(かんよう toleration)
私にはあなたたちを迫害する権利がある。なぜなら、私は正しくて、 あなたたちは間違っているから。
---ボシュエ
他人の異なる慣習に対して、反対したり非難したり嫌悪を感じたりせずに、 たんに許容するだけであるならば、 それは自由に対する行為を示しただけであって、 寛容を示したことにはならない。
---スーザン・メンダス
人種や民族が違ったり、性的嗜好が違ったり、 宗教が違ったりするために自分とは生活様式が異なる人々に対して、 たとえ嫌悪感があったとしても、彼らの生活様式を尊重すること。 「他人に危害を加えないかぎり、個人の生き方を尊重しなければならない」 と考える自由主義においては 特に重要な考え方である。
法的には人種や宗教上の平等が認められていても、 多数派の人々が不寛容であるために、 社会的には依然として寛容でないことがありうる。 アファーマティブ・アクション たとえば、会社や大学に人種差別が見られる場合などに、 そのような社会的な差別を是正しようとする試みの一つである。
06/Feb/2005
先日からちょっと寛容について考えている。 ふたたびメンダスの『寛容と自由主義の限界』を繙いたり。 「寛容の問題は多様性という環境において生じる…。 多様であるというそのこと事態が否認や嫌悪や憎悪を引き起こす ようなものであるとき、寛容が要求される」(翻訳13頁)。
オレらは他人と違った風になりたいと考える一方で、 あまりに違った人々、 ヘロドトスの「親族の遺体を食べる人々」に対しては嫌悪感を抱く。 この嫌悪感が曲者で、「私にはあなたたちを迫害する権利がある。 なぜなら、私は正しくて、あなたたちは間違っているから」 (ボシュエ、上記翻訳11頁)のように、 嫌悪感は一見して真理に基づくものであるように思われてしまう。 あなたのやり方は間違っており、それゆえわれわれに嫌悪感を抱かせる、 それゆえわれわれの嫌悪感は正当なものであるから、 あなたたちはやり方を変えるべきだ、と話が進むわけだ。 同性愛も然り、異なる人種間の恋愛も然り。
しかし、 他者に危害を与えないかぎり、 人々は自由に行為できるという原則に立つ自由主義者であれば、 異なった人々のやり方を寛容するかどうかを 「嫌悪感が真理に基づいているかどうか」という基準に求めるべきではなく、 あくまで「他者に危害を与えているかどうか」に求めるべきだろう。 危害と嫌悪感の両者を判然と区別することができるかどうかが これまた問題になるが、とはいえ寛容の理論的限界を立てる必要がある。
というのは、不寛容も悪であるが、寛容でありすぎることもまた悪だからだ。 アリストテレスの「中庸としての徳」を借用すれば、 寛容も中庸であって、何でも自分と異なるものを許さないのは不寛容であり、 明らかに危害であり許すべきでないことも許してしまうのは寛容ではなく○○である (○○には何が入るべきか。うまい言葉を思いつかない)。 それゆえ、自然に有徳な行為ができるほど成長していないオレのような人間としては、 嫌悪感から許せないと思ったときも、 逆にとりあえず寛容であるべきだと思ったときも、 直観をよく見直してみる必要がある。 そして当の行為が危害をもたらさないと判断した場合には寛容であるべきだし、 危害をもたらすと判断した場合には寛容であるべきではないと 判断しなければならない。
(06/Feb/2005の日記から)
上の引用は以下の著作から。