出典:佐伯千仭+団藤重光+平場安治編著、『死刑廃止を求める』、日本評論社、1994年
(補足1)さて、立命大の名誉教授の佐伯氏、東大の名誉教授の団藤氏に続いて、京大の名誉教授の平場氏の登場である。わたしと意見を異にするとは言え、やはりわたしの通う学校の先生であるから、立派な死刑廃止論を唱えていてもらいたいものであるが、さてさてどのような意見を述べられているのであろうか。
いまや死刑廃止は刑事法学者の間に、大きな声となっている。そして、それは、たんに理論問題としてではなく、実践問題として、具体的には、いわゆる「死刑廃止条約」すなわち一九八九年一二月一五日、国連総会で採択された「死刑の廃止を目的とする市民的及び政治的権利に関する国際議定書」(団藤博士訳)(Second Opinional Protocol To The International Covenant On Civil And Political Rights Aiming At Abolition Of The Death Penalty)の批准を政府に迫ろうとしての運動になっているのである。
日本国政府が、自らも参加して採決された、国連議定書という条約の批准を渋る理由は何であろうか。外からわからぬ理由もあろうが、それとして公言している理由は、国民が死刑廃止に反対であるということにあるようである。たしかに、政府その他が行った死刑についての世論調査では死刑廃止反対の数が賛成の数を常にかなり上まわっている。しかし、かつてすでに死刑を廃止した国で、国民世論において死刑廃止賛成が多数であった国があったであろうか。そのくせ、いったん死刑を廃止して後の死刑復活の可否を問う世論調査においては、死刑復活反対の数が上まわっているのである。おそらく、国民の気持ちを根拠にしていては、永久に、死刑廃止条約を批准せずに終ることになるであろう。
(批判1)いったい平場氏は、「国民の気持ちなど当てにならぬから無視してよい。われわれが正しいと信ずることを行ってしまえば、国民は後からそれを支持するだろう」というつもりだろうか?これではテロリストの発想である。
まあ、以下の文章では「刑法学者がこぞって死刑廃止論を唱えれば国民も死刑について良く考えるようになるだろう」という(なんとも筋の通らない)展開となっているのでそう考えてはいないようだが。
(なお、平場氏の文章は一段落がやたらと長いので、適宜意味をとって切ることにさせてもらう)
それだけに、死刑を学問的研究の対象として冷静にながめている刑事法学 者の意見が重要になってくる。そして、専門家がそろって死刑廃止を主張した のでは、国民一般も、単純な感情的立場からの反対とは違う次元で死刑廃止を 考える必要があると気づく可能性があるのではないか。これが、私が今回「死 刑廃止を求める刑事法研究者のアピール」呼びかけ人代表の一人となった所以 である。その前提としては、刑法学の専門家は、実質的に、こぞって、死刑廃 止を主張しているという事実が示されなければならない。
(批判2)名誉教授と言えば相当の年配であり、相応の権力者であると想像さ れる。そのような人が、「刑法学の専門家は実質的に全員が死刑廃止を主張し ている事実が示されなければならない」などというのは、死刑存置論に賛意の ある若手の刑法学者にに大変な権力的重圧をかけることになりはしないか。 (これは団藤氏にも当てはまる)
これではほとんど全体主義の発想である。このような権力者によるファナ ティックな意見によって、死刑存置論者は刑法学界では言論の自由が奪われ、 学界を追放され職を奪われ妻も子も奪われ路頭に迷うことになる。
また、国民一般が死刑廃止論のことをよりよく考えるようになるためには、 必ずその前提として刑法学者の思想統制が必要である、と は限らない。むしろ、刑法学界が二つに分かれて、喧喧諤諤かたつむりっと死 刑廃止論争をやった方が効果的なように思える。(そして実はこれこそがわた しの狙っていることなのである…)
その点についての私の理解は、死刑廃止の条件や手続については異論があるにしても、死刑そのものについて、それがよいとする意見、絶対に残さなければならないというものは無いというにあった。それは、今から六○年以上も前に、瀧川幸辰が「死刑の必然性を理由づけた学問的研究が一つでもあるか。一つもない。また死刑反対から死刑賛成に変った人が一人でもあるか。一人もない。」と言っている。
(批判3)(平場氏の文章は主語と述語の対応がめちゃくちゃであるし、指示 語が何を指しているかほとんど理解不能である。まあ、それはよいとして)こ の瀧川氏の言明は正しいのであろうか?無学のわたしでも「死刑の必然性を理 由づけた学問的研究」をした者としてカントの名をあげることができる。また、 「死刑反対から死刑賛成に変った人が一人でもあるか」という問いは、ほとん ど無意味な気がするが、これも調べれば何人でもいるはずである。
それに、たとえこれまでにそのような学問的研究がなく、そのような転向 を行なった者がいなかったとしても、それは今後も同様であることを証明する ものではないことは明らかである。
ついでに瀧川氏の論法で神の存在証明をしておこう。
「神の不在の必然性を理由づけた学問的研究が一つでもあるか。一つもな い。また有神論者から無神論者に変った人が一人でもあるか。一人もない」
これで神の存在証明ができたと納得する人間が瀧川氏と平場氏の二人しか いないであろうと思われるのと同様に、瀧川氏の上の言明で、死刑廃止の根拠 になると考えるのはやはり瀧川氏と平場氏の二人のみであろう。
現に、私が、死刑廃止についての論文を書いていないけれども、法制審議 会の第二部会(刑法改正について刑罰部門を担当した)での発言などを通し、 死刑廃止の立場を明言していたし、ただ、それに至る道程には妥協を容れる柔 軟性を持っていた。私同様、死刑廃止の論文を書かれていない諸君の立場も概 ね同様であると考えていた。ところが、日本刑法学会の開催の機会に開かれた 「死刑廃止を求める刑事法研究者のアピール」の会では、私の考えは甘いと批 判された。積極的に死刑廃止の発言をしない学者の半分近くは、実は死刑存続 に賛成なのではないかといわれた。そうであれば、一般国民に呼びかける前に、 死刑廃止論を集大成して、死刑存続論に論戦をいどまなければならない。
(批判4)(くどいが、平場氏の文章はあまり筋道が良くわからず、文章も日 本一うまいとは言えない。まあ、それはともかく)刑法学界では死刑廃止をめ ぐって「踏み絵」的状況が発生しつつあるようである。
それにしても死刑廃止論者はなぜこうまでヒステリックに意見の一致を求 めるのか。なぞである。これではほとんど「狂産党の一党独裁をっ」と叫ぶ連 中と同じである。
また、彼らに反死刑廃止論者と論戦をする気がないことは、この本に反死 刑廃止論者の意見が全く載せられていないことからしてもほぼ明らかであろう。
ただ死刑廃止に同調しないという立場をとる者のなかには、時間的関係に おいて、今直ぐ死刑廃止を断行するのは混乱を招く、死刑廃止の方針を明確に して、比較的に短時日で死刑廃止を実施する手続を明らかにする(例えば、一 定期間の死刑執行停止の試行期間を設け、その間に犯罪状態に大した変化がな ければ死刑廃止を実施する)方策を講じるとする者もある。また、死刑の執行 猶予や、その前提として、仮釈放のない無期刑である終身刑を設けるなどの、 死刑廃止反対の世論を緩めるための妥協策を講じることの有用性は否定しない。 刑法改正作業当時の私は、直ちにの死刑廃止案は通る可能性はないと思ったか ら、この程度の妥協策は止むをえないと考えたのであった。そして、死刑廃止 を声高に叫ばない多くの刑法学者も、程度の差こそあれ、このような立場であ り、死刑の存続を積極的に評価する人はごく少数だと思ったからである。とこ ろで刑法改正と条約批准では、この時期の問題が違ってくるのである。条約批 准では(1)直ちに死刑を廃止するか少くとも(2)私が妥協案と考えた立場に賛成 でなければ同調は得られないであろう。ここでは即時に死刑廃止を明言するこ とがキーポイントになる。死刑は早晩廃止されるべき刑罰であると考えている 学者は、国民世論がなお廃止に反対であることの故に廃止に賛成できないとい う政治家のような立場を捨てて思い切って廃止を明言すべきである。
(批判5)(何が言いたいのかよくわからないが、とにかく)刑法学者は国民世 論のことなど別に考えなくても良いから、論駁不可能なぐらい緻密な死刑廃止 論を作り上げて欲しいものである。彼らの議論はいつまで経っても死刑廃止論 者の内輪でしか通用しないレベルのままである。わたしが欲しいのは根拠のな い主張ではなくて、誰もが納得せざるを得ない論理的な議論なのである。
現在における死刑廃止の論拠はかつての刑法改正作業当時とは重点に違い があるように見受けられる。刑法改正作業の段階では、刑事政策的見地から、 死刑が必要であるかが主として問題にされた。常識的に死刑の長所と見られる 威嚇力に対しては、刑事学的実証研究によって死刑に抑止力がないことが実証 された。
(批判6)平場氏は「死刑に抑止力がないことが実証された」と断定されてい るが、このように死刑には抑止力がないことについてはっきりと書く人を見る のは初めてである。
おそらく平場氏は特にアメリカの実験例を念頭においていたものと見られ るが、日本とアメリカでは価値観(とりわけ両国の死生観)が違うかも知れない のに、なぜこのように断言できるのか。
また、「死刑に抑止力がない」とは「死刑には無期懲役に比べて抑止力が 同程度しか認められない」ということなのか、それとも「死刑にはいかなる犯 罪抑止力もない」ということなのか。当然前者だと思うが、はっきり書いてい ただかないと、一般人にはまるで後者を主張しているように誤解される恐れが ある。
死刑の抑止力については不問に付すのが賢明と言えよう。水掛け論になる だけである。
ただ応報刑の立場からは死刑を以てしか応えられない重大犯罪があるとい う主張が力を持ち、結局は「死刑の適用は、特に慎重でなければならない」と いう裁判官に対する注意規定を設けただけで死刑を存置したのであった。しか し、応報という形而上的原理を人間社会統制の手段である刑法に持ち込むのが 問題であるし、ことにこの判断を人間にさせるということがとくに問題がある。 死刑には誤判の場合とりかえしがつかない不正義が生じることをこの時期にも 強調する強い発言があった。その見地からたとえ、死刑を存置するにしても、 死刑の言渡は、裁判所が合議体の場合全員一致でなければならないという意見 がある程度の賛同をえた。要は、この段階では被告人の側に立つ発言は少数で あり、社会全体に対する死刑の効果が中心になって賛否がたたかわされたといっ てよい。
(批判7)刑法に応報論を持ち込まない、という平場氏の主張は結構であるが、 しかしその根拠付けが問題である。
一つ目に、応報が形而上的原理とはどういうことか。そして、なぜ形而上 的原理を刑法に持ち込むのが問題であるのか。
この議論を認めたら、徒競走で一番をとった人に褒美(報奨)として大学ノー トをあげることも形而上的原理であると批判されて問題になってしまう。ある 行為に対する称賛や批判の意を込めて行なう行動のどこが形而上的なのであろ うか。(またギブアンドテイクも形而上的原理と呼ばれるのだろうか)
また、刑法に形而上的原理を用いてはいけないなどという法もない。例え ば、法(jus)はよく「正義(justice)」を行なうものである、といわれる。平場 氏の用法に従えば、これも形而上的原理になるのではないのか。「権利」「義 務」も形而上的原理と呼ばれるのではないか?
ま、とにかく形而上的原理とは何かをはっきりと述べてもらわないと根拠 がわからない。
二つ目に、応報の判断を人間にさせるのが問題とはどういうことか。市民 は国家が(市民の力ではなせない)正義をなしてくれることを期待しているのに、 「国家は間違えるかも知れないから、国家は刑罰権を放棄します」というので ある。しかしすでにこの手の反論は前の2論文の批判において行なったのでこ れ以上繰り返さない。
最近の死刑廃止の論議の根底にあるものは人格の尊厳であるように思われ る。それはかつて瀧川幸辰がベッカリーアにならって、死刑は野蛮であるといっ たものと同質であり、それをより深めたものといえる。ベッカリーア等の近世 初頭の刑法改革家の頭には、中世以来の魔女裁判、拷問、身体毀損刑、死刑が 野蛮な、人権を無視した刑事手続であり刑罰であり、近代革命による人間解放 により全面的に廃止されるべきであるという共通認識があったのである。たし かにこれら中世の暗黒裁判で行われた「痛酷の刑」(Peinliche Strafe)の体系 に属するものであり、自由刑と財産刑を中心とする近代的刑罰体系とは異質な ものである。その故に、死刑を除く刑事における苛酷な処分は、人権の名のも とに追放せられ、死刑もまた同様の理由で追放しようとする力も働いたが大勢 を制するに至らなかった。そして死刑は自由刑の極限として近代的刑罰体系に 組み入れうるものとの意識がいつの間にか生じていった。しかし、死刑はやは り近代的刑罰体系からは異質の刑罰である。自由刑の極限としては、終身刑、 無期刑で足りるので、死刑には、それにプラスする犯人に対する憎しみをはら すという感情的要素が加わるのであって、司法の冷静な第三者的判断が犯され るのである。そこには受刑者の社会復帰への人道的な目標はまったく失われる のであり、また自由刑との間に計量的比例のできない距離があり、そこには、 裁判官の人生観の違いによる不合理な裁量が入り込むのである。
(批判8)「われわれは身体刑が残酷な罰であるのでこれを一切廃止する。と ころで死刑は身体刑の一種である。ゆえに死刑は廃止されるべきである」とい う議論はなかなか強力である。しかしもちろん問題は「死刑は身体刑の一種」 であるかどうかであろう。これは論じるに足る問題である。(また、なぜ身体 刑は禁止されるべきかが問われねばならない)
しかし、死刑が「野蛮だ」とか「人権を無視したものだ」とか、「近代的 刑罰体系とは異質なもの」だとか「死刑には、それにプラスする犯人に対する 憎しみをはらすという感情的要素が加わるのであって」とか「自由刑との間に 計量的比例のできない距離がある」とかいう議論はまったくそれらの議論の前 提が存在しないので、論じるに足らない。
また、本当に刑罰は応報や特殊・一般予防のためではなく「受刑者の社会 復帰への人道的な目標」のためだけにあるのだろうか?これは今後の課題とし てよく考えねばなるまい。
今日、死刑廃止が迫られている理由の第一は、国連の死刑廃止条約の批准 を急がなければならないということである。死刑廃止条約の批准のいかんにか かわらず、西欧のほとんどの国はすでに死刑を廃止しており、いわゆる先進国 において完全に死刑存置国といわれるのはわが国だけであって、わが国と共に 死刑廃止条約に反対したアメリカ合衆国もその十一州が死刑を廃止しており完 全な存置国とはいえないのである。このようなことで、「平和を維持し、専制 と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会におい て名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖 と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」 (日本国憲法前文)と宣言したのはどうなったのであろうか。
(批判9)日本が死刑廃止を行なう理由が「先進国がやっているから」ではあまりにも情けない。ぜひとも日本の死刑廃止論者には世界から見ても恥ずかしくない死刑廃止の論拠を打ち立てて頂きたい。
また、日本国憲法前文が平和を著しく乱す犯罪者に死刑を与えることを否定するものでないことは明らかであろう。(またこのような憲法解釈の議論は非常に不毛である)
第二は四人の確定死刑囚が再審で無罪釈放されたことである。従来、再審 がほとんど認められなかったのは、確定判決に強い真実推定力を認め、新証拠 による推定をくつがえす挙証責任を申立人(受刑者)に負わせたからであった。 白鳥決定(最一小決昭和五○年五月二○日刑集二九巻五号一七七頁)は再審に も、刑事訴訟法の「疑わしきは被告人の利益に従う」との鉄則は適用があると 転換して、四つの確定死刑判決が無罪とされたのである。再審では外にも相当 な疑いを呈示したにもかかわらず、合理的疑いに至るものでないとして却下さ れた請求も少なくはない。何が合理的疑いか客観的な物指しがない限り、死刑 と無罪の差は、裁判官の自由心証によるということになる。証拠による裁判と いっても、それは、検察官の提出する証拠に制約されるものであり、証拠の評 価、証拠の綜合判断において、裁判官は人間の可誤謬性を免れるものではない。 それは結局人が人を裁くということの限界性を示すものである。
(批判10)繰り返すが、この論法は刑事裁判全体にも当てはまる。もはや論ずるに足りない。
人間の尊厳、個人の尊厳ということは科学的に証明できることではない。 しかし、それが相互の約束事となって、人間の社会はなりたっているのであり、 人間の社会を堕落から救っているのである。人間の尊厳ということから考える と、人の生命を奪うということは神の領分に属することであり、人が死刑を行 うことは神の領分を侵すことである。
(批判11)この論法で行くと、「人が死刑を行なうことは神の領分を犯すこ とかどうかも科学的にはやはり証明できない。しかし、それが相互の約束事と なって、人間の社会はなりたっているのであり、人間の社会を堕落から救って いるのである」という風にも言えないだろうか。
なんにせよ、何が神の領分に属するのかなどはわからないのであるから、 このような議論はまったくナンセンスである。
[付言]なお、 妥協として死刑を廃して、無期刑の外に終身刑を置くとい う意見があるが反対である。終身刑は自由刑という近代的形式を持つが、将来 の運命を獄中に限定し、希望を失わせる点で痛酷の刑に通じるものである。元 来無期刑は終身刑の苛酷さを緩和するために仮釈放を活用したものであって十 数年でほとんどが仮釈放されるという運用が死刑との間に架橋し難い開きを感 じさせたのである。したがって終身刑の問題は無期刑の運用によって解決でき るものである。また、自由刑である限り、終身刑に仮釈放を認めないというの は反人道的であり、また反刑事政策的である。(ひらば・やすはる)
(批判12)「無期刑の運用の仕方を変えれば終身刑の問題は解決される」と いうのは一応認めるとしよう。が、最後の「自由刑であるかぎり」うんぬん、 というところは全く理解不能である。
なぜ(犯罪人の自由を奪う刑である)自由刑である限り、終身刑に仮釈放を 認めないことが反人道的・反刑事政策的になるのか?きちんと説明して欲しい。
結論を言うと、今まで取り扱った三つの論文の内、残念 ながら平場氏のこの文章が最も理解しがたいものであった。わたしのような死 刑廃止論に批判的な人間が読むと、平場氏の文章はまったくもって説得力のな い文章に映らざるをえない。もっと論理的でわかりやすく、説得力のある文章 を書かないかぎり、国民を説得させるのは不可能であろう。