦慈観『杉山真伝流按摩舞手』、桜雲会、2016年) 桜雲会編「マッサージ医療の開拓者「富岡兵吉先生の思い出と『日本按摩術』」(桜雲会、2008年) ※群点)
 『瀬間福一郎先生の思い出』(桜雲会、点字出版、1978年)※群点
(のち『点字の輝きに生きる』、p11〜70に墨字翻刻転載)※群点
 『大正の東京盲学校』(あずさ書店、1986年1月、233ページ) ※サ音。
 『群馬の盲教育をかえりみて』(あずさ書店、1989年8月、A5判606ページ) 
※群点。

 『光うすれいく時―明治の盲少年が教師になるまで―』(あずさ書店、1993年5月、B6判136ページ)※サ点。

 ■5■江戸期の理療教育 − 杉山流の理療教育を中心に ―  2017年 社会史鍼灸研究会発表
 ※社会史鍼灸研究11、
    江戸期の理療教育
    − 杉山流の理療教育を中心に ―
        香取 俊光

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   はじめに
 江戸期の理療というと杉山和一(1610-1694年)(1)から書き始めるものが多いと思うが、2000年代に入り和一とその流派の研究の進歩は驚嘆である。これ以前は和一が管鍼法の創始者として評価されてきたが、その手技の伝来や内容が詳細になる程、入江流からの伝来で、和一がその知識・技術を大成したことが明らかになってきた。
 長野仁氏がオリエント出版者の臨床実践 鍼灸流儀書集成で杉山流の秘伝書を発掘・出版してきた。その途中で和一の師匠と言われてきた入江流の秘伝書も発見され、『皆伝・入江流鍼術−入江中務少輔御相伝針之書の復刻と研究−』(六然社、2002年)として翻刻・出版された。これにより、和一と入江流の伝説が真実であり、管鍼術が入江流の教えに依拠していることが明確となった。 そして、2003年に東京都墨田区の江島杉山神社即明庵(和一の位牌所)の杉山検校遺徳顕彰会の金庫の中から桐箱に入った巻物2巻と和装本7冊の秘伝書が見つかり、翻刻されて嶋浦和田一(益一)『秘傳・杉山真伝流』(桜雲会、2004年)が出版された。大浦慈観氏は、この翻刻にも尽力し、『杉山真伝流臨床指南』(六然社、2009年)、同『DBDブックス 杉山和一の刺鍼テクニック』(医道の日本社、2012年)などで鍼灸の技術を解明し、「杉山流按摩術の流儀書『杉山真伝流按摩舞手』および大澤周益の残した書籍類について」(《日本医史学雑誌》60−2、2014年)と按摩についても研究が進んでいる(2)。
 本稿では、筆者の研究成果(3)も含めて、江戸幕府の医療制度・理療について述べてみる。
   T.江戸時代の理療の概要
 日本の理療は、戦国期・江戸期に飛躍的な進歩をとげた。その一翼を担ったのは視覚障害者(以後は「盲人」と略す)医師達であった。
 盲人の男性は、古代より語り部として、あるいは宗教者、平家琵琶の弾奏社として存在し、江戸初期に理療の知識や技術を獲得していった。江戸初期の盲人鍼医・杉山和一の大成した管鍼術は現在の盲学校でも鍼実技の中心となっている。和一の教育は、灸や按摩にもおよび、その理療教育は私塾から杉山流鍼治導引稽古所として発展し、多くの弟子達が育っていった。この稽古所は、世界で最初の盲人の教育施設でもある。優秀な弟子は一家を立て、稽古所の流派は、杉山流を称し、高弟島浦益一の流派は杉山真伝流として盲人の教育施設の中心となり明治まで活動を継続した。しかし、明治4(1871)年の盲人の自治組織・当道座廃止後は、理療教育の中心を失い、多くの盲人が困窮に陥った。明治5[1872]年の学制、明治7 (1874)年の医制発布の中で、津々浦々の盲人は、按摩の専業運動や自ら盲学校の創立に躍動した。他方、女性に目を向けると、江戸期には、職業は三味線を弾奏する瞽女(ごぜ)が中心で、先の大浦氏の研究では女子の鍼工が武家の治療をしていたともあるが(4)、明治期に全面的に進出し理療の大きな担い手になった。
   U.江戸時代の医療制度
 日本に中国・朝鮮から理療が何時にもたらされたかは不明だが、唐令にならった律令の中で鍼・按摩が医療として位置づけられていた(5)。この医師達は、官医であったが、次第に官医以外の一般の医師・薬売りが出現するようになっていった(6)。
 戦国期に曲直瀬道三(1507〜94)により
啓迪院など官立以外の教育施設や私学の医師が存在していた。
 江戸時代は、徳川氏による武家と、これまでの朝廷を中心とした公家政権の二十支配の時代である。
 江戸幕府は、朝廷の権威や官職を使いながら、独自の制度を形成していた。医療制度も同様で、朝廷に仕える医師=医官・官医を登用し、法印・法眼・法橋などの叙任などで権威付けし、他方民間の医師を逐次登用して医療制度を完成していった(7)。
 幕府の公式日記『徳川実紀』に総称して「医員」と出てくるので、官職を帯びながらも役職としての「医員制度」と呼んでいいのではないかと考えている。医員の登用事例や家系を詳細にみていくと、官医ばかりではなく、私学で医療の学識を高めた者も多い。現代の医師のような資格・免許・欠格事由といったものはなく、系譜は、以下の4つにまとめられる。
  @朝廷の官医。/A官医以外で家系が医師であった者。/B著名な医家に学んだ者。/C自らの経験や独学で医業の知識を深めた者。
 そして、次第に医療7科目(本道〔内科〕・外科(〔瘍科〕・鍼科・口科・眼科・小児科・産科〔婦人科〕)(8)ができ、奥医・奥詰。番・寄合・小普請医師などのシステムを作り上げていった。
幕府最初の鍼科医員は京都の名医・坂以策某が『徳川実紀』寛永16年(1639)11月6日条に「京医坂以策某(家光に)初てまいり拝謁する。」と家光に拝謁したことに始まる。鍼科の医員はこれ以後、武士・藩医・町医師・盲人・社人・寺僧・奥坊主などの幅広い階層から、幕末までに25家が登用された。その内9家が盲人で36%を占めていた。以下にその名前だけ整理し提示する。
 A、晴眼の医員…16家
  坂寿三幽玄(本家)、坂立雪元周(分家、子息寿庵元歓が鍼科より本  道に転科)、藤木十左衛門某、山本民部道照、佐田玉川定重
  (本家)、佐田玉縁定之(分家)、山崎宗円次氏、栗本杉(さん)説(せつ)俊行
  (杉山弟子)、増田寿徳良貞、上田施針庵東暦、  須磨良仙某、吉  吉田秀庵不先、島田幸庵某、畠山玉隆常信、前川玄徳雄寿、
  茂木玄隆某
 B、盲人の医員…9家
  三島検校安(やす)一、杉島検校不一、杉枝(えだ)検校真(さな)一、島浦検校益(えき)一、
  板花検校喜(き)津(つ)一、島崎検校登(と)栄(え)一、石坂検校志(し)米(め)一、
  (以上杉山門弟)、芦原検校英俊一(源道)、平塚惣検校東(と)栄(え)一
  (幕末の杉山流)
 上に杉山和一の名前がないのは医師ではなく、「扶持検校」として将軍綱吉に治療を行った(あまり知られていない)。
   V.盲人と理療
 盲人が理療を職業として獲得したのは江戸時代と考えられる。
 一般的には最初の盲人鍼医は杉山和一(1669〜1742年と思われている--------が、筆者の管見の限りでは、山川城管が最初と考えられる。山川は御家人として幕府に使えていたが中途失明し鍼技術を身につけ、3代将軍徳川家光のブレーン=談伴衆(9)ともなっていた。『徳川実紀』寛永十一年是年条に「医者山川検校城管も年頃針治をよくし」と山川がここ数年鍼治療を上達させた記事がある。山川がどのような経緯で鍼の技術を身につけたのかは分からない。しかし、他の盲人の事例を考えれば、京都に上り鍼術を習得したかもしれない。
江戸初期の盲人鍼医としては、山川にやや遅れて和一の鍼の師匠山瀬琢一(1658年に検校となる)と杉山和一、仙台藩の鍼医となった矢口城泉)が知られている。江戸期以前の盲人鍼医はいまだ管見していない。
 更に、杉山の登場により盲人の職業自立が確固となり、その弟子三島安(やす)一・島浦益(えき)一らの手により教育システムが完成していき、明治を迎えた。この杉山流の理療が明治になっても地方で指定教育を支え、近代盲学校の創設に尽力した者も存在した。
 また、盲人が灸の施術にも積極的であったことが、先の『秘伝 杉山真伝流』中の臨床録で確認できる。例えば「治験例31、赤白帯下」に「杉枝検校の伝えに、内果の後ろ、赤白肉際(太鍾)、この穴に毎日灸3壮、7日にして終える。」(同所p413)とある。
   W.教育施設=杉山流と杉山真伝流の鍼治稽古所
杉山が弟子達を育てた施設を「杉山流鍼治導引稽古所」という。
  和一が師弟教育を始めた時期については、浅田 宗伯(1815―1894)が記した『皇国名医伝』、それを継承した富士川 游の『日本医学史』の杉山について書かれた中に、「天和元年(1681年)、綱吉の鍼治振興令を起源とする」とあり、この年を和一の家塾を改めて杉山流鍼治稽古所の開始、公的な指定教育の始まりとする説が有力である。
 しかし、実際はこれ以前から師弟教育がなされていた。
 和一が71才の延宝8(1680)の記事を紹介する(10)。「3月8日 和一、弟子美津都(いち)を伴い、鳥取藩の芝(千代田区丸の内)上屋敷を訪れる。美津都が藩主・池田光仲を按摩する。」とあり、続いて「3月18日 和一の弟子美津都が鳥取藩に登用される。和一、藩主・池田光仲にお礼を申し上げる。」とあり、美津一なる座頭が按摩医として登用されていく記事である。 
 次に、先の振興令について検討してみる。綱吉は1680(延宝8)8月23日に将軍となった。この2年後に振興令が出されたというのである。ただ、調べた限りの法令集には確認できず、またこの時期に和一は綱吉に拝謁していないとも思われる。
 和一の年譜を作っていくと、次にあげるBの座頭意津市事件では、和一ではなく岩船検校城泉(?-1687年)が関東の責任者である。これをもって綱吉と和一が無関係とは言えないが、江戸幕府も鎌倉幕府依頼の武家政権として、医師やどんな家臣でも「初見の礼」、つまりお目見えと給料の扶持から始まると考えられる。
 和一が61才の検校昇進以降の年譜は、
 @延宝4 1676 () 11月11日 和一、伊勢国津藩2代藩主・藤堂高次を治療する。 67才
 同年12月20日 藤堂高次没する(74才)。 
 A延宝8(1680) 2月11日 和一、江戸城に登城し、家綱を治療する。そのため、鳥取藩への診療ができなくなる。 71
 同年3月8日 和一、弟子美津都(いち)を伴い、鳥取藩の芝(千代田区丸の内)上屋敷を訪れる。美津都(いち)が藩主・池田光仲を按摩する。
 同年3月18日 和一の弟子美津都が鳥取藩に登用される。和一、藩主・池田光仲にお礼を申し上げる。
 同年3月28日 和一、家綱に初見する。
 B天和3年(1683) 座等意津一不行跡事件に際し、岩船検校城泉が座頭仲間の法に従い、意津一を簀巻(すま)きにし佃島沖にて沈める
 C貞享元(1684)12月22日 和一、相模国大住郡大(おお)神(がみ)村(神奈川県平塚市)座頭密通事件の裁決をする。
 D貞享2(1685) 正月3日 和一、江戸城の黒書院勝手で綱吉に年始の御目見をする。
 E同年) 正月8日 和一、綱吉に召されて仕える。
 F同年) 8月5日 和一、幕府に召出され、月給20口を与えられる。
 G同年8月 和一、道三河岸(大手町)に116坪余りの屋敷を賜う。
 H元禄2(1689) 5月7日 和一、鷹匠町(神田小川町)に530坪余りの屋敷を賜う。 80才
 I同年10月9日 和一、鍼治の効果が大なので、常に綱吉の治療に召される。褒美に月給が廃止され、代わって年俸300俵を賜う。
 J元禄5(1692) 5月9日 和一、綱吉の治療をし、精勤の褒美に27番目検校より関東総検校に任命される。  83才
 K同年6月9日 和一自身が総検校就任のお礼に京都に上らなければならなかったが、綱吉の治療を昼夜にわたり行っているため暇がなく、職事(しきじと)が代行して京都に上る。和一は、治療をしているが奥医師ではなく「扶持検校」である。
 以上に見るようにCDEFの貞享2(1685)に和一が綱吉にお見え・取り立て・屋敷の拝領と急速に接近している。この年が正式な幕府への登用、綱吉との関係の始まりと考えられる。
 さて、俗に和一は綱吉の御典医=奥医と思われているようである。しかし、高年齢の身であったためか御典医に登用された証拠はない。ではどんな身分であったのかというとJにあるように「扶持検校」とあり、医師ではなかった。「扶持検校」とは何かというと、これまで幕府が盲人を平ら曲の弾奏者や芸能社の扶養という段階にとどまっていたことを示すと考えられる。囲碁・将棋の本因坊家も幕府の扶持で登用されているので、同様に考えると理解できよう。
 盲人が幕府の御典医として正式に登用されるのは和一の弟子・三嶋安(やす)一(1645?-1720年)が鍼治を善くするによって、元禄4(1691)年8月22日に大奥の療治を承り月俸二十口を賜ることからである。弟子達の登用は幕府の医員として、他方、米沢・金沢・鳥取・大村藩などの地方の藩医に広がりをみせている。まとめると幕府へ7名・諸大名へ6名の弟子が鍼医・按摩医として登用された。史料状ではAの延宝8年美津都が諸藩登用の初めての事例である。このように、従来の天和説よりも前に子弟教育がなされ、綱吉に仕えたのは貞享2年からと考えてよいのではなかろうか。
和一の師弟教育の様子を見ていくと、私塾のような形で始まり、和一が関東惣検校に任命された1692年(元禄5年)以降、次第に当道座の運営に移っている。施設の名称も、鍼治と按摩(導引)が伝授されたことから鍼治導引稽古所と呼ばれ、時代とともに講習所・学問所・学校などと呼ばれたようである。
鍼治稽古所は和一の屋敷内にあったと推測されている。和一が京都から江戸へ戻った当初は糀町(現在の麹町)に住んでいたが、幕府に登用されてからは道三河岸、そして鷹匠町(のち神田小川町)に移り、没した時は本所一つ目であった。墓所は本所弥勒寺にもあるが、江ノ島の墓に納骨された。
 さて、稽古所は明和6年(1769)、鷹匠町から本所一つ目の拝領地内に移築され、明治4年まで存続していった。この移築された稽古所の流派を「杉山流」と呼び、稽古所の移築された後の鷹匠町の和だけは「杉山真伝流」として秘伝が伝えられ「杉山流の免許皆伝後の研修所的役割をなしていた。江戸時代の絵図で確認できた鍼治稽古所は本所一つ目の弁財天社内(墨田区千歳(ちとせ)江島杉山神社)で、当時は
989坪余りの社地とこの東側に871坪あまりの屋敷、合計1860坪余りを賜っている。この敷地は、東西に長く、北から南へ向かって竪川・河岸・竪川通り・社地・屋敷(後は当道座の惣録やしきになる)とあり。社地の西門から内へ入ると、東の拝殿へ向かう参道が続き、現在の区画とほぼおなじである。参道の両側に門前の町家が建ち並び、南側の町屋敷が終わった所に(北側はもう少し屋敷が東へ続く)高さ1尺4寸の銅造りの鳥居があり、「福寿弁財天」の額で、南側の町屋敷の東側には、社地最初の建物である社役の居宅(4間×3間半)、続いて「杉山流鍼治稽古所(4間余り×5間)」があった。和一の死後、稽古所のさらに東側に、位牌所である「即明庵(9尺×3間)」を建て、その中に和一の木座像(高さ1尺1寸)を安置していた。このように、稽古所の広さは縦4間余り×横5間で、面積は20坪余り。言い換えると40畳余りの建物が全国の講習所の本部であったことになる。では、全国に講習所が何カ所あったかというと、先の浅田 宗伯は「江戸近郊に4ヶ所、諸州に45ヶ所」と記している。ただ、この存在を証明した論考はないが、小規模で、または検校の自宅程度の規模であったならば、全国に展開し、現存しないのも納得できることではなかろうか。
   X.杉山流の技術の伝授方法
 江戸時代の盲人から盲人の理療の伝授方法は、口授と、それを聞いての暗記が主だったと考えられる。教育内容は4段階に分かれ、それぞれに教科書も作られていた。
◆ 第1段階
6年間あり、3年が按摩、3年が鍼の修行でした。14〜15才で入門し、17才までの3年間は、杉山流鍼学皆伝の免許で、いわゆる基礎編を学ぶ。按摩のみ、鍼のみの免許の者もいた。
教科書は、杉山三部書の療治之大概集・選鍼三要集・医学節用集を用いた。
◆ 第2段階
17才から28才前後までの修行段階。
教科書は、杉山真伝流の表の巻を中心に用いた。
◆ 第3段階
30才前後の3年間。修了すると門人神文帳一冊が伝授され、他人に伝授できる段階と認められる。いわば教員免許状に当たる。
教科書は杉山真伝流目録の巻物一巻(真伝流の表の巻・中の巻・奥龍虎の巻)
◆ 第4段階
50才前後。修めると、杉山真伝流秘伝一巻が伝授された。
 江戸時代では、奥医などの名医クラスとなる。
 以上のような教育の課程で、各地方の師匠の存在と弟子の存在が認められる。つまりは、大きく二つに分かれていった。
〔A〕直系
 @杉山流…惣録屋敷管轄下の鍼治学問所で教えられる狭義。一般の開業医程度。
 A杉山真伝流」…和田家の奥義…巻物は、和田(島浦家の伝授。幕府の奥医など名人の養成。
〔B〕「分派
 一家独立した家系で、先に紹介した杉枝・石坂・栗本など幕府の奥医達。また、各地方の名前を知られていない師匠クラスの盲人医師達。
 按摩についてよく筆者に問い合わせがある晴眼者と盲人の争いのことを加藤が「文政・天保期には吉田久庵が江戸日本橋四日市床見世で治療を施して以来、吉田流は同所に門戸を張り晴眼の按摩業者を傘下におさめ、招く者の手引を要しないことと治療に若干の新手を加えたことで大いに勢力を伸ばしたので、杉山流の盲人按摩業者とのあいだに縄張争いが表面化してきた。
 文久のころ、盲人按摩数十人が吉田流家元の家に押しかけ、明眼の者が盲目者の業をなしては盲目者は活計に苦しむので業を転ぜられたい、しからざれば我等を養い給えと要求して寝込むという事件がおきた。
 吉田家からこれを不当の行為として南町奉行に訴えた 結果、奉行所では明眼の按摩者は路上を流し行くことなく病家の招きに応じて行くのみであるから盲目者の害とはならず盲目者の行為は不当であるとして、押しかけた盲人たちの身柄を一つ目の惣録役所に引き渡したという。」(11)と紹介している。
   Y.杉山流の理療技術
 和一の鍼術については大浦『杉山真伝流臨床指南』に譲り、その他の技術の概要について述べる。
 まず、按摩術について確定的なものがないので、私論をあげ古今語の批判に待つ。
 吉田流は、強めで、線状に揉む。肘などを使用。
 杉山流は、弱めで、輪状に揉む。
 鍼の道具について、明治末期の17の流派の使用鍼が知られている(12)。ここには、杉山流・杉山真伝流・石坂・平塚の和一の流派、芦原(盲人)・上田(幕府奥医)・吉田(打鍼)・西村(水戸藩医)と明治期に群馬で著名な大久保などである。使用鍼は、長さ1寸6分、太さ2〜4番が中心で、鍼柄は個性豊かで杉山流は俵軸、真伝流は中巻軸、石坂はホソヌメ軸、平塚流は棗軸である。鍼尖の形状は、和一の流派は松葉、平塚流だけはすりおろしを用いていた。
 鍼管について、4匁3分(約16g)の純銀製の太め八角形の鍼管を使い、鍼の切皮以外の使用例もあった(13)。
   おわりに
 大浦『杉山真伝流臨床指南』の中で、和一が管鍼法を創始したのではなく、入江流からの伝授であることが簡潔に述べられている。その臨床録の開設で鮮やかに技術の深奥が述べられている。今後は、和一が管鍼法の創始ではなく大成者としての評価を与えていかなければならない。
   参考文献・注
 (1)和一については、拙稿「杉山和一 その文献と伝説」(『理療の科学』18-1、pp.47-56、1994年)があり、最近のものでは長尾栄一『史実としての杉山和一(桜雲会、2010年)、今村鎭夫原作、執印史恵編集、山田倫子挿絵、杉山検校遺徳顕彰会『杉山和一 目の見えない人たちを救った偉人』(桜雲会、2011年)、新子嘉規『』医・杉山検校『管鍼法誕生の謎』(桜雲会、/2013年)などがある。
 (2)長野・大浦以外に、杉山の弟子島浦(和田)の関係する史料が発掘され、杉浦逸雄「市立米沢図書館所蔵「内題杉山先生御伝記」の紹介」(日本盲教育史研究会第2回研究会発表レジュメ、2013年10月19日)、また、浦山久嗣「『杉山真伝流』における穴性概念の萌芽について」(『日本医史学雑誌』60−第2、2014年)など経穴学からのアプローチもある。
 (3)拙稿の主なものとして、「江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究」(長尾榮一教授退官記念論文集『鍼灸按摩史論考』、pp.1-146、桜雲会、1994年)、「江戸幕府における鍼科医員と盲人鍼医(1)・(2)(『理療の科学』16-1、pp.66-70、17-1、pp.64-69、1992年・1993年)、「杉山和一の屋敷と杉山鍼治講習所について(1)(2)」(『医道の日本』54-10・pp.110-116、55−7、pp.164-173、1995年・1996年)、「元禄時代の鍼・灸・按摩・医学史料 −附 『隆光僧正日記」』医師・医事索引−(『理療の科学』20-1、pp.25-51、1997年)、「新発見・三嶋総検校安一の史料と土浦の伝説」(『医道の日本』68-10、PP.100-109、2009年)がある。
 4()盲人史の定説では、江戸時代の女性は瞽女であると中山太郎『日本盲人史(正・続) (合本)−(附)中山太郎著書執筆目録−』(パルトス社、1986年)、加藤康昭「近世の瞽女仲間」(『日本盲人社会史研究』、未来社、pp.244-255、1974年)などで学んできた。鈴木力二『日本盲人の父 中村京太郎伝』(中村京太郎伝記刊行会、pp122-123、1969年)に江戸時代以来晴眼者の「吉田流女按摩」が存在し盲女子は、明治になり「かつて、東京盲唖学校が20年間にわたって鍼按科の入学を許さず、ただ男子に限ったこと」とある。また、この江戸期に女医は存在せず 初の女性医師は明治18(1885)年に医師を許された荻野吟子(1851〜1913年)が知られ、渡辺淳一『花埋み』(河出書房新社、1970年)、堺正一『埼玉の三偉人に学ぶ』(埼玉新聞社、2006年)などで、その概要を知ることができる。
 ところが、日本一流杉山流の流派があるが、和一→十連社 →十誉→壱誉→大誉→香取→已代女→喜代女→竹智女→香取星亀岩崎西遊と伝承者が知られ、女性も含まれている(拙稿「江戸幕府の医療制度に関する史料(6) −鍼科医員島浦(和田)・島崎・杉枝・栗本家『官医家譜』などー」、『日本医史学雑誌』41-4、pp.118-119、1995年)、そして大浦慈観氏蔵の『杉山真伝流按摩舞手』に天保7(1836)年春の史料で「抑(そもそも)、東都列侯の後宮へは、男子の出入を禁ず。故に夫人、貴妃、或は侍女、婢女の治療の為、女子の鍼工を召さるる也。近頃、御門下に、女子の鍼工・錦江春銀あり。始めにこの『大和文』を以て、教示し給ふ也。」とある。江戸期の女性理療教育については、今後の研究の進歩に譲る。
 (5)律令は、井上光貞・他校注『律令 日本思想史大系第3巻』(岩波書店、1976年)を、古代から中世の理療については新村拓『古代医療官人制の研究』(法政大学出版局、1990年)・同『日本医療社会史の研究 −古代中世の民衆生活と医療−』(同上、1985年を参照されたい。
 (6)室町期の貴族で、山科言(とき)継(つぐ)(1507-1579年)は、代々医薬により生計を立て、階層を差別なく診療に当たっていた。服部敏良「言継卿記の医学的考察」(『日本歴史』239、PP.81−88、一九六八年)、今谷明『言継卿記 公家社会と町衆文化の接点』(そしえて、1980年)、これをコンパクトにした『戦国時代の貴族−『言継卿記』が描く京都−』(講談社、2002年)や水谷惟紗久「古記録にみえる室町時代の患者と医療(二) −『言継卿記』永禄九年南向闘病記録から−」(『日本医史学雑誌』43-2、pp.187-209、1997年)などを参照されたい。
 (7)久志本常孝「徳川幕府における医師の身分と職制について(『東京慈恵医科大学雑誌』89-3、p.129-141、1974年。のち『古医学月報』22・23・26・27・28・29、1975〜1976年)を参照。
 (8)律令の制定以来「灸科」がなく、江戸期には「按摩科」の科目もなくなった。鍼科の医師の施術範囲であったことによると考えられる。例えば、拙稿「江戸幕府鍼科医員の治療の一断面 −天璋院様御麻疹諸留帳」を中心としてー」『漢方の臨床』52-12、pp.170-180、2005年()では、天璋院篤姫の麻疹の闘病中に鍼科の医員吉田「秀貞へ御心下御按腹仰付られ」という按腹の記事を紹介した。さらには、藤林良伯『按摩手引』の最後には鍼術についての項目がある。
 (9)安池尋幸「江戸幕府初期の談伴衆とその伝説化についてー堀直寄を中心にー」(『史翰』十八、二一八頁、一九八二)・「江戸幕府初期幕政と『談伴衆』−准譜代大名堀直寄の位置付けをめぐって−」(『関東近世史研究』11、1979)。前者によれば、将軍が古今の文武の知識を広め、政務に御益あることを建言する者達で、当然知識豊富で、長年の武 功ある者や学者に限られる。談伴衆は芸能を含めた教養・娯楽の相手と なる集団として御伽衆という概念で把えることもある。

 (10)守随憲治「続鳥取池田藩の芸能記録の発掘」(『(東京大学)人文科学科紀要』第十三輯、一九五七年)。
 (11)加藤前掲書。p.400。本文の『訂正増補日本社会事彙』上巻、p.58、経済雑誌社。1907年)の記事。
 (12)17流派の鍼や鍼管を一覧にした金原廣哉「毫鍼に就いて」(『日本鍼灸雑誌』第100号、明治44年・1901年)。
(13)大浦前掲書。pp.62-63。
 付記:大浦慈観氏からは、直接玉稿やデータの提供をいただいた。ここに記して心底より感謝を申し上げる。

表1.将軍ごとの鍼科医員の登用
将軍(就任) 登用人数 京医 藩医 町医 検校 附医 奥坊主 社人 寺僧
2,秀忠(1605-1623) 1 1 0 0 0 0 0 0 0
3,家光(1623-1651) 3 0 1 0 0 0 0 2 0
4,家綱(1651-1680) 1 0 0 1 0 0 0 0 0
5,綱吉(1680-1709) 12 0 2 2 5 1 1 0 1
6,家宣(1709-1713) 2 0 0 1 1 0 0 0 0
8,吉宗(1716-1745) 4 0 1 1 2 0 0 0 0
11,家斉(1787-1837) 2 0 0 0 1 1 0 0 0
14,家茂(1858-1866) 1 0 0 0 1 0 0 0 0
 合計  26 1 4 5 10 2 1 2 1
※附医とは将軍就任以前より、その館に仕えていた医師とする。

表2.盲学校創立関係年表(群馬県の記事を含む)
年号 記事
明治4(1871) 文部省設置。山尾庸三が「盲唖学校を創立せられんことを請う」の書を太政官に提出。
同年 11月3日、、太政官布告より当道座が廃止
明治5(1872) 8月、学制発布され「廃人学校あるべし」規定。
明治7(1874)年 8月18日、 医制発布
 明治11(1878)年 5月24日、、京都に「盲唖院」が設立される。教員古河太四郎が指導。翌年、府立となる。
明治12(1879)年 教育令による普通児童の義務教育を明確化、
 明治13(1880)年 2月、楽善会訓盲院が、授業開始(盲児2名)
明治15(1882)年 11月、楽善会訓盲院が、箏曲と鍼治・按摩の職業教育を始める
明治18(1885)年 3月25日、、「鍼術灸術営業差許方」通達
各府県ではり・きゅうの免許鑑札、営業許可、取り締まりを行うことになった。あん摩業は規定がないので鍼灸に準拠した。
同年 11月、楽善会訓盲唖院が、文部省直轄学校となる。そのさい、「杉山三部書」に頼る教育の前近代性を理由に、鍼術の指導が教育課程から外される
 同年 旧杉山流鍼治稽古所縁の吉見英授・吉田弘道らは温知社を組織し、管鍼術の復興を目指す。
明治19(1886)年 東京盲唖学校長小西信八、イギリス製の点字板を紹介。点字はローマ字の表記。
明治20(1887)年 7月、東京帝国大学医科大学助教授片山芳林が「鍼治採用意見書」を提出(その骨子は、「細い鍼を使用するならば盲人に行わせても害はないと思われるが、今後は解剖学、生理学、病理学に基づいた鍼術の指導も行うべきである」というもので、同年9月楽善会訓盲唖院の教育課程に鍼術が復活
同年 温知社が杉山流の鍼治学校を願うが許可されず。
明治23(1890)年 11月1日、、点字撰定会議で石川倉次案を採択。
同年 前橋市橋林寺内に私立上毛訓盲院創立。2年から3年で廃校
同年 旧杉山流の弟子達が杉山和一を尊祀する杉山神社を創建する。
明治25(1891)年 3月、富岡兵吉1869〜1926年(群馬県出身)、東京盲唖学校鍼治科を卒業し、4月から東京帝国大学附属病院に日本で最初の病院マッサージ師として勤務する。盲人のマッサージ技術導入の端著となるる。
明治26(1893)年 3月、瀬間福一郎・16歳、東京盲唖学校に入学
明治30(1897)年 3月、瀬間・20才 東京盲唖学校卒業。
明治34(1901)年 4月22日、石川倉次翻案の「日、本訓盲点字」が官報に掲載される。
明治35(1902)年 杉山報恩講の発足(吉田弘道・千葉勝太郎・馬場白光)など主宰。
明治36(1903)年 東京盲唖学校に教員練習科を創設。
明治38(1905)年 9月18日、上野(群馬県)教育会附属訓盲所(県立盲学校の原点、)創立。
吉田弘道自宅内に鍼按講習所を設け、初代所長に吉見英授が就任する。
明治40(1907)年 4月17日、文部省は各府県師範学校の附属小学校に盲人・唖人・心身不完全な児童のためできるだけ特別学級を設けるように訓令を発令。
明治41(1908)年 4月13日、上野(群馬県)師範学校附属訓盲所が設立される。
吉田弘道宅鍼按講習所を築地私立盲人技術学校として創立する(後の都立文京盲学校)。
明治44(1911) 8月14日、「按摩術営業取締規則」、「鍼術灸術営業取締規則」により、理療の全国的、統一的な法制が整備される。
 ※解剖・生理などの講習が必要となり、点字の必要性も高まった。
大正3(1914)年 4月1日、師範学校附属訓盲所が廃止され、前橋市立桃井(もものい)小学校特別学級(市立訓盲所)に移管される。
大正4(1915) 9月6日、私立前橋盲学校が設立される(医師後藤源久郎(げんくろう)創設、桃井小学校の教室を借り受け開始。
大正10(1921)年 4月15日、私立桐生訓盲院開院式。
大正11(1922)年 4月10日、私立高崎聾唖学校設立。
4月18日、私立高崎鍼按学校設立(高崎市羅漢町法輪寺内)。
大正12(1923)年 8月28日、盲学校及び聾唖学校令(勅令第375号)により、盲と聾の分離が規定。府県の学校設置の義務となる。
昭和2(1927)年 4月1日、群馬県立盲唖学校が創立する。私立前橋盲学校・私立桐生盲学校・私立高崎聾唖学校を統合。生徒・職員はここに移籍する(高崎盲学校は存続)。校舎が未完成のため盲部は堀川町(紅雲町2丁目)物産陳列所仮校舎でスタート。聾唖部は元の校舎。
昭和5(1930)年 財団法人杉山検校遺徳顕彰会設立
昭和9(1933)年 群馬県立盲唖学校に治療部が新設され、12年頃より出張治療も行われた。また、給食の副食(おかず)が始まる。
昭和12(1937)年 群馬盲で高崎の陸軍病院・前橋日、赤病院の傷痍軍人の慰問治療が始まる(〜15年)。
昭和16(1941)年 10月、群馬県立盲唖学校の屋根に防空監視哨を設け、市内警備団と共に上級生の協力がなされる。
昭和17(1942)・18(1943)年 9月〜10月群馬県で、失明軍人講習会(按摩)が開かれる。
昭和20(1945)年 4月、学徒動員令により群馬盲は栃木県黒磯・群馬件堤ヶ丘(高崎市)飛行場に治療奉伺。
昭和23(1948)年 4月1日、教育基本法・学校教育法の施工により、盲聾児の就学は義務制となる。
「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が公布される。


 ■6■杉山和一と綱吉 バスツアー 香取  2017年
    将軍綱吉と杉山和一
   ― 誤解と真実をめぐって ―
         群馬県立盲学校教諭   香取 俊光
 綱吉と杉山和一については、今回のバスツアーでは、担当時間ではとても語り尽くせないので、一般に信じられている和一の誤解について真実を話したいと思います。箇条書きで説明します。
@ 一にとって綱吉はどんな存在だったのでしょうか?…綱吉に寵愛された和一は昼夜側に呼ばれ、大手門の内に屋敷をもらったり、老年を労われ登城に輿を許されたりしました。その上、27番目の検校より最上段の関東総検校に抜擢されました。多くの弟子達も幕府の医師に登用してももらいました。和一が綱吉に出会うことにより盲人の鍼灸按摩が職業として定着することに大きな意義があったと考えられます。
 A和一は管鍼法を創始したか。…師匠の入江流の秘伝書が発見され、和一が管鍼法を世の中に広めたり、盲人の職業にしたということでしょうか。
 B和一の活躍は何才から?…資料に出てくるのは61才に検校となった記載からです。年表を見ていた猛ればわかりますが、実際に活躍したのは71才からで下。
 C和一の教育は何時から?…一般には1682(天和2)の鍼地治稽古所の解説といわれていますが、残念ながら綱吉の命令という資料が見つかりません。また、綱吉が和一を側に置き始めたのは1685(貞享2)の綱吉とのお目見えの後と思われます。
 Dでは、本当は何時から弟子を教育していたのですか?…1680(延宝8)に、鳥取藩の池田家に弟子を推薦しています。和一の70才以前でなければならないでしょうね。
 E和一は幕府の御殿医だったのですか?…いいえ、和一は自分は五転移としてではなく、医療行為はしても「扶持検校」として弟子を育成していたようです。高年齢であったからかもしれません。
 F鍼治稽古所はどこに、どんな広さだったのでしょうか?…最初は和一の駿河台の屋敷内(お茶の水駅付近)にありましたが、火事で現在の江島杉山人じゃないに移転したといいます。ただ、広さは現在の学校のように規模が大きくはなく、四間余りに五間(20坪)とい建物でした。講堂も江戸近郊に4か所、諸国に45か所といわれていますが、各地のお寺のお堂くらいだったと考えてはいかがでしょうか。師匠の自宅が講堂といわれたのかと思います。
 G杉山流と杉山真伝流のちがいはあるのですか?…鍼治稽古所で教えられたものが杉山流、和一の弟子で島浦益一というものがいて、その子孫和田家が駿河台にいて御殿医の熟達したものへと伝えたのが杉山真伝流といわれていました。
 H江戸時代にの鍼医を教えてください。…江戸時代の医師は自称医師にでなれました。実力のあるものが、幕府の御殿意図なっていきました。そのため、盲人も鍼医となれました。幕府の鍼科の医師をあげると26家ありました。多くの医師が綱吉の時代に登用されたものです。
 A 晴眼の鍼医…16家…晴眼の和一の弟子一人
 B 盲人の鍼医…10家
 I杉山流の按摩と晴眼の吉田流の按摩との関係を教えてください。…これまでは、晴眼の吉田流の流派はどこから伝わったのかわかりませんでしたが、和一の弟子の石坂流から分かれたことが明らかになりました。
 吉田流は、 強めで、 線状に揉む。 肘などを使用。
 杉山流は、 弱めで、 輪状に揉む。
【参考文献】
 長野 仁編『皆伝・入江流鍼術ー入江中務少輔御相伝針之書の復刻と研究ー/』(六然社、2002年)。大浦慈観『杉山真伝流臨床指南』(六然社、2009年)。大浦慈観『杉山真伝流按摩舞手』(桜雲会、2016年)。東京医療福祉専門学校『吉田流あん摩術 江戸時代に生まれた日本伝統の手技療法』(医道の日本社、2016年)。拙稿『目の見えない神様 杉山和一物語 ー息子とのある一日のエピソード』(岡山ライトハウス、2010年)

杉山和一関係年表

年 月 日 で き ご と  和一年齢  (数え年)
1603(慶長8) 2月12日 徳川家康が征夷大将軍となり、幕府を開く(62才、江戸幕府の成立)。 ー
1604(慶長9) 2月4日 江戸の日本橋を五街道の起点とし、諸道を整備する。 ー
1605(慶長10) 4月16日 家康は将軍職を徳川秀忠に譲ることにし、この日秀忠が征夷大将軍に任命される(2代将軍)。 ー
1610(慶長15) ー 和一、伊勢国津藩(藩主・藤堂高虎)の家臣杉山権右衛門重政の長男として生まれる(戌年)。 1
1612(慶長17) 3月21日 幕府がキリスト教の布教を禁止する。 3
1614(慶長19) 11月15日 家康、諸大名に大坂城を攻めることを命じる(大阪冬の陣始まる)。 4
1615(元和元) 4月6日 家康、ふたたび諸大名に大坂城を攻めることを命じる(大坂夏の陣始まる)。 6
7月7日 幕府が武家諸法度を制定し、諸大名や家臣の決まりを定める。
7月17日 幕府が禁中並 公家諸法度を制定し、天皇・貴族・僧侶の決まりを定める。
1616(元和2) 4月17日 家康が駿府城で没する。 7
伝説 不明 和一、失明する(5才か10才)。 ?
不明 和一、江戸の山瀬啄一の弟子となる。
不明 和一、江ノ島の岩屋で管鍼法を考え出す。
不明 和一、江島神社の恭順院に鍼術を学ぶ。
不明 和一、京都の入江豊明に鍼術を学ぶ。
不明 和一、江戸に帰り名声を上げる。
不明 和一、江ノ島道(藤沢宿から江ノ島)沿いに道標を建てる。その中に「願主 麹町に住む」とある。
1623(元和9) 7月27日 徳川家光、上洛し伏見城で将軍宣下を受け、3代将軍になる。 14
1630(寛永7) 10月5日 藤堂高虎、江戸の藩邸で没する(75才)。 21
1635(寛永12) 6月12日 幕府が武家諸法度を改め、参勤交代を制度化する。 27
1637(寛永14) 10月25日 過酷な政治とキリシタンの弾圧に、九州の島原半島と天草諸島の農民とキリシタンが反乱を起こす(島原の乱)。 28
1639(寛永16) 7月4日 幕府、キリシタンの増加をおそれポルトガル船の来航を禁止し、貿易国を中国とオランダに限定する。また、海外渡航も禁止する(鎖国の開始)。 30
1645(正保2) ー 和位置の弟子三島安一、伊豆国三島出身の西谷縫殿助某の子として生まれる。 36
1646(正保3) 1月8日 徳川綱吉、生まれる(戌年)。 37
1651(慶安4) 8月18日 徳川家綱、4代将軍となる。 42
1657(明暦3) 1月18日 本郷の本妙寺より出火した火事で江戸の大半が焼け、多くの死傷者が出る(振り袖火事)。死者の供養のため両国に回向院が建てられる。 48
1658(万治元) 11月23日 和一の鍼の師、山瀬琢一が検校となる。 49
1663(寛文3) 5月 幕府が武家諸法度で殉死を禁止する。 54
1670(寛文10) 正月元日 和一、検校となる。 61
1676(延宝4) 11月11日 和一、伊勢国津藩2代藩主・藤堂高次を治療する。 67
12月20日 藤堂高次没する(74才)。
1677(延宝5) 7月25日 大久保加賀守忠朝、老中となる。 68
1680(延宝8) 2月11日 和一、江戸城に登城し、家綱を治療する。そのため、鳥取藩への診療ができなくなる。 71
3月8日 和一、弟子美津都(みついち)を伴い、鳥取藩の芝(千代田区丸の内)上屋敷を訪れる。美津都が藩主・池田光仲を按摩する。
3月18日 和一の弟子・美津都(みついち)が鳥取藩に登用される。和一、藩主・池田光仲にお礼を申し上げる。
3月28日 和一、家綱の治療にあたり初見する。
5月8日 家綱没する(40才)。
8月23日 徳川綱吉、5代将軍となる。
1682(天和2) 不明 和一、将軍綱吉から鍼術振興を命じられる?(『皇国名医伝』のみ確認) 家塾を杉山流鍼治導引稽古所として改める? 73
1683(天和3) ー 座等意津一の不行跡について、岩船検校城泉(?~1687)が座頭仲間の法に従い簀巻きにして佃島沖にて沈める。 74
1684(貞享元) 4月27日 和一の弟子・春都(はるいち)、鳥取藩に登用される。 75
12月22日 和一、相模国大住郡大神村(神奈川県平塚市)座頭密通事件の裁決をする。
1685(貞享2) 正月3日 和一、江戸城の黒書院勝手で綱吉に年始の御目見をする。 76
正月8日 和一、綱吉に召されて仕える。
8月5日 和一、幕府に召出され、月給20口を与えられる。
8月 和一、道三河岸(大手町)に116坪余りの屋敷を賜う。
1686(貞享3) ー 大久保加賀守忠朝、下総国(千葉県)佐倉から相模国(神奈川県)小田原の藩主となる。 77
1687(貞享4) 正月元日 和一の弟子杉岡一(づげいち)が検校となる。 78
正月14日 三島安一が検校となる(43才)。
2月27日 最初の生類憐れみの令が出される。以後たびたび発布される。
7月18日 岩船検校城泉、京都において没する。
ー この年、綱吉は42才の厄年にあたる。和一は江ノ島下の宮に護摩堂を建てて、綱吉の厄除けの祈願をする。
ー この年、和一の弟子4人が大名諸家に仕えていることが確認される。
1688(元禄元) 11月12日 柳沢保明(のちに吉保)が側用人となる。 79
1689(元禄2) 5月7日 和一、鷹匠町(神田小川町)に530坪余りの屋敷を賜う。 80
10月9日 和一、鍼治の効果が大なので、常に綱吉の治療に召される。褒美に月給が廃止され、代わって年俸300俵をもらうようになる。
1690(元禄3) 7月吉日 "和一の弟子三嶋検校安一(46歳)華鬘(けまん)を某所に奉納。

" 81 茨城県水戸市兼子國廣氏所蔵。
1691(元禄4) 7月18日 和一、江戸城中勝手向まで輿に乗ることを許される。 82
8月22日 和一の弟子杉岡語一(つげいち)・三島安一が大奥の治療を命じられ、月給20口を与えられ、医員に召出される。
12月2日 和一と弟子の三島安一が綱吉の治療に当たり、その褒美としてそれぞれに年俸200俵が加えられる。
1692(元禄5) 4月17日 和一は江ノ島弁天の護摩堂を祈祷所とすることを願い、許される。江ノ島東岸の漁師町(藤沢市江ノ島)に朱印地10石8斗6升余りを賜う。 83
5月9日 和一、綱吉の治療をし、精勤の褒美に27番目検校より関東総検校に任命される。
5月9日 和一、綱吉から当道座の式目(決まり)を改正するように命令される。
6月9日 和一自身が総検校就任のお礼に京都に上らなければならなかったが、綱吉の治療を昼夜にわたり行っているため暇がなく、職事が代行して京都に上る。和一は、治療をしているが奥医師ではなく「扶持検校」という立場である。
9月29日 和一、死ぬまで緋衣・紋白を許される。
9月29日 和一、京都職屋敷に添えて拝領地を賜う。
和一、当道座の新式目(決まり)を作成し、幕府に提出する。
12月15日 和一の弟子栗本俊行、老中・小田原藩主・大久保忠朝家医から幕府寄合医員に召出され、年俸200俵をもらう(俊行は晴眼者)。
ー  この年、和一は江ノ島の護摩堂の脇にさらに三重塔を建立する(現在は藤沢市・江ノ島市民の家)。
1693(元禄6) 正月26日 栗本俊行が奥医となる。 84
5月16日 和一、南本所一ッ目に1860坪余りの屋敷を賜う。
6月14日 和一の弟子・座頭和田一(島浦益一)米沢藩上杉家に江戸に老いて月俸5人扶持15両で召し抱えられる。(上杉御年譜・『代謡集』)
6月18日 和一、綱吉から弁財天像を賜い、本所一ツ目の屋敷の一部を弁天社として認められる(現在の江島杉山神社)。
7月7日 鳥取藩主・池田光仲、鳥取城で没する(64才)。
11月10日 栗本俊行、奥医の役料100俵をもらう。
12月9日 杉岡語一(つげいち)、行状がわるく幕府の医員をやめさせられ、藤堂高久に預けられる。
12月11日 栗本俊行、年俸100俵が加増され印籠3つをもらう(年俸合計300俵、奥医役料100俵、借宅三番町一色数馬屋敷の向い。
ー この年、三島安一が奥医師に任命される。
ー この年、和位置と三島安一の屋敷が鷹匠町(神田小川町)に隣接して存在する。
1694(元禄7) 3月10日 和一と三島安一が綱吉の治療にあたる。その褒美として給料を和一に300俵(計800俵)、安一に200俵が加えられる。 85
6月26日 和一、没する(85才)。江の島下の宮に葬られる。に本所二ッ目の弥勒寺にも墓を建てる。
7月11日 和一の養子安兵衛昌長が家を継ぎ小普請となる。
8月12日 和一の養子安兵衛昌長が綱吉に初見する。 ー
8月19日 和一に代わって三島安一が2代目関東総検校になる。 ー
この年 和一の弟子杉枝真一、柳沢保明(吉保)の家臣として勤める。 ー
1695(元禄8) 1月9日 綱吉の50才の慶賀の宴が江戸城中で行われる。
9月吉祥日 三島総検校安一が綱吉50才にあたり健康・長寿の祷願のため、大日如来像を建立する(土浦市大聖寺現存)。
1696(元禄9) 5月11日 三島総検校安一が小谷方の母高岳院を治療し効果があり、褒美として年俸100俵が加増される。 ー
1697(元禄10) 7月26日 幕府、旗本に対して地方直しを始める。和一の養子安兵衛昌長の俸禄も所領に直され、上野国内に800石を与えられる。 ー
1700(元禄13) ー 柳沢吉保の正室・(曽雌)定子が江ノ島の和一の墓の前に灯篭2基を寄進する(和一の七回忌)。
1701(元禄14) 2月4日 江戸城で播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつける。
6月1日 三島総検校安一、綱吉より「大弁才天」の掛物一幅を賜う(57才、東京都江島杉山神社に所蔵)。 ー
12月2日 杉枝真一、綱吉が柳沢吉保宅に御成の時に初見する。 ー
1702(元禄15) 12月3日 三島総検校安一、月給が廃止され領地に代えられる。この時、200石を加えられ、合計500石の領地を武蔵国(東京都・埼玉県)に与えられる(58才)。 ー
12月15日 赤穂浪士が本所松坂町吉良邸に討ち入る。
12月28日 栗本俊行没する(59才)。本所妙源寺に葬られる。
1703(元禄16) 3月18日 三島総検校安一、駿河台に添地193坪(建長屋有り)の屋敷を拝領する(59才)。 ー
1704(宝永元) 12月15日 三島総検校安一、法眼に叙される(60才)。
1706(宝永3) 10月19日 和一の弟子杉枝真一・島浦益一(子孫は和田)、検校となる。
12月11日 三島安一、法印(元興院)に叙される(62才)。 ー
12月11日 杉枝真一、綱吉が柳沢吉保宅に御成の時に幕府の奥医に召し出され、月給20口をもらう。 ー
1708(宝永5) 7月2日 島浦益一が幕府の医員に召し出される。月給20口を与えられ、西城大奥に候せられる。
1709(宝永6) 1月10日 綱吉没する(64才)。 ー
2月21日 三島総検校安一、寄合医師となる(65才)。
2月21日 杉枝真一、寄合医師となる。
10月15日 和一の弟子・板花検校喜津一、6代将軍家宣に初見する。
10月19日 三島安一が総検校辞職の願いを出す。辞職は許されるが、治療は続けるように命ぜられる(65才)。代わって島浦益一が3代目関東総検校となる。
11月1日 島浦総検校益一(300俵)・板花検校喜津一(月俸20口)、鍼治を善くするにより召し出され奥医並となる。
11月13日 島浦総検校益一の2代目和田春徹直秀家宣に初見する。
1711(正徳元) 12月6日 板花検校喜津一、千駄ヶ谷に500坪の屋敷を拝領する。 ー
12月15日 島浦総検校益一駿河台に534坪8合(内に建家有り)の屋敷を拝領する。
1712(正徳2) 10月14日 6代将軍家宣薨去。
"1716(正徳6)
(享保元)" 4月30日 7代将軍家継続薨去。 ー
5月16日 島浦総検校益一、家継の薨去に及び寄合医師に列す。
12月16日 板花検校喜津一、廩米200俵を賜う。
ー この年、島浦総検校益一、麹町にも住居あり。 ー
1717(享保2) 2月朔日 島浦総検校益一、内藤塾に440坪の屋敷を拝領する。
ー この年、和市の子孫と三島安一の屋敷が鷹匠町(神田小川町)に隣接して存在する。
1720(享保5) 4月4日 三島安一が没し、谷中(台東区)の元興寺加納院に葬られる(76才)。 ー
1721(享保6) 6月29日 板花喜津一が没し、麻布の本光寺に葬られる(70才)。 ー
1723(享保8) ー 島浦総検校益一、当道座の、職・十老と争う。
1728(享保13) 12月7日 和田春徹直秀、天英院(家宣室)の広敷に候し、月俸10口を賜う。
1729(享保14) 4月13日 島浦総検校益一、西城奥医に准ぜられる。 ー
1732(享保17) 7月21日 島浦総検校益一の3代目和田春長正、吉宗に初見する(15才)。
1736(元文元) 2月22日 島浦総検校益一、隠居(致仕)したが、なお西城大奥の療治を承り、2代目和田春徹直秀が家を継ぎ、直秀のいままでの月俸十口を益一が養老の料として賜う。また、江戸に総検校を置くことを止め、総検校を京都の職検校に返すこととなる。
1738(元文3) 12月1日 和田春徹直秀、父島浦総検校益一に先立ち手没する。 ー
12月27日 和田春長正直、遺跡を継ぎ小普請医師となる。
1739(元文4) 5月21日 和田春長正直、二丸広敷の療治を勤める。
1740(元文5) 正月5日 島浦総検校益一、一橋宗尹の痘瘡に際し鍼治療をし、治癒の酒湯の祝いに巻物を賜う。 ー
1746(寛保3) 9月28日 島浦総検校益一、没して浅草正法寺に葬られる

"月給の「1口」は、「1人扶持」と同じ意味です。1口は、一日に米5合で計算してください。
"


 ■7■医道の日本880 標準点の経穴を臨床で使ってフィードバックヲ 2017年
医道の日本880 平成29年(2017)09 88人のツボのとらえ方 85人に聞く/29.標準点の経穴を臨床で使ってフィードバックを
            香取 俊光
 私は、盲学校の教壇に立ちながら、経絡治療の講習会で治療に携わり、経穴部位の国際標準化に参加しました。そこで、2つに分けて述べたいと思います。
 1つ目は、学問的な面からの課題です。2006年の標準化より10年を超えると、その時の意図や意義も知られなくなっていくことを感じます。2013年に医道の日本社から私が主筆で『経絡・経穴を教える方たちへの虎の巻― 経穴部位国際標準化に対応して
―』を出しましたが、盲学校や鍼灸専門学校などへの配布しました。指数の限り課題を提起したいと思います。@取穴を正確にしようとすれば、縦軸と横軸の寸法、解剖学的な確認が必要です。教室内では、紐を使い取穴させますが、臨床では衛生的な紐の有無、
煩雑さが課題になります。A腋窩と肘関節の間の臂臑・清冷淵・消?などは肘関節から腋窩までの骨度9寸を使用できますが、腋窩と肩関節の間の臑会などは同身寸法を使用する。B支正は、陰の部分に移動したのか。改正で尺骨内縁と尺側手根屈筋の間となり、簡単にいえば尺骨の前側になる。しかし、陰陽の境目は尺骨ではなく皮膚の表裏の境目ということから尺骨の前側も陽の部分である。C赤白肉際をよく触知しよう。
 2つ目は臨床から見た課題です。標準化点よりも治せる部位が問われ、標準点に合わせて刺鍼すると、師匠や先輩には「良くならないね」と言われます。今回の標準化では古典の表記に従い定めたので、勿論臨床的な意義も高いのですが、生きている人間の変化にはなかなか対応できないのも現実と思います。ツボの反応を触覚で選択するのは日本の鍼灸の特徴とも言えます。国際化会議の中では、中国・韓国の先生方は部位より指入後の運鍼と響きを重視し、私とは随分違う観点であると感じました。臨床家の方に声高に申し上げれば、標準点からどのような症状・病気の時にどう部位が違うのか明確にしていって欲しいということです。また、水溝・労宮・環跳など6穴の部位の両論併記は(どちらが主説で別説ではなくこれからどちらかに定めなければならない経穴です。標準点の経穴を中心に残された多くの課題の解消と経穴の主治を決めていくことが未来の鍼灸師に任されています。若い鍼灸師に期待して筆をおきます。
香取 俊光
経歴
 立正大学大学院文学研究科史学専攻終了 昭和58年3月
 筑波大学付属盲学校高等部専攻科理療科卒業 昭和61年3月1日
 群馬県立盲学校教諭 平成元年〜現職
 日本理理療科教員連盟調査部長・教科書編纂医員など歴任。WHO/WPROによる経穴部位の国際標準合意に第2次日本経穴委員会作業部員として参加。経絡治療・鍼光会副会長・学術部長兼任。?


 ■8■群馬県立盲学校 校内基礎研修R 専攻科の指導について 2017年
    基礎研修R 資料
日時:平成29年9月29日(金) 
場所:図書室

    専攻科の指導について
     指導の内容と理療教育の歴史・退職講話に代えて−
             香取 俊光

はじめに
 本日は私が定年を迎えるので、理療科主任よりの「ミニ定年講話会」との配慮もあったようです。しばしの時間お付き合いください。
 さて、本日は最初に専攻科の指導について説明し、若干の実技を加えて、教材の見学もしていただこうと思います。また、私の奉職中の自己研修の課題が「理療教育と盲人」でしたので、文章は長いのですが、講和は短くして、後日この部分は読んでいただこうと思います。多くの盲人が本校の存続に尽力し、多くの卒業生が苦悩の中で理療を手にして生計を立てて行ったことを理解いただければ幸いです。
 本稿では、視覚障害者や特別支援学校を「盲人」・「盲学校」と表記していきます。
 専攻科は、按摩・マッサージ・指圧という1つの免許を取得する保健理療科があります。今でも中卒でこの課程がある本科保健理療科がある学校もありますが、高卒以上の専攻科保健理療科に移行しています。そして、はり師(鍼)の免許、きゆう師(灸)の免許と先の按摩の免許の3つを取得する専攻科理療科があります。いまでは、「あはき」と略しているものが多いかと思います。
 さて、指導の目的の第1は国家試験の合格にあります。
 その指導には学科では役2万語の専門用語の学習があります。
 第2の課題は、卒業して如何に自立していけるかということです。
 そのためには、実技面の習熟で、体力・身体の使い方から始まり、手指の巧緻性がまず課題となります。次に、空間認知、コミュニケーション力・身だしなみ・モラル・人間性、そして自炊や援助以来の力などの生活力の課題まで求められています。

1.あはきの体験
 まずは、皆様に鍼とそれを入れる管を見ていただき操作をしていただきたいと思います。巧緻性の難しさが体験できるとよいと思います。
 次に隣の方に親指で押してみる体験、自分の腿に手を交互にたたく体験をしてもらいます。
 実際にやってみて如何ですか。指を巧みに使うこと、力を入れて押すには痛くて、どんなことができれば長時間できるか難しいのが理解できましたか。また、交互にたたくのもリズムや力化源など難しいことが分かりましたか。

2.学科の理解
 専門用語を2万語も覚えなくてはなりませんが、昨今は更にそれを理解し運用しなくては答えられないような国家試験になってきました。
例えば骨は役200個、筋肉は名称と初めと終わり・支配神経と作用、病気の現員と病態
 経穴(つぼ)は361穴、、東洋医学ではこの世を5つ(五行)に分けた項目を役20項目とその助けたり抑制する関係、独特な東洋医学の生理・病理などを学習します。東洋医学では膵臓はありませんでした。知っていましたか。東洋医学の肝臓が今の肝臓と脾臓、東洋医学の脾臓が今の膵臓です。
 では、国家試験が複雑になった例を、今年2月に行われた国家試験からいくつか問題で確かめてみましょう。

 問題16 膜輸送について正しいのはどれか。
 1.単純拡散では濃度勾配に逆らって物質が細胞膜を通過する。
 2.促通拡散ではATP分解で生じたエネルギーを利用する。
 3.食作用では細胞膜が物質を包み込んで細胞内に取り込む。
 4.能動輸送では担体蛋白質を介して物質が細胞に取り込まれる。
 正解:3
 ※単語の理解と共に輸送の意味が問われている。

 問題110 体重節痛の際に用いる経穴部位で正しいのはどれか。
 1.第4・第5中足骨底接合部の遠位、第5指の長指伸筋腱外側の陥凹部
 2.内果後下方、踵骨上方、アキレス腱付着部内側前方の陥凹部
 3.足外側、第5中足骨粗面の遠位、赤白肉際
 4.足関節前内側、前脛骨筋腱内側の陥凹部、内果尖の前方
 正解:1
 ※問題にも2段階の理解が求められ、答えも部位から経穴を考え、その主治が何かというを4段階の理解がないと答えられない。

3.盲人の職業の歴史
 次に、時間のある限り盲人の職業と、近代のモウキョウイクの概要を話したいと思います。
 盲人が職業的な安定を得られたのは江戸時代といえます。
  それまでは、貧困な者が多かったといいます。鎌倉時代以降は平家びわなどの演奏で生活をするものが増え、室町時代に入り一気に当道座(とうどうざ)という互助組織まで形成され、盲人の一揆まで起こるようでした。そして、江戸時代に入り三味線の発明、琴と琵琶と共に三弦という楽器を盲人が手にしました。そして、浄瑠璃節・八橋検校による箏曲の大衆化、鳥獣の音声模写など多種の才能を輝かせました。音楽で史は、中世音楽と近代音楽をつなぐ重要な役割を果たしています。現在、平家琵琶を継承させようとする風呂じぇくともあります。
 また、杉山和一(わいち)(1610〜1694年)により鍼灸按摩が盲人の職業として確立しました。和一は世界にさきがけて盲人の教育施設・杉山流鍼(しん)治(ぢ)導引(どういん)稽古所を1680年頃には創立し、多くの弟子を輩出すると共に将軍綱吉の寵愛を受けて多くの弟子が幕府の御殿意図なっていきました。江戸時代の医療は免許制度でもなく自己申告制で、、結核自由もありませんでした。幕府の医療制度は最初から完成していた訳ではなく、順次形成され本道(内科)・外科(瘍(よう)科)・鍼科・口科・眼科・小児科・産科(夫人科)の7科目として完成していきました。また、医療については有能な人材を登用という現実的な課題もあり、江戸時代に多くの盲人が鍼灸按摩と言う医療に携わって行ったと考えられます。幕府の鍼科医の出自を調べてみると、京都の名医・武士・藩医・町医師・盲人・社人・寺僧・奥坊主などの幅広い階層からで、幕末までに26家が登用され、そのうち10家が盲人で38.5%でした。
 和一の大成した管鍼法は、現在の盲学校の鍼実技の中心です。鍼の技術には捻鍼法、打鍼法があります。杉山流の按摩術は輪状に揉み刺激が穏やかで、杉山流から分かれた晴眼の吉田流の按摩術は筋肉を弾くように揉み(線状)、強めの刺激です。
 蛇足ですが、幕府は盲人の自立を助けるために税金の免除と共に助成金、そして高利貸しを認めました。そのために時代劇では当道貸しという悪名でも有名でした。
 以上のような音曲・鍼灸按摩の職業自立は男性の盲人で、女性は瞽女(ごぜ)という組織で音楽を生活の糧に自律していました。しかし、独身でいるとか全国を地方を歩き回らないといけないなど厳しい生活でした。高崎や沼田にも存在していたといいます。有名なのは新潟県の高田瞽女です。
 盲人は点字の制定以前から文字の渇望があり、新潟県新発田市では郷土史編纂中に、弘化年代に工夫して作られた盲人用図書が発見。
 盲人里村氏がコヨリで文字の形を作り、これを一々紙に貼り付けた物で、方丈記4章・5章などが編纂されていた。また、茨城県板東市にはでこぼこ文字が忍田家に残されている。東京盲学校の盲生徒小林新吉(新潟県出身)が作成した結び文字があり、木綿糸をよって作り、結ぴ目数と距離によって、いろはを表しています。(「明治23年2月之を結ぶ」とあります)
 更には、葛原美濃一(1812〜1882年)が残した46年間分の『葛原勾当日記』があります。自ら考案した木製活字を用い平仮名、数字、句点、日・月・正・同・申・候・御などの漢字をあわせ、計60数個の木活字を作らせ、各活字の左右側面に1本から7本まで横線を刻むことで、いろは歌の第何段・第何行のどの字であるかを触って識別できるようにしていました。活字の押捺にあたっては格子型にくりぬいた枠を用い、整然と印字されるよう工夫していました。
 これ以外にも学問で有名な国学者塙保己一(1746〜1821年)は『群書類従』・『続群書類従』を編纂して貴重な古書を現在に伝えてくれました。その四男忠(ただちゅう)宝(とみ)(1808〜1863年)を伊藤博文(1841〜1909年)・山尾庸三(ようぞう)(1837〜1917年)が誤解から暗殺し、後日これを悔いて伊藤は文京盲学校、山尾は筑波大学視覚・聴覚支援学校の創立に尽力したといいます。
 江戸時代の盲人は音曲や鍼灸按摩で職業自立し、当道座という自衛組織で生活を補償されていました。

4.盲学校の成立と群馬県の盲教育
 江戸時代には当道座や瞽女により盲人は生活を補償されていましたが、明治4(1971)年の太政官譜により一切の権利が廃止され、一切の権利が剥奪され、多くの盲人が困窮化しました。
 この後は、学制と医制(医療と理療の両面)から盲学校の成立と、理療を職業としていけるかの闘争の歴史でした。
 先の太政官譜により盲人の鍼灸按摩の伝授の場所がなくなりました。、明治4年に文部省が設置され、山尾庸三が「盲唖学校を創立せられんことを請う」の書を太政官に提出しました。しかし、実現にはいたりませんでした。明治5年には学制が発布され、廃人学校が設置されるべしとあるが、これも実現されませんでした。明治7(1874)年8月18日、 医制が発布され、漢方薬や鍼灸按摩の医療行為が制限されました。
 盲学校の制度の発展は添付表を見ていただくことにして、その主なものを抜き出してみます。
 明治23(1890)年8月、第二次小学校令において幼稚園・図書館などとともに「盲唖学校」を小学校に準ずる学校としてその設置・廃止などに関して規定した。盲唖教育の法制上が準則された。
 明治24(1890)年11月、文部省令第十八号で、教員の資格、任用、解職、教則等に関する事項を定めた。これによって盲唖教育は法規上の準則を正規にもつに至った。
 明治32(1899)年8月3日に私立学校令が出され、私立学校の基準が出された。
 明治33(1900)年 8月20日、第三次小学校令が出され、義務就学規定を明確化したが、その際障害児には就学の義務を免除又は猶予すると規定した。
 『学制100年史』には「しかしこの新小学校令は、日清戦争後の教育振興策にそって、初等教育の内容整備、義務教育の強化を図る一方、就学の猶予・免除規定を対象によって区分し、明確にした。このことから、重い障害児の小学校就学は実際にますます困難になった。これらの事情によって教育を受ける機会をもたない盲・聾児のため、盲唖学校、盲人学校の設置が急速に全国的に促進された。すなわち実質的な盲・聾教育の拡充がこのころから始まったといえる。
 これに伴って全国的に教員需要も増し、このため三十六年四月から東京盲唖学校に教員練習科を設けた。」とある。
 明治40(1907)年 4月17日、文部省は各府県師範学校の附属小学校に盲人・唖人・心身不完全な児童のためできるだけ特別学級を設けるように訓令を発令した。
  一番大きな法令は大正12(1923)年 8月28日、盲学校及び聾唖学校令(勅令第375号)により、盲と聾の分離が規定。府県の学校設置の義務となったことです。『学制120年史』には「 明治四十二年四月文部省は直轄学校官制を改正して新たに東京盲学校を設立した後、翌年四月東京盲唖学校を東京聾唖学校に改め、盲教育と聾唖教育とを分離させ、それぞれの発展を期すこととした。特殊教育が主として民間篤志家の努力に依拠して設立運営されている状況は次第に社会的に問題視され、関係者の間から特殊教育の振興、その教育の義務化・公共化が求められた。大正デモクラシーの隆盛と第一次大戦後の好況などを背景にして、」としています。これにより、順次県立化がなされ安定した学校経営がなされました。欧米と違い、日本では盲教育が先行詞、聾学校がなかなか設立・独立しませんでしたが、これ以後に急速に設立・分離していきました。ただし、皆様もご存じの通り盲聾教育に限られていた特殊教育だったことも指摘しておきます。
もう少し具体的に述べますと、学校の最初の創立は 明治11(1878)年 明治11(1878)年5月24日、、京都に「盲唖院」が設立されたことです。明治13年に現在の筑波大学の視覚・聴覚支援学校の母体となった楽善会訓盲院が築地に設立されました。『学制100年史』には「 盲学校ないし盲唖学校は、明治三十年代には二七校、四十年代にはさらに三二校増し、就学する生徒数も増加した。ただこれらの新設校はほとんど小規模の私立学校であった。この中で東京盲唖学校は、一つの学校で盲、聾という障害の性質を異にし、違った教育法を必要とする生徒の教育を行なうことの不利を説く関係者の主張があった。このことから四十二年四月、文部省は勅令第八十六号で直轄諸学校官制中の改正を行ない、東京盲学校を新設し、翌年三月勅令第六十六号で同じく直轄諸学校官制中の改正で、東京盲唖学校を東京聾唖学校に改め、盲聾併置校の分離、単独聾唖学校設置の先鞭(べん)をつけた。これに伴い、四十三年十一月、省令第二十九号をもって「東京盲学校規程」、同三十号をもって「東京聾唖学校規程」を制定した。これらによって東京盲学校、東京聾唖学校は、それぞれ、盲人、聾唖者に普通教育を施し、ならびに須要な技芸を授けること、盲人教育、聾唖教育に従事する者を養うという学校の目的あるいは性格を明確にした。このためそれぞれの学科を普通科、技芸科、師範科に分け,そのほか修業年限、教科目、学科目、入学資格等を定めた。これらの規定は、以後全国の盲唖学校教育の目的、性格、学科組織、教育内容の指標となったものである。」とあります。この東京盲学校と京都盲学校が盲聾教育の先進校として全国の盲学校の模範となっていきました。聾教育は当初から口話法か手話法のどちらが有効か課題が多かったようです。盲教育では、創立当時から職業教育は考えられておらず、楽善会訓盲唖院で明治15年から始まり、一時は鍼は盲人に不適ということで教育されなかった年月もあり、盲学校での鍼灸按摩も当たり前のことではなく先人の苦労の結果てもありました。京都と東京の卒業生が多くの盲学校の創立に貢献しました。『学制100年史』には「学校数は全国で、明治四十五年五七校、生徒数は同年盲一、六〇〇人、聾一、〇六九人に達した。」とあります。地方の当道座に所属していた盲人や地方の篤志家(資産家・宗教者)などが私立学校を創立を試みました。この記載の中野学校数については、筆者の研究とは若干違います。小さな私立学校・講習所などが早い年代から存在していました。しかし、経営困難や戦災で焼失し再建されなかった学校もあります。筆者の調査では200数の講習所・塾程度を含めた教育施設が存在していました。
 また、鍼灸按摩と音曲以外の職業教育の試みもなされ、園芸・養鶏・養豚・シイタケ栽培・調律・喫茶・飛行機輸送などとなされましたが、現在も鍼灸按摩が主流であるといえます。
 群馬県では、明治17年に点字が伝来したといわれていますが、日本日本点字の選定は明治23年なので年代が少し疑われています。
 また、明治23(1890)年に前橋市住吉町の橋林寺内に私立上毛訓盲院が創立(2年から3年で廃校)され、本校の母体となる上野(こうづけ)(群馬県)教育会附属訓盲所が明治38(1905)年9月18日に創立されました。これは日露戦争による失明軍人の再教育という目的で、国内では珍しい発足理由でした。日露戦争で指揮を取った乃木希典((1849〜1912年)のぎまれすけ)が慰問にも訪れました。最初は現在の群馬会館の北西の角に日赤病院の跡を利用していました。しかし、失明軍人の再教育の目的を果たすと、廃校の危機もありましたが、上野(こうづけ、群馬縣)師範学校小学校附属盲学校(1教室、現在の県立図書館の道向こう側)、更に廃止の中で桃の井小学校内市立前橋訓盲所(1学級)が設けられていきました。
 この学校の変遷の中で、中心となって教育して行ったのが瀬間福一郎(1877〜1962年)という盲人です。瀬間は下仁田町馬(ま)山(やま)村の出身で、下仁田の盲人に鍼灸按摩を学び、東京盲学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)に進み、卒業後は横浜訓盲院で教員として勤務し、ここで点字やキリスト教について親しみました。数年後に故郷に戻り、更には前橋で開業しながら理療と点字の塾を開いたといわれています。瀬間は前橋史大手町の前橋教会に通い、その縁から妻を迎えたり、私立前橋盲学校の設立者後藤源久郎にも出会いました。
 大正4(1915)には、桃の井小学校内の市立前橋訓盲所が廃止と確実となり、十数名の盲人が路頭に迷うという危機に陥りました。 そこに後藤源久郎(1857?〜1917年)が資財を投じて、私立前橋盲学校を設立しました。ここは、最初に訓盲所が設けられた群馬会館のところの建物を購入し「前橋盲学校」として設立したのです。後藤は経営の苦労からよくよく年に60余才で死去され、キリスト教徒の大森房吉(群馬県立盲唖学校初代校長)が経営を引き継ぎました。前橋盲学校は賛美歌を歌い、キリストの教えを聞き、夜は寄宿舎で祈祷集解が行われました。瀬間風府は、教員として舎監として活躍しています。校舎は県庁前の整備で表町、さして現在の南町に移転していきました。
 時に全国で盲学校の公立運動が盛り上がり大正12(1923)年8月28日、盲学校及び聾唖学校令(勅令第375号)により、盲と聾の分離が規定。府県の学校設置の義務が。発布されました。
 県内でも高大正10年前後に崎に盲学校と聾学校、桐生市には盲学校が設立され、栃木県には足利・宇都宮に盲学校がありました。高崎盲学校は地理的、市内業者の支援で戦後まで独立していきましたが、前橋・桐生の盲学校と高崎聾学校が合併して昭和2年に群馬県立盲唖学校となりました。長い間の在校生・卒業生の希望の県立学校でした。県立運動に同窓会が大きく貢献したのです。敷地は現在の場所です。戦後に聾学校が市民文化会館、そして今の天川原町に移転しました。聾学校が一時市民文化会館のところに分離したので盲学校もそこにあったと混乱している人もいますのでご注意下さい。
 瀬間は、県立盲唖学校設立に際して、退職して理療の業界に尽力して理療の発展や点字の不及に当たりました。お嬢さんが本校の小学部の先生になられました。大森房吉は、瀬間に代わり夫妻で前橋盲学校の経営に当たり、大森は校長・経営者・教員・公使・舎監として働いていました。現在残されている振鈴は何時のものかはわかりませんが、大森が授業の始業・終業に振ったものでしょうか。
 本校は、前橋空襲でも被災しなかったために史料が沢山残されました。戦争中には、失明軍人のための臨時職業訓練がなされたり、現在のイオン高崎のところにあった前橋飛行場や栃木県の黒磯飛行場にマッサージ奉仕に派遣されました。屋上には鉄塔があり、防空監視にも当たったとも言われています。聾部の成都は空襲警報でも起きなかったために、非難に苦労があったといいます。
 これらのデータは共有の「share (」→05 創立周年式典→05 創立周年式典→03 110周年記念実行委員会→記念品(USB)用データにアップしてあります。2代目校歌の音声などもありますので、聞いてみてください。作曲は井上武士という群馬の大音楽家です。

おわりに
 私の整理した本稿の歴史という史料が後輩の盲人の光とならんことを記念して終わります。
 本日は清聴いただきありがとうございました。
 
【参考】
 谷合侑(すすむ)『盲人の歴史』(明石書店、1996年)
 文部省普通学務局『盲聾教育80年史』(文部省、1958年) 点訳あり
 文部省『学制100年史』・『学制100年史 資料編』(帝国地方行政学会、1972年)、文科省HPにデータ掲載
 文部省『学制120年史』(ぎょうせい、1992年)、文科省HPにデータ掲載
 中村 満紀男・岡 典子「日本の初期盲唖学校の類型化に関する基礎的検討 ―明治初期から1923(大正12)年盲学校及聾唖学校令まで」(『東日本国際大学福祉環境学部研究紀要』7、p1)/pp.1-33、2011年)
 中村 満紀男・岡 典子・他「大正12年盲学校及聾唖学校令の教育の質の改善に対する効果 ―公布前・後の実態比較に関する研究構想―」(『障害科学研究』37,p129-143、2013年)。これ以外にも中村・岡野論文があるが省略する。
拙著『目の見えない はりの神様 杉山和一物語 〜ある一日の息子とのエピソード〜』(岡山ライトハウス、2010年)
 拙著『群馬県立盲学校創立110周年回顧録 愛盲の光と情熱』(桜雲会、2016年)・同編集県立盲学校・資料室のしおりー群馬県の視覚障害者を育てて111年ー』(2016年)、
 拙稿「江戸期の理療教育 −杉山流の理療教育を中心に−」(『理療教育学序説』、ジアース教育出版社、p24〜35、2015年)
拙稿「江戸期の鍼灸・按摩と視覚障害者 ー杉山鍼術の江戸から明治の展開を中心にー」(《社会鍼灸学研究》11、p7-24、
2017年)

 ■9■史料にみる杉山和一 杉山遺徳顕彰会講演会 2003年
杉山遺徳顕彰会講演会資料
        平成15年9月23日(火) 於墨田区弥勒寺
    史料にみる杉山和一
群馬県立盲学校教諭 香取 俊光

  はじめに
 現在の視覚障害者のあはき免許による職業自立は、江戸時代の盲人鍼医杉山検校和一(1610〜94)の功績といって憚ることはないだろう。
 今年は和一の没後310年に当たり、この機会に講演の名誉をいただき感謝します。
 和一の偉業を6つにまとめてみました。
  @鍼の刺鍼技術の一つである管鍼法の創始・大成。
  A鍼・按摩の教育と施設の設置(杉山流鍼治導引稽古所)。
  B鍼・按摩を盲人の職業として確立させた。
  C弟子達を幕府や諸大名の医師に登用させた(杉山自身は医   員に登用されず)。
  D将軍綱吉に寵愛され、その庇護下に盲人の座組織を再編。
  E当道座(盲人の芸能集団)の中心を関東にも設けた(関東惣   検校、惣録屋敷)。
 和一の業績については俗説も多く、かえってそのために功績を汚しているかもしれません。和一の偉業を史料から明らかにしていければ幸いと思います。

   1.杉山和一の偉業について
  @和一活躍の年代
 ・想像以上に高年齢からの活躍
  寛文10年(1670)正月8日兼業昇進以後
  A綱吉に登用以前の幕府と和一
 ・和一以前の盲人…伊豆円一・山川城管・岩船城泉
 ・貞享元年(1684)相模国大住郡大神村座頭密通事件裁決
  B綱吉と和一
 ・綱吉登用以前には大名の治療
 ・御典医・奥医ではなかった
 ・関東総検校の親切
和一を使った幕府の当道座支配
 1.和一→2.三島安一→3.島浦益一→4.島崎登栄一→
 5.杉枝真一・
  C弟子の養成年代
 ・弟子の初登用
 延宝8年(1680)に鳥取藩池だけ美津都
 貞享2年(1685)に弟子4名大名家に伺候
  D鍼治稽古所の創立と規模
 ・綱吉の鍼治振興策の真偽
 ・講堂を江戸近郊四所及び諸州四十五所に設く(新宿・板橋・品川・千住)の真偽
 浅田宗伯『皇国名医伝』→富士川游『日本医学史』による逸話
 ・どこに建てられたか
 ・明和6年(1769)の杉山神社への立て替え
 「杉山流鍼治稽古所 四間余ニ五間」
 ・稽古所の当初の場所はどこか
 和一の住居は、麹町→道三河岸→神田小川町→本所一つ目
 *神田小川町の屋敷は、和位置の子孫と三島…島浦(和田)

   2.和一の弟子達
  @幕府の医療制度
 ・能力のあるものが幕府の医員に登用された。
  A和一の弟子達…14名
 ・幕府鍼科医員登用…9名
 三島安一・島浦益一・島崎登栄一・杉枝真一・石坂志米一・
杉岡つげ一・杉島不一・板花喜津一・栗本杉説俊行     
 ・諸大名登用…5名
 徳山ゑ一(米沢藩上杉家)・松山てる一(加賀前田家)・
 美尾都(肥前国大村家)、美津都(鳥取藩池田家)・春都(同家)
 この他 「杉山夢想流」もあった
  B特筆すべき弟子
 ・島浦益一…杉山真伝流の大成(著述)、子孫は和田と名乗り幕末まで鍼科医員としても活躍
 ・杉枝真一…博学の弟子、『針灸約』一巻著、子孫は幕末まで鍼科医員として活躍
 ・石坂志米一…子孫に石坂宗哲、子孫は幕末まで鍼科医員として活躍
 ・栗本杉説俊行…唯一の晴眼の弟子、子孫は幕末まで鍼科医員として活躍

   3.和一に関する文献
 1.浅田宗伯(惟常)「杉山和一」(『皇国名医伝』上巻、24丁表〜25丁裏、国立公文書館所蔵、請求番号180151、嘉永5年、1852年、『医家伝記資料』下、青史社、1980年)
 2.石川二三造『本朝瞽人伝』(8頁、114頁、普及舎、1892年)、同『本朝盲人伝』(37頁、文部省普通学務局、1896年)、同『続本朝盲人伝』第1(14丁表、普及舎、1935年)
 3.広沢安任『近世盲者鑑』、3丁表、博聞社、1889年)
 4.紫竹屏山「杉山和一」(『本朝医人伝』、59〜61頁、青木嵩山堂、1910年)
 5.島田筑波「杉山検校和一」(『史蹟名勝天然記念物』4ー11、1929年)
 6.永峯光寿「江ノ島所在杉山検校墓所の疑問に就て」(『史蹟名勝天然記念物』7ー5、1932年)
 7.小川春興「杉山和一」(『本朝鍼灸医人伝』、40頁、半田屋、1933年)・「杉山検校の史的研究」(『同』附録、1〜42頁)
 8.石原保秀著・早島正雄編『東洋医学通史 ー 漢方・針灸・導引医学の史的考察 ー』(1933年、136〜137頁、自然社新編復刻、1959年)
 9.中山太郎『日本盲人史(正・続)』(正1933年、続1936年、パルトス社合本復刊、1986年)
 10.島田一郎『江島神社と杉山検校』(江島神社、1935年)
 11.藤浪剛一「杉山和一」(『医家先哲肖像集』86・87頁、刀江書院、1936年)
 12.石野瑛「総検校杉山和一建立の江ノ島道道標」(『史蹟名勝天然記念物』12ー7、1937年)
 13-1.富士川游『日本医学史 決定版』(1952年、325頁、形成社復刻、1979年)
 13-2.同『日本医学史綱要』1(147〜149頁、平凡社、1974年)
 13-3.同『杉山和一先生」(1894年3月講演、『富士川游著作集』第7巻、33〜35頁、思文閣、1980年)
 14、西川義方「鍼術史」(日本学士院日本科学史刊行会編纂『明治前日本医学史』第3巻、319〜344頁、財団法人日本古医学資料センター復刻、1978年)
 15.河越恭平『杉山検校伝』(杉山検校遺徳顕彰会、1956年)
 16.「杉山和一先生」(『中外医事新報』337、1957年)
 17.木下晴都「杉山和一とその医業」(『漢方の臨床』9-11・12、40〜54頁、1962年)
 18.長浜善雄『針灸の医学』(創元医学新書、15・16頁、1956年)
 19.長尾栄一『医学史』(医歯薬出版、84頁、1960年)
 20.伴萵蹊・三熊花顛『近世畸人伝・続近世畸人伝』(『東洋文庫』202、平凡社、303〜304頁、1972年)
 21.加藤康昭「盲人の医業への進出」(『日本盲人社会史研究』、119〜126頁、未来社、1974年)
 22.根本幸雄「日本鍼灸学史」(『鍼灸医学典籍大系』1、総論、出版科学研究所、1978年)
 23.今村亮『療治之大概集』序(『鍼灸医学典籍大系』14、出版科学研究所、1978年)
 24.酒井シヅ『日本の医療史』(208・209頁、東京書籍、1982年)
 25.丸山敏秋「鍼灸古典入門 杉山三部書 ー日本の鍼灸書ー」(『現代東洋医学』5-4、1984年、のち『鍼灸古典入門』に所収、思文閣、1987年)
 26.服部敏良「鍼灸科・按摩科」(『医学』、91頁、1985年)
 27.小森嘉一「当道から見た塙保己一」(『塙保己一論纂』下巻、214〜215頁、錦正社、1986年)
 28-1.長岡昭四郎「随筆やじろべえ(23)ー失明の世界ー」(『医道の日本』510、1987年)
 28-2.同「随筆やじろべえ(30)ー杉山和一実像と虚像ー」(『医道の日本』517、1987年)

   4.和一関係資料
 1.杉山和一『療治之大概集』・『選鍼三要集』・『医学節用集』(『鍼灸医学典籍大系』14)
 2.杉山和一『杉山流三部書』(全文書き下だし、財団法人杉山検校遺徳顕彰会、1932年、医道の日本社復刊、1976年)
 3. 杉山和一『杉山流三部書(現代訳版)』(谷口書店、1992年)
 4..島浦和田一(益一)『杉山真伝流』(表之巻5巻・中之巻4巻・奥龍虎之巻3巻、『続・鍼灸医学諺解書集成』5・別巻1、1〜778頁、オリエント出版社、1988年)
 5.島浦和田一(益一)『杉山真伝流表之巻』(写本、異本3種類所収、『臨床鍼灸古典全書』8、75〜488頁、オリエント出版社、1989年)
 6.大沢周益筆『杉山真伝流鍼治手術詳義』(『続・鍼灸医学諺解書集成』5・別巻1、779〜824頁、オリエント出版社、1988年)
 7.島浦和田一(益一)『杉山流鍼術』(写本、『臨床鍼灸古典全書』8、489〜578頁、オリエント出版社、1989年)
 8.『(杉山夢想流)鍼術十箇条』(刊本、『臨床鍼灸古典全書』8、41〜74頁、オリエント出版社、1989年)
 9.『(杉山流)對髀W』(写本、『臨床鍼灸古典全書』8、579〜630頁、オリエント出版社、1989年)

   5.拙稿   
  @論文
 1.江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究(長尾榮一教授退官記念論文集『鍼灸按摩史論考』、1〜146頁、桜雲会、1994年)
 2.江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究(昭和63年度 筑波大学理療科教員養成施設『卒業論文・研究論文抄録集』)
 3.江戸幕府における鍼科医員と盲人鍼医(1)・(2)(『理療の科学』16ー1・17ー1、1992年、1993年)
 4.杉山和一 その文献と伝説(『理療の科学』18-1、1994年)
 5. 杉山和一の屋敷と杉山鍼治講習所について(1)(2)(『医道の日本』54ー10・55−7、1995年・1996年)
 6. 元禄時代の鍼・灸・按摩・医学史料 ー附 『隆光僧正日記』医師・医事索引ー(『理療の科学』20-1、1997年)
 7.杉山和一の弟子達 ー江戸幕府鍼医三島安一・杉岡つげ一・栗本俊行・杉枝真一について(北原進『江戸時代の地域支配と文化』、大河書房、2003年)掲載予定
  A史料紹介
 1. 江戸幕府の医療制度に関する史料(1)ー元禄13年『侍医分限記』ー(『日本医史学雑誌』35−3、1989年)
 2. 国立公文書館所蔵『曲直瀬養安院家由緒書』など(『漢方の臨床』36−10、1989年)
 3. 江戸幕府の医療制度に関する史料(2)ー土岐長元家由緒書などー(『日本医史学雑誌』36−2、1990年)
 4. 同(3)ー河野平之丞家由緒書などー(『日本医史学雑誌』36−3、1990年)
 5. 同(4)ー文化6年6月録『官医分限帳』ー(『日本医史学雑誌』36−4、1990年)
 6. 同(5)ー文政度『官医分限帳』ー (『日本医史学雑誌』37−3、1991年)
 7. 『五雲子先生伝』・『森氏由緒書』翻印(『漢方の臨床』38−10、1991年)
 8. 江戸幕府の医療制度に関する史料(6)ー鍼科医員島浦(和田)・島崎・杉枝・栗本家系図『官医家譜』などー(『日本医史学雑誌』41ー4、1995年)
 9. 同(7)ー鍼科医員上田・吉田・山本・畠山家『官医家譜』ー(『日本医史学雑誌』42ー1、1996年)
 10. 同(8)ー鍼科医員佐田・増田・山崎家『官医家譜』などー(『日本医史学雑誌』42ー4、1996年)
 11. 同(9)ー坂四家『官医家譜』などー その1〜3(『日本医史学雑誌』45ー3、46−1、46−2、1999年〜2000年)
  B図書紹介
 1.君塚美恵子編『紀州藩医 泰淵の日記』(『日本医史学雑誌』39−2、273頁、1993年)

 ■10■江戸幕府鍼科医員の治療の一断面 ー天璋院様御麻疹諸留帳」を中心としてー 
『漢方の臨床』52−12、2005年

    江戸幕府鍼科医員の治療の一断面
     ー天璋院様御麻疹諸留帳」を中心としてー
           香取 俊光

    はじめに
 現在の鍼灸治療は、運動器疾患偏向の傾向が強いのではなかろうか。筆者の研究課題の江戸時代の鍼灸はどのようであったのだろうか。江戸時代の鍼灸古典には多くの疾患が対象として記載され、抽象的に運動器疾患以外の広範な疾患を治療していたと考えてきた。筆者は、第二次経穴委員会作業部会の委員として参加し、委員会内の討議を通して感じたことがあった。江戸時代の鍼灸古典の貴重さ後世に残した影響の大きさ、それに反して厖大さによる発掘と整理の不備である。そこで筆者にもできることは何かと思い立ち本稿を起こした。
 本稿では、幕末の麻疹の診療記録の中に出てくる鍼科医員を通して、鍼科がどんな診療をしていたのか、幕末にどんな医療動向があったのか紹介してみたい。

    1.「天璋院様御麻疹諸留帳」中の鍼科医員
 幕末も文久2年(1862)に14代将軍徳川家茂(在職1858〜66年)を初め江戸城内大奥に麻疹が流行し、天璋院篤姫(1836〜83、徳川家定側室・在職1824〜56年)も、この時に27才で罹患した。天璋院篤姫は11月8日に発症し、12月28日に床上げした。この間の診療記録「天璋院様御麻疹諸留帳」の中から、鍼科医員の登場する部分を抜き出してみよう。
 史料の提示に当たり幾つか注意点を述べておく。
  原文のレ点、一・二点等を省略した。
  筆者の注は行間・文中に( )で示した。


    天璋院様御麻疹諸留帳
文久二年壬戌
  十一月八日
天璋院御定式御診日に付、例刻章庵、静海、磐安、卜仙、
祐益、秀貞、拝診之処、今朝は御拭取にて御仕舞た被為遊候後、卒に悪寒、無程御熱発被為在、御脈微数、御頭痛、御食気不被為在、稍御白苔奉拝見候。依之御風邪に可被為在申上、(中略)
 十四日、今朝御目見診、長春院、玄瑤、澄庵、快庵、  卜仙、玄貞、甫周、秀貞、内六人総診之者也。拝診前  御中年
 十五日(中略)
 今日弥御麻疹御治定之義、章庵、静海御談部屋へ罷出、御用掛坪内伊豆守へ申上候。且又御麻疹中勤方伺書、頭取播磨守へ差出置候。別に長春院見合泊願書も一同差出、伺之通相済候。
    勤方伺書
天璋院様御麻疹中勤方奉伺候
詰切      御 匙 大膳亮章庵
  御匙並 戸塚静海
壱人ヅヽ泊居代     漢科之者
   蘭科之者
詰切    御鍼科 吉田秀貞
多紀養春院
日々御診 伊東長春院
多紀永春院
日々壱人宛御診 土生玄昌

桂川甫周
本康宗達
 日々御機嫌伺、折々御診、此外御雑科右
之通に御座候
以上
十一月十五日










  (中略)
 夕刻御診、長春院、章庵、静海、磐安、秀貞。益御心下御苦悶御緩、御かゆ等御風味少し宛御宜敷被召上候由、御沙汰之旨川岡申聞候。(中略)
 夜四時過拝診、章庵、静海、磐安、秀貞。益御諸症御寛解に奉診候旨、大崎殿、藤崎殿江申上候。秀貞江御心下御按腹被仰付、静海玄会、四半時引取申候。九時頃より御快寝、是迄に無之御寝也。
 十六日 朝五時前拝診、長春院、章庵、静海、玄同、宗達、秀貞。益御機嫌之旨、大崎殿、梅渓殿へ申上候。昨夜是迄無之御快寝故、御気分大に御宜敷、御熱気御軽く、御発疹稍御消散に被為在候。拝診後 おかゆ御堅め之処、おあさ物御弐ツ被召上候、(中略)
 夕御診、永春院、章庵、静海、澄庵、洞海、秀貞、益御順症にて御熱気も不被為在、始て緩和之御脈夕刻奉診候。御機嫌大崎殿、藤崎殿(中略)
 十七日、陰 (中略)
 夕七半過拝診、長春院、章庵、静海、快庵、洪庵、秀貞、益御順症にて、御熱発も不被為入候。御機嫌之旨、万里小路お局江申上候。
 夜四半時拝診、章庵、静海、快庵、洪庵、秀貞、益御異状不被為在候。御機嫌万里小路殿、藤崎殿江申上候。(中略)
 十八日 晴 朝六半時過拝診、長春院、章庵、静海、快庵、甫周、道安、秀貞、益御順症、更々御異状不被為入候。御麻疹も御皮剥脱奉拝見候。御機嫌花園殿、梅渓殿
へ申上候。(中略)
 但昨夕御前にて綿子壱ツ、御盃壱ツ添拝領、夕刻御診出之七人也。(中略)
 夕七半時前拝診、長春院、玄意、章庵、静海、玄貞、秀貞六人、益御機嫌之旨、花園殿、藤崎殿江申上候。(略)
 夜四半時前拝診、益御平和、伺之際も不被為入候。長春院、玄意、章庵、静海、玄貞、秀貞也。御機嫌花園殿、藤崎殿。(中略)
 十九日 晴 今朝御目覚後音軟便一行御相応御快通。
 六ツ半時拝診、長春院、玄意、章庵、静海、玄貞、秀貞、益御順快に奉診候。御機嫌飛鳥井殿、藤崎殿。(中略)
 夕七半時御診、永春院、玄瑤、章庵、静海、貫斎、秀貞、宗安(宗安事今日御機嫌伺罷出候に付、御序故拝診)、益御平和に奉診候。御機嫌伺飛鳥井殿、藤崎殿。(中略)
 夜四時過拝診、玄瑤、章庵、静海、貫斎、秀貞。益御順症、御平和に被為入候。御機嫌之旨、大崎殿、藤崎殿。
 廿日 晴 暖 御目覚拝診、長春院、玄瑤、章庵、静海、貫斎、秀貞、益御平和に奉診候。御機嫌之旨、大崎殿、藤崎殿。今朝御軟便一行御通じ被為在候。御機嫌大崎殿御局江申上候。
 夕七半時御診、章庵、静海、卜仙、洞海、宗達、秀貞。益御機嫌之旨、大崎殿、藤崎殿江申述候。
 夜四時拝診、章庵、静海、卜仙、洞海、秀貞。益御機嫌御順症之旨、万里小路殿御局江申述候。(中略)
 廿一日 晴 御目覚拝診、章庵、静海、卜仙、洞海、玄昌、秀貞、益御機嫌御順症之旨、万里小路殿、梅渓殿江申述候。(中略)
 夕七半時拝診、章庵、静海、磐安、洪庵、秀貞。益御機嫌克、御順症之旨、万里小路御局江申述候。
 廿二日 晴 六半時過拝診、長春院、章庵、静海、磐安、宗達、秀貞、益御機嫌、御順症之旨、花園殿、藤崎殿江申述候、(中略)
 夕御診、章庵、静海、澄庵、玄貞、秀貞、益御機嫌之旨、花園殿、梅渓殿へ申述候。今日は昨日より御気色被為入候旨、御局申聞候。全く時候暖気、逆上致し易き故と 申上候。(中略)
 廿三日 晴 朝拝診、章庵、静海、澄庵、玄貞、秀貞、仙貞、益御機嫌、御順症之旨、飛鳥井殿御局江申述候。御表伊豆殿へ玄貞廻り、例之通申上候。
 今日は御慰に御側にて被下物有之候に付、明番之者も格別用事無之者は、八時頃迄控居候様に、表御使番福田被申聞候。八時御前に被召候に付、請合候者、玄意、玄瑤、章庵、静海、澄庵、玄同、快庵、磐安、洞海、貫斎、(玄貞脱カ)、秀貞、仙貞十三人罷出候。御蕎麦御弁当折二ツヾ被下置候。一統御蕎麦頂戴、其跡にて左之通御品物拝領。
  御丼、御紙入、煙革入、煙管、同筒 章庵、静海
    但し長春院今夜若年寄稲葉兵部少輔殿御宅御用
  イギリス皿、鼻紙入、煙管、煙草筒、煙草入 秀貞
羅紗鼻紙入、たもとおとし
   玄意、玄瑤、章庵、貫斎、玄同、澄庵、快庵、磐安、
   洞海、玄貞、仙貞
右之通頂戴仕、御礼藤崎殿へ申上候。
 七時過拝診、玄意、章庵、静海、玄昌、秀貞、益御機嫌御順症之旨、飛鳥井殿、藤崎殿江申述候。(中略)
 廿四日 晴 御目覚後拝診、玄意、章庵、静海、玄貞、甫周、道安、秀貞、伯元、益御機嫌、御順症之旨、大崎殿、梅渓殿江申述候。御表へ御容体申上、玄意相廻り申候。
  (中略)
 明後廿六日は御酒湯に付、詰切は御免。左之通勤方申立候積。
  御治定 十五日より十二日之間
  詰切  御 匙 大膳亮章庵
   御匙並 戸塚 静海
詰切 御鍼科 吉田 秀貞
  日々御診 伊東長春院
多紀永春院
           引込・気上   多紀養春院
両人泊居代         漢家之者
蘭家之者
日々壱ヅヽ御診    土生 玄昌
                桂川 甫周
本康 宗達
日々御機嫌伺、折々御診   此外雑科
 右之通十五日朝勤方伺書、章庵持参。頭取□□□□□差出、御用掛伊豆殿にて相済。(中略)
* 夕御診、永春院、章庵、静海、快庵、洪庵、秀貞。益御機嫌之旨、大崎殿、瀧井殿江申述候。(中略)
 廿五日 晴 御目覚拝診、章庵、静海、快庵、洪庵、宗達、秀貞。益御機嫌之旨、万里小路、大崎殿江申述候。(中略)
 タ御診、永春院、玄瑤、章庵、静海、貫斎、秀貞、益御機嫌御順快之旨、大崎殿、梅渓殿へ申述候。(中略)
 廿六日 陰 御目覚拝診、玄瑤、章庵、静海、貫斎、秀貞。益御機嫌、御順快之旨、花園殿御局殿江申述候。
 今日御酒湯恐祝申上候。今日尚又於御前左之通拝領
  小重箱一、英吉利皿一、芭蕉布一
玄瑤 
  四組角*物、芭蕉布一、吸物膳、椀五人前ヅヽ、
章庵
 同
静海
  吸物膳、椀五人前ヅヽ、英吉利皿一、芭蕉布一
    貫斎
  重箱一組、南京皿六、芭蕉布一
    秀貞
  (中略)
 夕御診、永春院、章庵、静海、玄同、卜仙、秀貞。益御機嫌、御順快之旨、花園殿、藤崎殿へ申述候。(中略)
 今日御酒湯済、明廿七日より勤方伺書、章庵より頭取与五郎衛門へ差出。伊豆守へ近達相済。御書付左之通。

   御酒湯後勤方奉伺候
 壱人宛泊、朝夕拝診    大膳亮章庵
 戸塚 静海
 居代           当番 壱人
 夕出御診  当番 壱人
 日々御診、見合泊、御鍼科 吉田 秀貞
  右之通御座候。以上
   十一月廿六日 大膳亮章庵
 廿七日 晴 五時拝診、章庵、静海、玄同、卜仙、宗達、秀貞。益御機嫌之旨、弥御順快之趣、大崎殿、梅渓殿江相廻り申候。(中略)
 天璋院様御酒湯に付、被為召、御匙をも相勤候に付、拝飲物被仰付
  白銀三十枚ヅヽ、御時服二ヅヽ
御匙大膳亮章庵 御匙並戸塚静海
 同断之節 詰切相勤候ニ付、拝飲物被仰付
  白銀二十枚、時服同断
    吉田秀貞
  (中略)
 同断之節 折々御容体相伺候に付、拝飲物被仰付
  銀七枚ヅヽ
 村山自伯、小堀祐益、佐藤道安、石坂宗哲、
    渡辺雄伯、杉枝仙貞、杉山伯元
天璋院様より拝飲物有之候、左之通
  銀二十枚ヅヽ
御匙章庵 並静海
銀十五枚
御鍼科仙貞
   (中略)
同三枚ヅヽ
自伯、祐益、道安、宗哲、雄伯、仙貞、伯元
  (中略)
 公方様御麻疹被為済、御床上御祝義に付、於御膳建河内守被仰渡候。頂戴之面々左之通。
   (中略)
 同(白銀)拾五枚ヅヽ
    宗哲、仙貞、秀貞
  (中略)
 公方様御麻疹被為済御床被為払候御祝儀ニ付奥於御広敷 和宮様より被下物左之通
   (中略)
  白銀三枚ヅヽ
    玄意、玄瑤、章庵、静海、澄庵、貫斎、快庵、磐安、    卜仙、洞海、洪庵、玄貞、宗哲、仙貞、秀貞
   (中略)
 天璋院様より御同断に付
    (中略)
  白銀壱枚ツヽ
    玄意、玄瑤、章庵、静海、澄庵、貫斎、快庵、磐安、    卜仙、洞海、洪庵、玄貞、宗哲、仙貞、秀貞
   (中略)
 和宮様御麻疹御快然、一等骨折相勤候に付、御褒美於御広敷左之通被下候
   (中略)
  銀五枚ヅヽ
    玄意、玄瑤、三伯、章庵、快庵、玄叔、磐安、卜仙、    澄庵、宗哲、仙貞、宗 貞
   (中略)
 廿八日 晴 御診、三伯、章庵、静海、洪庵、宗達、秀貞、益御機嫌御順快之旨、飛鳥殿、梅渓殿江申述候。
  (中略)
  (十二月)
 十一日 四時過拝診、三伯、章庵、静海、卜仙、秀貞、御容体益御宜敷、御脈緩和、御熱候更に不被為入候。益御機嫌、御順症之旨、花園殿、藤崎殿へ申述候。御頂背鈍痛之御気味被為入候に付、秀貞へ御鍼治被仰付候。今日は御楽、(中略)
 十二日 益御機嫌克、御熱候更ニ不被為入、且御飲食之節少し御温熱候得ば、御汗直に被為在候旨、(中略)
 今日拝診、章庵、静海、快庵、玄叔、洪庵、秀貞也。
  (中略)
 廿日 晴□暖 四時出営、無程拝診、弘玄院、静春院、玄瑤、玄叔、秀貞。益御機嫌之旨、飛鳥殿御局江申述候。(後略)

 以上から、筆者が興味を抱いたのは左の通りである。
 @内科・外科・鍼科など諸科で診療したこと。
 A漢方医・蘭方医の混合で診療したこと。
 B病気の診療に際しては「詰切・泊・日々診療」のグループに分かれていたこと。
 C診療報酬の具体的な内容が分かること。
 また、鍼科診療の記事で、二つの部分が注目される。
 @十一月十五日・夜四時過条で、「秀貞江御心下御按腹被仰付、静海玄会、」と吉田秀貞に按腹の仰付があり、戸塚静海が立ち会った。
 A十二月十一日条で、「御頂背鈍痛」に対し、やはり吉田秀貞に「鍼治」が仰付られた。長期の臥床による項・背中=肩こりと思われる症状に鍼治療が施された訳である。
 当時の鍼科医員が麻疹に直接的な治療をするのではないかと思っていたが、鍼科の中に按摩を含んでいることが確認できたり、現在のように項背のこわばりに刺鍼している。

    2.幕末の医療と鍼科医員・吉田秀貞
 今回紹介した「諸留帳」の時代は、明治維新直前の争乱期でもあり、医療制度も漢方医に蘭方医が初めて登用された大変革の時期でもあった。ここに登場する蘭方医は、伊東長春院(玄卜・瑶川院)・伊東貫斎・桂川甫周・竹内玄同(渭川院)・戸塚静海・林洞海などである。
 また、法制上では文久2年(1862)12月7日の蓄髪・医師還俗許可令が出された。多くの医師が還俗したが、鍼科の医員からは山本杢三郎(宗春)、増田邨之丞(寿算)、栗本善左衛門(杉貞)、山崎宗之助(宗運)、畠山庄次郎(隆正)の五名がいる。
 この後、「諸留帳」と鍼科に関して述べてみる。まず、鍼と麻疹診療については、先に指摘したように麻疹の直接的な治療は出てこなかった。同じ鍼科奥医の佐田玉淵房照(道故、1670〜1756年)の『鍼灸枢要』に、
  ○大椎各二寸半 痘瘡麻疹治ス針
    肩先へ開イテサス口伝
と、大椎穴が麻疹に効果があると記載されている。麻疹の鍼灸治療が、実際にどれくらい頻用されたのか疑問が残ったが、吉田秀貞の按腹や項背の刺鍼は現実的に感じられた。
 ここで吉田家について詳しく述べてみると、初代兼則は町医より召出され桜田の館の綱重・家宣に仕え、二代目不先が家宣の6代将軍就任に際して幕府に登用された。
 秀貞について、まとめて知り得る史料に文久三年(1863)『吉田秀□明細短冊』がある。
          養祖父 吉田秀伯死   寄合医師
          養 父 吉田秀哲法眼死 奥御□□
          実祖父 本康碩寿死   小普□
          実 父 本康宗円法眼死 [   ]
   本国 山城
  高弐拾人扶持       御鍼科 吉田 秀□ 
         生国 武蔵
                     亥三十六歳
   外御番料百俵          
   少高ニ付勤候内二十人扶持被下置候
  安政四巳年八月十二日従部屋住被 召出被 仰付奥詰
    温□院(十三代徳川家定)[   ]午年十月六日  唯今迄之通可相勤旨被仰渡翌六寅年五月十三日奥御医  師被 □□文久元酉年七□□□日養父願之通隠居被   仰付家督無相違被下置同年八月九日少高ニ付勤候内二  十人扶持被下置候
と、吉田家が山城国(京都府)の出身で、本康宗円の子で養子であり、部屋住の身から登用され、天璋院の治療に当たった時に35才であったことなど細かい点がわかる。
 秀貞は基本給20人扶持、それ以外に番料100俵、薄給なので20人扶持が足されている。多くの医師の給料は200俵程度で、これで暮らせたのかと心配になる。医師は、今回のように診療に際して報酬があって生活が成り立っていた訳である。そこで今回、秀貞がどのような報酬であったのか、他人の財布の中身をまとめてみた。
  イギリス皿、鼻紙入、煙管、煙草筒、煙草入、重箱一  組、南京皿6、芭蕉布1、
  白銀20+15+3+1=39枚、時服2
となった。更に効能が顕著であれば法眼・法印の叙任の者もあった(今回は大膳亮章庵・戸塚静海が法印に)。
 ちなみに、同じ鍼科の杉枝仙貞の診療報酬は、
  羅紗鼻紙入、たもとおとし
  白銀 15+3+1=19枚
  銀 7+15+3+5=30枚
 同じく鍼科石坂宗哲は、
  白銀 15+3+1=19枚
  銀 7+3+5=15枚
であった。
 『続徳川実紀』安政4年(1857)8月12日条に、                   奥医師
                仙庵忰
   被召出             杉枝 仙貞
   奥詰           秀哲忰
                   吉田 秀貞
  右被 仰付旨。同人申渡之。
と、同じ鍼科医員杉枝仙貞と共に奥詰医師に召出されている。安政6年(1859)5月12日と思われる史料には、
                奥詰医師
                   杉枝 仙貞
                   吉田 秀貞
   右之通奥医師可被 仰付もの御事
  五月十二日
と、前と同じく杉枝仙貞と共に奥医師となったものである。諸留帳で紹介した文久2年11月8日より12月28日まで天璋院麻疹治療に当たっている。『続徳川実紀』慶応2年(1866)12月18日条には、
                奥医師
                  浅田 宗伯
   一 法眼           杉枝 仙貞
                  吉田 秀貞
                奥医師並
                  川島 宗端
   右被 仰付旨。於 笹之間替席土圭間。老中列席。   河内守申渡之。
と、浅田宗伯・杉枝仙貞等と共に法眼に叙せられている。全員が、天璋院の診療団のメンバーであるが、その功績によるかは断定できない。
 天璋院の治療に、鍼科から吉田秀貞・杉枝仙貞、石坂宗哲が参加し、吉田秀貞が診療の中心として活躍していた。この時期の鍼科医員は、石坂宗哲の子宗貞、平塚惣検校英俊一、和田春徹、上田東春、佐田玉英(本家)、佐田玉振(分家)、坂立節・坂春庵、山本宗仙などが知られている。慶応2年(1866)「奥医師書上」には奥医師として次の四名が見える。
  杉枝仙貞・吉田秀貞・平塚惣検校英俊一・石坂宗哲

    おわりに
 「諸留帳」に登場する鍼科医員の活躍を通し、診療の実際をうかがうことができたのではなかろうか。また、秀手の反省を紹介する中で、幕末の医療にも触れることができた。今後も、丹念な史料収集を続け、鍼科医院の実態を明らかにしていきたい。
、  
注・参考文献           
 (1)戸塚武比古「天璋院様御麻疹諸留帳について」(『日本医史学雑誌』28-1、1982年)。
 (2)史料中の医員が号名だけで不詳な者も多いので、五十音順に紹介しておく。『新訂寛政重修諸家譜』全22(続群書類従完成会)を、以下『寛政譜』巻数-頁として表した。
 永春院 → 多紀安常、口科、『寛政譜』18-180
 快庵 → 三上快庵、安政5年6月25日紀伊殿奥詰医師より紀伊慶福(徳川家茂)附奥医師として登用された。
 貫斎 → 伊東貫斎、蘭方医、内科、安政4年9月朔日に紀伊家医師として目見、安政5年7月3日に幕府奥医師として登用された。
 玄意 → 津軽玄意(本家)、外科、『寛政譜』15-226
 玄叔 → 西玄叔、外科、『寛政譜』22-209
 玄昌 → 土生玄昌、眼科、天保8年7月21日に幕府の医院として登用されている。
 玄貞 → 石川玄貞、内科・小児科・外科、文久2年8月23日に幕府奥医師として登用された。
 玄同 → 竹内玄同、蘭方医、婦人科・小児科、安政5年7月7日に幕府の委員として登用された。
 玄瑤 → 井上玄瑞の誤りか、内科、『寛政譜』22-342
 洪庵 → 緒方洪庵、蘭方医、文久2年8月21日に木下備中守医師より幕府医員に登用された。
 弘玄院 → 大膳亮弘玄院。大膳亮章庵を見よ。
 三伯 → 篠崎三伯、小児科、完成府22-222
 秀貞 → 吉田秀貞、鍼科、『寛政譜』22-108
 章庵 → 大膳亮章庵(本家)、内科・婦人科、西丸匙(奥医)、『寛政譜』20-290
 静海 → 戸塚静海、後に静春院、蘭方医、二丸匙並(奥医並)、安政5年7月3日に幕府医員として登用される。
 静春院 → 戸塚静春院。静海を見よ。
 仙貞 → 杉枝仙貞、鍼科、先祖は杉山和一の弟子。『寛政譜』21-338。
 宗安 → 広井宗安、外科、
 宗達 → 本康宗達、内科・口科、『寛政譜』20-215
 宗哲 → 石坂宗哲、鍼科、先祖は杉山和一の弟子。『寛政譜』になし。
 宗伯 → 浅田宗伯惟常、内科、文久元年2月28日町医より家茂お目見医師、慶応2年7月16日目見医師より奥医師として登用された。
 澄庵 → 遠田澄庵、内科・外科、安政5年7月3日に松平三河守家医師より幕府奥医師として登用された。
 長春院 → 伊東玄卜、のち長春院、更に瑶川院、蘭方医、内科・小児科・外科、松平三河守家医師より幕府医員として登用された。
 道安 → 佐藤道安、外科、『寛政譜』21-6
 洞海 → 林洞海、蘭方医、内科・小児科・外科、万延元年9月13日に小笠原右近将監家医師より幕府医員として登用された。
 伯元 → 村山伯元、外科、『寛政譜』22-30
 磐安 → 伊沢磐安、内科、安政6年8月22日に阿部伊予守賢之助家医師より幕府医員として登用された。
 甫周 → 桂川甫周、蘭方医、外科、『寛政譜』21-13
 卜仙 → 半井卜仙、内科、『寛政譜』21-19
 祐益 → 小堀祐益、外科、祐真の子で、祐真は文政8年(1825)8月15日に幕府医員として登用された。
 養春院 → 多紀養春院。多紀安常・永春院の子、口科、『寛政譜』18-180
 (3)石井良助・他編『幕末御触書集成』第3巻、3249号(478頁、岩波書店、1993年)。
 (4)『医師改革之留』(国立公文書館所蔵、請求番号220ー119)。
 (5)「五臓之針分別」(佐田房照『鍼灸枢要』、『臨床鍼灸古典全書』第21巻、175〜277頁、オリエント出版社、1990年)。
 また、佐田家や『鍼灸枢要』については、拙稿「江戸幕府の医療制度に関する史料(8)ー鍼科医員佐田・増田・山崎家『官医家譜』などー」(『日本医史学雑誌』42ー4、1996年)、拙稿「第二次経穴委員会便り 〜第14回 江戸幕府鍼科御典医の鍼灸奥義書「鍼灸枢要」〜(『医道の日本』64-9、2005年)を参照されたい。
 (6)江戸城多門櫓文書10047(国立公文書館所蔵、明細短冊については小西四郎監修『江戸幕臣人名事典』第4巻263頁、(新人物往来社、1989年。熊井保編『改訂新版江戸幕臣人名事典』1169頁、新人物往来社、1998年)を参照。
 (7)白銀とは、江戸時代9p程の平たい楕円形に延ばして紙に包んだもの。時服とは、諸臣に毎年春・秋または夏・冬の二季に賜った衣服。
 (8)『続徳川実紀』全5冊(吉川弘文館)。
 (9)(安政六年・一八五九カ)五月十二日「(奥詰医師杉枝仙貞・吉田秀貞儀奥医師被仰付候書付)」(多聞櫓文書一一九〇七)。
 (10)(元治元年・1864カ)『寄合御医師惣名前并高歳附』(多門櫓文書40075)。前掲『医師改革之留』。
 (11)慶応2年「奥医師書上」(多門櫓文書31059・10931)。