出典:団藤重光著、『死刑廃止論(第5版)』、有斐閣、1997年
・さあ、ここが最も重要な論争点なので、これまで以上に真剣に団藤氏の 意見を検討しなくてはならない。果して誤判を理由にして死刑を廃止するのは 正当なのだろうか、それとも不当なのだろうか。
団藤氏: 死刑廃止論の理由づけにはいろいろの論点があります。しかし、 他の論点については賛否が論者の立場によって岐れてきますが、誤判の問題だ けは、違います。少々の誤判があっても構わないという人はいても、誤判の可 能性そのものを否定することは誰にもできないはずです。その意味で誤判の問 題は死刑廃止論にとってもっとも決定的な論点だと思うのです。世界的に有名 なカール・ポパー博士(Sir Karl Popper, 1902-1994)から私に寄せられた長文 の手紙によれば、博士も「人間の可謬性(human fallibility)こそが死刑廃止 論の決定的な理由だというのが自分の見解だ」ということです。批判的合理主 義哲学の創始者として論理の厳密を格別に重んじる博士にとって、まさにそう あるべきところでしょう。 (pp. 144-145)
・とすると、誤判可能性による死刑廃止論の根拠はこれだけではありえな い。では「人間は必ず過ちを犯す」という前提以外に、どのような前提が隠されて いるのだろうか。
団藤氏: 誤判の問題は何も死刑事件に限りません。死刑以外の、どんな事 件についてもあることです。そうして、どんな事件についても、誤判はあって はならないことです。ですから、死刑問題を議論するのに、誤判の問題は別に して考えるべきだという意見が、有力な学説の中にもあるくらいです。例えば、 懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかっ て出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻って来ないという意味で は、これもたしかに取り返しがつかないものです。しかし、そういう利益はい くら重要な、しかも人格的(その意味で主体的)な利益であろうとも人間が自分 の持ち物として持っている利益ですが、これに対して、生命はすべての利益の 帰属する主体の存在そのものです(もちろん、このことと、前述の人間の尊厳 が人命の上位にあるということとを混同してはなりません)。死刑はすべての 利益の帰属主体そのものの存在を滅却するのですから、同じ取り返しがつかな いと言っても、本質的にまったく違うのであります。その区別がわからない人 は、主体的な人間としてのセンスを持ち合わせない人だというほかありません。 そういう人には、無実で処刑される人の気持ちがどんなものであるか、見につ まされてはわからないでしょう。そういう人は、無実の人を処刑することがい かにひどい不正義であり、どんなことがあろうとも絶対に許されるべきでない 不正義であるかということを、身をもって感得することができないのでしょう。 死刑事件における誤判の問題は、決して単なる理屈の議論ではないのでありま す。
死刑の判決が執行された後で、無実だったことがわかった場合には、刑事 補償法(四条三項)の規定によって、三千万円以内の金額--もし本人の死亡によ る財産上の損失が証明されればその額が加算されます--が補償金として出され ますが、そういう刑事補償が遺族に出されたところで、本質的には何の償いに もなるものではありません。法律を改正してその金額をいくら引き上げても、 そんなことで解決できるものではない。そういう点で、死刑事件以外の場合の 誤判と、死刑事件の誤判とでは、質的な違いがあるのです。(pp. 145-146)
・さて、ここで団藤氏によって、「死刑事件以外の場合の誤判と、死刑事 件の誤判とでは、質的な違いがある」ことが主張される。その質的な違いとは、 端的に言えば、「死刑以外の刑罰を執行した場合は、単に主体の持ち物(利益) を滅却するだけなので、誤判の場合にも取り返しがつくが、死刑を執行した場 合は、利益の帰属主体そのものを滅却してしまうので、誤判の場合に取り返し がつかない」ということにある。(「死刑における誤判の補償不可能性」と呼 んでもよかろう)
・時間や青春は所詮は持ち物なのだから、不当に奪っても後で補償すれば 片が付く、という議論が妥当であるかどうかは、この際読者のみなさんの判断 に委ねよう。(わたしはこの議論に決着を付けられるとは思わない)
・しかし、わたしが問題にしたいのは、次のような場合をどう考えるかで ある。団藤氏は、死刑における誤判は取り返しがつかず、「誤判の可能性その ものを否定することはできない」ので、死刑は廃止せよ、と主張する。一方で、 死刑以外の刑罰における誤判は取り返しがつくので、たとえ「誤判の可能性そ のものを否定することはできない」としても、刑法そのものを廃止すべきだ、 とは主張しない。だが、死刑以外の刑罰における誤判が、死刑と同じ くらい取り返しのつかない場合を考えることは不可能だろうか?
・わたしが言っているのはたとえば次のような場合である。ある無実の人 が有罪判決を受け、無期刑を言い渡された。彼(女)は風邪をひいて運悪く服役 中に死亡してしまう。そして、彼(女)が死んだあとに彼(女)の無罪が立証され る。
・わたしはこれを想像してみただけなので、実際にある話なのかどうかは わからないが、少なくともその「可能性そのものを否定することはできない」 であろう。そして、彼(女)の死は利益の帰属主体そのものを滅却することにな るので、これは、死刑と同じくらい「取り返しがつかない」と言えよう。する と、「死刑以外の刑罰における誤判」が必ずしも取り返しのつくものだとは言 えなくなるのではないか。
・このわたしの議論に対して、どのような反論が考えられるだろうか。
・まず(繰り返しになるが)、「そういう場合は想像上のものであって、現 行の刑法においては実際にはありえない。ありえるとしても、ごくまれである」 という反論が考えられる。
・しかし、これは実際に確かめてみないとわからない事実問題なので、議 論しても無駄である。また、そういってしまうと、同じ論法で「死刑における 誤判は想像上のものであって、現行の刑法においては実際にはありえない。あ りえるとしても、ごくまれである」と言えるわけで、死刑廃止論者も同じ反論 に答えなくてはならないであろう。しかるに、彼らは「過ちが起こる可能性そ のものは常に否定できない」というのであるから、この場合においても、「過 ちが起こり、さらに不運な出来事(=死)が起こる可能性そのものは常に否定で きない」と言うことはできるであろう。
・次に、「無罪の人が無期刑や死刑に宣告されるのは裁判官の過ちである が、無期刑の宣告を受けたものが服役中に風邪で死ぬことに関しては、裁判官 の過ちではない」と主張する人がいたとしよう。死刑を宣告する時点で裁判官 は被告人の死を予見するが、無期刑を宣告する時点では裁判官は被告人の死を かならずしも予見しない、それゆえ死刑における誤判とわたしが上で述べた場 合における誤判とは本質的に違うのだ、というわけである。
・しかし、今問題になっているのは、裁判官が被告人の死を予見できたか どうかではなく(あるいはやや不適切な言い方をすれば、「裁判官に被告人を 殺害する意図があったかどうか」と言ってもよい)、無実の人が刑罰によって 本質的に取り返しのつかない被害(=死)を受けたかどうかなのである。そして わたしは、その可能性は死刑以外の刑罰にもある、と主張しているのである。
・第三に、「死刑における誤判は処刑された後ではすべて取り返しがつか ないが、死刑以外の刑罰における誤判は、全部が全部取り返しがつかないわけ ではない」という主張も考えられよう。
・しかし、そのような実質的な数が問題なのだろうか?そうではなくて、団 藤氏によれば、「たとい「百人」「千人」に一人であろうとも、いやしくも無 実の者の処刑が許されてはならない」(p. 168)のだから、死刑以外の刑罰にお ける誤判の場合でも、たとえ全員が取り返しのつかない被害を受けるのではな いにせよ、そのような人が「百人」「千人」に一人いる可能性があるかぎりは、 それは許せない不正義となるのではなかろうか。
・そしてもしわたしの言うことに一理あるとすれば、団藤氏の立論からし て、団藤氏は死刑以外の刑罰の廃止をも唱えなくてはならないであろう。彼が 万一それを望むとすれば、の話だが。