火曜日の演習が終わって研究室でしばらくうだうだした後、卒論を書かねばと思って家路を急いだ。翌日と翌々日とは学校に来ずに、家にこもって卒論を書くつもりだったのでその日は京阪電車で帰ることにした。哲閲で借りたベンタム全集などを持って帰るので荷物が非常に重い。
四条で降り、てくてくと階段を上って地上に出る途中で、後ろから例のあの野太い声がした。
「よう、児玉君っ」
リンリー教授の登場である。
ここで注として、だいたい彼、リンリー教授がどの程度の声の大きさの持ち主であるかを説明しておく必要があろう。まず、ぼくの前方ななめ右にいた若い女性が「ひっ」と叫んで階段から転げ落ちる。同時に、ぼくの左手にいた・大音量のため外に音がもれるほど大きな音でウォークマンを聴いていた少年がびくんとケイレンして立ち止まり、恐る恐る後ろを振り返る。少し遅れてぼくよりももっと上の方にいた・手すりにつかまりながらゆっくりと階段を上っていた耳の遠そうなおばあさんが、カン高い声で「じ、じいちゃん」と一声叫んで失禁する。幸い無事に立ち止まることのできた他の人々は唖然とした様子でリンリー教授を見つめている。
ぼくも危うく階段を踏み外すところだったが、かろうじて転げ落ちずに済んだ。
「あ、こ、こんばんは、教授」
「なんやなんや、みんな大げさやのう」
リンリー教授は立ち止まっているぼくのとなりに来てそう言った。また少し太った、いや、かっぷくが良くなったようである。
(再び歩き出して)「リンリー教授、今まで京大におられたんですか?」
「おう、そうやがな。授業しとったがな。今年は今日で終わりや。がはは。(四条大橋を大股で歩きつつ)児玉君、なんか飲んで行くか?」
「い、いや、いいです。帰ります。卒論が大変なんで」
「ああ、そうやったなあ。そやそや、見たでホームページ。10日で卒論書くそうやんか」
「それが書き出してみると結構大変で」
「わかるわかる。書き出すとわかりきってるようなことでも不安になるもんやからな。おれも卒論は難儀したで。何しろ構想がデカかったからな」
(木屋町通りを横切りつつ)「え、どんなタイトルだったんですか?」
「ずばり、「倫理とはなにか」や。どや、すごいやろ」
「え、ぼくも最初はそんなタイトルを考えてたんですよ。けど教授や助教授にそういうのはだめだって言われて」
(阪急河原町の階段を降りながら)「そらそやろ。まあ、卒論でそんなこと書けんのは日本ではおれぐらいやな。がは。がは。なにしろプラトン、アリストテレスから始まってゼノン、エピクロス、イエス、キケロ、アウグスティヌス、…(あまりに多くの哲学者の名を述べたため割愛する)…、ミル、カント、ヘーゲル、和辻、加藤、水谷、…もう重要なやつは全部登場させたからな」
「す、すごいですね。それってもしかして全部原典で読んだんですか?」
「あったり前やろっ。日本語訳は日本誤訳って言ってな、ぜんぜん当てにならへんわ。原典を読まんと恥ずかしゅうてなんも書けへん。なにしろおれはギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、英語、ドイツ語、フランス語、全部1回生のときに習得しとったからの。大概の注釈書も3回生までに読破しとったぞ」
「へええ。すごい。一度読んでみたいですねえその論文。それってもしかしてリンリー教授の著書のどれかに入ってたりするんですか?」
「ん、ああ、あれな、あの論文はもう手に入らへんかも知れんなあ。ほんっまに素晴らしい論文やったんやけどなあ。ほんま、うちの教授、こし抜かしとったで。助教授はあれ読んでアル中になったし。助手のやつなんか自信なくしてやめよったもんなあ。けどそやなあ、もうあの原稿は探しても出てこうへんかもなあ。あ、けどな、そのうちおれの全集が出ることになったら絶対に探し出してそんなかに入れるわい。がは。がはは」
と言ってリンリー教授は阪急電車の切符を買いに行った。ぼくは一人でいる間、リンリー教授はほんとにそんな論文を書いたんだろうか、それにそもそも教授はどこの大学を出たんだろうか、などとぼんやり考えていた。
――――こうしてリンリー教授の没落は始まった。