『法の概念』

(ほうのがいねん The Concept of Law)

[The purpose of this book] is not to provide a definition of law, in the sense of a rule by reference to which the correctness of the use of the word can be tested; it is to advance legal theory by providing an improved analysis of the distinctive structure of a municipal legal system and a better understanding of the resemblances and differences between law, coercion, and morality, as types of social phenomena.

---H.L.A. Hart

[T]he most distinctive and valuable element in Hart's work as a jurist lies in the way in which he has addressed the explanation of laws as social rules and the explanation of social rules. He has rejected the idea that rules are some kind of command or imperative. He has rejected the ideas that they can be represented as simple behavioural generalizations about outwardly observable regularities in human behaviour and that description of social `habits' can yield conclusions about social rules. He has rejected the related idea that they are only predictive propositions or grounds for predicting how people will act in certain circumstances. He has rejected the idea that they are merely expressions of human emotion or feeling.

---Neil MacCormick


ハートの主著。

この本においてハートは言語分析の手法を用い、 「法とは何か」という問いに答えている。 すなわち彼は、 法を命令の一種として理解するオースティンの 法の主権者命令説、 法と道徳の一種として捉える自然法思想を それぞれ批判し、一次的規則と二次的規則の結合としての法理解を打ちだす。 さらに、裁判官の自由裁量を認めることにより、 規則の機械的適用(形式主義)とその批判(規則懐疑主義)との対立を 乗り越えようとする。

1961年に出版されたこの本は、停滞していた英米法哲学に新風を吹き込んだ。 ハートの死後、1994年に出版された第二版には、 「後記」が追加されている。 2012年には出版50周年を記念して法哲学者のレスリー・グリーン(Leslie Green)の 解説と注釈が付いた第三版が出版された。


以下ではハートの法哲学の立場を簡単に説明する。 ここではMacCormickの説明(MacCormick 1981: 27)にしたがい、 (1)社会的規則としての法、(2)法と道徳の区別、 (3)実定法の不完全性と裁判官の自由裁量について順に説明する。 なお、手元に翻訳書がないので、 定訳とは異なる言葉づかいになっている可能性が高い。

1. 社会的規則としての法

ハートによれば、 法は社会的規則の一種である。 社会的規則には、法以外にも、道徳やマナーや言語などが含まれる。 これらの規則の重要な共通点は、社会に住む人々の行動を調整するということと、 社会の慣習から生じたということである。 これらの規則のうち、法と道徳は、 拘束力を持つ(binding)、 すなわちある行為を義務づけるという点で、 マナーなどの他の規則からは区別される。 さらに、法は、体系的であるという点で、 明確な基準を欠く道徳からは区別される。

(たとえば、「不倫は現在の日本において違法である」 というのが正しい発言かどうかは六法を調べればわかるが、 「不倫は現在の日本において不道徳だと考えられている」という発言が 正しいかどうかは、人々の意見の相違もあり、簡単には結着がつかない。 また、法は道徳と比べて、変更の手続きがはっきりしているが、 道徳にはそのような手続きは存在せず、 「明日からは不倫は不道徳になります」という事態は考えられない。 さらに、法を破ったかどうかの判断は、裁判所があるおかげで、 道徳に反したかどうかという判断に比べて簡単である。 以下で述べるように、ハートによれば、 法と道徳のこうした違いは法が二次的規則を持つことから生じる)

一次的規則と二次的規則

法の持つこの体系性は、ハートの考えでは、 一次的規則と二次的規則の結合(union of primary and secondary rules)によって得られるものである。 一次的規則とは、義務を課す法のことで、 典型的なのは「人を殺してはならない」などの刑法の条項である。 それに対して、二次的規則は、 一次的規則の作成や変更を規定する法のことである。 すなわち、二次的規則は、一次的規則のように誰かに義務を課すのではなく、 誰かに義務を作ったり変更したりする権限を 与えるような法(power-conferring)のことである。

承認の規則

ハートは二次的規則を三種類に分けている。 一つは、承認の規則(rules of recognition)で、 どの一次的規則が法として認められるかを定めた規則がそれである。 たとえば、もっとも簡単な例では、ローマ最古の成文法である十二表法 のような、権威のあるテキストがそれであり、 もっと複雑な法体系を持つ社会では、たとえば 「国会の過半数の支持を得たものであること」 「問題の事例に関係する判例に述べられていること」 というような規則が承認の規則と考えられる。 このような承認の規則があるために、 「ヒトのクローンは法によって禁止されているかどうか」 というような問いに対して、明確な答えを与えることができる。 (道徳にはこのような規則がないことに注意せよ。以下も同様)

変更の規則

二つめは、変更の規則(rules of change)と呼ばれるもので、 これは、新しい規則を作ったり、 これまでの規則を変更したり廃止したりする手続きを規定する法のことである。 たとえば、国会における立法の手続きを定めた法がそれである。 また、市民が契約を結んだり遺書を書いたりすることによって 義務や権利の変更を行なう仕方を定めた法も、変更の規則に含まれる。

裁定の規則

三つめは、裁定の規則(rules of adjudication)で、 これは一次的規則が破られたかどうかを判定し、 違反が認められた場合には刑罰を課する手続きを定めた法である。 裁判所のあり方を規定する法が典型的な裁定の規則だと言える。

2. 道徳と実定法の概念的区別

このように一次的規則と二次的規則の組み合わせとして理解される法は、 道徳と同様な一次的規則(「殺してはいけない」「盗んではいけない」など)を 持つものの、上で述べたように道徳とは区別される社会的規則である。 したがって、 かりにある一次的規則が社会の道徳とは異なるものであったとしても、 その規則が二次的規則によって妥当性を認められているかぎり、 悪法であろうが何であろうが、立派な法であることになる。

たとえば社会の大半の人が「死刑制度は存続すべきである」 と考えていたとしても、 死刑制度を廃止する法律が存在することは可能であり、 単に道徳に反するからという理由だけで法律が無効になることはない (ある法律が有効か無効かは二次的規則である承認の規則によって決まる)。 また逆に、ある行為が法律によって命令されているからといって、 かならずしもそれが道徳的であることにはならない(たとえば奴隷制)。

ハートは、 このように「この法は道徳に反するから無効である」とか 「その行為は法律によって禁じられているから不道徳である」 とかいう発想の根っこにある「法の効力は道徳に由来する」という 自然法的思考を否定した。 それゆえ彼は法実証主義の 立場に立つとされる。

また彼は、 「法は道徳(実定道徳)を強制すべきである」 (たとえば、社会が同性愛に不寛容ならば、 同性愛に不寛容な法律を作るべきである) というリーガル・モラリズムに対しても、 ミル的な自由主義の 立場から反対した。

3. 実定法の不完全性と裁判官の自由裁量

また、このように一次的規則と二次的規則の組み合わせとしての法は、 一次的規則だけしか存在しない場合にくらべてずっと明確であり 個々の法の適用も多くの場合は単純明瞭であるものの、 言葉の用法があいまいであったり、 予期しなかった事例が起きたりするために、 判定が困難な事例が存在することは避けがたい。

たとえば、「公園内は乗り物禁止」というルールがある場合、 「乗り物」という一般的な語によって自動車やバイクが指されているのは 明瞭であるが、三輪車やローラースケート、あるいや消防車が 「乗り物」の中に含まれているのかどうかはすぐには答えられない。 また、小学校の遠足において問題になる「バナナはおやつに入るんですか」 という質問も同様である。

この例からわかるように、 法には言語と規則の一般性から生じる境界事例(ボーダラインケース)が存在する。 ハートは法のこのような性質をopen-textured(開かれた性質)と呼ぶ(第一版の翻訳では「開かれた構造」、第三版の翻訳では「綻び(ほころび)」)。

法が開かれた性質を持つということは、 法はけっして完全で閉じた体系にはなりえないということであり、 したがって裁判官は規則を機械的に適用するだけではなく、 規則の適用があいまいな部分(たとえば三輪車が「乗り物」かとか、 バナナは「おやつ」か、というケース)が明らかになった場合、 世論や便宜やその他のさまざまな考慮を念頭において 自由裁量(discretion)を行なわなければならない。

この裁判官による自由裁量についてのハートの見解は、 ドゥオーキンによって手厳しく批判されるが、 それについてはまた今度。

関連文献

20/May/2001; 22/May/2001更新; 21/Jan/2022更新


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jan 21 09:18:14 JST 2022