そもそもじゃな、解説者の役割っつーのと、批判 者の役割っつーのがある訳じゃ。それでじゃ、あんたが法律っちゅ うテーマに関して何か言う場合にはじゃな、そのどちらかの役割を担当するこ とになると言えるのじゃな。
さてさて、「法がどうあるか」についての考えを述べるの は、これ解説者の仕事じゃな。
他方、「法がどうあるべきか」についての考えを述べるの は、これ批判者の仕事じゃな。
そこでじゃ、解説者が主としてやることは、事実 を述べるか、あるいは事実を知ろうと研究するこ とじゃ。
他方、批判者が主としてやることは、正当化根拠 について論ずることじゃ。
だからじゃな、職分をしっかりわきまえとる解説者は 理解力、記憶力、判断力 以外の頭の働きは使わんわけじゃな。
他方、批判者はじゃな、考察中の対象に対して快・不快の 感情を感じることがあるために、感情という頭の働きもい くらか使うわけじゃ。
さらにじゃな、「法がどうあるか」は、国が異なれば大幅 に異なるのは当然じゃ。
他方、「法がどうあるべきか」は、どこの国でも大部分同 じじゃ。
したがってじゃ、解説者はいつなんどきでもじゃな、A国 かB国かは知らんがの、とにかくどっかの一国の市民じゃ。
他方、批判者は世界市民なのじゃ。あるいは世界市民であ るべきじゃ。
またじゃな、立法家とその請負職人である裁判官がすでに やったことを明らかにするのは、これ解説者の仕事じゃ。
他方、立法家がこの先やるべきことを意見するのは、これ 批判者の仕事じゃ。
要するにじゃな、立法家が実践する学を教えるのは、 批判者の仕事っつーことじゃ。そして批判者 が立法家に教えるとき、学は持ち主が変わって 術になるわけじゃ。
Jeremy Bentham, A Fragment on Government, in The Collected Works of Jeremy Bentham, pp. 397-8.
特に法哲学の方面で有名なベンタムの鋭い指摘。ベンタムはヒュームから「で ある(事実)」と「べし(規範)」の区別を学んで、この区別を法律の分野で徹底 するように強調した。
[追記: 功利主義の伝統において、 この区別は「あるべき法」と「現にある法」 (実定法) という法における区別だけではなく、 実定道徳と 批判道徳という道徳における区別へと発展していく]
要するにベンタムは、事実を述べる役割と規範を述べる役割は全く別個のもの である、と言いたいわけである。当時、自然法思想をはじめ、あたかも事実か らそのまま規範が出て来るかのような話をする輩が多かったのであろう。
それにしても、『統治論断片(政府論断片)』は語り口が明快とか簡潔とか聞い てた気がするが、やはり説明の仕方はかなりくどい。
09/Aug/1997; 26/May/2001更新
(2003年2月ごろの同じ部分の訳)
法という主題について何か言いたいことがある人はすべて、 解説家あるいは批判家のいずれかの 役柄を引き受けると言ってよい。 解説家の仕事に含まれるのは、 法がどのようなものである(と彼が考えている) かをわれわれに説明することである。 批判家の仕事に含まれるのは、法がどのようなものであるべき と彼が考えているかをわれわれに述べることである。 ゆえに前者は主として 事実を述べたり追究したりすることに専心し、 後者は理由を議論することに専心する。 解説家は、自分の領域にとどまっているかぎり、 理解と記憶と判断以外の 精神機能とは無関係である。 後者は、 自分が検討する対象に結びついている(ことに彼が気付く)快や不快の感情のゆえに、 情念とも何らかの関係を持つ。 法がどうあるかは、国によって大きく異なる。 他方、法がどうあるべきかは、すべての国でかなりの程度 同じである。したがって、解説家はつねに、 あの国この国といった特定の国の市民である。 批判家は世界の市民であり、そうあるべきである。 解説家の仕事に含まれるのは、 立法家やその下で働く裁判官が すでに行なったことを説明することである。 批判家の仕事に含まれるのは 立法家がこれから 何をすべきかを提案することである。 要するに、批判家の仕事に含まれるのは、 立法家が実践する --立法家に引き渡されることによって技術になる-- 科学を教えることである。