原題は Robert A. Heinlein, Starship Troopers (1959) で、ハヤカワ文庫の初版は1977年(矢野徹訳)。 ただし、これは新版となっているので、 おそらく1966年にハードカバーか何かで一度出版されているらしい。 翻訳はちょっと変なところがあるが、まあ普通に読める。
単身戦車部隊を撃破する破壊力を秘め、 敵惑星の心臓部を急襲する恐るべき宇宙の戦士、 機動歩兵。 少年らしいあこがれから軍隊に志願したジョニーが配属されたのは、 この宇宙最強の兵科だった。 しかし、かれが一人前の戦士となるには多くの試練に耐えねばならない。 ひとりの少年を戦闘マシーンに変えていく地獄の訓練の日々、 いく度か除隊すら考えるジョニー。 だが、そのかれもやがて、 異星人のまっただ中へ殴り込み降下をかける鋼鉄の男に成長したのだった! 大胆な暴力肯定的内容で騒然たる議論を呼んだ、 ヒューゴー賞受賞に輝く巨匠ハインラインの問題長篇!
(扉から引用)
扉の紹介文からして誤解を招きやすい説明のような気がするが、 『エンダーのゲーム』に引き続き、これも戦争SF。 テーマは何か、と問われると難しいが、 主人公の青年ジュリアン・リコが、 軍隊での訓練、そして異星人との実際の戦争体験を通じて、 立派な戦士=市民へと成長する過程を描いたもの、 と言えようか。 そして、このハインラインの「立派な戦士=市民」観が、 日本SF界でかなり問題になったようなのである。
この翻訳の巻末には、訳者のあとがきだけでなく、 1967年ごろのSFマガジン上において起こった、 この作品をめぐる論争が掲載してある。
この作品がアメリカで発表されたのは1959年とあるから、 朝鮮戦争とベトナム戦争の間に書かれたものであるが、 日本で翻訳され論争が起きたのは1965年にベトナム戦争が始まり、 世界的に反戦運動が高まっていたころである(と思う。 おれはまだ生まれてないんだからよく知ってるわけがない)。
このような背景があるからだろうが、 日本のSF評論家およびファンたちは、 本書で語られているハインラインの哲学を、 「軍国主義的」「大政翼賛的」「ファシズム的」「愛国主義的」 などと決め付け、ほとんどその決め付けに関しては疑問を持たず、 日本人はこのような「ファシズム的」姿勢を持つハインラインのこの作品を どのように受け入れるべきか、 という点で論争しているように見える。
しかし、ぼくが読んだかぎり、 この作品が「ファシズム的」であるとはとても思えない。 以下の引用を読んでもらえばわかると思うが、 この作品におけるハインラインの核となる主張は、 「市民としての権利が欲しければ、市民としての義務を果たせ」 ということなのではないだろうか。
ハインラインは、当時の「ただで手に入る権利」という考え方に対して、 大きた嫌悪感と危機感を抱いており、 ちょうどイェーリングのように、権利は無料ではないこと、 市民は権利と引き換えに「義務」や「責任」を果たさなくてはならないこと、 を強調したかったのではないのか。 (もちろんハインラインの批判は今日の日本にも当てはまっている)
以下の引用にある言葉はヒュームやベンタムでも納得しそうな立派な思想であり、 「市民としての権利」ではなく「市民としての義務」を強調することが、 直ちに「全体主義的」であることにはならないはず。 戦争SF物という、 日本人にとっては敏感にならざるを得ない題材を扱っているのが災いし、 ハインラインの極めて健全な見解が歪められて解釈されたのではないだろうか。
とはいえ、この小説にはあまり戦争の悲惨な面が顔を出さないのも事実である。 主人公はかつての親友が戦士したと聞いてもそれほどのショックを受けないし、 まわりでばたばた戦友が死んでも精神的な病に陥いることもない。 最近読んだ『エンダーのゲーム』や 『高い城の男』などに比べると、 主人公の精神面があまり掘り下げて描写されていないのである。 ここらへんに、ハインラインの特徴があると言えよう。 すなわち、話の展開は大変面白いが、主人公はみな典型的すぎ、 個性的でない分、誰によっても感情移入がしやすいが、 その反面、個性がないので印象が薄い、という特徴である。
いろいろ書いたが、一気に読める大変面白い作品。 知的興奮度も高い。 倫理学者、少年成長型冒険小説が好きな人はぜひ。
デュボア先生「誰であろうと"暴力は何事も解決しない"というような、 歴史的にまちがっており…… 道徳にも反している教訓にしがみついている人間に対しては、 ナポレオン・ボナパルトとウェリントン公爵の亡霊たちを呼びだして 討論させてみたらいいと忠言したいね。 ヒットラーの幽霊を審判にすればいい。 審査委員は絶滅したドードー鳥、オーク鳥、渡り鳥にしたらどうかな。 暴力、むきだしの力は、歴史におけるほかのどの要素にくらべても、 より多くの事件を解決しているのだ。 この反対の意見は、それらの事件の最悪状態における希望的観測にしかすぎないのだ。 この根本的事実を忘れた種族は、 その人命と自由という高価な代償を払わされてきたんだぞ」(49頁)
キャンプ・キューリーで、おれはひとつ重大な発見をした。 すなわち、幸福とは充分な睡眠をとることができるということだ。(90頁)
ズイム軍曹「戦争とはそう単純な暴力と殺戮ではない。 戦争とは、目的を達成するための、 抑制できる暴力なんだ。 戦争の目的とは、政府の決定したことを力によって支持することだ。 その目的は、決して殺すだけのために敵を殺すことではなく、 こちらがさせたいと思っていることを相手にさせることだ。 殺戮ではなく……抑制され、目的を持った暴力なのだ。」(108-109頁)
デュボア先生の手紙: 人間として耐え忍ばれる最も崇高な運命は、 愛する祖国(ホーム)と戦争の荒廃とのあいだに、 その身命を投げ出すことなのだ。(149頁)
デュボア先生「むろん、マルクスの価値定義は馬鹿げている。
人間がそれに加えるいかなる労働にしろ、
泥団子を焼リンゴに変えることはできるもんじゃない。
あくまでも、泥団子は泥団子として残る、
価値はゼロだ。
当然な結果だが、不手際な労働は容易に価値を減少してしまうものだ。
下手なコックは、そのままでもすでに価値のあるうまそうな団子や新鮮なリンゴを、
食えもしない代物に変えてしまう、価値はゼロとなるのだ。
これを逆に、腕のいいコックは、同じ材料でも、
ふつうのコックがふつうの味につくりあげる手間もかけずに、
ありふれた焼リンゴよりはるかに価値のある菓子に変えることができるのだ。
(151-152頁)
「それにもかかわらず、(中略)、
このもったいぶったいかさま師のカール・マルクスがものした仰々しいこじつけの、
めちゃくちゃで気狂いじみ、非科学的で支離滅裂な、
資本論の筋のとおらぬ色あせた神がかり的な言葉には、
非常に重要な真理がちょっぴり含まれているのだ。」(152頁)
「人間との関連性なしには、いかなる価値も無意味だ。
物の価値は、常に特定の人間に関連し、
完全に個人的なものであり、
その人その人によって、
その量が異なるものであり……市場価値なんてものは絵空事だ。
それは、個人的な価値の平均値を大ざっぱに推量したものにすぎない。
そのすべてが量的に違わなければならず、さもなければ、
売買など不可能となる」(152-153頁)
「この非常に個人的な関連性を持つ価値は、
人間に対して二つの要素を持っている。
まず第一には、それによって人間は何ができるかということ、
その効用であり……二番目は、
これを得るために人間が何をしなくてはいけないか、
その代価である。
昔の歌に、はっきりこう言っているのがある……
この世で無料よりいいものはない……だがこいつは、嘘だ!
まったくのでたらめだ!
この悲劇的な盲信こそ、二十世紀民主主義の堕落と崩壊をもたらしたものなのだ。
この崇高な実験が失敗したのは、
そのころの人間が、お好みのものはなんでもただ投票さえすれば手に入るものと
信じさせられていたからだ……苦労もせず、汗を流しもしないで、
涙もなしに、手に入るものとな。
まず、価値あるものが無料であることはないのだ。
呼吸でさえも、
たいへんな努力と苦痛をともなう出産を経なければ手に入れられないのだ」(153頁)
「わたしは浮世でいちばんいいものは、金を積んでも買えやせぬ、
という歌を思いだす。
この歌そのものはくだらないが、
その意味するところは真実だ。
人生で最善のものは、金銭を越えたところにあるんだ。
その代価は、苦しみと汗と献身だ……なかんずく、
人生におけるすべてのもののうちで最も貴重なものは、
その代価として、人生それ自身、生命を求めるのだ……
完全な価値に対する最高の価格なのだ」(154頁)
デュボア先生「学校における鞭打ちは禁止されていた……
裁判所が宣告するとき鞭打ちが合法とされていたのは、
僅かにひとつの地方だけだった。
アメリカの東部にあるデラウェア州だけだ。
そして、そこでは、鞭打ちが科せられる犯罪は少なく、
実行されたことはめったになかった。
それは"残酷で異常な刑罰"とされていたんだ」(188頁)
「わたしには、"残酷で異常な刑罰"になぜ反対するのかその理由が理解できない。
裁判官が宣告を下すとき、その目的においては慈悲深くあるべきだが、
同時にかれが下す裁定はその犯罪者にとって
苦痛をおぼえさせるべきものでなければいけない。
そうでなければ、刑罰が与えられないのと同じことなのだ……
そして苦痛は何かというと、
何百万年もかかって進化を続けるあいだに、
われわれ人間のなかに築き上げられてきた根本的なメカニズムであって、
われわれの生存が何物かによって脅かされたとき、
その苦痛という警告によって、
われわれを保護するものなんだ……
なぜ社会は、このような高度に完成された生存のメカニズムを使うことを
拒否しなければいけないのか?
とはいっても、その時代は、
前科学的、擬心理学的なナンセンスという重荷を背負っていたんだな……
"異常な"という点では、刑罰というものは、
必ず異常なものでなければいけない。
さもなければ、刑罰はその目的にかなわないものになってしまうからだ」(188頁)
デュボア先生「だが人間は、道徳本能など持ってはおらん。
人間というものは、道徳意識を持って生まれてきはしないのだ。
きみたちもこいつを持って生まれてはこなかったし、
わたしもしかり……仔犬も持ってはいない。
われわれは行動をするとき、訓練や経験を通じ、
そして精神のきびしい修養の中から、道徳意識を得るのだ。(中略)
"道徳意識"とは何なのか?
これは生きのびていこうとする本能が昇華洗練されたものだ。
生存しようとする本能は、人間の天性そのものであり、
われわれの個性のあらゆる面は、ここから生じてきているのだ」(192頁)
「すべての道徳性の基礎となるものは、義務である。
自分の利益がその個人のものでなければいけないのと同じように、
グループにとっても同じ関係のある概念だ。
そのころの連中に、これらの少年たちが理解できるような方法で……
つまり鞭打ちなので、
かれらに義務ということを教えこんだ者はだれひとりいなかった。
そのうえ、かれらの属している社会は、
のべつもくなしに少年たちの"権利"ということを吹きこんでいたんだ。
人間というものは、どんな種類のものであれ、
生まれついての権利など持っていることはあり得ないのだから、
その結果は予言できたはずなのだ」(194頁)
「自由についていえば、重大な文書に署名した幾多の英雄たちは、
かれらの生命で自由をあがなうことを誓約した。
自由とは、断じて譲渡できるものではないのだ。
これはときどき愛国者の血で新しく生まれ変わらせなければ、
常に消え失せてしまうものなのだ。
これまでに発明されてきたすべての、いわゆる"人間本来の権利"のうちで、
自由は安価なものであったためしはなく、
無料で手に入れられることなどは絶対になかったのだ」(195頁)
デュボア先生「市民であるということは、 全体は部分より偉大であって……その部分が、 全体が生きていけるためには、 自らを犠牲にすることを謙虚に誇りとするべきであるという態度であり、 心の状態であり、情緒的な信念(エモーショナル・コンビクション)である」(260頁)
レイド少佐「投票するということは、権威を使用することである。
これは最高の権力ともいうべきもので、
ほかのあらゆる権力はここから発生する……一日一回、
諸君の人生をみじめにするわしのようなものだ。
いうなれば、暴力なのだ!
公民権は力である……裸であり、生の〈棍棒と斧〉なのだ。
よしんばこれが、十人の男によって使われようと、
あるいは十億人によって使われようと、
いずれにせよ、政治的権力というものは力なのである……」(293頁)
「無制限民主主義とは、不安定なものであった。
というのは、その機構のもとにおける市民たちが、
かれらの神聖な権力を振う方法に対して、
責任を持たなかったからだ……」(294頁)
07/06/98-07/07/98
B++