司法裁量

(しほうさいりょう judicial discretion)

Judicature has for it's [sic] only right and proper ends, these: main and positive end, giving execution and effect to the Laws, whatsoever they may be.

---Jeremy Bentham


法廷における法の解釈において裁判官に許された一定の自由のこと。 現代の法哲学では、 司法裁量がそもそも存在するのか、 存在するとすればそれはどのような特徴を持つのか、ということが議論になる。

形式主義(formalism)あるいは機械法学(mechanical jurisprudence)の立場では、 裁判官の裁量は存在せず、裁判官は現にある法を厳密に適用しなければならない。

他方、アメリカン・リアリズムに代表される 規則懐疑主義の立場では、 裁判官は自由に自分の道徳観や世論を含んだ判断を行なうことができる。

この両極端の立場に対して、ハートは 規則の「中心部分(core)」と「周辺部分(penumbra)」を区別し、 規則の適用が明確である中心部分においては形式主義が 主張するように規則が演繹的に適用されるが、 規則の適用があいまいになる周辺部分においては規則懐疑主義が 主張するように裁判官が自己の信念に従って判断を下さなければならないとした。

たとえば、「公園では乗り物禁止」という条例がある場合、 自動車やオートバイがこの規則によって禁止されることは明らかである。 しかし、たとえば三輪車やうばぐるまやローラースケートがこの規則によって 禁止されるのかどうかは明らかでない。この場合、 前者が規則の明確な中心部分で、後者が不明確な周辺部分である。 ハートによれば、規則がこのような周辺部分を持つのは、 言語が本質的に「開かれた構造(open texture)」持つからである。

このようにハートは、 厳格な形式主義といいかげんな規則懐疑主義の妥協的ラインをとるが、 ドゥウォーキンによればハートはまだ強い司法裁量の余地を残しており、 これは法の「明確性」「予期可能性」「客観性」といった理念に反する。 (また、強い司法裁量は司法立法とみなすことができ、 これは三権分立の理念に反する) ドゥウォーキンにとって法は正義を体現しており、 つねに判決には客観的な「一つの答え」がなければならない。

ドゥウォーキンの考えでは、ハートの司法裁量論の問題は彼の法理論にある。 ハートによれば法は一次的規則と二次的規則の結合体であり(くわしくは 『法の概念』を参照)、 それゆえ規則があいまいになる(上の乗り物のような)事例においては、 裁判官が法を逸脱して判断を下すことになる。

しかし、ドゥウォーキンの考えでは法は規則だけでなく、 個人の権利について規定する原則(principle)をも含んでいる。 この原則は規則のように「一かゼロか(all or nothing)」 というふうに適用されるのではなく、 原則(すなわち権利)が衝突するさいにはそれぞれの重みが衡量される。 したがって、規則があいまいになったところでは裁判官は個人の信念に したがって自由に判断を下すのではなく、原則を考慮にいれて、 判決が現行の法にもっとも適合し(best fit)、 しかもその判決によって法が道徳的にもっとも健全なものとなるような見地から (best light)判断を下す「道徳的義務」がある。

たとえば、リグズ対パーマー(Riggs v. Palmer ニューヨーク、1889年)においては、 リグズは遺産目当てで自分の祖父を殺したために刑務所に入れられたが、 出所後、元の遺書に従って遺産を相続しようとしたために、 彼の親戚によって訴えられた。けれども、「遺産目当てで贈与者を殺した場合、 遺書の内容は破棄される」といったような判例が存在しなかったため、 一審ではリグズが勝訴した。しかし、上訴においては、 「何人も自分の犯罪から利益を得てはならない」という原則に基づいて、 リグズは遺産を相続できないことになった。

この事例における「何人も自分の犯罪から利益を得てはならない」という原則が ドゥウォーキンの言う原則であり、彼によればハートはこれを法の一部と見なさない のに対し、ドゥウォーキンは法の不可欠な一部とする。 また、ハートの立場はこの事例にはさまざまな判決の可能性があるとするのに対し、 ドゥウォーキンは正しい答えは一つしかなく、 裁判官はみな正しい答えにたどりつくように努力する義務を負っているとする。

ここで、正しい答えに辿りつくための方法論的装置として、 ドゥウォーキンは神のごとき理想的な裁判官「ヘラクレス(Hercules)」 がどう推論するかという議論を行なっている。 ヘラクレスは法を知りつくしているので、 どのような判決がもっともこれまでの法に適合するかを理解し、 さらに、ヘラクレスは道徳的に優れているので、 どのような判決が法をもっとも道徳的に健全なものにするかを判断することができる。

ドゥウォーキンもハートと同様に、 裁判官に裁量の余地はないとする形式主義(機械法学)と 裁判官に裁量の余地を与えすぎる規則懐疑主義の中間を取るわけだが、 「答えは一つしかない」とするため、 ハートの強い司法裁量に対して弱い司法裁量を唱えているとみなされる。 とくに「答えは一つしかない」という主張と、その背後にある道徳的客観主義には さまざまな批判がなされ、たとえばヒューム的主観主義の立場から 「理論的な議論(どのような判決が現行の法に適するか)の不一致は解決しうるが、 実践的な議論の不一致(どのような判決が法を道徳的にするか)は解決できない」 とするマコーミックの批判や、衝突する権利は通約不可能である(incommensurable)と するマッキーの批判や、 best fitな判決とbest lightな判決は常に一致するとは限らず、 両者が衝突する場合が生じうるとするフィニスの批判などがある。

08/Aug/2001


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jan 28 03:43:18 JST 2000