(どうとくかんかくせつ moral sense theory)
And as for the moral sense, innate practical principles, conscience they are merely convenient cloaks for ignorance or sinister interest: they mean either that I hate the law to which I object and cannot tell why, or that I hate the law, and that the cause of my hatred is one which I find it incommodious to avow. If I say openly, I hate the law, ergo, it is not binding and ought to be disobeyed, no one will listen to me; but by calling my hate my conscience or my moral sense, I urge the same argument in another and a more plausible form: I seem to assign a reason for my dislike, when in truth I have only given it a sounding and specious name.
---John Austin
視覚や聴覚のように、 われわれには行為の正しさや物事の善悪を見わける感覚が備わっている とする説。シャフツベリや ハチソンが代表的論者。 彼らは「われわれには美醜を見わける能力があるように、 善悪を見わける能力がある」というような主張をし、 それ以前の法モデルの道徳説に代わって美学モデルの道徳説を唱えている。 これについての批判はまた今度。
また、一般にはシャフツベリが道徳感覚説の創始者とされるが、 最近の研究ではロックを道徳論を批判したトマス・バーネットを 創始者とする向きもあるようだ。 ただし、シュニーウィンドは ケンブリッジ・プラトニストに 道徳感覚説の起源があると考えているようである。 詳しくは以下を参照せよ。 J.B. Schneewind, The Invention of Autonomy, Cambridge, 1998, pp. 301-2 note; Stephen Darwall, The British Moralists and the Internal `Ought' 1640-1740, Cambridge UP, 1995, p. 185 note.
ベンタムや 上で引用しているオースティンの批判は、 道徳感覚や良心というのは、 ある事柄に対する好き嫌いの感情をもっともらしく表明する --つまり主観的感情を客観的に表明する--ための隠れ蓑にすぎない、 ということである。かれらは道徳判断をするときはその理由として 客観的な事実を指摘する必要があると考え、 功利主義を唱えることになる。
06/30/99; 13/Jun/2001更新
上の引用は以下の著作から。