痛みの世界史 連載4 →
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1990.12-20
「痛みの記憶,または幻肢痛のこと」

 デカルトは「省察」の中で、
:car y a-t-il chose plus intime ou plus interieure que la douleur? et cependant j'ai autrefois appris de quelques personnes qui avaient les bras et les jambes coupees, qu'il leur semblait encore quelquefois sentir de la douleur dans la partie qu'ils n'avaient plus; ce qui me donnait sujet de penser que je ne pouvais aussi etre entierement assure d'avoir mal a quelqu'un de mes membres, quoique je sentisse en lui de la douleur.


 “なぜかといって、痛み以上に切実な感覚がありうるであろうか? しかも、ある時私は、脚や腕を切断した人々から、いまなおときとして、そのなくした部分に、痛みを感じるような気がするという話を聞いたことがあった。したがって、私が自分の身体のある部分に、痛みを覚えたとしても、その部分が私に痛みを与えたのだと確信するわけにはいかないように思われたのである。”  と書いている。デカルトは幻肢痛を知っていたし、関連痛の現象をある程度理解していたことがわかる。

 カルトが生きたのは、新教と旧教の対立から発生した戦乱の時代であった。彼自身も旧教軍の一翼をになったバイエルン公マクシミリアンの軍隊に入り、30年戦争に参加した。同じ民族同志が血みどろになって戦ったこの戦争で手足を失った不幸な農民が数多くいた。ルーブル美術館が所蔵するブリューゲルの名画「les Mendiants」(乞食たち)もそのような人たちを描いたものであろう。これらの中に幻肢痛をもつ人がいたかもしれない。

  ところで、四肢切断後に現れる幻肢痛はしばしば切断前にあった痛みに似ている。この場合、痛みの記憶がこの痛みの発現に深く関わっていると考えられる。最近、四肢切断術後の幻肢痛の発生率が、術前の72時間十分な除痛処置を施すと減少すると報告された。現に中枢神経系内に残された切断前の痛みの記憶痕跡が影響を及ぼしていることがほぼ確実となった。切断前にあった痛みが長く続いて中枢神経系内に生じたニューロン活動の変化が次第に固定されて幻肢痛の発現に影響を及ぼす可能性がある。

 最近の研究によれば、末梢組織に10数分以上続く侵害刺激を加えると、脊髄後角のニューロンに細胞性癌遺伝子c-fosが発現する。この遺伝子は、マウスの骨肉腫を誘導するウイルス性癌遺伝子v-fosと同じもので正常細胞に潜在する。末梢組織に侵害刺激を加えると、被刺激部位からの侵害受容線維とシナプス接続する脊髄後角の侵害受容ニューロンの細胞核にc-fosが発現する。c-fosは、メッセンジャーRNAを転写してタンパク質Fos の細胞質における合成を誘導する。Fosは、細胞核に入って、細胞核内のタンパク質 Junと複合体を作って染色体の制御部位Ap-1に結合し、隣接する遺伝子の転写を誘導する。転写の結果産生されたメッセンジャーRNAは細胞質に出て行く。細胞質ではリボゾームがメッセンジャーRNAの符号にしたがって特殊なタンパク質を合成する。合成されたタンパク質がニューロンの働きを変え、記憶痕跡を保持すると説明されるようになった。

 ともあれ、四肢切断術の術前と術中に効果的な除痛を施して、中枢神経系内に残る痛みの記憶痕跡を最小限に食い止めるべきであろう。そうすることが持続的な幻肢痛の予防に役立つと考えられる。また、幻肢痛の治療においても記憶痕跡の消去を念頭におく必要があるように思われる。
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