ただ乗り

(ただのり free rider)

互に加害したり加害されたりしないために相互に結んだ契約の或る項目を、 ひそかに犯す人は、たとえ現在のところでは千回も発覚されないでいるとしても、 これからのちにも発覚されないだろうと信じることはできない。 というのは、生を終えるときまでも、そのまま発覚されないでいられるかどうか、 わからないからである。

---エピクロス

知者は、発覚されないであろうことを知った場合、 法の禁じるところをおこなうことがあるであろうか? 端的な解答は容易でない。

---エピクロス


一般に、複数の人々の協力的行動によって生みだされた利益を、 協力することなく亨受する人のこと。フリーライダー。 たとえば、国民健康保険料を支払わずに保険証を使うような人。 協力的行動が大規模なものになるほど「ただのり」 する人の余地が大きくなる。

協力する労力を用いることなく協力の利益だけをかっさらうので 一見合理的に見えるが、村八分にされることが多い。 この問題に関してホッブズは次のように述べている。 「契約を破り、しかもそれは理性に反しないと言明する者は、 平和と防衛のために団結しているいかなる社会にも受けいれられない。 もしも受けいれられるとすれば、 それは受けいれる人々の過誤によるものであり、 彼らの過誤の危険を感じないで長くそこにとどまることはできない。 理性的な人間はそうした過誤を自己の安全の手段として当てにすることは けっしてできない」 (永井道雄責任編集、『世界の名著 ホッブズ』、中央公論社、1971年、 第一巻第15章、175頁)

このようにホッブズはただ乗り(というか一般に約束違反)は 結局自己利益に反するから合理的でないと主張する。 しかし、ホッブズに対しては、 「たしかに『わたしは約束をやぶります』と公言して不正を行なう と自己利益に反して不合理だと言えるが、 そう公言せずに、だれにもばれないように不正をするなら 合理的だと言えないだろうか」と質問することができるかもしれない。 これは《道徳を守ることは、 自己利益をよりよく促進するという意味で合理的である》 というホッブズ的な立場に対して ギュゲスの指輪の問題が提起する重要な問いである。

(11/27/99)


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Feb 01 07:01:51 2002