これも良い翻訳があるといいんだけど。
倫理的思考と感情はわれわれの生活と密接にかかわりあっているが、 そのことはなかなか気付かれない。 自覚があろうとなかろうと、みんなそれぞれの価値観を持っている。 価値観を持っていなければ、 誇りpride、賞賛admiration、軽蔑contempt、憤りresentment、 憤概indignation、罪の意識guilt、恥辱shame等々の感情は感じることができない。 こういうのがない人生って、人間の生って言える?
こだま: なるほど。
たとえば、誇りを取ってみる。 「何かを誇りに思う」というのは、 何かがmeritやworthを持っている、 つまり何かに価値があるっていうことを認めているということだ。 それに価値がないと思うようになれば、誇りに思うこともなくなる。
こだま: なるほど。たとえば、ある母親が「息子を誇りに思う」とかいうのは、 母親が息子に価値があると認めているということだと。
あらゆる価値を否定するニヒリスティックなロックの歌詞を作った人が、 その詩を誇りに思っているなら、彼は本気であらゆるものに価値を認めていない わけではないことがわかる。あるいは、彼のnihilismと 彼の思考には矛盾がある。
こだま: なるほど。
罪の意識guiltや恥辱shameも同じことだ。 間違っていると思ったことをやったという考えや、 自分についての信念が、これらの感情をもたらす。 憤りresentmentというのは不当なundeserved傷害を受けたという感情だ。 賞賛というのは、価値のあるものに対する反応だ。 というわけで、倫理的信念を持たないと主張する人は、 自分の感情について考えてみればそれが間違っていることがわかる。
こだま: なるほど。よくわかりました。
また、自分の会話によっても間違っていることがわかる。 「変人jerk」、「変態creep」という言葉は、 否認disapproval、嫌悪disdain、軽蔑contempt、非難censureを示している。 「かっこいいcool」とかの語は積極的な評価を示している。
こだま: 評価evaluationというのは、すべてが倫理的なものではない かもしれませんが、まあ価値観を表明していることはその通りですね。
感情や会話だけがわれわれの価値観を表すのではない。 カントの言い方に従えば、 われわれはみな行為者agentであり、理由のために行為する(act for reasons)。 カントによれば、あらゆる出来事は理由があって生じる(happen for reasons)が、 行為だけが、理由のためになされる(done for reasons)。 行為だけが、行為者の理由によって説明されうる。 つまり、行為者が規範的な理由(normative reasons)だと 理解したものによって説明される。
こだま: カントの『基礎付け』の話ですね。ダーウォル先生、 もう少しわかりやすく説明してください。
じゃあ例を出して説明しよう。あなたが、子供に重力の働きを教えるために、 ボールを落下させる。 あなたがボールを落とすことと、ボールが落下することは、 両方とも理由があるのだが、あなたがボールを落としたことだけが、 ある理由のためになされた。 理由を持っていたのはあなただけで、 ボールは理由を持っていなかった。つまり、 ボールは落下しようと思って落ちたわけではない。
こだま: 「理由」というより、「目的」の方がわかりやすいですね。 ボールは目的を持って行為することはできないが、人間という行為者だけが、 目的を持って行為することができると。 万物には目的があるとするアリストテレス先生は否定するでしょうが、 たしかにその通りで、われわれの行為は、物理学的な法則や、 社会科学的な法則によって外的に説明されるだけではなく (後者は、ある人の自殺が社会の不景気による自殺率の増加として説明されるなど)、 内的な理由あるいは目的によっても説明されるわけですね。
行為するということは、ある事柄を、行為するための規範的理由とみなして、 その理由のために行為するということだ。 これもやはり倫理的思考を含んでいる。すなわち、 ある選択が望ましい側面を含んでいる、選択に値する、 ということだ。
こだま: なるほど。
行為者の視点から見ると、このことがもっとよくわかる。 あなたは夜をどう過ごすべきかを考えているとしよう。 いろいろな選択肢について賛成と反対の理由を考えて、 理想的には、最終的に最善の選択に行きつく。 われわれは考えるときには、適当に決めるのではなく、 選択の理由を求める。そして、行為することを決めたら、 そう行為するための規範的理由を抱くことになる。 というわけで、倫理的意見をまったく持たない人は、行為者とは言えない。 したがって、選択をする人というのは、倫理的見解を持つわけだ。
こだま: ダーウォル先生、やはり「倫理的」の意味が広すぎないですか。 シンガーがレストランで肉を食べるか野菜を食べるかというのは、 倫理的意見に基づいているかもしれませんが、 喫茶店でコーヒーを飲むか紅茶を飲むかというのは、 たしかに「コーヒーよりも紅茶が好き」というような価値観がないと 選べないわけですが、といってこれが倫理的な価値観かと言うと、 そうじゃないんじゃないですかね。 「紅茶を飲む人は道徳的に不正である」というような理由ではないだろうから…。
こだま: まあ、いずれにせよ、われわれの行為や感情が価値観を反映したものである ということはよくわかりました。
こだま(さらに追記): やっぱり、この説明は「価値的なもの」と「非価値的なもの」 の区別なので、「価値的なもの」と「倫理的なもの」の区別について 語ってくれないと、他人には説明しにくいように思いました。
ここまでの議論で、あなたも倫理的信念を持っていることは認めてくれるだろう と思う。 しかし、これまでのところ、ある信念や態度を倫理的なもの にするものが何なのか(この場合の「倫理的ethical」は、 「反倫理的unethical」(倫理に反する)の対義語ではなく、「非倫理的non-ethical」 (倫理とは無関係)の対義語である)、説明してこなかった。 倫理的信念の中心にあるのは、規範性normativityだ。 倫理学とは、われわれが何を欲求すべきか、感じるべきか、どうあるべきか、 何をなすべきかに関する研究である (provisionally define ethics as the inquiry into what we ought to desire, feel, be, or do.) とひとまず定義しよう。
こだま: 倫理的ethicalにはたしかに反倫理的unethicalと非倫理的nonethicalの 二つの対義語がありますね。 わかっていたはずだけど、そういう風に説明するとわかりやすいなあ。 ダーウォル先生、しかし、まだ倫理的の範囲が広い気がするんですが。 これだと、「コーヒーよりも紅茶が好き」というのも倫理的な信念に ならないですかね。
こだま(追記): やっぱりダーウォル先生は「価値判断一般」と 「倫理的信念」を同一に扱っているように見えますねえ。 価値観はたしかにいたるところにありますが、 その部分集合である倫理的信念はそれほどたくさんは見出されない気がします。 まあ、話の大筋はそれ(=倫理的信念は「価値観」ほど遍在していないこと) でもかまわないわけですが。
こだま(さらに追記): ついでに、moralとimmoral, moralとnon-moralという言葉も同じものを指すと思われます。 ただし、amoralという言葉もニヒリズムの文脈で言われたりしますが。
二人の人がいて、医師による自殺幇助が合法となるべきかどうかをめぐり 意見が分かれているとしよう。 これは一見すると倫理的な意見の不一致に見えるが、そうでない場合もある。 たとえば、 この法が通過すると弱者が危険にさらされるという論点で意見が分かれているなら、 合法化されたらどういう影響が生じるかという事実に関する異なる見解を抱いている ため、同じ倫理的前提から、異なる倫理的結論を導いていると言える。
こだま: ちょっとわかりにくいですが、よく聞く話なのでわかります。 スティーヴンソンの価値に関する意見の不一致と、 事実に関する意見の不一致の話ですね。 わかりにくいと言ったのは、 「二人とも医師による自殺幇助は本人の同意があれば倫理的に正しいが」 というような一文が抜けているように思うからです。
もう一人が議論に加わり、 彼女は自殺を手伝うことは道徳的に不正だからという理由から 合法化に反対しているとしよう。この人は、上の二人のうちの一人と、 医師による自殺幇助に反対という結論は一致しているが、 別の理由から反対しているわけで、意見の不一致はより根深いと言える。
こだま: なるほど。
さらに第四の人が加わり、 この人も第三の人と同様に自殺幇助は道徳的に不正だと考えているが、 第三の人が「人間はみな神の子であり自分でいつ死ぬかを決めるのは許されない」 という理由からそう考えるのに対し、 第四の人は「人間の生命は内在的に価値があり、殺人は常に不正だ」 という理由からそう考えるとしよう。 この二人の意見の不一致は、倫理的なものか、非倫理的なものか。
こだま: それはむずかしい問いですね。
神の存在について二人の意見が分かれているのなら、それは倫理的ではなく、 神学的な意見の不一致だろう。 しかし、「神が創造して維持しているものは、神の所有物になる」 という見解や、人間の生命に内在的価値があるのか、外在的なのか、 という見解が問題になるのなら、倫理的信念に関する意見の不一致という ことになるだろう。
こだま: はあ、そういうもんですか。なるほど。むずかしいですね。 なんだかちょっとつまらなくなってきました。
こだま(さらに追記): この話は「倫理的」「非倫理的」の区別を説明するには、 どうも都合が悪いように思います。以下の、 正当化とか理由の構造という話をするにも、話が長すぎるように思うし…。
この話に深く立ち入った理由は二つある。 一つは、倫理的な事柄と非倫理的な事柄の区別を直観的に理解するには、 こういう細かいところまで議論する必要があるから。 もう一つは、倫理的信念には相互関係があり、 一貫した構造がある(ありうる)ということを示すため。 われわれの生命は究極的には神によって所有されているという信念が、 医師による自殺幇助は合法化されるべきでないという信念の土台になっている という風に。
こだま: なるほど。どうでもいいですが、可算名詞のconsideration(s)って、 訳しにくいんですよね。「考察」も「考慮」も、不可算名詞っぽいでしょう。 かといって、考察点とか考慮点って、あんまり聞かない言葉だし。 ダーウォルが使っている意味では、「理由」に近いんだけど、 どう訳したらいいんでしょうかね。上では「事柄」としてるんですけど…。 まあそれはともかく。
どうやってこの現象を説明すればよいか。 ジョン・ロックは、 「いかなる道徳的規則も、 理由を正当に要求することのできないようなものは提案されえない」 と言っている。 つまり、倫理的命題は正当化justificationを 必要とする。何かが正当化されるとは、それが理由によっ て支持されるということだ。 自殺幇助の合法化を非難する人は、 そうすることによって、それを禁じる理由があるという 意見を表明をしていることになる。
こだま: あれ、これは情動説にも当てはまるかな。 この考え方は好きなんだけど、 なんだかすでに一定のメタ倫理的立場にコミットしているような…。
ロックの要求の基礎となるポイントを 形而上学的に表現するとこうなる。 いかなるものも、それだけでbarely善かったり悪かったり、 正しかったり不正であったりすることができない。 あるものが何らかの倫理的特徴を持つなら、 それは、それが持つ何か他の特徴のためである(by virtue of other properties it has)。
こだま: 一つ前の段落からsupervenience的な話が続いています。 `by virtue of'という表現があいまいで良いですね:-)
こだま(追記): ああ、なるほど、形而上学的といったのは、 「卑劣な」という(倫理的)性質は、それだけで存在するわけではなく、 その他の非倫理的な性質(後述-第二章のヒュームのところを参照) があって初めて存在するわけだから、 そういった非倫理的性質(無辜の子供を殺した、など)を理由として 指摘することができるというわけですね。難しいですねえ。
われわれの倫理的な情念や選択を根拠づけるものが何かを発見することは、 自己発見の過程であり、また、 善悪や正・不正についてよりよく理解することにもつながる。 たとえば、自殺幇助を合法化するという考えには「違和感」を感じる (uncomfortable)が、なぜそう感じるのかわからないという人がいるとする。 彼が何を心配しているのか、自分で理解できるようになるのは、 自分の感情や考え方や意見をよく考えて分析することを通じてのみである。
こだま: 自己発見というのは良いですね。 直観的な倫理判断を分析していくと、自分の価値観を見出すことができると。 魂が健全になるという哲学の効用ですね、 ただしそんなに多くの人ができることとは思いませんが。
こだま(追記): しかし、まあ、別のもっと重要な効用は、 議論の不一致が解決に向かうとか、より良い意思決定ができるとか、 そういう実践的なものだと思うんですが。
倫理的信念を持っているが、それを支える理由についてよくわかっていないと きがある。また別の場合には、ある事柄に関して倫理的信念がないか、 持っているけれどもそれが疑わしいので、理由を探し求めることもある。 ある倫理的信念を支える理由について真剣に考えると、場合によっては、 これまでの倫理的信念を放棄しなければならない場合もあろう。
こだま: なるほど。その通りです。これがまた難しいわけですが。
特定の倫理的問題と、 その基礎となる一般的な理想や原則について研究する倫理学の一部門を、 規範的倫理学(normative ethics)と呼ぶ。 規範的倫理理論がどれだけ一般的で体系的になりうるかに ついては異論がある。一部の人は、行為功利主義のように、 正・不正の単一の原理があるという立場をとる。 別の人々は、もっと多元主義的な立場をとる。 しかし、たいていの人は、理由を要求するロックの主張に同意する。
こだま: なるほど。
理由の探求というのが規範倫理学に方向性を与える。 規範倫理学は価値や義務の土台を掘り出そうとする。 つまり、価値を作る、あるいは正しさを作る (value- or right-making)特徴を見つけだそうとする。
こだま: ダーウォル先生は小難しく言うのが好きなんですね。 right-makingなんて表現を作って。 いや、他の人が言ってるのかもしれませんが。 しかし、この土台(ground)とか掘り出す(uncover)というような表現は なかなか良いですね。木の根っこを探るというか、縁の下の力持ちというか、 なんというか…。
倫理的信念も規範倫理学も人間の生にしっかりと根付いており、 あなたの人生にも関係があることがわかったと思う。 われわれは倫理的信念の理由を知りたがる傾向を持っている。 そういう意味では、われわれはみな暗に倫理を持っているだけでなく、 規範的倫理学者でもある。規範倫理学というのはわれわれの中に根付く欲求を 展開して体系化する試みと言える。
こだま: 理由を知りたいというのは欲求ですか。 さっきはロックの引用でごまかされた気がするのですが、 なぜ倫理的信念には理由が必要なのか、 もうちょっと説明が欲しいところですねえ。 「そういう風に人間が作られているから」というのではちょっと不満です。
「何が価値を持っているか」とか「われわれの道徳的義務は何か」 とかいう規範倫理学の問いから一歩さがって、 「価値とは何か」とか「そんなものは本当に存在するのか」 とか問うことができる。何が価値を持っているかという問 いではなく、価値や正・不正そのものの性質を問題にして いる。 「何に価値があるのか(またそれはなぜか)」(what is valuable, and why)ではなく、 「価値とは何か」(what is value)であり、 「何が道徳的義務なのか(またそれはなぜか)」 (what is morally obligatory, and why)ではなく、 「道徳的義務とは何か」(what is moral obligation)だ。 こういうのがメタ倫理学の問いだ。 倫理の内部で考えるのではなく、 一歩下がって倫理の性質とか地位について考えると出てくる問いだ。 メタ倫理学は、倫理についての哲学的問いから成っている。
こだま: ああ、 これはメタ倫理学と規範的倫理学の違いについてのわかりやすい説明ですね。 さすがですね。授業でも使わせてもらいます。
こだま(追記): 上の価値と義務の問いには、価値論と行為論が対応してるのかな。
こだま(追記2): 医療倫理に引き付けて言えば、 「患者にとって何が善いか」とか「何が医療者の道徳的義務か」とかいう問いが 規範倫理の問いで、 「患者にとって善いとはどういう意味か(たとえば延命はなぜ患者にとって善いのか)」 とか「医療者の道徳的義務とは何か(なぜ個々のやるべきこと、やるべきでないことは 道徳的義務だと言えるのか)」というのがメタ倫理の問いだな。
こだま(さらに追記): 追記にあるように、「価値」と「道徳的義務」には、 善の理論と正の理論が対応しているようです。
アナロジーで説明すると、 「11から17の間に、素数ってある?」という問いは、数学的で、 「13がそうだよ」と答えればよいが、 「数って存在するの?」という問いは問いの種類が異なるので、 「1とか2とか…」という答えは適切ではない。 後者は数学的な質問ではなく、哲学的な質問だ。 メタ倫理学は、倫理学についての哲学で、 数学に数学の哲学があるように、 倫理学(規範倫理学)にはメタ倫理学があるわけだ。 「科学的説明って何?」とか「理論って何?」というのが科学の哲学であるように。
こだま: なるほど。よくわかりました。
哲学者は、第一階の問い(first-order questions) と第二階の問い(second-order questions)という言い方をする こともある。 倫理学においては、 第一階の問いが規範的倫理学にあたり、第二階の問いがメタ倫理学にあたる。
こだま: なるほど。これも使わせてもらいます。
上の説明からすると規範的倫理学は哲学じゃないように思われるかもしれないが、 たしかにメタ倫理学から完全に切り離されるものだとすれば、そういうことになる。 しかし、わたしの考える倫理学への哲学的アプローチ (哲学的倫理学)においては、 規範的倫理学とメタ倫理学は統合されており、切り離すことはできない。
こだま: たしかに、数学の哲学は哲学だけど、数学は数学、と考えると、 (規範的倫理学についての哲学である)メタ倫理学は哲学だけど、 規範的倫理学そのものは哲学じゃないという理屈が成り立ちますね。 といっても、規範倫理学の目指すこと(理由と体系性の探求)と、 数学の目指すこと(ってよく知らないけど)は違うような気がするけど。
形而上学っていうのは、哲学の一部門で、 現実の根本的な性質を問題にしている。 つまり、何が存在するかを問題にしている。 「価値って何?」というのは形而上学的な問い。 倫理と宗教の関係とか、「倫理は相対的だ」とかいうのは、 みんな形而上学的な問い。「権利って何?」というのもそう。
こだま: あれ、なんかこれも広い定義のようですねえ。 倫理に関する第二階の問いがすべて含まれているようですが、 とすると、メタ倫理学との関係はどうなるんでしょうか。
道徳的権利の存在について、多くの人は疑わないと思われるが、 これっていったい何なの?
こだま: 権利のontological statusの問題と言っていいでしょうか。
手始めに権利に関する倫理的命題を別の倫理的命題に置き換えることもできる。 (具体例は省略)。 しかし、その場合でも、そのように置き換えられた倫理的命題の正しさは どうやって示されるのかとか、誰かが道徳的権利を持つことは現実のどのような 特徴によって保証されるのかといった問いは残る。 これらは権利の形而上学についての問いである。
こだま: はあ、そうですか。
こういう問題は、難しい倫理的な意見の不一致が生じたときにとりわけ重要になる。 倫理に真理なんてあるのかとか、倫理的真理は「相対的」なのかとか。
こだま: 尊厳って何かとかいうのも形而上学的な問いですか。 ああそうか、ダーウォル先生はメタ倫理学の一部門として形而上学を 位置付けてるんですね。 じゃあ、尊厳って何かというのはメタ倫理学的な問いって言ってもいいんですよね。
この手の形而上学的な問いは、倫理的言語の意味や それを用いるときに表明されている心的状態に関する、 言葉および心の哲学と関係している。 ある人が「自殺幇助が合法化されることは不正である」と言うとき、 その人は何を意味していて、どのような心的状態を表明しているのか。 上の表現は、一見すると、不正さ(wrongness)という性質が存在するかのように 語られている。 しかし、今世紀(もう前世紀だけど)の非認知主義者 (noncognitivist)は、それは見かけだけで倫理的事実なんてないと言う。 倫理的言明は真でも偽でもなく、 感情や欲求に似た心的状態を表明しているのだと説明する。
こだま: なるほど。形而上学が道徳的権利とか価値そのものを問題するのに対し、 言葉の哲学や心の哲学は言葉の意味や心的状態を問題にするわけですね。 それでこれらすべてはメタ倫理学的な話だと。
別のメタ倫理学的な問題は、認識論的なもの。 われわれが知りえるもの、われわれが信じることが正当化されるものは何か、 というような問い。 たとえば、 自殺幇助のような行為を非難する理由が存在すると信じるに足る理由 は何かというような第二階の問いがそれ。
こだま: むずかしいですね。
物理的な存在物というのは、われわれが知覚しなくても存在しうると 思われるが、価値っていうのは、 われわれが知覚しなくても存在するのだろうか。
こだま: むずかしいですね。
倫理的な真理が必然的なものか、偶然的なものかという問いは、 形而上学的なものであるが、もし必然的なものであるとすれば、 どうやってそれが認識できるのかという問題が出てくる。
こだま: ますます難しいですね。経験的世界の事柄は偶然的で、 それは知覚によって知られるけれど、 カントの叡知界みたいに必然的な世界の事柄はどうやって認識されるのか、 という問いのようです。 このあたり、学生に教えるにはピンとこない説明の仕方ですねえ。 まあ、倫理的な真理があるとして、それはどうやって知ることができるのか (たとえば感覚によってわかるのか、理性によってわかるのか)、 というのが認識論的な問いだというのでわかるかな。
こだま(追記): やっぱり認識論の説明だけ難しいですね。 正しさとか、善さとかをどうやって知る(認識する)のか、 (理性的)直観によってなのか、(合理的)証明によってなのか、 実証的になのか、感情によってなのか、 とかそういう問いが認識論的な問いだと言えばわかるでしょうか。
規範的倫理学とメタ倫理学は別々に研究されることが多い。 別々に分けないといけないという人々もいる。
こだま: そうですね。
これは学生に講義するときにもあてはまる。 たいてい、この二つの領域は別個に議論され、 相互関係については語られない。 この関係こそ、倫理学の醍醐味なのに、これは残念なことだ。 思想史的に見ると、アリストテレスもカントもミルもみんな、 メタ倫理学と規範的倫理学を統合(integrate)しようと 試みている。 何に価値があるかという彼らの議論は、 「そもそも価値って何?」という哲学的理論と結びついている。 ニーチェの「価値の超越的評価」にしても、 価値とか評価についての哲学的見解に依存している。 彼らにとっては、哲学は倫理的帰結を持っている。
こだま: これは重要な主張ですね。 読み進めないと諸手を上げて賛成はしかねますが。 ふと『哲学は生き方について何が言えるか』という書名を思い出しました。
先に述べたように、哲学的倫理学とは、 規範的倫理学とメタ倫理学を統合するプロジェクトのことである。 とくに、哲学的倫理学が試みるのは、 どの規範的な倫理的主張や理論が倫理についての最も適切な哲学的理解によって 支持されるかを発見することである。
こだま: なるほど。野心的ですね。
たとえば、道徳的規則には理由が必要だというロックの話を思い出そう。 ロックは規範倫理学的には規則功利主義の立場を取っていた。
こだま: なるほど。そういうことにしておきましょう。
ロックによれば、道徳的規則とは、神がわれわれに従うよう命じたもので、 利己的な人間がみな従えば社会的な利益をもたらすものである。 これらの道徳的規則の権威は 神に命令されたという事実から生じるとされる。
こだま: なるほど。
というわけで、ロックの規範的な規則功利主義は、 道徳についての彼の形而上学的理論に基礎付けられている。
こだま: なるほど。
興味深いことに、 17世紀と18世紀の帰結主義あるいは功利主義的規範倫理は、 同じようなメタ倫理的な議論に基礎付けられていた。 道徳を作った神は全知全能かつ博愛的だから、 道徳の目的は被造物の最大善ないし最大幸福でなくてはならないというわけだ。 19世紀以降は帰結主義は世俗化したが、 このように道徳を手段(何かのための道具)として見る見方は失われていない。
こだま: なるほど。
帰結主義に反対する人々は、しばしば、 メタ倫理学的な見地から自説を基礎づけようとした。 合理的直観主義者は、 認識論的見地から、 無辜の人を拷問するのが内在的に不正なのは、 7たす5が12であることが自明なのと同じことで、 感覚がなくても理性だけあれば分かると論じた。
こだま: なるほど。認識論がここで効いてくるわけですね。
本書は哲学的倫理学の入門編。 第二部ではメタ倫理学の話。 第三部と第四部では、 哲学者に照明を当て、 哲学的倫理学の代表理論を検討する。
こだま: なるほど。哲学的倫理学をしている様を生き生きと示すという 理由で、第三部と第四部では哲学者を中心に扱うわけですね。
第三部(原文では第二部となっているが…)では、 ホッブズ、ミル、 カントといった哲学的道徳家たちの規範的倫理学 と哲学的理論を検討する。 倫理(学)と対比される道徳とは、 万人を拘束する正・不正の普遍的な規範のことを指す。
こだま: なるほど。ちょっと変わった狭い意味で「道徳」を使うわけですな。 規則とか、行為に関わり、しかも普遍性を持つ理論だと。
道徳が倫理のすべてを尽すわけではない。第四部(原文では第三部)では、 アリストテレス、ニーチェなどによりこのような道徳が批判される。 彼らは上のような道徳が、哲学的には支持できないとする。
こだま: なるほど、結局、第二部でメタ、第三部で「道徳」理論、 第四部で「道徳」理論を批判する哲学的倫理学の立場を検討するわけですね。
こだま: まとめると、ここまでの流れは(1)倫理的信念をみなが持っていること、 (2)規範的倫理学とは倫理的信念を基礎づける試みであること、 (3)メタ倫理学とは、第二階の問いで、形而上学、言葉と心の哲学、 認識論に分かれること、(4)規範的倫理学とメタ倫理学は密接に結びついていること、 ぐらいが述べられましたかね。人にうまく説明できるかなあ。
第二部: メタ倫理学
本書の主要な目的は、 主要な思想家が異なる規範倫理学的な見解をどのように哲学的に基礎付けてきたか、その方法を入門的に紹介することだ。 彼らは、何に価値があり、何が道徳的な義務なのかを理解しようとして、 価値や義務とはそもそも一体何かと問うたわけだ。 こう言った後者の問いがメタ倫理学的な問いだ。 というわけで、最初にメタ倫理学についてもうちょっと説明しようと思う。
こだま: なるほど。生命倫理学に引き付けて言えば、 医師の義務とは何かとか、医療において価値のあるものは何か、 というような規範倫理学的な問いやその答を哲学的に基礎付けるために、 義務とはそもそも何かとか、価値とは何かという議論が必要だというわけですね。
まず、ある倫理的信念を抱いている人の視点から見ると、 どのように物事が見えるかについて考えてみることにしよう。 あなたがある事柄について強い倫理的信念を持っているとしよう。 たとえば、ある国での内戦中に、ある小児病院が襲われ、 子供と病院スタッフが見せしめとして拷問された末に虐殺されたとする。 あなたはこのことを知ったらどう思うだろうか。 おそらく、恐怖や嫌悪感や悲しみや人間の愚かさを感じると同時に、 憤概(indignation)を感じて、 「なんて卑劣なことをやるんだ」と言うかもしれない。
こだま: あ、たしかに訳していると、気分が悪くなりました。 たしかに「それはひどい」とか、「こいつらは人間以下だ」 とか言いたくなりますね。ロシアの劇場人質監禁テロとか、 パキスタンでのNYタイムズ記者の処刑とかもかな。
こだま(追記): この、「ある倫理的信念を抱いている人の視点」 というのが、あとで内面的視点(view from within)とかなんとか言い換えられる わけだけれど、どうも畑が違う人には通じにくい。 一人称的視点の方がわかりやすいという説があるので、 授業ではそのように言うようにしよう。
さて、ある別の人は同じ事件を知って、まったく別の結論に達しているとしよう。 この人は、たくさんの人がこのような仕方で殺されたのは大変残念だけれども、 正しい側が内戦で勝つためには仕方ないので、正当化される行為だと考えている。 あなたの信念と、この人の信念はどういう関係にあるのか。
こだま: なるほど。自爆テロの是非とかですね。
二人のあいだには明らかに問題issueが生じている。 あなたは攻撃が卑劣なものと考えており、彼は正当化されると考えている。 あなたは二人のいずれもが正しいということはありえないと考えるのではないか。 あなたは彼の意見が間違っていると考えるのではないか。 彼もおそらくあなたの意見について同じように考えているのではないか。
こだま: そうですねえ。たしかに「間違えている」(mistaken)とか 「おかしい」という風に思いますよねえ。 しかし、いったい何がどう間違えているのか、というのが問題になりますね。
こだま(追記): 次の嗜好の話と比べると、倫理的な議論においては、 イス取りゲームのイスが一つしかなく、たくさんある意見のうち、 一つしかそこに座れないというようなイメージで考えるとよさそうだ。
これを「蓼食う虫も好き好き」(原文はbrute difference of taste) という考え方と比較してみよう。 あなたはオクラが大嫌いで、わたしは大好きだとしよう。 この違いについて、われわれはどう考えるだろうか。 ひょっとすると、本気で論争点issueがあると思うかもしれない。 どちらかが間違っていて、どちらかが正しいというような。 あるいは、単なる味覚の違いだと考えるかもしれない。 陶冶されるような種類の違いではなく、単なる違いbrute differenceだと。 この場合、どちらかが間違っているというような風には考えないだろう。 あなたはオクラが大嫌いで、わたしは大好き、というだけで、 それで話は終わりであろう。
こだま: たしかに、ソムリエとか言うような人は、 「正しい味覚」を備えているのかもしれないので、 ある程度、味覚にも高級と低級の違いがあるかもしれません。 そういう意味では、「おまえの味覚は間違っている」というのもありえる かもしれません。道徳においても存在するような感受性の陶冶の問題ですね。 しかし、ササニシキが好きか、コシヒカリが好きか、赤ワインが好きか、 白ワインが好きかについては、まあ単なる嗜好の違いだということで 落着くように思いますねえ。
こだま(追記): 好みの問題っていうのはおもしろいですねえ。 ただし、 オクラのような味覚の問題だと、 「あなたがオクラをおいしいと思わないのは、絶対間違っている」 っていう主張が、(controversialであるにせよ)ある意味、 make senseしてしまうので、 「色の好み」とかに話を変えた方がよさそうだ。 「あなたは何色が好き?」「赤が好き」「それはおかしい」 っていうことにはまずならないだろうから。
しかし、先ほどの虐殺の件も同じように「単なる嗜好の違い」 として説明できるだろうか。
こだま: まあ、こういう件に関しては簡単に相対主義を取れなさそうですねえ。
虐殺の件でも、議論の末にあなたは、 「わたしは虐殺が間違っていると思うが、 あなたはそう思わない」とかなんとか言うかもしれない。 しかし、これは一見するとオクラの事例に似ているが、 「わたしにとっては不正に見える(appear or seem)が、 あなたにとってはそうは見えない」という意味で、 二人の見え方が衝突している。
こだま: ちょっとわかりにくいですねえ。たぶん、 「二人にはそう見えるけれど、倫理的真実は一つであり、 したがってどちらかが正しい」という話に持っていきたいんでしょう。
これは、あなたの感情と倫理的信念の内部から、 あなたにそう見える姿を描いたことを強調しておく。 もちろん、「倫理的信念や態度は、趣味や嗜好の問題と同じで、 適切な意味では客観性を持つことはない」という 哲学理論を持つことも可能だけれども、 今言っているのは、そういう理論と、 倫理的経験や判断の現象(phenomenology)、 すなわち、憤りのような感情を経験したり、 何かが深刻に不正だという信念を抱いたりしたときにわれわれに見える物事の あり方との間には、緊張関係があるということだ。 だから、このような哲学的理論はこの現象(appearance)がミスリーディングであるか 混乱しているとして、説明して解消しなければならないだろう(explain away)。
こだま: 出てきました。道徳的現象と理論の不一致。たいていの人は、 現象に合っていなければ、理論が間違えているんだって思うんですよね。 そう考えると、マッキーの錯誤説なんかはすごいですよね。 大陸が動くとか、地球が動くとかいうのと同じくらい奇抜な見解ですよね。
こだま(追加): 先の話で言えば、あくまで一人称的視点から見た道徳の見え方、 という話。これが道徳的現象(appearance)と呼ばれる。 「実感」という言い方をしたらわかりやすいかな。
こだま(さらに追記): 「現象(appearance)」についての記述する観点を 一人称的視点と呼び、「現実(reality)」について考えようとする観点を 三人称的視点と呼ぶ、というのではだめですかね。どういう呼び方をしても ピンとこないですねえ。
というわけで、道徳的意見を抱くということは、 その意見が客観的あるいは真理であることを志向している ことになる(purport or aspire to objectivity or truth) という結論に同意してもらえるだろうか。 といっても、倫理的意見を持つことが、自分が無謬だと考えることであるという わけではないし、 自分の主観性自分の意見に入り混んでないと主張するということでもない。 むしろ、自分が間違いうるとか、主観的な立場から抜けでることできないという ことを認めること自体が、倫理的意見が客観性を志向している ことの証左になる。 間違えることがありうると考えたり、 またバイアスが除けないと考えたりすることは、 何か正しいものがあることを前提しているわけだ。
こだま: なるほど、そうですねえ。
こだま(追記): 一人称的視点からは、客観性がある「つもり」で 倫理を語っているということ。
オクラの事例では、バイアスとか可謬性とかについて語ることはできない。 道徳的信念は、事物の本当の姿を表象することを志向している心的状態 (a state of mind purporting to represent the way things really are)、 すなわち、何かが本当の意味で正しかったり、本当に不正であったり するということを言いたいわけだ。 だからこそ、「見解」(view)とか、確信(conviction)とか、 信念(belief)とか、オクラの場合では使わないような言葉を使うわけだ。
こだま: なるほど。たしかにオクラだと、 「わたしはオクラが好きだという見解を持つ」とは言いませんね。 「わたしはオクラが好きだが、間違っているかもしれない」 とも言いませんよね。まあ、自分のことがよくわからないという場合も あるでしょうが。
虐殺の例は、論争の余地なく話がわかるような例をわざと選んだわけだけれど、 次のように批判されるかもしれない。 虐殺を是とする立場が正しいということもありえるのではないか。 また、「テロはいかなる結果になろうと不正だ」と誰もが思っているんだろうか。 あるいは、みんなよく考えればそういう結論に達するんだろうか?
こだま: なるほど。
といっても、重要なポイントは、この見解がみなに普遍的に共有されているか どうかではない。 むしろ、 「虐殺が不正である」というのは本当(true)であるのかどうかについて、 意見の不一致がある方がこれまでのわたしの議論にとっては大切だ。 医師による自殺幇助を合法化するかどうかでも、 自殺幇助の合法化をめぐる見解のどちらが正しいかという意見の不一致であるわけだ。
こだま: なるほど、あることをめぐって倫理的意見の不一致があることは、 倫理的意見が客観性を希求している証拠だという話ですね。
また、どのような経験が望ましいかなどについての倫理的信念ではなく、 正・不正についての道徳的信念をわざと取りあげた。 こちらの方が、客観性が意図されているというポイントがわかりやすいと 思ったからだ。 しかし、他の倫理的信念にも同じことがあてはまる。 たとえば、わたしが頭痛がするので、それを理由に頭痛薬を飲もうとすると、 別の人は、痛みはそう行為する理由にならないと言うかもしれない。 もし彼女は自分の痛みに関して、それを理由に頭痛薬を飲むことはない と言っており、彼女とわたしの間に重要な違いがあるのだとすれば、 彼女とわたしの意見は直接に衝突しているとは言えないかもしれないが、 彼女が、わたしに向かって、「あなたは痛みがあるからといって それはあなたが頭痛薬を飲む理由にはならない」と言うならば、 わたしか彼女のいずれも正しいことはありえないだろう。
こだま: なるほど。
最後に、1983年に中国の民主主義運動家が監禁され、 自分の意見を変えるように言われたが、 「それはウソを付くことになる」と言って断ったという話があるが、 彼にとって自分の価値観は明らかに正しいものとして映っており、 それを否定することはウソになると考えたわけだ。
こだま: これはドラマチックな例ですが、 あまりポイントがはっきりしませんねえ。 オクラが好きな人に、「オクラが嫌い」って言えと強要しても、 同じように「それはウソを付くことになる」と答えるかもしれないし…。
しかし、倫理的信念が何か客観的なものを反映しているのだとすれば、 反映している客観的な倫理的現実って何だろうと問う必要がある。 この問いは重要なので気をつけなければならない。 虐殺の件で言えば、虐殺こそがその倫理的現実と言われるかもしれない。
こだま: そうですねえ。なるほど。
しかし、この虐殺を完全に記述したとしても、それだけでは倫理的判断にはならない。 倫理的判断になるのは、このように記述された特徴を持つ行為は、 そのことによって卑劣になると認めた場合である。 上のような記述はあくまでルポルタージュのようなものであり、 二人の人がその同一の記述に基づいて、別々の倫理的判断を下すかもしれない。 ある事件を「卑劣にする」(despicable-making)な倫理的特徴とは何か。
こだま: たしかに、信念にもいろいろありますからね。そのような虐殺が 本当に起きたかどうかという信念は、その虐殺が実際に起きた証拠を集めることに よって裏付けられますが、それが不正だったという信念の裏付けには直接は ならないですよね。
しかし、倫理的信念が反映しているような、卑劣さというような性質が本当に あるんだろうか。 ある行為を卑劣にするような倫理的事実なんてものは あるんだろうか。
こだま: ほんとですねえ。あるんですかねえ。 第二性質とかの話が必要になってくるかな。 「赤い」「丸い」「善い」。
その虐殺について考えると、憤りを感じる。 そして、その憤りを、虐殺を卑劣と呼ぶことで表現する。 われわれは、ちょうどわれわれの視覚的感覚の経験が、 あるものの実際の物理的な形に対応しているような仕方で、 卑劣さという性質に反応して憤りを感じているんだろうか。 卑劣さdespicablenessというような性質が、 他の性質に加えて存在するんだろうか。
こだま: 卑劣さなんていう性質が存在するんですかねえ。 やっぱり第一性質と第二性質みたいな話が必要かな。 もうちょっとあとでもいいのかな。
デヴィッド・ヒュームが有名な一節で同じような問いをしている。
悪徳(vicious)と考えられている行為を一つ挙げてみよう。 たとえば、故意の殺人。 その行為をあらゆる視点から眺めて、 悪徳と呼ばれるような事実ないし現実の存在を 見つけられるかどうか試してみてほしい。 どういうやり方をするにしても、ある種の情念、 動機、意図、思考しか見つけられないだろう。 それ以外には殺人という事柄のうちに事実を見つけることができないだろう。 当の対象について検討しているかぎり、 悪徳(という性質)は完全にあなたの手をすり抜けてしまう。
これを「ヒュームの挑戦」(Hume's challenge)と呼ぼう。 故意の殺人が持つ諸性質が、ヒュームの言う「事柄のうちにある事実」である。 たとえば、人間の生命の軽視とか、 自分の目的のために他人を道具として使う考え方、等々。 しかし、悪徳(悪い)という性質はどこにあるのか。 ヒュームは、この性質の基礎となるその他の性質と同じような仕方では、 この性質は対象の中にはないんじゃないかと述べている。
こだま: なるほど、われわれはあたかも客観性を意図した倫理的信念を 述べるけれども、その客観性を保証しようと思うと、 ヒュームの言う困難にぶつかるということですね。
最近では、ギルバート・ハーマンも同じような話をしている。 彼は、倫理に関しては、われわれの信念を保証するような証拠 (evidence)を得ることが難しいという話をしている。
こだま: なるほど。ここでハーマンが登場するわけですか。
科学とか、世界についての推測の実証的な検証をする場合は、 予測が経験と対応するかどうかを調べることで、理論の検証を行う。 たとえば、現在の物理学理論では、 ブラックホールはその膨大な質量により、 まわりの物体の運動に巨大な重力的な影響をもたらすとされる。 そこで、 科学者がハッブル宇宙望遠鏡でM87星雲の中心のあたりでそれらしい動きがあることを 観察し、他の仕方では説明しようがなければ、 この観察をもって、ブラックホールに関する理論的予測の正しさの証拠とするわけだ。 つまり、経験によって、理論の正しさを検証したわけだ。
こだま: なるほど。その通りのように思います。
倫理だとどうなるだろう。 科学や常識的信念の検証の役割をする「経験」にあたるものが、 倫理では存在しないように思われる。 人々はたしかに倫理的な感情や信念を持っているけれども、 これを倫理理論の真偽の証拠と考えることはできない。 というのは、人々はこうした感情を持つさいに、 なんらかの理論を前提しているかもしれないからだ。 (ie. 理論→理論に基づいた感情という関係があるかもしれないので、 その感情を持って理論を検証することはできない)。 他方、科学においては、経験は理論を検証するための「理論中立的」な 場を提供してくれるように思われる。
こだま: なるほど。しかし、と続くわけですね。
しかし、科学についての見解は、経験と科学理論の関係についての誤った見解 を示している。 科学理論を裁く中立な経験の審判という構造は、神話、 いわゆる「所与の神話」である。 あらゆる経験は「理論負荷的」であり、 理論によって意味づけられる概念やカテゴリーを暗黙のうちに使用している。 カント的に言えば、「理論のない経験は盲目だ」 (また「経験のない理論はからっぽだ」)ということになる。 経験が理論によって構造化されているからこそ、 われわれは信念を検証することができる。 まったく文節化されていない知覚的印象は、 ウィリアム・ジェームズに言わせると、 いかなるものの証拠にもならない`blooming, buzzing confusion'(〜な混乱) ということになる。 というわけで、倫理的感情が理論負荷的なら、 理論を検証する役割を果たす経験だって理論負荷的だということになりそうだ。
こだま: そうですよねえ。しかし、と続くわけですね。
科学者がハッブル望遠鏡での観察がブラックホールについての 今日の理論を検証すると考えるのは、 この理論が自分たちの観察を一番よく説明すると考えるから。 同じような仕方で、より一般的で普遍的な倫理理論が、 個々の特定の倫理的現象の「観察」や「経験」を説明すると言えるだろうか。
こだま: このあたり、おもしろいですねえ。もうちょっと科学哲学も 勉強せんとなあ。あの本はどこに行ったんだっけ。
ある意味では、たしかにそう言えるかもしれない。 たとえば、虐殺というある個別の事件を考えると、 憤りという倫理的感情と、それが卑劣で不正だという信念というか「観察」 を得ることになる。 しかし、第1章で見たように、 そういった感情や観察が正しいものであるのは、 それを支えるような何らかの特徴を指摘できる場合にかぎられる (形而上学うんぬんのところか)。 要するに、そうした特徴を持つ虐殺一般は不正であるという普遍的な真理が 確立されないと、この個別の虐殺が不正であるという命題が「説明」 されることはない。
こだま: 難しいですねえ。どういうことなんですか。
そこで、個々の現象の観察が一般理論の証拠となるのは、 理論が個々の観察を説明する場合だと考えるなら、 たしかに、こういう関係は倫理においても成り立つかもしれない。 そこで、われわれは、個々の事例に関する倫理的感情や直観的信念を、 倫理理論の証拠とみなすことができるかも しれない。
こだま: ふ〜ん、さいですか。
しかし、ハーマンは、倫理学と科学には大きな違いが一つ残っていると言う。 科学の場合、科学者が自分の観察をブラックホール理論の証拠とみなすのは、 その理論が自分の観察している事柄(周りの天体のふるまい方) を説明するだけでなく、彼らがそれを観察しているということ も説明するからだ。つまり、理論は、彼らの経験 も説明するのに役立つ。
こだま: ふ〜ん、むずかしいですねえ。観察された事柄だけでなく、 経験も説明するわけですか。
ハーマンは倫理ではこういうことは起きないという。 われわれが個々の虐殺の事例に関して憤りを感じ、 それが不正であるという信念を持つ場合、 「無辜の者を拷問し暴力的に殺すことはつねに不正である」 という理論はわれわれが観察した事柄を説明するかもしれない (「説明する」というのは、理論が正しければ、観察の内容も正しいという意味で 用いられている)。 しかし、その理論はわれわれがそれが不正だと観察していること 自体を説明するかというと、どうか。 虐殺の不正さというものが、因果的にわれわれに倫理的感情や信念を引き起こす 実在的な性質である場合にかぎって、そうなると思われる。 しかし、物理的性質の場合は、われわれが知覚経験を得るのは 物理的性質が知覚経験を因果的に引き起こすという風に考えられるが、 同じようなことが倫理的な経験についても言えるだろうか? 要するに、知覚(五感)に対応するような、倫理的な感覚器官の存在を仮定すべき だろうか?
こだま: ああ、難しいことが言われてきましたが、 結局はそこに行き付くんですね。五感に対応するような道徳器官 (moral faculty)は存在するか、という話ですね。 たしかに通常の味覚や聴覚といった知覚は、 五感が対応しており、外界の事物が知覚を因果的に引き起こすのだと 考えられます。しかし、倫理的な知覚(道徳感覚)については、 それを生みだすような(それを認識するような)特別な器官は存在していないようです。 認識論(と存在論)の話ですねえ。
よく考えてみると、そういうものはないように思われる。 特定の虐殺について考えてみるとき、そこにあるのは、 (虐殺という行為が持っていた性質などの)事実だけであり、 そうであるべきではなかったというような性質がそこに 存在するわけではない。 ヒュームが述べていたように、事実と価値(およびisとought)のあいだには 溝があるように思われる。
こだま: なるほど。
ハーマンが正しくて、経験と科学理論と、倫理的感情・信念と倫理理論 のあいだには、大きな違いが存在するとすれば、 科学において経験を科学理論の証拠とするようなことは、 倫理学の場合はできないことになる。 これは認識論的な問題である。 しかし、この問題は形而上学的な考察に由来している。 すなわち、われわれはあたかも倫理的性質が、 事物の実在的な性質や事実によって基礎付けられるように思っているが、 倫理的性質や倫理的事実なるものはそうした実在的な事実には含まれていないようだ、 という考えである。 ヒュームが述べたように、意図的な殺人の「悪徳(悪さ)」は、 その殺人という事実の中には見出されないのである。
こだま: はあ、なるほど、難しくてよくわからないのですが、 倫理的性質が実在するから、それを認識するというのではないとすると、 何が存在してるんだろう? という形而上学的(存在論的)問いだということですか。
というわけで、問題は、事実と価値の あいだのギャップと言われるものである。ヒュームやハーマンの考え方からすると、 is(事実)とshould be(価値)の間には大きな裂目があるように思われる。 価値は実在せず、単にわれわれが評価(evaluation)を通じて 現実に投影(project)しているにすぎないように思われる。 しかし、それは「道徳的判断は客観的な事実を述べている」 というわれわれの内的な(ie. 一人称的な)経験と衝突する。
こだま: なるほど。白い布に画像を映すプロジェクターみたいに、 倫理的な評価も、事物や出来事の方にある価値を記述しているというよりは、 「評価行為」という主観的なものを投影しているにすぎないかもしれないという ことですね。
この、倫理的思考が内部からと外部からでは異なるという問題が、 メタ倫理学の根本的ジレンマと呼ぶことにできるものである。 内的には、倫理的思考や感情は「客観性への志向」があり、 真偽が問題になるような事柄を問題にしているように思われるのに、 外的には、倫理的信念の正しさを裏付けるような客観的事実がないという問題。 倫理的信念は、知覚の因果関係がはっきりしている経験的信念とは、 一見して異なっているように見える。 経験的信念の真偽は、世界が現実にある性質を持っているかどうかによって 決まる。しかし、倫理的信念については同じことが成り立たないとすれば、 倫理的信念の正しさを保証するものは何か。
こだま: 倫理的信念は嗜好と違って客観性を志向しているが、 その客観性を保証してくれるものがないように思われるということですね。
メタ倫理学の二つの基本的な問い。
これらが根本的なディレンマをもたらす。 すなわち、実在する倫理的性質や事実が存在するか、あるいは存在しないか、だ。 あるとすれば、それはどのようなものなのか。 ないとすれば、どうしてわれわれはあたかもそれがあるかのように話すのか、 またそれがないとはっきりわかったらわれわれの考え方を変える必要があるのか、 ということを考える必要がある。
こだま: そうですねえ。なるほど。メタ倫理学の課題は、 この客観性の問題をどのように考えるかということが中心課題だと。 そう言われれば、そのように思われてきました。
こだま(さらに追記): 授業を終えたあとなんですが、 このジレンマについて説明するには、 「倫理的信念は、主観的には客観的なものに見えるが、 客観的に考えると主観的なものに見える」という言い方が少々謎めいているけれども、 スローガンとしてはおもしろいかなと思いました。 ついでに英訳も考えておきましょう。 `Subjectively speaking, ethical beliefs appear objective; but objectively speaking, they seem subjective.'
こだま(さらに追記): また、このあたりで、 これ以降で説明されるメタ倫理の立場を列挙しておく必要があるように思われます。
Empirical Naturalism: 実証的自然主義、実証的研究の対象になりえないもの は存在しない。(cf. アリストテレスの目的論的自然主義) empirical naturalismはmetaphysical naturalismとも呼ばれる。自然科学や社会科学の 実証主義的研究が全盛の現代では強力な立場。 このような実証主義的な世界観と、 上でジレンマがあると述べられた倫理はどのように調停できるか。 こだま: というわけで、現在の実証科学の立場と整合的なメタ倫理学理論として、 以下で倫理的自然主義、ニヒリズム、ノンコグ、カント的な実践理性の立場が まず紹介され、そのあと倫理的自然主義の話が詳しくなされます。
Ethical Naturalism: 形而上学的自然主義者の一部で、 実証研究の対象になる倫理的事実が存在すると主張する立場。
Nihilism: 形而上学的自然主義者の他の一部で、実証研究の対象になる倫理的 事実は存在せず、倫理的感情を抱く人の投影にすぎないとする立場。
こだま:なるほど、お化けは恐怖の投影を見ているにすぎないというようなも のですね。
nihilismの立場は懐疑主義(ethical skepticism)とも呼ばれるが、懐疑主義は 認識論的立場(すなわち、倫理的事実は存在しているかもしれないが、われわ れはそれを知ることができない)なので、nihilismの方が適当。error theory (錯誤論)とも呼ばれる。われわれが倫理的感情や信念を持つことは認めるが、 それらの感情や信念を持つ場合のわれわれの(倫理的事実が存在するという)心 持ちは誤っているとする。
Noncognitivism: 形而上学的自然主義は肯定するが、倫理的自然主義とニヒリ ズムは否定する第三の立場がある。倫理的自然主義とニヒリズムは、倫理的確 信を本物の信念と考えるが、非認知主義の立場では、倫理 的確信は、嗜好や選好に比べるとより複雑な、感情や態度にすぎず、真理値は 持たないとする。倫理的確信が持つ「客観性への志向」は、通常の信念が持つ ものとは性格が異なる。
こだま:なるほど。三つの立場は、倫理的信念が(倫理的事実の存在によって) 真になりうるという立場(倫理的自然主義)、倫理的信念は(倫理的事実が存在 しないため)偽であるという立場(ニヒリズム)、倫理的信念は(本当は信念では ないため)真でも偽でもないという立場(非認知主義)に分かれるわけですね。
もう一つ、カントのように倫理的判断を実践理性の規範に 照らして真偽を決めるという立場がありうる。この立場は、倫理的判断が客観 性と真理値を持ちうるという意味でニヒリズムや非認知主義と異なり、自然的 な倫理的事実と照らして真偽を決めるという立場ではないので倫理的自然主義 とも異なる、第四の道である。詳しくは14章と15章で。
こだま: なるほど、 「倫理的真理を主張する人は、何に照らして真偽を問うているのか」 という問いに対して、倫理的自然主義とニヒリズムは、 自然的性質でもある倫理的性質に照らして、と答えるけれども、 ニヒリズムは、そのような倫理的性質は (われわれはあたかもそれがあるかのように語っているが) 現実には存在しないと言うわけですね。 ノンコグは、そもそも倫理的信念は、倫理的真理を主張しているのではなく、 態度表明だとかなんとか言って、真偽を問うていないと言うわけですね。 また、カント的な立場だと、倫理的性質に照らして真偽を問うというのではなく、 実践理性によって導きだされた道徳法則に照らして真偽を問うので、 やっぱり倫理的自然主義とは異なるわけですね。
こだま: 叡知界について論じていたカントが形而上学的自然主義を取っていた というのはちょっと無理がある気がしましたが、叡知界が必要なのは 自由とか責任とかそういう文脈なので、この論点に関しては問題ないんですよね、 たぶん。
倫理的自然主義者によれば、「卑劣さ」といった倫理的性質は、自然の一側面 (aspect of nature)である。しかし、それはどのような側面なのだろうか。
こだま:なるほど、倫理的性質は「評価する」という主体の行為を通じて客体 に投影されるのではなく、そもそも自然の側にくっついているような性質だと。
善いという評価(valuation)は、それが欲求の対象になるということと密接に 関係している。そこで、一つの自然主義的理解では、「健康が善い」と言うこ とは、人々が健康になることを望むという意味だということになる。
こだま(追記): これは一番単純なモデルですね。 「患者のbest interestとか言いますけど、患者にとって善い事柄というのは、 どうやって決まるんですか。たとえば、『健康は患者にとって善いことである』 と言われるとすると、なぜ健康は患者にとって善いんでしょうか」「それは、 患者が健康であることを望んでいるからです」という感じですね。
ある人にとってある事柄が善いとは、その人がそれを欲求するということだと 主張されるかもしれない。しかし、ある人が欲求しないけれどその人にとって 善いものがあるとか、ある人が欲求するけれどそれはその人にとって善くない こともあると言われる。
こだま:そのとおりです。このあたり、重要ですね。
こだま(追記): たとえば、「患者は肺炎の治療を欲求しないが、 肺炎の治療はその患者にとって善い」とか、 「末期がん患者がもっと鎮痛剤の量を多くしてほしいと望んでいるが、 それはその患者にとって善くない」とか。
こだま(さらに追記): また、「国民にとって善いものは何か」 という問いに、「国民が望んでいるものである(また、それは世論によって知られる)」 と答えるようなものですね。しかし、どうも国民が現に望んでいるものが、 必ずしも彼らにとって善いもの(あるいは、彼らにとって望ましいもの) ではないように思われる、と。
そこで、自然主義者は、ある人の善とは、その人が理想的な状況 にいれば欲求するようなもののことであると定式化しなおすだろう。
こだま:そうですねえ。
こだま(追記): たとえば、「患者の善とは、その人が十分な情報を得て、 一時の感情や苦痛に流されることのない状況で欲求するようなもののことである」と。
そこで、次のようにも言える。あるものが(ある人にとって)価値を持つのはそ の人がその非倫理的側面を十分に知り、経験をすれば欲するだろう場合である。
こだま:ミルの快楽の質の話ですねえ。
このような見解は、第6章の「理想的判断理論」や第12章と第13章のミルの理 論でも再び見ることになる。
こだま:なるほど。
あるいは、欲求や評価行為に結びつけなくても、その人の繁栄(flourishing) と結びつけて、その人にとっての善さを説明できるかもしれない。
こだま:この話はここではこれ以上展開されていませんね。アリストテレスの ところでやるのかな。上の話は、流れとして、 だんだん主観的な善の理論(事実、望む)から客観的なもの(繁栄のために必要) に移ってきてるようですね。
こだま(追記): 繁栄というのは医療においてはわかりにくいですが、 まあwell-beingに役立つというか、capabilityを実現するというか、 そういう基準でしょうか。
何かを誇りに思うとか、恥ずかしく思うとかいうのは、このような自然主義で どのように説明されるのか。上記の「望ましさ」の理論と類比的に「誉めるべ き」(estimable)の理論を作ることができるかもしれない。「誇り」とは、あ る人がそのことがらを十分に知り経験すれば、それを誇りに思うだろうこと、 というように。
こだま:このあたりは訳しにくいですね。
しかし、誰の誇りかという問題が出てくる。わたしにとっての誇りとは、わた しがそれを誇りに思うということ以上のことを意味しているように思われる。 「ある人にとっての善」の場合のように、相対化することは困難。このことを 自然主義的にどうやって説明できるか。
功績のような価値は「ある人の善」の場合とは違い、間主観的な な価値だと思われる。同僚の教育がmeritを持っているというのは、 誰でも理想的な状況にいれば評価する場合であり、その場 合に限られる、という感じ。
こだま: ここはちょっと要約の仕方が悪いんですが、 「ある人にとっての善」と「道徳」のいわば橋渡しとして、 meritについて説明されているようですね。 すなわち、ある人にとっての善に比べると、 「誰それの授業はうまい」とかいう表現は、 自分がそれを誉めるというだけでなく、 他の人も自分と同じ状況にいたらそれを誉めるだろうという風に、 他人の視点も含意している、と。そういう意味でこういったmeritとかesteem というのは間主観的だ、 すなわち個人の善以上に客観的だということになるんでしょう。
道徳的義務や道徳的不正は自然主義的にどのように説明されるか。
ニーチェなどはこのような考え方はユダヤ-キリスト教的思考の残滓だと考え て放棄すべきだと論じている。しかし、他の自然主義者は、公平な道 徳的視点というものを想定して、道徳的に望ましいとか、道徳的に 善いとかいうのは、この視点から望ましいことだと言う。
こだま:なるほど。「個人にとっての善」は個人が理想的な状況であれば云々 だったのに対して、「道徳的な善」は誰でも理想的な道徳的視点に経てば云々 ということで、道徳的な善悪を自然主義に説明するというわけですね。 これも間主観的だと言ってよさそうですね。
道徳的不正とか、(それをなさない)道徳的義務というのは、道徳法によって権 威を持って定言的に命じられる(すなわち、われわれの欲求や関心とは無関係 に命じられる)ものである。これは道徳的に望ましくないという以上の、すべ きでない、してはならないという規範性を持った命令であ るが、自然主義的にはどうやって説明されるのか。
こだま: この規範性というのは日本人には(?)ちょっとわかりにくいですねえ。 義務と不正さや、義務と道徳法則との強固な観念的結びつきを 念頭に話を聞く必要があります。
こだま(追記): ダーウォル先生は、「規範性」にいろいろな意味を含めている んですかね。「定言的(欲求とは無関係)」 というのはかならずしも規範性の必要条件ではないのかなと思うのですが、 ダーウォル先生はそれも規範性の一部だと考えているようですねえ。 いずれにせよ、「積極的安楽死は不正だ」とか、 「積極的安楽死を行なわないことは医療者の道徳的義務だ」とかですね。
一つの問題。「不正だ」というのは、ある種の規則ないし法を破っているとい うことを意味しているように思われる。自然主義(自然科学)は記述的な自然法 則を説明するのが得意だが、規範的な自然法はどうやって説明するのか。この 点は第13章でミルが説明している。要するに、ある行為が不正だとは、社会の 最大幸福に役立つような規則に違反しているということと説明される。
こだま: ここらあたりも、「道徳的に望ましくない」(善悪)と、 「道徳的に不正」(正不正、義務)の区別が大前提となっていることを 強調しないと、ピンとこないでしょうねえ。
もう一つの問題。道徳規則があらゆる人に定言的に拘束力を持つ点と、他のあ らゆる考慮(たとえば自己利益など)をオーバーライドするように思われる点は、 どのように自然主義的に説明されるか。
こだま: なるほど、`Why Be Moral?'の問題は、自然主義では説明しにくいという わけですね、一言で言えば。しかし、このあたりは進化論とかを使って がんばって説明する人もいるんでしょうね。
とはいえ、自然主義者はこれらすべての「道徳的現象」を説明しきる必要はか ならずしもなく、そのうちのいくつかはわれわれの考え方に問題があると指摘 してもよい。
こだま:そうですねえ。なるほど。
倫理的自然主義を支持する哲学者は今でも多いが、ムーアは20世紀の始めにこっ ぴどく批判した。どんな自然的性質Nをとっても、性質Nを持っているある事柄 Xが善いかどうかは、つねに「開かれた問い」である(その問いは馬鹿げていな い、トートロジーではない)がゆえに、性質Nを善という性質と同じものとみな すべきではないと主張した。
たとえばわれわれがエリックが結婚してない成人男性であることを知っている にもかかわらず、「しかし、エリックは男やもめ(bachelor)であろうか」と問 うことは馬鹿げている。「結婚していない成人男性」という性質と「男やもめ」 という性質は同一なので、この問いは閉じている。しかし、善いという倫理的 性質は、いかなる自然主義的性質Nによっても同一のものとしては説明されな いとムーアは主張したわけだ。
こだま: これはすごいですねえ。「患者にとっての善い」を 「患者が望んでいること」と同一視する人に対しては、 「患者が望んでいることは、患者にとって善いことか?」と尋ねるなら、 この問いは開かれているので(有意味なので)、 両者は同一ではないとムーア先生なら言うでしょう。 同じように「患者が理想的状況において望んでいること」も、 「患者にとって善いこと」と同じではないとムーア先生なら言うでしょう。 とすると、患者にとっての善は何なのか、というと、第5章の合理的直観主義 の話になるんでしょうね。
「結婚していない成人男性」と「男やもめ」は同義語(意味が同じ)であり、 「Xが結婚していない成人男性であれば、Xは男やもめである」というのは 分析判断と言われる。
しかし、二つの言葉は意味が異なっていても同じ性質を指す場合がある。メン デルの時代には「遺伝子」(gene)が染色体内のDNA分子の一部であることはわ かっていなかったので、そのことが科学者によって発見されてはじめて、「遺 伝子は染色体内のDNA分子の一部である」という総合判断の 正しさが明らかになった。いいかえると、それまでは「Xが染色体内のDNA分子 の一部であるならば、Xは遺伝子か?」という問いは開かれていたと言える。
こだま:このあたり、学生にしっくり行くように説明するには難しいですねえ。 水とH2Oでうまくいきますかね。
というわけで、自然主義者はムーアの批判に対して次のように答えられる。た しかに、Nと善は意味が異なる(分析的に同一ではない)が、実証的経験により、 両者が同じ性質を指すことは、総合的に正しいことがわかるかもしれない。
このように、善さという性質がわれわれがすでに知っている性質に「還元」さ れうるという立場を取る人は還元的倫理的自然主義と呼ば れる。もう一つの立場は、このような還元はできないが、「ムーアの未決論法 が示しているのは、善さという性質が、他のいかなる自然的性質と同一視でき ないということだけであり、善さという性質そのものが、自然的性質であると いう理解を排除するものではない」として、善さを他に還元できないユニーク な自然的性質と考える非還元的倫理的自然主義の立場であ る。
こだま:なるほど、ムーアの攻撃をそうやって二方向からかわすわけですね。 すなわち、Nとgoodが同じことを指すというのは総合判断であり、分析判断の ように字面からだけ判断することはできないというかわし方と、Nとgoodはた しかに同じ性質は指さないが、それはgoodが自然的性質ではないということを 意味するわけではなく、他に還元できないような特別な自然的性質だとがんば る方向ですね。
開かれた問い論法がいまだに説得力を持つのは、自然的性質には、倫理的性質 が持つと思われる規範性がないように思われるので、容易 にそれによって説明することはできないと思われるから。あることを人々が望 むという事実と、それが望ましい(望まれるべきだ)という倫理的判断は異なる。 ある事柄のあらゆる自然的事実に同意している二人の人が、それでも倫理的判 断が異なる場合というのを想像できるように思われるが、そうすると、規範性 は自然的事実に依存しないように思われる。ムーアの開かれた問いがこのこと を指摘しているという理解は、第8章の非認知主義を支える論拠の一つとなっ ている。
こだま:なるほどねえ。進化論なんかを使ってもうちょっと自然主義の立場で がんばれるのかなと思いますが、たしかに規範性が自然主義にとっては問題だ と。
こだま(追記): あ、これはヒュームのisとoughtの話に論点が移ってるんですね。 さきほどのA=Bが分析か総合かという話とは別で、事実と価値というか、 事実判断だけからは価値判断が出てこないという論点ですね。
倫理的自然主義で自然科学のようにわれわれの善についての考えをけっこう説 明できるわけだが、やはり科学とは異なる規範性が問題になる。科学における われわれの(知覚に基づく)観察は、世界を表象し、世界によって矯正 されるもの (world-corrected)なものと考える。しかし、 倫理的信念は、事物のあり方ではなく、 事物のあるべき姿を問題にしているという意味で、 規範的であり、世界を矯正する(world-correcting) なものである。われわれが自分の倫理的信念に自信を持つとすれば、 それは世界による矯正の結果それを正しく持つにいたったからというのではなく、 それが、世界(行為や欲求や感情も含む)を矯正する適切な基準を体現している と考えるからである。
この考え方が正しいとすると、ムーアやハーマンの批判が力を持っているのは、 自然主義が倫理の規範性を説明するのが困難だということを指摘しているからだろう。 自然主義が規範性をどう説明するかについては、第13章のミルの議論で 再び検討される。
こだま(追記): 政治哲学で「なぜ法(国家)に従わなければならないか」 という問いが中心にあるように、「なぜ道徳的義務に従わなければならないか」 というところが説明しにくいということでしょうかねえ。
神学の話をするのでそれに引っかけて最初にちょっと説教sermonを。 第三章を読んでがっかりした人もいるかもしれない。 正しい理論を教えてもらえるものだとばかり思っていたら、 倫理的自然主義を支持する強力な議論を見たあとで、それを反駁する強力な 理由も見たので、この立場が正しいのかどうかわからなくなったからだ。
こだま: そうですよねえ。あいまいで、答えが出ませんよねえ、 哲学や倫理学の議論は。
しかし、この分野は複雑であるところがおもしろい一つの理由なのだ。 倫理的自然主義に批判があるからといって、 ただちにダメになるとは言えないのが倫理学の議論の特徴だ。 倫理的自然主義はどちらかと言えば、復活しつつあるとさえ言える。
こだま: そうですか。
それに、(第二章で見た)メタ倫理学の根本的問いは、 何らかの答えがあるはずなのである。 これから検討する理論か、あるいはそれ以外の理論のいずれかが、 正しいはずなのである。 結局のところ、さまざまな理論に関して、プロとコンを慎重に検討して 重み付けし、どの理論が総合的に見て最も支持されるかを判断する以外に道はない。 これは大変な作業だけれども、残りの人生をかけてやればいいんだから、 がんばれっ。説教終わり。
こだま: ダーウォル先生、残りの人生は他のことに使いたいんですが…。 それに、答が出るまではどうやって倫理的判断を下したらいいんですか…。
倫理的自然主義に代わる理論にはどのようなものがあるだろうか。 倫理的命題が自然的事実によって真にならないのであれば、 超自然的(supernatural)な領域に関わるのかもしれない。 ひょっとすると形而上学的自然主義は正しくなくて、 超自然的事実があり、倫理的事実はその一部と同一なのかもしれない。 この章では、そのような可能性の一つとして、 「倫理的事実は神の意志に関わる」という理論を見る。
こだま: 要するに、倫理的なものは、超自然的なものにかかわるという立場、 もっとわかりやすく言えば、倫理は宗教(神)なしには成り立たないという立場ですね。
自然主義的メタ倫理と同様、倫理的超自然主義も 還元的な形態と非還元的な形態を取り得る。 還元的な倫理的自然主義とは、 「倫理的性質や事実は、自然科学や社会科学の語彙あるいは他の常識的な記述的概念 によって特定できる自然的なものである」という見解であった。 たとえば、「価値があるとは、欲求されるということである」という理論が それである。 「欲求」の意味は、心理学的あるいは常識的に確立されており、 これは特に倫理的な語ではない。 そこで、この理論では、 遺伝子の特徴をDNA分子の一部の特徴に還元できるというのと 同じような感じで、善いという性質を、欲求されるという自然主義的性質に 還元されると言われる。 「善い」と「欲求の対象」という語はいずれも、自然における同一の性質に 言及している。ちょうど、遺伝子とDNA分子の一部がそうであるように。 非還元的倫理的自然主義によれば、 倫理的性質や事実は非倫理的語彙によって同定される性質や事実とは 異なるが、それでもそれらは自然的性質や事実である、とする立場である。
こだま: 第三章の復習ですね。
これと類比的に、還元主義的な倫理的超自然主義も、 「倫理的性質や事実は、倫理以外の理論や知識で用いられる言葉を用いることで 同定可能な性質や事実に還元できる」と論じようとする。 しかし、今回はその理論が自然主義的な科学ではなく、 神学のような超自然主義的な形而上学的理論なわけだ。 この章では神学的主意主義という一番有名な理論を 扱う。 神学的主意主義(神の命令説とも呼ばれる)によると、 倫理的性質は神の意志との関係を問題にする。
こだま: なるほど、他の学問分野の語彙で倫理的語彙を言い換え可能だという 立場が還元的な立場ですね。自然科学的な語彙で言い換えられるというのが 還元的な倫理的自然主義で、形而上学的な語彙で言い換えられるというのが 還元的な倫理的超自然主義だと。それにしても「超自然主義」というのは なんだかすごい名前ですね。文学の「超然主義」のような。
ただし、非還元的な自然主義があるように、 非還元的な倫理的超自然主義もある。 これは、還元的な倫理的超自然主義と同様に、 倫理的性質や事実が存在し、それは超自然主義的な領域に存在しているとする。 しかし、この立場では、倫理的性質や事実はsui generis(独特) であり、他の超自然的性質に還元することはできないとされる。 そこで、そうした倫理的性質や事実は 神学や形而上学や他の倫理学以外の学問で用いられている語彙によって 同定することはできないと言われる。 次の章では、このような立場の代表的なものとして、 理性的直観主義(rational intuitionism)を見る。 この立場は、非自然主義的な倫理的事実は理性にとっては自明であると 主張するのでこのように呼ばれる。
こだま: なるほど。段々枝分かれしてきましたね。うまく図になるかなあ。
神学的主意主義は、還元的自然主義の構造をいろいろな点で反映している。 だから同じような批判にもさらされている。 よくある還元的な自然主義的な戦略によれば、 価値の性質は評価の性質によって決定される (the nature of value is determined by the nature of valuation) という想定をまず行なう。 価値は評価されるという言い方で理解されるわけだ。 しかし、これが還元的な自然主義の立場となるためには、 われわれが価値とは何かを知らないような仕方で行なう評価を同定する必要がある。 たとえば、評価を欲求と同一視するという風に。
こだま: これは第三章でもあった循環の可能性を排除するという話ですね。 まず、倫理とは無関係な評価基準を探す。 たとえば(パンが食べたいなどの)欲求がそう。そして、 この欲求を善という風に同定するわけですね。
このような立場はすでに見たようにいくつか批判を受ける。
こだま: そうですねえ。いくら理想的な状況で患者が望むことが、 善いことだと言っても、理想的な状況によっぽど特別な意味をこめない限り、 ムーアの未決の問い論法が有効なように思えますからねえ。
神が存在するとして、また神の欲求は衝突を起こさないとすると、 先の(1)の反論は容易にかわせる。しかし、 それは特定の個人の場合にも起こりうることで、特別に優れた点ではない。 価値は人間の欲求を超えたところにある--神の欲求によって決定されるというのが 良いところだ。だから(2)とか(3)の反論にも応答できる。
こだま: なるほど。「善さ」を「人間の欲求」に基づかせないから、 あんまり当てにならない患者の欲求を超越したところにその患者の善があるなんて いう風に言うことができるようになるわけですね。 その患者が望もうと望むまいと、その患者にとってのbest interestがあるんだ、 そしてそれは神の御心によって決まっているんだと。
それに加えて、神学的主意主義はハーマンの「世界によって矯正される実証的観察」 と倫理的信念の発生の対比をうまく説明できる。 倫理的性質や事実が超自然的であるなら、 倫理的信念が自然との因果関係によって 説明できないのは当然なので。
こだま: ハーマンについては第二章を参照のこと。要するに、 倫理的信念は、普通の知覚経験と違って、 自然との因果関係によって引き起こされたとは容易には考えられないという話。
しかし、おそらく神学的主意主義の最大の長所は、 それが道徳の特徴的な性格を説明できるところだろう。 道徳はわれわれが不可避的に拘束されている法として われわれに立ち現れる。 何かをするのが不正だと言えば、それは単に道徳的に望ましくないとか 悪いとかいうだけではない。 不正なこととは、すべきでないことであり、 しないことに責任がある(accountable)なものである。 正当化の余地がない不正は罪を生み出す。 しかし、道徳は普通の法律や社会の慣習(mores of a society)とも異なる。 というのは、そういうものに対しては、われわれはつねに 「それに従うことが道徳的かどうか」と尋ねることができるからであり、 ときにそうではないと結論することもあるからだ。 たとえばアパルトヘイトが行なわれてい国では、 不道徳で抑圧的な法律を無視するか従わないことが道徳的だとされるかもしれない。
こだま: なるほど。この立場だと、道徳の法的性格、義務を課してくる性質、 拘束力を持って迫ってくるという性質をよく説明できるというわけですね。 なにしろ、神が命令してるんですからね。怖いわけです。
道徳が一種の法律であり、実際の人定のいずれの法律とも異なるというのは どういうことか。神学的主意主義だと、うまく答えられる。 道徳は超自然的な源泉を持つから、世俗的な法律とは異なる。 世俗の立法府や司法府によって作られたわけではなく、神の御心(意志)によって 作られている。というわけで、「不正である」という倫理的性質は、 神の意志に反しているという超自然的性質と同一ということになる。
こだま: なるほどねえ。ロックの理論がたしかこれですが、 神様を持ってくると、法的だけど現実の法とは違うという道徳の性質を うまく説明できるというわけですね。 しかしカントみたいに自己立法という道もありますけどね。
そこで、神学的主意主義の立場からすると、もし神がいないか、 または神がいても人間のことなんかぜんぜん気にしていないとすれば、 正も不正もないことになる。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のイワン が言うように、神がいなければ「何もかもが許されてしまう」ことになる。 実際には、神がいなければ、あらゆる行為は、道徳的に要求されているとも、 禁止されているとも、許されているとも言えなくなるだろう。
こだま: なるほどねえ。 神という装置を使うとおもしろい理論ができるわけですね。
重要な二つの前提。
「道徳は神の命令に存する」というのがメタ倫理学の理論としての神学的主意主義。 (1)は形而上学のテーゼであり、(2)は規範的倫理学のテーゼなので注意。 とくに、(2)を神学的主意主義と区別することが重要。というのは、 以下でみるように、 (2)は神学的主意主義とは両立しないメタ倫理の理論によって支持されうるから。
こだま: なるほど、fine distinctionsで学生にはわかりにくいでしょうね。
たとえば、神の命令に従うべきなのは、神が正しいことと正しくないことを 知っているからだと言う人がいるとしよう。 すると結局、この人は、神の命令からは独立に倫理的事実があり、 それが神の命令に権威を与えているという立場を取ることになるので、 神学的主意主義の立場を取っていないことになる。 言い換えると、神は倫理的事実について認識論的権威 (epistemic authority)を有しているだけであり、 神が命じたからあるものが善くなったり、 ある行為をすべきだったりするわけではなくなる。
こだま: なるほど。全知な神さまは倫理について情報通だというだけで、 神がその命令によって倫理(善悪、正・不正)を作ったわけではないというわけですね。 ついでに言うと、これと似た話が、 法律(人定法)は主権者の命令によって正当化されるのか、 あるいはそれが自然法を反映しているという事実によって正当化されるのか、 という法哲学の問題がありますね。
神の命令に従うべきなのは、彼が全知だからではなく、 彼が理想的な裁判官ないし助言者だからだと言う人がいるとしよう。 神は(1)われわれのこと(自然的事実)をすべて知っており、 (2)彼は博愛(omnibenevolent--万人の幸福に等しく配慮している)である がゆえに、理想的な助言者である、と。 この場合、神の命令に従うべきなのは、 理想的な裁判官なら助言するだろうことを われわれがなすべきであり、 かつ神が理想的な裁判官だからである。
こだま: なるほど。そうするとこれは神学的主意主義ではない、と続くわけですね。
そう、たしかにこれは神学的主意主義に似ているが、 第6章で詳しく見る理想的判断理論の一種である。 神学的主意主義は、神が存在していないとなりたたない理論で、 神がいなければ、道徳的義務はなくなる。 しかし、神を理想的裁判官として見る立場では、 理想的裁判官としての神がもしいたら何を命じるか、という風に考えるので、 実際には神がいなくても、また理想的裁判官がいなくても、 道徳的事実は存在することになる。 ちょうど、経済学理論における理想的な自由競争市場というのが実際になくっても、 そういう状況では何が起こるのかについての事実がなくならないのと同じである。
こだま: なるほどねえ。神学的主意主義と理想的判断理論は神を使っている点で よく似ているけれども、決定的に違うのは、 前者では神がいなかったら道徳的事実が存在しなくなるが、 後者ではそういうことは理論上は言わないというわけですね。 これもfine pointですねえ。学生はわかるかな。
あるいは、神の命令に従うべきなのは、神がわれわれを創造してくれたから、 それに感謝して従うべきなのだと言う人がいたとしよう。 これは先の二つのものに比べて、 神が命令したという事実によって、われわれがそれをなすべきことになるという 神学的主意主義の立場に近い。
こだま: なるほど。
しかし、この場合、「感謝を示さないことは不正である」という道徳的事実だけは、 神はその命令によって覆せないことになる。 すなわち、神の命令になぜ従うべきかと問われたときに、 われわれは創造主としての神に感謝すべきだからと答えるなら、 感謝の義務自体は神の命令とは独立に成り立っていなければならないことになる。 というわけで、この立場に立つ人も、神学的主意主義を否定していることになる。
こだま: これも細かいが重要なポイントですね。 社会契約論でそもそもなぜ契約(約束)に従うべきかというところが問題になるのと 同じですね。
また、神の意志とは独立の倫理的事実(感謝の義務)が存在することを認めると、 なぜそういう事実は一つしかなく、たくさんないのかを説明することが難しくなる。
こだま: そうですねえ。たしかに。
同様に、神の命令に従うべきなのは、彼がヒエラルキーの上位にいるからだと言う 人がいるかもしれない。ちょうど、軍曹と兵卒の関係のように。 軍曹が兵卒に10回腕立伏せをやれと命じると、 兵卒がそれをすべきことは真となり、軍曹がそれを命じなければ、 それは真にならない。 ある意味では軍曹の命令が兵卒が腕立て伏せを10回やるべきことを真にする と言える。神の場合も同じというわけだ。
こだま: あれ、これは一見して神の命令説そのものじゃないですか。 どう違うんでしょうか。
さて、軍隊のケースでは、 ヒエラルキー(権威の構造)がすでにあってこそ軍曹は先の命令によって 兵卒が腕立を10回やるべきことを真にできる。 すなわち、兵卒が軍曹の命令に従うべきことがすでに真である場合にかぎり、 上の具体的な命令が義務的になる。 そうでなければ、具体的な命令は義務的にはなりえない。
こだま: そうですねえ。
神の場合も同じことで、 神の命令に従うべきだという道徳的事実が、神の命令とは独立に存在することになる。 とすると、道徳的に義務であることと、神によって命令されていることは別のこと になる。 これは先の感謝の場合と同じ困難に陥る。
こだま: なるほど、そうですねえ。 とすると、 神の命令に従うべき義務を、神の命令によって基礎づけることはできなく なりますねえ。
神の命令説を批判する人々はしばしば、 神の命令説に立ってすべての倫理的事実が神の意志によるのだとすると、 神の善性ゆえに神の命令に従うべきだと考えることができなくなると指摘する。 しかし、たしかに神の愛の道徳的な善さという倫理的事実が 神の意志とは独立であるとしても、 道徳的義務や道徳的正・不正についての事実はすべて愛のある神に由来すると論じる ことができる。
こだま: 一つ前の話は義務(正・不正)の話で、今の話は善の話なんですね。 重要な論点ですが、ここではおいておきましょう。
神に従う上のすべての根拠を見ていくと、 倫理的事実は神の命令についての事実に還元できないことがわかる。 これは、神に従うことをわれわれが受け入れるためには、 何かさらなる正当化が必要であるということを前提として考えである。 倫理が神の命令についての事実に還元できると一貫して主張するためには、 正当化についての事実が、 まさに神の命令についての事実だと主張しなければならない。 すなわち、何かをすべき理由そのものが神の命令についての何かなので、 神に従うそれ以上の理由はありえないことになる。
こだま: ひええ、ダーウォル先生、むずかしいことを言いますねえ。 つまり、神の命令説に立つと、「神の命令になぜ従うべきか」 という問いに、「感謝すべきだから」とか「上位の者の命令だから」 というように答えると、神の意志とは独立の倫理的事実が発生してしまうので、 神の命令になぜ従うべきかという答えには、 それが神の命令だからという以上の答えはないということですか。
このような見解は、神が存在するかという形而上学的問題以外にも たくさん問題がある。 一つに、道徳的性質を事物の自然的特徴から切り離すのは無理がある。 たとえば、無実の者を拷問することが不正なのは、 拷問の性質やその帰結とは関係なく、神がそれを禁じているからということになるが、 それはもっともらしくないのではないか。
こだま: そうですねえ。倫理は単に「お父さんが言ったから」という話に なっちゃいますねえ。
神学的主意主義の最大の問題は、 自然主義、超自然主義を問わず還元主義一般に共通するものである。 すなわち、規範性である。 実際そうであることに関する事実が、そうあるべきことに関する真理と どう結びつくのか。開かれた問い論法はある意味ではここでも有効である。 二人の人は、神がアブラハムにイサクを殺すことを命じたことに関する事実に ついては完全に意見が一致し、しかし、アブラハムがこの命令に従うべき かどうかについては意見が一致しない(問いが開かれている) ということは十分にありうる。 アブラハムが何をなすべきかという倫理的問いを 神が何を命令しているかという形而上学的問いに還元することは困難である。 超自然主義的理論は、自然主義理論と同様の規範性の問題にぶつかる。
こだま: 若干わかりにくいですが、 ここでも事実と価値のギャップということになるわけですね。
こだま(さらに追記): ダーウォル先生も指摘している「倫理思想史」の文脈で 考えると、最後の批判は若干わかりにくいですね。 功利主義について考えてみます。世俗的な功利主義だと、 自然主義的な立場から倫理を基礎付けるわけですが、 どうしても功利原理の証明の問題が出てきてしまう。 すなわち、「何が『最大多数の最大幸福』を実際に達成するかについてはわかった。 しかし、なぜ『最大多数の最大幸福』を達成すべきなのか」 という事実と価値のギャップが容易には説明できないという問題が出てくる。 しかし、神学的功利主義では、ダーウォル先生も述べていたように、 上の問いに対して、「『最大多数の最大幸福』を達成することは、 神がわれわれに命令したことだからだ」と答えられるわけです。 その意味では、世俗功利主義に欠けている規範性を若干補強しているわけです。
こだま(上の続き): たしかにダーウォル先生がイサクの例で言っているように、 「神があることを命令した」という事実と、「それをすべきである」という規範 にはギャップがあるかもしれませんが、 宗教にコミットしている人なら、「神に命令されたことをすべきだ」 というのはほとんど概念的な真理だと思われるので、 上のような批判はナンセンスでしょう(とはいえ、ムーアもたしかこのような 批判を自然主義的誤謬のところでやっていたと思うので、要チェック)。 こういう立場を考えるさいに、現実的に問題にすべきなのは、 「神は本当に存在するのか」という形而上学的問題や、 「神の命令はどのように知られるのか」という認識論的問題の方であるように 思われます。もちろん、「なぜ命令に従うのか。たんに上位のものに言われた ことを盲目的に従うことは正しいのか。 もし神は倫理的に正しいことを命令するから従うのだと 言うなら、それは、神の命令と倫理的な正しさは概念的に同一ではなく、 倫理的に正しいことが神の命令とは独立にあるということを 意味するのではないか。そうすると、神が命令したから従うというのでは なくなるのではないか」というエウチュプロン問題もありますが。
倫理を神学やその他の超自然的な形而上学へと還元しよう試みることは、 還元的な倫理的自然主義に対してなされる根本的な反論と同じ反論に直面する。 両者ともに、話をすり替えているように思われるのだ。 神がなにかを命令しているかどうかと、われわれが何かをすべきかどうかというのは、 二つの異なる問いだと思われる。さきほどのアブラハムがイサクを…という 例を考えると、アブラハムが、「イサクを殺せ」という神の命令に従うべきか どうかという問いは、倫理的問題として残るように思われる。
こだま: 神学的主意主義では、義務は神の命令に還元されたわけですが、 「神に命じられていることを、われわれはなすべきなのか」 という問いは今だオープンだというわけですね。
このような批判は、倫理的自然主義にも当てはまることはすでに見た。 倫理や倫理的な問いは、神学に還元できないと思われるのと同様、 心理学や社会学や社会生物学にも還元できないように思われる。 しかし、こうした批判はいずれの理論に対しても決定的な批判ではないかもしれない。 ひょっとすると、倫理的な問いは神学的問いや科学的問いと異なるように 思われるだけで、 そういう見かけが誤っているかもしれないからだ。 ここで結論をするのはまだ早すぎる。
こだま: なるほど、われわれの実感によって地動説を否定することが誤っている のと同じように、われわれの実感というか、道徳現象の理解は必ずしも 正しいとはかぎらず、ひょっとすると倫理的自然主義や神学的主意主義の 説明の方が正しくて、われわれが道徳現象の理解を修正しないといけないかも しれないというわけですね。
しかし、仮に、倫理が還元できない種類のものであり、 また倫理的問いは自然的であれ形而上学的であれ、別の主題や学問の言葉へと 還元できないとしてみよう。 それでも第二章で見たメタ倫理のジレンマにぶつかる。 倫理的命題は文字通り真でありうるか、あるいはそうはありえないか、 という問題だ。 もし、文字通り真でありうると主張して、還元主義を取らないなら、 倫理的事実はどのようなものでありうるか。 また、倫理的命題が文字通り真であることはありえないと言うなら、 なぜわれわれがあたかもそのように考えたり感じたりするのかを説明しなければ ならない。 要するに、われわれは、われわれの形而上学を、 倫理的思考や経験の現象(phenomenology)と 調停させなければならない。
こだま: うんうん、そうですねえ。
仮にわれわれが、 倫理的思考と経験が持つ客観性への志向(objective purport) と呼んだものを真剣に受け止めるとしよう。 嗜好や選好と異なり、 倫理的確信は何か客観的なものについてだとわれわれには思われる。 病院の子供を戦略的な目的で拷問にかけ虐殺するのが不正であるのは、 われわれについての何らかの事実とは独立に真であるように 思われる。 たとえわれわれに見えようが見えまいが、信じようが信じまいが、 感情が動かされようが動かされまいが、 それが不正であるという事実がまるで「そこ」にあるかのように われわれには思われる。
こだま: うんうん、そうですねえ。科学的世界観や神学的世界観という 形而上学ではなく、われわれの倫理的思考や経験の方(現象)を重視すると そういうことになりますねえ。
このように、倫理的確信は、 独立で客観的な領域に存在する倫理的事実の知覚に似たものを含意しているように 思われる。 アナロジーとして、 物理的な事物の相対的なサイズに関する通常の感覚知覚を考えてみよう。 カレイ(flounder)はノミ(flea)より大きいことは、よく調べてみればわかる。 この事実は、われわれとは無関係に成り立つことは、すぐにわかることだし、 よく考えてみてもそうだろう。 仮にわれわれにはカレイよりもノミの方が大きいと見えたとしても、 やはりカレイはノミよりも大きいだろう。 このような事例では、 事物はわれわれとは独立に世界に一定の仕方で存在しており、 われわれはそうした事物を知覚できる、という風にわれわれは考えている。
こだま: カレイとノミよりも、ゾウとネズミの方が通じが良いかもしれませんね。 地動説なんかも、上と同じことを説明するのには役立つかもしれません。
さて、もし倫理が実証科学やその他のインフォーマルな自然主義的な記述理論に 還元できないとなると、倫理的な感覚経験なんてものはありえないだろう。 われわれが感覚(the senses)と呼ぶものは、 自然との因果関係を通じて経験を受けとるための自然的な器官(faculties) だからだ。しかし、それでも倫理的知覚のようなものはありうるかもしれない。 ある人が知恵があるとか倫理的洞察に優れているとわれわれが言うとき、 われわれはその人に対して、何が重要であるかわかり、何が道徳的義務であるかを 見る(目によってではないが)ことのできる能力があることを 認めているように思われる。 われわれ自身について考えてみても、 おべっかよりも友情の方が大切だという倫理的な真理を理解するようになったとき、 われわれはこの「経験」を、われわれに見えるようになった一種の洞察だと 考えるのではなかろうか。 それは、ある種の知覚として --事物がどのように自然において存するかという知覚ではなく、 事物がどのように倫理的に存するかという知覚として--立ち現れるように思われる。
こだま: 「正しいことか正しくないことかがわかった」とかいうのは、 たしかに「ある種の知覚を通じてわかった」という気がしますねえ。 もちろんそういう感覚器官はないんでしょうけど。
理性的直観主義(rational intuitionism) とは、このアナロジーを真剣に受け取った結果として生じる哲学的立場だ。 プラトン(427?-347BC)とか、 カルヴァン(1509-1679)の神学的主意主義とかホッブズ(1588-1679)の 世俗的主意主義に対抗する理論だとか、 はたまたムーアが進化論的生物学や心理学や経済学に倫理を還元しようとする 立場に対抗して作った理論だとかがあるが、 これらの理論はすべて、倫理学が還元不可能であると主張した。 ムーアが『倫理学原理』でスローガンとしたバトラー大主教の言葉で言えば、 「あらゆるものはそれそのものであり、それ以外のものではない」 (Everything is what it is and not another thing.)というわけだ。
こだま: なるほど。ここまでの図式は(倫理を他領域へと還元する)還元主義vs (倫理のsui generis性を強調する)理性的直観主義ということに なるわけですね。よくある話をわかりやすく説明してくれていますが、 学生にはピンと来るかなあ。
直観主義者にとっては、倫理的確信は、 倫理的事実の客観的秩序に対応するかどうかで真偽が決まる。 「子供を戦略的理由から拷問し虐殺するのは不正だ」というのが真であるのは、 われわれについての事実とは独立にそうなのである。 すなわち、われわれが別様に考えたり感じたりしようと、 それが不正だという倫理的事実は変わらないわけである。
こだま: 日本人全員が死刑制度は正しいと考えたとしても、 それは間違っていることに変わりはないとかですね。
理性的直観主義者は、自然的事実に関する真理とは対照的に、 倫理的真理は必然的のように思われるという点を重視する。 カレイがノミより大きいというのは偶然的(contingent)な真理 である。すなわち、そうでないこともありえたような真理である。 たとえば、別の進化を促す環境では、ノミがカレイよりも大きいような 世界もありえたかもしれない。 しかし、このようなことは倫理で起きるようには思われない。 いかなる世界を想像しても、子供を拷問して虐待することが正しくなるような 状況を想定することは困難である(もし想像できるなら、おそらくそれは 「拷問」や「虐殺」とは呼ばれないだろう)。 基本的な倫理的真理は、必然的(necessary)な真理であると 直観主義者は主張する。つまり、他の仕方ではありえないようなものである。
こだま: なるほど。 虐殺なんていうのは言葉の定義的にそうなんだろうという気がしますが、 たしかに言われる通りの気もしますねえ。
そういう意味では、倫理的真理は数学的真理と似ている。 「5たす7は12である」という命題が真であるのは、 世界のあり方とは独立であり、 数学的真理の知識はアプリオリ、 すなわち経験とは独立であるように思われる。 この真理の確立のために実証研究を行なうとすれば変な話であろう。
こだま: たしかにそうですねえ。
理性的直観主義者は、 基本的な倫理的事実も、理性的な洞察ないし直観によってアプリオリに知られる 必然的な真理であると考える。 たしかに子供の拷問や虐殺がどのようなものであるかは経験から知るのであるが、 そういった行動はつねに「不正である」という倫理的性質を 持つことを、 われわれは経験的にではなく事物の(必然的)関係を考えることを通して得るとされる。
数学的洞察力と同様、倫理的洞察力も等しく配分されているわけでは ないかもしれない。 一部の人は他の人よりも倫理についてより知覚が優れているかもしれない。 また、一部の人は倫理盲(ethical blindness)に等しい状態にあるかもしれない。
こだま: なるほど。倫理的事実を直観する洞察力には能力差がある というわけですね。わかるやつにはわかる、わからんやつにはわからん、と。
直観主義は倫理的思考や「経験」の現象を額面通りに受けとることから 生じる立場である。 倫理的確信はまさにそのような独立の客観的な倫理的秩序があるかのようにして 立ち現われる。直観主義者はそのような秩序をさらに説明することを拒むが、 それは説明しようとすれば、 (還元主義のように)話がすり替わってしまうという ちゃんとした理由があるからだと主張する。
こだま: なるほど。そうですねえ。 sui generisだから他の仕方では説明しようがないというわけですね。
しかし、どうもこの立場は暗闇で口笛を吹くようなもののように思われる。 形而上学的には、いかなる影響もなく省略可能であるような領域を 「あるものはある」と主張しているようなものではないか。 たとえば、形や質量(mass)のような基本的な自然的性質のない世界を考えてみると、 そのような世界では他の事柄も変わらざるをえないだろう。 質量がなければ重力もなく、形がなければ視運動(displacement)もないだろう。 しかし、価値や規範性がなくても、他の事物はそのままでありつづけるように 思われる。
こだま: まあそうですねえ。 プラトンのイデアのような、何か余計なものを想定しているという話ですね。
形而上学的自然主義者を含め、多くの哲学者はそのような 形而上学的にsui generisな性質や事実の領域があるということは 理解不可能だと考える。それについて説明できないという直観主義者の説明は わかるが、だからといって話がわかりやすくなったわけではない。
こだま: ここまでが形而上学的な問題で、次が認識論的な問題ですね。
認識論的には、理性的直観主義によればある種の知覚があるというが、 これは通常の知覚とは異なり、事物との自然的な因果関係によっては説明がつかない ものである。 わたしがノミとカレイを見て、ノミよりもカレイの方が大きいことを知るとき、 その視覚的な知覚は世界の実在的な特徴から生じる因果のプロセスの結果である。 しかし、倫理的事実がアプリオリで必然的な性格を持っているとすると、 そのような因果的プロセスから生じることはありえないことになる。 というのは、通常の知覚というのは偶然的な因果のプロセスだからであり、 ここで直観主義者のアナロジーは断絶することになる。
こだま: なるほど、むずかしいですがよくわかりました。 第二章のハーマンの話ですね。
最後に、当時の直観主義者を批判したヒュームが述べたように、 理性的直観主義では規範性と動機付け(意志)の関係について まったく説明が欠けてしまうように思われる。 倫理が還元できない大きな理由として、わたしは規範性の存在を挙げたが、 直観主義者を含めて多くの哲学者は規範性と動機付けのあいだには 必然的関係があると考える (内在主義internalismと呼ばれる)。 すなわち、ある人が何かをすべきだと自分自身で信じており、 しかもそう動機づけられていないことはありえないと考える。
しかし、直観主義ではなぜこの必然的関係(内在主義)が成り立っているのか 説明されていない。数学と同じ、純粋に知的な直観による知覚だとすれば、 なぜ意志が動かされるのか(動機付けが行なわれるのか)。
こだま: そうですねえ。なるほど。理性と意志の対立ですね。
たしかに倫理的な現象を額面通りに受け取るならば、直観主義はもっともらしいが、 倫理内在的な視点から一歩さがって哲学的に考えると、 もっともらしいとは思えなくなるのだ。
こだま: なるほど。一人称的にはその通りだが、三人称的には眉唾だと。
理性的直観主義では、純粋に知性的な知覚を通じて知られる、 還元不能で観察者-独立(observer-independent)で非-自然的な倫理的性質や事実の 領域が想定されていた。 これはたしかに倫理的思考の中心的な特徴を捉えてはいるんだけれども、 深刻な形而上学的および認識論的問題に直面した。 われわれの倫理的確信は客観的で還元不能な 倫理的事実に関するものとして立ち現れるんだけど、 その含意--すなわち、そういう倫理的事実の世界があって、 それを理性的な「直観」によって知るということ--をよくよく考えてみると、 どうも謎が多すぎるように思われる。 これまで検討してきた他の理論と同様、これが直観主義の決定的な批判になる わけではない。 しかし、まあ、他によりよい代替理論がないかを考えるべきだとは言える。
こだま: ここまで、倫理的性質や事実は自然科学が扱うような領域にある という説(倫理自然主義)と、 神さまがいまします超自然的領域にあるという説(神学的主意主義)と、 そのいずれでもなく、他の領域に還元不能なsui generisの倫理的領域に あるという説(理性的直観主義)が検討されました。 次は倫理的事実はわれわれの外にあるという立場ではなく、 内にあるという主観主義的立場ですね。
ここで、ヒュームの挑戦を思いだそう。 彼は、なんらかの倫理的性質を持つように思われるものを「あらゆる観点から」 検討し、その倫理的性質を持つ「事実(matter of fact)」を特定してみろ、 とわれわれに挑戦したわけだ。 「事実」という言葉で彼が意味したのは、 われわれが検討中の事物の自然的特徴のことで、 それには内在的(intrinsic)な特徴 (それをそのものたらしめているもの)と外在的(extrinsic) な特徴(そのものと他のものとの関係に関するもの)の両方を含んでいる。 ヒュームが出してきた事例は、われわれが「極悪」(vicious)という 倫理的性質があると認めるような、故意の殺人の例であった。 ヒュームによれば、われわれがどれだけ(殺人という)「対象」 の自然的性質に目を向けようとも、 (極悪という)倫理的性質はわれわれの手を「すりぬけてしまう」のであった。 われわれに見出すことができるのは、 その殺人を極悪なものにするような、 殺人の特徴(死を意図的に引き起こすなど)だけであり、 これは極悪という倫理的性質とは異なるのである。
こだま: なるほど。死を意図的に引き起こすというのは自然的事実であり、 この事実に同意している二人が、倫理的性質(判断)に関しては不一致だ ということも考えられますからね。
ここまでの話は、前の章でみた、倫理と倫理的性質を還元不能だとする主張の 一種だと言える。 しかし、ヒュームは彼が「対象(object)」と呼ぶものの自然的特徴に 限定して議論していることに注意されたい。 彼が続けて言うには、 われわれが殺人の極悪さを見つけられる唯一の場所は、 倫理的観察者としてのわれわれの内であり、 すなわち否認(disapproval)という反応の中にそれが見つかるのである。 これはたしかに自然的性質なんだけれども、 対象の特徴ではないわけだ。 しかし、ちょっと待てよ、と思う人もいるかもしれない。 否認というのは殺人が極悪であることに対する反応 なんであって、それ自体が倫理的性質であるわけではないのではないかと。 すなわち、殺人を(道徳的に)否認するとき、 われわれは(否認の対象である)殺人が極悪であると考えるから否認するのであって、 われわれの否認そのものが倫理的性質を持っているわけではないんじゃないかと。
こだま: なるほど、 われわれの道徳的判断(是認や否認)を担保する外的な対象や基準を 探していたはずなのに、道徳的判断そのものこそが 倫理的事実なんだと言われても困るというわけですね。
理性的直観主義の強みは、倫理的反応や確信の客観性への志向を 説明できるということであった。 すなわち、 倫理的な反応は客観的な(倫理的)特徴についてのものとして われわれに立ち現れるという点をよく説明できた。 さらに、ヒュームの挑戦の背後にある思考もよく説明できる。 もし倫理的性質が還元不能で、観察者-独立で、非-自然的なものだとすると、 対象の自然的特徴のいずれが倫理的性質と同一視されるべきなのかという ヒュームの挑戦はたしかに答えられないものである。 また、「超自然的」なバージョンでも同じことになる。 すなわち、もし倫理的性質が、神に命じられたというような超自然的な特徴 には還元できないとすると、 倫理的性質はこれらの特徴と同一ということはありえないことになる。 (というわけで、理性的直観主義はヒュームの挑戦に対する一つの有効な 答えになりうるの)だが、 理性的直観主義は形而上学的にも認識論的にも問題が多いので、 ヒュームの挑戦の背後にある洞察と客観性への志向の二つを説明できるような、 しかも理性的直観主義よりも問題の少ない理論がないかどうかを探してみたい わけである。
こだま: なんだかまわりくどいですが、要するに、 「倫理は客観的に思える」という考え(スキュラ)と、 「対象の側をいくら探しても、倫理的事実は見つからない」 という考え(カリブディス)のあいだをどうにか通り抜ける道を見つけたいわけですね。 それで、直観主義はそういう答の一つだけれども、 どうもあっちの世界に逝っていてもっともらしくない、と。
理想的判断理論(the ideal judgment theory)はまさに このような挑戦に答えようとする。 この理論は、ヒュームの洞察に対しては、 たしかに倫理的性質は、倫理的判断の対象の特徴のいずれとも同一視できない という風に同意する。 たしかに、わたしが同僚の授業を「立派だ」と言うとき、 彼女の授業のさまざまな特徴(学生の努力を引き出すなど)を見て、 それらを「立派だ」と判断するさいの理由と考える。 しかし、わたしの評価の対象が持つ特徴というのは、 わたしが「立派だ」と評価することによってそれに与える性質(「立派さ」)とは 同じではない。
こだま: むずかしいですけど、たしかにそうですねえ。 ダーウォル先生のいつもの言い方をすれば、 対象が持つadmirable-makingな特徴は、admirablenessという性質と同一ではない、 ということになるでしょうか。
とすると、この倫理的性質はいったい何なのか。 理性的直観主義者はそれはsui generisであり、 観察者や倫理的判断のプロセスが持ついかなる特徴とも完全に独立のものである と主張した。 もう一方の極端には、ヒュームが上の引用のあとに続けて述べたことから 示唆される主観主義の立場がある。 これは、観察者が対象に帰属させる倫理的性質は、 観察者によって好ましく考えられているという性質に他ならないとする立場である。 どっちも極端だというのが、普通の人の反応だろう。
理性的直観主義も主観主義もどっちも極端だという反応をする人にとっては、 理想的判断理論は魅力的な妥協案のように思えるだろう。 かりに倫理的判断を一つのプロセスだと考えることにしてみよう。 このプロセスにおいては、 評価あるいは判断の対象の諸特徴がインプットであり、 倫理的判断(倫理的性質の帰属)がアウトプットである。 このプロセスを理解するための三つのモデルを考えてみよう。
主観主義によると、 倫理的性質とは観察者の判断や反応の特徴のことである。 わたしが殺人(対象)を極悪だと判断するとき、 わたしが殺人に帰属させる倫理的性質は、 わたしがその殺人について考える内容である。 倫理的判断のモデルとしては、 これではアウトプットがあまりにインプットないし評価プロセスから独立している ことになる。 わたしが殺人に極悪さという性質を帰せるとき、 わたしが主張しているのは、 単にわたしが怒りを感じているということだけではなく、 この殺人(インプット)を注意深く検討し正しく評価すればこの反応は 正当化されるだろうということでもある。 主観主義だと、わたしの評価的反応が現実にどうであるかということと、 対象がその反応を担保(warrant)するような種類のものである ということの対照が欠けてしまう。
こだま: なるほど、 「インプット(殺人)→評価するというプロセス→ アウトプット(「不正だ」という判断)」という図式で考えるというわけですね。 その場合、主観主義だと、 アウトプットである倫理的判断の正しさをインプットに照らして検討する ということができないとういわけですね。
こだま: このインプット・アウトプットというのは図にしやすそうですね。 案外難しいかな?
直観主義だと、 倫理的判断というのは、 対象の倫理的性質をよく見える位置に持ってきさえすれば、 その性質はある種の知覚によって把握されることになる。 といっても、倫理的性質はそれだけでは存在せず、 他の倫理的にする(ethical-making)性質のおかげで 存在するため、 倫理的知覚のためにはまず事物の他の特徴をいくらか理解する必要がある(インプット)。 たとえば、殺人が極悪だという知覚のためには、 その行為が理由なく生命を意図的に奪いさるものであるなどの特徴を 理解することが必要である。 だが、倫理的判断というアウトプットは、直観主義によれば、 (インプットである事物の特徴と必然的に結びついてはいるがインプットでは 存在しなかった)倫理的性質の知覚であり、 インプットとは別個のものである。 問題は、この必然的に結びついてはいるが元々はなかった性質と、 その知覚とはどういうものなのかということであり、 それがインプットとどう結びついているのかということである。
こだま: なるほど。
主観主義のモデルの場合と違い、 直観主義では、 判断者がある対象が倫理的性質を持つと思われるということと、 それが実際にそのような倫理的性質を持っているということが区別されている。 そこで、判断者の判断が正しいかどうかは、 実際に対象がそのような性質を持っているかどうかを調べることによってわかる ことになる(直観主義だとこれが難しいわけだが)。
こだま: なるほど、主観主義だと、現象と現実が乖離していない、 すなわち、対象が持つ倫理的性質は観察者の是認によって与えられるため、 「本当にその対象はその倫理的性質を持つのか」という問いは、 少なくともその観察者にとっては意味をもたなくなるわけですね。 言いかえると、直観主義だと自分の倫理的判断を担保するものが (原理的には)外部にあるのに対し、主観主義だと、それがない、 つまり現象と現実がくっついてしまっているわけですね。
直観主義の立場では、 倫理的判断の基準は外的に決まることになる。 倫理的事実は、いわば独立変数であり、 どの倫理的判断の手続が理想的あるいは信頼がおけるかを決めるわけである。 ちょうど、見るのが困難な視覚的現象を見る「正しい」方法は、 何にしろそれを見ることができるような方法であるのと同様に、 直観主義によれば、正しい形の倫理的熟慮とか反省の方法は、 何にしろ倫理的性質や事実を見ることができるような方法なのである。 しかし、視覚のアナロジーを倫理の場合に敷衍することは、 解決が困難な形而上学的・認識論的問題をもたらすことはすでに見たとおりである。
こだま: 見るのが困難な視覚的現象って、たぶん天体の現象を指してるん でしょうけど、まあ顕微鏡を使うとか、そういうのでもいいのかな。
こだま: この路線で(ロックの)二次性質のアイディアを使うのがウィギンズとか マクダウェルとかの方向なのかなあ。
理想的判断理論は、直観主義の構図を逆転させる。 この理論によれば、理想的な倫理的判断こそが独立変数であり、 倫理的真理とは、この判断から生じる意見(アウトプット)によって 構成されるものである。 したがって、判断の基準は内的に得られるもの、 すなわち倫理的判断という考えそのものから生じるものであることになる。
こだま: なるほど、主観主義から一歩すすんで、「理想的な倫理的判断」 というのを作り、それを個々の倫理的判断のよしあしの基準にするという わけですね。そうすると直観主義のように基準を外部に求めるのではなく、 内部に求めることになる、と。 しかし、そうするとこの理想的な倫理的判断とはどういうものか、 というのが問題になりますね。それが次ですね。
具体的な倫理的判断については意見が不一致している人でも、 優れた倫理的判断が持つべき性質については、かなり一致するものである。 たとえば、倫理的判断のよしあしは、判断されるべき事柄(対象ないしインプット) について、判断者がどのくらいよく知っているか(informed)によって 左右されるというのは、議論の余地がない。
そのような知識の一部は、事実についての知識であろう。 しかし、それだけでなく、 人々がその事実を経験したらどのように影響を受けるかについての、 非命題的な、経験に基づく知識(experientially based knowledge) というのもある。 たとえば、同僚の授業の例で言えば、 授業が学生の技術や能力にどのように影響を与えるかというのが 前者の事実についての知識であり、 同僚の教え方が学生にはどのように経験されているのか、 またその教え方によって培われる知的な交流がどのようなものか、 というのが後者の経験に基づく知識である。
こだま: この区別はわかりにくいですが、言葉にできず、 共感によってしか知られえないような体験とか経験というのもインプットとして 重要だということですか。
このように倫理的判断は十分な情報に基づいていたりいなかったりするわけだが、 いくらよく情報に基づいていたとしても、 他の無関係な影響によって判断が歪んでしまうことがある。 たとえば、 同僚の授業の仕方を評価するさいに、わたしは彼女の成功についての嫉妬だとか、 怒りだとか、友人としての好意的な感情だとか、 彼女よりも自分が高く評価されないと困るというような自己利益的な欲求だとか に影響を受けるかもしれない。 こういう問題に対処するために、 「倫理的判断は、それが冷静である(dispassionate)かぎり において、信頼に足る」とわれわれは言うかもしれない。 これは、倫理的判断がやたらと冷たくなければならないというのではなく、 評価の対象となるもの以外に向けられた感情によって影響を受けては ならないということである。
なるほどねえ。対象そのものに関する評価とは無関係な、 余計なバイアスをとりのぞけということですか。
最後に、倫理的判断は公平でなければならないと言われる。 すなわち、ある人々の利益や心配に一定の重みを与えるなら、 何か重要な違いがないかぎり、 他の人々の同様の利益や心配に対しても同じだけの重みを与えなければならない、 ということである。
というわけで、かりに理想的な倫理的判断とは完全に情報が得られていて、 冷静で、公平なものであるということにしよう。 これらの条件が、上で述べた(インプット→アウトプットという)倫理的判断の プロセスに対する制約になるとしよう。 さらに、このような理想的判断の条件によって、 このプロセスから出てくるアウトプットが一義的に決まるとしよう。 すると、 このような理想的判断者がなす判断と自分の倫理的判断が一致する場合に、 倫理的判断は真ということができることになる。
こだま: なるほどねえ。こういうプロセス(手続)の良さによって その良さが保証された理想的倫理的判断を用いて、 各々の倫理的判断の真偽を決めるというわけですね。
この立場の最も明白な問題は、 理想的な考慮のあり方に関してこのように手続的な制約をかけても、 アウトプットである判断は一義的には決まらないという点。 まず、文化的背景によって理想的な判断が変わる可能性がある。 たとえば、マッチョな理想を追求している文化の人と、 和を尊び右の頬を殴られたら左の頬も出すような文化の人が、 侮蔑に対してどのように判断すべきかを尋ねられた場合、 二人とも、自分や集団の利益に左右されず、 無関係な感情にも動かされず、 その事例に関する情報も十分に備えていたとしても、 別の答えをするかもしれない。 となると、倫理的判断の文化的文脈に相対的に、 それぞれの答は真ということになるかもしれない。
しかし、 そのような文化的背景はイデオロギーの所産かもしれない、 と批判されるかもしれない。 社会状況に関する適切な批判を行なったあとで、 もう一度理想的状況に立つならば、 人間だったらみな同じ倫理的判断を持つのかもしれない。
しかし、この人間本性というのも偶然的なものではないか。 たとえば、子供の拷問や殺戮が不正だというのは、 人間が偶然持つ共感という能力に依存するのだろうか。 むしろ、そういう能力とは独立に、 互恵性の規則を破っているから(自分になされたくないことを他人になしているから) 不正だと考えられるのではないか。
こだま: つまり、観察者理論だと、文化相対的、 種相対的になってしまうという批判ですね。 文化的なバイアス、種的バイアスが取り除けないがために、 相対主義に陥いる可能性があると。 以下でみるカントの理論はこの相対性を克服しようとしたというわけですね。
上のは理想的観察者理論とか 公平な観察者理論と呼ばれてきたもので、 第三者視点から見るもの。 これとは別に、実践的視点から、 つまり何をすべきか熟慮している行為者 (一人称)の視点から見た理論がある。 これについてはカントのところ(15章)で詳しくやる。
カントのは、熟慮する行為者が守るべき普遍的ルールを明らかにすることにより、 観察者理論に内在する偶然性を排除しようとするもの。 彼の理論は理想的実践的判断理論(ないし理想的行為者理論)と呼べる。
第3章から第6章までの4章で見てきたアプローチは、 倫理的思考や感情の客観性志向をなんらかの形で 説明しようとしていた。 しかし、こうしたアプローチはそれぞれ大きな問題にぶつかるので、 「倫理的信念を本気で抱いている人にとってはその信念は真である ように思えるが、このような見え方(現象)は幻想である」 という可能性を考える必要がある。 この可能性を最も真剣に考える立場が、ニヒリズム、 別名錯誤理論である。 錯誤理論によると、すべての倫理的信念は偽である(誤っている)。
こだま: なるほど。現象をうまく説明する理論はなく、 それゆえ、その現象に対応する現実は存在しない、と言い切ってしまう いさぎよい理論なわけですね。
こだま(追記): そうすると、 たとえば、「われわれは、次の真理を自明なものと認める。す べての人は平等に創られていること。彼らは、その創造者によって、一定の譲 るべからざる権利を与えられていること。それらの中には、生命、自由および 幸福の追求が数えられること。」なんていうアメリカ独立宣言の言葉は、 建国の父たちにとっては、真に見えたけれども、実際は幻想にすぎず、 あるいは実際はこの主張は偽であるわけですね。
錯誤理論は、ヒュームが描写したように、 倫理的判断はその対象に対して、その自然的特徴とは別個に倫理的性質を 帰属させるという点には同意する。 しかし、それに続けて、現実にはそのような倫理的性質は存在しないので、 倫理的判断はつねに偽(誤っている)と主張する。
こだま: なるほど。すでに何度か言われてきたことなのでよくわかりますが、 どういう含意があるのか、もう少し詳しくお願いします。
こだま(追記): なるほど。「かくかくしかじかの殺人は残酷だ」と言ったとき、 その殺人に残酷さという性質があることを主張するというのは (現象の記述として)そのとおりだと。しかし、現実にはそのような性質は 存在しないので、その言明は誤っているというわけですね。
こだま(追記):「事実と意見は明確な境界線によって区別されるわけではない。 それはスペクトル(連続体)である。 その一端には「二足す二は四」があり、 他端には「社会保障制度は民営化されるべきだ」がある。 「飛行機を乗っ取りペンタゴンに突っ込ませるのは悪いことだ」というのは、 意見というよりは事実に近い」なんてことを言う人がいますが、 これも誤りなんですね。そんな事実はないんですね。
錯誤理論によれば、われわれは倫理的判断をするさい、 世界に倫理的性質を投影(project)する。 たとえば、故意の殺人について考えるとき、 われわれは憤概という反応をするかもしれない。 この反応はわれわれの内面で生じるが、 われわれはその反応を客体化(objectify)ないし 実体化(reify)して、 世界の側にある倫理的性質(殺人の憤概を引き起こす性質、極悪さなど)として 考える傾向がある。 その結果、 われわれは自分の反応は、その反応とは独立の、ある性質を認識した結果生じる ものだと考える(ちょうど物の形について視覚的に経験する場合のように)。
こだま: なるほどねえ。もっともらしい説明ですね。 ノーノンセンスな自然科学者には受けそうな説明です。
こだま(追記): ヒュームが言いそうなことですね。 projectionとかobjectifyというのは重要なので、 よく説明しないといけません。 あたかも、プロジェクタで投影された絵やスライドが、 その壁に実際に書き込まれたものだと考えるようなものだと。
こだま(追記): 次からすでにこの理論の問題点に入っています。
錯誤理論はかなりラディカルな含意を持っている。 すべての倫理的判断は偽であると信じながら、 倫理的な議論や実践に真剣に取り組むということがどうやってできるのか。 ニヒリストと呼ばれる人(実存主義者を含む)は、 その通り、できません、と答える。 彼らは、倫理的思考は、現実が(一人称的)現象とは異なるという事実によって 掘り崩されると考える。 一方、別の種類の錯誤論者は、 この結論を受け入れず、錯誤理論は第二階のメタ倫理的理論であり、 第一階の倫理的思考や信念とは必ずしも衝突しないと主張する。 彼らによれば、価値や義務はメタ倫理的には存在しないが、 それでも実質的な規範倫理的な見解を主張することはできるとされる。
こだま: なるほど、前の立場は実存主義で、後者はマッキー的な理論ですかね。 マッキーの議論の詳細は忘れてしまいましたが。
こだま(追記): 第一階と第二階で住み分けをするというのは、 一見もっともらしいですが、そんなこと実際にできるの、 というのがダーウォル先生の以下の批判になります。
しかし、メタ倫理と規範倫理をこのように分離することはできるんかいな。 端的に言って、故意の殺人は極悪であると信じながら、 「故意の殺人は極悪である」というのは偽であると信じることはどうやって できるのか。この二つの信念を一緒に抱くことが可能かどうか、 ではなく、そうすることが合理的でありうるかについて考えてみるだけでよい。
こだま: たしかに、どうもうまく行きそうにないですね、ダーウォル先生。
こだま(追記): 「すべての人は平等に創られていることが自明の真理である」 と信じつつ、そのような発言はすべて誤っていると信じることは、 合理的ではないというわけですね。
もうちょっと説明すると、 第8章で検討される非認知主義とは違い、 錯誤理論によれば、倫理的確信は純然たる信念である。 ところで、信念というのは、その性質からして、真理によって規制を受ける。 すなわち、信念というのが他の心的状態、 たとえば仮定(supposition)や偽り(pretense)や欲求(desire)と異なるのは、 それが真理によって規制されるということである。 たとえば、 自分が偽であると知っていることを仮に真であると仮定したり、 それが真であると偽ってみたり、 それが真である(真だったらいいなあ)と欲求したりすることは、 合理的に行ないうる。 しかし、自分が偽であると知っていることを真であると 合理的に信じることはできない。だから、 錯誤理論を信じつつ、倫理的確信も持ち続けることは、 合理的に行なうことはできない。 もちろん、 倫理的思考や確信が誤って客体化していると考えられる錯覚的な反応を、 引き続き抱くことは可能である。 それは、池にささっているまっすぐな棒が曲がっているように見えるのは、 錯覚だと知っていても、 引き続きそのように見えるのと同じである。 しかし、 棒が曲がっているのは錯覚にすぎないと考えつつ、 棒が本当に曲がっていると引き続き信じることが合理的にはできないのと同様、 何かが価値を持っているとか正しいと信じながら、 その信念が偽であると合理的に信じることはできない。
こだま: 現実には棒がまっすぐであることは疑いない と信じつつ、水の中では曲がって見えるという現象を額面通り 受けとることはできない、と。同じように、現実には 倫理的信念が客観的でないことは確かであると信じつつ、 倫理的信念が客観的に見えるという現象をそのまま 額面通りに受けとることはできない、というわけですね。 まあその通りだと思われます。
こだま(追記): なるほど、錯誤理論は、倫理的判断を真偽を問える信念として 扱っているのだから、「実際は倫理的判断はすべて根拠がない(がゆえに真に なりえない)」と考えつつ、倫理的判断を真なるものとして主張したり考えた りすることはできないというんですね。 これが仮定ならば、「実際は倫理的判断はすべて根拠がないが、 まあ仮に真であるものとして語ってみよう」ということになるけれども、 信念についてはそうはならない、すなわち、 偽であることわかっていることを真として信じるというのは 無理だというわけですね。
こだま(追記): ひつこくもうちょっと考えますが、 どうも、マッキー的な一階と二階の住み分け理論だと、 「理論上は、対象に倫理的性質があると述べる倫理的判断はすべて誤っている けれども、実際上はその理論を知りつつ、そのような倫理的判断を行なうこと は問題がない」と言うわけですね。 これは、マッキー的な立場の人に言わせてみると、 「それは理論上は、水の中の棒が曲がってみえるのは錯覚に過ぎないんだけれ ども、実際上は、その理論を知っていても、やはり水の中の棒が曲がっている ように見えるというのと同じだ」と言うかもしれませんね。 しかし、ダーウォル先生は、「見えるというのと信じるというのは違うでしょ う。理論上は水の中の棒が曲がって見えるのは錯覚に過ぎないと信じている人 は、実際にそう見えたとしても、 やはりそれが本当に曲がっているとは考えなくなるわけでしょう」 というわけですね。ちょうど、プロジェクタによって映された映像を 見ている人が、そこに何かが現実にあるように見えても、 実際には白いスクリーンしかないことを知っているように。
こだま(追記): お化けで説明するといいかもしれませんね。
とはいえ、これで錯誤理論が誤っていることが示されたわけではない。 重要な点は、錯誤理論が誤っていないとすれば、 われわれの倫理的思考や実践は深刻な誤ちを犯しているように 思われるということである。 錯誤理論が正しいなら、 価値や善悪、正・不正について合理的に信念を抱くことができなくなるし、 これらの信念を前提としているように思われる実践 --たとえばみなに道徳的に責任があると考えることなど--を合理的に行なうことも できなくなる。
こだま:マッキー的な立場はおいておくとしても、 もう倫理的発言や行為は(虚偽が含まれているとわかっているので) 今まで同様にはできなくなるというわけですね。
こだま(追記): それは、おばけが現実には存在しないとはっきりわかったら、 肝だめしなんていうのは馬鹿げた遊びになるというのと同じですね。 妖精がいないとしったら、それを信じていたときとは同じように行為できなく なるとか。
こだま(さらに追記): つまり、 錯誤理論を真剣に信じるとすれば、倫理は客観的なものではなくなってしまうので、 われわれはそれに応じて現象をある程度現実に即して変化させる必要が出てくると。 もちろん、ものを見る場合における錯覚などは、因果的に引き起こされているので、 現象をどうこう変更することはできませんが、倫理の場合は、お化けがいるかいないか という信念次第で行動が変わるのと同じで、 現象(実感)が間違っていると知ったら、ある程度行動の変化が可能ですからね。
ひょっとすると、倫理的思考や確信は、 それが意図しているほど客観的な妥当性は持てないのかもしれない。 おそらく、倫理的命題は判断の文脈(the context of judgment) に相対的にしか妥当性を持てないのかもしれない。 この可能性を主張する立場を倫理的相対主義と呼ぶことにする。 倫理的相対主義によれば、 一見して衝突する倫理的判断は、 異なる文脈(相異なる文化的立場、相異なる根本的信念を抱いている人など) でなされているなら、両方とも正しい場合があるとされる。 たとえば、マッチョ文化の人と調和を重んじる文化の人について考えてみよう。 二人がそれぞれの文化で流布している価値観を受けいれているとして、 誰かに侮蔑されたときにどうすべきかを検討するなら、 彼らは異なる意見を出すだろう。 倫理的相対主義によれば、二人とも正しいということがありうることになる。
こだま: なるほど、相対主義では判断の背景となる文脈が重視されるわけで すね。
こだま(追記): 相対主義は一見もっともらしい説ですが、しかし、 以下でみるように、 この「判断の文脈」というのが何なのかが問題なわけですね。
リンゴとオレンジ(という違うもの)を比較するのを避けるために、 二人が同じ状況について 検討していることを確めなければならない。 そこで、 どういう社会的文脈で侮蔑が生じているのか、尋ねる必要がある。 上の二人の判断者は、マッチョ文化においてなされた侮蔑にどう反応するか について尋ねられているのか、 あるいは、反マッチョ文化においてなされた侮蔑にどう反応するかについて 尋ねられているのか。 (判断の文脈が重要なので)詳細が重要である。さもなければ、 二人の判断は、異なる事物についての判断になってしまいかねない。 そこで、評価の対象についての文脈(context of the evaluated object)と、判断の文脈(context of judgment) を区別する必要がある。 倫理的相対主義によれば、 同一の対象について文脈(objectual context) についての二つの異なる倫理的判断は、 それらが異なる判断の文脈(judgment contexts) からなされているならば、両方とも等しく妥当でありうるとされる。 そこで、 上の二人の判断者は、それぞれの判断の文脈において、 対象に関する同じ文脈--この場合、 誰かがマッチョ文化で侮蔑されたら どう行為すべきか--について検討しているものと想定されなければならない。
こだま: なるほど、難しいことを言われましたが、 とにかく、別々の対象についてではなく、 同じ対象について異なる視点から判断した場合を想定しないといけない わけですね。
こだま(さらに追記): なるほど、評価の対象についての文脈というのは、 某『臨床倫理学』の四分割表の話で行けば、「周囲の状況」ってやつですね。 周囲の状況が変われば、倫理的判断も変わるというのは、 ちっとも相対主義ではないということですね。 すると、社会学の人に、 「倫理学は文脈を無視して、普遍的なことを言おうとする」と言われたら、 このように反論すればいいんですね。すなわち、 別に文脈を無視しているわけではなく、同じ文脈であれば、 同じ判断を下すと言っているだけだと。
また、倫理的な問いを、文化人類学的な問い(その状況について、 マッチョな文化の規範は(現に)何を指令しているか)とか、 心理学的な問い(二人の判断者はそれぞれどのような規範を(現に)支持しているか) から区別しないといけない。 われわれが判断者に尋ねているのは、 侮蔑には男らしく対応することが規範となっているような状況において、 ある人がどう行為すべきかということである。 この倫理的問いを考えるうえで、 文化人類学的な事実や心理学的な事実は、 対象についての文脈の一部として想定されている。 そこで、たとえば、マッチョ文化の視点から判断する判断者が、 マッチョ文化が指令するような男らしい振舞いを指示するものとしよう。 彼は、「侮蔑に対しては侮蔑し返すことで対応すべきだ」と言う。 それに対して、反マッチョ文化の判断者は、 「マッチョ文化において侮蔑を受けたとしても、 反撃すべきではない。それは、攻撃的でない反応の方がそれ自体として望ましいし、 また結果的により攻撃的でない文化をもたらすのに役立つから」 と逆の判断を下すとする。
こだま:なるほど。そういう状況におかれたら、彼はどう行為するだろうか という推測ではなく、彼はどう行為すべきか、という当為がここで 問題になっているというわけですね。
こだま(追記): あるいは、(心理学的、社会学的等の)説明と、 倫理的正当化の違いとして述べるといいかもしれません。 毎年一定数の自殺者や交通事故死亡者が出るのは社会学に説明できたとしても、 人々は自殺をすべきかなどの問いはそれとは別だ、という風に。
倫理的相対主義によれば、この二つの異なる判断は、 それぞれの判断の文脈に相対的に妥当であるため、 等しく真ないし妥当でありうる。 しかし、このような主張はどういう含意を持つだろうか。
こだま:「わたしの立場ではそれが正しく、 あなたの立場ではそれが正しくない。それでいいじゃないか」 というような人ですね、相対主義者とは。
このような意味での倫理的相対主義者であると自称する人はたくさんいる。 しかし、話をしてみると、 実際には彼らは倫理的相対主義ではなく、彼らが区別しそこねている別の立場 であることがわかる場合が多い。 次の節では、そのような、相対主義ではないがそれとよく混同される立場の いくつかについて論じる。
こだま:なるほど。
ところで、なぜこれほど多くの人が倫理的相対主義を信じているのか。 一つの理由は、相対主義の立場を他の立場と混同しやすいということだろう。 しかし、もっと重要なのは、 人々が相対主義を主張するのは、論争を避けようとする戦略だということだ。 倫理的思考や議論が難しくなってくると、 理にかなった意見の不一致は認めるという習慣が要請され、 どちらの立場もそれぞれの判断の文脈に相対的に正しいと考えることが 衝突を避ける便利なやり方であるように思われるのだろう。
こだま:なるほど、なぜ人々が相対主義者となるのかと言えば、 人工妊娠中絶の問題のように、答が難しい問いについて、 それ以上議論を避けるための生活の知恵だというわけですね。 しかし、相対主義が本当の意味で正しいのかどうかは、まだ問題だと。
上で行なった二つの区別について確認しておこう。 第一に、倫理的相対主義は、 「あるものが持つ倫理的性質は、そのものの特徴 (対象に関する文脈が持つ特徴)に左右される」 という見解とは異なる。 「ある人がすべきことは、その人(行為者)がその内にいる文化の主要な規範によって 完全に決定される」という見解さえ、 われわれが定義した倫理的相対主義とは異なる。 「この状況が生じるさい、(それが生じる文脈である)文化の主要な規範によって、 何が要求されるか」という問いに一義的な答があるとした場合、 そのような見解は、いかなる状況に関しても、 その状況において人が何をすべきかについて、 非相対的な事実をも決定するだろう。 そしてこれは、判断の文脈が持つ特徴とは完全に独立した 倫理的事実なのである。 また、もし二人の人が、その状況におかれた人が何をすべきなのかについて 意見が一致しないとしたら、上の見解によれば、 この二人のいずれかが(もしいずれかが正しいとすれば)正しいかも決まることになる。 もっと言えば、これは、 二人のそれぞれの判断がなされる立場に関するいかなる事柄からも 独立であることになるだろう。
こだま: ダーウォル先生、言葉を重ねていますがこれはよくわかりませんよ。 要するに、「倫理的性質は、判断の対象となる事柄が持つ文脈によって決まる」 という見解は、「判断する人の立場に相対的に判断の真偽が変わる」 という見解とは違って、一義的に答が出るので、相対主義とは言えない、 ということですね。これでもまだわかりにくいですが。
第二に、倫理的相対主義は、 文化間あるいは文化内における倫理的信念が実際にどう違うかに関する いかなる仮説とも異なる。 もしかすると、 倫理的相対主義が真であるかどうかがおもしろい問いとなるのは、 たとえすべての非倫理的な意見の不一致が解消された場合でも 倫理的信念の根本的な相違が解消されない場合に限られるのかもしれない。 しかし、そのような根本的な相違があるのかどうかというのは、 そのような異なる倫理的見解が等しく真あるいは妥当であるかどうかという問いとは 異なる。 前者は心理学や社会学や文化人類学の問いであり、 後者がメタ倫理的な哲学の問いだ。
こだま: これもわかりにくいですね。 多くの倫理的信念の不一致は、事実に関する意見の不一致に解消される という話を先にやっておく必要があります。 その上で、事実に関する意見の不一致に解消されないような、 倫理的信念の不一致があるかどうか、というのは心理学や社会学が探究する仕事だと。 しかし、その仕事によってそのことが明らかになったとしても、 「そのような仕方で不一致である二つの倫理的信念の一方が真であり、 他方が偽である」という可能性が否定されるわけではない、というわけですね。 まあ、ちょっとこれは難しいので、 「異なる文化で異なる倫理的信念が持たれているかどうか、ということは、 たとえそれがその通りであることがわかったとしても、 その両方が等しく真であるということを示さない」という程度に 言えばいいんだろうと思います。
こだま(さらに追記): これは、記述相対主義とかいうやつですね。 これは、実際に、文化と相対的に人々は異なる倫理的信念を抱いている、 という話で、メタ倫理的な相対主義とは異なるわけですね。
倫理的相対主義は、文化的寛容とか個人的寛容の原則というのとも異なる。 これは、他の文化や人に干渉したり否認したり、 あるいは心の中で判断するのさえ、不正だという考え方である。 こういう考え方は、われわれが何をすべきで何をすべきでないかという ことを論じているという意味で、規範倫理的なものであり、 いかなるメタ倫理的な主張とも矛盾しない。 「人を裁くな。人に裁かれないために」というのは、 他人の行為や性格よりも自分のそれを考えよという命令、 すなわち他人の目のチリよりも自分の目に入った丸太について 考えろという命令である。 これは、倫理的信念の真偽や妥当性とは何のかかわりもない。 それどころか、この命令を受け入れることは、その(非相対的な)真理に コミットすることである。
こだま: たしかに、「他人の倫理的意見を批判してはいけない」 というのは、一つの規範であって、これを普遍的真理だと考えている人は、 相対主義にコミットしているとは言えませんね。
こだま(さらに追記): これと次のものは、規範的相対主義、 つまり、相手の立場を批判してはならないというものですね。
同様に、倫理的相対主義は思想の自由に関する見解--たとえば、 万人は自分の好きな倫理的信念を持つ権利があるという見解--とも異なる。 思想の自由によれば、万人はいかなる数学理論、物理理論、生物学理論を 信じる自由をも持つ。 しかし、だからといって、数学についての対立する見解や、 ブラックホールの存在や性質、種の起源についての対立する見解のどれもが 等しく真になるわけではない。
こだま: まったくその通りですねえ。 思想の自由は、倫理的相対主義を含意していないわけですね。 言いかえると、倫理について普遍的な真理があると考える人でも、 思想の自由を主張することができるわけですね。
最後に、倫理的相対主義は、 「異なる人々は、相反する倫理的信念を持つことについて、 等しく正当化されうる」という見解とも異なる。 ある人が信念を持っているとき、その人が信じている事柄と、 その人が信じているということの二つの事態がある。 たとえば、わたしがジャズを演奏することは内在的に価値のある活動だと 信じているとしよう。この場合、わたしが信じている事柄(ジャズは価値がある)と、 わたしがそのことを信じているということが区別できる。 二人の人が、相反する命題を信じることについて等しく正当化されるというのは、 彼らの心的状態に関する認識論的な正当化についての事実である。 このことは、彼らの異なる信念が等しく正しいことを意味しない。
こだま: わかりにくいですねえ。つまり、 ある人が何かを信じているという事態は、 たとえばその人の生い立ちや社会の状況によって(心理学的、社会学的に) 説明可能だけれども、それはその人の信じている内容の正しさを示したことには ならない、ということですかね。
入手可能な証拠が違っていたために、二人の人が相反する信念を抱いていることが、 等しく正当である場合はよくある(その一方しか正しくない場合でも)。 ジョアンはウィリアム・スクラントンが1964年の共和党の副大統領候補だと考えるが、 そのことは彼女に入手可能な証拠からすれば正当であるかもしれない。 他方、トムはそれはウィリアム・ミラーだと、 彼に入手可能な証拠から正当にも考えるかもしれない。 二人ともそれぞれの信念を持つことは等しく正当化されるのだが、 しかしそれによって、いずれかの信念しか正しくないということが 否定されるわけではない。トムの考えが正しく、ジョアンの信念は誤っている。
こだま: なるほど。ある信念を持つに至ったことが説明されるということと、 その信念が正しいと示されることは別だということですね。 言いかえれば、ある信念を持つに至ったことが十分によく説明されたからといって、 その信念が間違っていることはありうるというわけですね。 次のパラグラフも同じことを言っているので省略します。
同様に、ときどきこういうことを言う人がいる。 各人の倫理的信念は、その人にとっては(その人と相対的に)正しい、 と。しかし、そういう人は、その意味を明らかにするように迫られると、 各人は、自分自身の倫理的信念が正しいと、(等しく)考えるのだ、 と答える。 それは正しいが、そのことは、人々の信念の内容が 等しく正しいということを意味しない。 それどころか、自分自身の信念の真理にコミットしているならば、 それと本当に相反する信念が偽であることにもコミットしていないとおかしい。
こだま: たしかに、 「誰の倫理的信念も、その人の立場からすれば正しい」と言う人、いますよねえ。 「この人の立場からすれば、中絶は不正である。あの人の立場からすれば、 中絶は不正ではない」なんて感じで。しかし、それは 「プトレマイオスは、太陽は地球の周りを回っていると信じている。 コペルニクスは、地球は太陽の周りを回っていると信じている」 というだけのことであって、両者が信じている内容が正しいかどうか はまた別の問いですね。あ、この話は上ですでにやりましたか。
わたしは、倫理的相対主義を定義して、 「異なる倫理的判断は、そのそれぞれの判断の文脈に相対的に、 等しく真ないし妥当でありうる」という見解とした。 しかし、これではわたしが上で行なった区別があいまいにならないだろうか。 一見すると、ある判断の妥当性が判断の文脈に依存するという主張は、 妥当性を判断された内容の特徴ではなく、 判断するということ、または信じるということの側面に依存させることになる ように思われる。
こだま: ひええ、わかりにくいですねえ。
この謎を解く唯一の方法は、こうであるように思われるかもしれない。 すなわち、 倫理的判断(の内容)そのものが、判断が行なわれる文脈に関するものである、 ということだ。 たとえば、主観主義によれば、倫理的判断はある対象に対して、 「なんらかの仕方で眺められている」という性質を帰属させるものである。 もしこれが正しいとすると、わたしがジャズを演奏することは価値ある活動である と言い、あなたはそうでなくクラシック音楽を演奏することこそが価値ある活動だ と言った場合、われわれがジャズについて語っていることは、 それについてそれぞれの態度を持つと述べている、ということになる。 この場合、われわれはジャズそのものを判断しているのではなく、 ジャズに対するそれぞれの態度を報告しているのである (言いかえると、それぞれの判断の文脈を報告している)。 であるから、われわれは相反する信念を抱いている場合のように矛盾しているとは 言えず、ジャズに関してわたしはわたしの態度を持ち、 あなたはあなたの態度を持っているということは両方とも同時に真でありうる。
こだま: オクラの例のようなものですねえ。「わたしはオクラが好き」 というのは、オクラについてのわたしの嗜好を報告しているだけで、 「あなたはオクラが嫌い」というのも同じく報告なので、 両者は矛盾しないという。
もし倫理的相対主義がこういうことを述べているのだとすると、 三つの所見が適切である。 一つは、倫理的命題は、けっきょく、文字通りの真偽を認めるものである ということ。 その真理は、判断の文脈についての命題であるという意味に おいてのみ、判断の文脈と相対的なものであることになる。
こだま: なるほど。
第二に、このように理解された場合、 倫理的相対主義は、倫理的命題を、倫理的判断者についての心理学的命題あるいは、 倫理的判断の文脈に関する社会学的ないし文化人類学的命題に還元してしまう ということである。 しかし、すでに見たように、 こういう後者の命題は倫理に特徴的な内容を欠いている場合がある。 倫理的判断は、人々や文化が実際に持っている態度ではなく、 彼らが持つべき態度を問題にしているように思われる。
こだま: そうですねえ。倫理的判断が、 それを主張する人の態度を報告しているのだとすれば、 事実について語っていて、 当為というか価値について語っていないことになりますねえ。
最後に、もし倫理的判断が判断の文脈に関するものであるなら、 倫理的判断は真の意味では衝突しないことになる。 第2章の拷問と虐殺の例に戻ると、これについての倫理的意見を異にする 人は、本当の意味で対立しているように思われた。 しかし、倫理的判断が実際に帰属させるものは、 判断の特定の文脈の性質だとすれば(こだま注: すなわち、 「彼の立場からすれば正しい」「別の人の立場からすれば正しくない」 というような性質)、 これらの判断は競合しないことになる。 ある人は、その人が置かれた文脈において、ある態度を持っており、 別の人は、その人が置かれた文脈において、別の態度を持っている、 というだけになり、 二人の態度は異なるけれども、 それぞれが判断した内容が、その人が判断したさいの文脈と切り離せない かぎり、本当の意味で衝突することはありえない(こだま注: オクラの場合と一緒で、「わたしにとって正しい」と 「あなたにとっては正しくない」は両立しうるから)。 となると、倫理的信念と、好みや嗜好との区別がなくなる可能性がでてくる。
こだま: このあたりは単純な主観主義に対する批判でもあります。
そこで、倫理的相対主義はジレンマに直面する。 もし、主観主義をその一部として含むようなものだと理解するなら、 主観主義に対するものと同じ批判を受けることになる。 またもし、倫理的相対主義の主張は、 「倫理的判断は判断の文脈に関するものではないが、 倫理的判断の妥当性や真理は、判断の文脈となんらかの形で相対的である」 というものだと理解するなら、 倫理的相対主義が何を言おうとしているのかがわからなくなってしまう。
こだま: 判断の文脈(判断者の立場など)に相対的に真理が決まる という立場は、 「倫理的判断とは、判断の文脈について報告するものである」という主観主義に 陥るか、あるいは謎なものになるというわけですね。 難しいですがなんとなくわかりました。といっても、 まだ学生に教えられるほど理解しているかどうか怪しいですが。 もう一度よく復習してみます。
こだま(追記): このような形で、(第3章から第6章までのように) 現象ではなく現実を重視する立場も袋小路に行き付くというわけですね。 注意すべきなのは、 メタ倫理の理論は実践とは関係ないかと言えばそうではなく、 錯誤理論や相対主義はそれを本気で信じるなら、 実践に大きな影響をもたらすということです。
ここまでのところ、「倫理的事実が存在しなければ、 錯誤理論が言うように、すべての倫理的確信は偽である」 という考え方を当然視してきた。 そうすることにより、 われわれは、 倫理的確信の性質と内容に関する、 言語と心の哲学における前提を暗黙のうちに想定してきたと言える。 すなわち、倫理的確信というのは通常の信念のようなものだという想定、 具体的に言えば、信念と同様、 倫理的確信によって表象されている特徴を現実が持つ場合に限り真であり、 そうでなければ偽であるという想定をしてきたと言える。 倫理的確信はこのように真偽を問えるものだとする立場は 認知主義(cognitivism)と呼ばれる。 認知主義者によると、倫理的言語を用いてなされる主張や、 倫理的確信とか信念とか(を持っていると)呼ばれる心的状態は、 命題的ないし認知的内容を持っているとされる。 そして、こうした内容は文字通りの真偽が問えるもので、 倫理的主張や確信が正しい(correct)あるいは間違えている(incorrect)のは、 その主張が言明する命題が(それぞれ)真あるいは偽である場合であり、 その場合に限られるとする。
こだま: なるほど、 認知主義は倫理的主張は真偽の問える命題であるというか、 より正確には命題を内包しており、その命題の真偽に応じて 正しかったり、正しくなかったりするものだと考えるわけですね。 まあ、倫理的主張は事実判断に左右される部分もあると考えられるので、 そのかぎりではその通りだと言えそうですが。
非認知主義は認知主義の立場を否定し、 倫理的主張や確信が真偽が問える命題的(認知的)内容を持っている ということを否定する。非認知主義は錯誤理論と同様に、 倫理的主張を真とするような倫理的事実は存在しないと主張するが、 いかなる倫理的主張も厳密な意味では偽ではないと言う。 倫理的主張は命題ではないので、真偽の問えるものではない。 というわけで、通常の信念と異なり、 主張されていることに対応する事実が存在していないからといって、 その主張が偽になるわけではない。
こだま: なるほど、非認知主義は、 倫理的主張が真偽の問える命題だという前提をひっくり返して、 いや、倫理的主張は真偽の問える命題ではないと言うわけですね。 そうすると、これもわれわれの直観というか道徳的現象に反することになります。 普通、「安楽死は不正だ」「安楽死は不正ではない」と議論しているとき、 真偽の問える命題を語っているつもりですもんね。
洗練されていないアナロジーだが、子どもがおかずのホウレンソウを見て、 「うえーっ」と言うとする。そう言うとき、子どもはホウレンソウが嫌いである ことを表明するが、命題を述べているわけではない。 もちろん、子どもは「わたし、ホウレンソウ嫌い」と言うことができたかもしれない。 この命題は(現実にその子はホウレンソウが嫌いであるということに照らして) 真であっただろう。 しかし、「うえーっ」と言ったとき、子どもは自分がホウレンソウを嫌いである ことについて語った(報告、記述した)というよりは、 自分が嫌いであることを表明(express)したのである。 「わたし、ホウレンソウ嫌い」というのは命題的な内容を持っているが、 それを表す反応は命題的な内容を持たない。 ホウレンソウに対する否定的な反応は真でも偽でもない。 「うえーっ」というのは、この心的状態を表現しているので、 命題的内容なしに心的状態を表明しているわけである。
こだま: ここ、 発話が命題の言明なのか、態度の表明なのかという難しい話なんですよね。 信念という心的状態に関する発話の場合、「AはBである」(「外で雨が降っている」) という命題形式で述べられるわけですが、 たとえば「えっ」というのは、驚きという心的状態を表す発話であって、 それ自体は真でも偽でもない。「わたしはその話を聞いて驚いた」とか、 「わたしはその話を聞いて『えっ』と言った」なら、真偽が問えますが、 「えっ」というのは、話を聞いたことに対する反応を示す、 つまり驚きを表現しているだけで、その驚き自体を真だとか偽だとか 言うことはできない(「AはBである」という命題ではないので)。 …といっても、この話って、オースティン以降の言語哲学をある程度知らないと、 理解しにくいんですよね。そういう話もしますか。
こだま: そういえば、本書の最初の方ではethical convictionと ethical beliefは同じように使われているような気がしていましたが、 この章ではきちんと区別しないといけなさそうですね。
簡単に言うと、非認知主義によれば、倫理的主張と倫理的確信は、 それぞれ、「うえーっ」と、それが表現する心的状態であるとされる。 倫理的主張は、命題的な内容を抜きにして心的状態を表現するため、 真理値は伴わない。 そこで、たとえ倫理的事実が存在しないとしても、 非認知主義が正しければ倫理的議論はそのような事実の存在を主張するものでは ないため、倫理的思考や実践はダメにはならないことになる。
こだま: なるほどねえ。しかし、 やはりこの立場も現在行なっている倫理的思考や議論に対する理解を改めないと いけなさそうですけど。真偽を問題にしなければ、SGDで意見を言ってもらって いるようなことは、どうなるんですか。 受講生は正解を求めているように思われるのに、ですよ。いや、 ダーウォル先生を責めるわけではないんですが。
非認知主義の一種である情動説によれば、 倫理的判断は、その判断を行なう人の感情や態度を表現している。 たとえば、「他人のコンピュータファイルを読むことにより、 プライバシーを侵害するのは不正である」 という判断は、命題的信念を表現しているのではなく、 判断者の否定的な感情ないし態度を表現している。 だから、「うえーっ」という反応と同様、 表明された感情については(命題ではないので)真理値は問えない。 それはある状況に対する反応であり、 その状況を表象するもの(命題)ではない。 ちょうど、その判断をする人が、 「人々が他人のコンピュータファイルを読んでいる。チッチッチッ」 と言うようなものである。 要するに、先の倫理的判断は(現実を記述ないし表象するという意味で) 記述的ないし表象的ではなく、(感情を表明するという意味で)表現的なのである。
こだま: 何か難しい発表を聞いて、 「わたしは、何を言っているのかまったくわからない」というようなことを 述べるのではなく、「う〜む」というようなものですね。 これは納得できないという態度を表明しているだけであり、 なんらかの信念を述べているわけではない、と。
こだま(追記): あれですね、エアーの「お金を盗むのは不正だ」というのは 「お金を盗む!!!」という感嘆符的な役割しか果たしていない、 つまり発言に感情の色合いをつけたに過ぎないということですね。
主観主義よりも情動説が優れている点は、 倫理的判断が本当の意味で衝突することをある程度まで説明できることである。 もしある人が他人のコンピュータファイルを読むことは不正だと言い、 別の人はそうでないと言うなら、二人は相反する判断をしているように思われる。 しかし、主観主義によれば、衝突はないのだった。 主観主義によれば、最初の人は、「自分はファイルの覗き見に反対している」と言い、 もう一人は「自分はファイルの覗き見に反対していない」と言っていることになる。 この二つの判断は両方とも(それぞれの当人が抱いている意見に照らして) 真でありうる。 だから、(「わたしはオクラが好き」「あなたはオクラが嫌い」と同様に) お互いに意見の衝突がないことになる。 他方、情動説によれば、この二人は相反する態度を表明している。 彼らは、自分について、自分がそのような態度を持っているという言明をしている のではない。そして、この二つの態度は衝突するものなので、 それを表現する判断も衝突する。
こだま: なるほど、「中絶反対」と「中絶賛成」という二つの意見で 本当に衝突しているのは、態度であり、倫理的事実があるかどうかに 関する信念ではないわけですね、情動説によると。
さらに、非認知主義の他の立場にも当てはまることだが、 情動説は倫理的判断と動機付けとの間に存在すると思われる 密接な関係についても説明できる。 とくに、情動説は内在主義の一種を含意している。 すなわち、もしある人が「わたしは何かをすべきだ」と判断した場合、 必然的に、彼女はそれをする動機付けを(ある程度)持つことになる。 内在主義者によれば、倫理的判断は本質的に実践的である。 ある事柄を正しい・不正だと考えることが、 そのことに関して行為と結びつくような仕方で賛成・反対であることと関係している というのは、偶然的な事実ではないように思われる。 情動説はこの点をうまく説明できる。 というのは、ある事柄を正しい・不正だと考えることは、まさに 動機付けが伴うような仕方でそのことに賛成・反対だということだからである。 もちろん、外在主義が正しければ、 すなわち、倫理的判断と動機(実践的理由)のあいだに必然的 なつながりがなければ、説明すべきことは何もないことになるのだが。
こだま: なるほど、情動説は倫理的な意見の不一致という現象も うまく説明できるし、また、倫理的判断と動機付けの関係もうまく説明できる というわけですね。
こだま: 日本ではこの立場ぐらいまでしか紹介されていないようで、 中年以降の人はみんなこの種の俗流情動説+相対主義を信じているようだから、 あとでよくよく検討する必要がありますね。
倫理的判断と意志のつながりは、情動説が考えているよりももっと密接だという 非認知主義的立場もある。 指令説(prescriptivism)によると、 倫理的判断が表現しているのは、 感情は態度ではなく、 意図とか指令に近い、判断者の意志の状態である。 とくに、「コンピュータファイルの盗み見は不正だ」と本気で言う人は、 盗み見に対する反応を表明しているというより、 それがなされるべきでないという意志 (自分はそれをしないという決意を含む)を表明しているとされる。 彼女の心的状態は、 「いかなる人も他人のコンピュータファイルを覗き見してはならない!」 という普遍的な指令によって表明されうるものである。
情動説と指令説の問題は、これらの理論によれば表現 しているとされる感情や意図なしに倫理的判断がなされる場合がありうるように 思われるという点である。とくに、 ある人が実際に持つ反応と、彼が持つべき反応を その人が区別することは可能である。また、指令や意図についても同様である。
こだま: ん、後半の部分がよくわかりません。
たとえば、長い一日が終わり、すでにいろいろな感情を抱いたために感受性が 擦りへっているとしよう。そのときに、テロリストによる虐殺について 新聞記事を読むとする。このような状況なので、 あなたは怒りという反応をするのではなく、あくびをするとする。 これによって、あなたは虐殺は怒るべきものではなく、 退屈だということになるだろうか。 そうではなく、 虐殺はあなたの現在の状態で現れるような反応ではなく、 もっと別な反応を引き起こすものだと考えるだろう。
こだま: なるほど、少しよくわかりました。
もちろん、ある人がある種の反応を持つべきだというのは 倫理的判断である。だから、もし非認知主義が正しいとすると、 この判断も認知的内容を持たず、非認知的な心的状態を表現していることになる。 しかし、もし情動説と指令説の可能性が排除されたとすると、 他にどのようなものをこの判断は表現していると言えるだろうか。 規則表明説(Norm expressivism)によると、 それが表現している心的状態は、ある規則を受けいれるという状態である。 たとえば、あの虐殺は非道いと判断する人は、 憤概がその行為に対する反応として妥当だとする規則を受け入れていることを 表明する。彼女は実際に憤概していなくても、この判断をなすことができる。 というのは、彼女の判断が表現しているのは、憤概そのものではなく、 憤概を妥当だとする規則を受け入れていることだからである。
こだま: なるほど、これがギバード的な発想なわけですね。
非認知主義というのは、 言語と心の哲学におけるあるトレンドを倫理的議論や倫理的心理学の事例に 当てはめたものである。 20世紀初めの非認知主義者は過激な経験主義(実証)的な意味論 --意味の有無に関する検証可能性基準--をとっていた。 この理論によると、文や発話は、それが有意味な命題の言明であるためには 経験的(実証的)に検証されることができなければならない。 論理実証主義と呼ばれたこの手の哲学者たちは、 ムーアの自然主義批判に同意した。 しかし、あらゆる有意味な言葉は、自然における実証的に検証可能な事柄を 指示しているはずだと彼らは考えたので、 (ムーアの直観主義は取らず)倫理的な言葉は命題を提示しているわけではない と考えた。 このような検証可能性の基準を取っている哲学者は今では少ない。 科学理論の命題でさえ、観察可能なものを超えている場合が多いからである (たとえば、ある種の事柄に関する全事例についての言明など)。
こだま: なるほど。
しかし、非認知主義の背後にあるのは実証主義だけではない。 検証可能性基準をとらなくても、 わわれの言語や精神の別の部分は、別の役割を 持っていると考えることは可能である。 たしかにわれわれの会話や心的生活の大半の役割は現実を表象したり 記述したりすることであるが、倫理的会話や心的状態はそれとは異なる。 たとえば、ニコチンの依存性の性質についての報告と、 タバコは麻薬であり、さまざまな仕方で規制されないといけないという 命令の違いを考えてみよう。 報告と命令は世界に対して異なる合致の方向(directions of fit to the world)を有している。 報告は、事物がどうあるかを表象(記述)することを目的としており、 もし事物が記述された通りでなければ、報告の方が間違えている。 報告は、世界によって矯正される(world-corrected)ものである。 しかし、命令というのは、 世界を表象(記述)するのが目的ではなく、 その変化を命じるものである。 もし世界が命令に一致しないのであれば、誤りは世界の方にあり、 命令の方にあるのではない。 命令は世界を矯正する(world-correcting)ものである。 報告の役割は世界(のあり方)に合致することであるが、 命令の役割は世界が命令に合致することである。
こだま: なるほど。基本的に 社会学とか文化人類学というのはworld-correctedなもので、 規範倫理学というのはworld-correctingなものなわけですね。 これはわかりやすい説明ですね。
このことは、言葉で表現される心的状態についても言えることである。 ニコチンが依存的であるという信念(=心的状態の一つ)は、 現実を一定の仕方で表象(記述)しており、その表象の真理にコミットしている。 信念は命題的な内容を持ち、それを表現する言明(「ニコチンは依存的だ」) と同じ一致方向を有している。 それに対して、意図(たとえば、ニコチンが安全であることが 示されるまではその販売を禁止するという意図)は、 信念よりも命令に近い一致方向を有した心的状態である。 すなわち、もし世界がその意図に合致しないのであれば、 誤ちは世界の方にある。
こだま: なるほど。よくわかりました。
非認知主義によると、倫理的談話や心的状態の役割や一致方向は、 信念よりも、命令や意図のそれに近い。 部分的には、非認知主義は文化人類学的ないし社会生物学的仮説を提示している と言えるかもしれない。 たとえば、規範を受けいれるというような規範的な談話や心的状態は、 われわれの認知システムにおける現実を表象する方法としてではなく、 人間の協働や協調を促進するために進化してきたものだ、という風に。
こだま: なるほど、まわりくどかった気がしますが、 一致の方向が信念よりも命令に近いという話はよくわかりました。 たしかに、規範というのはそういうもののように思われます。 すなわち、なんらかの事実を記述するというのではなく、 世界のあるべき方向を指示し、あるべきでない方向を非難するというような。
しかし、ここでちょっと注意が必要である。 というのは、どのように「現実」を理解するかで、 認知主義者もある程度まで上の議論を認めることができるかもしれないからである。 倫理的主張や心的状態は指令的役割を持ちつつ、 さらに命題的内容も持てるかもしれない。 さらに、倫理的言語は、命題的な「事実を述べる」発話に特徴的な要素をすべて 備えている。 誰かに何かをするように命令したり頼んだりするのと、 それをするのは彼女にとって善いことだとか、彼女はそれをすべきだとか いうのは違っている。 後者は明らかに、 何か真偽を含むことがらを述べているように思われる。 「もっとエクササイズしないといけないことは正しいと わかっているんだが、どうしても時間がないんだ」とか言うことがあるし。 また、他の命題と同様に、倫理的主張から推論をすることもある。 「もし栄養のある食事をもっと食べるべきであるとすると、 砂糖のかかったドーナツを食べるのはやめるべきだね」とか。
こだま: なるほど。最後のは、ギーチ・フレーゲ問題とかいうやつですね。
非認知主義を支持する最も強力な議論は、おそらく、 ムーアの「未決問題論法」の一種であろう。 二人の人が道徳的に重要な事実に関してはすべての点で意見が一致しており、 しかし、倫理的判断が異なっているという場合が想像しうる。 事実によって意見の一致が得られないのだとすると、 二人の間で何が問題になっているのか。 非認知主義はこの現象を説明できる。 とういのは、倫理的な意見の不一致において問題となっているのは、 事実ではなく、非認知的な何かだからである。 事実については完全に意見が一致したあとでも倫理的な意見の不一致が残るのは、 倫理的判断が表現しているのは異なる信念ではなく、 相反する非認知的な心的状態だからである。 もしそのような根本的な倫理的不一致が可能だとすれば、 この現象は非認知主義を支持する証拠となりうる。
こだま:なるほど。
非認知主義が直面する最大の問題は、 倫理的談話と思考の表面的な現れ方とあまりに明白に衝突するということだろう。 倫理的主張は、命令や依頼と違って、 一見して事実を述べる(fact-stating)な命題的な談話である。 また、倫理的主張から反実仮想的に推論する場合もある。これは、 命令を表現するために用いられる命令文のような、 言語の非認知主義的な部分を用いているときにはできないことである。 たとえば、「もしわれわれがニコチンの販売を違法にすべきでないならば、 それを宣伝することの規制を強化すべきであろう」というのは、 完全に意味をなす。 しかし、もし命令が対立した言明が可能であるような命題を表現しないとすれば、 どうやって命令の対立したものから推論することができるだろうか。
こだま:なるほど、一見して、倫理的な確信というか談話(discourse)は、 あたかも通常の命題を述べているかのように思われるし、そのように われわれの議論でも振る舞っているというわけですね。ギーチ・フレーゲ問題 というやつですね、これが。
非認知主義者は、こういった反論に応答するために、 真理や推論を語ることは、倫理的主張や確信について 哲学的に外部から考える場合には厳密には間違っているんだけれども、 (非認知的な)倫理的談話の内部においては意味がある、 と論じなければならない。たとえば、 倫理的主張が真であるということは、 同一の倫理的主張をするさいのより強調された言い方なのかもしれない。 指令主義者は、無辜の人を拷問することが不正なのは真であるという「断言」は、 「無辜の人を拷問するな!」という普遍的な命令を発する別の仕方にすぎない と言うかもしれない。 また、規則表現主義者なら、 仮定的、反実仮想的な倫理的思考は、自分が受け入れないが、 ひょっとすると受け入れるかもしれない規則の含意を引き出すものとして 理解するかもしれない。 ニコチンの販売を禁止すべきでなければどうすべきかを考えるさい、 その販売の禁止を禁じる規則(当人はそれを支持しない)から どのようなことが帰結するかを考えているのかもしれない。
こだま:内部とか外部とかいうのは難しいですねえ。しかし、 要するに、非認知主義では、一見して命題のように振舞う倫理的主張を、 すべて非認知主義的に「翻訳」しないといけないということですね。
この種の議論をするさい、非認知主義者は、 規範的な倫理的思考はメタ倫理的な反省とは完全に分離可能だと考えなくては ならないはずである。 非認知主義者は、 無辜の人を拷問すべきでないというのは真なのかと尋ねられたら、 その問いは規範倫理的にも解釈できるし、メタ倫理的にも解釈できるから 曖昧だと答えるだろう。 真理や推論というカテゴリーは、規範倫理的思考の内部では、 適切な非認知的使用法があるが、規範倫理的思考から一歩下がって、 それらを外側から倫理的思考に合てはめようとすれば、使えないものである、と。
こだま:ああ、これはブラックバーンがquasi-realismで言っていることですね。 よくわかりました。錯誤理論と同じような問題があるということですね。 しかし、錯誤理論と比べると、うまく行ってるのかな。 要するに、「安楽死は不正であるというのは、誰が何と言おうと真である」 というのは、規範倫理的に言えば、 「安楽死は、誰が何と言おうと、ブー!!!」とか、 「安楽死は誰が何と言おうとするな!!!」 というようなことを意味しているんだけれども、 メタ倫理的には、「安楽死が不正である」という言明は、 そもそも本当の意味での命題ではないので、 真であるとか偽であるとか言うことは意味がないわけですね。 アメリカ独立宣言の「〜は自明の真理である」というのも、 規範倫理的には「平等万歳!!!」というようなものだけど、 メタ倫理的にはノンセンスだというわけですね。
このような、倫理的言語の表面的には論理的な構造に加えて、 個人間および個人内の倫理的談話は、合理的な活動 であるように一見思われるということがある。 価値や義務に関する議論は、倫理的主張に対する理由を 与えることが含まれる。 さらに、倫理的な事柄に関して他の人の意見を変えるための 合理的な方法と、非合理的な方法をわれわれは区別している。 しかし、非認知主義によると、 倫理的議論は非認知的な態度を表明して、 他人に同様な態度を生み出そうとする試みである。 しかし、このように説明すると、理由を与えることは、 ある種の説得のための圧力を与えることにすぎないことになり、 他人の考えを変えるための合理的な方法と非合理的な方法の区別の土台を 消してしまうように思われる。
こだま:これはスティーブンソン流の情動説によく当てはまる批判ですね。
こうした批判に対して、非認知主義者は、 ある事柄に対する人々の態度は、部分的には彼らの非倫理的信念 に依存していると指摘する。 第1章の例で見たように、 二人の人が医師による自殺幇助を合法化する法案に対して相反する倫理的主張を するのは、社会的弱者がこのような法によってより弱い立場に置かれることに なるかどうかという実証的な非倫理的問題について意見が一致しないから かもしれない。そこで、この法律を支持する人は、そのような恐れは実際には 起きないと彼が考える理由を与えることにより、法律の善さを示そうとする かもしれない。
こだま:なるほど、倫理的な意見の不一致と、非倫理的な意見の不一致を 区別することで、非認知主義でも倫理的主張に関して合理的な議論ができると 言うわけですね。実際はこんなところかなあと思いますねえ。
もちろん、そのような法を支持する人は、 ある事柄が生じる(あるいは生じない)と信じるための 理由を与えていると考えているだけでなく、 その法を支持するという自分の倫理的主張のための 理由でもあると考えているだろう。 しかし、 そもそも非認知主義の最も重要な点は、信念と、 倫理的主張・態度を区別することであるから、 倫理的判断の理由についての主張を、信念の理由によって基礎づけることは どうやって可能なのだろうか。 さらに、こうした事柄に関する人々の考えを変えるための合理的な方法と 非合理的な方法はどのように区別されるのだろうか。
こだま:なるほど、非倫理的な信念が、倫理的な主張とどう関係しているのかを 突っ込まれると、よくわからないじゃないか、と反論されるわけですね。 ethics moves in mysterious ways...
非認知主義者は、これらの批判に対して、規範的な理由や合理性についての問いは、 それ自体が究極的には倫理的問題であると指摘する。 誰かの考えを変えようとするためのある仕方が非合理的だとか操作的だとかいう 判断は、それ自体が倫理的判断である。そのような判断をなす人は、 真理値を持つような命題を主張しているのではなく、 むしろ、そのような説得技術に対する(非認知的)反対を表明しているのである。 同様に、ある事実があることを行なうか感じるかするための規範的な理由である と判断するさい、その人は文字通りの信念を表明しているのではなく、 その事実が成り立つときに何かをしたり感じたりすることを支持する 態度・感情・その他の非認知的な心的状態を表明しているのである。 たとえば、もしあなたが、無辜な人々の苦しみをもたらした虐殺が、 怒りを感じる理由だと判断するなら、それは、 こうした条件下でこの反応を抱くことをあなたが支持するということを 表明しているのである。
こだま:ん、なるほど。すると、ある事実が道徳的に重要な違いだというのは、 結局、その事実を道徳的判断の考慮に入れることを支持するとか、 その違いの基礎にある原則(自律尊重や善行など)を支持するという態度表明 に過ぎないわけですか。どうも倫理が主観的になっていかん気がするんですが、 そんなもんなんでしょうか。
倫理的言語の表現的ないし指令的説明は、 倫理的確信がすでに形成されているときのことを、 最もうまく説明できるように思われる。 しかし、倫理的な探求についてはどうだろうか。 どのような倫理的確信を抱くべきかと意思決定をしようとするという 現象については、どのように説明が付くだろうか。 たとえばもしあなたが、医師による自殺幇助を認める法律に投票すべきか どうかと考えている場合、あなたはまだどういう態度をとるか決めかねている わけだから、あなたの倫理的思考がすでに形成された態度や感情を表現する ということはまずありえない。 あなたの確信の抱けない視点からすると、 あなたは自分が、いずれの倫理的主張が真であるかを 決めようとしているかのうように思われるだろう。
こだま:そうですよねえ。SGDで可能な選択肢について考えているとき、 どっちの結論が正しいんだろうかって思いますよね。
ここでも、非認知主義者は、 そのような探求が規範倫理的な思考の内部でどのように 起きるのかを説明しようとし、その一方で、規範的な思考から一歩下がったときには、 厳密には探求すべき倫理的真理などないことをわれわれは認めなければならないと 主張する。たとえば、規範表現主義者は、さまざまな規範を受けいれている人でさえ、 少なくとも思考においては、不可避的に新しい状況に直面するだろうことを指摘する。 そのような状況において何をすべきか考えるさい、その人は、 彼がすでに抱いている規範がこの状況において持つ含意について考えているだけ かもしれない。あるいは、その人は、当の状況において対立する指示を与える 規範を持っているのかもしれない。この場合、彼はどの解決法が 彼が受け入れている規範の集合の内部で最も整合的かを考えているのかもしれない。
こだま:あれ、なんだか話をそらされてしまったような。 しかし、まあ、規範表現主義においては、 「何が倫理的に正しい答えか」という問いは、 規範倫理的には規範の含意を探求するものとして、 内的には理解できるというわけですね。
しかし、考えてもそのような答えが出てこない事例についてはどうか。 このような状況に直面して、どうすべきかさらに悩む人もいるだろう。 それどころか、 自分の抱いている一般的規則や態度が一義的な解決を示しているが、 しかしその解決が正しいのかどうかと悩む場合もあるだろう。 この規範や態度を引き続き持ちつづけるべきだろうかとか。 自分が現在抱いている規範や態度を超越する探求については、 どのように説明するのだろうか。
非認知主義はこれに対していくつかの応答が可能であるが、 そのいずれもが主張するのは、倫理的探求は、このような根本的な種類のものでさえ、 (非認知的な)倫理的思考や談話の内部で起きるものであるということと、 それゆえ、倫理に真理はないというメタ倫理的立場とは別個でそれゆえに一貫している ということである。 たとえば、ある非認知主義者は次のように言うかもしれない。 すなわち、われわれにとって探求と映るものは、 実は一種の内面化された個人間の談話にすぎず、 よく知られたさまざまな倫理的な「声」を交互に採用して一種の「一人言」を話し、 このような内面的な会話によって安定した態度に辿りつこうとしているのである、と。 あるいは、規範表現主義者は次のように言うかもしれない。 すなわち、たしかにわれわれはすでに受け入れている規範の含意についてだけでなく、 どのような規範を受け入れるかについても考えるが、 そのような問いは、不可避的に、 すでに受け入れている他の「高次の」規範--規範を受け入れるための規範-- を背景にして行なわれるのだと。そして、このような高次の規範の受容も、 低次の規範の受容と同様に、非認知的なものであると。
こだま:う〜ん、もっともらしいですねえ。しかし、 なんだか何もかも主観的になるようでいかんですね。
非認知主義者が主張する、規範倫理とメタ倫理の峻別の背後にあるのは、 (規範的な)倫理的主張は認知的内容を欠く心的状態を表現しているという テーゼである。しかし、これが正しいためには、 われわれは倫理的主張が表現している心的状態を、 その心的状態と結びついている倫理的確信--とその一見して存在する内容--を 通じて以外の仕方で、特定できなければならない。 しかし、これができるかどうかはまったく明らかでない。
こだま:ん? ダーウォル先生、もう疲れてきたせいか、よくわかりません。 どういうことでしょう。
いくつかの情念や態度は、その本性からして、ある種の信念の存在を要求するように 思われる。たとえば、誰かが恐れという状態にあるためには、 彼は、なんらかの危険が迫っていると信じていなくてはならない。 ある感情が、単なる予期などではなく、恐怖の感情となるためには、 このような信念が必要であるように思われる。これと同じような仕方で、 倫理的感情も、それを構成する信念を持つと言われるかもしれない。 たとえば、あるものを罪の感情にするものは何か? 人は、自分が何か(おそらく)悪いことをしたという信念なしに、 (単に罰されるという心配ではなく)罪の意識を感じることはできるだろうか。 また、規範を受け入れるという状態を考えてみよう。 それに関連する規範的な信念なしにこの状態にあることは理解可能だろうか?
こだま:ん? これも最後の一文がよくわかりませんねえ。 たしかにある種の信念が倫理的確信の構成要素になっているというのは認めますが。
このような問いは、非認知主義に対するジレンマのようなものを作り出す。 心的状態が非認知的であることが問題なく受け入れられる場合であればあるほど、 倫理的主張や確信がそのような心的状態を表現していると断言する非認知主義的 立場はもっともらしくなくなるように思われる。 ホウレンソウに対する子どもの「うえーっ」という反応が真理値を持たないことを われわれは確信するが、同時に、それは倫理的確信を表現していないだろうことも 確信する。同様に、誰かに何かをするように指示することと、 それをその人がすべきだと言うこととの間に明白な直観的な違いがあるという そのかぎりにおいて、指令主義はもっともらしくないように思われる。 他方、ある心的状態(是認や、規範の受容)が倫理的主張によって表現される ということがもっともらしいかぎりにおいて、 心的状態が本当の意味で非認知的なのかどうかが疑わしくなる。 そしてこのことが疑わしく思われ出すと、 非認知主義者が言うほど、メタ倫理と規範倫理は峻別できるのかどうかも 疑わしくなってくる。
こだま:なるほど、ダーウォル先生が上の規範と信念のところで言っていたのは、 ギバードのような規範表現主義だと、 それは非認知主義的なのかどうかがわからないという批判があるということですか。
トマス・ホッブズ(1588-1679)は社会契約論でよく知られている。 これは、政治的な正当性は相互の契約ないし約束に由来するという考え方である。 悲惨な自然状態から抜け出るために、市民は主権者に従う ことを約束し、それによって主権者の権威と市民の服従義務を確立する。
こだま:なるほど。
ホッブズの議論の結論は、政治的義務は個人の同意に基づくという政治理論に 関する主張である。 しかし、彼の議論には、ある一つの道徳観とその規範性が 含意されていて、それが後の道徳哲学者たちに大きな影響を与えてきた。 政治的義務は「盟約」(covenant)を守るという道徳的義務に由来する。 しかし、この道徳的義務は何に由来するのか。 「人が、締結した盟約を実施すること」は「自然法」だというのはどういう理由でか。 この問いに答えるために、ホッブズは、約束を守る義務を根拠づけるメタ倫理も 含む、哲学的倫理を構築しなければならなかった。
こだま:なるほど、ホッブズの議論は基本的には政治理論だけれども、 その基本的な部分は、「なぜ約束を守る義務があるのか」 という道徳的な議論だと。そしてそこに彼のメタ倫理理論がかかわってくる というわけですね。
ホッブズが『リヴァイアサン』を書く400年前から続いていた哲学的思想から 話を始める。この思想は17世紀中盤のホッブズや他の連中には受け入れがたいもの であった。
ナイフなどの人工的に作られたものは目的を持って作られている という話から始める。 あるものがナイフであるのは、その材料によってではなく、 それが果たす役割によってであるという話。
こだま:アリストテレス-スコラの目的論的世界観の話ですね。
次に人為的に作られたものだけでなく、あらゆる自然的なものもそのような 本質を持っていると想定する。 これは、あらゆるものが何かのために存在するという想定。 たとえば、ドングリの本質は、それが育つと樫の木になるということである、 というように。
あるものを定義する目的を、そのものの善と呼ぶことにしよう。 このような善を達成することが、そのもののあるべき姿であり、 それを「自然の法」と呼ぶことにする。人間にとってもそのような「自然法」 が存在し、それは人間によって発見されうるもので、 また人間は従うことも従わないこともできるものであるとする。 また、それは神によって作られたものである。
これがトマス・アクィナス(1224-1274)が主張した古典的な 自然法理論の要点である。 道徳というのは、人間がその本性上従うべき自然法である。 自然法の内容と規範性は人間本性に内在している。 というのは、われわれはそのために作られているからだ。
こだま:なるほど。われわれは自然本性上与えられた目的があり、 それを達成することは、ドングリが樫の木になるのと同じ、 あるべき姿だというわけですね。セミの幼虫がセミになるように、 道徳的になることはわれわれのあるべき姿なんですね。
アクィナスの議論は、アリストテレスの目的論的形而上学と、 道徳は神の法だとするユダヤ-キリスト教的道徳概念を結びつけたものであった。 ただし、アクィナスは神の命令説は取っておらず、それが論敵と論争点になった わけだが、彼の考えでは、われわれが道徳的義務に従うべきなのは、 まさにわれわれがそのように作られているからである。
ホッブズに話を戻すと、ホッブズも約束を守る義務を自然法に基づくものだとしたが、 その規範性の由来(なぜ従うべきか)については、別の見解を取った。
古典的な自然法によれば、われわれが自然法に従うべきなのは、 それがまさにわれわれの目的を示しているからだった。 もし自然法が約束を守ることを指示するなら、 それを行うことはわれわれの本性にかなったことである(それをすることで、 われわれの本来の目的を達成できる)。
こだま:なるほど、そういえば、KISSの`I was made for lovin' you'を 思い出しました。たしかサム・クックも同じような意味の歌を歌っていたような。
ホッブズはこのような考え方を二つの理由から受け入れられなかった。 一つ目はその目的論的形而上学。17世紀中盤には、 アリストテレスの科学や認識論・形而上学的枠組は、 ガリレオやホイゲンスの近代科学の方法や世界観によって取ってかわられつつあった。 実証的観察に基づく新しい方法論のもとで、 新しい科学は自然現象を、その内在する目的ではなく物理的なメカニズムに 訴えることで説明した。 近代科学が見つけつつあった自然法(法則)は、完全に記述的であり、 規範的ではなかった。
こだま:なるほど。道徳理論の重大な変化の前に、 科学理論とか世界観の変化があったというわけですね。
20世紀の論理実証主義者よろしく、ホッブズは目的論的世界観の言葉遣いは 実証不可能で意味不明だと主張していた。
第二に、ホッブズは自然法の主張である、 万物の善は調和して秩序づけられており、自然法と自己利益は形而上学的に保証され ているという主張を退けた。 彼の考えでは、人々の利益は基本的に衝突するものであり、 自然に任せておけば「万人の万人に対する争い」になるのであった。
こだま:なるほど。これは「自然」をどう理解するかという重要な問題ですね。 自然(本性)に従って生きろと言われても、ホッブズの理解では人間本性は 争いを導く野蛮獰猛なものだというわけですね。 ここには自然理解の大きな変化がありますねえ。
ホッブズは目的論的な形而上学的に基づかずに(また、各人の利益は必ず 全体の利益と一致するという想定に基づかずに)約束を守る義務を説明しようと考えた。 しかも、実証的な科学に基づく世界観にも一致するように。 そこで彼は、倫理自体を実証科学とみなした、 形而上学的な実証的自然主義者だと言える。 彼によれば倫理は「人間の情念からの帰結」を理論化する学問である。
こだま:なるほど、新しい科学が作り出した世界観に合う倫理理論を作ろうとした わけですね。えらいですねえ。現在の倫理学者も同じことをしないといけないですね。
1630年ごろ、『リヴァイアサン』を書く10年以上前に、 ホッブズは科学に凝り、ガリレオの色についての理論にはまった。 ガリレオによれば、世界に色は存在しないが、 色の経験は客観性への志向を持っている。 すなわち、われわれはあたかも対象物に色が付いているように感じ、 対象に実際に色性質が備わっているように考える。 しかし、対象に実際に存在する性質である形や大きさと異なり、 色性質は同じようには存在していない。 色の言葉というのは、「われわれの感覚的身体にのみ存在する何かを指す単なる名前」 にすぎないとされる。
こだま:なるほど。この本の前半を読んでいるとわかりやすい話ですね。
熟したトマトを見ると、赤く見えるだけでなく、 本当に赤いものを見ているかのように思われる。 赤さはトマトの本当の性質であるように思われる。 しかし、ガリレオによると、自然に存在しているのは 赤いという知覚を引き起こすような、トマトの持つ物理的な性質だけである。
ホッブズは、このガリレオの知見に基づいて価値の理論を作った。 色と同様、ホッブズは価値判断や価値経験も、 投影(projection)が関係していると考えた。 価値は世界には現実には存在しないが、欲求を持ちそれに動機づけられる ときには存在しているように思われるものである。
こだま: なるほどねえ。
ホッブズは人間の行為について、機械論的な見解を取っていた。 彼は唯物論者で、心の動きも何らかの微小な物質の運動の結果だと考えていた。 物質の現実的性質が色という知覚経験を生み出すように、 欲求や嫌悪という物質的運動が、心理的には「喜び」や「悩み」として経験され、 その対象が「善」「悪」と呼ばれる。
こだま: なるほど、色の場合と類比的な投影理論ですね。
色現象の場合と同様、善悪の現象にも、それに対応する性質は対象には存在しない。 われわれはあるものを善いと思うから望むのではなく、欲求するから 善いとみなすのである。 価値の経験は、欲求が投影された結果である。
この議論は、錯誤論を思い出させる。 ホッブズは非認知主義的なことも言っているが、 そのどちらかだったかを議論するのはアナクロニスティックで不毛なことだろう。
こだま: なるほど。
また、たとえ錯誤論者だったとしても、ホッブズはそれにより 規範倫理的思考が影響を受けるとは思っていなかった。 それは、彼が熟慮する行為者としてのわれわれを想定しており、 行為者の視点から倫理がどう見えるかを考えていたから である。この視点は、色が赤く見えるというような判断と同じで、 どのようなメタ倫理的な見解を取ったとしても、変わらないものである。
こだま: ほんとに変わらないのかなあ? 7章の錯誤論の批判とちょっと 齟齬があるような…。
こだま(追記): あ、なるほど、あとでhard-wiredという言葉が使われているように、 「何かを欲求するさいには、その欲求の対象を善いと思わざるをえない」 というのは、錯覚を錯覚と認識しても、やはり錯覚を経験せざるをえない というのと同じだというんですね。
ホッブズは「自然の法」を「…」と定義したあと、 19の例を挙げている(そのうちに約束を守るべしというものもある)。 彼はこうした「理性の命令」を法と呼ぶことは本来適切ではないと考えていた。 実際は、それは人の保全や防御に役立つ定理とでも言うべきものだと 彼は考えていた。
こだま: なるほど。
このホッブズの立場は二つの問題がある。一つは次章で扱うもので、 ホッブズが道徳の規則を、自己保存や自己利益のための「定理」と 考えたという点である。これは、自己利益と道徳は一致するという 古典的自然法思想の形而上学的想定と同じではないのか?
もう一つの問題は、 なぜ自己保存や自己利益を促進する命題が、 規範的な法になるのかという問題である。 何がわれわれの保存や防衛に役立つかという定理は、あくまで 事実の言明であり、世界で何が起きるかについての正しい表象でしかない。 それが権威を持ったり、規範的力を持つのはどうしてか。
こだま: なるほど、そうですねえ。
非常に単純な例を出そう。ある特定の薬を飲まないと、あなたは死ぬとしよう。 このことを知ることは、世界についての事実を知ることである。 しかし、どうやってその事実から規範的な結論(薬を飲むべきだ)に至るのか。 われわれは何か規範的な前提を必要とするように思われる。
こだま: そうですねえ。「あなたは死にたくないと思っている」とかですか。 そういうのがないと、「ああ、死ぬんですか。そうですか」ということに なりますもんねえ。
ホッブズは、みな、生き続けることは善いことだという規範的な前提を すでに受け入れている、 あるいは受け入れざるをえないと考えていた。 彼はこれはわれわれの生物としての本能のようなものだと考えていた。 また、すでに見たように、われわれは本能的に、 欲求するものを善いものと見、嫌悪するものを悪いものと見るようにできていた。 そこで、われわれは不可避的に生きることを欲求するので、 生き続けることを善と見て、その逆は悪と見るのは不可避的なことであった。
こだま: なるほどねえ。しかし、終末期の治療中止なんかを考えると ほんとに欲求しているのは、良き生(QOLが高い生)が続くことなんですかねえ。
というわけで、次のような実践的議論を出来上がる。
自然法に規範的な力を与えるのは、それらが、 われわれが持たざるをえない目的に必要な手段に関係しており、 かつ、熟慮する行為者として、 その目的をわれわれが善きものと見ることが不可避だからである。
こだま: なるほど。
気をつける必要があるが、ホッブズは次のようなことを言っているわけではない。 すなわち、われわれが自然法に従うべきなのは、 それをすれば、われわれが不可避的に欲するものが得られるからである、 という考え方である。 これは次のような議論と考えられる。
この議論も、なぜ自己保存に役立つ事に関する命題が規範的力を持つのか という同じ問題にぶつかる。 先の場合と異なり、「わたしは生きることを欲求する」というのは、 世界がどうなっているかについての言明であるため、 「自分の欲求しているものを得ることは善い」といったような 規範的な前提がさらに必要となる。
こだま: なるほど。細かいけれど、「である」言明からだけでは 「べし」言明は出てこないという重要な話なんですね。
ホッブズが、自分の欲求しているものを得ることが善いと考えたかどうかは わからない。ホッブズが述べていたのは、何かを欲しているさいに、 自分の欲求を満たすと思われるものを善いと見ると述べていただけで、 欲求充足が善いと考えるかどうかは別の話である。 ときどきわれわれは、自分が持つ欲求を持っていなければ良かったという思う ときもある。 この場合、われわれは欲求が満たされない方がよいという 第二階の欲求を持っていると言える。 そうすると、第一階の欲求を満たすことを欲求しないということだから、 第一階の欲求の充足は悪いことだと見えることになる。
こだま: なるほど、細かいけれど、「あることを欲求することは善い」 と考えるのと、「その欲求を満たすことを善い」と考えるのは別のことだ というわけですね。
たとえば、悪い習慣とか依存症とかいうのがそうである。 わたしが15分ごとに指をポキポキと鳴らすくせがあるとしよう。 わたしは指を鳴らしたいという欲求に取りつかれており、 その一方で、その欲求を満たしたくないという欲求を持つとしよう。 最初の欲求を持つという意味では、わたしは指を鳴らすことを善いことと 見ている。二つ目の欲求を持つという意味では、 わたしは指を鳴らすという欲求を満たさないことを善と見ている。
こだま: 細かいですけれど、よくわかります。
というわけで、われわれが何かを欲求するということは、 (行為者ではなく)観察者の視点からでも特定の規範的倫理的重要性なしに 完全に記録できるような事実である。
こだま: まわりくどいですが、だんだん核心に近付いてきましたね。
ホッブズの立場は、欲求を持つさいに われわれは規範的な倫理的思考を持つということである。 もしホッブズが考えたように自己保存の欲求が不可避的であれば、 われわれは欲求の対象を善いものとみなさざるを得ないことになる。 このことにより、自然法は人間にとって規範的力を持つことになる。 自然法は自己保存に必要なことを指示しており、 われわれは自己保存とそれに必要なことを、不可避的に善とみなさざるを えないからである。
こだま: なるほど。われわれはその作りからして、対象に色を見ざるをえないように、 自己保存に役立つことを欲求し、それを善いと見なさざるをえないということですね。
このように、『リヴァイアサン』におけるホッブズの議論は、 人々がこれらの欲求を持っているという事実からではなく こうした欲求や嫌悪によって提供される視点から熟慮する人々に向けて 宛てられていた。
こだま: なるほど、第三者的な視点ではなく、一人称的な視点、 つまり「善い」とか「悪い」という現象(それらは色と同じで、 対象には存在しない)を経験する人に向けて、そのレベルで議論がなされていた というわけですね。
前章では、ホッブズが形而上学的自然主義者が直面する規範性の問題 (事実の世界のどこに価値が存在するのか) をどのようにして解決しようとしたかについてみた。 倫理的自然主義者の考え方とは異なり、 ホッブズは、価値を実証的に発見されうる自然の側面と同定したのではなかった。 われわれが(対象に)価値を帰するのは、欲求を持つ行為者としてだけである。
こだま:なるほど、価値は対象そのものに存するのではなく(それゆえ、 行為者ではなく観察者の視点からすると、存在しない)、 行為者の視点からすると、投影という作用によって、あたかも欲求の対象に 価値が存するように見える、というそういうことだというわけですね。
しかし、実証的探求によっては、倫理的思考や議論の原動力となる 根本的価値を基礎付けられないからといって、 倫理が実証的な主題でなくなるわけではない。 それどころか、ホッブズは、最もおもしろい倫理的な問いは、 基本的な価値の問題ではなく、どのようにしてその価値が達成されるか という実証的な問題にあると考えていた。
こだま:なるほど、善いとは何かについての価値論は実証的ではないが (あくまで主観的にのみ価値は存在するので)、 価値論を前提にした「何をすべきか」についての道徳的義務の話は 経験的な議論だというわけですね。
平和な生活の価値や、激しい死の恐れから自由であることは、 コンセンサスのある事柄である。 誰も自分自身の平穏や安全に価値があることを説得してもらう必要はない。 人々の意見が一致しないのは、この善を実現するための手段である。 もし実証的な探求によって、いくつかの普遍的な指針や行為が 平穏な生活を獲得するために必要であるとが示されるなら、 人々は、これが彼らの追求すべきものであるという倫理的結論を導くことが できるだろう。
こだま:なるほど。ところで、「われわれは生き続けることを望んでいる」 というのは、昨今の安楽死の話を考えると、どうも普遍的に当てはまる わけではないと思っていましたが、violent deathへの恐怖があるというのは みなそうかもしれませんね。violent deathというのは、安楽でない死の ことなんでしょうね。そういう死に方をしても、やるべきことがある と考える人もいるでしょうけど、そういう人にしても、生き続けることを 少なくとも一見自明な善として見ると、ホッブズなら言うんでしょうかねえ。
しかし、自己保存を促進する戦略が道徳とどう関係するのだろうか。 約束を守るとか、黄金律に従って行為するなどの道徳的義務が、 この目的の促進とどう関係しているのか。
こだま:そう言われてみると、そうですねえ。
この問題を考えるためには、ホッブズの自然状態の分析を検討するのがよい。 ここまでの議論で、すべての行為者は、自分の生命を保存するのに必要なことを すべきだと判断することに論理的にコミットしていることになる。 しかし、みながこのようにして、自分の生存の可能性を最大化しようとすると、 集合的な結果はみなにとって悪い「万人に対する万人の闘争」ということに なってしまう。ホッブズの見解では、 自然状態にある個人は今日の理論家が言う集合的行為の問題 (collective action problem)に直面する。 すなわち、もし各人が自分のために最善のことをしようとすると、 集合的な結果はみなにとってより悪いものになるというものである。
こだま:これは環境問題で言えば、ハーディンの「共有地の悲劇」というやつですね。
集合的行為問題の簡単なバージョンは、「囚人のジレンマ」と呼ばれる ゲーム理論の状況である。
こだま:これについては「哲学・倫理用語集」 でも書いているので省略します。
ホッブズは、自然状態とは人々が「攻撃的な行為をするか」あるいは 「攻撃的でない行為をするか」の選択に迫られている囚人のジレンマ状態だと 考えた。一般に、囚人のジレンマのような状況が持つ特徴は、 ある個人にとって最も望ましい結果は、もう一人にとって最も望ましくない結果 だ(利益が衝突する)ということである。 ホッブズは、自然資源の獲得や、地位など、 自然状態にはそのような衝突の種がたくさんあると考えた。
こだま:なるほど、自然状態と囚人のジレンマは同じようなものだということは わかっていましたが、ダーウォル先生のわかりやすい説明で、よりよく理解 することができました。
自然状態では(囚人のジレンマ状況のように)各人の選択が、 他者の選択とは独立であると想定すると、 各人にとっては(他方がどう行為しようと)攻撃的であることが最善であることになる。 もし他方も攻撃的であれば、争いは続くがやられることはない。 もし相手が攻撃的でなければ、協力に伴う妥協に満足せずに、 勝利によって戦利品を得ることができる。 というわけで、個々人にとっては、攻撃的であることがあきらかによい。 その結果、二人は「万人による万人に対する闘争」に陥り、 結局二人にとっては和平による妥協よりも悪い状態になってしまう。
こだま:なるほど。
囚人のジレンマを用いて自然状態の分析を行なうことに異議を唱える人がいる かもしれないが、われわれの関心はホッブズの政治哲学ではなく、 その基礎にある彼の道徳理論である。 問題は、ホッブズが約束を守る道徳的義務を用いていることであり、 また道徳的な「べし」を熟慮する行為者の実践的推論の中に基礎付けることである。
こだま: そうですか。
しかし、注意しておくべき点は、道徳の多くの問題は、とくに公平さについては、 集合行為の問題が中心になるということである。 たとえば、自然状態について考えてみる。 もしみなが攻撃的でなければその方がみなにとってよいとしたら、 なぜ攻撃的であることは単純に不正とは言えないのか? しかし、他の人が協力してくれるのでなければ、自分だけ非攻撃的になっても 何の役にも立たない。 そのように行為する義務は、他の人々の努力いかんに応じて変わると言える。 というのは、公平であることは、 自分が自分に相応のこと(share)を やることしか要請されないから。
こだま: なるほどdoing one's shareというのが、フェアの基本的な内容だと。 他の人がやらないんだったら、自分も自分のshareをやる必要はないということ ですね。
しかし、もし他の人々が自分のシェアを行なったとしたらどうか。 その場合、あなたも自分のシェアをすることが期待されるだろう。 他人が相互利益のために行なった犠牲を利用して、自分のシェアを行なわないのは フェアではない。 ホッブズも基本的にこのように考えていたが、 彼はわれわれはフェアであるべきということを自明視しなかった。 このことについても説明が必要だと彼は考えていた。
こだま: そうですねえ。
もう一度言うが、このようなフェアについての考えや、 集合行為問題という概念が、いかにわれわれの通常の生活や、 道徳についての考えに通底しているかに注意してほしい。 人々がしばしば犠牲や負担を受け入れるのは、みながそうすることによって のみ、非常に有意義な事柄の多くが達成されると知っているからである。 たとえば、清潔な環境とか、安全な街路とか、礼儀があり誠実な会話など。 そういう人は、 「もしみなが同じことをしたら」ということを考えずに人々が自己利益を追求 しだしたら、世界は今よりもはるかに悪い場所になることを知っているのである。 そこで彼らはこの事実を、そのようには行為しない(道徳的)理由とみなすのである。
こだま: 年金未納の問題とか、環境問題とかですよねえ、やっぱり。
ここでのポイントを誤解しないように気をつけないといけない。 ここで問題になっているのは、本人の短期的利益と長期的利益のトレードオフ ということではなく、集合行為問題、すなわち 人々が長期的な自己利益を考えた場合でもそれを無制約に追求すると、 集合的な危害が生じるという問題なのである。
たとえば、軽微な所得税の申告漏れについて考えてみよう。 多くの人にとっては、一定の度合を超えないかぎり、 所得の申告についていんちきをすることは、自分にとって利益になる。 つかまる可能性は低いし、 つかまった場合の刑罰も軽微であるし、 他人への危害とか、信頼関係への危害とかは非常に不確かである。 それゆえ、この程度の不正は、 公共の福祉に対する関心を考慮に入れても自己利益にかなっている。 場合によっては、そのような不正をした場合としなかった場合の違いは、 当の個人が不正をしなかったために蒙る不利益を相殺するほど大きくないかも しれない。しかし、それでもみながこれと同じことをすれば、 集合的な結果はみなにとって非常に悪いものとなるのである。
こだま: なるほど、くどくどと話してこられたようですが、 「みながやったらどうなるか?」という話のポイントがわかってきました。
このような状態が成り立っているとき、すなわち、 ある人が集合的な不正の結果を避けたいと考えていて、 また他の人々は自分が不正をやらなければ他人もやらないとするなら 不正をやらないと考えている場合、 自分も不正をしないことがフェアであることになる。
公平という考え方--相互利益のためになされた他人の犠牲を、自分が犠牲を 行なうつもりがないのに利用するのは不正である--というのは、 ホッブズが自然法の要約として述べた黄金律によく似ている。 それは、「自分になされたくないことを、他人にするな」というものである。 しかし、ホッブズはこれに従う義務が生じるのは、 他人も実際にこれに従う場合のみである。
こだま: そうそう。そうじゃないとゲーム理論でいう`sucker'になるんですよね。
それゆえ、ホッブズの考えでは、自然状態には攻撃的になることを控える 公平な義務は存在しない。政治的権威のない状態では、 人は他人が攻撃をしかけてこないかわからない。 この不確実さの下では、公平である理由がなくなってしまう。 政治的権威が存在して、公平でない人々を強制できる場合にかぎり、 他人が自制するかぎりは自制するつもりのある人々は、そうする十分な理由を 持つことになる。
しかし、どうやって政治的権威は確立されるのか。 なぜ人々は主権者に従うべきだと言えるのか。 主権者が服従を要求できるような権力を持っているからと 言いたくなるかもしれないが、 しかし、主権者がそのような権力を持つのは、 少なくとも警察権力として働くような人々が、 主権者に従う意思がある場合のみである。
こだま: なるほど、そうすると、なぜ警察として働く人は、主権者に従うべき と言えるのか、という話になるわけですね。法を命令として考えるのは問題だ としたハートのオースティン批判でもこんな話が出てきていたような。
ホッブズは、 主権者に反抗せず代理人として行為することを認めるという相互的な契約によって主権者の権力と権威が確立すると考えた。 すなわち、主権者に従う政治的義務や、 黄金律によって要約される自然法に含まれる道徳的義務は、 すべて契約を守るという義務に依存するという ことになる。
こだま: なるほど。ではなぜ約束を守らないといけないのか、 という問題になりますねえ。それが次の節ですか。
約束を守る義務の根拠は何か。 「人々は自分がなした契約を守るべきである」のはなぜか。 ここで、10章で話したホッブズの規範性と価値判断の説明を、 約束を守るべきかどうかという問題と結びつけなければならない。 特定の約束を守ることによって、自己保存に必ず役立つとはかぎらないとすると、 ホッブズはなぜ、契約を守ることが自己利益になるという十分な理由が ないときでも契約を守るべきだと言ったのだろうか。
『リヴァイアサン』で、ホッブズはこの問題を彼が「愚者(the fool)」 と呼ぶ登場人物に語らせている。愚者は「心の中で、 正義などというものはない」と言う。 正義とは、ホッブズにとっては、契約を守ることである。 それゆえ、愚者は正義の存在を否定することで、 契約を守る義務を否定しているのである。 愚者の積極的な主張は、人はただ自分の保存と利益を促進することだけを なすべきであり、「契約を結ぶ、あるいは結ばない、 契約を守る、守らないというのは、自分の利益に役立つ場合には、 理性に反しない(合理的である)」(リヴァイアサン15章)。
こだま: なるほど。amoralな主張なわけですね。リアリズムというか。 国際関係で言えば国益至上主義ですね。
この「愚者」はホッブズ自身の立場でもあるだろう。 約束を守るという行為(手段)は、自己保存という目的に役立つかぎりにおいて、 従うべきであり、そうでなければ従う必要はない。
しかし、ホッブズはこの立場を否定した。以下でなぜかを説明する。 主権者を確立する相互的な契約によって初めて人々は絶えまない戦争状態である 自然状態を抜け出ることができる。 しかし、ホッブズは契約はこれ以外の点でも重要だと考えていた。
こだま: なるほど。
だれも自然状態を一人で生き抜くことはできない。 人々の力はあまりに平等である。 自分だけでは自分を守ることができない。 ホッブズが言うように、人一倍力が強かったり、賢かったりする人がいても、 何人かが協力してその人をやっつけようと思えば、しばしばそうすることができる。 しかし、そのような協力関係は、お互いに助け合うという契約がなくては成立しない。 そこで、契約は自然状態を抜け出るためだけでなく、 自然状態において生き抜くためにも必要である。 そこで、一時的な安全のためにも、契約を結ぶ能力が不可欠になるのである。
こだま: しかし、この自然状態における契約というのは、守る義務はあるんですか? ホッブズは自然状態においては正義も不正義もないと言っていた気がするんですが。
自然状態で互いに守り合うという契約が成り立つためには、 相手が裏切らないだろうという信頼関係が不可欠である。 そのため、信頼に値するという評判は自然状態においては非常に価値が あるものである。
こだま: あ、ゲーム理論のような話になってきましたね。
お互いを守り合うという契約は一定期間続くため、 これはゲーム理論でいう「一回きり(one-shot)」の囚人のジレンマではなく、 「繰り返し(iterated)」の囚人のジレンマ状況である。 これは一回きりの集合行為問題とは異なる。 繰り返しの場合は、協力した方が本人にとっても集団にとっても利益になる。 というのは、たとえそれぞれの選択が互いに独立であったとしても、 将来なす選択は、現在の選択とは独立ではないからである。 それゆえ、将来において協力関係がなりたつように、 現在も裏切らないという選択をすることが利益にかなうことになる。
というわけで、信頼性を醸成するというこういう理由から、 ホッブズは契約を破ることは本人の総合的利益にならないという。 個々の事例では、約束を破った方がよいように見えても、 将来のことをよく考えると実はそうではない。
このような反論は愚者と同じ土俵に乗った正攻法である(前提は一緒、 結論は異なる)が、ホッブズはこのように反論しなかった。なぜか。 信頼や評判は重要だが、契約を守ることが常に当人の利益になると想定するのは もっともらしくないからである。 つねに同じ人と契約関係に入るわけでもないし、 場合によっては、契約を守らない方が得になることもありえるだろう。
こだま: なるほど、利己主義における規則の役割ですね。
いずれにせよ、ホッブズは、契約を破ることがときに実際に当人の利益になる という愚者の前提を否定しなかった。 彼が否定したのは、契約を破ることが賢明でありうる、 という点であった。 ホッブズがそのように考えたのは、 当のケースにおいて約束を破ることが利益になると確実には知る ことができず、 それゆえ指針としては契約を常に守る方が賢明だと考えられた からだ。
こだま: Honesty is the best policyというやつですね。 約束を破った場合の帰結は確実にはわからないから、 正直であった方が得策だということですね。
ここには二つ重要な点がある。一つは、選択の賢明さは その実際の結果によらないということである。 ロシアン・ルーレットをやってうまく行き、20ドルを得た人がいるからといって、 彼が賢明だったとは必ずしも言えない。
また、たとえロシアン・ルーレットの賞金が1万ドルで、 弾丸に印を付けることが許されているために死なない確率が0.99999で、 死ぬ確率が0.00001であることがわかっているとしても、 あなたはやらないかもしれない。
これが二つ目のポイントで、 ホッブズは契約を破ることはこのようなロシアン・ルーレットをやるようなもので、 むしろ契約を常に守るという指針や規則 の方が、一般的に自己利益のためには、 ケースバイケースで約束を守るか破るかを決めるよりも賢明であると 主張しているのである。
こだま: なるほど、規則に従うことの有用性もカウントすべきだということですね。 規則功利主義的な発想ですね。
契約を常に守るという指針が、愚者に対するホッブズの最終的な答えであった。 これにより、自己保存を本能的に求める人々は、一人称的な視点から、 契約を常に守るべしという規範を受け入れることになる。
こだま: なるほど。なぜ約束を守るべきか、というのは (長い目で見てたとえ繰り返しの囚人のジレンマ状況がなりたっていないとしても)、 一つには結果は確実に予想できないというのと、 もう一つはケースバイケースで判断するよりも、規則を守っている方が 自己利益にかなうという主張なわけですね。しかし、両方とも実証的な主張なので、 ひょっとするとそうでない状況もあるかもしれないという可能性は アプリオリには排除できませんね。
ホッブズにとっては、道徳は規則の集合であり、 それにみなが従うことが集合行為問題を解決するものであった。 しかし道徳が「実行力」を持つためには、 権威と権力を持った主権者が必要だと考えた。
しかし、他の人が協力するという見込みが高いときは、 当人も協力すべきである。その理由は、規則が集合的に見て有益である というものではなく、本人自身にとっても有益であるとホッブズは考えたからである。
ホッブズにとって、個人の善と集団の善という二つの目的を結びつけるものは 相互的な同意(mutual agreement)であった。 われわれは他人の協力なしには生き長らえることができないし、 他人の協力はわれわれが協力するつもりがないと得られない。 というわけで、結局道徳とは互恵性の体系であり、 人々は他人が自分のシェアをするかぎり、自分も自分のシェアをする準備がある というものである。 しかし、黄金律に集約される道徳は、公平さが内在的に善いものだと考えるのに対し、 ホッブズはそうではなかった。
こだま: どう違うんですか。
ホッブズにとっては、道徳は、みなが従えば、 みなが利益を得るような規則である。 しかし、ある特定の人が道徳規則に従うべきなのは、 彼がそれに従えば、彼自身の利益に なるからであった。
上の話は、倫理学における外在主義(externalism)で知られる 論点の一つである。すなわち、 道徳的要請が規範的に拘束力を持つ(行為者が実際に従うべきものである) ということは、道徳的要請をそもそも根拠づけるものとは別(外在的)だという ことである。 ホッブズにとっては、道徳的規則は集合的利益に根拠づけられるが、 それに規範的拘束力を与えるのは、個人自身の利益であった。
こだま: なるほど。道徳的規則を道徳的規則たらしめるもの (すなわち、prudentなmaximではなく、あくまでmoral ruleにするもの) は、それが集団的な利益を促進する規則であるという性格を持つことだけど、 なぜそれに従うべきかと言うと、「それが集団的利益を促進するから」 という理由ではなく、「それがあなた個人の利益を促進するから」という別の理由 だというわけですね。
このような道徳観は哲学的には強力で影響力もある。 その一番優れている点は、なぜ道徳が行為者にとって 規範的でありうるのかを、形而上学的自然主義と両立する 仕方で説明しているということである。 ホッブズは、問題の多い形而上学的・認識論的な前提抜きに、 人々が生活を律すべき普遍的規則ないし「法」があることを相当程度 示したのである。
こだま: なるほど。近代科学観に合う道徳観で、しかも規範性(なぜそれに従うべきか) がかなり説得的に説明できるということですね。
ホッブズの理論を受け入れるべきだろうか。 最後に二つの問題点を指摘しよう。 一つはホッブズの理論に内在的なものである。 約束を守るという(契約論の根幹にある基本的な)規則ないし指針に従う こと、また(契約が行なわれて)政治的権威が確立 したあとには他の道徳的規則に従うことは、一般的に本人の利益になると考えると しよう。しかし、なぜそのことが、特定の機会に、 行為者が一般的規則に従うべき理由となるのだろうか。
この批判は、ロシアン・ルーレットの例が示すように、必ずしも決定的な批判で はないが、それでも悩みどころであることには変わりない。
こだま: そうですか。まあある程度はやっつけられたかのように思われたのですが。
もう一つは外在的な批判で、 道徳の規範性は道徳に内在的だと普通は 考えられるということである。ホッブズのような外在主義者からすると、 道徳の命令をそれたらしめるものと、 道徳の命令に規範的拘束力を与えるものとは、別々である。 しかし、一人称的に道徳的現象を眺めると、 われわれが道徳に従う理由は、それが自己利益になるからというものでは ないように思われる。逆に、何かが不正であるのは、それ自体がそれをすべきでない 理由となるように思われる。 すなわち、外在主義ではなく、内在主義が正しいかのように思われる。
こだま: なるほど。外在主義だと、「なるほど、その行為が道徳的に不正なのはよく わかりました。しかし、なぜわたしがそれをやってはいけないんですか?」と 聞けることになるんですね。しかし、内在主義ではそれができない、と。
第1章の拷問の例を考えると、人々が拷問をすべきでないのは、 それが彼らにとって損になるからだということになる とは考えにくい。どうも道徳的視点からわれわれが考えていることと、 ホッブズの外在主義的な正当化は真っ向から衝突しているように思われる。
こだま: なるほど、そう言われてみればそうですよね。 ついでに書いておくと、契約論は道徳(というか正義)という枠組み全体の正当化には かなり成功していますが、不完全義務である慈善を正当化できるかというと 難しい。また、人間観がまさに「自立した個人」の契約という感じで、 やはり家族や共同体における依存関係や人間関係を協調する立場、 あるいはフェミの立場からは攻撃を受けそうです。 さらに、道徳全体の正当化には役立つが、 個々の意思決定にはあまり役立たないという点も指摘できそうです。 つまり、「なぜそれをすべきか」という問いには答えているが、 「何をすべきか」という問いにはあまり答えていない、ということです。