合理論

(ごうりろん rationalism)

The fact is that the systematic use of the labels `empiricist' and `rationalist' is a product of nineteenth-century histories of philosophy, which saw seventeenth- (and eighteenth-) century philosophy in idealized terms, as a conflict between two opposing schools which reached some sort of resolution in the philosophy of Kant.

---R.S. Woolhouse


認識論の立場の一つ。 理性論、合理主義などとも呼ばれる。

近代哲学においては、ふつう、 経験論との対比で用いられる。 以下でもこの対比を用いて説明するが、 両者とも中世哲学的な権威主義、 すなわち「アリストテレスはこう言っている」 とか「聖書にはこう書いてある」 とかいう物言いに対する批判として現われた点に注意。

また、通常、デカルトパスカルスピノザライプニッツなどが 主要な論者として数え入れられる。 これらの哲学者はみなフランスやオランダなどのヨーロッパ大陸に住んでいたので、 英国経験論に対して、大陸合理論などとも呼ばれる。

さて、合理論とは、ごくおおざっぱに言えば、 真の知識は、感覚的認識ではなく、 理性的認識によって得られるとする立場である。 これを哲学用語を用いて言いかえると、 真の知識はアポステリオリな認識ではなく、 アプリオリな認識によって得られるとする立場である。

合理論は、経験的認識によっては真の知識は得られないと批判する。 たとえば、「大きさをもつ物は、すべて形を有している」 という主張は、 どんな場合でもあてはまる100%確実な知識のように見えるが、 経験だけではこの主張を100%確実なものにすることはできない。

経験によっては100%確実な知識を得られないというのは、 次のようなことである。 たとえば、 「ソクラテスは死んだ」 「プラトンも死んだ」 「アリストテレスもやっぱり死んだ」 という個別的な経験的知識から帰納して、 「すべての人間は死ぬ」というような知識を得た場合、 これは確実な知識と呼べるだろうか。 経験的な知識とは、過去の事実からえた知識であるから、 これまでの経験ではみな死んだが、 わたしは死なないかも知れないという可能性を排除できない。 同様に、これまでに見たカラスはみんな黒かったが、 次に見るカラスが白いかもしれないという可能性は排除できない。

そこで、合理論の立場では、確実な認識は経験だけでなく、 理性的な直観、あるいは生得的観念などによって のみ到達することができるとされる。 ちょうどユークリッド幾何学が自明な公理から出発して 次々と定理を証明していくように、 上のような手段によってえられた自明な知識から、 演繹的な推論によって次々と証明を行なっていくのが合理論の理想的なモデルである。

たとえば、デカルトは、 自分の精神が確実に存在していることを合理的直観を通じて知り (「われ思う、ゆえにわれあり」cogito ergo sum)、 そこから神や世界が存在することを証明する。

対立する立場として、 知識は経験によってのみ得られるとする経験論がある。 他に、アプリオリアポステリオリ直観主義なども参照せよ。

(12/Jan/2001, 15/Jan/2001追記)

感覚経験だけでは、 現象についての知識しか得ることができない。 したがって、 物自体についての確実な知識を得るためには、 「自然の光lumen naturale」あるいは 「理性の光lux rationis」を用いなければならない、とする立場。

14/Feb/2002追記


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sat Nov 22 19:25:23 JST 2008