「え、神様ですか。あのひと結構、頑張ってるんじゃないですか。 なかなかしっかりやってると思いますよ。 ただやっぱり、もうお歳ですからねえ。 ニーチェが言うみたいに、すでにお亡くなりになってるとは思いません。 ただ、歳をおとりになってるわけですから、 それがちょい心配ですよね。 やはりこの、定期券の期限切れに気がつかないで地下鉄に乗ってしまったり、 灯油とガソリンを間違えてストーヴへ入れて火事起しかけるとかね。 よくやっちゃうんですよね。 だから女の子か誰かが傍についててあげる必要があると思いますね。 何しろ神様の附き添いだから、 まともな女の子じゃ駄目なわけで、 わたしならベティ・ブープあたりが適任じゃないかと思いますけど」
(筒井康隆、『文学部唯野教授』、岩波書店同時代ライブラリー、1992年、 83-4頁)
用事を済ませているうちに日付が変わってしまう。 やばい。 9月になってもまだ全然発表の準備が出きていない。 9月10日までにはなんとかせねば。 書け、書くんだ、じょおおおお。 って、あんた前にもこんなこと書いてたがな。 卒論のときだっけか。 進歩せんなあ、いろんな意味で。
夜、某所にてキムチ鍋。 『ドカベン プロ野球編』1〜2巻。 このあたりは、おれがまだチャンピオンを読んでいなかったころらしい。 大学に入っていつごろからチャンピオン(やその他の少年誌)読み始めたんだっけ?
明日からいよいよローティの授業があるので、 下宿に戻ってちょっとは勉強せねば。
疲れた。
昨夜は、ローティの発表原稿を途中まで読んで明け方に寝る。 暑いのでなかなか寝つけず。
朝起きてシャワーを浴び、洗濯物を干す。 それからローティの原稿を最後まで読む。 そうめんを食べてから某大学へ。
大学に着くとすぐに大雨になる。 濡れなかったのは幸いだが、 洗濯物が。がぁん。
ローティの講義は1時間ちょいかと思っていたら、実は3時間だった。 これが毎日というのはちょっときつい。 しかし今日の話はおもしろかった。 後で少し紹介しておこう。
ローティ氏は外見は白髪の好好爺という感じ。 といっても、そんなにニコニコしているわけではないが。 英語はゆっくりと話してくれ、わかりやすい。 ただし、質問に対する答は、少し冗漫な感じがする。 質問の方に問題があるのかもしれないが。
夕方に講義が終わったあと、 銀行で家賃を振り込んで、 大学へ。
そのあと、 某喫茶店で遅いお昼ごはん。 ピラフセット。マガジン。
コンビニでサンデーを買って研究室へ。
前後の文脈とまったく関係のない話だが、 「それは程度の差ではなく、質の差である」と主張は、 詭弁の一類型であるように思われる。 今後、これを「量の差を質の差と言いかえる誤謬」と呼ぶことにしたい。
基本例文 (暗記しよう!)
A「そりゃカントに比べたらちょっと劣るけど、 一応ベンタムも一流の哲学者だと思うけどなあ」
B「なんでやねん。ちょっとどころの話じゃないってば。 カントとベンタムじゃ質が違うっちゅうねん」
A「…そ、そうかなあ (泣き出す)」
やべ。ソファで寝るさいに、ゴツゴツしたカバンを枕にしていたら、 頭蓋骨の表面の一部に血が行ってなかった。 こないだもあったな、これ。 脳細胞が不必要に死んでないといいのだが。
今日の話「分析哲学と変容の哲学 (Analytic Philosophy and Transformative Philosophy)」は、要約すると、 「哲学とは、時代の変化に対応して、 新しい世界観および自己像を提示する学問である。 そしてこれは、人文学の他の諸分野と共有する目標である。 20世紀後半、 言語分析に従事し《科学としての哲学=非-人文学としての哲学》 を目指した分析哲学は、 わたしのようなホーリズム、コンテクスチャリズム、プラグマティズム、 歴史主義(historicism)の立場から言わせると、 科学になるという目標は達成できなかったと思われる。 しかし、それは新しい世界観および自己像を提示したという意味では、 哲学としての役目を立派にはたしたと言える」 てな話です。 《体験者は語る: 米国分析哲学の歴史》の部分が、 舞台裏を覗くような感じでとくに興味深かったです (いや、そんな章題はないですが)。
では、以下でおもしろかった部分を順に訳してみましょう。 なんとなく話の筋がわかるかもしれません。 直訳ではなく超訳なのでそのへんご考慮に入れてお読みください。
分析哲学者の多くは、自分の学問が人文学の一つだとは思っていない。 彼らは、 分析哲学は客観的知識を学問的に追求する営みに参加しているのだと考えており、 人文学というのは、 そもそも議論などできないような意見が互いに衝突しあうための舞台だと考えている。 …。
分析哲学と非-分析哲学という二分化は、 われわれ哲学を教える人間にとっては、いやになるほどありふれた光景である。 しかし、他の学問をやっている人々にこの二分化について語ると、 いったい何が問題になっているのかがわからない人が多い。 彼らにとっては、 分析哲学が他の哲学とどう区別されるのかだとか、 分析哲学者は何について研究しているのかだとか、 どうして米国の大学の哲学科はハイデガーやデリダやフーコーのような人物が 哲学科以外の学科で授業をしていても平気な顔をしているのかだとか、 こうしたことがよくわからないのである。
…。本発表の最初の三分の二では、 米国における分析哲学の歴史と社会学について語る。 この部分のほとんどは、たぶん、論争の余地があまりない話だと思う。 残りの三分の一では、--こちらの方が論争になりやすい部分だと思うが-- 《哲学に、科学の一つとしての道のりを歩ませる》 という分析哲学の試みが失敗したこと、 そして、この失敗にもかかわらず、分析哲学は価値あるものであったことを述べる。
…。一番最後に米国の哲学科に危機が訪れたのは、 1940年代と50年代のことである。…。 60年代の余波が大学における他のいくつかの学問の土台を 大きくゆるがせたのに対し、哲学はほとんど影響を受けなかった。 …。
分析哲学は、おおざっぱに言って、 経験を論じることから言語を論じることへの転換 --グスタフ・ベルクマンが「言語論的転回」と呼んだもの--と、 哲学をもっと科学的にすることによって専門化しようというもう一つの試み を結びつけた試みとして定義できる。…。
言語論的転回より先に、エドムント・フッサールが似たような試みをした。 彼は科学性scientificityと集団作業を熱心に勧めたが、 これは数十年後のカルナップやライヘンバッハの試みとよく似ている。 しかし1930年にもなると、フッサールの努力は、 マルティン・ハイデガーという彼の不忠な弟子によって 水泡に帰してしまったのである。…。
1945年から1960年のあいだに、 分析哲学は、主要な米国大学の哲学科の大半を席巻した。 …。
分析哲学の支配が始まる前は、英語圏の国でも非-英語圏の国でも、 哲学の研究は、哲学史を中心としたものであった。
もちろん、それだけをすればいいというのではない。 学術誌上で行なわれる最新の議論に参加する必要もあった。 …。 しかし、当時は、 哲学が人文学の一つであることを疑う人間など一人もいなかった。 …。 というのは、哲学における高等訓練は、 文学科における高等訓練とそれほど変わるところがなかったからである。 …。 1965年にはもう、このような説明は当てはまらなくなっていた。
1950年から54年まで哲学の大学院生だったわたしは、 二種類のまったく異なる先生たちによって板ばさみにあっていた。 すなわち、マキオンMcKeonやハーツホーンHartshorneのように、 わたしに偉大な哲学者たちの思想についての見解を持つことを期待する先生と、 カルナップやヘンペルのように、 わたしに最新の学術誌の論文に通じていることを期待する先生である。 …。
…。大学院と兵役を終えると、1958年になっていた。 そのころまでにはもう、 分析哲学について知らなければ良い仕事は見つからないということが はっきりしていた。 …。
これは一つにはW・v・O・クワインの影響のせいである。 クワインはカルナップの最良の弟子であり、 分析哲学の通であり、みんなの理想であった。 クワインは哲学史研究をあからさまに軽蔑していた。 彼は自分が学生だったころ、 できるだけ哲学の主要文献を読まないようにしようと心がけ、 そしてハーヴァードの学生たちにもそうするよう勧めた。 彼は、ちょうど物理学史がその分野における最新の研究と無関係なように、 哲学史も最新の哲学研究には無関係だと信じていた。 …。
[ローティが教えていた]プリンストンの学生たちは、 広い教養を身につけることよりも、 議論する技術と対話における鋭さを養うことに専心し、 互いに競いあった。 われわれは、最も賢い学生の一人に外国語の単位の取得を免除したことがあるが、 それは、遺伝的な特異体質によるハンデ--言語感覚の欠如--によって、 彼がその後実際に歩むことになった輝かしいキャリアを遅らせるのは不公平であろう、 という理由からであった。 しかしながら、 「わたしが何度も記号論理学のテストに落ちるのは遺伝子のせいなんです」 などと不平を言う学生に対してそのような情けがかけられることは決してなかった。 …。
1980年までには、 ハーヴァード/プリンストン型の英語圏の大学の哲学科で訓練を受けた学生と、 フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、そしてその他のヨーロッパ諸国の大半 (英国とスカンジナビア諸国を除く)において訓練を受けた学生の違いは、 まったくもって大きなものになっていた。…。
…。両者の最も大きな違いは、わたしが思うに、 哲学者になるとはどういうことかについての考え方 --すなわち、哲学者としての自分について持つイメージと、 哲学の高等教育を受けた学生が抱く目的--である。
英語圏の哲学者たちにとっては、 プリンストンでのわたしの同僚がよく言っていた 「頭の回転が早い」ということが今日でも最も重要だと思われる。 他方、ヨーロッパにおいては、 教養があること --本をたくさん読むこと、 そして、 本から学んださまざまな事柄をひとまとめにして モラルを有する物語を作る方法について、 一家言を持っていること--が今日でも最も重要である。 …。
う〜ん、まだまだおもしろい話が続くんだけど、日付も変わっちゃったし、 これで終わり。こんなことしてる場合じゃない。
今日やったこと
昨夜は、某所で例によって例のごとくキムチ鍋を食べたあと (『ドカベン プロ野球編』3-5巻の途中まで)、 下宿に戻る。ちょっと早かったがゴミも外に出す。
ベンタムを少し勉強して寝る。ほんとにやばい。
朝、起きてローティの予習をするつもりだったが、起きれず。 授業開始の1時間前くらいにようやく起きて、 シャワーを浴びたり、パンを買いに行ったり、 ビデオを返したりしてから、某大学へ。
今日のローティ氏は「現代分析哲学のプラグマティズム的見解」 という題名の論文を読んでいたが、 予習をしてなかったのであまり理解できず。 あとで復習するべし。
そのあと、某君と某洋書屋に行く。 ついでに、ベンタム全集の一部は現金で支払う旨を伝えておく。
用事があったので5時前に某情報研へ。 某先輩も来る。 「功利主義学会の論文書けた?」と訊かれて死にそうになる。
今日、先週土曜日のビジネス英語をMDにて聴いた。 米国では20年前の《ペーパーレスのオフィス》という夢はまったく実現していない、 という話。 むしろ、経済成長その他の原因で、紙の生産量は伸びているらしい。
ペーパーレスにならない原因がいろいろ挙げられていたけど、 思うに、もっとも大きな原因は習慣だと思う。 もっとコンピュータ世代が幅をきかす時代になり、 さらに、モニタやコンピュータの性能が良くなって、 好きなページを一瞬で表示できるようになれば、 ペーパーレスの時代が来るんじゃないかな。 いや、来るはずだっ。(来ないか)
それと、米国では、 トルネードやハリケーンに人の名前をつけているそうだが (日本でも以前は台風に人の名前をつけていたんだよね?)、 最近は政治的公正(political correctness=PC)の関係で、 「ホセ」とか「マリア」とかヒスパニック系の名前なども付けるようになったとか。 しかし、これってヒスパニックの人は喜ぶのかな? 「ホセ・ハリケーンで150人死亡」とかニュースでやるわけでしょ?
しんどい。
今日やったこと
昨夜は、某所でチャンピオンを買い、 某所で餃子定食を食べたあと、 コンビニでモーニングなどを買って下宿へ。 マンガを読んで寝る。
しんどかったので、一度寝てから勉強しようと思っていたのだが、 半日以上寝てしまい、気づいたらすでにお昼過ぎ。がぁん。
某授業はあきらめて、 シャワーを浴びてから某喫茶店へ。ミックスサンドのセット。 朝日新聞。
それからルネに行き、少し買いもの。
さらに、某古書店にて古本を購入。
それからようやく大学へ。 某助教授からプリンストン便りが来ていた。
そういえば、『ヨリが跳ぶ!』が終わってしまった。 残念。
ベンタムの勉強。 途中、某定食屋でスピリッツを読みながら夕ごはんを食べたり、 ゲーセンでシューティングしたり。
ああ。まいった。進まん。
倫理学史読書会の予習。エピクロス派、アカデメイアの懐疑主義、 後期ストア派。
『はじめの一歩』の罠にふたたびはまったあと、 早朝から9時まで3時間足らず、ソファで爆睡。
さ、勉強勉強。
小雨の降るなか、パンを買いにちょっと外出。 今回はサイフを忘れず。
そういえば、昨日は激しい夕立ちが降った。
午前中、倫理学史読書会。
それから少しゲーセンに寄り、 ビデオ屋で『アルマゲドン』を借りて下宿へ。 昼下がりから7時ぐらいまで爆睡する。
某スーパーなどでちょっと買いものをしたあと、 軽音のコマとりをして、某定食屋へ。 週刊漫画TIMESという雑誌を読む。 う〜む、世の中いろんな漫画があるものだ。
ついゲーセンに行ってしまう。 かくして未来の快はますます減っていき、 未来の苦痛はますます増えていく :-)
今日やったこと
ひい。もう5日。
昨夜は2時ごろに下宿に戻り、夜明けまで『アルマゲドン』を観た。 音楽もごきげんだし、ストーリーも退屈しないが(ちょっと長かったが)、 長く記憶に残ることはないだろう映画の一つ。 金がかかってるのはよくわかったが。 よく似たストーリーの 『ディープ・インパクト』 (これももうほとんど記憶にないが) とどっちかをもう一度観なければならないなら、 『ディープ・インパクト』の方を選ぶと思う。 というわけでB-。
お昼過ぎに起きて大学へ。
夕方から某貸しスタジオにてバンドの練習。 そのあと、近くの居酒屋で食事。 今年の文化祭に出るのか出ないのか、とか。 う〜む。
今日やったこと
「昨晩は某教授のヘーゲルの授業で出された夏休みの宿題を やることに費された」と言ってよい。 そう言っても過言ではない。
朝、宿題をメイルにて提出するために大学へ。 寝不足だったのでジャンプを買って下宿に戻る。
下宿に戻ったあと、 久しぶりにジーパンなどを洗濯し、 シャワーを浴びてさて寝ようかと思ったら、 あれれ、PHSがない。 カバンなどをひっくりかえしてみる。う。ない。
さきほどから洗濯機が回っている。 あ。あ。もも。も、もしかして。 さっきジーパンのポケットを空にしたとき、 後ろのポケットは見なかったのかも。げっ。
と0.5秒ほどで考え、 急いで洗濯機を止めておそるおそる中を覗いてみる。 む。ない。どうもここにもないようだ。
ホッとしたが、さてそれではオレのPHSはどこに。 可能性としては、
とりあえず、倫理学研究室に電話すると、誰もいないようで出ない。 そこで、下宿に戻ってきたばかりでしんどかったが、 洗濯物を干したあと、ふたたび大学に行くことにした。 途中、 下宿に戻るときに通ってきた道を通ってまわりをよく見ながら自転車を走らせる。
大学についたので、とりあえず研究室へ。トイレ、なし。 研究室、なし。
げ。もしこれで情報研になければ、消去法からすると、 道ばたということになるではないか。 (もちろん、おれがおっちょこちょいで実は下宿にあったとかいう可能性もあるが)
ひええ、神さま、と思いながら情報研へ。 すると、文学部東館の入口で某秘書さんに会う。 「あ、あの、携帯落ちてませんでした?」
某秘書さんの答は、なんと、「あります」。 うわあ。よかったあ。 う〜む、しかしこんなことなら下宿で情報研に電話を入れればよかったな。 しまった。たぶん倫理学研究室にあると思ったんだよなあ。
今日の教訓: PHSにはひもをつけて首にかけておきましょう
研究室でジャンプを読み終えたあと、 修理済の某メビウスを引き取りにルネまで。 ついでにCDを一枚購入。
実は井上陽水はほとんど聴いたことがない。いやはや。勉強勉強。
某所でジーパン買う。 ジーパンを買うのは二年以上ぶりではなかろうか (最近はもらったりしていた)。 ついカードで買ってしまった。 すそ直しに一時間かかるというので、そこらへんをぶらぶら。
ついでにベルトも買う。 まだ時間があったので、そこらを散策。 MDコンポ欲しいなあ、と思ったり。 筒井康隆のジュヴナイル小説が出ているのを発見したり。
ようやく時間になったのでジーパンを受取りに行き、 下宿に戻る。新しいジーパンをはいてみたり、 ベルトを腰まわりに合うように切ってみたりしたあと、 シャワーを浴びて1時間半ほど寝る。
むくりと起き、 寝汗をかいたので再びシャワーを浴びてから外出。 某所で焼きそばを食べる。 『サラリーマン金太郎』3〜4巻。おもしろいなあ。
そのあと、少しゲーセンへ。 またお腹の調子が悪くなる。
などとくだらないことを日記に書いていて、 ふと足を見ると、右足の先が真っ黄色になっている。 え、なんだこれっ? ちょ、ちょっと待ちなさい。 きょきょきょ、今日買ったばかりのジーンズがっ。
急いでティッシュやら雑巾やらでこすり落とす。 さいわい油性のものではなかったようで、 ジーンズの方はほぼ完全に色がとれた。 青のコンバースにはちょっと色が残った。 白い靴ヒモについた黄色も、ごしごし洗ったらだいぶ落ちた。
洗いながらなぜこんなことになったのかと考えていたが、 どうもさっき工事中の交差点を通るとき、 作業員の持っていたヒモにひっかかったのが原因らしい。 おそらくあの作業員は手にペンキか何かが入ったバケツを持っていたのだろう。 ちぇ、ついてない。今日はほんとにロクなことがないな。
今日やったこと
あう。もう7日なのか。
徳についてのペイリーの文章を読んでみたり。
徳について、『岩並哲学思想事典』を見るが、 仏教の徳と古代中世キリスト教と徳の説明しかなされておらず、 近代以降の流れがまったく書かれていない。 けっ、けっ、けしからん。
前にも書いたかもしれないが、 だいたいこの事典は項目ごとの説明のレベルに差がありすぎる。 けけっ、けしからん。 なるほどこの事典は、30年近く前に出た平梵社の『哲学事典』 と比べると最新の事項まで加えられているが、 古典的な事項に関しては、平梵社の方が安定して良い説明が得られる。 岩並の方は、あれだ、まさに玉石混淆。 いったいなぜなんだろう? 30年弱の間に哲学における専門化が進んで、 だれも他の人の専門分野にケチをつけなくなったということなのだろうか。
とはいえ、徳に関しては、平梵社の『哲学事典』も岩並のと似たりよったり。 いや、岩並のにも負けるかもしれん。 なんで「徳」という重要な語に対する説明がこんなに貧弱なんだ? どっ、どーなっとるんだ、日本の倫理学はっ。
倫理学と言えば、現在入手可能な唯一の倫理学事典は、 金子武蔵編の『新倫理学事典』(弘文堂、1970年)である。 しかぁし、なぜかこの本は倫理学研究室にないっ。なんでやねん。 けっ、けしからん。この本もめちゃくちゃ素晴しいとは言えへんけど、 なんで研究室にないねんっ。なんで文閲まで行かんと見られへんねんっ。 お、おかしやないかっ。
というわけで、とりあえず生協のインターネットで『新倫理学事典』を注文。 まだ手に入るといいが。
え、そないにゆうんやったら自分で事典つくってみい? いやいや、ごもっとも。 あと20年ほど待ってくれれば、『真倫理学事典』を作ってみせます。
ゴホゴホ。 今日はゴホゴホちょっとゴホ某ローティのゴホゴホ授業にゴホゴホ出れなかった。 映画のゴホゴホ日だったゴホのでついゴホゴホ 『オースティン・ゴホゴホ・パワーズ・ゴホゴホ・デラックス・ゴホ』 を観にゴホゴホ行ってしまっゴホゴホた。 ローティ先生ゴホごめんなゴホゴホさい。ゴホゴホ。 しかしゴホゴホ、 『オースティン・ゴホゴホ』はつまらなゴホかった。B-ゴホ。
午前中は倫理学史読書会。 中期ストア派(パナイティオスの折衷的ストア)から 後期ストア派(実践的、宗教的なストア)の途中まで。
寝不足であまりに眠いので下宿に戻ろう。死ぬ。
今日やったこと
うはっ。もう8日。time waits for no one.
昨夜は某本屋で『えの素』第4巻を購入してから下宿へ。 なかなか寝れないのでギターなんかピロピロ弾いてから就寝。
昼下がりまで寝てしまう。ひい。明日の講演は行きます。ゴホゴホ。
起きてから某喫茶店へ。ピラフセット。サンデー、マガジン。 夕立ちが降って出れなくなったので、さらにプレイボーイ。
下宿を出るまえに郵便受けを覗くと、 さっそくUtilitasが来ていた。
さ、まじで勉強勉強。やばいっすよ。 ちょっとはがんばってくださいよ。
う。もうこんな時間。
夜、ちょっとゲーセンに行ったあと、某所にてお好み焼き。 『サラリーマン 金太郎』第5-6巻を読む。豪快でおもしろい。名作。
ひいっ。もう9日。どうしよう。
BMOR読書会の予習をしたり。
たまにはおれもニュースに対するコメントをしてみよう。 ソースはgooのニュース欄。
某ソファで5時間ほど寝る。 まだ眠いが、(マルクス・アウレリウス先生も言っているように) 寝るために生まれたわけではないので起きよう。
今日は忙しくなる予定。
某喫茶店でモーニング。チャンピオン。
あ、それと、全国5人のロールジアン諸君はすでに知っていると思うが、 A Theory of Justiceの新しい版が今月出るんだそうだ。 また、5巻組のロールズに関する論文集も来年2月に出るらしい。
お昼過ぎまでBMOR読書会。
それからただちに、 みなで自転車を転がして某大谷大学へ。 大学まで行くと、3回生の某君が来ていて、 「ローティの講演は明日ですよ」と言われる。 い、陰謀だ陰謀だ。とほほ。
仕方ないので某洋書屋の隣の喫茶店で食事したあと、 某大学の第二研究室へ行ってみる。 都合よく、某先輩がいらっしゃったので、 しばらく話す。
それから某君と一緒に北山まで戻り、 シャワーを浴びてから再び自転車で烏丸今出川まで。
JR京都駅で母に会い、茶店で少しくつろぐ。 6時前に別れてふたたび地下鉄で烏丸今出川に戻り、 自転車で大学へ。
今日やったこと
タチの悪い人たちにタカられる。
うそ。 尊敬すべき先輩方3人および人間のできた後輩1名と居酒屋に行き、 えんえんとダベる。
飲み喰いが終わったあと、会計を任される。 全部で18000円ちょい。 店に入る前はなぜかおれが全額払うことになっていたのだが、 それはいくらなんでもということで、 後輩思いの有徳な某師匠が、全額払う必要はない、 ただしおれの裁量でそれぞれの負担額を決めろと言う。
どうも師匠はおれの徳の高さ(男気とも言われる)を試したいらしい。 そこでとりあえず、おれが10000円出すことにして、 後は残りの人に任すことにした。
すると、すでに悪質なイジメが始まっていたようで、 某師匠に「こだま師匠の顔が青いぞ」などとはやしたてられる。 くく、くそ。 腹をくくって10000円出したのに、 なぜそんなことを言われねばならないのか。
店を出ると、 お金を払わなかった某先輩が、 「いやあ、冗談、冗談」ということで、 お金を払おうとする。 「いや、ほんとに良いです。また、ということで」 と言うと、某師匠が再度「師匠の顔が青いぞ」と言ってヒヤかす。 くくく、くそ。 せっかく徳を涵養しようとしているのに、なぜ邪魔をするのだ。
結局、某先輩と某君から2000円ずつもらってしまい、 あまり払わなかったことになってしまった。
いやはや。 おれも早く、笑いながら全額払ってしまえる有徳な人間になりたい。
それから某古本屋でモーニングを買い、本を一点購入。
久しぶりにスクラーの復習をする。 幾何学の公理とか公理っていうのは絶対的確実さを持っているように見えるけど、 どのようにしてわれわれはそういう公理や定理が確実に真であることを 知るんだろうか、という認識論の話。 さっさと予習をしてベンタムの勉強をしないと、 まじで死ぬことになる。
ところで、昨日知ったのだが、 『倫理思想辞典』(星野勉編、山川出版社、1997年) というものもあるようだ。 この辞典はどうも東大系の先生方がお書きになっているらしい。 京都勢も負けずに立派なのを出そうぜっ。
あかん、しんどい。ちょっと寝る。
ソファで寝てると某氏が来て起きる。 すいませんすいません。
予習を再開。
予習終わり。おれのとこまで回って来ないといいが。
朝、下宿に戻り、シャワーを浴びてから3時間弱寝る。 夢の中で、いろんななつかしい人の顔が出てくる。 そろそろ死ぬのか?
お昼に起きて近くでパンを買って大学へ。さて、授業授業。
スクラーの授業は休講だった。というか、どうも来週から開講らしい。 それにしても、休講に勝る喜びはない。 国民の祝日も抜き打ちでやればみんな喜ぶに違いない。 一日ぐらいそういう祝日を作ればいいのに。
というわけで徳の修行中。 日にちが刻一刻と近づくにつれて、だんだん背筋が寒くなってきた。 寒いよう。
某先輩から、出版予定のとある事典の「功利主義」の項目のゲラ刷りをいただく。 よく調べてあっておもしろい。
久しぶりの生命倫理学勉強会。 某師匠の落語的発表 を拝聴する (「原則にもとづいたアプローチ」、 「功利主義的アプローチ」の豪華二本立て)。
今日やったこと