善意 (他者愛)

(善意 benevolenve)

「わたしたちはみんな同じことで悩んでいます。 だから、わたしがみんなに教えられることがあるとすれば、 それは次のことです--。 つらい時期を乗り越えるためにできる唯一のことは、与えること。 見返りを期待してではなく、一緒に分かちあうためにだけ与えること。 落ち込んだり、追い詰められたと感じたら、 自分の殻から抜け出して誰かに善いことをなすこと。
誰かに頼まれる前に何かをなすこと。 自分の居心地の良い領域を越え出ること。 困っている人を助けること。 さらにもう一マイル進むこと。 これが悲しみ、心配、自己への執着を治す特効薬です」 ---マドンナ

ヴェーバーによると、中産的生産者層に属する人々はこういうふうに考えたのです。 隣人たちがほんとうに必要としている、あるいは、手に入れたく思っているような 財貨、それを生産して市場に出す。しかも、あの掛け値を言ったり値切ったり して儲ける、そういうやり方ではなくて、「一ペニーのものと一ペニーのものとの 交換」、つまり、正常価格で供給する、というやり方で市場に出す。 そして、適正な利潤を手に入れる。これは貪欲の罪どころではなくて、 倫理的に善い行ないではないか。いや、端的に、神の聖意にかなう隣人愛の 実践ではないか。そう問いつつ、彼らはさらにこう考えたのです。 もし自分たちが生産している財貨が、ほんとうに隣人たちが必要とし、 手に入れたく思っているものであるならば、 それは必ず市場でどんどん売れるに違いない。 そうすると、当然そこに利潤が生まれてくる。 そうだとすると、その利潤は、商人たちの獲得する投機的な暴利や高利貸 などとはまるで違って、むしろ隣人愛を実践したことの現われということに なるのではないか、というわけです。ですが、そのばあい、 彼らの営みがほんとうに隣人たちが必要としている ものを供給する、そうした隣人愛の実践となっているかどうかは、 市場に出した商品が売れ、利潤が得られてのちにはじめて分かることになる。 つまり、利潤の獲得のいかんによって、事後的に判明するというわけですから、 実際問題としては、結局儲かる仕事がよい仕事で、儲けがあるということが 隣人愛を実践したことの判定の基準となってくる。もし、そうであるなら、 人間はむしろそういう形での金儲けを行ない、利潤の追求に努めねばならない。 それはまさしく倫理的な義務だ。彼らはそう考えたのです。

---大塚久雄

そうでないと信じたいのは山々だが、普遍的な愛とか種全体の繁栄とかいうものは、進化的には意味をなさない概念にすぎない。

---リチャード・ドーキンス


自分以外の人間一般に対する愛情のこと。 自己愛と対比的に用いられる。 しばしば仁愛、博愛などとも訳されるが、 原語の意味をつくしていないように思われる。 beneは「善い」、volenceは「意志」から来ているので、 「善意」というのも捨てがたい訳であるが、 「他者愛」の方が自己愛との対比がはっきり出るという利点がある。 なお、「他者愛」という訳は某S先輩の提案である。 (追記: 最近は善意という語感に慣れてしまったので、 こちらを用いている Mar/01/2000)

英国道徳哲学では、 この他者愛が自己愛に還元されるかどうかが大きな問題になってきた。 すなわち、「他人に親切にするのは、けっきょくのところ、 自分が得したいからだ」という主張が常に正しいのかどうかが 問題になってきた。しかしこの問題についてはまたいずれ。 (06/30/99)

上の問題についてはまたどこかで詳しく論じたいが、 最近ひとつ気がついたのは、この自己愛か他者愛かという問題は、 プロテスタンティズムの職業観とも結びついているという点である。 上の大塚氏の説明を読むとわかるように、 カルヴァン派(ピューリタン)の人々は、 誠実な職業労働を隣人愛の実践と考え、 さらに職業労働での成功を来世での救済についての「確証(しるし)」とみなした。 すなわち、隣人愛の実践としての仕事が、 結果としての自己利益を生み出すならば、 それは来世での救済の証しと考えたのである。 ここには他者愛と自己愛の幸福な調和が見られる。

利他性利己性の項も 参照せよ。また、ハチソンの項も見よ。


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Dec 7 10:25:48 JST 2017