(りんりがく ethics)
ときどき「論理学」と誤植される学問。 一般には、倫理学を専攻すると善人になり、 倫理学の教授になると同時に聖人に列せられると信じられているが、 これは大きな誤解だと言わざるをえない。 倫理学を学んだ者の大抵は相対主義的な物の見方を覚え、 「それはこの社会だけで通用する道徳だからね」 などと言って人から嫌われる人間になる。
さて、倫理学とは倫理を研究する学問である。 倫理とは社会規範の一種であるが、 公的権力による制裁が伴なわないという点で法から区別される。 もっとも、この意味での倫理を道徳と呼び、 そして法と道徳を含む社会規範一般を倫理と呼ぶこともできる。 しかし、以下では倫理と法を区別する一つ目の意味でこの語を用いる。 (註1: 法と倫理(道徳)の区別についての補足)
法と区別されるような倫理は、 「企業の倫理綱領」のように成文化されている場合もあるし、 「うそをついてはならない」というような慣習道徳(常識道徳)のように はっきりとは成文化されていない場合もある。 しかしどちらの場合も、多かれ少なかれ、 規範に逆らう行為をした場合には私的な制裁が行なわれる。
ところで、このような倫理を研究する学問としての倫理学には、 (1)実際に流通している倫理(=実定道徳)を研究する分野と、 (2)実定道徳を批判し、あるべき倫理を研究する分野と、 (3)倫理的な話をするさいに用いられる「善悪」「正不正」 「べし」などの語句を分析する分野の三つの分野を考えることができる。 もっとも、これらの三つの分野は完全に分かれた研究分野ではなく、 たとえば(2)の研究のためには(1)と(3)の研究が基礎になると言った具合に、 ある程度相互に依存しているといえる。 通常、(2)を規範倫理学、(3)をメタ倫理学と呼ぶが、 (1)の分野に関してはあまり適当な名前がない。 これは、(1)の研究は社会学者のやることだと考えている倫理学者の怠慢に よるものである。
なお、応用倫理学とは、(1)〜(3)の研究を、医療に固有な倫理問題、 環境に固有な倫理問題、企業に固有な倫理問題といった、 社会活動の限定された領域において生じる倫理問題に関して行なうものと言える。 (05/09/99)
丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』におもしろい話が載っていたので、 これを引用する。
丸山「法と倫理との混同もひどいな。 儒教思想ですよ。 滝川幸辰さん(1891-1962)の『刑法読本』(1932年)が発禁になったのは、 トルストイの無政府主義思想だといわれたのと、 妻の姦通罪の廃止の主張と、二つひっかかったからですよ。 姦通罪を廃止しろとは何事か、姦通を奨励するのか、なんてね」 (丸山真男・加藤周一、『翻訳と日本の近代』、岩波新書、1998年、140頁)
この滝川批判の背後にある前提は、「姦通を法的に許容することは、 社会が姦通を倫理的に承認することである」という考えである。 しかし、法が沈黙する事柄が必ずしも倫理的に認められるわけではないことは、 たとえば食事している人の隣でタバコを吸う人のことを考えてみれば明らかである。
たしかに法的に禁じられていることと倫理的(道徳的あるいは社会的と言ってもよい) に禁じられていることの多くは重なりあうが、完全に一致するものではなく、 したがって、「法的に禁じられているから倫理的にも不正である」とか、 「法的に許されているから倫理的にも許される」と一概に言うことはできない。
この問題についてはまだ言いたいことがあるが、 また後日書く。 (02/Feb/2000)