自然状態

(しぜんじょうたい the state of nature)


ジョニ・ミッチェルが、 「いつも思うんだけど/大切なものって失くしてみるまでわからないのよね」 と`Big Yellow Taxi'で歌っているが、 われわれはときどき、ある事柄の大切さを知るために 「もし〜がなかったら…」という風に考えてみることがある。 たとえば「もし水がなかったら…」「もし妻がいなかったら…」等々。

自然状態もまさにそのような仮定的な思考をするための装置である。 すなわち、自然状態とは、 政府が成立する前の無政府状態のことであり、 ホッブズロックルソーといった思想家たちは、 この状態がどのようなものかを考えてみることによって、 「政府とは何か」「なぜ政府に従うべきなのか」 といった問いに対する答を見つけようとした。 難しい言葉で言えば、一種の思考実験のための装置、 heuristic device(答を発見するための装置)である。

ホッブズは自然状態においては正義(道徳)は存在せず、 みなが実質的に平等な力を持っているため、 他人に対する不信や名誉心から万人の万人に対する闘争が起きるとした。 ロックやルソーは、より温和な自然状態を想定していたが、 やはり無政府状態のもとで暮らす不安定さのゆえに、 人々が社会契約を結び、 それによって政府に一定の権力(刑罰権など)を与えることに同意し、 国家のもとで暮らすことを選ぶとした。 ただし、彼らが想定した国家像は各人各様で、 ホッブズが絶対君主制を正当化したのに対し、 ロックは名誉革命後の英国の政体(制限君主制)を、 ルソーは直接民主制を正当化した。

政府に先立つ無政府状態が歴史的に存在したかどうかというのは難しい問題で、 ホッブズは当時のアメリカのインディアンなどがまだ自然状態にあると述べているが (『リヴァイアサン』第1部第13章、 『市民政府論』 第2部第2章の最後および第8章でロックも同じようなことを述べている)、 上でも述べたように、自然状態とは一般に「もし政府がなかったら…」 という想像をするための実験装置と捉えられていたように思われる。

10/Apr/2003


参考文献


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Apr 10 08:07:25 JST 2003