『人間本性論』

(にんげんほんせいろん A TREATISE OF HUMAN NATURE)

おいら、いっつも思ってたんだけど、 おいらがこれまでに知った道徳体系のすべてにおいて、 まず著者はしばらくの間、通常の仕方で推論していくんだよね。 そして神さまの存在を確立したり、 人間の営みについての所見を述べたりするの。

すると突然、驚いたことに、 であるでないっていう、 普通の命題で使われる繋辞[主語と述語を結ぶ役割をする語]じゃなくって、 すべしすべからずで[主語と 述語が]結ばれている命題ばっかり現れるようになるんだよね。

これはわずかな変化なんだけど、実はめちゃくちゃ重要な変化でさ。

というのも、 このすべしすべからずっていうのは、 何か新しい関係ないし主張を表現してるわけで、 その関係ないし主張はきちんと言及され説明される必要があるんだよね。 それに、「どうやったらこの新しい関係が、 それとはまったく異なる他のものからの演繹でありうるのか」 という理解不可能なことがらに対して理由が与えられるべきでさ。

だけど著者たちはあまりこのことに注意しないので、 僭越ながら読者にこのことに注意を払うようお勧めしときます。 またおいらの確信するところでは、 このわずかばかりの注意によって、 通俗的な道徳体系はすべてだめになるだろうと思うんだよね。 また、美徳と悪徳との区別が単に対象の関係に基づくわけではなく、 また理性によって知覚されるわけでもないってことが わかるようになるだろうとも思う。

---David Hume


ヒュームが20代の終わり(1739-40年)に出版した本。 出版当時は不発に終わったが、後に主著として認められるようになる。

「経験によって知られたもの以外は受けいれられへん」 という英国経験論の立場を貫いたらこういう 結果が出ました、というような本。って、まだ読み通してないのだが。

26/May/2001


上記の引用は、 『人間本性論』第三巻第一部第一節を部分意訳したもの。 原文では一段落。以下の記述とともに、1998年ごろに書いたものである。

ここは、 「ヒュームの法則」とか呼ばれる、isとoughtの区別が述べられている箇所。 ヒュームが言いたいのは、 要するに、 事実に関する判断から規範に関する判断を演繹的に推論することはできない、 ってこと。たとえば、

っていうのは妥当な三段論法だけど(内容的には問題があるが…)、 となると、 『演繹判断では、前提に結論が含まれていなければならないはずなのに、 この「べき」はいったいどこから出てきたんだ』ってことになる。 つまり、厳密な演繹的推論ではこのような結論はでてこない。

さらにヒュームはこのようなことを考えて、 道徳判断は理性reasonの問題ではなく、 感情feelingの問題である、と結論するに至ったように思える。 すなわち、「太郎くんは理性的であるべきだ」という言明は、 「太郎くんが理性的であるといいなあ」という、 話者の是認の感情を示しているということになるわけだ。

まだまだヒュームの道徳理論は続きがあって奥が深いが、 しかし勉強不足なので続きはいつかまた。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Jun 14 20:48:03 2000