アプリオリ

(あぷりおり a priori)

a priori. 伝統的な形而上学では、すべての人間に生得的、 したがって本性的であること。 カントおよびカント以後では、すべての経験に、 時間的に先立つというよりも、論理的に先立つこと。

--『論理哲学論』訳者注


認識論において用いられる難解な言葉。 「先験的」とか「先天的」などと訳されることもあるが、 どちらの訳もこの語の意を尽していないとされ、 カタカナで書かれることが多い。 しかし、カタカナで書くと一般人には まったくわからない言葉になってしまうので、 なんとかしてもらいたいものである。

要するに、 「わたしはAという事柄をアプリオリに知っている」というのは、 「わたしはAという事柄を知っているが、 経験を通じて知ったのではない」という意味。 「経験を通じて知ったのでなければ、 きっと生まれながらに知っていたのだろう」 と考えてしまいたいところだが、 必ずしも生得観念説を 含意しているわけではないようだ。 とにかく、 「アプリオリに知るとは、経験とは無関係に知ること」 ぐらいに覚えておけばよろしい。

アポステリオリカントの項を参照せよ。(04/22/99追記)

今読むとちょっと上の記述は正確ではないと思うので、 書き足しておく。もちろん以下の記述も正確ではないかもしれない。 アプリオリな知識とは、 経験を通じて知られてもかまわないが、 いかなる経験によっても反証されない (=間違いであることが示されない)ような知識のことである。 これに対して、アポステリオリな知識とは、 経験によって反証されうる知識のことである。

一方、分析判断とは、述語の内容が主語を分析したもののこと (たとえば「おばあさんは老人である」)。 総合判断とは、述語の内容が、主語に含まれておらず、 何かこの世界について内容のあることを語ったもののこと。

そこで、アプリオリな総合判断とは、 「世界について有意味な言明であるが、 経験によっては反証されないような判断」を指す。 たとえば、「すべての出来事は原因を持つ」 なんてのはアプリオリな総合判断かどうか、と議論される。 (12/14/99 追記)


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Jan 28 01:49:38 JST 2000