こだまの(新)世界 / 文学のお話

A・E・ヴァン・ヴォークト『非A(ナルA)の傀儡』


原題は A. E. Van Vogt, The Pawns of Null-A, (1956) で、創元社の初版は1966年(沼沢洽治訳)。

ポーンpawnというのはチェスの駒の名で、将棋で言えば「歩」に当たる。 たしかに「人の手先」という意味もあるが、本文中にチェスのたとえがよく出 て来て、ここでは明らかにチェスの駒の意味で用いられているので、正しくは 「非Aのポーン」とでも訳すべきだろう。しかし、これだとチェスを知らない 人には何のことかわからないから、「傀儡」が一応妥当な訳語と言えなくもな い。難しい。

内容

非A哲学の産んだ天才、太陽系戦争から地球と金星を救った英雄ギルバート・ ゴッセンは、突然、この大戦争が実はさらにとほうもないスケールの全宇宙的 闘争のごく一部でしかなく、また自分は銀河系を一枚の盤として争われるこの 壮大な戦いのたった一個の将棋の駒でしかないことに気づく。どこかに見えざ る巨大な棋士がいて、勝負を勧めているのだ。そしてゴッセンは用がすめば斬 り捨てごめんの駒でしかない。ふたたび地球と金星の危機の日が迫り、ゴッセ ンは新たな超能力を駆使し、敢然として立ち上がった。(扉の要約から)


感想

・『非Aの世界』の続編である。未来を予知で きる人間が登場したり、主人公ゴッセンの意識が他の人間の身体に宿ったり、 ミステリー仕立てになっていたりして、一作目よりもスケールが大きくテンポ も良い(おそらく翻訳も前作より良い)。

・しかし、前作に引続き、今回も結末がいささかお粗末である。登場人物 の物語の中での*必然性*とでも言うべきものが明確でなく、読み終わると「こ いつは結局どうなったんだ」「あいつは何のために登場したのだ」といった疑 問が多く残った。大団円が存在しないので、読了しても「読み終わった」気が しない。(話ではさらに続編が存在するそうだ)

・ま、とはいえ、決してつまらないとか嫌いというわけではない。今後さ らにヴォークトの作品を読んでみたいと思っている。しかし、やっぱり最大の 収穫は、この作品を通じて一般意味論(非A哲学)の存在を知ることができたこ とかな?


非A摘要

正常人の神経機構は、動物のそれに優る潜在力を有する。健全な精神を保 ち、均衡の取れた発達をとげるためには、めいめいの個人が、周囲に実在する 世界に対し、精神を正しく方向づけなければならない。これをなしとげる訓練 方法は、いくつかある。(p. 6)

一般意味論は各個人に次のような人生に対する適合力をあたえることがで きる。(1)論理的に将来を予測する力。(2)個人の能力に応じて仕事を達成する 力。(3)環境に即した行動をとる力。(p. 19)

精神の健全を保ち、人間として適合していくためには、各人は知るべき知 識のすべてを知るわけにはいかないことを悟らなければならぬ。ただ知的にこ の限界をわきまえるだけでもいけない。この理解は秩序だった、よく条件訓練 された理解でなければならない。<意識的>であると同時に、<無意識的>な 理解でなければならない。物質と人生との本質に関する知識を、良く均衡のと れた方法で追求していくためには、このような条件訓練が不可欠である。 (p. 30)

子供の心には、脳皮質が充分発育していないために、物を識別する能力が 事実上欠如している。したがって、外界に対する評価を誤る場合が多いのは、 やむをえぬことである。この事実に対する誤った判断の多くが、<無意識>の レベルで神経機構に条件づけられてしまい、成人の段階にまで持ちこされるこ とがある。<教養ある>男女が、子供じみた反応を示すのはこれによるもので ある。(p. 39)

子供--または子供っぽいおとな--は、きめの細かい識別能力に欠ける。こ のため、多くの経験が彼らの神経系統に猛烈なショックをあたえるので、この 結果を表現するために、精神医たちは特別な述語を作り出した。これが心の傷、 つまり<衝撃>(trauma)である。この衝撃を長年にわたって持ち越すと、人間 は非常な混乱に陥り、非正気(すなわち神経症(ノイローゼ))からさらには狂気 (すなわち精神症)をもたらすことがある。数回程度の衝撃的経験を有しない人 間は、ほとんどない。精神療法によってこのショックの影響をやわらげること は可能である。(p. 53)

子供、未熟なおとな、および動物は<同一視>を行なう。人が新しい、変 わりつつある状況に対し、それがあたかも古い、不変の状況であるかのような 反応を示す場合、この人は<同一視>しているという。人生に対してこのよう な態度を取るのはアリストテレス的である。(p. 70)

ある物体もしくは出来事について発言する場合、人間はその特長のわずか 二、三のみを<抽出>するのである。もし「その椅子は茶色だ!」と言うなら ば、茶色とはその椅子の一つの特質にすぎぬという意味で言うべきであり、こ れを口にしながらも、その椅子にはほかの特質がまだ多くあることを意識して いなければならない。「抽出を意識すること」は、意味論的に訓練された人間 とそうでない者とを区別する大きな相違の一つである。(p. 89)

アリストテレスによる当時の科学の体系化は、おそらく彼の生きているあ いだは他に例を見ぬ正確なものだったろう。だが彼の追随者たちは、以後二千 年にもわたり、この体系化が永遠に真実であるという、誤った<同一視>を行 ないつづけてきたのである。近年にいたり、種々の新しい尺度の体系が、これ らの<真実>の誤謬を立証しているにもかかわらず、大部分の人々は、意見や 信念の根底を、これらの誤った<真実>においているのである。そこで、この ような通俗的思考が典拠とする二価性の論理を、アリストテレス的(略号A)と 呼び、近代科学の多価性の論理を、非アリストテレス的(略号非A)と呼ぶ。(p. 100)

意味論とは意味の意味、もしくは言葉の意味を対象とする学問である。一 般意味論は、人間の神経系統と外界との関係を対象とする学問であり、したがっ て意味論をも包含する。一般意味論は、人間のあらゆる思考と体験を統合整理 する方式をあたえてくれるものである。(p. 120)

健全な精神を保つためには、日付け年代を明 確にせよ。「科学者は……と信じている」などと言ってはならない。 「一九六五年の科学者は……と信じていた」「ジョン・スミス(一九六五)は、 孤立主義者である……」そう表現しなければいけない。ジョン・スミスの政治 的見解はいわずもがな、すべての物事は変化の対象となるのであり、したがっ て、その時期を抜きにして語ることはできないのだ。(p. 133)

健全な精神を保つためには、但し書きをつけることを怠っ てはならない。「ふたりの娘が……」と言う場合、その意味は「おたがいに異 なる人間であり、また世の中の他のすべての人間とも異なるふたりの娘、メア リーとジェーンが……」であることを心すべし……。(p. 148)

健全な精神を保つために、「……その他」を用いること。 「メアリーは良い娘だよ!」と言うときには、メアリーはただ「良い」以上の 存在であることを忘れてはならない。メアリーは「良く」、優しく、親切、そ の他なのだ。つまりメアリーには他の特長もあるのである。近代心理学(1956 年における)は、ただおとなしいばかりの「良い」人間は、健全な性格とは見 なさぬことに留意。(p. 161)

健全な精神を保つためには、物事に<レッテル>を貼らぬこと。ファシス ト、共産主義者、民主党派、共和党派、カトリック教徒、ユダヤ人等は、人間 にあてはめられる言葉であるが、人間というものは、けっしてどんなレッテル にも百パーセントあてはまるということがない。(p. 174)

健全な精神を保つためには、引用符を用いること。たと えば、「意識的」とか「無意識的」とは、人の心を記述するのに重宝な言葉で はあるが、これらがある出来事の「過程」面を正確に反映しているということ は、まだ証明されていないのである。これらの言葉は、いわば、おそらく永遠 に調べることができない土地の地図のようなものだ。非A訓練とは個人のため のものである以上、肝心なのは聞いたり話したりする言葉の意味の「多価性」-- すなわち多くの意義があるということ--を意識することである。(p. 206)

一般意味論の運用原理の若干をあげれば、次のとおりである。一 人間の神 経系統は、各人のあいだで構造的には類似しているものの、けっして同一であ ることはない。二 いかなる人間の神経系統も、言語的、あるいは非言語的な 事件の影響を受ける。三 事件--つまり出来事--は、総体としての心身両面に 影響をあたえる。(pp. 239-240)

健全な精神を保つために、ある事件を全体反応に即して評価することを学 べ。全体反応とは、臓器的変化、神経的変化、情緒的反応、事件に関する思考、 言葉になった表現、抑制した行為、実際に行なった行為等からなるものである。 (p. 254)

健全な精神を保つために、言語の自己循環性を意識する こと。言語表現とは現実に関したものであることもあれば、現実を言語表現し たものに関する言語表現であることもある。(p. 260)

健全な精神を保つために、次のことを忘れぬこと--「地図は現実の土地で はなく、言葉は描写する実体ではない」地図と現実の土地とを混同すると、か ならず生理機構に「意味論的障害」が発生する。この障害は、地図の限界が認 識されるまで継続するのである。(p. 286)

健全な精神を保つために、次のことを忘れてはならない--第一に来るのが 事件、すなわち最初の刺激、第二が感覚を通じてやって来る事件の神経的衝撃、 第三が各個人の過去の経験にもとづいた感情的反応、第四が言語的反応。大部 分の人間は、第一と第四の段階を「同一視」してしまい、第二、第三段階があ ることには気づかない。(p. 310)

健全な精神を保つために、各個人は、めいめいの神経機構から抑制を取り 除かねばならない。抑制とは、充分な反応を抑圧してしまう、意味論的障害の ことである。抑制はしばしば、視床・皮質の「遅延反応」、自己分析、他分析 の正しい利用によって、取り除くことができる。(p. 320)

非Aの諸訓練技術を知るだけでは充分でない。これらの技術を自動的なレベ ル、つまり「無意識」の領域で身につけなければならない。「話し合う」段階 は、「行なう」段階に取って代わられなければならない。目標は、いかなる事 件に対しても、言語以前の層において柔軟な態度でのぞむことにある。一般意 味論は、各人に方向感覚をあたえることを狙いとしているのであり、あらたな 杓子定規を植えつけたりするものではない。(p. 330)

一般意味論は一つの規律であり、哲学ではない。非A方式によるあらたな哲 学体系は、作ろうと思うなら、いくつでも作ることが可能である。これは幾何 学の体系がいくとおりでも可能なのに等しい。おそらく今日の文明にもっとも 望まれるのは、非A方式にのっとった政治経済学の発達であろう。現在までの ところ、まだこの種の体系は作られていないことは断言できる。人類を戦争、 貧困、緊張から解放してくれるこのような体系を作り出すこと--勇気と想像力 に富む男女にとって、この分野はまさに未開の宝庫なのだ。そのためには、世 界を「同一視」型の人間の手から奪い返すことが必要となるだろう。(p. 335)

(う〜む。やっぱり新興宗教っぽいとこがあるなあ…。こんなに打ち込んで 疲れちゃった)

12/15/97-12/21/97

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Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 12/21/97
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