(いでおろぎー ideology)
イデオロギー批判というのは、 特定の宗教とか学問とか制度とかを、 その教義や建て前の内面的構造から俎上にあげるのではなくて、 いわば「外から」--つまりそれらがどういう社会的=政治的役割を 果しているかとか、どういう階級的あるいは党派的利害関係を隠蔽したり、 美化しているか、という観点に重きを置く批判様式です。
---丸山真男
もともとは「観念についての学問」(science of ideas) という意味で使われたが、マルクス以降は、 「特定の集団が当集団の利益や安全を守るために創りだした信念」 というような意味で用いられるのが普通である。 もっと簡単に言えば、「ある集団に都合のよい説明」というような意味。 信念の真偽よりも、 信念が果たす社会的役割に重点が置かれていることがポイント。
たとえば、 王が国を統治する権利は神に由来するという王権神授説や、 プラトンの「人間が土から創られたとき、 支配階級には金、防衛階級には銀、労働階級には鉄が混ぜられた」 というような説明は、 支配階級の既得権益を正当化し、 被支配階級の不満をなだめるためのイデオロギーとみなすことができる。
09/Sep/2001
ところで、 ベンタムのinterest-begotten prejudiceという概念 (利害に根差した偏見)は、 マルクスのideologyの概念と似ているようだ。 ベンタムによると、interest-begotten prejudiceとは、 たとえば王や国家のために自己犠牲を行なうのは尊いなど、 被支配者の利益の犠牲の上に成り立つ支配者の利益の追求を正当化するために 用いられる説明のことで、マルクスのそれと同様、 支配者による被支配者の搾取の事実を隠すために用いられる装置である。 ベンタムは宗教のほか、 コモン・ローもinterest-begotten prejudiceと捉えているようだ。 (Bentham, First Principles, pp. 151, 180-1, 184-5など参照) また、`delusion'という語もほぼ同じ意味で用いられるようだ。 Dinwiddy's Bentham 1989, pp. 87, 88; Bentham, Secrities against Misrule, pp. 185fも参照。
上の引用は以下の著作から。