エア

(えあ Ayer, Jules Alfred)

The presence of an ethical symbol in a proposition adds nothing to its factual content. Thus if I say to someone, "You acted wrongly in stealing that money," I am not stating anything more than if I had simply said, "You stole that money." In adding that this action is wrong I am not making any further statement about it. I am simply evincing my moral disapproval of it. It is as if I had said, "You stole that money," in a peculiar tone of horror, or written it with the addition of some special exclamation marks. The tone, or the exclamation marks, adds nothing to the literal meaning of the sentence. It merely serves to show that the expression of it is attended by certain feelings in the speaker.

---A.J. Ayer

It is silly, as well as presumptuous, for any one type of philosopher to pose as the champion of virtue. And it is also one reason why many people find moral philosophy an unsatisfactory subject. For they mistakenly look to the moral philosopher for guidance.

---A.J. Ayer

ご承知の通り、第二次世界大戦前のオックスフォード大学の哲学は ひどく不毛だったのです。哲学の歴史のみに関心を持つ老人たちがいて、 彼らはプラトンが言ったことを繰り返すだけで、 新しいことを言おうとする人を潰すことにのみ関心を持っていたのです。 わたしの本は、こうした人々の足元に置かれた巨大な地雷でした。 若い人々にはそれが解放と映ったのです--彼らはやっと息ができると感じました --このような仕方でこの本を大きな歴史的影響を持ちました。

---A.J. Ayer


英国の哲学者(1910-89)。 論理実証主義(logical positivism) の英国の代表的論客の一人。 若干25才にして代表作『言語・真理・論理』 (Language, Truth & Logic 1936)を著す。 倫理学に関しては、情動説を唱えた。

なお、Language, Truth & Logicには以下の翻訳がある。


以下、エアが『言語・真理・論理』を書くまでの経緯。

「1929年にオックスフォード大学に入り、1932年に学位を取りました。 クライスト・チャーチにいて --ギルバート・ライルの弟子でした--、 学位を取ったあとは、哲学の講師(lecturer)の職に就きました。 ところが、最初に数ヶ月の研究期間をもらったのです。 ケンブリッジに行ってウィトゲンシュタインのところで研究しようかと 思ったのですが、ギルバート・ライルが、 「いや、それはダメだ。代わりにウィーンに行ってこい」と言ったのです。 彼は二年前にある学会で--オックスフォードで開かれたものだと思います-- 偶然シュリックと出会っています。 そのとき30分ぐらいしか会話をしなかったそうですが、 シュリックに関心を持ち、何か重要なことがウィーンで起きているという 印象を受けたようです。 また、彼らの論文のいくつかも読んでいたのだと思います。 だから彼はわたしにこう言ったのです。 「ケンブリッジでウィトゲンシュタインが何をしているかは大体知っているが、 ウィーンで何が起きているのかは知らない。ウィーンに行って様子を見てきて、 われわれに報告しなさい」。

さて、わたしはそのときほとんどドイツ語を話せなかったのですが、 おそらく勉強すれば何が起きているかを理解するぐらいはできるだろうと考えました。 そこでわたしは、ライルからシュリックへの紹介状を携えてウィーンに行きました。 するとシュリックは、--今日、振り返ってみると、これは驚くべきことのように 思えますが、当時はごく自然に思えたのです--、 「ここに来てわれわれの研究会に参加しなさい」と言いました。 わたしは彼の言う通りにしました。 (他に参加を許された外国人は、米国の有名な哲学者であるクワインだけでした。 われわれはそこで一緒に過ごしました。) わたしは1932年の11月にウィーンに行き、 1933年の春になるまで滞在しました。22才のときのことです。 わたしは研究会に参加しましたが--議論に参加するほどドイツ語がうまくなかったので--シュリックとノイラートの議論を聴いていました。(中略) 議論は延々と続き--わたしは席に座って話を聴いていました。 わたしは彼らの議論で頭が一杯になり、英国に戻りました。 わたしはマインドで、`Demonstration of the Impossibility of Metaphysics'という、 単に検証原理(the verification principle)を適用しただけの論文を発表しました。 そしたら、アイザイア・バーリン(当時、彼とわたしは一緒に哲学を話すために定期的に会っていました)が、 「このことで頭が一杯であれば、本を書いてみたらどうかね」 とわたしに言ったのです。そこでわたしは「そうですね」と答え、 机に向かいました。そして、18ヶ月かけて『言語・真理・論理』を書いたのです。 書いたのは24才のときのことで、まだ25才のときに出版されました」

(Magee, Men of Ideas, 105-6より)


参考文献


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Jun 29 22:52:22 JST 2010